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今日は参加者が多い。デモの列で数えると65人もいた。先週が40人だったので、だいぶ賑やかな雰囲気になっている。先週の日曜デモ当日は、宮城県議会選挙だった。選挙に関わっていた人たちがデモに戻ってきたのだ。 150回を超える脱原発みやぎ金曜デモの常連の3人、角野達也さんは仙台市太白選挙区で、大内真理さんは宮城野選挙区で、中島廉さんは泉区で、それぞれ新人候補として挑戦して3人とも当選した。3人とも脱原発を明確に主張してきた共産党から立候補したのである。その3人とも、今日はデモに加わっている。 原発関連で言えば、指定廃棄物最終処分場建設問題で揺れている加美選挙区で建設反対を強く訴えた高橋啓さん(無所属)が自民党現職を破って初当選したことも特筆されていい。高橋さんは、加美町総務課長として建設反対に先頭に立つ猪股洋文加美町長を支えてきた人だという。 明らかに、国民の過半数が原発に反対している流れが選挙に反映されたと考えていいだろうし、選挙に勝つには脱原発でなければ無理だよと大きな声で言いたいところだが、やはりもう一つ、国民の大半が反対する戦争法制の問題も大きかった。ともに国家レベルの争点であるにもかかわらず、地方自治体選挙において、その2つの争点が相乗してはっきりした国民の意思表示として顕在化したのだ。 戦争法制廃止、脱原発のこの流れが、次なる参院選、衆院選という国政選挙につながっていくことを願うばかりである。 集会@勾当台公園。(2015/10/30 18:16、18、18)フリー・トーク。(2015/10/30 18:14~28) すっかり暗くなった午後6時、ステージのライトと脱原発カーのヘッドライトの光の中で集会は始まった。 主催者挨拶の後に、初めて参加された(たぶん)人が、青森市で開かれる「2015年 反核燃 秋の共同行動」の告知をした。「個人の自発的な考えで」告知をすると断りながら、11月8日(日)11:30~15:00にワ・ラッセ1F交流学習室で開かれる集会と15:10からのデモの案内を話された。反核燃を訴えて本年6月の青森県知事選に立候補された医師の大竹進さんが基調講演を行なう。 デモへ準備。(2015/10/30 18:33、34) 一番町へ。(2015/10/30 18:41、47) デモへ出発するために公園で隊列を整えると、最後部は街灯に照らされているが、先頭はずっと薄暗い中にいる。歩き出すと、人びとはいったん闇をくぐって行くようである。 県庁前の道に出ても勾当台通りを渡るまでは、車列のライトに助けられなければ、動いている人間たちをカメラはうまく切り取れない。デモを見送る位置から定禅寺通りを越えて行く列を見ると、一番町は光り輝いているようだ。しかし、一番町に入ってしまえば、ごく普通の商店街の照明に思えて、とくに明るいと感じなくなる。 一番町に入って。(2015/10/30 18:51~52) デモの写真を撮っていると、参加しているすべての人の写真をきちんと撮りたいと思う。しかし、あまり写真に写りたくない人もいるだろうとも思う逡巡もあって、なにかいつも中途半端な気分で撮している。 たくさん写真を撮ってもそれをどうするかという問題もある。このブログには容量制限があって、1日で100kBの写真20枚がせいぜいなのだ。1回のデモのブログに何日もかけるのは、私の時間事情が許さない。結局、なんとなく漫然と折り合いをつけているだけなのだ。広瀬通りを横断。一番町。 (2015/10/30 18:56)今日も元気で。 (2015/10/30 18:48~19:01) 一番町2ブロック目。(2015/10/30 18:56~57) 広瀬通りを越えると、全面のアーケードに光が反射するせいか、もう少し明るさが増す。そのアーケードにコールの声が反射するせいばかりではなく、今日のコールはとても元気がある。 張りのある声で、若い女性が交互にコーラーを担当している。参加者には、私のような高齢の人間もかなり多いのだが、元気なコールに煽られて大きな声を出していて、どことなく楽しそうだ。 こんなところでも、若い人も老いた人も一緒に暮らせる世の中が生きやすく楽しいのだ、なんて考えてしまう。介護施設と保育所を併設するというニュースにほっこりするのもそのせいだ。老人の多い旧市街の古い建物に大学が入っていて、日溜りに集まる老人の間を学生が闊歩するヨーロッパの古都市が羨ましいと思うのもそのせいだ。郊外に大学を移転するなんて…… 青葉通り(東二番丁交差点)。(2015/10/30 19:08) 広い東二番町通りを渡るデモの列の長さが、気持ちよくカメラのフレームに納まるのを確認すると、私のデモはまもなく終りである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.10.30
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人はみな 逝くものなれば われひとり風に起ちたり 真野の萱原 西浦朋盛 「真野の萱原」は、笠郎女が「陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを」(万葉集・369)と詠った歌枕の地で、いまでは福島第1原発の放射能に汚染されてしまった福島県南相馬市にある。 手許に西浦朋盛著『かあさん ごめん』(株式会社パレード、2015年)という詩歌集がある。西浦さんとは互いのブログの読者で、短いコメントのやりとりもあるが、あまりプライベートなことは話題にはならない。この本にも、まえがきもあとがきも経歴も記されていない。短歌と俳句と詩だけが収録されている。 書名が表わしているように、詩歌の主題は亡母への思いである。それは、誤診によって適切な治療が受けられず、長い闘病生活を送らざるを得なかった著者を終生守り続けた母への思いであり、津波と原発事故で故郷を離れざるを得なかったその避難生活の途次で亡くなった母への慚愧の思いが綴られている。誤診とも 知らざるままに 闘病の十七年は 無為に過ぎ去る死いくたび 経ながらさがし 求めし名アスペルギルス 肺真菌症母ついに わがくるしみを 告げずして吾をまもる日々 護れるいのちうつし世に 母あればこそ ある我ぞ母なかりせば あらざるいのちにくみても あまりある 原発事故の放射線 ははと山河を ころす唯一の いきる根拠を 奪い去る原発事故は みとめたくない仮設にも 仏壇はある 位牌もが母の名記す かなしきかたち 福島から離れた地で原発に反対しているといえども、その私が西浦さんの痛切な心情をすっかりと受け止められるはずもなく、ただ黙々と紡がれた言葉を読みこんでいるだけである。長い闘病生活に苦しんでいる人たち(健康に生きている人たちもだが)を、さらに放射能汚染で故郷からも追い出すなどということがふたたび起きないように強く願いながら…… 紅葉の勾当台公園。(2015/10/25 15:15、16、17) 昨日は、盛岡の街をぐるぐる歩き回ってから「原発再稼働反対 SMASH FASCISM! ABE OUT! デモ in 盛岡」に参加して、盛岡の繁華街を歩いて来た。おかげで、昼デモの集会が開かれる勾当台公園に向かう足はけっこう重いのである。 昨年の11月の最終週の日曜昼デモでは、良覚院丁公園の鮮明なモミジの紅葉を楽しんだが、1ヶ月早い今日の勾当台公園の紅(黄)葉もけっこう美しい。写真を撮っているうちに、脱原発集会の様子から勾当台公園の樹々の彩りに主題がシフトしてしまいそうだ。 フリー・トーク。(2015/10/25 15:15~28) 主催者挨拶の後、昨日の「原発再稼働反対 SMASH FASCISM! ABE OUT! デモ in 盛岡」とそれに併せて開かれた第7回東北脱原発交流会の報告があった。仙台からは6人が参加し、他に山形、宮古からの参加もあった。 続いて、伊方原発の再稼働が進められている押し迫った状況のもと、11月1日に松山市で開かれる「伊方原発の再稼働を許さないための全国集会―福島をくり返さない―」へ持参する応援色紙への激励文の記載のお願いがあった。 また、3・11大震災と阪神大震災を通じて「共生社会」を考えることを目的として開催される「大震災と在日コリアン」講演会(11月21日13:20~16:40、TKPガーデンシティ仙台勾当台3F)の案内があった。この講演会は、日韓国交正常化50周年を記念した事業の一つである。 その後のフリートークでは、参議院での戦争法案可決成立後の状況や、伊方原発再稼働容認の動きと地方経済の問題、あるいは、脱原発と戦争法案反対の両方を同じデモで訴えることのアピール力の問題点などが話された。 勾当台公園から勾当台通りを越えて。(2015/10/25 15:34、36、40、42) 公園の紅葉も青空も文句なしだが、今日は急激に冷え込んで強い風も吹きまくっている。私もそうだが、たいていの人はもう冬支度である。「体がまだ寒さに慣れていない」だとか「服が重い」などと言い交わしながら、デモ出発の準備である。 定禅寺通りを渡る。(2015/10/25 15:47)今日のコーラー。 (2015/10/25 15:42、48、57) 金曜夕方のデモは、冬には完全に夜デモになる。夜では参加しにくい人たちがいるというので始まった月1の日曜昼デモだが、主催者の配慮にもかかわらず、必ずしも参加者が多くなったということはなさそうだ。今日は冷え込んだという悪条件も手伝って、参加者は40人にとどまった。 たしかに、仙台では今のうちに遊んでおかないと、来春まで楽しみはお預けという人も多いには違いない(遊んでいるばかりではないだろうが)。 1番町を行く。 (2015/10/25 15:48、48、49、56) 日曜日の一番町は人出で賑わっているが、いつもその人出が写真に写らない。デモが通るさい、みんなが脇にさっとよけてくれるからである。 デモの先頭のすぐ後ろから見るとよくそれが分かる。ずっと向こうには大勢の人がいるが、デモとの間に誰もいない空間ができあがっているのだ。 青葉通り。 (2015/10/25 16:02、06、09) 青葉通りに出ると陽光を背に受けて歩くのだが、太陽は南に寄ってしまって光は青葉通りに斜めに入射する。「逆光に輝くデモ姿」などと勝手に想像していたのだが(腕もないのに)、中途半端に逆光になっている。 定禅寺通りも青葉通りもケヤキの並木だが、紅葉はまだぼんやりとしか発色していない。そんな印象だったが、なかにはだいぶ進んでいるのもある。しかし、紅葉したケヤキはあっという間に落葉してしまう。来月の昼デモの頃には仙台市街のおおかたの木々は紅葉まっ盛りかもしれないが、ケヤキはどうだろうか。 昨年の11月30日の昼デモでは美しいモミジの紅葉を楽しんだのであるが…… 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.10.25
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【続き】 下小路中学校の校庭に沿って道を左に曲る鳥居が見えてくる。私の地図の表記は「三ツ石神社」なのだが、鳥居脇の石柱の表記は「三ッ石神社」とあるのでそれに従うことにする。 Photo J1(上)三ッ石神社。(2015/10/24 11:40)Photo J2(下)「鬼の手形」のある三ッ石。(2015/10/24 11:42) 神社の境内には三人の家族連れが居て、彼らを写真フレームに収めると石の大きさがよくわかってありがたい。 昔、この地で悪行を働く羅刹という鬼を三ッ石の神様が捕まえてこの石に縛り付けたところ、鬼は二度とこの地にはやってこないという約束をしてその証文としてこの岩に手形を残したのだという。これが「岩手」や「不来方」の地名の由来だというのである。 特別な理由があるわけではないが、私は「不来方(こずかた)」という地名がとても好きである。この地名は、子どもの頃、石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」という短歌で初めて目にしたのだったが、少年期の感傷へ共鳴した周波数で今も振動し続けているような気がする。Photo K 大泉寺の小菊。(2015/10/24 11:50)Photo L 本町通り1丁目、中津川近くの商店。(2015/10/24 11:55) 三ッ石神社を出て中津川に向かおうと思っていのだが、見当をつけていた道が見つからず、寺町通りに戻る羽目になった。いったん寺町通りに出て、すぐに大泉寺の墓地か山門を抜けて、中津川へ向かう道に出た。 道の左手に、箒やバケツなどの日常品を売っている商店がある。古い木造の商家で、近づくと果物なども店先に並べられている。まるで小さなスーパーマーケットである。 もともと、地域に根ざす商店というのは、この店のように地域の人びとが必要とするものを商うものだったに違いない。それが今では「ニーズを開拓する」などと称して、資本が売りたいものを売るようになってしまった。消費傾向も好みも資本が作り出すのである。 「個性的なあなたに」などというCMに乗せられて、みんなで同じものを非個性的に消費するのである。こういう状況をスティグレールは「象徴の貧困」と呼び、精神性の貧しさを批判的に哲学するのである。Photo M 欄干擬宝珠のある上の橋から上の橋町方向。(2015/10/24 12:00) どうにか中津川に架かる橋に辿りついた。「上の橋」である。木製の欄干に擬宝珠が被せられている。京都の三条大橋に倣ったものだと、橋の西詰の碑文に書いてあった。Photo N1 上の橋町の蔵造りの建物。(2015/10/24 12:01)Photo N2 骨董品店のショーウィンドー。(2015/10/24 12:02)Photo N3 「菊の司」造り酒屋。(2015/10/24 12:03)Photo N4 紺屋町番屋。(2015/10/24 12:05) 上の橋を渡った先は「上の橋町」で、伝統的な和風建築の店や蔵造りの家が所々に現われる。最初の交差点を右に曲って紺屋町の通りを歩く。 ここにも古風な風情のある建物が並ぶ。和風建築の店ながら大きなガラス窓があって、骨董品らしい置物や装飾品が並べられている。その隣は造り酒屋の白壁である。 その先の十字路の角には「盛岡市消防団第五分団」とシャッターに大書された明治期の木造洋風建築がある。もともと消防の番屋として建てられたもので「紺屋町番屋」と呼ばれている(これはネット情報)。Photo N5 シックな日本家屋。(2015/10/24 12:06)Photo N6 盛岡信用金庫。(2015/10/24 12:09)Photo N7 岩手銀行中の橋支店。(2015/10/24 12:11) 紺谷町番屋の十字路を過ぎると、道はわずかに左に折れている。その角に日本家屋がくの字型に並んでいる。道はその先でふたたびわずかに右に折れて、元の道に平行に戻る。 左手に石造りの重厚な建物が現われる。「盛岡信用金庫」の看板が掲げられている。さらにその先の交差点の角には煉瓦造りの「岩手銀行中の橋支点」がある。東京駅に似ていなくもないなどと思っていたら、東京駅と同じ設計者によるものだという。Photo O 中の橋から中津川下流を見る。(2015/10/24 12:12)Photo P1 盛岡城跡公園入口。(2015/10/24 12:16)Photo P2 盛岡城内堀跡。(2015/10/24 12:17) 中の橋を渡れば、もう盛岡城跡公園である。広い公園を歩きまわる時間はないので案内看板を横目にまっすぐに歩く。道の左右に盛岡城の内堀跡と思われる水辺が現われ、右手には柳の大木が緑陰を作っていて、左手にはモミジなどの広葉樹が枝を垂らしていた。Photo Q1(左) 櫻山神社。(2015/10/24 12:18)Photo Q2(右) 烏帽子岩。(2015/10/24 12:19)Photo R 大通り東口。(2015/10/24 12:21) 左手に盛岡城跡の一部を占めるように櫻山神社がある。この神社は江戸時代中期に初代盛岡藩主南部信直を祀って建立されたものだという。神社横には「烏帽子岩」なる大岩が鎮座している。盛岡城築城時にこの一帯を掘り下げたときに現われたものだという。 カップルが烏帽子岩への階段を登っているのを見上げただけで道に戻り、大通りの東の入口まで行って、街歩きを終了とした。この辺で昼食をとってから内丸緑地公園のデモに向かうのである。街歩きMap。A~Rは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.10.24
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目的地を山と川として盛岡市を車で通り抜けたことは数えきれないほどあるが、降りたって歩いたのは4回だけである。2回は岩手県立美術館に展覧会を見に、もう2回は岩手大学での仕事だった。どれも観光というわけではないが、盛岡城址公園、大通り、高松公園には行ったことがある。 今日は、午後1時半から岩手県庁前の内丸緑地公園を始点として行なわれる脱原発デモに参加するのだが、早めの新幹線に乗って、デモ前に市内を歩いてみるのである。Photo A JR盛岡駅。(2015/10/24 10:43)Photo B 開運橋から北上川上流を見る。(2015/10/24 10:46) 盛岡駅から歩き出す。駅の前にバスプールがあり、そこから地下を潜って各方面に行く道に出ることができる。 地図を眺めて、市街中心部の北部、寺がたくさんあるあたりから中津川を渡り、対岸の街を歩いてから内丸緑地公園に向かう予定なのだが、寺町までの経路は未定だった。地図を眺めただけで下調べもしていないので、さしあたって大通りや中央通りという中心部を目指すことにして、地下から「開運橋、大通り方面」の案内にしたがって階段を登った。 北上川に架かる開運橋は東詰の歩道橋とともに工事中で、わずかに確保された狭い歩道部分を渡った。宮城県の人間にとって北上川は大河なのだが、さすがにここまで上流になると優しいせせらぎの川という感じである。Photo C1 本通り西口。(2015/10/24 10:49)Photo C2 本通り。(2015/10/24 10:53)Photo D1(左) 本通り路地裏1。(2015/10/24 10:55)Photo D2(右) 本通り路地裏2。(2015/10/24 10:56) 開運橋から200mほどでアーケードのある大通りの商店街の西の入口が見え出す。11時近いというのに商店への荷下ろしの車がけっこう多い。 前に大通りを歩いたとき、蕎麦とジャージャー麺が昼食だった。しかし、その店がどこかはまったく覚えていない。そんなことを考えていたら、大通りがわずかに右に折れる角に「盛岡せんべい」の店があった。妻と岩手県立美術館に「松本俊介展」を見に来たとき、ここでおみやげを買ったことを思い出した。 午後の脱原発デモコースに大通りの東半分が入っているので、重ならないように、「盛岡せんべい」を過ぎてから右手の路地に入った。飲み屋や食堂が並ぶ路地である。なかには、何の店か見当のつかない店もある。夜に賑やかになる路地なので人通りはあまりない。Photo E1 中央通り、日影門緑地付近。(2015/10/24 10:59)Photo E2 中央通り、県庁方向。(2015/10/24 11:02) 大通りからの路地を右、左と曲ると中央通りである。交差点の向こうに日影門緑地が見える。銀杏や欅などの大木が5、6本だけのあまり広くない緑地だが、石灯籠や大きな石塔がある。案内看板によれば、盛岡城の日影御門の外に位置するこの辺は日影門小路と呼ばれ、藩校が置かれていたという。Photo F1 紅葉する屋敷林のある民家。(2015/10/24 11:06)Photo F2 赤山稲荷神社。(2015/10/24 11:10) 中央通りを県庁方向に100mほど歩いて左の道に入った。ビルの間のあまり楽しくない道だが、左手の駐車場の奥に紅葉する屋敷林に囲まれた木造2階建ての日本家屋があって、その雰囲気の良さに見とれてしまった。二回の東面は全面ガラス戸で、廊下を挟んで障子が並んでいるに違いない。障子とガラス戸に挟まれた廊下に差し込む朝日、そんな懐かしいイメージが浮かぶ。 幾本かの道を横切ってまっすぐ歩くと、小さなお社が現われた。中に入ってみると「赤山稲荷社」という奉額が掛けられている。残念ながら由緒書きのようなものは見つからなかった。Photo G1 寺町通り、東顕寺前から本誓寺方向。(2015/10/24 11:18)Photo G2 本誓寺内。(2015/10/24 11:21)Photo G3 龍谷寺前の大欅。(2015/10/24 11:22) 赤山稲荷神社を過ぎて、右の細道を抜けると、寺町通りに出る。この近辺には塩の道と呼ばれた旧「野田街道」があったが、この寺町通りは新しい野田街道に含まれると看板にあった。 道沿いに寺が並ぶ文字通りの寺町で、紅葉を始めた木々の向こうに寺院の大屋根が並んでいる。金色に輝く銀杏がひときわ目立つ寺に中に入ってみた。本誓寺である。本堂の横手にマイクロバスが止まっていて、葬儀か法要を終えたらしい喪服の一団がバスに向かって歩いている。 本誓寺の先の龍谷寺の塀の前に赤く色づいた欅の大木があって、目を惹いている。大欅の近くに「北山」というバス停があった。寺町のあるこの一帯を北山と呼ぶらしい。仙台の北山も寺町である。北山丘陵には北山五山と呼ばれる寺があり、山麓に多くの寺が散在する。何か「北」に仏教的な意味があるのかもしれない。Photo H1 報恩寺手前の民家。(2015/10/24 11:27)Photo H2 報恩寺山門。(2015/10/24 11:28) 本誓寺を過ぎた十字路の角に八角堂風の二階のある北山交番がある。黒木の柱と白壁はどことなく明治期の和風建築をイメージさせる。一階の庇のすぐ下の白壁に「やすらぎ寺まち交番」と書かれた素敵な扁額を掲げている。 交番の手前を右に曲ると、一階が板壁、二階が白壁の民家が見えてくる。窓が少なく住居とも見えないが、かといって蔵でもなさそうだ。作業場のようなものだろうか。 その民家の先に報恩寺の参道がある。タクシーがやってきて一人の婦人が降りて参道に入っていった。その参道からは二人連れの若い女性が山門を潜って降りてくる。山門は二階建ての立派なもので、両脇に阿吽像が据えられていた。 この寺には享保年間に造られた五百羅漢を収めた羅漢堂があると案内が出ていてだいぶ惹かれたが、ローカットの登山靴を脱いだり穿いたりする手間を惜しんで割愛した。Photo I1(左) 「鬼の手形」案内板に惹かれて1。(2015/10/24 11:34)Photo I2(右) 「鬼の手形」案内板に惹かれて2。(2015/10/24 11:36)Photo I3 下小路中学校グランドの蔦紅葉。(2015/10/24 11:37) 報恩寺を出て左に道をとると、「鬼の手形」という案内板があってそれを目当てに歩くことにした。住宅地の道を3度ほど曲ると、私の前を野球のユニフォーム姿の少年が何かを食べながら歩いて行く。スパイクの爪が鳴らす音を追うように進むとグランド脇に出る。下小路中学校のグランドでは野球部が練習をしていた。さっきの少年はさぼって買い食いをしていたのかもしれない。 校庭を囲むフェンスに絡みつく蔦紅葉に目を奪われて何枚か写真を撮ったのだが、フェンスの向こうで何人かの野球部員が訝かしげにこちらを見ている。「人相風体卑しからざる」というわけにはいかないので、早々に立ち去る。「鬼の手形」はもうすぐだろう。街歩きMap。A~Rは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.10.24
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3・11以来、東北各地でも脱原発デモが行なわれていて、その主催者の情報交換を兼ねた交流会が持ち回りで開かれている。交流会と言っても、その土地の脱原発デモなどのイベントとの併催である。今回「脱原発盛岡 土曜日もデモし隊」主催のデモがあって、終了後に交流会が持たれる。 前回は仙台で「脱原発みやぎ金曜デモ」主催、前々回は山形で「幸せの脱原発ウォーキング」主催で開かれた。私は主催者でもスタッフでもなく、仙台金デモの一参加者にすぎないが、山形に続いて今度も参加させてもらった。私の場合は、どちらかと言えば交流会よりデモそのものが目的である。 いろんな所のデモに参加したいとずっと思っているのだが、なかなか難しい。東京には、年4、5回は出かけているが、それ以外では山形と古川(大崎市)に1度ずつ参加しただけにすぎない。行動力不足で、口先だけで終わりそうな気配だ。 内丸緑地公園。(2015/10/24 13:22、24、30) 内丸緑地公園を13:30にデモは出発するという予定に合わせたつもりだったが、13:00には内丸公園に着いてしまった。早すぎたと思ったが、仙台のグループはもうベンチで休んでいた。仙台からは、私も含めて6人が参加している。 旗竿を準備している見知った顔は、山形からの参加したお二人だった。 山形からも。(2015/10/24 13:20~26) 内丸緑地公園は、盛岡城の外濠と内堀の間にあった「内丸」と呼ばれた区域の跡で、盛岡城址と岩手県庁の間にある。この辺りが盛岡市の中心なのかもしれない。 公園が賑わいだした。50人から60人ほどが集まっている。旗竿や横断幕が広げられ、植え込み前にずらーっと並べられたプラカードから思い思いのものを選んで胸や背にぶら下げて、デモ出発の準備はできたようだ。 若い男性が主催者挨拶とデモコースの説明、その後の交流会の案内をして、デモに出発する。 岩手県庁を背に中央通りを西へ。(2015/10/24 13:36) 内丸緑地公園を北側の中央通りに出て、岩手県庁前から西に歩き出す。大木になったトチノキの並木の葉が色づいているが、トチの実が全く落ちていないのが不思議だ。 デモは、有名な石割桜がある盛岡地方裁判所前まで中央通りを進み、「裁判所前」交差点を左折して、岩手県警本部横を過ぎてから右折して大通りに入って行く。 大通りに入る。(2015/10/24 13:41、43、44) 大通りを行く。(2015/10/24 13:46、48)大通りを左折。 (2015/10/24 13:52) 大通りは、仙台なら一番町か中央通りに相当する盛岡市最大の繁華街である。人通りの多い繁華街でデモのコールをあげるのは効果的でとてもいい。 声に張りのある若い男性のコーラーは、脱原発と戦争法制反対のコールを織り交ぜ、威勢もテンポも良くて声を合わせるのが楽しい。東京でも仙台でもSEALDsのデモに参加して、テンポもリズムも新鮮なコールがとてもお気に入りになっていたこともあって、気持ちがすっきりする。 1年ほど前に、集団的自衛権に反対するデモが仙台で行なわれたとき、組合関連団体のデモコールを聞いた。若いときの職場の組合員として参加したデモのときと全く同じだったのを、どことなく化石のように感じたのだった。 それに比べれば、脱原発デモのコールははるかに近代的だとさえ思えた。SEALDsのコールはさらに先を行っているように思う。リズム感も音楽性もからっきしの私でも、SEALDs的コールは気分が良いし、楽しい。 主催者のブログ記事でデモコースの地図を見ていたのだが、大通りではコース地図の倍ほどの距離を歩いてから菜園通りに向かって左折した。デモの写真を撮っている向かいの角に「盛岡せんべい」の看板が見える。南部煎餅などのお土産品を売っている店で、岩手県立美術館に「松本俊介展」を見に来たとき、妻と一緒に入った記憶がある店だ。 岩手といえば宮澤賢治と石川啄木だが、松本俊介や萬鐵五郎という画家がいる。それに宮城県美術館の庭にもある彫刻の作家、舟越保武もいる。大通りから菜園通りへ。(2015/10/24 13:54)菜園通り、岩手公園(盛岡城址)が向こうに。(2015/10/24 14:05)解散。(2015/10/24 14:06) デモには4、5人の子どもも参加している。市民運動としてのデモには、子どもから老人までいろんな世代が参加できたら素晴らしいと思うが、二十歳前後の若者の参加がいつも少ない。その意味では、SEALDsが戦争法案反対の抗議活動に多くの若者を集めた意味はきわめて大きい。 SEALDsの学生たちは、コールにせよスピーチにせよ、勉強したり議論をしたりしてたいへんな工夫を払っているという。政治イシューの質や時代、タイミングというものに運動の盛り上がりが左右されることも確かにあるが、先頭に立つ人たちの才能というものに依存せざるを得ないこともあるだろう。 東京では人口が多いということで解決できるものであっても、参加人数が多くない東北のデモでは難しいまま抱え込んでしまわざるを得ない問題もある。そのことが、デモ後の交流会の最大の話題だった(と私には思えた)。 自公政権が戦争法案を上程してからは、そのあまりの重大性のために多くの反対運動が起き、デモも組織された。仙台でも日程が重なったとき、脱原発デモはそれと合流すべきだという意見もあったが、いちおうは別々の運動として進められている。 脱原発デモに参加する人の多くは戦争法案反対のデモにも参加している。一方、戦争法案反対には3500人以上集まることもあるが、脱原発デモにはそのほとんどが参加していない(なにしろ、毎週40人から60人くらいのデモなのだから)。そういう非対称の関係で合流を議論するのは、あまり合理的でも生産的でもないだろう。 それでも、仙台では、戦争法案反対と脱原発デモを別々に主催するだけの人間と組織がある。交流会で出された最大の問題は、もっと人口の少ない都市では脱原発デモと戦争法案反対デモのスタッフがほぼ重なってしまい、2種類のデモを別々に行なうことの負担が大きすぎるということだった。 「自民党支持者でも原発反対の人がたくさんいる。そういう人も脱原発デモに参加できるようにしたい」という発言があって、それがシングルイシューの大切な点である。ただし、3・11以降の脱原発デモの継続にもかかわらず、原発反対がはるかに過半数を超えるアンケートでは反対と答えながら選挙では自公に投票して安倍政権の「積極的原発再稼働」を支える多くの人たちがいる事実からは、その有効性には限度があるように思える。だからこそ、諦めず粘り強く続けようということになるのかもしれないが…… それに対して、「原発推進」も「戦争法制」も根は同じだから一緒でも良いではないかという議論もある。このような考えは、その共通する「根」をどこに見るかで、いろんな段階がある。自公政権に見るか、ファシズムに見るか、新自由主義に見るか、資本主義そのものに見るか、ネグリ&ハートのようにグローバルな〈帝国〉に見るかで運動の質(戦略と戦術)が異なってしまう。 一見、本質的な議論に思えてしまうが、「根」をめぐって四分五裂した私の若い頃の左翼運動のような古くさい党派的な運動に陥ってしまいそうな議論になりそうだ。未だにそれに固執している党派もないではないが、市民運動という視点からはだいぶ遠くなってしまう。 おそらく、市民運動はこのような原初的なアポリアを避けられないだろうし、避けなければならない理由もない。自立した個人が自発的に集まって行なう運動には当然のことで、そうした矛盾や葛藤が新しい市民運動を作っていくのだろうと思う。理論的に純粋であろうとして孤立して消滅していった運動や党派は数えきれないのである。もうとっくに「多様な市民」、「マルチチュード」の時代は始まっているのである。バウマン的「リキッド・モダン」の時代なのである。 参加人数の少ないデモを継続的に行なって行くには、理論ではなく単なる人的資源の問題に過ぎないことに大いに悩まざるを得ないのは実状だろう。だからこそ、交流会を通じて情報交換ができてそれぞれの工夫が少しずつでも伝わっていく意味は大きいだろうし、自分たちを少しずつ鍛えていくことにも繋がるだろう。そんなことを期待してもいいのではないか。
2015.10.24
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それにしても、おお神よ、これはいったいどういうわけなのだろうか。これをはたしてなんと呼ぶべきか。なんたる不幸、なんたる悪徳、いやむしろ、なんたる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隸従するのを、統治されているのではなく圧政のもとに置かれているのを、目にするとは! しかも彼らは、善も両親も、妻も子どもも、自分の意のままになる生命すらもたず、略奪、陵辱、虐待にあえいでいる。それも、軍隊の手になるのでもなく、蛮族の一群の手になるのでもない(そんなものが相手なら、血や生命を犠牲にするのもやむをえまい)、たったひとりの者の所業なのである。しかもそいつは、ヘラクレスでもサムソンでもなく、たったひとりの小男、それもたいていの場合、国じゅうでもっとも臆病で、もっとも女々しいやつだ。そいつは戦場の火薬どころか、槍試合の砂にさえ親しんだことがあるかどうかも怪しいし、男たちに力ずくで命令を下すことはおろか、まったく弱々しい小娘に卑屈に仕えることすらもかなわないのだ!このようなありさまを、臆病によるものと言えるだろうか。隸従する者たちが腰抜けで、憔悴しきっているからだと言えるだろうか。 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ [1] 人びとが「国じゅうでもっとも臆病で、もっとも女々しい」小男に隷従するわけを論じた『自発的隷従論』の中の一節である。1546~8年、今から470年ほど前に書かれた古典だが、まるで祖父母の世代に「腰抜けめ!」と叱られている気分になるほど、2015年の日本にしっくりと嵌りそうな文章だ。 この〈小男〉が誰だなどということはことさらに言いたくもないが、人びとが自発的に隷従することで独裁を助けているという時代を越えて共通する認識は、かなり厳しい問題を私たちに突きつけている。 TPPが包括的合意に達した後のJA全国大会に安倍首相が来賓として招かれて挨拶をしたのだという。TPPに絶対反対という自民党の公約(とくに農民層に向けての)を反故にしたというのに、主体がJAという組織なのか農民たちなのかは判然としないが、こうしたニュースに積極的な隷従の典型を見る思いがする。 しかも、明示的ではないがボエシの論旨は、人びとの隷従は国家(あるいはプレ国家)の始まりと同時に人びとの中に不可避的に芽生えた心性であることを示唆していて、「共同幻想としての国家」における幻想性のなかに深く隷従性が隠されているのではないか考えさせられた(つまり、私の宿題として残された)のだ。 もともと『自発的隷従論』を読もうと思っていたわけではない。FBに『独裁体制から民主主義へ』という本の紹介があって、アラブの春を闘った人びとに読まれていた権力に対抗するための教科書だという宣伝文句に惹かれたのだった。 最近は、デモのためだけにしか街に出かけないので、本屋に寄る機会もほとんどない。やむをえずAmazonで注文したら、これもどうだと『自発的隷従論』が宣伝されていたので、ついクリックしてしまった(安い文庫本だからできたのだが)。【左】エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(西谷修監修、山上浩嗣訳)『自発的隷従論』(筑摩書房、2013年)。【右】ジーン・シャープ(瀧口範子訳)『独裁体制から民主主義へ――権力に対抗するための教科書』(筑摩書房、2012年)。 パラパラとめくって眺めてみたが、『独裁体制から民主主義へ』は、非暴力抵抗運動のハウツー本らしい。ハウツー本は有用だが、読書にはならない。冷蔵庫に貼り付けているレシピと同じである。抵抗運動や革命がハウツー本を参考にしたらうまくいったなどということはあり得るはずがない。だからといって、無視もできない。山野草図鑑や鳥類図鑑と一緒に枕元にでも置いておくつもりである(もちろん、心中ひそかにうんと役に立ってほしいと願ってはいる)。 とうに日も暮れて(錦町公園)。(2015/10/16 18:14、17) 午後6時からの集会に間に合うように5時半に家を出たのだが、もうすでにすっかり夜である。この時期は日没の時間の変化が早い。 日没ばかりではない。犬との散歩に出かける時間が、この秋初めて日の出前になった。明るいが、太陽はまだ仙台市街の陰なのだった。フリー・トーク。(2015/10/16 18:15~25) 主催者の挨拶は、川内原発2号機の再起動が始まったことや、宮城県議会議員選挙では「脱原発市民会議」が原発問題について候補者全員に行なったアンケートの結果を是非参考にしてほしいとの要望がなされた。アンケート結果は「みやぎ脱原発・風の会」のホームページに掲載されている。 続いて、10月3日に開かれた長町アークス町内会主催の「原子力発電のことをもっと知ろう 事故が起きたらまず何をしたらいいの?」という学習会の報告があった。町内会から15人、他から12人の参加があって、講師の篠原弘典さんの丁寧な解説を聞いていろんな知見が得られたということだった。しかし、町内会主催で原発問題を勉強するというのは、ちょっとした驚きではある。 映画『首相官邸の前で』の開催案内もあった。3・11の後、官邸前で続いている抗議行動がマスコミであまり報道されないことに発奮した慶応大学教授の小熊英二さんが監督したドキュメンタリー映画で、桜井薬局セントラルホールで10月24日(土)11:00、13:30、17:00に3回上映され、小熊英二さんが来仙されて上映後のトークもあるということだ。 また、11月23日(月)12:30から仙台市情報・産業プラザ 多目的ホールで開催される「市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム」の告知もあった。原発の専門化を招いてのシンポジウムは、脱原発運動をすすめる私たちにとって貴重なチャンスになるものと思える。 定禅寺通りを西へ。(2015/10/16 18:36、44) 一番町に入る。(2015/10/16 18:46、47) 錦町公園から出たばかりの定禅寺通りは、かなり暗い。車のヘッドライトに照らし出されるケヤキ並木は、色づき始めた。もう、広瀬川の河原が芋煮会の煙で賑わう季節だ。 コーラーとアピール担当犬。(2015/10/16 18:47、52、54) 一番町。 (2015/10/16 18:57) 60人と脱原発犬チョモさんの一行が人出の多い一番町に入っていくと、圧倒的に注目を浴びるのはチョモさんである。高校生や若い女性の受けが格段によい。 広瀬通りの付近には、店の宣伝や客の案内のためかメニューを抱えた飲食店の若い従業員がたくさんいるのだが、彼らの中にはコールのリズムに合わせてくれる人たちもいるのだが、チョモさんに目を奪われている人も多い。 飼い主さんも頑張って、チョモさん専用のキャリーカーはどんどん進化して、ボールライトや大きなプラなどがデコレートされ、ますます目を惹く効果を生み出している。 青葉通り(東二番丁交差点)。(2015/10/16 19:08) 右手には人びとの自発的な隷従論、左手にはこうすれば独裁体制から民主主義へ転換できるという非暴力的抵抗の方法論。どうしろと言うのだといいたくなるが、どちらも真実なのだと思う。 辺野古の基地建設に反対する行動では県知事を先頭とする沖縄のマジョリティが結集している。3・11後の官邸前での再稼働反対、原発反対の抗議行動は時には10万を超える人びとを集めて4年も粘り強く続けられている。『首相官邸の前で』を監督した小熊英二さんは、この一連の抗議活動、デモから民主主義への運動の質が変わったと考えている。 また、若い学生たちが組織したSEALDsが主導する戦争法制に反対する行動、デモによって、デモそのものに対する日本人の意識を大きく変えつつあるように見える。隷従する精神にとっては、デモに参加することは恐怖であったかもしれないが、SEALDsのデモは誰にでもできるごく普通の意思表示にすぎないことを日本人に明らかにしてくれたと思う。 もちろん、自公政権であることは自発的隷従がまだまだ強いことを意味しているが、最近の日本で生起し、そして継続している抵抗、抗議、反対の動きには隷従する精神を突破する契機を内包していると思えてならない。 [1] エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(西谷修監修、山上浩嗣訳)『自発的隷従論』(筑摩書房、2013年) p. 13。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.10.16
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川内原発2号機が再稼働するとか、愛媛県議会が伊方原発の再稼働に同意したとか、不愉快なニュースが続いているが、それを帳消しにするくらいの良いニュースもある(原発を止めるのがほんとうの「帳消し」だが)。 岡山大学の津田敏秀教授が医学専門誌「Epidemiology(疫学)」に発表した論文で、福島県が実施した原発事故当時18歳以下だった約37万人の県民の健康調査の結果を分析したところ、甲状腺癌の発生率が国内平均の「50~20倍」に達していたと結論している。 チェルノブイリ原発事故では5、6年後に甲状腺癌の患者数が増加したことから考えれば、これは必当然の結果である。ウクライナ人も日本人もまったく同じ生化学的肉体を有する同じ人間であり、放射線の物理的作用に地域差があるはずもないのだから、おなじ被害が発生することは考えるまでもない。 国際癌研究機関(IARC)が組織したチームが、いかなる閾値もなく低線量被曝でも白血病リスクは確実に上昇するという報告したことも、福島での甲状腺癌の高発生という結論も科学的、合理的な判断からすればごく常識的な結果に過ぎないが、原発推進勢力が権力を手にしている状況では、どちらも重要な科学的知見の公表であり、ニュースである。 ベラルーシのスベトラーナ・アレクシエービッチさんがノーベル文学賞を受賞したこともとても素晴らしいニュースだ。『戦争は女の顔をしていない』や『チェルノブイリの祈り』などの作品で、反戦、反原発の立場を明確にして活動している作家、ジャーナリストである。戦争法案に反対し、原発再稼働に反対している私(たち)には心強い受賞である。 彼女は福島事故後のメッセージで、「広島、長崎の原爆投下とチェルノブイリ事故後、人間の文明は『非核』の道を選択すべきではなかったのか。原子力時代から抜け出さなければならない。私がチェルノブイリで目にしたような姿に世界がなってしまわないために、別の道を模索すべきだ」と語ったということだ(毎日新聞)。 ノーベル平和賞も私(たち)を奮い立たせ、元気づける人びとが受賞した。「アラブの春」のあと、チュニジアの民主化に貢献したとして国民の対立解消につとめた4団体「国民対話カルテット」に平和賞が贈られた。 チュニジアはまだテロが続く不安定な状況で、必ずしも諸手を挙げて喜べる状況ではないのだが、一方で、憲法を守ることで平和を追求する日本の民間団体が受賞する可能性が一段と高まったように思えるのは私だけではないだろう。憲法を守ることで優れた民主主義を求め、戦争に反対する民間団体は、民主的対話を追求した民間団体に優るとも劣らないのは間違いない。 もう一つ良いニュースがあった。極東国際軍事裁判(東京裁判)と南京軍事法廷の記録など「南京大虐殺」に関する資料がユネスコの認定する世界記憶遺産となった。認定申請したのは中国政府なので、自公政権は当然のように反発しているが、これを歪曲することなく真摯に過去の歴史に向き合う契機としなければならない。ユネスコが認めたということは、南京大虐殺に関する日本の歴史修正主義者(自公政権)の主張が世界でいかに孤立しているかを示している。 今回の世界記憶遺産認定は、戦争法制や歴史認識において明らかに戦前の大日本帝国へ退化している自公政権への警告になるはずだが、政権にはそんな認識は期待できないだろう。それを実態化(現勢化)するのは、やはり私たち国民の仕事に違いない。 集会@肴町公園。(2015/10/9 18:10、14) 午後6時の肴町公園はもう真っ暗である。集会が始まる前に数人と挨拶して言葉を交わしたが、そのうち二人との話題は風邪のことだった。一人は先々週から続いた私の風邪を心配して、もう一人は流行りだしたインフルエンザを心配しての話題だった。秋になったと思ったら、なんとなく気分は寒い冬に向かうのだった。フリー・トーク。(2015/10/9 18:13~25) 集会は、主催者挨拶の後、三つの告知ではじまった。一つは、東北文化学園大学の公開講座「震災復興と原発問題」(後期:水曜日5時限16:40~18:10、1号館2階1257教室)の案内で、10月14日は放射能対策支援室いずみ顧問の篠原弘典さんの「日本の原子力の歴史を問う」、10月21日は福島原発告訴団団長の武藤類子さんの「福島の現状(仮)」と講師もテーマも私たちにはとても興味深い講義が続いている。 二つ目の告知は、木村真三さんの「ベラルーシ・ウクライナと飯舘村」と題する講演会の案内、三つ目は戦争法制に反対する「10・19街宣(リレートーク)」の案内で、場所と時間はチラシの通り。チラシの中で「エルパーク仙台」というのは「旧141ビル」、「仙台平和ビル」というのは「旧佐々重ビル」のことである。 なお、木村真三さんの講演の録画がユーチューブにアップされる予定だという。 人と出会う場所では積極的に原発の話をすることにしているというスピーチもあって、よく行く食堂のおばさんがキッチンで「再稼働反対!」とか「原発いらない!」と一人コールをしているのだという。日本人の大多数が反対しているのだからさもありなんというなんとも微笑ましい話だ。 また、環境省が加美町・田代岳の指定廃棄物最終処分場候補地への立ち入り調査に連日やって来るのだが、そのたびに「加美町・放射性廃棄物最終処分場建設に断固反対する会」の人たちが中心となって阻止しているという報告もあった。一番丁まで。(2015/10/9 18:36) 一番町を広瀬通りまで。(2015/10/9 18:39~41) デモは肴町公園の南西口から出て東西に走る小路を東に向かい、国分町通りを越えて一番町に出る。 一番町を北に歩いて広瀬通りを西に折れるので、一番町はあっという間に通り過ぎてしまう。今日のコーラー。(2015/10/9 18:38、43) 広瀬通りを西へ。 (2015/10/9 18:42~48) 広瀬通りを左折して西に向かうと、「稲荷小路」や「国分町」の飲食店街の南端を掠めていく。時間が早いので、酔客と呼べるような人はまだいない。 それでも、明るく輝くそれぞれの店は忙しくなりかけているのだろうと、稲荷小路にも国分町にも縁がなくなった老人は想像するのだが、思い浮かぶのは5、6人しか入れない小さな飲み屋が並ぶ50年前の路地のことで、再開発で今はその路地すらないのである。晩翠通りから青葉通りへ。(2015/10/9 18:56)青葉通り(晩翠草堂前)。(2015/10/9 18:57) 甲状腺癌の発生率が国内平均の20~50倍も高いとする津田敏秀先生の論文には、予想通り、原発を推進したい学者からの批判(非難?)が上がっている(日刊ゲンダイのニュースから)。面白いと思ったのは批判する言辞のなかに「時期尚早」という言葉があったことだ。 「時期尚早」とは事を為すのは早すぎるという意味だ。つまり、もう少し後ならやっても良いということである。もう少し後に発表すれば津田論文は正しいのだということを、批判者は言っていることになる。これは、福島で甲状腺癌が多発するのは将来的には避けられないという告白(自白)に等しい。 科学的な真理は時空を超える。時間や場所で真になったり偽になったりはしない。「時期尚早」などという人間くさい(政治がかった)戦術や策略とは無縁のはずである。ここにも、福島をめぐる放射線被曝の問題が、科学的、医学的にではなく、政治的に語られている空気が漂っている。 青葉通り(東二番丁交差点)。(2015/10/9 19:00) 一番町を出てからは、広瀬通り、晩翠通り、青葉通りと市中心部の主要な通りを廻るのだが、短かった一番町を出てしまうとどの大通りも薄暗く感じてしまう。いや、じっさいに暗いのだ。その証拠に撮した写真のかなりの枚数が使えないのである。 以前のデモではコンパクトデジカメで撮していたのだが、夜デモになるとほとんどの写真が使い物にならない。用途に応じて3台のデジカメを持っていて、そのどれを使ってもよく写らないので、妻に泣きついて今の1眼レフを購入したのだった。 写真の出来は画然と良くなったのだが、それでも暗さが増すとどうにもならない場合がある。残されているのは、私のカメラ技術を磨くことだけだが、それだけはなんとも……
2015.10.09
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9月27日の月一回の日曜昼デモは、3日ほど続いた熱が下がりきらぬままに参加した。体を動かしたせいか、すっきりした気分でデモから帰ってきた。翌日も快調のまま普通に1日を過ごして、夕方、イオとの散歩に出かけた。 イオは、家の周囲300メートルほど歩いてだけで動かなくなってしまった。行くでも帰るでもないので、駆けっこのまねをして家に連れ帰った。向こう見ずというか、年寄りの冷や水というか、15歳になってもイオは駆けっこになると興奮して走るのである(飼い主に似たのだ、と妻は言うが……)。 往復で600メートルにもならない散歩から帰ってきたら、急に熱っぽくなってきた。その月曜の夕方から木曜の夜まで、ふたたび寝付いてしまった。 ところが、金曜の朝になったら、なんとなく熱が下がった気分である。いつものように、ごく普通にデモに出かけるのである。集会@勾当台公園野外音楽堂。(2015/10/2 18:30)フリー・トーク。(2015/10/2 18:10~27) 10月に入って、集会とデモは冬時間になる。30分繰り上がって、午後6時から集会、6時30分からデモとなる。30分早くなったのに、すっかり暗くなった公園で集会が始まった。 150回目となる金デモの集会は、主催者の川内原発1号機に続いて2号機も再稼働するらしいという報告から始まった。その挨拶は、「向こうが止めないかぎり、こちらも止めない。みなさん、これからも頑張りましょう」と締め括られた。 フリー・スピーチの始めにいくつかの告知が行なわれた。(1) 10月3日午後4時からみやぎ生協太子堂店で長町アークス町内会主催の「原子力発電のことをもっと知ろう 事故が起きたらまず何をしたらいいの?」という学習会が篠原弘典さんを講師に迎えて開かれる。(2) 10月4日午後3時からは、仙台市黒松市民センターで「辺野古に基地を作らせない沖縄連帯10・4仙台集会」が開かれる。(3) 東北文化学園大学ではとして後期学期の水曜日5時限(16:40~18:10)に特別講座「震災復興と原発問題」が開かれる。原発や再生エネルギーなどについて特別講師を招いての講義で、一般の聴講者にも開放されている。講義は、1号館2階1257教室で行なわれる。 続いて、山形県は2015年度、再生可能エネルギーを活用した発電事業者から電力を買い取り、一般家庭や公共施設に供給する新会社「山形県新電力」(仮称)を設立するというニュースが紹介された。16年4月の電力小売りの全面自由化を視野に入れた都道府県レベルでのこのような会社設立は全国で初めてで、電力自由化が脱原発の推進力となることが期待されている。 また、原発を推進する電力会社を金融機関が支えているが、唯一そのような企業に融資を行なわない金融機関として労働金庫があることが紹介された。私たちの預金が原発を推進する企業を支えることを拒否するために労金を金融機関として使うことが望ましいという話であった。 労金と言えば、現職のころ、職場の組合で労金対策委員長をけっこう長くやっていた。組合が保証人となる労金から組合員への融資の審査が主な仕事で、同僚の生活設計の役にたてる点ではやりがいもあって楽しかったが、お金が絡むので2回ほど深刻な話にもつき合わざるをえなかった。私もまた労金の融資を利用して、今住んでいる家を建てたのである。 勾当台通りを渡る。(2015/10/2 18:39)定禅寺通りを越えて一番町へ。(2015/10/2 18:46) デモが出発する段になって、声がほとんど出ないことに気付いた。コールに合わせて、声を張ろうとするとかすれて声にならない。家を出るまでは、ずっと小さな声で済んでいたのであまり気にならなかった。熱は下がったのだが、喉に後遺症が残ったようだ。 勾当台公園から一番丁に入るまでの道は、あまり明るくはない。公園の周囲はとくに暗くて、シャッターを押してはみるがほとんど使いようがない写真しか撮れない。 だから、定禅寺通りを越えて入って行く一番町は光り輝いているように見えてしまうのだが、そこは一番町のなかではあまり明るい場所とは言えない。 一番町を行く。(2015/10/2 18:47~50) いつもより参加者が多いことは集会の時から感じていたが、一番町に入ってから60人と一匹が参加していると教えられた。参加者をカウントする担当スタッフがいるのだが、仕事のこともあってデモ出発ぎりぎりに参加する人も多いので、いつもデモが一番町に入ってから参加者を数えている。いつもの元気で、賑やかに。(2015/10/2 18:48~50)一番町広瀬通り。 (2015/10/2 18:55)ぶらんどーむ一番町。(2015/10/2 18:58、19:00) 『nature』523巻7558号に「放射線業務従事者を対象とした大規模研究で、低線量放射線が白血病のリスクをわずかながら高めるという結果が」報告されたというレポートが掲載されている。 科学的な立場からはとくに驚くほどのニュースではないが、原発推進の学者の中には困ってしまう人間もいるのではないかと思う。「低線量被曝のリスクが明確に」と題する『natureダイジェスト』から抜粋、引用する。国際がん研究機関(IARC;フランス・リヨン)が組織したコンソーシアム……は、バッジ式線量計を着けて仕事をしていたフランス、米国、英国の計30万人以上の原子力産業労働者について、その死因を検証し(研究の時点で 対象者の5分の1が死亡していた)、最長で60年に及ぶ被曝記録との相関を調べた。 宇宙線やラドンによる環境放射線量は年間約2~3ミリシーベルト(mSv)で、対象となった原子力産業労働者たちは年間でこの値より平均 1.1mSvだけ多く被曝していた。今回の研究によって、被曝線量が高くなるのに比例して白血病のリスクが上昇することが裏付けられたのと同時に、極めて 低い被曝線量でもこの線形関係が成り立つことが証明された(ただし、白血病以外の血液がんについては、被曝線量の増加とともにリスクが上昇する傾向はあっ たものの、その相関は統計的に有意ではなかった)。…… 調査で得られたデータの外挿により予測した結果、被曝線量が10mSv蓄積するごとに、労働者全体の平均と比較して白血病のリスクが約3%上昇することが分かった。 ここで注意すべき点は、年間被曝量が誰もが浴びる環境放射線より平均1.1mSvしか高くない労働者の調査結果だということにある。このことは、福島の汚染地へ帰還が年間被曝20mSvを前提にすることがどれほど無謀で野蛮なことかを意味している。 アリソン・アボットという報告者は次のようにも述べている。「被曝量はどこかに閾値があって、閾値未満の低線量被曝なら無害であるに違いない」と信じる人々の希望を打ち砕くと同時に、科学者には、日常的な被曝のリスクの定量化に用いることのできる信頼できる数字が得られたといえる。 「健康被害を与える放射線量には閾値があるので、低線量被曝は問題にならない」と、非論理的かつ非倫理的に主張してきた御用学者にとって、けっこうな気付け薬にはなるだろう(薬が作用する神経があれば、ということだが)。 東二番丁通りを渡る。(2015/10/2 19:12)ダイエー前。(2015/10/2 19:13)仙都会館前。(2015/10/2 19:15) 一番町から青葉通りに出ると、夜デモであることをしみじみと実感する。それほどに明るさの落差が大きい。 地下歩道を潜ってデモの先回りをして、東二番丁通りを渡って来るデモの列を待ち受けているとき、若い人が話しかけてきた。そういえば、一番丁に入ったあたりからこの若い人を何度か見かけていて、少し不思議には思っていたのだった。 「デモに入ってと声をかけられたが、入れなくて……。それでも歩道を一緒に歩いてきた」という。「今度は最初から入ったら」と言おうとしたのだが、声がかすれてしまって、彼には聞き取れなかったようだ。歩道の上だったが、彼は最後までデモにつき合ってくれた。
2015.10.02
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