全8件 (8件中 1-8件目)
1

採択された集会アピールには「沖縄への連帯をこめて」という言葉が添えられていた。沖縄・辺野古は、日本の民主主義の闘いの最も突出した現場であり、もっとも鮮烈な象徴の場所である。 石川為丸という詩人がいる。本土で生れ、沖縄で暮らし、悲しみと憤りを言葉にした詩人だ。私が初めて手に入れることができた1冊の彼の詩集『島惑ひ 私の』は、石川為丸の最後の詩集であった。仏桑華の赤は あくまでも鮮やかに 島での悲しみはまだ、終わってはいけないとでもいうかのように 降りそそぐひかりのなかに、顕つひとが見えていたのだ 樹の宿題を残したままの島惑い 私はそのとき、どこにも属するところのない 異風な声の、なにものかによばれているようだったから 「樹の宿題」(部分) [1] 2014年11月16日の日曜日、沖縄県知事選挙の日、オール沖縄の闘いが実って翁長雄志さんが勝利した日、沖縄県民の喜びが沸騰し、新たな闘いに踏み出した日、その記念すべき日に、那覇の自宅で石川為丸はこの世を去った。沖縄の闘いに連帯し続けた64歳の孤独死だった。 沖縄は遠いが、集会のなかで石川為丸の詩の言葉を少しばかり反芻していた。錦町公園の集会が終わり、オレンジウェーブ(アピール行進)が始まって、カメラを抱えて走り出した時には詩を反芻する余裕は吹っ飛んでしまったが。 定禅寺通り、国道4号(勾当台通り)を渡る。(2015/5/31 14:13~14:26) 最後尾の「みやぎ金デモ」の列。(2015/5/31 14:26、28) 錦町公園を出発した行進は、定禅寺通りを西進して一番町に向かう。駆け足で先回りして勾当台通りで待ち構えていた。 全体がこの交差点を渡りきるのに20分近くかかった。最後のグループが通過するまで待機していたが、この長さではもう先頭に追いつくことは無理だと思えた。幸い、最後尾は金デモのグループなので、そこに入って一緒に歩き出す。 一番町、出店テントをすり抜けて。(2015/5/31 14:30、31)いつもの顔。(2015/5/31 14:32、33) 今日も元気で賑やかに。(2015/5/31 14:33、34) 一番町に入ってすぐ、三越前にはテントが張られて出店が並んでいた。デモは道の端をすり抜けて進む。あいかわらず、日曜日の一番町は祝祭のように賑わっている。蕩尽の祝祭と言ったら、すこし民俗学ふうで意味ありげに聞こえるが、ただの消費の祭りだ。沖縄の現在とどうイメージを繋げばいいのだろう。八月の園芸は 水やりが毎日の作業となる鉢植えの花木は 一日でも水やりを忘れると強烈なダメ —ジを受けることになるだから土砂降りが待たれるのだ雨乞いの祈り二ューギニアのどこそこの部族には必ず雨が降るという方法があるそうだそれは続けること 雨が降るまで祈りを続けるということ沖縄の八月空から雨の降らない日は続くけれど空から異様なものが落ちてくることがある米軍のへリコプターだ二〇〇四年八月一三日 大型輸送へリコプターCH・53D沖縄国際大学の構内に墜落今年二〇一三年八月五日 HH・60ペイブホークキャンプハンセン敷地内に墜落にもかかわらず、欠陥機の垂直離着陸輸送機オスプレイは強行配備され訓練飛行しているのだ雨乞いの祈りはそれを続ければよかったがでは米軍機の墜落を避けるにはどうすればよいか簡単だけれど難しい難しいけれど簡単なこと米軍機を飛行させないことだ沖縄の園芸家は額を上げる怒りに燃えるようなホウオウボクの花々!沖縄の八月は今日も水やり明日も水やりつづけることだ 「八月の園芸家」(部分) [2]アピールさまざま。(2015/5/31 14:23~44)青葉通り、国道4号を渡る。(2015/5/31 14:48)最後尾を守った脱原発カー。(2015/5/31 14:52) 一番町を広瀬通りまでシュプレッヒコールに声を合わせて歩いたが、もしかしたら先頭に追いつけるのではないかと、列を離れ、広瀬通りから東二番丁通りを通って青葉通りまで走ってみたが、まったく間に合わなかった。 息を整え終わる頃に、最後部の金デモグループが東二番丁通り(国道4号)を渡ってきた。一番最後を、いつもはデモの先頭を行く脱原発カーがやって来る。ここを渡りきれば、まもなく解散地点である。発芽抑制物質をとばす方法を 内地の人に教えたうえで園芸家はガジュマルの種子を配布する受けとった諸君は播種して七日めにはとても小さな双葉を発見するだろう生まれたものの弱々しさと生きようとする意志の不敵なひらめきを諸君は見るだろうそして そのとき 諸君の耳にはてしなくつづく芽の行進のどよめきがかすかにきこえるだろうそう 沖縄の地から発せられる 芽の行進のどよめきが 「四月の園芸家」(部分) [3] 私たちのアピール行進は、「沖縄の地から発せられる芽の行進」に連なっているだろうか。私たちのコールは、「芽の行進のどよめき」を伝えることができただろうか。 連なっていると思いたいし、伝えることができたと信じたい。たとえ、そうでなくても、「今日も水やり/明日も水やり/つづけることだ」。それはきっとできる。 [1] 石川為丸(石川為丸遺稿詩集刊行委員会編)『島惑ひ 私の』(榕樹書林、2015年) pp. 8-9。[2] 同上、pp. 97-9。[3] 同上、pp. 110-1。
2015.05.31
コメント(6)

「脱原発みやぎ金曜デモ」は、月に一度だけ最後の日曜日に昼デモを行っているが、今月は「未来を開く5.31宮城県民集会」に合流しての行動となった。 この県民集会は、「守りたい! いのち くらし ふるさとそして平和」が主題で、錦町公園に1800人が集まった。 集会風景(錦町公園)。(2015/5/31 12:15~13:25) 12時の集会開始の少し前に錦町公園に着いた。いつも南西口から公園に出入りする人はほとんどいない。そのせいか、チラシを配る人もいない。広場のまわりを囲むようにテントが張られていて、南西口からの鋪道の先にあった「金デモ」のブースにはデモ常連のご夫婦が待機していて、そこでプログラムなどひとまとまりのチラシをもらった。「みやぎ金デモ」のブース。(2015/5/31 12:01) 会場の中で。(2015/5/31 12:37~13:13) 会場を回ってみると、かつて私も所属していた職場の組合旗を持つ人がいたが、もう見知った顔はいないようだ。また、6月20日(土) 10:00から泉病院友の会ホール、13:00から長命ヶ丘市民センターで再々上映される「日本の原発」の宣伝をしている顔見知りもいる。 木陰には、二匹の犬も待機している。集会のシンボルカラーはオレンジなので、それぞれマフラーを巻いての参加である。集会後、若い犬はお母さんと一緒にアピール行進に出発したが、12歳になるという犬はお父さんと行進を見送っていた。サトロさんと岸さん。(2015/5/31 12:04)憲法寸劇(みやぎ青年九条の会)。(2015/5/31 12:13)「みやぎ☆割烹着~ず」。(2015/5/31 12:26) セッション1はライブで、正午の数分前にシンガーソングライターの苫米地サトロさんが自ら開始宣言をして、「ラッキー・ドラゴン」を歌い出した。ビキニ環礁で被爆した第5福竜丸を詠った反核ソングである。 次に登場したのは、みやぎ青年九条の会KIRAKIRA☆9の若い人たちで、学校のクラスを舞台にした憲法についての寸劇を演じた。 3番目は、みやぎ☆割烹着~ずのパフォーマンスは、「ラブ・ミー・テンダー」の替え歌を歌って、踊るというものだ。忌野清志郎が「ラブ・ミー・テンダー」を「何言ってんだ~ ふざけんじゃね~ 核なんていらね~」と歌い出す反原発ソング「放射能はいらねえ!」という歌に替えたものを、さらに「割烹着―ず」という沖縄の若いお母さんたちのグループがダンス付きにバージョンアップしたものだ。 最後にカンパ要請があって、今回のカンパ全額は沖縄・辺野古に送られるという。主催者(後藤東陽さん)、菅原文子さん、大久保康裕さん。(2015/5/31 12:36~12:54) セッション2が集会のメインで、主催者挨拶に始まり、メインゲストの菅原文子さん(故菅原文太さんの奥様)と沖縄平和委員会事務局長の大久保康裕さんのスピーチが続いた。 菅原さんのスピーチも大久保さんのスピーチも、動画撮影をした「市民アクションメディア仙台」がネットにアップしているので、ここで紹介するまでもないのだが、菅原文子さんが言われた「今までの10年とこれからの1年はまったく意味が違う」という言葉がとても印象的だった。 いま、国会では戦争法案の審議が行われていて、1年と言わず1ヶ月という単位の重大な時期を迎えている。国会審議とはいうものの、議論はまったくかみ合っていない。姜尚中さんがテレビで「自公政権としては消化試合なので、議論する気はまったくないのだ」という意味のことを話されていた。時間を稼いで、時期が来れば多数で押し切ろうということだ。 また、ある評論家が「戦争法案の中身を知っているのは、自民党に一人、公明党に一人、あとは数人の官僚だけだ」という意味のことを言ったとどこかに書いてあった。真偽のほどは確かめようもないが、中谷防衛相や岸田外務相の矛盾だらけのトンチンカンな答弁を聞いていると、戦争法案の意味をまったく理解していないというのはきわめてもっともらしいと思える。 最近、政治における反知性主義についての言説が多く見られるが、安倍や中谷や岸田は反知性主義者などではなくて、非知性主義、主義と言うほどではないので「非知性」ないしは「無知性」なのではないかと思えるのである。つまり、反知性主義によって操られる「無知性」が表舞台で見せている言動が、今の国会の状況ではないかと考えると私なりによく理解できる気がするのである。 白井聡さんが首相補佐官の磯崎陽輔参議院議員の「立憲主義なんて聞いたことがない」という発言を取り上げたうえで、東京大学法学部を卒業している磯崎を次のように評している。 学歴者は一般に、少なくとも知性のある部分は発達している。いわゆる頭の回転の速さや知識量は標準レベルを超えており、またそれらを鍛える機会にも相対的に恵まれているだろう。礒崎にしても、彼が「立憲主義」という言葉を見たことも聞いたこともなかった(そのような機会に恵まれなかった)ということは、まず考えられない。だから、礒崎がこうした発言によって曝け出したのは、「自分が興味がなく知らないことは知るに値しない」という精神態度にほかならない。己の知の限定性を知る(ソクラテスの無知の知)ことこそが知的態度の原型だとすれば、この態度は知的態度の対極に位置するものとみなしうる。 [1] 磯崎に反知性主義の典型を見るのだが、彼の言動から直ちに思い浮かぶのは、国家公務員総合職試験をパスしたキャリア官僚のことである。もちろん、自公ばかりではなく野党の多くにも反知性主義は蔓延しているだろうが、彼らこそが日本の政治における反知性主義の根幹ではないのか。 いわば、官僚の反知性主義に操られる自公政権の「無知性」が猛威を振るっているのだと、私には思えるのだ。社会からの批判は「無知性」の政治家に殺到しても背後の官僚には届かない構図だ。無知性であるがゆえに政治家に対するどんな批判も実を結ばない。ナントカに説法である。 だとすれば、最終的に闘うべき相手は行政官僚である。しかし、彼らは、彼らの政治(行政支配)を貫徹するためには、社会システム上、政治家という手段を用いるしか方法はないのである。結局は、日本の反知性主義の手足を奪うという意味で自公政府を倒すことは有効であるだろう。新しく立ち上がった政権が自公政権と同様に官僚に操られる「無知性」なら、ふたたびそれを倒すしかない。 なお、会場で配られたチラシの中に白井聡さんの後援会の案内があった。「「永続敗戦」から考える戦後日本の核心と未来」と題して、7月9日(木)18:30から仙台弁護士会館4階で開催される。主催は東北女性弁護士9条の会である。 政府が次々に繰り出す非民主的、反歴史的な施策によって私たちの危機感がいっそう募っている状況下で、この集会で訴えるべきイッシュウはじつにたくさんあって、この後、つぎつぎステージで訴えられるテーマは多岐にわたったのである。脱原発のアピール。(2015/5/31 13:20~13:39)「ええじゃないか」コール。(2015/5/31 13:40) リレートークでは、教科書問題、食と農業の問題、消費税問題、秘密保護法、戦争法制、地域医療・介護などのテーマが取り上げられた。原発関連では、まず指定廃棄物最終処分場の反対を強く訴えるスピーチ、女川原発再稼働に反対するスピーチがなされた。 次いで金デモの脱原発運動について話したときには、金デモグループがステージの上下に陣取って、いつもデモでやっている「原発なくても ええじゃないか」コールを賑やかに披露した。アピール行進のコールの練習。(2015/5/31 14:01)待機中の金デモのグループ。(2015/5/31 14:06) 「憲法九条を守り抜く」決意を表明する最後のトークの後に、「集会アピール」が読み上げられ、採択された。 「オレンジウェーブ」と名付けられたアピール行進の準備が始まると、金デモのグループが中心となってコールの練習が始まった。その金デモグループは、このような集会ではたいてい行進の先頭に立つのだが、今日は最後尾を受け持つことになっている。早々とデモの準備ができあがった金デモグループが、一番最後まで待っていたのだ。 [1] 白井聡「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)p. 68。
2015.05.31
コメント(8)

気が付いたら7時15分前である。慌ててホテルを飛び出した。 午後3時に会議は終わり、急いでホテルにチェックインして、6時頃までに宿題を終わらせようとパソコンを開いたのが徒になるもとだった。宿題といっても自分で自分に課したものだから、いくら遅れても誰も困らないのだが、終りが見えだしたので少し夢中になってしまった。 「首相官邸前抗議」は午後6時30分から8時までだというのに、官邸前に到着したときはもう7時30分だった。東京で反原発デモに参加できる機会は滅多にない。わざわざそのためにホテル泊にしたというのに、なさけない。首相官邸前到着。 (2015/5/22 19:33)昨年の明治公園以来の再会。 (2015/5/22 19:35) 官邸前の抗議列のできるだけ前の方に行こうと国会議事堂横の緩やかな坂道を急いだ。抗議の列は国会記者会館の車の出入り口で途切れていて、その向かうが先頭のグループで、そこまで行こうと考えていたが、第2グループの先頭に目良誠二郎さんを見つけた。 目良さんは、高校の社会科の先生だった方で、『非暴力で平和をもとめる人たち (平和と戦争の絵本 4)』 の著者でもあり、フェイスブック上でも社会問題、政治問題について積極的に発言されている。それで、私からFB友のお願いをしたのである。 つい最近、目良さんの奥様が交通事故に遭われたというのでとても心配していた。かなりの重症で自宅療養中だということだが、米良さん自身は今日の金官デモに参加すると表明されていたので、お会いできることを期待していたのである。その怪我をされ奥様は、ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』の翻訳者の一人である幾島幸子さんである。 昨年の6月28日に『さようなら原発 首都大行進』というイベントがあって、雨が降る明治公園で初めて米良さんにお会いし、そのとき金官デモのお仲間を何人も紹介していただいた。今日も見覚えのあるお顔が何人か参加しておられた。その場で、むとうちずるさんに憲法9条タグも頂いた。私のザックに下げていた「NO NUKES FRAGILE TAG」も彼女たちのオリジナルである。とても活動的で元気なグループなのだ。憲法9条タグを頂いた。先頭グループの最後方。 (2015/5/22 19:37) 続く抗議の列。 (2015/5/22 19:37)抗議の列の最後方。 (2015/5/22 19:38)「おやすみ、原発」と歌っていた。 (2015/5/22 19:411) 抗議列の先頭近くで、しばらくは声を上げるというのが当初の予定だったのだが、いかんせん大幅に遅刻してしまった。国会正門前の集まりも見ておきたかったので、挨拶も早々に国会正門前へ急いだ。 抗議の列を横目に、先ほど歩いてきた道を下っていった。列が途切れるようになると、さまざまなパフォーマンスで抗議をしている人たちがいる。デモのように移動しない定点行動なので、いろんなやり方で意思表示ができるのがいい。デモが多量性の価値なら、こちらは多様性の価値と言えそうだ。 一人で太鼓と読経で抗議している人もいる。大きな絵を何枚も並べて意思表示をしている人もいる。国会正門へ曲る交差点の角では、一組の男女が優しげな声で「おやすみ、原発」と歌っていた。打楽器で踊り続ける。 (2015/5/22 19:48) 願いが集まって。 (2015/5/22 19:44)国会正門前「希望のエリア」。 (2015/5/22 19:46) 国会正門前に近づくと、大きな行灯(ぼんぼり?)を囲んでタンバリンや小太鼓などの打楽器を演奏しながら無言で踊っているグループがいた。 さらに進むと、歩道脇の低い石垣の上に小さな灯籠(キャンドルライト?)がたくさん並べられていた。いろんな言葉によって、多くの人の願いや希望、祈りがここに集められて、光を揺るがせている。 正門前ではスピーチが行われていて、遠目で断言しにくいが、私が着いたときにスピーチを終えたのはミサオ・レッドウルフさんのようだった。ここで少しばかり声を上げて。 (2015/5/22 19:54)午後8時、解散。 (2015/5/22 20:00) もう、時間がない。正門前でのスピーチをじっくり聞くこともなく、官邸前に急いで引き返した。抗議列の途中に入り、少しばかりコールに声を合わせた。官邸前ということもあって、仙台での金デモとはコールの言葉がちがう。「原発ヤメロ。アベもヤメロ。原発もろともオマエもヤメロ」というコールは、官邸前だから意味がある。直截に「オマエ」と言えるのはここしかない。 まもなく抗議行動終了の8時になるので、目良さんたちに挨拶をしようとさらに前に進んでいったら、行動終了のアナウンスがあって、きっかり8時に解散である。なんとか挨拶ができて、写真を撮りあってお別れをした。 「仙台も頑張っておられますね。」と目良さんが言い、「いや、人数が減って、なかなか戻りませんね。」、「こちらもですよ。」というやりとりをした。 民主党政権のときは、大飯原発の再稼働を決めたりしたものの、いずれ原発ゼロを標榜していたので、反原発も勢いがあったが、安倍自公政権になってからは原発を止める気がないことが明らかになったので、一挙に長期戦の様相を帯びてきた。 闘いや運動が長引けば、人が減ったり増えたりするのは当然のことだ。それでもコアの人たちが状況の変化に耐えて行動を続けていれば、また多くの人が参加する機会の受け皿になることができる。「続けることが大事ですよ。」と目良さんはあっさりと言われた。 仙台の金デモであれ、官邸前抗議であれ、ここにこうやって集まって声を上げている人たちを私のこの目で眺めることが、私自身の心の活性化に、あるいは精神の気付け薬としてとても有効だということだけは実感することができる。
2015.05.22
コメント(8)

【続き】Photo K 船形連峰の峰々。 (2015/5/18 10:13) 北泉ヶ岳に向かう道が下りはじめる直前から船形連峰がきれいに望める。すぐ手前の北泉ヶ岳の向こう、1番奥が船形山本山である。その左手前に三峰山、その左肩に蛇ヶ岳、左に大きな山容を見せているのが後白髪山だ。 どれも馴染みの山々で、雪がもっと少なくなったら登ってみたいのだが、それも体力があればの話である。Photo L 賽の河原(上にケルン積みの人が)。 (2015/5/18 10:27) いつもは上りに使う水神コースを、今日は下りに使う。頂上から下り始めて間もなく賽の河原というところで、見返平であって話をしたご老人がケルン用の石を抱えて運んでいた。そこには半分まで積み上がったケルンがある。 賽の河原まで下りながら、また少し話をうかがって、最後に写真を撮らせてもらった。ネットに公開する承諾をもらい忘れたので、遠くの後ろ姿の写真になった。 Photo M 立派に仕上がったケルン。 (2015/5/18 10:31)Photo N 賽の河原下部からの眺望。 (2015/5/18 10:31) Photo Mのケルンは、「写真に撮るならこれ!」とその人が案内してくれた完成したばかりのものだ。石を重ね、途中から赤いポールを立ててある。Photo Lに写っているケルンのポールは昨冬に折れてしまって、これから積み直しをするらしい。この石積みの目印は、賽の河原の下部まで10m置きくらいに建てられている。Photo O 小さな登山犬。 (2015/5/18 10:42) 賽の河原を過ぎて、大石の急斜面を下って行くと、プードルを連れて登ってくるご婦人と出会った。この犬の何倍もの高さの段差が続くような急斜面を登ってきたはずなのに、とても元気にはしゃいでいる。「ときどき抱っこしましたからね」と飼い主さんが笑う。 しばし、犬と山についての立ち話が弾んだ。私は、先代犬ホシの最初の登山での水やりの失敗話をした。犬は水の飲みだめがきかないので注意しなければ、という話を最後にお別れした。Photo P 水神の分岐(右:泉ヶ岳頂上へ、左:北泉ヶ岳へ)。 (2015/5/18 10:31) 急な下りが続く。筋肉の負担はぐっと減って息が上がることもないが、今度は膝の心配である。膝を軽く曲げた状態にして、なるべく筋肉で体を支えるようにして歩く。それに今日はストックを2本使って両手でも体を支えるようにしたので、けっこう楽に降りられる。 一挙に水神まで下るとだんだん登山客が多くなってくる。水神の石碑の後では1歳ほどの赤ちゃんを連れたご夫婦が休んでいる。Photo Q1,2 水神コースの道。 (2015/5/18 11:15、29) 水神を過ぎると、次々と登ってくる登山者に出会う。水神コースを上りに使う人が多いのだ。水神までは比較的緩やかな上りが続くので、その間にアドレナリンが出て体が登山用に順応するのである。 急坂もないので、膝の心配もなく歩ける。途中でストックを畳んでザックに立て、いつものスタイルで歩き出す。両手が自由になるこのスタイルが好きだ。初めてストックを使ったとき、疲れ方が変だと心配になったことがあった。両手が仕事をするので、いつもはあまり疲れない上半身も疲れたのだった。Photo R 水神コース入口。 (2015/5/18 11:40) 木漏れ日の山道、しかも軽い下り道を歩くのは楽しいが、楽しみはあっという間である。水神コース入口(出口)を出れば、しばらくは日射しの強いアスファルト道を歩かねばならない。 あまり快適ではないアスファルト道は、泉ヶ岳山麓にあるおいしい蕎麦屋さんの蕎麦だけを考えて歩いた。ちなみにその蕎麦屋さんで食べたのは月山の湧き水に3週間晒したという「寒ざらし蕎麦」のもりそば(1300円)である。この店は、2年前までは良く通っていたのだが、「寒ざらし蕎麦」というのは初めてである。まったく、言うことなしだった。少しばかり気が引けたので「持ち帰り蕎麦」をおみやげに買って帰った。 「泉ヶ岳山歩きMAP」(泉区役所発行のパンフレットから)。A~Rは写真撮影ポイント。
2015.05.18
コメント(4)

一昨年の8月に仙台神室岳の仙人沢ルートを往復して以来の山歩きだ。神室岳から下山したとき、一緒に登ったイオの後肢が弱っていることに気付いて、本人の承諾を得たわけではないが、登山からは引退させた。13年間ずっと山歩きの相棒だったイオが山に行けなくなると、私もその気が失せてしまって、昨年は一度も登山はしなかった。 私にしても、登山から引退する年齢に不足はないのだが、犬は人間の4倍の早さで年齢を重ねていくから、イオに歩調を合わせて老いていくことはできないのだ。それぞれはそれぞれの固有の時間を生きるしかない。私は私でもう少しじたばたしてみようと、やっと山に出かける気になったのである。 いつもより1時間早くイオとの朝散歩を終わらせ、イオの朝食を用意して、イオが私を気にしなくなってから家を出た。イオに追いかけられたら挫けてしまう気がして、ザックなどの山用具は前もって車に積んでおいた。 Photo A 滑降コースの入口。 (2015/5/18 7:21) 泉ヶ岳スキー場の前の大駐車場にはすでに二台駐車していて、登山道の方に歩いて行く人も見えた。車から出ると、小さな羽虫が群がってきて、防虫スプレーを準備していなかったことに気付いた。 イオが山に入るとダニが取り付くので、あらかじめノミ、ダニ用の滴下薬を定期的に使用した上で、山に入る直前には防虫スプレーを散布する必要があった。そのついでに人間用の防虫スプレーもしていたのだが、イオがいないせいで、虫対策は完全に抜けてしまっていた。 少年自然の家に向かうアスファルト道をできるだけゆっくり歩き出す。極力体力の消耗を減らしたい。今日の一つの目的は自分の体力の程度を知ることで、「ダメなら途中で帰ってくる」と妻に言い置いてきたが、本心はいくら時間がかかっても頂上まで行くことに決めていたのだ。 今日登る予定だった滑降コースの入口がなくなっている。少年自然の家の敷地内を通っていたのだが、案内表示がなくなっているばかりではなく、立ち入り禁止表示が出ている。場合によっては水神コースへの変更をやむをえないと、そのまま進むと、道脇に滑降コース入口の表示が現われた。少年自然の家の施設を迂回するように道を切り替えたらしい。Photo B ヤマツツジの道。 (2015/5/18 7:25) 雑木林の道は、ガイドなのか規制なのか分からないが、入口からしばらくの間は左右にトラロープが張られていた。細いトラロープに過ぎないのだが、山を歩く開放感がけっこう削がれてしまうのだった。 トラロープがなくなる頃からようやく道脇のヤマツツジを楽しめるようになった(登山道で見つけた花の写真は別のブログにまとめてある)。Photo C カラマツ林。 (2015/5/18 7:42) 小さな沢を渡り、斜面を上がるとカラマツの林である。雑木林と違って林内を見通すことができるので、気分がいい。Photo D しばらくは平坦な道。 (2015/5/18 8:05) 緩やかなカラマツ林の道が雑木林にかわり、短い急斜面を上がるとフラットな歩きやすい道になる。このあたりは、水神平からスキー場上部の兎平につづく台地状の地形のまんなか辺りに位置している。Photo E お別れ峠。 (2015/5/18 8:16) 歩きやすい道はお別れ峠という五叉路に出る。ここから水神コースやかもしかコースの途中へ行くことができるし、兎平にも行ける。この三つの登山コースはいったん同じ台地の西端、中央、東端を通るということである。 Photo F1(上) 目の前に泉ヶ岳の山容。(2013/5/18 8:31)Photo F2(下) 見返平から見る泉ヶ岳。(2013/5/18 9:43) お別れ峠から短い急斜面が始まる。このあたりから山を登ってるという実感が否応なく湧いてくる。短いとはいえ急な斜面で息が切れだした頃、フラットな道が現われ、目の前に泉ヶ岳の全容が開ける。 山頂まで行くには5つのコースがあるが、登山道から泉ヶ岳の山容を眺められるのは、ここから見返平までではないかと思う。私の好きな場所の一つだ。 そこからもう一段上がったところが見返平で、泉ヶ岳の山頂がもう少し近づくし、背後には仙台市西部の眺望が開ける。残念ながら、今日は晴天なのだが遠くは霞んでしまっている。 見返平の道標がある小さな広場で朝食とした。食事が終わって片付けているところに、一人のお年寄りが上がってきてなにやらメモを取っている。私よりだいぶ年上のように見えるが、息を切らしている様子がまったくない。 話をしたら、週2回は登っているという。「いや、頂上に行くわけではないんですよ」と言う。冬山登山のための目印のケルンの石積みに通っているのだという。「登山道の石を積むわけにはいかないので、ブッシュの中から担ぎ上げなければならないんでね」と笑って、先行して登って行った。Photo G1,2 ゴロタ石の急斜面。 (2015/5/18 9:11、16)Photo H1,2 大壁の上にも大石の急斜面。(2015/5/18 9:26、44) 標高550mほどの滑降コースの入口付近では満開だったヤマツツジが、920mの兎平ではまだほとんど蕾のままだった。 兎平からからは急斜面が続くので、花を眺めながらできるだけゆっくりと進もうと思ったのだが、それほど花は多くない。はじめに見つけたのはオオカメノキの終わりかけの白い花だった。 そこから少し上るとシロヤシオの花が咲いていた。標高が1000mを超えた付近からシロヤシオの木が目につくようになった。登山道入口付近では満開だったヤマツツジは、この高さではまだ蕾のままだった。 足元にはシラネアオイが咲いている。シラネアオイはもっと低いところにもたくさんあるはずで、私の庭のものはもうだいぶ前に咲き終わっている。 大壁に辿り着いた頃には、花を見る余裕はあまりなくなっている。大壁からさらにゴロタ石の急坂は続く。まったくスピードは上がらないが、そのぶん息切れも激しくならない。心肺機能に大きな負荷をかけられるほどの筋力が私の脚にはないのである。Photo I 「かもしかコース」との出会い。 (2015/5/18 9:52) 何とか急坂をクリアすれば、かもしかコースとの出会いだ。かもしかコースから登ってきた人が上を行く。多少の坂は残っているが、ここからは灌木も低くなって、頂上台地と呼んでもいいくらいだ。Photo J 泉ヶ岳山頂。 (2015/5/18 10:04) 頂上に着くが、誰もいない。見晴らしのいい頂上尾根の北端へ行ったのだろうと、私も頂上標を過ぎて北尾根に向かう。「泉ヶ岳山歩きMAP」(泉区役所発行のパンフレットから)。A~Rは写真撮影ポイント。【続く】
2015.05.18
コメント(8)

5月に入って晴天が続いた。鉢植えの植え替え、花苗の植え付けで忙しかったが毎日の水やりも気が抜けなかった。先日の台風の影響で夜分に雨が降るというので、その日の朝も翌朝も水やりを控えたのだが、ほんの地表面を濡らしただけの雨だったらしく、かえって水不足にしてしまった。雨なんかあてにしてはいけないのである。 今日あたりから天気が崩れるというので、家を出る前に予報を確認したら、だいぶ夜が更けてから一時的に小雨が降るという。安心して家を出たのだが、5分ほど歩くと、嫌な風が吹き出した。降りそうな気配がありありなので、家に戻って折畳み傘をザックに放り込んだ。肴町公園、集会の始まり。(2015/5/15 18:38)肴町公園、雨が降り出した。(2015/5/15 18:56) 少しばかり遅刻をして肴町公園に着いたら、ハンドマイク、トラメガ、デモグッズ一切合切を積み込んだ脱原発カーがまだ到着していなくて、肉声だけの集会が始まったところだった。フリー・トーク中。(2015/5/15 18:41~47)今日も元気、チョモランマさん。(2015/5/15 18:49) 主催者の挨拶の後、フリートークが始まった。大声を張り上げて二人目のスピーチが終わった頃に、脱原発カーが到着して、その後の人はマイクを通して話すことができた。 最初の告知は先週と同じく、「フォーラム仙台」で上映されている鎌仲ひとみ監督の映画『小さき声のカノン〜選択する人々』が好評のため、5月29日まで延長上映されることになったということ、上映時間が16:20からと変更されたこと、さらに21日の上映後に元仙台日赤病院内科医の岡山博さんの講演があるということだった。岡山先生は、子どもの内部被ばくの問題などで積極的に活動されているお医者さんである。 女川原発再稼働反対と原発政策からの撤退を求める12,253人分の署名を宮城県に提出したという報告もあった。これで、反対署名は120,684筆に達したという。 『日本の原発』上映の告知もあった。5月24日(日)の仙台メディアテークでの上映会のほかに、新たに6月20日(土)に10:00から泉病院友の会ホール、13:00から長命ヶ丘市民センターで上映されることになったということだ。 告知はもう一つあって、「これからの原発問題を考える」と題する東北大学の長谷川公一教授の講演会が6月13日(土)18:30から仙台市戦災復興記念館4階第1会議室で開催されるということだった。 最後のスピーチでは、東北電力が女川第2原発の機器点検で存在しない機器を点検したという虚偽報告をして、安全点検そのものをやっていないのではないかという疑念が湧かざるをえない報道があったが、第1、第3原発でも同様の虚偽報告がなされていたということや、それに対する規制委員会や宮城県の「女川原発の安全性に関する検討会」のいい加減な対応への批判がなされた。 集会が始まって、ほどなくして雨が降り出した。予報よりははるかに早い降り出しである。庭の草木は喜んでいるだろうが、私はカメラが心配で早々に傘を広げた。3月末から4月初めにかけて、何回か雨にたたられたデモがあったが、その後はずっと好天に恵まれていた。雨が降るも降らないも、確率としてはこんなものだろうと諦めるしかない。肴町公園を出発。(2015/5/15 17:02) 一番町に入って。(2015/5/15 17:07)コーラーの二人。(2015/5/15 17:09) 肴町公園を出発して、細い道を東進して日本銀行仙台支店の裏を過ぎて一番町に入る。いつもとは逆に一番町を北進して広瀬通りまで進む。このコースでは、一番町はあっという間に歩き終わって、広瀬通りを左折する。一番町から広瀬通りへ左折。(2015/5/15 17:10)広瀬通りから晩翠通りへ左折。(2015/5/15 17:10)青葉通り交差点手前(晩翠通り)。(2015/5/15 17:23) デモは左折を繰り返して進む。一番町から左折して広瀬通りを西に向かって歩き、晩翠通りに出たら左折して青葉通りまで歩く。青葉通りも左折して、後はまっすぐ解散地点まで仙台駅方向に向かって歩くのである。青葉通り(晩翠草堂前付近)。(2015/5/15 17:26)青葉通り、一番町を越えて藤崎デパート前を行く。(2015/5/15 17:30)青葉通り、東二番丁通り(国道4号)を渡る。(2015/5/15 17:36) 青葉通り曲った頃から雨足が強まった。デモの列の前に出るために、カメラを前抱きにして傘を低くして縮こまるような姿勢で歩道を歩きながら、ふと人間性善説とか性悪説などという言葉が頭をよぎった。 集会のスピーチを聞きながら、極めつきの悲惨な結果をもたらした福島の原発事故の後でも、原発の安全点検結果をでっち上げて恬然として恥じない東北電力の反倫理的な企業行動の悪辣さに腹を立てていたせいであろう。 しかし、性善説とか性悪説で人間を考えるというのはあまりにも単純で愚かである。東北電力の人間が集団的に性悪説で説明できる人間たちであるわけがない。いわば、日本の社会に特徴的な「立場主義」のもたらす結果だろう。企業の人間は、いつのまにか「企業の論理」を「個人の倫理」としてしまう。自らが生きるために拠って立つべき論理と企業の論理をすり替えてしまうのである。そこには「個人の責任」という視点が欠落する。 思えば遠く、日本の近代は未完のまま出発し、日本人の精神はときとして中世に行きつ戻りつしながら彷徨っているようだ。「近代の自我」が未発達のまま現代を生きているのだと思う。「法を遵守し、個の責任を自覚し、社会に参画する」と言えば、多くの日本人は大いに賛同するだろうが、実際にはそれを実行できるだけの精神・思想的な基盤がない。 「近代の自我」の問題が端的に表れているのは、第二次世界大戦の戦後処理としての責任の取り方だろう。日本では、全員に責任があるという言い方で誤魔化して、誰一人自ら進んで責任を取ろうとはしなかった。それどころか、戦勝国によって戦争犯罪者として処罰された人間を国家神殿とまがうような手段で顕彰している。挙げ句の果てに、安陪自公政権が誕生したこのごろでは、どんなささやかな事柄においても日本は間違っていなかったと言って憚らない人間がたくさん公的な場に登場している有様だ。 日本の現状から見れば、ドイツの戦後処理はまったく対照的だ。反対称なのである。国家として責任を果たそうとするばかりではなく、つい最近に至っても、大統領がギリシャ国民に対して「個人としても強く責任を感じる」と発言してドイツの戦争犯罪を謝罪している。政治家ばかりではない。政治家を批判する立場にある哲学者・思想家としてカール・ヤスパースは、こう述べている。われわれはドイツ人としての罪の問題を明らかにしなければならない。これはわれわれ自身の問題である。外部から来る非難をどれほど聞かされ、この非難を問題として、かつはまた自分を映す鏡としてどれほど活用するとしても、このような外部からの非難とは無関係に、ドイツ人としての問題を明らかにするのである。 [1] 近隣諸国からの非難に青筋建てて反論している日本の政治家のあれやこれ、評論家のあれやこれの顔を思い浮かべては、彼我の差、深いギャップに愕然とする(私だけではないだろうが)。自らの責任を深く考えようとする人間たちに「自虐史観」だとか「反日左翼」のような「レッテル貼り」だけで批判したつもりになっている。「われわれの罪の問題」にまったく無自覚な、典型的な前近代的な日本人像ではある。 国家であろうが企業であろうが、組織の犯罪はそこに組みする人間によって遂行される。その個人個人が自己責任を自覚し、形あるやり方で責任を負うことの積み重ねで、近代民主主義社会の正義や倫理が確立されていくのである。個人責任に盲目であったり、意識的に回避したりすることを見逃してしまう社会では、企業の正義や社会的責任はもとより、国家の正義・倫理が育ち、確立されるはずがない。 日本は、国家の一部を滅亡の危機にさらした東京電力ですらその責任が問われない社会なのである。日本には「近代」が成立していない。「未完の近代」のままである。私にはそうとしか思えないし、ずっとそう思っている。どう考えたって「後進国」なのだ。たぶん日本人にはそういう(無自覚の)自覚があるからこそ、最近、マスコミでは「日本はスゴイ」論的なことがらが多く発信されている。ほんとうにスゴイ人間は、自分はスゴイなどとチンピラやくざのようにはスゴまないものなのに、まるで虚勢を張ってキャンキャン吠えまくる臆病犬のようだ。 [1] カール・ヤスパース(橋本文夫訳)『戦争の罪を問う』(平凡社、1998年) p. 75。
2015.05.15
コメント(8)

「4月は残酷な月だ」と書いたのはT・S・エリオットだが、春は狂いそうになるほど気ぜわしいことは確かである。山を登り、野を歩き、日を浴び、風に吹かれたいという原初的な望みも強い。また、社会化された人間たちが堰を切ったようにさまざまな行事を考え出す季節でもある。人が集まる場所は好きではないのだが、そうばかりも言ってはいられない。 暖かくなっても風邪を引いてばかりいる身には、春は時間が足りない気がして、風邪なんかで時間はつぶせないと、「風邪は無視する」と粋がって見たものの、38℃の熱が出れば虚勢はけっきょく虚勢でしかなく、デモに出かける直前までまるまる2日間寝込んでしまった。 元鍛冶丁公園の集会。(2015/5/8 18:43、44) しばらくぶりの元鍛冶丁公園に日は暮れ残っていた。先週から、開始時間が30分繰り下げられたが、季節が先回りしているようだ。 これから6月にかけては、季候もいいし、日の暮れを案じることなくのんびり山歩きできるいい季節なのだが、昨年から1年半も山に出かけていない。このデモの数日後には久しぶりに山に出かけてみようと思い立っていたのだが、熱で消耗した体力の様子をうかがうために延期するしかないようだ。 今日のスピーカー。(2015/5/8 18:42~51) フリートークでは、仙台で上映中の『小さき声のカノン』が来週まで上映が延期されるという告知の後に、映画を見た人から感想が述べられた。 また、福島原発事故被害者救済を求める署名活動の取り組みの報告、署名へのお願いや、国会請願活動への取り組みの報告があった。 元鍛冶丁公園から一番町へ。(2015/5/8 19:00) デモに出発する午後7時にはすっかり夜の雰囲気で、デモが通り抜けていく飲食店街(飲み屋街)の国分町、稲荷小路はすっかりそれらしい雰囲気になっている。 カメラを構えるようになってから気づいたことだが、国分町や稲荷小路の照明は派手で明るいのだが、道を行く人々はとても暗く翳っているのである。飲食店街の照明は、街を照らすわけではなく、自らの店をアピールすることだけに使われているようなのだ。街灯が明るい一番町の照明とは役割が違うらしいのだ。 一番町に入って。(2015/5/8 19:06、08)本日のコーラー。(2015/5/8 19:06、12) 定禅寺通りと広瀬通りの間で一番町に出て、デモは一番町を広瀬通りに向かう。この時間帯の一番町広瀬通り交差点の前後は、待ち合わせの若者たちで溢れ返っている。毎週ここを通り抜けるのだが、いつも大勢の人が集まっているのだ。 私たちのデモは毎週ほとんど同じ人間たちだが、ここに集まっているこれだけの人たちの中には同じ人はほとんどいないはずだ。私たちには見慣れた風景であっても、彼らにとっては見慣れない(なかには初めて)デモを見ているに違いないのである。 そんなことを考えたら、真面目にきちんとデモをしなくては、とつい思ってしまうが、私たちはいつだって真面目にデモをしているのだ(多少の慣れはあるにせよ)。それにしても、私(たち)は、このような眼差しの非対称性を意外と無頓着に見過ごしているのかもしれない。心しておかなければと思う。私は断言する見るに値するものがあったから眼が出来たのだと 吉野弘「眼・空・恋」部分 [1] 一番町を抜ける。(2015/5/8 19:12~16) デモの最後列を抜け出して、先頭へ急ぐ。先ほどまで熱で寝込んでいたのでいくぶん辛かったが、先頭を追い越して駆けだして、さらに先、青葉通りの交差点付近で、藤崎前の緩やかな坂を下ってくるデモの列を待っていた。 デモを待つわずかな時間に、「この坂の名前は何だろう」と一瞬思った。坂の名前などないのかもしれないのに、「こんなことも知らないのは仙台が故郷ではないからなのだ」と思いこんでしまった。生まれた田舎で16年生き、それから仙台で60年も生きてきた。執着心の強さで言えば仙台なのだが、「生れ故郷」ではない。どちらが故郷でも私の心のどこにも差し障りがあるわけでもないのだが……故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく) 与謝蕪村「春風馬堤曲」(部分) [2] 青葉通りを行く。(2015/5/8 19:22、27) デモが近づいてきて、どこでシャッターを押すかタイミングを計り始めたときから「坂の名前」のことは飛んでしまった。「坂」を下りきって、青葉通りに曲れば、通りの光量は急激に落ちてしまう。やたらにシャッターを押すのは仕上がりが心許ないせいなのである。 坂といえば「この坂をのぼらざるべからず/踊りつつ攀らざるべからず」という室生犀星の有名な「坂」という詩があるが、日々の散歩や街歩きで想うことは、次のようなことだ。役人は四角の柱を立て由来を記し坂という坂はすべて由緒あり気だ幸いこの細い急な坂道には名がない朝な夕な四季おりおりにぼくはこの坂に名を付してよすがの楽しみにしている 天彦五男「名付け坂」部分 [3] [1] 『吉野弘全詩集』(青土社、2004年)p.254。[2] 『日本の古典 58 蕪村集 一茶集』(小学館、昭和58年)p.123。[3] 『天彦五男詩全集』(土曜美術社出版販売、2010年)p.176。
2015.05.08
コメント(6)

福島第一原発事故以降、低線量被曝による小児ガンのリスクは欧州でも関心を呼んでいる。こうした中、スイス・ベルン大学が2月末に発表した研究は、低線量でも線量の増加と小児ガンのリスクは正比例だとし、「低線量の環境放射線は、すべての小児ガン、中でも白血病と脳腫瘍にかかるリスクを高める可能性がある」と結論した。毎時0.25マイクロシーベルト以下といった低線量被曝を扱った研究は今でも数少なく、同研究はスイスやドイツの主要新聞に大き く取り上げられ反響を呼んだ。 このような書き出しで始まるきわめて重要なニュースが「swissinfo.ch」に掲載された。ベルン大学社会予防医学研究所のグループは、スイス全土の宇宙線と大地放射線、及びチェルノブイリ事故後のセシウム137を4平方キロメートルごとに測定してマッピングした「Raybachレポート」を用い、1990年から2008年までの小児ガン患者1782人の住んでいた場所の環境放射線による毎時の放射線量と生まれたときから調査時までに浴びた総線量の両面からガンにかかるリスクを分析した。 その結果、数値としては「生まれたときから浴びた総線量において、総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」を結果として提示した。 スイス国民が受ける環境放射線量の平均は109nSv/hr(約0.1μSv/hr)、山岳部には0.2μSv/hrを超えるところもあって、この地域差はガン発生リスクに反映されている。チェルノブイリ由来のセシウム137による被ばくは約8nSv/hr(約0.008μSv/hr)に過ぎない。 この結果は、福島の帰還区域の年間被ばくを20mSvとすることが、いかに国民の生命、健康をないがしろにする決定であるかを証明している。もちろん、100mSv(あるいは200mSvや500mSv)以下なら健康に影響がないとする「閾値仮説」がでたらめであることも証明している。いま、世界の趨勢は、発ガンや遺伝子異常は被ばく線量に正比例するという「直線閾値比例仮説」に従うようになっている。 原発推進の国々に主導される国際放射線防護委員会ですら、一般人の年間被ばく限度を1~20mSvとして各国の裁量で定めるよう勧告しているのは、「閾値仮説」を採用できないことの証左でもある。閾値が存在するなら。その値を勧告すればいいのであるが、それができないということだ。 「自然には放射能が存在しているのだから、低線量の被ばくは問題ないのだ」という俗説が流布している。文科省が作製した『小学生のための放射線副読本 ~放射線について学ぼう~』には、「放射線は、宇宙から降り注いだり、地面、空気、そして食べ物から出たりしています。また、私たちの家や学校などの建物からも出ています。目に見えていなくても、私たちは今も昔も放射線のある中で暮らしています」という、あたかも放射線は空気か水のようなものと思わせるような記述がある。そして、自然から受ける年間の被ばく線量が2.1mSvだと記している。 これは、数mSvという放射線被ばくは何でもないことだという印象操作(悪く言えば「洗脳」)にしか思えない。「総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」のであれば、1mSvか2mSvかはとても重要な因子のはずだ。 ベルン大学の研究が明らかにしたことは、自然放射線もまた発ガンや遺伝子異常のはっきりした原因となっているということだ。つまり、宇宙線や自然放射線も生命にとっては「危険因子」だということである。宇宙線や自然放射能は存在しない方が望ましいのである。残念ながら、生命はこのような地球に発生し、放射線を含むさまざまな種類の危険因子にもかかわらず生き延びることができたのである。 原発推進論者の一部のホメオパシー信者が言うように「少量の放射線は体にいい」だとか、「自然放射線があるから健康なのだ」などというのは、「大地震や津波があるから人類は生き延びたのだ」というに等しいほどの愚劣な主張である。 私たち人類は、大地震や津波の被害にもかかわらず生き延びてきたのだ。自然放射線にもかかわらず生き延びてきたのだ。大地震や津波と同じように、自然放射線も人類(生命)にとっては危険因子なのだ。ないほうがいいに決まっている。 そして、人類はどれくらいの平均被ばく線量の増加に耐えて遠い将来まで生き延びることができるのか、現在の科学はその知見をまったく持っていないのである。勾当台公園野外音楽堂。(2015/5/1 19:01) 時間通りに勾当台公園に着いたが、いつもより人が多いようだ。連休中のデモは参加者が少ないだろうと予想していたので、すこしばかり驚きである。 今日のデモから夏時間になって、開始時間が30分繰り下げられたので、まちがって早く来ていた人もいたのだろうか。それで開始早々から参加者が多かったのかもしれない。 今日のスピーカー。(2015/5/1 18:44~58) フリースピーチは、先週の「脱原発市民会議」の発足集会の報告、4月25日の映画『日本と原発』上映会開催の報告と5月24日の再上映の告知、福島相馬双葉地区の福島原発事故被災病院の現状と復興への報告会(5月15日18:30~、仙台市シルバーセンター6階第2研修室)の告知があった。 また、東北電力の株主総会に向けて、再稼働をしないよう株主提案の準備を進めているという報告もなされた。宮城県庁前から仙台市役所前へ。(2015/5/1 19:10) 先週は日曜昼デモだったせいか、それとも時間が30分繰り下げられたせいか、デモはずいぶんと暗い中を出発するように思えた。おまけに、街路灯の光量が弱い道では、カメラのシャッターが落ちないことがあった。 暗すぎるのだろうと思って、絞りを開放側に変えても直らず、逆に絞るとシャッターが落ちるのだった。たぶん、暗すぎてオートフォーカスが決まらなかったのだろう。つまり、じっさいにそれほど暗かったのである。 一番町に入って。(2015/5/1 19:18、19)コールする人、踊る人。(2015/5/1 18:20~32) 今日も脱原発犬チョモランマさんは元気に歩いている。飼い主さんの右に出たり、左に回ったり、とても楽しそうだ。 一番町に入っても、取り終えた写真はいつもより暗いようだ。商店街の照明はいつもと同じように見えるのだが、どうしたことだろう。カメラの機能を知り尽くしているわけでもないので、考えてみても無駄なのだが…… 一番町を抜けて。(2015/5/1 18:26~31) 定禅寺通りから広瀬通りまでの一番町は「一番町四丁目商店街」で、広瀬通りから青葉通りまで「ぶらんどーむ一番町」とばかり思っていたが、「ぶらんどーむ一番町」は広瀬通りと中央通りまでで、中央通りから青葉通りを越えて南町通りまでが「サンモール一番町」となっていた。大通りで分けられているだろうというのは、ただの思い込みだった。 「ぶらんどーむ一番町」が「サンモール一番町」に替わるとすぐ青葉通りに出るそのあたりで、不思議な行動をする若い人が現われた。デモの私たちにアピールするかのように、デモのすぐ脇を駆け上がって、デモの先頭の前を横切ってどこかに消えるのである。青葉通りに出るとデモは車道を歩くので、それができなくなって車道に佇んでデモを眺めていた。30歳前くらいの、洒落た身なりをした若い男性である。本日の不思議さんである。 青葉通りを行く。(2015/5/1 18:37~42) 1匹と60人は、いつもの元気で暗い青葉通りを行く。暖かくなったら60人というのが普通の参加人数のようだ。寒いときは50人を切って40人というときもあったので、やはり暖かいというのはありがたい。 それにしても、経験的には連休中のデモは昼でも夜でも参加者が少ないのに、今日はそうではない。メーデー参加者がその流れで、ということもあったのだろうか。戦士に休息は必須なのに、などと思いながら、自宅でゴールデンウイークをやりすごす私は、まったくいつものようにデモを終えるのである。
2015.05.01
コメント(4)
全8件 (8件中 1-8件目)
1
![]()

