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3月14日(日)日置市吹上町永吉の史跡を中心に訪ねた旅もいよいよ最終章となった。実は行く前からロマンチストのKくんから日本三大砂丘の吹上浜を訪ねようかという話があっていた。他の3人も異議があるわけがない。(歳はとっても昔は若かった私たちである) この日、最後まで「本〇どん」にお世話になり、案内されたのは永吉川の河口に広がる東シナ海に面した夕日を眺める絶好ポイント。 一番上の写真撮影時間は17時48分。 お爺さんたちの影も夕日にも負けず、サマになっている。と思いませんか。 う~ん いいねぇ! 我ながらよく撮れている。(自画自賛) 永吉川の河口。 先の方が東シナ海。 永吉川の河口。 この辺りはその昔、貿易港として栄えたという。 時間を追って撮影してきたが、いよいよ夕日が海面に沈む時が近づいてきたようだ。 あっ! 肝心なときになって雲が!! ああ あ! 二つの点しか見えなくなってしまった。これを最後に夕日とお別れとなってしまった。「本〇どん」の話では、「夕日が海面に消えるまで見ることが出来るのは年間数日しかないですよ」とのこと。納得する。 しかし滅多に見ることのない東シナ海に沈む太陽を見ることが出来ていい旅の締めくくりになった。「本〇どん」ありがとうございました。 最後の写真撮影時間は18時18分。撮影を始めてちょうど30分経過していた。 それより前、「本〇どん」宅にお茶に呼ばれて鹿児島銘菓「かからん団子」や「いこ餅」などをいただいた。また帰りには「わたの花」をお土産にいただくなど、奥様にも大変お世話になった。 奥の孟宗竹の山も「本〇どん」宅のもので、もうすぐ筍狩りも出来るそうだ。 「本〇どん」はブログ「中期高齢者である田舎人のタワゴト」を書いておられる。ウエブ検索すれば読むことが出来る。
2021.03.31
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上の写真は園林寺跡墓地(おんりんじぼちあと)にある廃仏毀釈により破壊された仁王像。阿形像か吽形像かもわからず、対であるものが一体しかない。腕の形から見て吽形像か。? ここは2回目の訪問。2012年12月13日に「小松帯刀ゆかりの吉利麓を歩く」で紹介している。 小松帯刀は、幕末に活躍した島津家家老・小松帯刀清廉(こまつたてわきかどきよ)として有名。帯刀は、1835年喜入領主・肝付兼善の三男・尚五郎として生まれ、のち吉利領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清廉と改名する。その小松家はもともと禰寝(ねじめ)姓を名乗っていた。文禄4年(1595)豊臣秀吉の命によって大隅禰寝院から吉利へ移封されていた。 吉利領主となった帯刀は吉利の治績に尽くし「小松家の名君」と呼ばれる。島津斉彬の死後は側役に昇進した大久保利通などの下級武士を重用するなど島津久光・忠義を補佐した。文久2年(1862)島津家家老に昇進、倒幕に向けての薩長同盟や大政奉還を将軍・徳川慶喜に進言するなど明治維新の礎を築いた。明治維新後の活躍を期待されていたが、36歳の若さで亡くなり、その早すぎる死は維新後の活躍が果たせなかったことを惜しみ「幻の宰相」と呼ばれている。 夫人・お近の墓碑。 きれいに並ぶ墓碑群。 第二婦人 お琴の墓碑。 珍しい「弥陀三尊像」 園林寺 歴代僧侶の墓。 横綱 陣幕久五郎 寄進の灯篭。 珍しい石造物の宝庫でもある。四地蔵塔?
2021.03.29
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上の「大辻石塔群」は島津忠義(日新公)に敗れるまで、日置南郷(へきなんごう)を支配した桑波田一族の墓所と言われる。大きな木の下に整然と並べられて地域の人に守られている様子がよくわかる。鎌倉時代の前までは、現在の竹下田圃や永吉市街地などは、海であったそうで、桑波田一族などが住んでいた頃は丘陵地であった。そのため、ここ草田原地区に、当時の集落は集中していた。その一角には「愛宝寺跡」という古寺跡も存在する。 ここに綺麗に復元されているが、復元されるまでは、この近辺の畑に散乱したまま埋められていたという。それを本〇どんなど永吉南郷会の方々が掘り起こして整備復元されたという。 この樹木の奥は桑波田一族の居城であった南郷城の曲輪(ここでは堀)である。 現在、曲輪の手前には温室などがあって、作業する人の出入りはあるものの、一般の人が訪れるような場所ではない。柵もないので、知らずに踏み込んだら奈落の底に落ち込むのではないかと思うほどの深い堀になっている。 南郷城の築城年代は定かではないが、桑波田氏によって築かれたと言われる。桑波田氏は紀氏姓で伊集院桑羽田覚弁が平安時代末期に南郷を領したことに始まる。南郷城は永吉小学校の北に聳える標高94mの山に築かれている。切り立った断崖のあるシラス台地に築かれた群格式の山城で、東西に延びた尾根に曲輪を連ねている。曲輪は西から野頸城、根子城、高城、東の城などの曲輪があり、このうち高城が本丸に相当する。 島津日新公は、桑波田一族との戦いに勝利したあと、敵味方を共に供養しようということで「六地蔵塔」を建立した。永吉のこの六地蔵塔が最初に造られたものだといわれ、南さつま市加世田など全国13ヶ所に造られているという。
2021.03.27
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梅天寺跡墓地のことは前回も書いたように永吉島津家初代当主・島津家久(中務大輔)が眠る。詳細は2016年4月4日の当ブログに書いているので、興味のある方は参照願いたい。私にとっては、ここも4回目の訪問である。 島津家久(中務大輔)と豊久親子については、永吉南郷会前会長で現在語り部を務めておられる「本〇どん」が2019年と2020年の2回にわたって鹿児島市の「伊敷歴史研究会」で講演をされている。2019年は「島津四兄弟の末弟 島津家久の実像に迫る!!」、2020年は「戦国武将」島津豊久の生涯について、というそれぞれのテーマであった。私が特に興味深かったのは、この梅天寺跡墓地に眠る家久が豊臣秀吉の九州征伐のとき、最後の根白坂の戦いに敗退し、幾多の戦いから解放されて、佐土原に帰り久しぶりに安息の時を迎えていたときの出来事である。豊臣側からの指示・説得により、これまでの領地・民の安堵、自身の上洛、それなりの扶持を受けること、さらに今後は豊臣の指示による扱い(豊臣大名)を承認することなどの条件を自分自身の判断で行い、「恭順」を示したことで佐土原に来ていた秀吉の弟・秀長もこれを了とし、秀吉の了解を受けての夕食会が開かれた。家久が恭順を示したことで、秀長について上洛することは、豊臣方からみれば、家久を歓迎する意味での夕食会であった。ところがその目出度い宴会が終わったあと、家久は激しい腹痛を覚え、その夜以降、嘔吐と腹痛が続き、遂にその翌日天正15年(1587)6月5日家久は急死してしまった。その急死の謎については当ブログ2019年10月25日に「本〇どん」の講演を中心に「島津家久 急死の謎」ということで書いている。 中和田の光専寺の「大魯和尚の墓」に参る。ここは一番最初に永吉を訪問した時、案内板に従って訪ねて行ったが、結局たどり着かなかった場所である。今回「本〇どん」の車の後をMくん運転の車で付いて行ったが、途中で何回も車の離合が出来なくて大変だった。あの時、と探し出せなかったのも納得した。 大魯和尚は大阪・堺の慈光寺の住職で本願寺智洞派の四天王の一人とうたわれた高徳の僧であったが、江戸時代三業惑乱で追放され、あと世を逃れ肥後・天草を経て鹿児島に入り真宗を広めた。当時真宗の教えは厳しく禁じられていたので、細布講(ほそぶこう)、煙草講(たばここう)の名で深夜洞穴などで教えを広めた。まわること30年、多くの人に慕われた。天保7年(1836)年、永吉の,上草田で没した。中園氏屋敷に葬ったが、明治22年ここ光専寺に改葬した。(案内板と「永吉地区史跡マップ」による)
2021.03.24
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吹上町永吉の香港ダイニング「聚福園」で美味しいランチを食べて、しばし「本〇どん」持参のヘラブナの写真など見て団らん。午後一番の訪問先は永吉島津家墓地・天昌寺跡。4回目の訪問となるともう我が家の庭みたいな感じ! というのは言い過ぎかな。もうすっかり馴染んでしまって懐かしい感じさえする。これだけ訪れるのも「本〇どん」との親交があってのこと。今回は初めての訪問者も二人同行して本〇どんを紹介した。ここに私が最初に行ったのは、ブログを見ると2015年11月13日になっているので、約5年半前のことになる。この時、墓地に「本〇どん」(当時、永吉南郷会会長)のメモ書きがファイルに入れて置いてあり「お電話いただけば、ガイドして差し上げます」とあった。私は携帯電話は持っていないので、帰ってから電話して2016年正月早々、打ち合わせた後、訪問してお会いしたのが初対面であった。当日は、お互い歴史好き同士で意気投合。初対面なのにご自宅に招待され、奥様にも手厚くもてなしていただいた。 天昌寺跡墓地についは、以前にも書いているが、島津貴久の四男で前期佐土原家(宮崎県)の当主であった島津家久(中務大舗)を初代とする永吉島津家の菩提寺跡墓地である。家久は兄・義弘を助けて多くの軍功を挙げた。家久は元亀元年(1570)に薩摩串木野に薩摩串木野城、次いで天正7年(1579)に佐土原城主となる。また天正12年(1584)に義弘とともに沖田畷(おきたなわて)の戦いに参戦し、敵将・竜造寺隆信を討ち死にに追い込める大殊勲をあげた。その後、天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州征伐が本格化し、家久は日向方面の防御を担当するも秀吉の弟・秀長の軍勢に押され、降伏した。同年6月5日急死する。墓地は佐土原と、ここ永吉の梅天寺跡墓地にある。 ここ天昌寺跡墓地には永吉島津家2代目・島津豊久(上の写真)以降の墓碑がある。「二代目日向佐土原城主島津豊久公墓」「永吉島津家第二代領主島津豊久公の墓」と書いてある。豊久は家久の嫡子。前期佐土原家第2代当主。領地は佐土原など979町(2万8600石)であった。豊久は伯父・義弘に従い、小田原征伐や朝鮮出兵などに参加する。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでも西軍・豊臣方についた義弘とともに戦った。そして決戦の最終盤、影武者となって義弘の戦場離脱を助けたが、烏頭坂(岐阜県大垣市)で徳川に討たれた。31歳という若さであった。墓地は佐土原にもある。このことにより前期佐土原島津家は2代で断絶した。 この天昌寺跡墓地は私の知る限りでは、2014年2月19日に書いた宮之城島津家の宗功寺墓地や2015年10月23日に書いた日置島津家の大乗寺跡墓地などと並ぶ立派なものだと思う。あるいはそれ以上かもしれない。 清心院殿の五輪塔式墓碑 武功院殿の五輪塔式墓碑 興雲院殿墓碑の祠型 上の墓碑のように五輪塔型や祠型が所狭しと並んでいる。 六地蔵塔。 戦没した敵味方の霊を慰めるためにつくられた。
2021.03.21
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固いくてマニアックな? 歴史旅はよく歩くこともあって途中の食事はいつも楽しみの一つである。ということで、今回の旅で「本〇どん」予約されていて案内いただいた「香港ダイニング聚福園」香港出身の店主・蔡さんが2008年オープンと聞く。 「かごぷら」の店からのメッセージには次のように書いてある。13歳で香港広東料理界に入り、ワシントンホテル「チャイナテーブル」でも修行したシェフが広東料理をベースに創作料理を提供しています。美しく豊かな自然に恵まれた永吉で食、暮らし、風景をお楽しみください。 11時30分ごろには店に着いたが、入口に「本日は予約客で満席です」と表示され、フリの客はもうお断りになっていた。 料理はデザートまで6品。新鮮な野菜のサラダなど、盛り付けよし、味よし、ボリュウームあり。おまけにまたすぐにでも行きたくなるような値段であった。
2021.03.18
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「西郷隆盛御座石」を後に、向かったのは坊野上にある「西郷殿屋敷跡」。ここを知ったのは、昔読んだ 阿井景子著「西郷家の女たち」(平成元年・1989年8月10日 第一刷)の「あとがき」(昭和61年・1986年書いている)を読んでからである。そこには概略次にようなことが書いてある。 「そんなところに行っても、何もないのでは・・・・・・」”坊野(日置郡吹上町)に行く”という”私に、鹿児島ではあやぶむ声もあった。しかし私は鹿児島取材を思い立った時から坊野・西別府をコースに組み入れていた。 あとがきはこのような書き出しに始まり、「坊野」に行きたいと思ったのは、文献に西郷家に仕えた女中・よしの家がそこにあるというのがわかったからだ。すでに吹上町役場の佐土原さんには連絡済みで南日本新聞の高柳さん(「西郷隆盛伝・終わりなき命」の著者で後に西郷南洲顕彰館館長)が同行してくださる段取りがついていたとある。吹上町では佐土原さんの案内で「よしの家」に案内され、よしの子孫・黒川ゆきえさんから吉之助(隆盛)やいと(隆盛の妻)の話を聞くことが出来た。ゆきえさんは、西南戦争の時、いとが女・子供たちを連れて避難した当時の場所に住んでいた。下の案内板にあるように西郷はよし夫婦に家を一軒建ててやったが、よし・仁太夫婦は西南戦争後その家は売ってしまっていた。その理由をゆきえさんは「広か家なので、西郷さんの魂が籠っているようで、こわかったとおばあちゃん(よし)が言うておりました」と語ったそうだ。「よしさんが売った西郷さんの家は、この山の上のほうに残っていますよ」前もって調べてくださっていた佐土原さんが、舗装の切れたデコボコ道を誘う。「あの家でしょうか」高柳さんの車を下りた私は、竹藪に囲まれた家を指差した。「あんなものではないでしょう」高柳さんは言下に否定し、「西郷さんが建てた家ですから、きっと立派だと思いますよ」と言う。道路から細い坂道を上がると、山を切り開いた場所に二軒の家がみられた。佐土原さんがその一軒に近づいて行く。なるほど高柳さんの言葉通り、吉之助がよしに与えた家は立派で堂々としていた。百十年の歳月が感じられぬほど真新しく、がっしりしている。「手を加えられたのですか」「いいえ、土間を少し広げただけで、むかしのままです」住んでいる婦人は、西郷さんの家とは知らずに、私の問いに答えた。 以上の他に、この後、鹿児島市内の西別府の西郷さんの野屋敷を訪ねたことが書いてある。これを数年前に読んだ私は、特別な感慨を持つこともなかった。しかし、先日来、Kくんから回してもらった井口富雄さんの「史跡ひとり歩き」を読む中で私が昔住んだ鹿児島市武町にあった「西郷屋敷」の写真を見て、そこに住んだ人々の事を思い「西郷家の女たち」を再読した。そして驚いた。なんと「よし」の家が親交のある「本〇どん」の住む吹上町永吉だという事実である。そこで、よしの家が現在もあれば、訪ねてみたいと思い、本〇どんに詳細を書いてメールした。日を置かず返信がきた。地元の事ゆえもちろんご存じのことであり、いつでも案内しますという嬉しい知らせだった。私は「高校同期歴史同好会」のメンバー3人に呼び掛けて、この「永吉史跡めぐり一日旅」が実現した。当日はMくんが車を出してくれるということでMくん宅を午前8時に出発したのだった。 ほん〇どんの話によると、この「西郷隆盛開墾の碑・手水鉢」のところにある家はよしの家だが、西郷さんがプレゼントした家は柱野にあった。今はもう壊されているとのことで、見ることは出来なかった。 (西郷隆盛開地の碑) 西郷さん手づくりの手水鉢 同じ場所ある昔の家は空き家になっている。 上の写真にある西郷隆盛手水鉢(西郷屋敷跡)・開墾の地は坊野上にある。西郷さんがよしにプレゼントした家は柱野にあったが、現在は壊されていた。
2021.03.17
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黒川洞穴を見学した後、「西郷隆盛御座石」見学に向かう。先ずUターンのため、永吉ダムまで行く。上の写真の堤防の向こう側に満水のダムが広がっていたが、車上からのため、写真は撮り損なってしまった。残念! ダムからUターンして「西郷隆盛御座石」へ。 木々の間を100mくらい歩く。参観者が多いのか歩きやすい山道だった。 明治6年(1873)いわゆる「征韓論」争に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰り、先日当ブログにも書いた鹿児島市武の西郷屋敷を拠点に多くの青少年など子弟を育てた。吉野に農地の開墾などにも励んだが、県下各地に出かけて狩りを楽しんだりしていた。 ここ吹上町永吉の坊野地区にも狩りに訪れていた。この石(縦3m、横2m、高さ1mで上の方が平になっている)に腰かけて村人との会話を楽しんだ様子が下の案内板に書いてある。 次回は今回の一日旅の最大の目的であったここ坊野に何故西郷さんが狩りに訪れ、いろいろな足跡を残したのかということを書く予定です。
2021.03.16
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鹿児島県日置市吹上町永吉は歴史探索を始めた私にとって「本〇どん」という永吉在住の歴史研究家と友人になって、かけがえのない所になっている。そのきっかけというのは私が島津家の歴史を調べる中で「島津四兄弟」に大きな興味を持ったことに始まる。四兄弟の祖父である島津忠良(日新公)やその子・貴久、さらの貴久の子供たち・いわゆる島津四兄弟の生まれた伊作城(亀丸城)がが吹上町伊作にあり、また四兄弟の末弟・家久(中務大輔)を初代とする永吉島津家墓地が吹上町永吉に天昌寺、梅天寺としてある。それらの史跡を訪ねる中で当時 永吉南郷会の会長だった「本〇どん」のブログを知り、連絡をとって案内をしていただいたり資料をいただいたりするようになった。 その後、私の高校の同期生でつくる「歴史同好会」の仲間たちにも「本〇どん」を紹介し、更に交流は広がっている。今回新しい仲間二人とKくんと私の4人でまた永吉に行くことになり、昨日14日、七呂三叉路で待ち合わせての史跡訪問が始まった。 先ず向かったのは坊野地区にある「黒川洞穴」。 ここは私も初めて訪ねる先である。 上の写真の黒川神社の赤い鳥居を出発すると途中、永吉川の源流(二俣川)架かる鉄橋を渡る。 手入れのされた杉林の中を進む。 黒川洞穴の入口10mくらい手前に仁王像があった。日置市坊野地区公民館発行の「黒川洞穴のしおり」によると、この仁王像は享保9年(1724)に建てられている。仁王像は伽藍守護の神で、両脇に鎮座し一対の半裸形の金剛力士で、神社御殿の守りをするものである。 右側に口を開けた阿像。 左側に口を閉じた吽像。いずれも廃仏毀釈により欠けた部分がある。 このような洞穴の発見が昭和27年という比較的新しい時代であったということに先ず驚いた。「黒川洞穴」は7千年前の縄文時代前期から2千年前の弥生時代後期まで数千年の間、人が住んでいた。洞穴の位置は薩摩半島のほぼ中央に位置し、標高84mのところにあり、細長い谷の南を向いた斜面にある。日本3大砂丘の一つ、吹上浜から東約5kmの地点にあり、狭い山あいに沿って川を渡りその山腹にある。その土質はやや凝結した火山灰(シラス)である。これが縄文時代から現代まで続き、全国に90ほどの洞穴があるが、九州では「黒川洞穴」と「溝の口岩穴」(鹿児島県曽於市財部町)の二つが確認されている。洞窟の中は現在立ち入り禁止となっていて入ることはできない。 発掘調査の経過は次のとおりである。発掘を始める発端は、昭和27年(1952)頃、坊野小学校の辻正徳教諭が学校に保管されていた土器の破片、貝殻、獣骨等を鹿児島県文化財委員の河口貞徳氏に見てもらったところ縄文土器の破片等であることがわかったことだった。先に書いた公民館誌によると案内板の4回とは違い、これまでに3回(昭和27年~40年)の発掘調査が行われた。昭和39年(1946)の調査では、3千年ほど前の25歳~30歳と推定される女性の人骨が出土し、当時の埋葬方法を裏付ける人骨でもある。また自然遺物の中に、二ホンオオカミ、ツキノワグマの骨も確認され絶滅した二ホンオオカミが縄文時代には鹿児島にも生存し、坊野付近にいたことが判明した。黒川洞穴は平成16年(2004)4月に鹿児島県の文化財に指定された。同行したMくんは前記・河口貞徳氏が私たちの高校の先生であり、「考古学部」の顧問だったことからクラブ活動で「考古学部」に入っていた。先生は長年 県の考古学会の会長をされていて、先年100歳近い人生を全うされた。因みに私の高校2年生時の担任でもあった。 下の写真は西側の洞窟。入口の幅が約13,3m、高さ約6m、奥行きは、岩塊崩落により確認することは困難だが、相当深く入口は南向きで東北を向いている。 東側の洞穴は、入口の幅、約11m、高さ約4,35m、奥行き8,4mである。穴は東西を向いて、内部は土塊の崩落がなく平坦である。
2021.03.15
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娘のところの長男が3月22日いよいよ就職のため上京することになった。門出を祝っての激励会は13日に3密を避けて、娘家族と我が家だけで、セットしてあるのだが、先日その孫(長男)が我が家に来た時に何かの話から「牛たん」を食べてみたいという話になり、私たちが一回行ったことのある「利久」に連れて行くことになった。次男(大学一年生)も一緒に連れて行こうということで、アルバイトの都合なども考えて、今日という日になった。11時30分に鹿児島中央駅のアミュプラザ鹿児島の5階で待ち合わせて、ジージ・アーちゃんと男の孫二人とのランチとなった。 二人とも好きな定食メニューを平らげたあと、居酒屋メニューの一品料理なども追加して食べて、大満足の様子だった。 そのあとがまた傑作でアーちゃんが10数年前孫たちと乗った大観覧車に乗ってみたいと言い出したのだ。孫たちも、ここは付き合いと思ったのか、まあまあ素直についてきた。ここはジージも思い出作りと思って付き合った。 観覧車が動き出すと、決していい天気とは言えないまでも上空に雲か煙かがたなびく桜島も見ることが出来た。 (下の2枚の写真は鹿児島中央駅東口方面) この写真に見る旧来の鹿児島本線は左右に走っている。写真で見る縦方向の白い大きな屋根の下が鹿児島中央駅の新幹線ホームちょうど山の下のトンネルから新幹線が走ってきた。先日来、当ブログに書いた「西宇豪邸跡」や「島津どんの墓」はこの写真ではトンネルを出た左側に位置する。 (下の2枚の写真は鹿児島中央駅西口方面) 前に見えるビルは、まだ開館していない鹿児島中央駅の前の再開発ビルの一つで現時点で鹿児島で一番高いといわれる24階建てビル。 二人とも175CMの身長になって昔172CM(現在は60CM台)あったジージを追い抜いてしまった孫たちとの楽しい一日は終わった。
2021.03.09
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( 写真はいずれも2018年10月撮影)先日の昼間のことだ。スマホをとった妻が驚いて、そのあと懐かしそうに話をしている。誰かと思っていると、妻が私にスマホを手渡した。 電話に出て驚いた。なんと相手は10数年ぶりのF子ちゃんである。実は、彼女、私が長崎に勤務していた時に新入社員として18歳で入社してきたのだ。思わず幾つになった、と聞くと64歳になりましたという。そこから自分の年齢と差引してみると、当時私は35歳だったことになる。 F子ちゃんの実家は福岡県のO市にあったが、当時彼女のお父さんがO市の会社の責任者をされていたので、親の会社では不都合もあろうということで長崎に入社したのであろう。私は北九州あった九州支店に入社した当時から、支社会議にみえるお父さんとはよく顔を合わせ、そのうち何故か気に入られて大変可愛がっていただくようになっていた。その私が長崎支店に転勤になり、2年目にF子ちゃんが入社してきたことになる。入社してきた日はご両親も一緒に長崎までみえて、初めて知らない土地で仕事をするF子ちゃんのことを心配されている様子だった。その夜は、長崎の中華街にある「江山楼」に私は招待を受けて、御両親、F子ちゃんの4人で食事を御馳走になった。電話で話をしながら、その時代のことが走馬灯のように頭を駆け巡った。 F子ちゃんは、私が長崎在勤中には我が家にもよく遊びに来てくれて、妻や子供たちとも仲良くなっていた。ある夏、社員旅行で五島に行くことになって、家族参加もOKということになった。私は手間がかかることはわかっていながら、子供たちを連れて行くことにした。小学生だった長女と長男、それに幼稚園児だった次男の3人である。妻は私の母が鹿児島から遊びに来ていたためその世話で、一緒に行けなくて、女子事務員さんやその家族の皆さんに子供たちの面倒をみてもらうことになった。初めての長い船旅だったが、船酔いによる大きなハプニングはなかったのだが、夜の宴会で当時M重工から出向でみえていた酒の勧め上手な支店長に乗せられて飲んだ一杯のビールに酔ってすっかり寝込んでしまって、子供たちの面倒はみた記憶がない。昼も夜もF子ちゃんを中心とする女子グループに任せきりだった。ほんとに申し訳ないことをしたものだ。 その後、3年間いた長崎から私は山口県の徳山の店へ転勤、F子ちゃんは長崎のM重工の社員さんと結婚をして幸せに暮らしている。私が4年間いた徳山を最後に鹿児島に帰って、グループ会社として独立するときは数年前にO市でグループ会社として独立されいたF子ちゃんのお父さんの勧めやアドバイスがどれほど力になったかわからない。鹿児島市での会社もどうにか落ち着いて、数年後国分に営業所を開いたときには、F子ちゃんから電話がきて「自分の高校時代の親友が国分に嫁いでいる。よかったら事務員としてパート採用でもしてくれないか」というやり取りがあり、採用し、彼女も長年仕事を続けてがんばってくれた。 私は、鹿児島に帰って約40年、F子ちゃんののお父さんとは、その間にも在職中の約10年前までは毎月の福岡での支社会議や東京の親会社での年2,3回の会議などいつも一緒だった。それのみならず、出張の前後にはO市のご自宅にお邪魔したり、温泉に行ったりした思い出はつきない。そのお父さんも10数年前に亡くなってしまった。 そうそう、私たちが鹿児島に帰った後、夫婦で長崎に行くことがあり、それをF子ちゃんに連絡したところ、彼女が佐賀県の太良町で「蟹」を御馳走してくれるということで佐賀で落ち合ってご馳走になったこともあった。 今回、F子ちゃんの電話をきっかけに、お互いの孫の写真をやり取りしたり楽しいひと時を過ごすことが出来て、次に長崎に行くときは会おうということになった。ほんとに人の縁は貴重で不思議なもの、そして大事にしなくてはいけないと、改めて思った「長崎から架かってきた一本の電話」であった。
2021.03.07
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鹿児島城(鶴丸城)から本丸の表門である「唐御門」の礎石が発見されたという記事が先日の南日本新聞に掲載された。このニュースの少し前には、島津斉彬を祀る照国神社の横から城山に向かう遊歩道の斜面に「大手門」の跡が発見されたというニュースも報道された。新聞による概要は次のようである。 昨年復元された「御楼門」と」「大手門」、それに今回の「唐御門」で江戸から令和までの鹿児島城の歴史を物語る三つの「門」がそろい踏みした。唐御門については県立埋蔵文化財センターが昨年末から調査していた。礎石は凝灰岩製で縦横約60センチ、厚さ50センチ。上面に柱が立ったとみられる30センチ四方のくぼみがあり、その中央に縦横13センチ、深さ6センチほどの穴が開けられていた。穴には明治初めに焼け落ちた際のものとみられる炭が残っていた。鹿児島城の唐御門は、大きさや構造など詳細は不明。今回出土した礎石も主柱のものか、脇柱のものかは判断がつかないという。1月に出土し現在は埋め戻されているという。 唐門は屋根にアーチ状の唐破風(からはふ)で装飾された門で、二条城(京都市)や日光東照宮(栃木県)のものが知られる。鹿児島城の門は江戸時代の絵図などから正面に唐破風が付いていたとされる。 御楼門が復元される前の入口の橋 橋の先に復元された御楼門 突き当りを右折してその先の階段を上った所に「唐御門」があったようだ。 私がこれまで写した中に、そのものズバリの写真が見つからなかったが、石垣の左際に見えるの2本の柱の辺りに唐御門あったそうである。この門柱は左右に長短2本づつある。この門柱は旧制第七高等学校のものである。七高は明治34年に創設している。今回その校門そばから礎石は出土した。なお、この中にあった本丸跡には鹿児島県歴史資料センター・黎明館がある。
2021.03.05
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旧寿国寺跡 島津家墓所(改葬前)(島津久敬氏提供)ということで「武郷土誌」より 鹿児島市武町にある西郷屋敷跡周辺の変貌はこれまでも取り上げてきた。今回改めて「鹿児島城下絵図散歩」や武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行(昭和49年2月20日発行)の「武郷土誌」を見る機会があり、昔の思い出が蘇ってきた。 一番下の地図等は区画整理のあった昭和48年以前のものであるが、私はこの武町に昭和23年から28年まで住んでいたので、この地図等の通りの環境であった。 上の写真は、下の「鹿児島城下絵図散歩」地図では「寿国寺」区画図では「島津どんの墓」と書いている通称「島津どんの墓」である。私たちの遊び場でもあったが、ここには島津家のご家族の4基の墓碑があった。この墓碑は区画整理等により、玉龍中高校の上にある島津家の墓地・福昌寺跡墓地に移されている。それを追った詳細記事は2013年6月25日付けの当ブログに書いている。 下の写真も同じく「武郷土誌」より 島津家墓所の一段下にあった「二階堂家の墓」二階堂家は鎌倉時代からの名家であった。たくさんの墓碑があった記憶がある。この二階堂家の墓も東京に移されたと聞いたことがある。今は亡き衆議院議員・二階堂進氏はその子孫である。 下の2枚の西郷屋敷の写真も「武郷土誌」から転写したが、先日(2021年2月11日)に「史跡独り歩き」からということで紹介した「西郷屋敷の全景」と同じ時代のものである。私もこの周辺で遊びまわっていたころの記憶が戻ってきて、門構えなどを思い出すことが出来た。 現在の「西郷屋敷跡」の表示板 西郷屋敷跡の公園から九州新幹線の高架を見ることができる。左側に新幹線最後のトンネルがあり、右側が「鹿児島中央駅」である。 鹿児島城下絵図散歩から転写した西郷屋敷周辺地図。作成年代はほぼ安政6年(1859)ごろ。地図の中央辺りに「二階堂邸 六百九十坪」とあるが、ここが「西郷屋敷跡」として公園になっている。 鹿児島城下絵図散歩から転写。上と同じ地図上に現在の状況が書き入れられており、「西郷屋敷跡」や最近の町名、「九州新幹線」などとある。しかし、昭和42年から48年までの計画で始まった区画整理事業や、九州新幹線乗り入れによる線路敷設などでこの周辺は大きな変化を遂げている。 〇印が我が家が借りていた借家
2021.03.03
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西郷家家系図(阿井景子著「西郷家の女たち」より) 先日書いた西郷家の墓地に葬られた「徳嶋仲祐」の墓碑を訪ねた時に西郷家の家族の墓碑の写真も写してきた。ただ先日も書いたように墓碑のほんとんどが経年変化による摩耗と苔に覆われることによって文字が読めない状態であった。 西郷家の墓地はもともと南林寺にあったのだが、南林寺は明治2年(1869)の廃仏毀釈によって廃寺となったが、その後も墓地だけは残った。しかし、その墓地も大正期になると市街地計画の中で移転することになり、西郷家の墓地も整理することになった。これらの墓は大正11年(1922)までに、西郷隆盛と愛加那との間に生まれた西郷菊次郎によって移転整理された。それより前、菊次郎は墓地の近くにある町・薬師町に引っ越していた。そのために墓地も住居の近くに移転したものと思われる。 南林寺墓地から移転された墓碑は23基あり、20基が西郷家の墓であり、3基は西郷家に仕えた人々の墓である。そこには西郷隆盛の父母や祖父母の墓がある。 隆盛の父・吉兵衛の墓には、隆盛という名が本当は父のものであることがわかるように右側面に「西郷吉兵衛隆盛」と刻まれている。 父吉兵衛の横に母「まさ」の墓碑が並ぶ。 墓地の中でひときわ目立つのは弟・吉二郎の墓碑である。中央正面に「西郷吉二郎隆廣之墓」と刻まれ、裏側には慶應4年(1868)こと明治元年に越後五十嵐川で負傷して、柏崎の病院で亡くなったことが刻まれている。 吉二郎の最初の妻・「ます「」の墓か。 吉二郎の後妻「園」の墓。 この新しい墓碑は西郷菊次郎のもので、正面の揮毫は吉田茂によるものである。 参考資料 阿井景子著「西郷家の女たち」 ネット 鹿児島商工会議所ホームページ 他
2021.03.01
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