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十数年書いてきた拙いブログに我が家の一年を振り返って「十大ニュース」」という大げさなタイトルで書くのは初めてのような気がする。だが、とにかく振り返ってみようということで一年間の動きを記してきた手帳をパラパラとめくって拾い出した。こんなこともあったかと、忘れていた事も多かったが、それよりも一つ一つの出来事が先日のことのようだったという気がして、月日の経つそのスピードに戸惑うばかりである。但し、十大ニュースとしたが、順番はつけがたいものがあった。 1,娘の長男が東京の企業への就職のた上京。(明日初めて帰省する) 2,息子(長男)の長男が琉球大学工学部に合格。(嫁の実家が沖縄に近いため、実家では大喜び)3,家屋の屋根、壁の塗り替えなど久しぶりのリニューアル。4,今年も誕生日の「上町五社詣り」が元気でできた。5,息子(次男)の釣果大なり。(鯛65cm,ハマチ70cm,ブリ3本等などなど・・・)6,楠声会、めぐみコーラスの練習に行くことができた。(週2回など不定期ではあるが) 唯一のステージ・県合唱祭では長渕剛の「乾杯」を高らかに歌った。めぐみコーラスは不参加。7,ブログを100回以上書けたこと。(来年もこれくらい書けたらいいな!)8,史跡訪問ができたこと。(荒田八幡、喜入麓、小野町、姶良・霧島、甑島他)9,梅ジャムなど梅製品(梅は本○どん宅でいただく)、果物ジャム、ラッキョウ漬けつくれたこと。10、コロナ禍の合間を縫っての小旅行ができた。(指宿1泊、霧島・垂水バスツアー、甑島2泊など) 来年もいい旅をしたいな。 皆様、一年間おつきあいいただき、また心温まるコメントもいただきありがとうございました。くる年もよろしくお願い致します。私も薄れゆく頭髪と脳に刺激を加えつつ、健康寿命保持のために虚しいかもしれない努力を続ける所存ではあります。 皆様 いいお年をお迎えください。
2021.12.29
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「鹿児島市電 上町線の思い出」は2012年6月に書いたものだ。当時はワードで書いたエッセイなどフロッピーデイスクに保存していたが、世の中がUSBカードなどに移っていく中で、フロッピーは新しいパソコンでは使えなくなっていった。それでも必要に迫られて「外付け」のフロッピーディスク・ドライブを買って使っていたが、それも故障しお手上げの状態になった。そのため、印刷していないエッセイは今は見ることができない。このエッセイはブロ友だった今は亡き「やまももさん」からの依頼があって「やまももの部屋」の「月下推敲」に投稿したもので、そこにしか残っていなかった。今回そこから逆に戻す形でここに再現した。これを書いてから既に10年近く経っているので、ここに書いた街の様子などは様変わりしているところもあるがあえてそのまま書いた。また、新設の電車路線の計画も10年経った現在も暗中模索のようである。 (下の写真は廃線となった「鹿児島市電 上町線 岩崎谷の高架線上を桜島をバックに市電」) しゅうさん撮影1985,9,29 鹿児島市電 上町線の思い出 最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。 1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後、近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていなとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。 こうした記事を見て思い出すのが子供の頃から馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく新設を検討される路線もあるということだ。そこに自分の年齢と時代の流れを感じる。 1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成によって、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったということか。つまり、1964年の東京オリンピックを境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することはできなかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。 私の市電の思い出は清水町電停から大学通り(のちの工学部前)電停に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。1953(昭和28)年、武中学校2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学年から清水中学校に転校することにして約半年間、上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通りまで通学することになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことができたのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたのだった。 高校は私達の学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩で行けるG高校に進学した。その3年間は市電を利用することは少なかったが、、天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を見るために学校を早退して市電に乗って見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演だったと思うが、現在の表現からすると他愛のないものだが、ちょっとドキドキづる場面もあり、懐かしい思い出になっている。 1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~竪馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から5分もかからない近くまで電車がくるようになったのだが、その恩恵を私が受けたのはわずか1年間だった。 この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅方向に直進せず、現在の医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院前電停を過ぎて坂を上り鶴丸城跡と薩摩義士碑を左に見ながら進み軌道専用道路に向かって大きく右折して少し進んだ高架線上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの狭くて長い階段を上り下りしていた。私は、この電停を利用したことは一回もなかったが、電車の上から見ても怖い感じの階段だった。ただここから見える市街地や錦江湾(鹿児島湾)の向こうに見える桜島は市電随一のビュースポットだった。 二つ目も岩崎谷に連なることであるが、逆の方から、つまり清水町を出発した電車が長田町を通り岩崎谷電停を過ぎると、左に曲がって坂を下るのだが、下る前に運転士が運転席の右側にある真鍮製のハンドブレーキをキリキリと音を立てて一旦停止をした後、おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、50年前のことにもかかわらず鮮明に覚えている。 上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。このところの史跡探訪で上町方面を数回歩き回ったりしたが、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺のことをよく知っていたので、その変容ぶりには驚く他なかった。友人たちの家もほとんど無くなっていた。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて心が和む。 大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら授業料は年間9000円でこれを前期、後期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると現在の価値では安い授業料だが、当時は我が家にとっては大きな金額でこれを納めるために母が苦労していただろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外のお金はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。中でも家庭教師はいいアルバイトで通算では小学一年生から高校受験の中学三年生まで10人以上の子供さんたちに教えるなどした。もちろん家庭教師の行き帰りにも市電の定期券は使ったが、学校に通う途中に鹿児島一の繁華街・天文館があったので、途中下車するなどフル活用した。 こうして市電は当時の私に欠くことのできない乗物だったが、鹿児島に帰って30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することは皆無に等しかった。ところが70歳になり「敬老パス」(料金は1/3)を支給され、この3年間、バスを利用することが多くなってきた。オジさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、その他の用事にも使用することが多くなった。市電にもたまにだが乗ることもある。 ただ、今回の市電新設ルート案5つをみても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望は、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながら、あの坂を上ったり下ったり、岩崎谷電停の高架線上から桜島を眺めてみたい。 (以上 2012年6月記) 補足 国立大学法人の授業料を国立大学当時の私達の時代と比べてみた。 昭和37年(1962)卒業当時 フランク永井歌う「13800円」が昭和32年にレコード化されている。 当時の年間授業料は9000円とすると初任給平均13800円の0,65倍。一方現在は大卒初任給平均 213000円。 年間授業料 535800円 2,5倍私達当時の入学金は忘れたが、現在は 282000円も払わなくてはいけないそうだ。 これをみても国立大学でも最近は裕福な家庭でないと行かせることはできないというが、そのとおりだと思う。国の施策が望まれる。
2021.12.26
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ブロ友・長崎のローズコーンさんのブログで「山茶花」の写真を見た。それが頭の中にあったのか一昨日グラウンドゴルフの時、いつもプレーする公園できれいに咲いた山茶花が目についた。歌心ならぬ花心もない私の視野に山茶花が見えたのはローズコーンのブログで見ていたからだろう。「よし、写真に写そう」と思って帰り、昨日のウオーキングの時に写したのが上の写真である。 山茶花は今を盛と咲いているのだが、もう一つ今を盛りと、今度は私達グラウンド仲間を悩ますものがある。それは下の写真にある4本の大木の落葉である。2019年12月17日にもこの落葉のことは書いているが、グラウンドゴルフをするためにこの公園を使わせてもらっていることもあって、鹿児島市と「公園奉仕作業」の契約をしているのだ。月に3回以上の清掃(草取り、整地、空き缶やゴミ拾いなどなど)をすれば良い。そして市から幾ばくかのお金が振り込まれてくるのだ。金額はお茶菓子代くらいのもではあるが、助かる。 それはともかく、11月中旬から1月の上旬にかけては紅葉した葉っぱが枯れて落ち始め作業する私達にとっては正に地獄の様を呈する。この2,3年は近所の人で田舎に畑を持っていて野菜をつくられる方が落葉を集めて肥料にするため自分で持っていかれていたので私達が掃除をするときは少ない糧しか残っておらず、助かっていた。ところが今年は全然その様子がない。他のメンバーからの話によると、「今年は腰を痛めていて、落葉集めができそうにない」との話があったとのことで私達もガックリ。昨年までは毎週土曜日だけ清掃していたものを今年は水曜日の人数の少ない日もやることにした。これまで一番多かったのは45L入るビニール袋に23個分あった日だ。昨年までの最高は20袋だった。この時期は草は一本も抜く暇はなく落葉清掃に専念するのだが、最近次々と体調不良で出てこれなくなったメンバーを除く最高8人のメンバーでこれだけの作業はきつい。グラウンドゴルフの前のこの清掃作業ですっかり疲れてしまう。しかし、そうも言っておれないので、黙々と皆で作業するばかりだ。 下の写真は水曜日に落葉をきれいに掃き取って、木曜日の朝 写した。いち1週間経つと地面は見えなくなっている。
2021.12.24
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JR指宿枕崎線の薩摩今和泉駅の北東300mにある今和泉小学校と指宿商業高校一帯は、今和泉島津家の屋敷跡で、宝暦4年(1754)に初代島津忠郷(たださと)が初代当主となる。跡地には石垣と手水鉢や井戸が残っているというがこの度は訪問していない。本宅は現在の鹿児島市大竜小学校の西隣にあり、4,600坪の敷地があったと伝わる。ただ、これは新生今和泉家と呼んだほうがいいもので、本当は南北朝時代から和泉家は存在した。このことについては後述する。初めの和泉家が絶えて327年経った延享元年(1744)新生今和泉家はとして3562石で再興した。家格は家臣団最高の四家(重富家、加治木家、垂水家、今和泉家)である御一門の一つで島津家第2代当主・継豊が弟・忠郷(たださと)に今和泉家を再興させ今和泉島津家としたものである。 所領地は、今和泉郷の他、佐多、伊佐、飯野、串良などの飛び地を含めて、やがて1万3000石以上の石高となった。 今和泉家墓地は初代忠郷から6代忠冬までの宝篋印塔や五輪塔、家祠型をした13基の墓石が123基の灯籠に囲まれ、江戸中期以来、この地を120年余りにわたり所領していた「殿様」の威厳を今日に伝えている。 今和泉家といえば「篤姫」。NHK大河ドラマ「篤姫」が放映されて一気に有名になった。篤姫の幼名は「於一」。5代(和泉家10代)忠剛の長女として生まれる。後に、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院篤姫となる。そのため島津斉彬の養女として大奥に入る。数奇な運命をたどったと言えよう。 篤姫の父・5代忠剛の墓標。 墓所には「篤姫の墓」の案内板がある。 先に触れたように、もともと和泉家は鎌倉時代に島津家第4代当主・島津忠宗の次弟である忠氏(ただうじ)が出水を治めていた時に姓を出水(和泉)に改めたことに始まる。しかし、応永年間の戦いで和泉家5代当主・直久が戦死し、和泉家が断絶する。その後、320年を経て延亭元年(1744)和泉家は今和泉家として再興される。将軍家の血統が途絶えたときに跡継ぎを迎えるために「御三家」がつくられたように島津家も「御一門」が設けられて今和泉家も藩の家柄の中で最上の「御一門」四家の中の一つとなった。 余談だが、島津家では一旦途絶えた「家」を再興することは今和泉家だけではなく、「前期越前家」から「後期越前家」(重富家)へ、「前期佐土原家」から「後期佐土原家」へなどがある。 参考資料 今和泉家墓所案内板 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「島津一族」無敵を誇った南九州の雄 川口素生著 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著
2021.12.22
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指宿市の考古博物館「時遊館COCCO はしむれ」を訪ねた。縄文時代や弥生時代のことについては学校で歴史で教わったくらいの知識しかない私だが、薩摩の歴史を知る中で、歴史全体にも興味を持つようになってきた。最近は機会があれば、できるだけそういうものにも近づきたくなっている。 この博物館もできた当初に1回訪れたことがあって、その時の記憶はレストランで赤米を使ったご飯のランチを食べたことくらいだ。食い助の私ならではのことだが、恥ずかしい限りである。 展示のテーマは「自然と隼人、息づく文化」橋牟礼川遺跡遺跡を中心に南九州の古代史を通史展示、とある。第1~第3展示室、シンボル展示、国指定史跡、指宿橋牟礼川遺跡、歴史劇場に分かれている。 ホームページによると、「歴史を変える3つの発見」とある。1,縄文土器と弥生土器の時代差を日本で初めて証明 「日本考古学の父」と評された京都帝国大学の浜田耕作博士は、橋牟礼川遺跡(当時は指宿遺跡)から縄文土器と弥生土器が一緒に拾われたことを知り、大正7,8年に発掘調査を行った。2つの土器の違いは、使っていた民族が違うからだという説があったが、この調査によって、開聞岳の火山灰の下から縄文土器が、上から弥生土器が出土することが明らかになり、2つの土器の違いは、時代差によるものだということが証明されたという。この発見により、橋牟礼川遺跡は国指定史跡に指定されたという。 2、開聞岳の噴火で埋没した「東洋のポンペイ」 西暦874年の夜、開聞岳が大噴火し橋牟礼川の集落は火山灰で埋もれてしまった。「日本三大実録」という古文書にある開聞岳噴火の記録と発掘調査の成果が一致して、埋没した日があきらかになった。発掘調査の結果、降り積もった火山灰の重さで倒れてしまった建物跡や畑の跡、道の跡などが見つかり、火山灰の下には、当時の集落がそのまま眠っていることがわかったという。3,古代隼人の封印を解く 「隼人」が初めて史実に登場するのは、西暦682年の記録である。それから9世紀始めまで、当時の政府と衝突を繰り返していたことが明らかになっている。古事記や日本書紀の神話にも異端の民として「ハヤト」あるいは「クマソ」といった名前で登場する。南九州の人々はなぜ「隼人」と呼ばれ異端視されたのか、謎はまだ明らかになっていない。橋牟礼川遺跡では、874年の集落と5~6世紀の大集落が見つかった。ちょうど「隼人」やその祖先、子孫に当たる人々のムラであり、この遺跡には「隼人」の実像に迫る手がかりが埋もれている、とある。 今回、このホームページを事前に読んでいたので、わかりやすかったが、やはり古代史は難しいというのが実感である。 指宿には我が家の足跡も残っている。ここは国民休暇村のすぐ近くの海岸である。子供たちが小さい頃、それからしばらく経って孫たちが小さい頃、国民休暇村にはよく遊びに行った。孫が温泉好きになったのも、よく連れて行ったことが影響しているのだろう。 南国らしい風景のこの広場で何回もおにぎりを食べたり、遊んだりしたのはいつの日だったのか。久しぶりに訪ねて昔日の感があった。もう遥か彼方の遠いところへ行ってしまったのか。
2021.12.20
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パソコン調整のためドック入りさせます。どれくらいの日数がかかるのかわかりませんが、そう時間はかからないと思っています。私自身は元気です。
2021.12.15
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11月23日・勤労感謝の日にバスツアーに乗っかり大隅半島への一日を楽しんだ。行き先は今回国宝に指定されるという「霧島神宮」などを経て黒酢の郷・福山町の桷志田や垂水市の「千本イチョウ」などである。 この垂水千本イチョウは毎年この時期になるとテレビや新聞で報道されているので一回は訪ねてみたいと思っていた。現地に着くとバスから見えた駐車場からリムジンバスも運行されていて、まあ、コロナ禍も忘れるほどの賑わいである。ツアーバスは特別許可がおりているとのことで、イチョウ林の入口まで入ることができた。 そして、木々にもたくさんの葉が残り、落葉も土を覆い隠すほどでちょうどいい見頃だ。銀杏の実もたくさん落ちているが、これは拾わないようにとの注意書きがあり、仮設の店舗で販売していた。私達も2パック買って帰った。 ここからの展望も素晴らしい。 案内板にあるように、東京から帰郷したご夫婦が昭和53年から毎年少しづつ切り開いてイチョウの木を植えて今日に至っているそうだ。約1200本の木々は今も手入れを続けて秋には多くの観光客が訪れる。イチョウの木は3ブロックに分けて植えられていてそれぞれに入って散策をすることができる。 垂水千本イチョウを訪ねる前に「黒酢の郷・桷志田」(かくいだ)を訪ねる。会社ホームページによると「急峻な丘を背に、桜島の浮かぶ錦江湾に面した静かな町、鹿児島県霧島市福山町。南国の太陽や地熱、清冽な地下水など黒酢づくりに理想的な気候、自然に恵まれたこの地に『えがお専用壺畑』は広がっています」とある。 黒酢レストラン「黒酢の郷 桷志田」で昼食を摂る。全ての料理に黒酢を使ってあるそうだ。珍しい料理でおいしかった。 壺畑が広がる。 レストランの下に壺畑が広がる 壺畑から見える桜島
2021.12.12
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上の写真は昨年7月撮影の宮崎県えびの市を流れる川内川 昨年の7月21日、高校同期生4人で宮崎県えびの市の史跡などを訪ねる日帰りの旅に出た。その時の様子は7月から8月にかけて数回にわたり拙ブログにアップしたが、8月5日の記事「えびの市のA氏宅を訪問する」のAさん宅で「秋丸機関」というものの存在を初めて知ったのが今回の記事を書くきっかけとなっている。しかし、当時のブログでは、「秋丸機関」については一切触れなかったのだが、今年8月14日のNHKBS1スペシャル「ヒトラーに傾倒した男・A級戦犯・大島 浩の告白」が放送されることになり、その中で「秋丸機関」が取り上げられるとの連絡がMくんからあった。そこで私もこれを機会に当ブログでその一端を取り上げてみようと思ったのだが、ちょっと取り付きにくくて今日まで躊躇していた。ところが今回はどうしても書かなくてはならないと思うニュースが飛び込んできた。12月8日のNHK「おはよう日本」で今回は「太平洋開戦真珠湾攻撃から80年」の中で「秋丸機関」を取り上げるということを知る。しかもそれにAさんが出演されてお話をされるという。 実を言うと、訪ねたAさんの名前は「秋丸機関」を率いた秋丸次朗中佐のご子息・秋丸信夫さんだった。そして私達をそこに誘ってくれたMくんは秋丸信夫さんと従兄弟だったのだ。つまり、Mくんにとっては、秋丸次朗中佐はおじさんである。当日、秋丸信夫さんとは初対面だったが大歓迎をしていただき、資料を見せていただきお話も聞くことができた。私は日頃から太平洋戦争で戦死した父を持つ家族として戦争に関して大きな関心を持っているので大変興味深くお話を聞いたのだった。「秋丸機関」は、ノモンハン事件の1939年9月に総力戦で経済面から研究するために日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織であり、正式名称は「陸軍省主計課別班」。(wikipedia) なお、ご子息で元新聞記者の秋丸信夫さんはホームページ「えびの便り ふるさと宅配便」を主宰されておられ、その中に「秋丸機関」のことを「大東亜戦争秘話 陸軍経済謀略戦の全貌」として書かれている。ウエブ検索ですぐ見ることができる。詳述されているので是非読んでいただきたい。そこには秋丸次朗著「秋丸機関の顛末」を始め、秋丸機関のことが詳細に述べられていて私の初めて知ることばかり太平洋戦争の秘話を知ることができた。 詳細は今回NHKで取り上げられた「秋丸機関」の放送に沿って書くことにしたい。放送はハワイ・オアフ島で開催された「真珠湾攻撃80年追悼式典」から始まる。その真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の前に日本の陸軍省が経済学者と共に日本とイギリスやアメリカとの間には圧倒的な経済的戦力格差ありと報告したが、指導者たちは正しく受け止めず、無謀とも言える戦争を選択した。その調査を率いたのが秋丸次朗主計中佐であり、そのチームは通称「秋丸機関」と呼ばれてた。その手記や最新の研究から背景がわかってきた。秋丸中佐は亡くなる4年前に手記を書いて残しているが、そこには対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1と判断した報告を書いてある。秋丸中佐は東大教授で経済学者の有沢広巳を中心に日本を代表する経済学者を結集した。これまでは戦争経済という概念はなかったが、戦争を経済的な面から学術的に考察する必要があるという観点でも見ようということである。報告書「英米合作経済抗戦力調査」には石油や鉄鉱石などの資源や工業生産力など詳細に調査した結果、英米は大規模な戦争を十分に賄える経済力があるとした。 開戦を判断する上でカギを握る日独伊三国同盟のあったドイツについても調査していた。そのドイツは1941年にはソ連と戦争を始めていた。日本ではドイツが簡単にソ連に勝利するだろうという見方が広がっていたが、ドイツの抗戦力はこの年がピークで1942年からは次第に低下せざるを得ない。独ソ戦が短期間で終わるのか、長期戦になるかによって開戦の運命も決定される。秋丸機関の分析通りドイツの勢いは変わり、泥沼の長期戦となった。 秋丸機関の報告書を発見した慶応大学教授・牧野邦昭教授は「本音は明らかにアメリカと戦うことは論外であるが、ドイツはもう既に限界で依存しても全く意味がないと考えていた」のではないかと言っている。しかし、秋丸機関の思いとは逆に報告書が開戦を判断する材料として利用された可能性もあるという。それはどういうことなのか。 今年9月に発見された資料によると、英米の弱点が記されていた。英米の弱点はアメリカからイギリスへの物資の輸送に当たり大西洋で輸送船を撃沈できるのはドイツの潜水艦・Uボートであるが、撃沈数が多くなるとイギリスで物資不足が生ずるというものである。これはドイツの力を過大評価した想定で秋丸中佐の本音とは程遠いものであった。 秋丸機関も軍の中の機関なので全く危険性がなとは書きづらく、条件が重なれば勝利の見込みがあるかもしれないくらいには書かざるを得なかったのだろう。そういうことからこういう表現になった。指導部としてはそういう希望的な観測のみに注目して利用したのかもしれない。秋丸中佐はこの後も指導者たちに慎重な考慮を促したものの聞き入れられることはなかったという。手記に次のように書き残してあるという。「既に開戦不可避と考えている軍部にとっては、都合の悪い結論であり消極的平和論には耳を貸す様子もなくて大勢は無謀な戦争へと傾斜した」 これが当時の軍部の姿であったろうことは今となって私にも容易に想像できる。 その上で、NHKの記者は当時の日本の置かれた立場にも言及していたが「当時日本は石油の禁輸で追い詰められていた。戦わずにジリ貧になるよりも高いリスクだが開戦でそれを打開しようとしたのではないか」と言っていた。これについては聞いた人がそれぞれまた考える余地があろう。こういう番組から日本国民が何を反省し学び、現状や将来について考える一つのキッカケになればいいと私は思う。
2021.12.10
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山川に史跡がいくつかあるということは聞いていたが、今回やっと訪ねることができた。山川港は天然の良港と言われている。港は中世から利用され、江戸時代は薩摩藩の外港だった。奄美や琉球への貿易港として指宿の豪商・浜崎太平次も利用していたという。浜崎太平次は幕末期の薩摩国の商人であり、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀の銭屋五兵衛と合わせて江戸時代の「実業界の三傑」とも呼ばれる。 また慶長4年(1609)、島津家久は樺山久高を派遣軍総大将として、軍船1000余艘、3000余人の兵力で琉球出兵を行ったが、これも山川港からの出陣であった。 港から東へ400m,旧山川町近くの旧山川小学校の跡地が、山川薬草園跡(県史跡)である。下の写真の案内板に詳細が書いてある。 次に訪ねたのは臨済宗の「正龍寺跡」(下の写真)、のつもりだった。ところが、ナビの案内に従ってたどり着いたのは「浄土真宗本願寺派・正龍寺」だった。「正龍寺跡」に残された歴史としては、慶長元年(1596)に近世儒学の祖とされる藤原惺窩(せいか)がこの寺を訪れ薩南学派の祖である桂庵玄樹などが研究した和訓に関する書物を写したりしたということが伝わる。帰って調べてわかったことだが、「正龍寺跡」は墓地だけが残されている別の場所だったようだ。そのため、上の「正龍寺跡」墓地の写真は「元気な山川まちづくりの会」のホームページから拝借した。しかし、ここでも嬉しい収穫があった。それは、歴史を刻んだ仁王像に会えたことだ。この仁王像は旧正龍寺のものと思われるが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で廃寺になったのを乗り越えて新たに創立された「正龍寺」に移され現在に至っているものと思われる。 参考資料 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「元気な山川まちづくりの会」ホームページ など 阿像吽像
2021.12.06
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鹿児島でのコロナ禍対策として県が旅行に援助金を出している。それを利用して娘が「指宿温泉」に連れて行ってくれるいうことで、先日私達夫婦と娘で1泊2日の旅に行ってきた。交通手段は娘運転の車である。こんなに嬉しくて楽な旅はない。車は鹿児島市を南下し、錦江湾(鹿児島湾)沿いに指宿へ。途中、「道の駅いぶすき」に立ち寄る。建物の奥に広がる展望所に行くと、虹が見えた。しかし、真ん中がない不思議な虹だ。 宿泊は「指宿 こころの宿」 翌日は朝食の後、日本最南端の駅「西大山駅」に向かう。ここは以前、当ブログで紹介したことがあるが、その頃より有名になって整備されていた。向う正面に見えるのは「さつま富士」と呼ばれる開聞岳。天気のいい日には富士山にそっくりに見えるのだが、この日は山頂部が雲に覆われて全体的に霞んでいた。 「幸せを届ける黄色いポスト!」が設置されている。
2021.12.04
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11月2日~4日の甑島2泊3日の旅を、5日から30日までの間に12回に分けて書いてきたが、一緒に行ったKくんが私にはない特技・動画で今回の旅をまとめてくれた。私のブログでは伝えきれなかったことが動く映像でダイナミックに伝わって来る出来栄えだ。 また、動画のバックミュージックとして彼の選んだ歌が流れていて大変情緒を感じるものとなっている。ただ、断崖クルーズが強風のため全部をまわることができなかった部分を断りを入れて、一部他の動画から拝借しているが、99%は彼自身の撮影によるものである。一部聞き苦しい部分は風の音である。23分を超えるが見ていただいて損はない動画だと思っている。
2021.12.01
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