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5月27日~30日の4日間、愛知県で開催されたリゾートトラストレディースで優勝を飾った。実に2年ぶりの優勝でみなみちゃんのおじいちゃんと同級生の私たちが待ちに待った優勝である。昨日は同級生でつくるLINEに朝から情報が行き交きかい、優勝が決まると「おめでとう」の声があふれた。それだけおじいちゃんの同級生たちにとっても待ちに待った優勝だったのだ。これで15歳のアマチュア時代に優勝したのを初めとし、プロになって4勝目、通算5度目の優勝である。 上の写真にあるように今回は「父子鷹」(おやこたか)ならぬ「母子鷹」としてお母さんがキャディを務めておられた。 17ホールを終わって2位に3打差をつけて18番へ。18番の1打目が自分の思う通り飛ばなかったのか、それでも余裕の苦笑い。 最後のパットを決めて優勝決定。 二年ぶりの優勝にも涙はなく、笑顔でインタビューに答えていた。 優勝取りフィーを受けるときも笑顔のみなみちゃん。 優勝賞金は18,000,000円也。 優勝を手土産に6月3日から開催される「全米女子オープン」に出場のため、今日には渡米するそうだ。今後も多忙な日程が続くので、身体には十分気をつけてがんばってほしいものだ。おじさん、おばさんたちの夢も乗せて・・・。
2021.05.31
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3月に日置市吹上町永吉の「黒川洞穴」などを「本〇どん」の案内で訪れた日の夕方、日本三大砂丘の一つ「吹上浜」を訪ねたのは夕方だった。そして東シナ海に沈む夕日を眺めあの日の旅は終わった。 この日は、午後2時は過ぎていたが真昼間。永吉川の河口も晴れ上がった空を映して綺麗だ。 久しぶりの梅雨の晴れ間の一日を楽しむ親子が鮮やかなオレンジ色のテントを張って魚釣りに興じていた。一瞬コロナ禍も忘れさせる光景で、私も心が和んだ。 どこまでも広がる海と空。日本に残された数少ない砂丘であるこの吹上浜を大事にしなくてはいけない。 きれいな海と空に癒され、きれいな空気を吸った私たち一行は、「本〇どん」が3月の訪問時にも是非私たちに見せたいと言っておられた「千本楠」に行くことにした。「本〇どん」の車の後を追い永吉川河口から車で20分くらい走ると「大汝牟遅神社」(おおなむちじんじゃ)に到着した。(写真を写し損なったため下の写真はネットから拝借した) ここでは500年の伝統を誇る流鏑馬(やぶさめ)が毎年11月23日に開催されるという。伊作島津家10代忠良(日新公)は加世田城を攻めるのに際して、これに勝利すれば毎年流鏑馬を奉納すると祈願した。天文7年(1538)12月29日に出陣し奉納するようになったと伝わっている。(鹿児島県観光サイト かごしまの旅) 上の写真の本殿から100mくらいの対面にあるのが下の写真の鳥居である。この鳥居の左側に樹齢800年を超える大楠「千本楠」がある。 「本〇どん」おすすめの「千本楠」だけあってそのスケールに驚いた。他にもたくさんの見学者が次々に訪れて感嘆の声を挙げていた。 どの楠も大きく、私もこれほどのさまざまな形をしてしかも大きな楠の群を見たのは初めての事で感動した。
2021.05.29
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日置市吹上町永吉の「本〇どん」宅に友人たちや中国人留学生と一緒に訪問し、心温まる接待をしていただいた上に旬の「梅」と「ビワ」のお土産をたくさんいただいて帰った。 我が家では「梅」の4種類の加工品をつくることにして、水洗いをし、へたを取り除いて準備OK。先ずは一番上のオーソドックスな「梅干し」をつくる分。 下の写真は「梅ジャム」つくりの準備。レシピはネットで検索できる。この梅ジャムは「大人の味」とでも申しましょうか・・・・。このジャムだけは、娘家族や息子家族は、もらっては帰らない。 下の「梅シロップ」の漬け方は「本〇どん」の奥様から聞いて帰り、妻が漬け込んだものだ。「本〇どん」宅で飲ませていただき、お土産にいただいたものを家に帰ってから味無しの炭酸で割って飲んだのだが、その美味しかったことで我が家でもつくろうと初めての挑戦。瓶に「らっきょう」とあるのはご愛敬。お許しくだされ! 下の写真は「梅味噌」言い換えれば「酢味噌」である。酢でつくらず梅から出る酢をりようしたものである。これは毎年我が家で妻がつくるもの。 レシピはネットでも検索できるが簡単である。梅 1(500g)味噌(好みで良い) 1(500g)砂糖(好みで良い) 1(500g) 梅(完熟の方が仕上がりが早い)を煮て、少し柔らかくなったら味噌、砂糖を入れて煮込む。 好みの柔らかさになったら、出来上がり。(冷えると少し固まるのでゆるめにした方が良い) 朝市に出かけてラッキョウ5Kgを買ってきた。毎年の事だが、ここまで剥くのが大変な作業である。今年も私も手伝った。我が家では「醤油漬け」が主流である。これは子供家族にも好評なので、もう一回くらい買いに行かなければならない。
2021.05.27
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私が「本〇どん」と縁が出来たのがここ天昌寺跡墓地・永吉島津家の菩提寺跡だった。初めてここを訪れたのは2016年で当時「本〇どん」は永吉の史跡などを守る「永吉南郷会」の会長で墓地の一角にファイルが置かれ「見学の皆さん、下記携帯電話まで電話をいただければ、いつでも案内いたします」とあった。パソコンはいくらか使っても携帯電話は持っていない私は、その日は連絡も出来ず、帰ってから電話をして2017年の正月早々に会う約束が出来たのだった。それ以来の付き合いで、現在では私の友人たちとも巻き込んでの交流をするようになった。 この日は、中国人留学生も一緒だったので、日本の大きな墓碑を見学してもらおうという「本〇どん」のアイデアでここを訪れた。友人のNくんも初めての参加だった。写真は墓地入口で「本〇どん」の説明を聞く留学生4人。下の写真は様々な墓碑群。 腰を痛めておられる「本〇どん」に代わって私が簡単な説明をした。手前にあるのが「宝篋印塔」。その向こう側に並ぶのが卵型をしたお坊さんの墓で「無縫塔」「卵塔」と呼び、俗に「坊主墓」ともいう。 その「坊主墓」の右から2番目にあるのが「天昌寺開山石屋真梁和尚の墓」である。石屋真梁(せきおくしんりょう)は島津忠久の後裔、伊集院忠国の第11子である。鹿児島市にある福昌寺(現在は福昌寺跡墓地)の開山などたくさんの寺を開山している。 五輪塔式墓碑も林立している。見事だ。 墓地の一番奥にあるのが、関ケ原の戦いで島津義弘の身代わりになって倒れた島津豊久公の墓碑。豊久公は曾祖父・日新公、祖父・貴久公、父・家久公(島津四兄弟の末弟で永吉島津家初代)とする永吉島津家2代目当主である。なお永吉島津家初代・家久公の墓地は同じ永吉の梅天寺跡にあることを説明した。念のため書き添えると島津家には二人の「家久」公がいるが、もう一人は義弘公の子・忠恒、後に島津本宗家第18代当主にして初代鹿児島藩主となった家久公である。 墓碑には夫婦別々のものや、下の写真の第3代領主・忠栄夫妻の墓碑のように一緒に埋葬されているものもある。 13代領主久陽夫人の墓碑。夫婦別々に墓碑はある。なお、中国人留学生からほとんどの墓碑にある「院」の文字は何を意味するかとの質問があった。私は少ない知識の中から「院号と言い、戒名のランクを表すものでこの時代は身分の高い人にしか使われないものだった。現在も院号は使われているが、現在戒名に院号を使うには身分もある程度あって、お金をたくさん払う必要がある」「地獄の沙汰も金次第」と冗談交じりに話をした。当たっていますかね? 12代領主・久陽公の墓碑
2021.05.26
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梅雨の晴れ間の去る日、先日訪ねた日置市吹上町永吉の「本〇どん」から先日来お誘いのあった梅とビワをもぎに行ってきた。午前9時45分の集合場所は上の写真の鹿児島大学の図書館前。法文学部の入り口である。 今回は私たち高校の歴史会のメンバーが他に中国人留学生を誘って行くことになった。いきさつはこうだ。Kくんが日中友好協会の役員をしているのだが、彼が中心となって毎年この時期に鹿児島の大学に学ぶ中国人留学生にバスによる研修旅行が計画される。ところが昨年も今年もコロナ禍のために中止となってしまった。そこで留学生のまとめ役の学生さんをこの機会に誘って「本〇どん」宅に行こうということになった次第である。「本〇どん」の快諾も得てのことである。 車は2台。Kくん運転車にNくんと留学生二人、Mくん運転車にクマタツと留学生二人。私は1時間くらいの車中で留学生に日本に来たいきさつや、将来何をやりたいかなど話を聞きながら行ったのであっという間に「本〇どん」宅に着いた。彼らは大きな目標を持っており、将来の日中友好にも大きなプラスになるだろうと感じた。その他、日中の食べ物の話などで盛り上がり、また勉強にもなった。私は中国には30年くらい前に一回だけ上海~広州(会社の縫製工場があった)~香港(当時はイギリス)のコースを会社の研修旅行で夫婦で参加したことがあるが、現在の状況は知らない。ただKくんの誘いで何回か留学生との日帰り旅行やキャンプなどには参加させてもらったが、言葉は「ニイハオ」と「つあぃちぇん」しか知らない。(笑) 「本〇どん」宅に着いてKくんが中国人留学生を紹介した。 ビワの木。他にもある。 芝生の先に広がる土地も「本〇どん」宅のもので梅の木も数本。「本〇どん」の「ビワはいくらでも食べ放題! 梅はおじいちゃんたちが持って帰るので、若い人は叩き落す」という号令で一斉に動き出す。鹿児島国際大学生二人、鹿児島大学生二人も先ずはビワの食べ放題に挑戦。その後、梅の木の下に移動し、梅落としに一生懸命だった。もちろん彼らも梅の実拾いにも励んでいた。 昼食はソーシャルディスタンスに気配りし美味しくいただく。 その後、元気のある者は愛宕山に登ろうということで老人組も挑戦したが食後ということもあり、すぐにギブアップ! 若者3人は山頂を極めて意気揚々と引き上げてきた。 この険しい道も老人組が恐れをなした原因の一つ。 山から帰ってきた彼らに「本〇どん」の奥様が冷たい「梅シロップ」を用意してくださってそれを飲んだ彼らはもちろん私たもその美味しさに驚き、奥様の作り方教室も始まった。感激した彼らは再度梅を落としに行き「自分たちもつくる」と梅を持ち帰った。私も今日、材料の一つ氷砂糖を早速買い込んだ。Kくんも準備万端とのことで先ほど写真が届いた。「本〇どん」奥様本当にありがとうございました。彼らも大喜びでした。感謝の他ありません。
2021.05.24
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一昨日は、月に一回、歯科に通って定期健診とクリーニングをしてもらう日だった。いつものように歯科の椅子に座りクリーニングを受けながら「由無し事」(よしなしごと)が頭の中を駆け巡っていた。フッと「そうだ!今日は5月20日だ」。5月20日は私が会社人生から完全リタイヤした日だったということに想いが至った。何年前の事だったか頭を巡らせるとちょうど12年前になる。 完全リタイヤが5月20日というのは、世間的には中途半端な時期だと思われるかもしれないが、私が7年8ヵ月勤めた銀行をやめて転職した〇安全会社の決算日が5月20日だったことがその由縁である。その会社で将来経理で身を立てるべく九州支店(北九州市八幡東区)に入社したのだが、営業職に転身し、長崎、徳山(現在の山口県周南市)と転勤した。その徳山時代に全国的に販売ネットを張ろうとする会社の方針を知り私は鹿児島に帰るべく手を挙げた。地元法人として立ち上げた会社も親会社の力も借りて、順調に? 推移し後進に道を譲った。ときに64歳だった。退職後もしばらく自分で開設した国分営業所に週4日ほど加勢に行っていたのだが、ある日 親会社から電話があり、親会社に復帰する形で「監査」の仕事をやらないかとの誘いがあった。監査は受ける方の立場でしかそれまで経験がなく、いい印象はなかったが、まだ元気だった私はそれに応じた。上京して親会社と打ち合わせして概要が決まった。仕事の内容は博多にある九州支社と福岡支店、福岡にある本社の事業部をはじめ九州内にある系列販売会社9社、その販社の営業所が8ヶ所など全てを一年に一回づつ監査のために臨店訪問すること。一ヶ所には3日~4日の臨店監査、事務所は鹿児島の事務所の2階の一室とし、週3日の勤務で九州各地にある販社には自家用車での出張OK。それまでの監査は本社の監査室からくる社員ばかりだったので公共交通機関を使うのが原則だったが、鹿児島駐在のまま大好きな車で動けるということになり、私にとっては願ったり叶ったりという好条件であった。仕事はそれなりに大変ではあったが、それよりも毎月異なる県に車で行き、新しいものを見る、食べるなどちょっと不純ではあるが、好奇心の強い私にはぴったりの仕事だった。事前調査は鹿児島の監査分室のパソコンから当該店の売掛金などが見ることが出来るシステムになっており、ネット時代の特性をフルに活用できた。それが最短での臨店監査にも結び付いた。出張から帰ると「監査報告書」を作成し報告し、年に2,3回本社での監査報告会議に臨むという段取りだった。監査の仕事は3年くらいということで始めたのだが、6ヶ月、1年伸ばしで終わってみればちょうど5年間が経っていた。そして年齢的には69歳と5ヵ月というところで予想以上の年齢に達していた。 そのような事はブログを始める以前の事なども当ブログのカテゴリ・エッセイ欄にもあるように機会あるごとに書いてきた。もちろん当ブログも退職後の12年間の自由な時間になってからの事が中心ではある。退職して12年は干支でも丁度一巡したわけだが、振り返っても大変貴重な長いような短い月日でもあった。 自分でも暗中模索の12年間ではあったが先ず健康に恵まれてここまでこれたことが一番大きい。退職後の12年を振り返ってみると、現役時代も時間を割いて歌っていた男声合唱も全ての行事に参加できるようになり、ボランティアで70歳まで6年間本部会計を担当した後、現在は会計監査を続けている。また好奇心から鹿児島の歴史にも首を突っ込んでしまった。元々高校の同期生たちとの交流は盛んだったが歴史の同好の士が集うことでなお一層絆が強まった。この他、グラウンドゴルフも継続し、地域ボランティアも町内会の体育部長、会長、老人会の会長、青パト隊員として子供たちの見守り活動、小学生と昔の遊びや給食を一緒に楽しむ交流会、また友人が役員を務める日中友好協会の中国人留学生との交流キャンプ参加などたくさんのことを楽しみながらやってきた。そうそう、男クッキングなる料理教室にも通ったし、昨年は国勢調査員も経験することができた。こうして12年間を振り返ると、実りある時であったと思う。さあ、これからどう残された人生を生きていくか、退職記念日はそれを考える大きな節目になる日にもなった。
2021.05.22
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昨日、5月16日(日)は、おじさん合唱団の練習日だった。当地も先々週くらいから増え始めていたコロナ感染者が先週には過去最高の61人を記録し、その後も50人前後の発生が続いた。県でも重症患者数が増えたことなどでステージ4だとかで再び情勢が混とんとしてきた。そういう中での練習に行くのは、公共交通を使って行く身として、かなりの心配もある。しかも、合唱活動ではこれまでも全国的にもクラスターが発生したり、文化活動の中でも、特に用心をする活動として注目もされてきた。 そういう中で、昨年は中止だった県の合唱祭が今年は6月6日(日)に開催されるという。昨日渡された開催要項によると、今年は出演団体をいくつかのグループに分けて、グループごとに総入れ替えにするようだ。私たちのグーループは、7団体で構成され全体から見ると2番目のグループになる。第一グループが終わり、グループ入れ替えに20分の時間がとってあり、その間に指定された観客席に着席し、自分たちの歌う順番が来たら客席からそのまま舞台横に行って待機することになる。蜜を避けるために今年はリハーサル室での練習も無し、いきなりぶっつけ本番となるそうだ。一団体の演奏時間は例年とおりの6分以内。自分たちのグーループ以外の演奏は聞こうと思えば聞けるようにもなってはいる。こういう合唱祭はもう今年限りにして欲しいものだと思う。 今年の合唱祭で歌うのは、我が鹿児島出身の長渕剛 作詞・作曲の「乾杯」。私の所属する男声合唱団では,男声合唱団の定番ともいえるような歌ばかりを歌っていたが、そればかりでは聴衆の皆さんが退屈するというような声もあり、プログラムを振り返ってみると、平成21年(2009)の第七回定期演奏会(「楠声会」のホームページでご覧になれます)から初めてポップス的なものを歌い始めている。その時は中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」と小椋佳の「愛燦燦」だった。その後の演奏会では「少年時代」「あの素晴らしい愛をもう一度」「秋桜」「川の流れのように」「我が人生に悔いなし」などなど枚挙にいとまがない。今年の「乾杯」は我が合唱団にとっては、もちろん初めての曲である。男声四部合唱で歌ってみると、これまで聞き覚えで歌っていたほど簡単ではない。トップテノールで比較的メロディーを歌う部分の多い私たちのパートでもリズムの切れがおじさん(お爺さん)たちには難しいのだ。それでも何回も練習を繰り返す中で昨日などはだいぶそれらしくなってきた。そういう中で歌って聞いてする中で歌に酔ってしまい、ウルウルすることが多くなってきた。歌う自分がそういうことではダメだと分っているのだが、いい歌詞とメロディーとハーモニーに出合うと自分の来し方など様々なことが頭の中を去来してそうなってしまう。これも年齢からくるものだろうか。当日はそういうことのないように、しっかり歌うつもりではある。 乾 杯 かたい絆に 想いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々 時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった あの日 あれから どれくらい たったのだろう 沈む夕日を いくつ数えたろう 故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか 乾杯! 今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ! キャンドルライトの中の二人を 今こうして 目を細めてる 大きな喜びと 少しのさみしさを 涙の言葉で歌いたい 明日の光を 身体にあびて ふりかえらずに そのまま行けばよい 風に吹かれても 雨に打たれても 信じた愛に 背を向けるな 乾杯! 今君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ! 乾杯! 今君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!
2021.05.17
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5月10日(月) 朝起きて新聞を取りに外に出ると久しぶりの霧が周りに立ち込めている。道路の100mくらい先がやっと見えるくらいだが、近所の宅地開発が進むまでは霧の発生も頻繁で近くも見えにくくなる状態だった。しかし、久しぶりの霧に何とも言えず嬉しい感じである。慌てて、家に入りデジカメを持って外に出て家の周辺を写した。こうしてみると、ここはやはり田舎なのかとも思う。因みに我が家は左側の一番手前であるが、東南の角地にあるので幸い日当たりもよく冬場も助かる。 その朝のモヤモヤがその日の昼間にも再現された。いやいや、それは当地ではなく、東京は永田町で再現されたのだ。そうそう、あの総理大臣殿のコロナ禍におけるオリパラ開催に関する「答弁」である。これ以上、書くつもりもないが、質問にはまともに答えず、官僚が書いたであろう文書をひたすら読み返すのをテレビで見ていてモヤモヤ以上の腹立たしさを覚えたのはクマタツだけだったらいいのだが。 最後に気分を入れ替えて、再生しつつある我が家な雑草園の写真を一枚。
2021.05.12
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ほぼ南九州にしかない南方神社である。元々、明治以前は諏訪神社として鹿児島や宮崎の各所にある。その理由は島津家初代の島津忠久公が奥州藤原氏の征伐の際に信州諏訪神社に祈願し。その後、信濃の一部を治めたことがきっかけと言われる。(鹿児島よかもん再発見) 南方神社の歴史〇文明5年(1473) 蒲生城を追われた蒲生宣が諏訪大明神として建立〇永禄8年(1565) 喜入季久により再建〇明治5年(1872) 南方神社に改名〇大正7年(1918) 木造社殿建築〇昭和40年(1965)コンクリート社殿新築〇平成13年(2001)社殿改装、駐車場整備〇平成14年(2002)神璽がつくられる 神木がこのような形で残されている。 神社に似つかわしくない「夫婦石」。いや 神社だからあるのか? 映画「ゆずの葉ゆれて」のロケ地としても使われたようだ。 「かごしま自然百選」にも選ばれただけあって周囲は大きな木々を中心に森になっている。自然に囲まれて緑の中でゆったりした気分をしばし満喫した。
2021.05.10
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肝付家歴代墓地は江戸時代270年に渡ってここ喜入を治めた領主たちが眠る場所である。喜入領主肝付氏は島津氏と数百年に渡り争い続けた大隅の戦国大名肝付氏の庶流(分家)である。肝付氏の始祖は伴兼行が薩摩に下向したのが安和2年(969)とされ、その曾孫の兼俊が肝付氏を名乗った。喜入肝付氏の初代兼光は肝付氏12代兼忠の三男だが、父兼忠と長兄国兼が仲が悪く不仲だったので。これをいいことに次兄国連は国兼を領外へ追放する。兼光はこの間に立って国兼の復帰を願い出たが、とりあってもらえない。それで兼光は本家と別れ島津氏に帰順し大崎に居住する。それ以降溝辺、加治木と拠点を移し、一時は島津貴久と敵対するが、加治木の黒川崎において敗北してかrさは島津氏に仕えた。そして文禄4年(1595)豊臣秀吉により喜入に移封されて喜入肝付氏となった。同じ時期に肝付氏本家は戦国大名としての地位を失った。 移封以降は、九代久兼、十代兼柄が藩の家老職に就いた。十五代兼善の四男兼戈(尚五郎)は、安政3年(1856)に吉利小松氏の養子となり、後に「小松帯刀清廉」と名を変え、日本を大きく動かしていく。特に藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)に大きな役割を果たした。残念ながら明治維新直後の明治3年(1870)に死去したため、明治政府での活躍は叶わなかった。 歴代の墓碑も宝篋印塔などもあり変化に富んでいる。 五輪塔式墓碑 小松帯刀の墓地については、当ブログ2021年3月29日の「日置市日吉吉利の園林寺跡 小松帯刀の墓地を訪ねる」に詳細はある。 参考資料 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著 南方新社 wikipedia 「肝付氏」 鹿児島市観光農園 グリーンファーム ホームページ
2021.05.08
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「ふれあい広場」は旧麓の道に続く。(一番下の写真)歩いてすぐの右側に「牧瀬家武家門」がある。 「牧瀬家武家門」はこの地域で唯一残っている武家門であり、その存在感から良好な景観形成に重要なものと認められるとして、平成22年(2010)に鹿児島市の景観重要建造物に指定された。 「かごしま自然百選」に選ばれた旧麓水路の清流は透明で心が洗われる心地がする。この日は見ることはなかったが、案内板にあるようにここに住む人々が野菜を洗ったり、冷やしたりする姿が見られるというのがよくわかる清流である。 ここの石垣は、野面積み、割石積み、切石積みと3種類の積み方が見られ、ゆるやかなカーブを描きながらほぼ垂直に高く積まれている。(下4枚の写真参照)この近くに石切り場もあり、江戸時代から築かれたと考えられ、往時を偲ばせる貴重なものである。 下の写真に見る山は「給黎城跡」のあった山の一部である。給黎城(きいれじょう)は三つの半島状台地を利用したものであった。南側にある八幡川に向けて突き出た標高60mほどの3つの尾根があり、北から北之城、本城、南ヶ城と並んでいる。その昔、伊作平次郎良道の次男・有道がここに居城し、姓を給黎と名乗ったと伝えられるが詳細は不明である。その後、応永18年(1411)伊集院頼久の所領となった。しかし同21年(1414)島津家8代当主・島津久豊が肥後球磨の城主・相良氏の援軍を得て駒を返し頼久を攻め、戦勝を祝して)「喜入」に改めた。付近には何万ヶ宇都、駒返り、太刀討ヶ迫、陣之尾、弓指などの字名が残り、当城をめぐる激しい戦闘を物語っている。また当城の北方には出城として上籠城と内城が置かれていた。文禄4年(1595)より代々肝付氏の居城となった。承応2年(1653)4代領主兼屋のとき、現在の麓(喜入小学校)に居館を移すまでの間、ここが麓として政治の中心的役割を果たしてきた。 喜入旧麓フットパスマップ。(鹿児島市観光農園 グリーンファーム ホームページから)
2021.05.05
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5月3日(憲法記念日)の今日、娘の運転する車で喜入の旧麓一帯を訪ねた。最初に訪ねた「ふれあい広場」の入口近くに「田の神」があった。鹿児島では「たのかんさあ」と呼ばれ親しまれている石造物である。 案内文によると、この「たのかんさあ」は元文元年(1736)天神近くにあったと伝えられたものが、この地に移設されたという。昔は苗代をするときと収穫の時には祭が行われた。しかし現在は、鹿児島の寺社で7月に各神社ごとに開かれる「六月灯」に合わせて行われる。この田の神は、像の高さ約57cm、右手に杓子、左手にスリコギ、頭にはコシキのミキをかぶっている。形は神職型。なんともユーモアあふれる「たのかんさあ」だ。 田の神は薩摩・大隅・日向の一部(都城周辺)にあり、日本の農耕民の間で稲作の豊凶を見守り、また稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。 杓子:飯、汁などをすくう皿型の部分に柄がつけてある道具。 スリコギ:すり鉢でモノをつぶす木の棒。 コシキのミキ:日本酒の原料米を蒸すための大型の蒸し器。 田の神の型式:1,仏像型→僧型→旅僧型 2,神像型→神職型→田の神型(または神舞神職型) 「ふれあい広場」には駐車場もあり、ここに止めて旧麓を散策できる。水車が回り、きれいな水が流れている。 「ふれあい広場」を望む すぐ近くには「旧麓研修センター」がある。 ここには毎年の干支の動物の造形物が飾られるとのことで、大きな立派な牛が飾られていた。
2021.05.03
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