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宗教的体験が「ヒトの脳だけに組み込まれた先天的機能」である。なぜそのような機能が進化の中でもたらされたのか? 「信仰を持つことや、信仰に基づく行動パターンが、ヒトに実際的な利益を与えてきたからだろう」宗教をもつことによってヒトという種の「生存確率」が高まったから主な宗教を信仰している男女は、平均的な男女に比べて、脳卒中を起こす確率や心臓病の罹患率が低く、免疫系の機能が良好で、血圧が低いという研究結果がまとめられている。信仰が健康に及ぼす影響に関する研究を検証したデューク大学医療センターのハロルド・コーニグ博士は、『ニュー・リパブリック』誌上で、「信仰を持たないことが死亡率に及ぼす影響は、四十年間にわたって一日にタバコを一箱ずつ吸い続けることに匹敵する」と結論づけている。 多くの研究により、信仰と良好な健康との関係は、生理機能だけではなく、精神衛生にも認められることが明らかになっている。つまり、信仰を持ち、それに従って生きることは、精神的・情緒的健康に資するらしいのだ。例えば、信仰を持つ人がドラッグを濫用するようになったり、アルコール中毒になったり、離婚したり、自殺したりする率は、一般の集団のそれに比べてはるかに低いことが分かっている。信仰に従って生きる人々は、憂鬱な気分に沈んだり、不安に悩まされたりすることが一般の人々に比べて非常に少なく、たとえそうなっても回復が早いことが分かっている。現代の精神医学者の大半は、この報告を驚きをもって聞いた。彼らは基本的にフロイトの流れをくんでいて、宗教的な行動のことを、良くても一種の依存状態、最悪の場合には病的状態と見なしていたからである何よりも、神秘家たちがみずからの体験を表現するために選んだ「至福」「恍惚」「エクスタシー」「高揚」などの言葉が、この起源を暗示している。「この上ない一体感に我を忘れた」「高揚の中に溶け去った」「すべての望みが満たされたと感じた」などという彼らの証言が、性的な快感を表現する言葉でもあることは、偶然の一致ではない。なぜなら、超越体験に関与する興奮系、抑制系、大脳辺縁系などの神経学的構造や経路は、基本的に、性的な絶頂と強烈なオルガスムの感覚とを結びつけるために進化してきたものであるから。
2024.04.29
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視覚とは,眼に入力された光信号を感知し,さらに光信号に含まれる外界の情報を基に外界の構造や事物の性質を推定する機能である。われわれの眼前には,さまざまな明るさや色をもち多様に動き回る多数の3次元物体が広々とした世界に展開しているように見える。一方,視覚刺激を受容する器官は眼であり,両眼の網膜に光学的に投影された網膜像を生体信号に変換した情報が計算の出発点となる。われわれを取り巻く外界構造のあり方に関して,眼からの情報を材料にして最も妥当な推定を行なう作業が視覚情報処理であり,それを担う心的システムが視覚系であり,その推定結果を最も生活に便利な形式で心内に表象したものこそがわれわれの視覚世界である。 こうして成立した視覚世界があまりに豊かに感じられるので,網膜像そのものを眺めているかのように感じられがちだが,以下の理由から考えて,脳内で視覚情報の解析が行なわれた結果が,われわれの視覚体験の本質であると結論される。第1に,網膜像として得られる視覚情報は眼の動きに伴いつねに揺れ動き,視野中心に対応する中心窩付近以外は解像度が低く,視野の盲点に対応する視神経円板や網膜血管系の影の部分においては情報が欠損しているにもかかわらず,われわれの意識する世界は安定的で連続的にくっきりと感じられる。第2に,網膜像を直に意識化しているなら生じないはずの神経心理学的症状として,眼に異常がなくても対象が歪む,二重に見える,距離感がない,など特定の視機能だけが損なわれることがある。第3に,もし心内で網膜像がそのまま映っているなら,いったいだれがそれを解析するのかという哲学的問題があり,心内の映像を心の中の小人的存在であるホムンクルスが見て解析すると考えると,そのホムンクルスの心内で同じ問題が生じ,無限後退に陥ってしまう。 視覚世界がいかに構築されるかに関しては諸説あり,解明が待たれる。「世界に関する知識」および「現在までに得られている網膜像の入力データ」から考えられる最も妥当な世界のあり方に関して,ある種の信念 あるいは「外界に関する予測」が形作られ,時々刻々入力される新しいデータと突き合わせてつねに検証され,予測誤差が生じれば新しい信念へと更新される。フ神経科学者や認識哲学者が提唱するこのような大枠のもとで,いかなる形式のモデルが脳内のどこに表象され,われわれの視覚的意識にいかに対応するのかということは,意識の神経相関を探究するうえで大きな問題である。【不良設定問題と自然制約条件】 網膜像に含まれる情報は,外界構造を計算するのにまったく不十分である。典型例を挙げれば,網膜像は2次元投影像であるため奥行き次元が失われており,同じ網膜像をもたらしうる3次元外界構造には無限の可能性がある。たとえば正方形の網膜像があったとき,その原因となる外界の物体は前額平行面上の正方形かもしれないし,奥行き方向に傾いた長方形かもしれないし,あるいは直方体や四角錐が特定の角度に置かれているのかもしれない。また,ある物体からの表面反射光が得られた場合,その原因となる外界の照明光の分光分布,光量と物体の分光反射率と入射角度の関係は特定できない。ある光強度の物体反射光は,暗い照明が白い表面に当たった結果かもしれないし,明るい照明が薄暗い表面に当たった結果かもしれないし,明るい照明が白い表面に対して斜めに当たったために反射光量が少ないのかもしれない。与えられた情報だけでは解が一意に定まらない計算問題を不良設定問題といい,最適な解を推定するという作業が必要になる。視覚情報処理系はつねに不良設定問題にさらされ,外界に関する仮定である自然制約条件をさまざまにおいて解を絞っている。その重要な2例として,事物の性質は簡単に変わらないはずだとする知覚の恒常性と,自然画像の統計量は特定の分布に従うはずだとする事前確率が挙げられる。【視覚の下位区分】 視覚という感覚モダリティは膨大な情報処理を含む大きな概念なので,細分化して理解することが重要な場合がある。異なる感覚属性は独立した装置で処理されるという機能的モジュール性が,多くの研究者によって提唱されたこともあり,明るさ・色・肌理・運動・奥行きなどの感覚属性で区分することが理解の助けになって,各々独立に研究が進んできた。また,空間視と形態視の区分や,行為と認識の区分など,異なる処理経路を介すると考えられる計算内容によっても分けられる。 このような並列的区分とは別に,研究分野の違いによる階層的区分も可能である。まず網膜に結像するまでを主に記述する眼光学の分野があり,次にフィルターや並列結合素子などの工学的概念を多用して視覚信号の生体情報表現を扱う初期視覚の分野がある。これらに対して,能動的注意,物体認識,シーン解析,視覚的記憶などの高次機能を扱う分野があり,これを後期視覚とよんで区別することがある。したがって,ひとくちに空間や時間などの諸特性を記述するうえでも,扱う属性や階層によって大きく特性が異なるので統一的な説明は難しい。【空間特性】 ヒトやサルなど霊長類では,網膜に中心窩があり視野中心が最も解像度が高く,視野周辺に行くにつれて視力が悪くなる。視力の評価の一つである縞視力は,解像しうる最も細かい縞をもって指標とする。縞の細かさは視角1°当たり何周期の輝度変調があるかをもって記述し,これを空間周波数という。ただし空間周波数は,縞模様だけに適用されるのではなく,視野内の特定の方位軸に沿った変調が何周期あるかを記述する一般的な概念である。 縞視力の測定を拡張し,正弦波の輝度変調が検出されるために必要な最小の輝度コントラストを空間周波数の関数として測定したならば,得られた曲線の高域カットオフ周波数が縞視力に相当し,曲線全体は空間的コントラスト感度関数とよばれる。平均輝度・刺激サイズ・網膜部位などにより異なるが,明所視ではこの関数は中心視でおおむね3~5cpdをピークとするバンドパス型の逆U字型曲線となり,視野周辺に行くにつれてピーク周波数が低域にシフトする。暗所視では低周波側で感度の落ちないローパス型となる。空間的コントラスト感度関数をもたらすメカニズムは単一でなく,限られた通過帯域をもち,最適周波数の異なる複数の空間周波数チャンネルが介在すると考えられている。 信号雑音比が悪く,欠損値も生じる貧しい視覚入力から可能な限り有意味な情報表現を構築するために,視覚系では特徴的な空間処理がさまざま行なわれており,それらを反映したさまざまな視覚現象が報告されている。その一つが明るさ・色の同時対比であり,同じ輝度の面であっても暗い面に囲まれた場合はより明るく,明るい面に囲まれた場合はより暗く感じられる。肌理・運動・奥行きの属性においても対比は生じる。この対比作用には,空間変化を強調する働きが関係すると考えられている。もう一つの例が知覚的充塡であり,輪郭がはっきりしない領域において,領域の周囲にある明るさや色などが領域内部全体に侵蝕するように感じる。盲点での充塡はその典型例だが,それ以外にもトロクスラー効果という名称でよばれるようにぼやけた輪郭を視野周辺で眺めつづけた場合などにも生じ,視覚系の一般的特性といえる。肌理・運動・奥行きの充塡も報告されている。 刺激画像の物理的構造とそれを観察したときの見かけが一致しない現象を指して,錯視という。古来より数多くの幾何学的錯視が報告されており,網膜像とわたしたちの長さ・大きさなどの種々の知覚が一致しない例は枚挙にいとまがない。錯視図形を観察している際も,われわれの視覚情報処理系では,貧しい入力から可能な限り外界構造を正しく推定しようという計算回路が働いているはずである。そして,幾何学的錯視をはじめとする数多くの錯視現象は,入力と出力との関係が特異であることから,そのような計算回路の原理にヒントを与えてくれる有効な実験材料である。
2024.04.27
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当麻寺は元々は三論宗の寺で、現在は真言宗と浄土宗の寺となっています。法号は禅林寺というのですが禅林寺を調べてみると、京都に同じ名前の寺があります。当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033年 - 1111年)の時に念仏の寺へと変化を遂げる。永観は文章博士の源国経の子として生まれた。11歳で禅林寺の深観(花山天皇皇子)に弟子入りし、東大寺で南都六宗のうちの三論宗を学ぶ。三論宗には奈良時代の智光以来の浄土教の思想があるが、浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に戻るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、東五条の悲田院の近くの薬王寺に阿弥陀像を安置して、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。さらに当寺の境内にも悲田院(薬王寺)と施療院を建立し、梅の木を沢山植えて病人に薬用としてその実を与えた。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。(見返り阿弥陀像)永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。この記述です。阿弥陀仏の周りを念仏を唱えながら旋回するというのは、前にも書きましたように般舟三昧(はんじゅざんまい)です。心を集中することによって諸仏を眼前に見ることが出来る境地のことです。「十方現在仏悉在前立定(現在の仏がことごとく前に立つ精神集中)」の意で、その略語たる現在三昧を音写して般舟三昧と言う。また、諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)ないし仏立三昧(ぶつりゅうざんまい)とも意訳される。まさに永観が阿弥陀様に出会ったことをこの左向きの仏像は表しているのだとおもいます。おそらく中将姫も同じ様な事が出来る方だったのではないかと思えるのです。
2024.04.23
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中将姫は13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。と伝承にあります。この内侍という職種は、一般には後宮に仕える女官という事ですが女性神官という意味もあるようです。厳島神社の内侍という職種は、女性神官である巫女を表しています。また、斎宮や斎王に仕える女性もそのように呼ばれている事からその伝承から見ても、そのような方だったのでは無いかと思います。13歳の時は、父である藤原豊成は政変で失脚しており、難波に隠棲したとあります。それが9歳の時ですからそれから4年も宮中に中将姫があったのは、特にこの女性が重要な能力を有するつまり神仏に交感できる特殊能力をゆうする巫女の能力を持っていたからでは無いかと思われるのです。それが、それを仲立ちする中将という名前の本来の意味だからです。また母と言われている藤原百能については、生みの母か継母になるのかは確かではありませんが、その父は藤原麻呂であり、その生母は当麻氏であると言う記述があります。古代においては婚姻の形態は、妻問い婚であり女性のところに男性が通ってくることから、母方の親族の影響が非常に強くなります。つまりここで当麻寺(当麻氏の氏寺)という強い結びつきがあらわれます。おそらく中将姫が殺されかかったという伝承は、この13歳以降に起こった事を感じます。たぐいまれの無い能力を有しておられる姫を守るために、母の出身である当麻氏の氏寺に頼った様に思われて仕方ありません。なぜこの曼荼羅が、この当麻寺にあるのかは、このような背景があるのではないでしょうかこの中将姫が13歳以降の3年の間に大変な政変が起こっています。763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)当麻曼荼羅の下部にこの制作年号がある。763年 16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞し尼僧となっている 鑑真和上亡くなる 75歳 安史の乱終わる しかし一時吐蕃による長安占領など、唐朝の威信は大きく下がる764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗) 藤原豊成右大臣に復帰 称徳天皇即位(重祚) この政変で淳仁天皇は失脚して淡路に流されるその後死去暗殺との話もある藤原仲麻呂派であった淳仁天皇は、中将姫を後宮に取り込むことで、有力氏族である当麻氏の勢力を引き込もうとしたように感じます。ですから、中将姫は政変に巻き込まれない為にも出家をしたようにも捉えられるのです。こんな時代なので、中将姫が殺されかかったのもあり得る話では無いでしょうか
2024.04.23
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年表に当時の中国唐朝の情勢を掛け合わせて、再構築してみると重大事件にこの当麻曼荼羅が関わっているのではないかと思えるようになった。唐朝は則天武后の時代に道教から仏教を重視する政策に変わっているこれは則天武后の台頭と密接に関係しており、則天武后の時代王朝の名前を唐から周に変わった事からもよく知られておりその時に仏教美術において、大変な発展が見られた国家事業として行われたためです。その時に涅槃変相図など多数の物が作られたようですが、それから唐の滅亡に向かってその大部分は破壊され残ってはいません。この当麻曼荼羅は、唐から渡ってきていたと自分は考えていますが、その理由は安史の乱によってその直前に長安で大虐殺と略奪が行われている事実があります。ものすごい多くの人々が巻き込まれ、命を落としている状況です。安史の乱は収束出来ておらず、また吐蕃による長安占領や、安史の乱で助力を求めたウイグルもいつ手を返して、攻めてくるか不明の状況で行なわれたのが、この蘇州から帰国した遣唐使船です。この当麻曼荼羅自体重大な宝であると共に、浄土信仰の根源をなすものです。浄土信仰の重要な物として信仰されていたのでしょうがこの戦乱の状況において、それを守る意味からも日本に送られてきたのではという意図を感じます。この曼荼羅には折り目があり、布自体は非常に薄い物であるとわかっておりこれを何重にもたたんで持ち込まれたのでは無いかと推定しています。この仮説の場合、問題は下部の曼荼羅制作のいきさつを書いてある部分です。原本はもはや剥落して残ってはおりませんが、その記述は復元された物から内容がわかります。藤原豊成が難波の地に隠棲していたとき、この遣唐使船の誰から入手しその地において、この部分を付け加える事で、日本で中将姫が一夜にして作られたという事になったのだと思えます。おそらくこの制作にも、中将姫が一枚噛んでいるは間違い無いのでは無いかと思えます。そうする理由として、唐朝の混乱の時期であり、おそらく秘密裏に持ち出されたので記録として残すわけには行かない事情があったことになります。送使沈惟岳の賄賂をもらったという事件が余計にひっかかります。唐朝としては勝手に持ち出されたことになり、また日本側にもその記録を残す訳には行かない事情を感じます。
2024.04.21
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594年 天台大師 ちぎ 摩訶止観を説く 三種止観(円頓止観・漸次止観・不定止観)と四種三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の内の、円頓止観についての解説書613年 中国にて浄土教を確立した善導生まれる存命中に200枚以上の浄土曼荼羅(浄土変相図)を書き表すその著作『般舟讃』において般舟三昧による行道の法を記している。622年 聖徳太子 死去681年 善導 69歳 亡くなる 白鳳時代 645年(大化の改新)~710年(平城京遷都) (藤原京など飛鳥が都の時代) 天平時代 710年~794年(平安京遷都) (奈良が都の時代)686年 天武天皇 崩御704年 藤原豊成生まれる(別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど))705年 則天武后崩御 「道先仏後」政策により仏教が大きく信仰された737年 支婁迦讖訳 はんしゅう三昧経伝わる(正倉院文書より)747年 中将姫 生まれる749年 孝謙天皇(女帝)即位 31歳 聖武天皇は太上天皇となる752年 東大寺毘盧遮那仏 大仏開眼供養式 開眼の導師は、南インド出身のバラモン僧、菩提僊那(ぼだいせんな)754年 鑑真和上奈良に到着(第12回第1陣 遣唐使船帰国 2船が到着できた)755年 唐で安史の乱起こる 翌年長安陥落 皇族が虐殺され 略奪される756年 右大臣藤原豊成 橘奈良麻呂の乱の責任を取り失脚 太宰府長官に左遷されるも 病気と称して難波にて隠棲(8年間) 中将姫9歳にて孝謙天皇の前で琴を披露し、賞賛との伝承757年 唐朝粛宗 長安を奪還する758年 孝謙天皇 天皇を譲り、実権をもった太上天皇となる 40歳759年 唐招提寺建立760年 中将姫13歳 三位中将の位をもつ内示となる伝承(これが中将姫の由来)761年 道鏡の寵愛が始まる761年 第12回第二陣 遣唐使船帰国 難波到着 粛宗側近の謝時和が同行し24mの船1隻を蘇州で建造、9人の水手と30人をもって送使沈惟岳と共に8月に出発、南路で大宰府に到着 30人の一行の中に膳大丘が参加し金剛般若経を持ち帰るとの伝承がある。粛宗より、武器類の補充を日本側は求められている、藤原清河は帰国できていない。この要請を受け安芸国で10月から4隻の船を建造、武器材料の徴発と備蓄、新型の鎧「綿襖甲」は「唐国新様」と呼ばれ、762年から大量生産が命じられている。この武器の唐への移送は、舟の座礁や、唐の騒乱状況を鑑み結局中止された。唐へ帰還しなかった者も多く送使沈惟岳は日本に帰化した記述がある。762年 太宰府在の送使沈惟岳が賄賂を取る不正が告発される事実ではあるが不問とされた。 763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)当麻曼荼羅の下部にこの制作年号がある。 鑑真和上亡くなる 75歳安史の乱終わる しかし一時吐蕃による長安占領など、唐朝の威信は大きく下がる764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗) 藤原豊成右大臣に復帰 称徳天皇即位(重祚)766年 藤原豊成没 62歳767年 最澄(比叡山 天台)生まれる769年 道鏡 宇佐八幡宮神託事件770年 称徳天皇崩御 52歳774年 空海(高野山 真言)生まれる775年 中将姫 (中将法如) 亡くなる 29歳824年 当麻寺に空海(50歳)が来場したとの伝承835年 空海 亡くなる942年 源信(恵心僧都えしんぞうず)当麻寺周辺で生まれる985年 往生要集をあらわす 当麻曼荼羅の前に置かれている阿弥陀仏は、恵心僧都が寄贈したと伝えられる1017年 源信 76歳 亡くなる
2024.04.21
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恵心僧都(源信)とは天慶五年(942)大和国葛城下郡當麻郷(奈良県香芝市)の當麻寺近くの生まれ。父は卜部正親(うらべまさちか)、母は清原氏、母および三人の妹はともに尼となる。十代中頃に夢告により比叡山の横川(よかわ)にて、慈恵大師良源大僧正の弟子となり、三十二歳の時、慈恵大師始行の「広学豎義(天台僧の最終試験)を受けて「論義決択世に絶倫と称す」と称讃寛和元年(985)四十四歳、叡山浄土教大成の書『往生要集(おうじょうようしゅう)』三巻を完成。そして大麻曼荼羅の存在浄土教はここから始まると言っても過言ではありません。観想念仏/かんそうねんぶつ仏の相好や浄土の様子を心にこらし、その姿や相を想い描くこと。特に浄土教では阿弥陀仏の姿やその功徳、さらには浄土の具体的様相を想起する観法の一つ。称名念仏に対することば。ただ観念ともいう。観念の念仏と同義。源信は『往生要集』中において、「初心の観行は深奥に堪えず。…まず仏の色相を念ぜよ」(浄全一五・七九上)といい、仏の相好を個々に観想する別相観、総括的に観想する総相観、仏の眉間白毫の相に限定して観想する雑略観を修すべきことを説き、さらには、「もし相好を観念するに堪えざるものあらば」(浄全一五・八五下)と説示していることから、仏の色相を心に想い浮かべることを観念、あるいは観想の念仏としている。観想念仏の究極の状態は、総相観で示される三身即一の阿弥陀仏と行者が融合し一体となっていくことで完成される理の観念を指している。また、別相観や雑略観で説かれる観想は事の観念として位置づけられる。(この雑略観は 前も書いた白毫相の形成のやりかたなのではないかと思われる)
2024.04.20
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こころの本質は、時間を持たないもので、今という瞬間しか存在していません。その今という存在が連続して、認識を続けるのが心だと判断しています。その瞬間に居るためには、気づきは瞬間の連続体なので気づき続けていればその心と共に居ることが出来ると思います。そのこころは、小さな子供の頃にはみんな現れているのだと思います。だんだんと年齢を重ねることで、過去が記憶に蓄積され、未来を予想できるように時間の概念が形成されるので、この元のこころは覆い隠されてくるようになると思います。この時間の形成は、人の生存にとって有利になるからなおさらです。過去の失敗から学び、未来を予想することから、未来に起こる危機を予想し、対策し回避出来るようになるからです。しかし、そのことは、過去の後悔と未来の不安となって、自動的な思考として心に流れ込み、人を苦しめる事になるのですから本当の心を探して下さい。そこは自動思考の苦しみの激流の川の中にある、中州の安全地帯のように存在していると考えています。難しいことですが、それは今という瞬間に必ずあります。
2024.04.20
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当麻曼荼羅の由来を伝承のままに組み合わせると曼荼羅はあまりにも精密に作られており、その当時の日本では制作は不可能と思え唐から持ち込まれたと推定されている。遣唐使船をつかって持ち込まれたと推定しているがそれは761年に難波に到着した。第12回遣唐使船では無いかと推定している。その理由については、この舟は藤原清河を迎えるために渤海を経由して行なわれたのだが安史の乱後の混乱もあり清河の帰国はかなえられず、皇帝の側近の謝時和と蘇州より南路をつかって、一隻の舟が日本に向かうことになった。この舟の目的は唐朝の粛宗より、武器類(部品)の補充を求められており、日本でその製造を行なって、届けると言う作業が行なわれたとの記述がある。それを積んだ舟は座礁、破損などがあり、結局届けることが出来なかったとある。問題はここにある。乱で衰えたとはいえ唐王朝、遣唐使には大量の贈り物が下賜されるのが当然であり、今回は武器製造の依頼までしている異例の事態であり、かつ日本側も実際舟を建造してそれを大量生産するという普通では考えずらい藤原清河と交換にという話どころではない。ここでこの曼荼羅になってくる。その対価としてこれだけの物唐朝が持っていた宝を下賜品としてその対価として日本に送ったのでは無いかと考えている。曼荼羅には天平宝字7年(763年)に当麻寺にはいった記載があったようなのでおそらく難波の地あたりで、その部分を付け加えた可能性があり、その制作にも中将姫が一枚噛んでいた可能性が考えられる。蓮の繊維から中将姫が一夜にして作られた伝承を自分なりに再構成してみた伝承にも何かの歴史的な事実があるだろうと考えるからです。
2024.04.18
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594年 天台大師 ちぎ 摩訶止観を説く 三種止観(円頓止観・漸次止観・不定止観)と四種三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の内の、円頓止観についての解説書613年 中国にて浄土教を確立した善導生まれる存命中に200枚以上の浄土曼荼羅(浄土変相図)を書き表すその著作『般舟讃』において般舟三昧による行道の法を記している。622年 聖徳太子 死去681年 善導 69歳 亡くなる白鳳時代 645年(大化の改新)~710年(平城京遷都)(藤原京など飛鳥が都の時代)天平時代 710年~794年(平安京遷都)(奈良が都の時代)686年 天武天皇 崩御704年 藤原豊成生まれる(別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど))737年 支婁迦讖訳 はんしゅう三昧経伝わる(正倉院文書より)747年 中将姫 生まれる749年 孝謙天皇(女帝)即位 31歳 聖武天皇は太上天皇となる752年 東大寺毘盧遮那仏 大仏開眼供養式開眼の導師は、南インド出身のバラモン僧、菩提僊那(ぼだいせんな)754年 鑑真和上奈良に到着(第12回第1陣 遣唐使船帰国 2船が到着できた)756年 右大臣 藤原豊成 藤原仲麻呂の政変により失脚 難波にて隠棲(8年間) 中将姫9歳にて孝謙天皇の前で琴を披露し、賞賛との伝承758年 孝謙天皇 天皇を譲り、実権をもった太上天皇となる 40歳759年 唐招提寺建立760年 中将姫13歳 三位中将の位をもつ内示となる伝承(これが中将姫の由来)761年 道鏡の寵愛が始まる761年 第12回第二陣 遣唐使船帰国 難波到着763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)鑑真和上亡くなる 75歳764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗)藤原豊成右大臣に復帰 称徳天皇即位(重祚)766年 藤原豊成没 62歳767年 最澄(比叡山 天台)生まれる769年 道鏡 宇佐八幡宮神託事件770年 称徳天皇崩御 52歳774年 空海(高野山 真言)生まれる775年 中将姫 (中将法如) 亡くなる 29歳824年 当麻寺に空海(50歳)が来場したとの伝承835年 空海 亡くなる942年 源信(恵心僧都えしんぞうず)当麻寺周辺で生まれる985年 往生要集をあらわす当麻寺の曼荼羅の前に置かれている阿弥陀仏は、恵心僧都が寄贈したと伝えられる1017年 源信 76歳 亡くなる
2024.04.14
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本日4月14日日曜日16時より、当麻寺(奈良県)にて練供養が行われます。ことしより重要文化財に指定されています。この行事は鎌倉時代頃に始められており、このような行事の最古の物です。この平安時代にこの地区出身の天台の高僧である恵心僧都が表した「迎講」の行事が元になっておりこれは中将姫が、亡くなられる時はこうだったのではないかと言うことを表している行事です。亡くなられる時、多数の阿弥陀仏を始め多数の仏達が中将姫を迎えて、生まれたところ(あの世)に導き引き取っていく様を表す行事です。これは南無阿弥陀仏で知られる浄土教の広がりによって各地に広がっています。前日、当麻寺を参拝調査しましたが、この当麻曼荼羅(浄土変相図)は称名念仏(念仏を唱える)のもっと古い形式の物と言えます。どのような図は敦煌にある程度であり、これほどの織物が残っていること自体奇跡的であり念仏を唱える方は、是非一度観ていただきたい物です。私としては、これは観想念仏、三昧(精神集中)により、仏を現前に表す為のものではないかと強く思えます。観想念仏が称名念仏に変わっていったのはわかるような気がします。これは大変な事なのです。この場所は、このような行を行う場所であったように思います。そして中将姫はその様なことが出来た希有の方だったように思われます。また当麻寺にある小さな見晴台から、奈良盆地を望むことが出来ます。それを見ることができて、なぜ当麻曼荼羅を置く曼荼羅堂が東向きに置かれた理由がわかるような気がします。現在は東の仁王門から当麻寺に入場しますが、その理由は上記によるものと考えます。普通なら南北線に沿って曼荼羅堂を建てるのでしょうが曼荼羅(浄土変相図)は阿弥陀仏と極楽浄土を表した図です。その曼荼羅が東を向くという事は、その当時多くの人が住んでいたところから見えれば、この場所は日の沈む西、つまり西方浄土の場所に、この曼荼羅を置いたわけですからそちらを向いて立てられたその意味するところは、明らかと思います。
2024.04.14
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ジルボルトテイラーの報告においてこの人は前に述べたように、脳の左半球に脳卒中を起こしましたが、奇跡的に復活できた女性です。この脳内出血により左脳が機能停止していくと左脳がついに完全停止を余儀なくされたとき、私は右脳の安らかな意識に包まれ、そこでは危機感がすっかり失われていました。私の右脳は、過去の後悔も、現在の恐れも、未来への期待もなく、今ただこの瞬間だけに存在していました。時間感覚を失っていくと、これほど完全ではありませんが、同じ様な心が出現するのです。できるだけ今にいるようにです。これが思考が止まる(思考には時間の幅が必要だから)という意味だろうと思います。
2024.04.12
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色とりどりのカードから、オレンジ色のカードを指差す先生「オレンジ色ですね」「なるほど、では、このオレンジ色がどこにあるか、指差してもらえますか」「それはもちろんココでしょ……」不思議に思いながら先生の持っているオレンジ色のカードを指で指すと、先生はにやりと笑ってこう答えました。「この質問をすると、皆さん、同じ場所を指します。でも、本当は、ここにオレンジ色はないんです」「—??? どういうことですか?」「この紙自体には、『短波長の光はあまり反射せず、中~長波長の光を反射する』という物理的な特性があるだけです」「つまり、この紙そのものに『色』が存在するわけではないんです」「では、色っていったい、どこにあるんでしょうか?」「その答えは、ここです」そう言って、頭を指差す先生。「色を感じるのは、人の脳です」「紙で反射されたさまざまな波長の光が、人間の目の網膜にある視細胞によって電気信号に変換され、その信号が視神経を通じて脳に入力され、初めて『オレンジ色』という感覚が生まれます。そのため、色を決める要素には、次の3つがあると知っておくことが、非常に重要なんです」(終)仏教において色即空はよく知られた文言ですが、この仏教の言う色というのは、世界の物体全てを表しています。しかし、その色はいろに限らず、全て上に書いてあるように、頭の中の世界なのです。でもよく考えてください。世界はそこにしか存在していないのですから
2024.04.10
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詩人のルーミー(ジャラール・ウッディーン・ルーミー)(一二〇七~七三)「悪いおこない、正しいおこないという概念を超えたところに、草原がある。そこであなたと会いましょう。魂がその草むらに横たわるとき、世界は、語るにはあまりにも満ち足りている」
2024.04.10
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光輪を観ているのも瞑想の一つですが、この瞑想全体に言えることがあります。例えば、ドーパミンという脳内物質があります。パーキンソン病などは、このドーパミンの減少から起こることが知られています。瞑想にもドーパミンを放出する効果があるといわれそのような研究結果も発表されています瞑想を行うと 人間の脳は、 ガンマ波と呼ばれる脳波量が増加します。 ガンマ波は脳の高次機能と深い関係があり、集中力や記憶力の向上や幸福感を高める作用があるといわれています。このような報告なども上がっています。
2024.04.10
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見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える眼、耳、鼻、舌、身体、意常にこの6つの感覚器官をさまよっているのが人間です。実は今という瞬間には、見るとか聞くだけでなく足の裏から背中から全ての情報が入っているはずですが、当然そう言う物はその段階ではあまり重要ではないとされて無視されるように出来ています。つまり、入力情報を自動選択する機能が、人には備わっているのです。そしてその情報を取得する場合、目の情報選択が優先されるように出来ています。これは当然で、この身は常に危険と隣り合わせであり、いつ襲われるかわからない状況に常におかれていました。だから、速く情報をとれるのは目が最も速く、広いためにこれを優先するように進化してきました。いつも足の裏などを感じていれば、虎などの猛獣にでも襲われて命がありません。そして常に考えていることが、安全という事からも先を読むという機能が生存には有利なのです。考え予想し、外れれば捨ててしまえば良いからで、もしその予想が当たれば、その危機を脱する事で命を長らえることが出来るからです。損失は外れたという事だけです。これが、人が常に不安な事悪いことを常に考えて行かざるを得ない理由なのです。ところが、これが社会がすすみ、虎に襲われるような事も減り、安全な世界になってくるとこれが逆に人を苦しめる事になってきてしまうのです。常に心(意)にいろいろな思考それも過去の後悔と未来の不安などの予想、それは大体自分に悪いように流されてくるので、怒り、不安になどを死ぬまで続ける様に出来ているからです。瞑想において呼吸に気をつける(SATI)ことは、この考えてばかりいるという選択から身体に感覚を置く、意識を置く、今という選択をそこに置くそのことで、それ以外の特にこの思考を止めることが出来るからなのです。現代人は延々とその思いに苦しめられるように出来ています。多くは酒で、薬物で、ギャンブルで、異性にと、一瞬でももう思いたくないのです。その一時の忘れさせてくれる快感に、とらわれるように出来ています。しかし、それは永遠に続かない 諸行無常なのですからがこの構造を知らないと、永遠にその闇をさまよわざるを得ない要になっていると思います。その構造から逃れる一つの方法としてこのような瞑想が存在するのだと思います。
2024.04.08
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テーリー・ガーターには出家して七日目に覚った女性の話が出てくるスッタニパータには「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」として、即身成仏、一生成仏が強調されていた。ジャータカには〔王は〕〈聖者の最高の境地〉に到達した。王には森林中に住んで精励する必要はなかったのである」とあり、在家のままでの覚りを認めていたことが分かる。そして前も書いたように、五比丘、サヤにつづいて、50人の阿羅漢が出来たという点この50人という点このさとりとは、実はもっと易しい物であったのではないだろうか?サンスクリット版縮訳 法華経を読んで
2024.04.07
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目を閉じて光が見えることは希なことと聞いています。1000人に一人とか言うのですが、そうなのでしょうか?(ミャンマーの瞑想の記録を見ると一生をかけても見えない人もいるなどどうも解せない点があります。)わたしは小さいときから、目を閉じたときその奥に光を感じていました。それも強い輝くような星のようなキラキラした光で集中するとさらに強くなります。そのときは誰もがそうなんだろうと思って気にもとめませんでした。それから半世紀たって調べていくとどうもそうではないらしいのですがじぶんではそうも思えないところがあります。いままで述べた方法でこうやって観ればというと、ざっと半数以上は何かしらの光が見えています。(たしかに一見してこの人は見えるはずだとわかるので、そう言ってしてみれば大体見えています。この人はまず無理だろうなと言う人は大体だめでした。)(でも瞑想をしていれば、集中性は格段にあがるはずなんですが、なにもしない普通の人でそうです。)集中性が高い人ほどすぐに時間をおかずに見えています。どう見ても誰もが持っている能力の一つにしか見えないのです。見えない人も真面目に捉えていないからとしか思えないのですがでもこれは、今まで述べたように様々な事を教えてくれる様に思えてなりません。目を閉じたとき常に光輪が頭上にあります。其れと共にあると言うことそれを周りに広げていくという事を続けています。
2024.04.03
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ゾロアスター教の経典「光 輪 」にさ さげたもので, アリア諸国の光輪, カウィ王朝のそれ, ザ ラスシュトラ(ゾロアスター)のそれなど,一つの「光輪」の多面なあらわれを取扱つているが, 中でも印象的なのはイマのそれである。至福千年王 国に君臨していた彼は罪によつて王位を失うが, それとともに正統王者 のシンボルたる「光輪 」も彼から去つてゆく。否 「光輪 」が さだめに従つて彼から去り, 彼は これに よつて王位を失つたといつてもいいだろう。テキストは 「光輪 が ワールガ ンvaregan鳥(鷹鶴の類)の 姿 となつて三たび去っていつたと伝えている。」「サーサーン王朝諸王の王冠に翼をあしらっているのは,この鳥をシンボライズしたものである。」しかも幸運なことに, この古いイマの光輪物語は ビーソトゥーン磨崖 のアフラマズダーの浮彫りに再現されて今日に伝えられている。西暦前519年 に作成 され たこの浮彫りにおいてアフラマズダが身にまとつている円環はまさに「光輪」の本体, 左右両翼と尾翼はワールガン鳥を示し, しかもそれらの一々の羽毛はやや図式化されて光条をかたどり, 左右に放出された帯とともに,「光輪 」の放つ光芒を表象する。帯の先端が三分されているのは「光輪」が ワールガン鳥となつて三たび翔去した前記の物語をうがわせる。 ワールガン鳥との関係 はさらに王墓(在 ナクシェ・ロスタム)の形そのものにもみられる。従来, 亜字形とか十字形などといわれてきたその形は, じつは,この鳥が両翼を大きくひろげたものにすぎない。そのほかにも, イマは「光輪」によつて祭司・戦士・農耕 の三職能階級を創制したことも諸書にみえるのみならず, 「アヴェスタ ー」のYat1956-64は ウォルカシャ海に去つた「光輪」を追うて ツランのフランラスヤンが三たび泳いで捉えようとしたが失敗に帰したことを伝えている。「光輪 」と三の数詞とのかかわりは多種多様である。 この浮彫りにおいてアフラマズダーが左手にたずさえているものも同じ 「光輪」で,彼はそれ をまさに ダーラヤ ワゥ(ダリウス)一世に授けようとしてい るので ある。後世, 多くの浮彫りにアフラマズダーがそれを即位する帝王に授与する場面が描かれ てい るが,そのような政治史的関連のほかに, 宗教史的にも「光輪」は種々な意味合いを含蓄して複雑な概念となつた。 冒頭にも記したように,「光輪」の光りはひろく東西に光被し,限りある紙面のよく尽 くしうるところではない。仏像光背を示すイラン語詞について 伊藤義教著 より転載これが仏像の光背の意味であり、また3つの足を持つ八咫烏、光り輝く金鶏が何を表しているかという事になると思う転輪王の転輪(回転する光の輪)(光輪)も同じ意味である。光輪を持ち続けてもらいたいと思う
2024.04.02
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