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前回の(その八)に書いたように西南戦争において西郷軍(薩軍)は3万人の兵力だったが、その中には薩摩以外から参戦した人々も数千人にのぼった。 中村恕助(なかむらじょすけ)も秋田県出身でその中の一人である。天保15年7月11日生まれで出羽久保田藩(秋田県)藩士。京都にて愛宕通旭(おたぎみちてる)ら公家の反新政府運動に加わり、明治4年終身禁獄、鹿児島県預けとなる。西南戦争で西郷軍に志願し出獄。熊本保田窪の戦いで明治10年4月20日戦死。34歳。 森川政一私学校で唯一の「雇われ人」として門番役を務めた。山梨県出身の平民。戊辰戦争で薩摩軍に加わり緒戦で活躍、関東でも戦功を挙げた。その後、西南戦争にも従軍し、豊後竹田市で挺身敵陣に切り込んで戦死した。 種子島彦之亟薩摩藩士、若干20歳で戦死。 1月も今日で終わり。皆さんのコメントに励まされて、1月は14回更新することができた。ありがとうございました。
2021.01.31
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このエッセイは2007年(平成19年)、今から14年前に書いたものである。もうそんなに昔のことだったのか、と今更ながら懐かしい思い出となってしまった現在だが、紹介したい。 ♫ 島育ち ♩ ♬ 最近よく車の中で聞くCDがある。去る3月3日鹿児島市の宝山ホール(鹿児島県文化センター)で開催された「第一回かごしま夢舞台」支援事業として開催された奄美大島の女声合唱団「ラ・メール」公演のCDである。この公演は優秀な技能を持ちながら、日頃いろいろな事情により鹿児島での発表の機会の少ない団体を県文化振興財団が支援しようということで始められたものと聞いている。 その第一回の幸運を引き当てたのが「ラ・メール」だった。2005年5月私の所属する今では鹿児島で唯一の男声合唱団「楠声会」(なんせいかい)の奄美公演のとき、賛助出演をしていただき、チケット販売などで大変お世話になった合唱団である。ここは少しでもご恩返しをということで今度は我々の賛助出演となったのだ。 当日の宝山ホールは開場前からかってないほどの人で溢れかえり、聴衆の皆さんに予定時間を早めて入っていただいたほどである。恐らく多くは鹿児島在住の奄美大島出身の方々だったと思われる。石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」というのと同じような気持ちだったのだろう。懐かしい故郷への想いと息遣いを楽しみに集まってみえたにちがいない。舞台袖から見た会場は開演前から熱気に溢れていた。 演奏はオープニングの「海よ」に始まり 一部 日本の叙情 の9曲、 二部 楠声会の6曲、三部 女・想い の組曲「金もくせい」 そしていよいよ特別出演の島唄界の若きホープ、民謡連続2年日本一の中村瑞希さんの登場である。島唄2曲の美声に会場全体が酔いしれた。そしてアンコールの拍手に応えて唄ったのが御存じ「島育ち」である。唄者・中村瑞希さんの三線(さんしん)と唄にピアノも加わり会場全体が大合唱となった。いつの間にか指笛の名手も加わり会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。おそらくこの日一番会場が一体となって、盛り上がった時ではなかったろうか。ふるさとを離れ、今ふるさとの仲間たちをここに迎えて懐かしいふるさとの唄を歌える。そういうことをかみしめながら一緒に歌っておられたのではないかと思う。今、ボリュームをいっぱいあげながらCDを聴いても皆さんの想いが伝わってくるようで私も思わず涙が溢れてくる。 この想いは奄美大島と少なからぬ縁ができた私だけの想いなのだろうか。そして興奮も冷めやらぬ四部 うなり神の島にありて が始まる。唄者・中村瑞希さんも加わり、このステージこそ「ラ・メール」の女(ウナリ)神たちが真髄を披歴した場ではなかったろうか。この日の演奏会のタイトル「´奄美の風´を歌う」にふさわしい島唄の合唱編曲やオリジナル曲などまだ肌寒かった鹿児島に、しばし南の風を運んでいただいた気がした。 奄美大島と我が家との縁・・・。それは娘婿のお父さんの出身地が奄美大島の笠利町であることから始まった。お父さんも婿も二代続けて先生である。そのため娘一家4人が2005年3月までの4年間奄美大島に赴任していたので、私たち夫婦も奄美に数回訪れることができた。「ラ・メール」のメンバーの中にお父さんの同窓生がおられたり、また娘たちがお世話になった方もおられて演奏会後のパーティーで挨拶を交わしたりして益々縁が深くなった気がする。 (2007年5月記)
2021.01.29
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昨日(26日)の地元新聞によると、25日私の家から歩いて5分くらいの距離にあるスーパーの従業員の一人が新型コロナウイルスに感染したという。 同じスーパーの市内の別な店舗で一人、同じく本部の事務員が一人感染したとのことだが、そのつながりなどは発表されていない。ただ3人のうち誰とは書いてないが、「感染者と接触があったため同日、PCRを受けた」とある。そしてこの店に従業員の感染が分かったのは25日だったという。しかしこれだけでは、わからないことが多いが、発表しただけでも可とすべきかもわからない。「最後の出勤はそれぞれ21日、22日。店舗の消毒を済ませ26日は通常通り営業する」ということで、昨日から開店したようだ。 このスーパーは前記の通り、自宅から近いこともあり、私も奥方のお使いで一週間に1、2回ちょっとした買い物に出かける。2年くらい前にりリニューアルオープンしたこともあって、その後、客も多くなっていたように思っている。 私は、毎日の行動を主なものだけだが手帳に書く習慣がある。このスーパーに行く日は、単に往復に留まらずに、ついでに散歩をすることも多いので必ず手帳につける。そこで、いつ行ったか調べてみた。1月14日に行った後は24日(日)であった。新聞の通りとすれば、その従業員さんは21日まで勤務し、発見されたのが25日である。私は感染発覚の前日24日に店に行ったので先ず大丈夫だろう。しかも、24日はコーラスの練習で街に出かけたが、練習会場の入り口で消毒・検温し、終わって帰る時も会場出口で消毒。その後、バスに乗って、そのスーパーの前で降りて、入口で消毒して入店、帰りに出口での消毒はしなかったが、自宅の玄関で消毒・手洗いをしている。都合4回の消毒をしているので先ず大丈夫とは思う。しかし、今日のグラウンドゴルフにはいつもは着用しないマスクを付けて行った。 いろいろ書いてきたが、神経質になりすぎて、そういうことが誹謗中傷に結びつくことがないように自分でも気をつけながら行動しなくてはいけないと思う。
2021.01.27
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西南戦争には官軍 約7万人、 薩軍(西郷軍) 約3万人が参戦した。薩軍には西郷の心意気に刺激された者や、武士の身分を失い苦しんでいた旧士族など参戦して来る者も多かった。中でも鹿児島だけではなく、他県からの参戦者も多くいた。熊本隊 1550人。 協同隊 500人。 滝口隊 200人。 人吉隊 350人。 飫肥隊 800人。佐土原隊 1300人。 延岡隊 550人。 延岡農民隊 800人。 都城隊 1550人。 高鍋隊 1120人。 福島隊 300人。 中津隊 150人。 竹田報国隊 120人。福岡隊 535人。などである。 戦死者も官軍 6403人、薩軍 6765人にのぼった。薩軍参加者で県外出身の者も南洲墓地に葬られているので、紹介したい。 西郷隆盛(南洲翁)と庄内藩(山形県)とのことについては、西郷の遺訓「南洲翁遺訓」が初めて世に出たのが、明治23年1月に山形県鶴岡市の庄内藩の人々によって出版されたことでもわかるように強い結びつきがあった。 庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕派で、徳川のために最後まで忠義立てした藩であった。越後から東北地方、北海道を平定せんとする明治元年の戊辰戦争に官軍の総参謀として庄内に向かった西郷は、庄内藩に対して寛大な措置をとり、その誠意溢れる西郷に人物は庄内藩士に深い感動を与えた。そのことがあって、明治3年に庄内の藩公・酒井忠篤以下70余人は、はるばる鹿児島に西郷を訪ね百余日の間、南洲翁に就いて教訓と兵学を修めた。また明治8年には藩の重臣・菅実秀・が8人の青年を連れて南洲翁の幹を訪れ21日間教えを受けた。南洲翁が私学校を開設すると、明治8年9月に庄内藩の戸田、池田、黒谷の3人が南洲翁の許に来る。まもなく12月には、私学校入学を熱望する伴兼之(18歳)と榊原政治(16歳)の二人を連れて伊藤孝継が鹿児島に入り、南洲翁に二人の入学を願った。翁は他県人は応じがたいが貴県は特別ということで、二人の入学を許し篠原国幹の家にしゅくはくさせて通学させた。やがて明治10年になって西南戦争が勃発したので翁はしきりに帰国を勧めるが二人は、義を重んじ共に死を誓って遂に戦場の露と消えた。 参考資料 wikipedia 「西南戦争」 「大西郷の遺訓と精神」 南洲翁遺訓刊行会
2021.01.25
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2018年の秋、高校同期会の旅で長崎市、佐世保市など2泊3日で満喫したが、佐世保市で全国の皆と別れた後、鹿児島組は乗車予定のJRまで時間があるということで、その旅の幹事を務めてくれた諫早在住のMくんの案内で諫早市の眼鏡橋を訪れた。この旅のことは2018年11月16日~12月7日まで飛び飛びだが当ブログにも書いた。 ところが、その時に気がつかなかったことを発見する。それは昨年の10月に出版された「古地図で楽しむ長崎」(風媒社)を読み進む中だった。若いころ長崎に転勤族として住んで以来、すっかり長崎大好き人間である私は出版を知り、すぐに購入した。 2018年に訪れた時は、眼鏡橋の素晴らしさに目を奪われて、ただただ写真を写すのに夢中で、この橋が公園に移設されたものだとは知ることもなかった。 (上と下の写真は2018年撮影) ところが、「古地図で楽しむ長崎」によると、1954年の諫早大水害(下の図1は水害前)により、中央付近にある本明川の川幅が1970年の図2では図1の1,5倍ほどに広げられている。地図からわかるのは川幅だけだが、大水害を受けて、川底も深く掘り込まれ、より多くの水をより早く下流に流すように整備が行われたという。諫早大水害は、1957年7月25日~26日に、梅雨末期の集中豪雨によって発生した災害である。諫早市内の24時間降水量は588mm、近接する現在の雲仙市瑞穂町では1000mmを超える雨量を記録した。この集中豪雨によって諫早市内を流れる本明川では土石流が発生し、下流の諫早中心部で広範囲に氾濫して大きな被害を出した。死者・行方不明者は諫早市で586人、長崎県内で782人にものぼった。 この大水害を受けて本明川の大規模な改修工事が行われたのだが、その際に問題となったのが、「眼鏡橋」である。この眼鏡橋は天保10年(1839)に諫早入口に架けられた長さ約49mの石造2連アーチ橋である。その頑丈さゆえに上流から流されてきた木や瓦礫を堰き止めて被害を拡大されたと指摘され、河川改修にあたって解体するか保存するか大きな議論となった。議論の末、1958年に石橋としては初めて国の重要文化財に指定され、1960年に諫早公園に移設されたのである。 これと似たようなことが鹿児島でも起こったので興味深く読んだのだった。鹿児島で「8、6水害」と呼ばれている平成5年(1993)7月31日~8月7日にかけての一連の豪雨災害である。鹿児島市を流れる甲突川、新川、稲荷川が増水し甲突5橋のうち新上橋と武之橋が流され、県内最古の石橋といわれた稲荷川の実方太鼓橋が流出した。それがきっかけとなり、鹿児島でも長崎と同じように残すべきが移設すべきか激しい議論が起こったが、結輪としては、甲突5橋の中で流失を免れた西田橋、玉江橋、高麗橋の3橋を「石橋記念公園」を作り、移設することになり、現在は移設された場所でその姿を留めている。図2 1970年 次に長崎市の「眼鏡橋」のこと。長崎市も1982年、大水害にあう。図4と図5は、1973年と1993年の長崎市東部、東長崎地区の地図である。地図が小さくてわかりにくいが、八郎川とそこに合流する現川川(うつつがわがわ)が直線化され、川幅も広くなっている。 長崎大水害も梅雨末期の集中豪雨による災害で、1982年7月23日から翌未明に発生した。24時間降水量は長崎海洋気象台で527mmを観測し、また長崎市の北の長与町役場で観測した23日午後8時までの1時間降水量187㎜は日本における1時間雨量の非公式最多記録になっている。死者・行方不明者は県内で299人、そのうち現長崎市内で264人を占めた。堤防の決壊や水深2mに及ぶ浸水が起こった。これを受けてほぼ長崎中の川が改修され、地図から読み取れない部分でも川床が深く掘り込まれて別の川のようになっている。そして長崎の眼鏡橋も諫早の眼鏡橋同様に大水害の後、論争の的になった。 大水害では眼鏡橋は半壊だったものの、六つの石橋が完全に流失するなど大きな被害を受けた。復旧に当たっては石橋を撤去すべきか、保存すべきか、様々な議論が交わされることになった。結果として眼鏡橋は現地に保存されることになった。目出しめでたしである。 (2018年秋 夕方の眼鏡橋を写す) 諫早市と長崎市の地図3枚は「古地図で楽しむ長崎」より転写 下の写真はネットから借用したが、手前の「袋橋」とその先にある「眼鏡橋」を残すために、両岸にバイパス水路が残されている。こういう知恵を出すことで長崎の眼鏡橋は昔のままにそのまま残すことができたのである。改めてそのことを学ぶことができた。 参考資料 「古地図で楽しむ長崎」
2021.01.23
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島津啓次郎 1857~1877(明治10年9月24日 没 享年21)後期佐土原島津家第10代当主・島津忠寛の三男。幼児期に家臣・町田宗七郎の養子となり、11歳で江戸の幕臣・勝海舟に入門した。その後、12歳で渡米し英語、仏語、数学などを学び19歳で帰国する。この後、養子先の町田家を出て生家へ戻る。明治10年(1877)西郷らが鹿児島で兵を挙げると、啓次郎は自ら佐土原隊を立ち上げて、西郷軍に身を投じた。やがて西郷軍へ加わり、日向各地を転戦する西郷等と行動を共にする。9月、鹿児島まで撤退した西郷らと城山に籠城し9月24日戦死した。墓碑はここ南洲神社と佐土原にある。西南戦争では多くの士族(旧藩士)が西郷軍に身を投じたが、藩主の子弟で参加、戦死したのは啓次郎のみであった。 次は墓標ではないが、「岩村県令記念碑」である。 岩村通俊(いわむらみちとし) 1840~大正4年(1915)土佐藩士、幼少のころから漢字を修め、剣術を学ぶ。戊辰戦争には、軍監として従軍し、越後に転戦した。維新後、新政府に仕え明治10年(1877)5月鹿児島県令(県知事)となり、西南戦争の戦後処理当たった。城山の戦いで西南戦争が終わると、浄光明寺跡に送られてきた西郷隆盛、桐野利秋以下薩軍の戦死者を丁寧に埋葬した。岩村はのちに沖縄県令、北海道長官や農商務大臣など要職を務めた。 参考資料 「島津一族」 川口素生 著 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト
2021.01.21
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辺見 十郎太 1849~1877(明治10年9月24日没 享年29) 鹿児島市新田町生まれ。戊辰戦争で薩摩藩2番隊小隊長として東北戦争で活躍した。明治維新後、近衛陸軍大尉。明治6年の政変により西郷が下野すると西郷に従い鹿児島に帰る。明治10年の西南戦争では薩摩軍3番大隊1番小隊長。のち雷撃隊大隊長。大口、踊、岩川、末吉に転戦。宮崎県延岡市の可愛岳(えのたけ)突出のとき先鋒を務め、陣中12時にならなければ就寝せず、過ぎれば1時間毎に起きて斥候(本体の移動に先駆けて進行方向の状況を偵察しつつ警戒する任務)を出し、一日も怠らず精力絶倫だったと言われる。戦いの最後の城山岩崎谷にて闘死したとき、その顔は生きているようだったと言われる。 池上 貞固(いけのうえ さだかた)1842~1877(明治10年9月24日没 享年36) 通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島市樋之口通町(現加治屋町16番街区)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として誕生。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛・伊地知正治の教導を受け、勤皇の志を抱いた。安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の名によって江戸に遊学し、ときどき天下の情勢を藩主に報告した。戊辰戦争(1868年)では鳥羽・伏見の戦いに城下十番小隊の監軍として参戦したが、東山道軍が結成された以降は参謀・伊地知正治の下で軍議に参画し、白河城攻防戦、棚倉・二本松攻防戦、会津若松攻防戦では直接戦闘に参加した。 1869(明治2年)に鹿児島常備隊がつくられたときは大隊の教佐となり、藩が御警衛兵を派遣したときは第2大隊を率いて上京した。西郷からは、その能力を高く評価されいろいろな重要な場面に護衛を兼ねて同行した。その後、陸軍少佐に任官されたが、病気を理由に明治4年7月に免職した。明治5年(1872)征韓論に関連して西郷隆盛が朝鮮・満州の軍事偵察をさせたとき、8月8日、外務省十等出仕に任じられ、満州に派遣された。西郷下野を知った明治6年(1873)12月に帰国した。 明治7年、私学校が創建されたとき、池上は病気で積極的な関与はしなかった。明治10年(1874)の西南戦争のときには、西郷暗殺計画に憤慨し挙兵に賛成し、池上は五番大隊の大隊長となって10個小隊2000名を率いた。鹿児島を出発した薩軍は2月21日夜、熊本の川尻で軍議を開いた。でこの軍議で池上は熊本鎮台を抑えるための兵を一部残し、全軍北上する策を出したが入れられず、篠原国幹らが主張する全軍による熊本城攻撃が採用された。その後の田原坂の戦いでの後退などで次第に追い詰められた薩軍だったが、更に宮崎、延岡、熊田などで敗退を重ね、8月17日、長井村の可愛岳を突破する際は別府晋介とともに約60名を率いて西郷を護衛した。その後も西郷に従い宮崎、鹿児島の山岳部を踏破して鹿児島に帰った。9月24日の城山陥落時は西郷の自決を見守った後に桐野、村田らと岩崎口の塁をめざして進撃。途中、弾雨の中で自刃した。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 他
2021.01.18
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別府晋介 1846~1877(明治10年9月24日没 享年31) 鹿児島県吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる。名は景長(かげなが)、通称は晋介。西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。陸軍在職中は、士官以下、軍曹、曹長と官俸を平均に分配し、士卒と苦楽を共にした。いわゆる征韓論に敗れたといわれる西郷が帰鹿すると、少佐の職を投げうって鹿児島に帰った。私学校の育成に尽力する。鹿児島では西郷のそばを離れず、9月24日の官軍総攻撃に際しては共に岩崎口へ迫撃する。足に重傷を負っていたため輿で従った。西郷が流れ弾に当たると、輿から下り、西郷から「晋どん、ももこらでよかじゃなかろかい」と言われ西郷を介錯した。桐野利秋とは従兄弟だったが、真の兄弟以上だったという。桂 久武 1830~1877(明治10年9月24日没 享年48) 島津久風の第5子として生まれ、桂久徴の養子となった。明治3年鹿児島藩権大参事となり、西南戦争では大小荷駄本部長。出兵したあと4月鹿児島に戻り、輜重(軍隊で、前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称のこと)、募兵に尽力した。桂久武が書いた「桂久武日記」は幕末維新史の重要な史料の一つとして知られる。西南戦争には参戦するつもりはなかったが、出陣を見送りに行って、翻意しそのまま出陣する。城山の最後の戦いで流れ弾に当たって戦死する。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 桂 久武
2021.01.16
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このシリーズは2018年8月11日を第一回として、8月23日、9月4日と飛び飛びで3回まで書いているが、その後「島津義弘没後400年」などもあって、途中で止まってしまった。 年も改まったので、一念発起! 続きをシリーズで書いてみたいと思っている。今日は、「篠原 国幹」と「淵辺 高照(群平)」篠原国幹(しのはらくにもと) 1836~1877(明治10年3月4日 没)享年42。記録奉行の家に生まれ、通称は藤十郎、冬一郎。剣は薬丸兼義に薬丸自顕流を学び、謹厳寡黙、言行一致でその後の戦いで全軍を統率し、陸軍では儀表(手本・模範)と仰がれた。文久2年(1862)有馬新七らと挙兵討幕を企てたが島津久光の鎮圧にあって失敗。(寺田屋騒動)薩英戦争で砲台守備に出陣、戊辰戦争で薩摩藩の城下三番小隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦する。戊辰戦争後陸軍少将。近衛長官。明治6年には陸軍少将、近衛兵司令官を辞職し帰鹿する。藩校造士館で和漢学を修め、文武両道を究め私学校が創設されると総監督として子弟の教育にあたった。西南戦争では一番隊長を務めた。 明治10年3月4日、早朝政府軍第2旅団の野津隊が悪天候を利用し、吉次本道から薩軍の奇襲を試みた。これを受けた篠原は、村田新八とともに川尻からの増援部隊を基幹として反撃に出た。このとき同郷の出身で、元部下の近衛歩兵第1連隊第2大隊長・江田国通少佐は濃霧と雷雨の中、赤裏の外套を翻し銀装刀を振るい陣頭に立って部隊を指揮する篠原の姿を前方に認めた。すぐさま江田少佐は射撃のうまい兵に赤裏の外套を目印として狙撃を命じ、弾を数発受け篠原はその場に崩れ落ちた。篠原を失った薩軍は、復讐心から逆に戦意を高め、江田少佐を斃し、官軍を原倉まで退けた。 南洲墓地の中でも、一際目立つ「渕辺高照」の墓標 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 「篠原国許」 他
2021.01.14
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誕生日の1月5日、恒例の上町五社(鹿児島五社)詣りを始めて5年目の今年も、妻と出かけた。近所のバスの終点からバスに乗って、昔住んだ清水町バスで降車して、南方神社(諏訪神社)を振り出しにそこから歩いて約1時間30分かけてまわった。 五社のめぐり方としては南方神社、八坂神社、稲荷神社、春日神社、若宮神社の順だといわれているので、また元の神社の前を通ったりするのだが、毎年決められた順番でまわるようにしている。 上の写真の南方神社(みなかたじんじゃ)、諏訪大明神、お諏訪さあ とも呼ばれている鹿児島五社の第一。島津氏初代惟宗忠久が11歳にして副将軍を命じられ奥州の藤原泰時を討ったとき、信濃国諏訪大明神に祈願して勝利を得たことに因み、5代忠久が諏訪神社を総社として山門院に勧請。さらに6代氏久が康永2年(1343)頃に東福寺城を居城として鹿児島を府城の地と定めたとき、現在地に本府の総廟として遷座したものといわれる。今年は企業のお詣りのために、本殿前にたくさんの椅子が用意されていた。 八坂神社は祇園社とも言われる。鹿児島五社の第二。現在でも八坂神社の祭りは「御祇園(おぎおんさあ)」と呼ばれ鹿児島の夏の大きな祭りになっている。 ”番外" 八坂神社の隣接地にある「石橋記念公園」鹿児島市の中心を流れる甲突川には、上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の五つの大きなアーチ橋がかかっていた。この五石橋は、江戸時代末期に城下整備の一環として肥後の名工・岩永三五郎によってかけられた。しかしで、平成5年(1993)8月6日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋が流失。残った3橋を貴重な文化遺産として後世に残すため石橋公園が整備され、ここに移設保存した。桜島をバックに写したのは、その中の一つ高麗橋。 稲荷神社(旧郷社)。鹿児島五社の第三。私の母校清水中学校のちかくにあり、後の山には清水城の山城があった。 春日神社。鹿児島五社の第四。ここは昔は海で港があった。 若宮神社。鹿児島五社の第五。近世までは「若宮八幡宮」と呼ばれた。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」その一
2021.01.09
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鹿児島市出身の女子プロゴルファー・勝みなみちゃんは1月7日、「鹿児島西警察署一日署長」を務めた。みなみちゃんに一からゴルフを教えたおじいちゃんは私の高校の同期生である。これまでも何回かみなみちゃんのことについては当ブログにも書いたことがあるが、私たち同期生もいつも陰ながら応援をしている。彼女の試合の日には同期生のLINEは大賑わいだそうだ。(私は携帯は使ってないので不参加である) 今日はいつものゴルフウェアーではなくて警察官の服がよく似合っていた。インタビューでは本人もお気に入りの様子だった。 昨年はコロナ禍で女子プロゴルファーも皆さん大変だったようだが、彼女も苦労したと思う。それでも全英女子オープン、全米女子オープンにも日本だ表として出場してするなど、目覚ましい活躍をした。今年は今日の笑顔を見ると、新しい年への希望の笑顔のように見えた。応援するおじいちゃんの仲間たちにも元気を与えてくれるようにがんばって欲しい。いつも応援していますよ。 (写真は全てテレビKKBから写したものです)
2021.01.07
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昨年再建された鹿児島城(鶴丸城)の御楼門に門松が立てれたというニュースを見たので、街に出たついでに見に行ってきた。昨年末のことである。鶴丸城のことは、これまでにも数えきれないほど当ブログでも取り上げてきたが、第18代島津氏当主で初代薩摩藩主・島津家久によって慶長6年(1601)普請され、3年後に完成し以降、明治維新まで島津氏の居城となった。 御楼門には、しめ縄や門松がよく似合っていた。門の中に見える石垣に残る銃弾による陥没は西南戦争の名残である。 下の道路は「歴史と文化の道」。南は「照国神社」交差点から北は「城山入口」交差点まで約700mがそう呼ばれている。正式には「国道10号線」だが「磯街道」とも呼ばれる。両側に歩道があるが、昔ながらのガス灯が街灯になっている。この道沿いには鶴丸城址、御楼門の中の本丸跡に「鹿児島県歴史資料センター・黎明館」二の丸跡には県立図書館、鹿児島市立美術館、などなど。他にも西郷隆盛銅像、照国神社など観光名所が点在する。石垣の続く散歩道には鯉が泳ぐ水路も整備され風情がある。 写真の中央に見えるのが陸軍大将服の西郷隆盛像。前面には愛犬・ツンの模造品か。ここは記念写真撮影のスポットでもある。
2021.01.05
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次男が2日、鹿児島県の大隅半島の最南端・佐多岬に指宿からの釣り船に乗って初釣りに出かけた。釣果が上の写真の通りである。一番大きいのが内径長さ70cmのクーラーと同じ長さの「カンパチ」。赤い魚が「ウッカリカサゴ」。正にウッカリしたのかカサゴには珍しく大きく育ったものだ。遠慮がちに首を曲げているのが「鯖」。 年末26日にも同じような釣果があったので、今年の正月は雑煮用、刺身用ともブリを買うこともなくて大助かりだった。 ただ、これらを裁く妻は包丁を何本も使って大変である。しかし、捨てる部分のないこれらの魚をうまく裁いてくれていつも食卓が賑わう。 元旦は例年、娘家族、長男家族、我が家3人の11人が照国神社(島津斉彬公を祀る)に集合して初詣をした後、我が家で新年の集まりをしていたが、今年は初詣はそれぞれの家族が都合のいい時にやることにして、4時ごろ我が家に集まった。 孫たち4人、21歳を頭に4人集まると、4人とも私より背も高くなっていて、話題も違い、もう年寄りの時代ではないとつくづく実感した元旦であった。一番上の孫は3月末には就職のため上京するし、長男のところの孫も大学受験である。彼らにエールを送るのが精いっぱいである。 今年も自家製の「おせち料理」が並んだにぎやかな正月の夜は更けていった。
2021.01.03
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「明けましておめでとうございます。」とは素直には言えない新年が明けました。しかし、新年は日本人にとって大きな節目の一つです。先ずは、素直に喜ぶことにしましょう。改めまして「おめでとうございます。本年もよろしく御交誼のほどお願いいたします。」 コロナに明けてコロナに暮れた一年でした。そういう中でも鹿児島のシンボル・桜島は火や煙を吹きながらも麗しい姿を見せてくれました。桜島の三景を紹介します。 上の景色は鹿児島市街地の桜島桟橋の先から桜島を望む絶好のポイントからのものです。鹿児島市街地から桜島の袴腰桟橋まで24時間運航の桜島フェリーも一緒に写しました。 2枚目の下の写真は、鹿児島市街地から北の方向にある市民の憩いの公園・吉野公園からの桜島です。ここ吉野公園は春の桜に始まり、バラなど一年中様々な花が咲いていて私たちを楽しませてくれます。当ブログにも度々登場します。 最後の3枚目は鹿児島中央駅東口から真っすぐ伸びる「ナポリ通り」に沿うように流れる甲突川に架かる橋の上から写しました。 このように桜島は鹿児島市のいろいろな場所から見ることが出来ます。もちろん桜島も鹿児島市です。桜島は一日に七変化するといわれ、季節によっても様々な貌を見せてくれます。今年も様々な形で私たちを励ましてくれるでしょう。
2021.01.01
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