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手打浜で再びKくんと合流した私達は下甑の最南端、手打集落の入江に沿った「手打麓武家屋敷通り」を散策した。ここは700mほどの武家屋敷通りである。積み上げた美しい玉石垣ときれいに刈り込んだ木々がしっとりと落ち着いた佇まいである。夜は街灯も灯りきれいだという。ただ里の武家屋敷通りと比べると、空き地が多い感じがした。 手打麓武家屋敷通りに「下甑郷土館」があった。ここは甑島の風俗・習慣・産業等、歴史的変遷を知る資料を町内外の方々からの寄贈や寄託を受け、これを保存・展示する施設だ。下甑島に伝わる「トシドン」の面や甑島全島に自生するクズ(葛)のツルの繊維を原料にした織物「クズダナシ」、西暦1602年のころ島へ上陸、長浜で生活してキリスト教を布教した宣教師の服、生活民具など珍しいものが展示されている。 鹿児島の生んだ演歌歌手・森進一の母親の郷里がここ甑島ということでヒット曲「おふくろさん」の歌碑があり、碑文は作詞家川内康範の直筆によるものである。 甑島での最後の昼食を「てうちん浜や」で食べた。ちゃんぽんやカキフライ定食などおいしかった。 「てうちん浜や」から20分、最後の訪問地・瀬尾三滝を訪ねる。かって薬水と呼ばれたそうだ。瀬尾川上流にある緑に囲まれた美しい滝で55mの高所からの一の滝、二の滝、三の滝と三段でおちてくるそうだが、時間の都合で三の滝だけを見学した。 帰りのフェリーは長浜港からということで14:35発に搭乗すべく急いだ。コロナ禍の最中にもかかわらず、そこそこの賑わいで乗客も多かった。16:15分に串木野新港に到着。オジイサン4人組も無事に帰り着いた。メデタシ! めでたし!
2021.11.30
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珍しい奇岩・ナポレオン岩と瀬々野浦集落の風景を満喫した私達4人は、そこから1時間かけて甑島の最南端にある「釣果埼灯台」へ向かう。映画のワンシーンのような美しい灯台である。甑島はもとより、近海の中では最も大きい灯台であり歴史も古い。光は29,5海里(約55km)の彼方まで届くという。 釣掛埼灯台から引き返す形で約20分走り「手打浜」へ。ここ手打海岸は釣掛埼灯台へ行く途中に通過したのだが、Kくんは灯台には行かず手打浜に一人残ってここを散策したいということで彼をここに落として3人で灯台には向かった。旅から帰ってからの話によると、Kくんが灯台見学をやめてまで時間を惜しんで手打浜散策にこだわったのにはわけがあったのだ。それは少年の頃、お父さんの友人・白崎のおじさんから「手打浜は、真っ白な砂浜の波打ち際を歩くとなァ・・・大きなハマグリがねェ・・・いっぱいとれるんだ」と聞いたその言葉が60年以上を経た現在でも脳裏から離れなかった・・・、という。私達3人が手打浜に再び戻ったとき、Kくんが波打ち際に佇んでいて、満足そうな顔をしていたことが忘れられない。 手打浜は下甑を代表する海岸の一つである。全長約1,5kmの美しい白砂ビーチで夏場の観光シーズンになると釣り客や家族連れで賑わうという。映画「釣りバカ日誌9」のロケ地にもなり、スーさんと浜ちゃんがキス釣りをしたラストシーンに使われた。
2021.11.28
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甑島の旅も最終日。一日目、二日目と運転を引き受けてくれたオーナーのMくんに代わり、三日目の最終日は「本○どん」の運転で出発した。この日も天気に恵まれて上甑島の旅宿を予定通り8時30分に出発。3つの橋をこの日も渡って一路ナポレオン岩が見える「前の平展望所」へ向かう。ここに予定通り10時に到着。ここは人気スポットのようで既に先客が数組あり。なんとバス停留所もある。定期的にバスも来ているのか? 。 一番上の遠景の写真に写る「ナポレオン岩」をズームしてみた。瀬々野浦の海上に突き出た高さ122mあるという奇岩で、フランスの皇帝・ナポレオンに似ている事からこの名がついたという。頭部分には木も生えていてそっくりだ。テレビドラマでも有名になった「Dr.コトー診療所」や「キン肉マンⅡ世」にも登場するなど下甑島のシンボル的存在になっている。 下の写真に写る真ん中の岩を最初はナポレオン岩かと思ったが、これはまた別の岩である。その左側に3本そそり立つ岩は「ローソク岩」と言われている。 瀬々野浦の集落を前の平展望所から見る。 ここ「瀬々野浦」は鹿児島市出身の俳優・西田聖志郎氏プロヂュースによる映画「大綱引の恋」のロケ地として撮影されている。「大綱引の恋」は薩摩川内市の伝統行事である大綱引を中心に展開するドラマだったが、同じ薩摩川内市にある甑島の「前の平展望所」「瀬々野浦診療所」「ナポレオン岩」「里港」でロケされており、鹿児島市での先行上映を見ていた私は今回の旅がそのことを懐かしく思いだした。
2021.11.26
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ここは夜萩円山公園から約20分で到着した「鳥の巣山展望所」。夜萩円山公園から右側に見えていた「甑大橋」を足元に見ることのできるポイントである。今も見事な風景だが、鹿の子百合などの咲き乱れる夏にはどのような景色を見せてくれるのだろうか。想像するだけでもワクワクする。 私は、ここでも一人階段の長い坂を降って行ったが、皆に心配をかけることにならないように、途中で立ち止まって奇岩に目を奪われてパチリ。まだ道はあったが、帰りのことも考えてそこから引き返した。 坂の途中から甑大橋もパチリ。 展望台に戻るとMくんが「まだ上にも展望台はあるよ。自分たちは上にも行ってきた」というので、再び老体に鞭打って上の展望台を目指した。なるほど! ここからの展望は灯台も見えて、下の展望所にいる人々が小さく見えるほど長い階段の先にあった。 この灯台は「カノコユリ灯台」という。 まだ時間があったので昨日山中を彷徨って遂に見ることの出来なかった「トンボロ」の見える場所を探そうということで再び上甑島へ。その日の宿泊先も昨日と同じ上甑の「FUJIYA HOSTEL」なので帰り道でもある。昨日探すことが出来なかったのは車のナビの命ずるままに行ったのだが、ナビは「現地に到着しました」というもののそこは山の中、私が探してくるということで皆と離れて展望のきく場所を見つけるべくしばらく山中を海岸線に向けて降ったが、遂に発見できずに引き返したのだった。その間、残った3人は「熊にでも襲われたのではないか」と冗談ともつかず心配していたそうだ。そういう因縁の場所だけにこの日は慎重に探すことにした。この日は違う入口から入り、慎重に探すうちに「トンボロ」の見える場所に到着した。下の写真の町並みは上甑島の里町である。沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れた細長い地形をトンボロ(陸繋砂州)と呼ぶ。南北に約1500m,最大幅1000m。この島と島をつなぐユニークな陸地の上に集落ができ、里町の中心になっている。
2021.11.24
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「甑ミュージアム 恐竜化石等準備室」を後に、車で20分くらいのところにある「夜萩円山公園」に到着した。ここは駐車場も備えられているが、そこから上の写真にあるように階段の坂を登らなければばらない。ちょっと足の不調を抱えた人は登れないほどの段数と急坂である。 標示版には「甑島国定公園 西側 夜萩円山公園」とある。また別に「甑島国定公園 平静27年3月鹿児島県」という標示もあった。 展望台に登ると、ここからも断崖と奇岩のオンパレードの様子を見ることができる。この断崖の地層は「ページ岩」と言われるそうだ。 ここは標示版にあるように西側。正確には中甑から「甑大橋」を渡って下甑島に入り、西側の先端部に位置する。 展望台から東側(右手)に「甑大橋」を望める。
2021.11.22
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中甑の帽子山展望所をあとにして、車は「甑大橋」を渡って下甑島に向かう。昨日、断崖クルーズ船から見た甑大橋を車で渡ると、また違う感慨がある。2日目の昼食を予約してあった下甑島の鹿島港の「民宿きくや」で「海鮮丼」と「天ぷら」を食す。 午後一番に訪ねたのは鹿島支所内にある「甑ミュージアム恐竜化石等準備室」。入っていきなり目に飛び込んできたのは「サウロロフス」の骨格標本である。巨大過ぎて全容は写せず。地球誕生は約46億年前という想像も出来ないような過去のことであるが、恐竜が絶滅したのはそれよりは近い白亜紀の終わりで約6600年前のことだという。ここに展示してある「サウロロフス」の骨格レプリカは、白亜紀後期(8000~7000万年前)にアジアに生息した鳥脚類恐竜のハドロサウルス類で、この標本はモンゴルで見つかった化石をもとに、この展示室のために製作されたものだ。上甑島産のハドロサウルス類の大腿骨と同程度の大きさの大腿骨(約1,2m)を持つという。写真左端に見える黒色のレリーフは、2016年、上甑島で見つかったハドロサウルス類の大腿骨のレプリカで発見当時の産状を再現したものである。このような巨大な恐竜がとてつもなく遠い昔、甑島の以前の地に生息していたということか。なんとも夢を掻き立てられる話である。 「アフロベナトル」の骨格標本アフリカのハンターという意味の名前を持つ肉食恐竜である。ニジェールのジュラ紀中期の地層から見つかった。これは「国立科学博物館からの借用標本」だというが、標準的な特徴を持つ獣脚類であるため、分類が困難だという。甑島産の獣脚類の歯とは時代が異なるが、同じような大きさの歯を持つことから比較標本として展示してあった。「プロトケラトプス」の骨格標本ゴビ砂漠の白亜紀後期の地層から見つかる原始的な角竜類恐竜だという。赤ちゃんから大人まで様々な成長段階の化石がたくさん見つかっており、群れで暮らし、巣作りや子育てをしていたと考えられる。甑島では、2011年に国内初となるケラトプス類の歯が見つかっている。 甑島のここ鹿島地域で2008年に獣脚類恐竜の歯と肋骨が見つかったというニュースは当時、大きく報道されたので、知識のない私も大いに注目していた。それ以来、様々な恐竜化石が相次いで見つかっている。 まだまだ紹介したいことはたくさんあるが、ここに「甑ミュージアム 恐竜化石等準備室」とあるように、未だ準備室の段階であり、現在、下記写真の通り、鹿島支所を改装中である。発掘調査も継続中で今後たくさんの発見がもたらされることだろう。それらを楽しみに待ちたい。 参考資料 「国定公園 甑島」 鹿児島県薩摩川内市ー甑島観光ガイド」 「甑ミュージアム 恐竜化石等準備室」パンフレット 他
2021.11.18
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ここは「帽子山展望所」。上甑島にあるが、やや高台にあるので甑島のしまなみや中甑の平良集落や平良港が一望できる。展望所には東屋もあり、休憩も取りやすい。上甑からは「甑大明神橋」と「鹿の子大橋」を渡ってくると、中甑の南側にある。下に見える平良集落には220人ほどが暮らしているという。 展望所から左側の風景 展望所から右側の風景 甑島周辺の奇岩は年輪を刻むように断層が入っているが、ここの地層も年輪みたいな形に積み上がっている。8000万年前の形がこのように残されているのか。自然の造形に驚くばかりだ。しかもそれが、そのまま残っている。
2021.11.15
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2日目、旅宿で朝食をとり、オジさん4人組は予定通り午前9時、昨日と同じMくんの車でMくん運転でこの日、初めの目的地・「長目の浜」に向けて出発した。到着した場所は「田之尻展望所」。「長目の浜」や近くの湖沼群については下の3枚の案内板を読んでいただければよく分かると思う。甑島を代表する景勝地の一つであるが、大小3つの池と海を隔てる砂州が4Kmnimo及んでいる。島津家19代当主で2代薩摩藩主」島津光久公が「眺めの浜」と、その景観をほめたことが、その名称の由来だと伝わっている。 ここにも奇岩がある。 海岸には何処から流れ着いたのかゴミが散乱していた。ただここの石は、自然にきれいに磨かれたようで、丸くなっていた。昔から「玉石垣」として使われた由縁がわかる気がした。 「なまこ池」。草木を分け入って池に近づこうとしたが、深みにはまりそうで、これ以上近づくことは危険と思い止めた。 帰りに坂の途中から写した「なまこ池」
2021.11.13
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12月3日 午前6時30分ここは甑島上甑の里港。宿泊先のFUJIYA HOSTELから30mくらい海岸へ行くと朝焼けの空に広がっていた。 家屋の造りは、沖縄の屋根に似たような屋根になっている。 何処の民家もきれいな庭造りがしてある。 島独特の方形(ほうぎょう)に近い屋根の家屋が続いている。 南国の風情の木々や花々が楽しませてくれる。 2泊したFUJIYA HOSTEL。一日4組しか受け付けないこじんまりとした宿だが清潔で気持ちよく泊まることができた。 FUJIYA HOSTELは「豆富や 山下商店」が運営する宿だが、朝食には特大のざる豆腐が出される。調味料をつけなくてもおいしいし、甑の塩、醤油などいろいろな食べ方で食べておいしかった。 拙ブログも休み休み書いてきたが、今回で1300回になった。これからも、肩の力を抜きながら少しづつでも書いていければいいなあと思う。
2021.11.10
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里麓の武家屋敷通りから西に200mほど歩いたところに「亀城跡」がある。ここの歴史は島津一族が薩摩を治める遥か以前の隼人族の時代に始まったと言われるが、下の案内板にあるように中世以来甑島を支配した鎌倉幕府御家人・小川氏の代々の居城であった。小川氏は文禄4年(1595)阿多郡田布施郷(現、南さつま市金峰町)に移され、以後島津氏の直轄地になった。この城から更に西へ200mほど先に鶴城跡がある。あわせて亀鶴城という。高所から見るとその形が、鶴と亀に似ているのでこの名がある。(詳細は下の案内板「史跡 亀城跡」を参照ください) 亀城跡にある「戦没者慰霊之塔」には、戊辰の役以降の戦没者を慰霊すると書かれている。ここも「玉石垣」状に造られている。 江戸時代、異国船の取締や密貿易を監視するために置かれていた「津口番所跡」当時、薩摩藩内には24ヶ所の「津口番所」があり、甑島にはここ里の他に中甑、手打(下甑)の3ヶ所にあった。 浄土真宗「西願寺」。寛永3年(1626)浄土宗 西昌寺として創建されたが、明治2年廃仏毀釈で廃絶された。その後、浄土真宗「西願寺」として復活した。西願寺境内には一向宗打弾圧で流刑となった出水郷士・山田静治有秀の墓、天保年間(1830~40)に鹿児島に行く途中漂流し、亡くなった二人の琉球人墓、慶長14年(1609)の猪熊侍従事件に巻き込まれてこの甑島に流された松木少将(松木宗隆)の墓などもある。 参考資料 甑島 里 武家屋敷通り散策 MAP 「鹿児島県の歴史散歩」 他 ここは「こしきの宿」。2017年、テレビ番組・ボンビーガールの企画で女優、柴田美咲さんがつくった宿。
2021.11.07
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断崖クルーズ船から降りて再び車で向かった先は待望の「里麓 武家屋敷通り」。 丸い石を丹念に積み上げた見事な「玉石垣」が続く。江戸時代の郷士たちの家が立ち並んでいた当時を偲ぶ事ができる。ここを「中町馬場」と言い、この狭い道を使って武士(郷士)が馬を調教したり乗馬の練習をしていたという。 武家屋敷の入口には八幡神社がある。ニニギノミコトを祀っているという。川内の新田八幡の分身を里に持ってきている。秋には内侍舞があり、選ばれた女の子が巫女となり境内を舞う。 神社境内の奥には廃仏毀釈で頭部が無くなったのか頭のない石仏が7,8体祀られている。 玉石垣の連なる屋敷群の中に「日笠山氏屋敷跡」があり、左の表示版に「日笠山姓ほか、一族の会建之甑島渡島四百年記念」と書いてある。里マップには「日笠山水産」というのもあるので一族であろう。 屋敷内で畑仕事をされていたご婦人にKくんが声をかけたところ、快く屋敷に入れていただいた。見事な臥龍梅が造らていて、そのこ古木に歴史を感じた。 現在、空き家になっていたが、ここは「里遺跡」という。昭和36年、京都大学により遺跡の発掘調査がなされ、縄文・弥生時代の土器や獣骨が出土し、その後弥生時代後期の人骨も出土した。 沖縄や鹿児島県に多く残る「石敢當」である。平和な生活を乱すためにやってくる魔物は直進しかできず、T字路などに突き当たる家屋に侵入するのを防ぐため、突き当りに石碑「石敢當」を置き魔除けにした。 里小学校は「地頭仮屋跡」にある。 参考資料 「甑島 里 武家屋敷通り散策 MAP」 「上甑島ガイドマップ」 他
2021.11.06
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11月2日、2泊3日の甑島の旅に出た。 私達G高校同期生3人と、T高校卒業ではあるが、同期卒の「本○どん」の4人である。Mくんの車にKくんと私が同乗し、串木野新港で「本○どん」と落ち合って車と一緒に乗船し11時20分出港。「フェリーニューこしき」は串木野新港のある薩摩半島を後に快調に甑島に向かって進む。 今回行く甑島は人口5576人(2011年)、長さ 38km, 幅10kmで「鹿の子百合」で有名。近年は「化石の島」としても有名である。断崖・奇岩も多く見どころ満載の島でもある。歴史的にも二つの武家屋敷群が残る。島は大きく上甑島、下甑島に分かれているが、上甑・中甑・下甑と呼ばれ島は橋で繋がっている。 串木野港から75分で上甑島の里港に到着する。里の集落が近づいてきた。 一日目は里港到着後、上甑島を中心に回る予定で離島旅にも手慣れた「本○どん」に旅程の組立をお願いして3日分とも無理のない、それでいて万全な計画が立てられていた。 里港に到着後、Mくんの運転で「断崖クルーズ船」の出る中甑港に向かう。約15分で到着。港の入口には「かのこゆりのふるさと かみこしき」の近代的な石碑が迎えてくれる。 昼食は「コシキテラス」のカフェでハンバーガーセットなど思い思いで済ませ、14時発の「観光船 かのこ」に乗り込む。私達のコースは「遊覧船鹿島断崖クールズ」。ところが乗り込む前に旅行社から電話があり、午後から波風が強くなったので湾内のみのクルーズに変更になるとのこと。しかし、乗船してみると、時間も約束通りの1時間で自分としては十分すぎる内容のクールズであった。 最初に見えてきたのは「甑大明神橋」全長420m。近くにある甑(土器の蒸し器)の形をした大岩をご神体とする甑大明神が甑島の島名発祥の地と伝えられることから、橋にもその名前がついたのだろう。 最初に見た断崖。縦割れの岩石。 甑大明神橋の全体が見える地点からの眺望。 次に見えてきたのはアーチ形の「鹿の子大橋」全長240m。船舶は2ヶ所して通れないという。 奇岩が連なる。絶景かな! 次々に奇岩が現れる。斜めの断裂が走る。 客も全員ライフジャケット着用。 ついに3つ目の橋「甑大橋」が見える場所に。 「甑大橋」は全長1533m。 予定の時間、15時に無事中甑港に到着。昼食をとったコシキテラス。(旧中甑港旅客待合所)ショップやカフェ、観光船かのこ受付窓口やバス待合所が併設され、地元の物産、観光拠点となっている。この後、里の武家屋敷通りなど巡るが、次回に書きます。
2021.11.05
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