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紅茶を飲みながら、いま、リストのピアノ曲を聴いている。至福の瞬間・・・ゆったりと時は金色に流れ、体の疲れもみな消え、やすらぎにつつまれている。「愛の夢 第3番(3つの夜想曲、S.541-第3番)」ああ、こうした時間を自分は求めていたんだ。ここ最近、実に慌しい生活を送っていた中で、肩の凝りが一段と激しくなってきた今日この頃であったが、今夜になって、ようやく気がついた。---自分は気が立っていたのだ---と。肩が凝って当たり前の話なのだ、と。仕事の多忙さに埋没していると、人は多くの大事なことを忘れてしまう。多くの人は季節の移ろいとは無関係に、常に一年を通じて仕事の喧騒の渦に呑み込まれ、損益計算書やら何やらの数字に追われ、我が身を自ら安息感から遠く離れた場所においやってしまう。そんな風に常に気が立っている状態に、自分がいるということを中々自覚できなくなってしまうことが往々にしてある。それが、どんなに不健康なことであるのかに目を向ける余裕さえなくしながら、日々、経済の歯車の一端として慌しく動き回る中で、自分の心も体も蝕まれてしまっているかもしれないということに中々気付かなくなるものなのだ。やはり、どんな人であれ、時にリストのピアノ曲に耳を傾けながら、心をあたたかくして、体に染込んだ慌しさと喧騒の名残から開放してあげる時間を持つことが、とても大事なのだと思う。リスト:ピアノ作品集 ホルヘ・ボレット 【CD】http://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/727655/久々にリストを聴きたくなったのには理由がある。仕事後にたまたま立ち寄った喫茶店で、リストの「愛の夢」が流れていたからだ。そのピアノ曲を聴きながら、説明しようのないくらいに体がリラックスしてきて、ここ最近忘れかけていた言いようのない安ぎを感じている自分がいることに気づき我ながら驚き、そして、次のように思った。体がこんなにもリラックスしているなんて、いったい何ヶ月ぶりだろう・・・・・?。そう思えたら、なんとも満ち足りた安堵感につつまれていた。帰宅し、いま部屋でリストのピアノ曲の幾つかを繰り返し聴いている。「愛の夢」「コンソレーション」「ためいき」リストのピアノ曲を聴いていると、身も心もあたたかな金色の粒子につつまれているような気分になる。すばらしい。こんなにも美しく豊潤且つ贅沢な至福の時間を届けてくれる音楽はそうそうない。こうした時間を生活の中で大事にしたいと思う。また、これから日々、そのように自分が在れる術を、いま模索しているところ。少なからずの現代人にとって、こうしたことは簡単なことではないかもしれないけれど、僕にとっての今年の課題のひとつに掲げたい。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.01.25

まあ兎に角物凄い映画。ここ10年、20年の間に日本で作られた映画の中でベストな作品といったら褒めすぎだろうか?。いやそんなことはないでしょうと思う。それほどに凄い映画なのだから。って一体なんの話なのかというと、昨夜の日記にて記した『愛のむきだし』という日本映画の話題を再びといった趣向の日記なんでありまする。繰り返し何度も何度も日記に書きたいくらいに物凄い歴史的価値のある名作中の名作映画だと声を大にして言いたいわけなんですよ。基本的に僕はあんまり日本映画を見ないのです。なぜなら・・・・・というか実は自分でなぜなのか判らないのだけれども、自分の国が製作する映画作品に対して心の底から魅了されにくいことは確か。その理由として愚論を承知で敢えて説明するとすれば、先日の日記にて紹介した松本仁志監督の「しんぼる」という名の駄作に象徴されるような映画作品群に向き合いながらどうしようもなく絶望的な気分になる、というのがまず第一にあげられると思う。「あんた、それ違うんでないの??ってゆうか巨額な大金投じてまで作られる意味のある映画なの?!」なんて風に白目をむきながら挑発・訴えたくなる気分を持て余すことが少なくない、それが僕にとっての多くの現代日本映画なことは、(少々の独善を承知で言うと)、そういうことになるんであります。つまり、理屈抜きにハートを焦がし揺さぶりをかける映画を沢山世界に向けて、あるいは自国に向けて発信出来る環境・土壌が自ら肥やされていない状況への苛立ちと言い換えてもいい。「おまえよお・・・マジで、いいかげんにセイントセイヤだぜい(爆)」なんて気分で眩暈に苦しみながらのバブル崩壊の歳月を経ても尚鮮明な突破口を提示出来ない・しようとも思っていないかもしれない我がジャポン映画文化への激しいジレンマ・苛立ちを鎮めるべき勇気ある映画を生もうとする意思の爆発に涙を流しながら共感してしまう、そんな感動的な映画作品に出逢えた興奮に感謝できる、そんな風に心の底から思える映画に出逢えることが少ないから・・・それに尽きる。現代日本の病理をきちんと読み解し処方を必死に考え生きているヤツと、そうではない表層的な部分をなぞっているだけの浅はかなバカっぽい自称:文化者もしくは自称:表現者な輩たち、これらの大きく分けて二通りの種類の映画人がいるとして、勿論、『愛のむきだし』という日本映画は前者に該当する奇跡的なほどに貴重な、この ”現代ジャポン” という時代性への必然なる処方箋となるべくこの世に今生を受けた藍と感動の衝撃のドラマであることは神様だって保障すること必至。それくらい、凄い映画、名作中の名作といえるでしょう。時代にトドメを刺す!、なんて言ったらタランティーノのパルプフィクションの宣伝用文句として15年くらい前に一世を風靡した過激な表現ですが、この「愛のむきだし」という映画はタランティーノが作ったどの映画よりも遥かに比べようのないくらい優れた映画であるばかりか、まことの意味で現代日本の心臓を貫き時代にトドメを刺す!そんな最良の処方へ導く光、カミナリの如き衝撃を伴った崇高な愛の光であることは明白。まさにリーサル・ウエポン!!。『愛のむきだし』映画予告編http://www.youtube.com/watch?v=f3MDZLmrLB8http://item.rakuten.co.jp/forestplus/4527427644182/ 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24

有名なピアノ・ソナタである「悲愴」に関していうと、ベートーベンの再来と謳われたバックハウスの演奏よりも、グレン・グールドによる「悲愴(Pathetique)」の方が圧倒的に好き。グールドの弾くピアノの調べがベートーベンの曲本来の魅力というよりも、またそこから微妙に異なった情熱と安らぎとロマンチシズムを聴く者の心に言葉をなくすほど染み入るように伝えてくるから。勿論、これはグールド的解釈・世界観において展開・演奏されるベートーベン。ゆえに僕はベートーベンの音楽に惹かれると同時に、グールド的宇宙に深く共感しているといえるでしょう。こうしたことは別にベートーベンやグールドを持ち出すまでもなく、クラシック音楽全般について語れる話です。実に繊細で微妙な趣向が分け隔てる、こうした演奏者や指揮者による聴き比べを通じて見えてくるのは、ベートーベンやグールドの解釈や哲学もありますが、当然、その演奏や解釈に触れるリスナーの精神性そのものでもあります。「この曲に出逢うために自分は生まれてきたのではないだろうか?」そんな風に思えるクラシックの名曲を、僕は幾つかあげることが出来ます。ベートーベンが作曲し、そして、グレン・グールドが演奏する「悲愴」も、そのひとつ。言葉にならないほど素晴らしいピアノ・ソナタです。http://www.youtube.com/watch?v=5cELMIRPiZw&feature=related あなたも、上にリンクを貼った音源に耳を傾け、夢見るように星空に囲まれるように、静なる愛と孤独とロマンチシズムを感じて下さい。そして心の底から溢れる感動にふるえてほしいと思います。ベートーヴェン / ピアノ・ソナタ第8、14、23番 グールド(p) 輸入盤 【CD】 http://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/2713137/それと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24

今年になってから不思議なことが続いているのです。これは説明が難しいかもしれません。形容し難い偶然の出来事が更なる化学反応を起こしそれが次の幾多の不思議な出来事とつながってゆき、更なる渦を引き起こす、そんな感覚。こういうことって誰にとってもあるものだとは思うけれど、今回のシンクロの波は現在の自分にとって何かしら非常に大きな意味を持っているような気がする。勿論、善き流れとして、そして己をより向上させるものとして、こうした一連の出来事が一本の川のように未来に続き、あたかも何らかの摩訶不思議な物語を紡ぎだそうとしているかのよう。こんな夜には、なぜか、ラフマニノフが聴きたくなります。途方もなく美しい情熱の薔薇のような、この曲を。ラフマニノフ 「パガニーニの主題による狂詩曲 作品43第18変奏」http://www.youtube.com/watch?v=90MuPqYtV_k明日も素晴らしい一日でありますように。それと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24

今夜は、サティの曲の話題。「ジムノペディ第一番」に関するエトセトラを少しだけ綴りましょう。ジムノペディ。サティの曲の中で最も好きな曲。これは一昨日の日記のリストや昨夜のモーツアルトとはまるで趣きが異なり、妖しさと繊細さと安堵感が奇妙に入り混じった摩訶不思議な、そして美しく透き通ったピアノ曲。なんというか語弊があるかもしれないのだけども、そこを敢えて僕なりにこの曲の魅力を説明・形容するとすれば、迷宮の入り口で妖しくも美しく金色に輝くエキゾチックな扉を前に、どこからともなく鳴りはじめる音楽・・・・・そんな印象があります。まあとにかく、その摩訶不思議な扉を開けば、そこに広がるのは金色の王国か、はたまた不毛で邪まな大地なのか、判断しかねる。そんな一抹のためらいと不安感と期待感に心が敏感になる、そんな奇妙な感覚に包まれつつ恍惚となってしまう曲なわけです。”恍惚と不安そのふたつ我にあり”なんて有名な言葉がありますが、ジムノペディという曲にも同様に恍惚と不安が入り混じっているわけですよ。それはサティを含め近代に生きた芸術家達の心に宿った恍惚と不安であったことでしょうし、またそれは時代を超えて現代を生きる僕らの心にも奇妙なほどに深く浸透する音の連なり、内なる感情の機微と共振する絶妙な旋律として響き渡る恍惚と不安を内包した音色でもある。この曲は時に僅かながらの不協和音を響かせながら、しかし全体として恍惚とした美や安らぎが志向されている。今の僕自身の心境にどこかしら重なり合うものがあるといったら、それは自意識過剰というものだろうか。いや、そんなことはありません。この曲の旋律と響きは、現代という時代に生きる僕やあなたの心の様相に鳴り響いている恍惚と不安の旋律・響きそのものであり、またそのような子守唄であることは恐らく間違いないでしょう。多分、この日記を読んでくれている方も、一聴すれば「ああ、この曲知ってるよ」となるはず。有名な曲ですし。ジムノペディ第一番(Gymnopedie No.1) Erik Satie http://www.youtube.com/watch?v=bFpXv5iNT8sそれと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24

K.271といったら勿論、モーツアルトのピアノ協奏曲を示す番号。この世に至高の協奏曲は数あれど、こんなにも神々しく且つ天使の微笑のように愛らしく無垢で軽やかなピアノ協奏曲を僕は他に知りません。ことクララ・ハスキルによる1954年の奇跡の演奏(パウル・ザッハー指揮ウィーン交響楽団)を前にすれば他のどんなピアノ協奏曲でさえ全て色褪せて聴こえてきてしまうくらいに、このピアノ協奏曲が放つ魅力は筆し難いものがある。ピアノ協奏曲 弟9番 変ホ長調 K.271《ジュノム》http://item.rakuten.co.jp/book/3901178/ということで今夜に聴いているのは上記したモーツアルト。ハスキルの演奏に耳を傾けるのは久々。半年振りくらいかもしれない。昨夜にリストのことを綴った日記を書いた後から、クラシック音楽ばかり聴いています。ふと、今、映画の「ある愛の詩」に登場するひとつのセリフを思い出しています。”死ぬということは、モーツアルトが聴けなくなるということ”モーツアルトの音楽の魅力、そしてクラシックの魅力を、これほどまでに端的に言い表わした言葉は、おそらくこの世の何処を探したって他にないでしょう。それほどまでに素晴らしいということです。音楽って、特にクラシックって本当に素晴らしいのだと改めて再確認することが出来た今日この頃の冬の夜。それはそうと今日は素晴らしい一日でした。昨夜の、リストのピアノ曲効果が絶大に奏を効したといえるかもしれない。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24

自分で書いた日記を後で再読してみて、こんな風なことを思うことがよくある。「何がいいたいのかよく分からないなあ」「それ、ちがうんでないの??」「気持ちはなんとなく分かるけどさ、もっと塾考を重ねながら自分の意見をまとめあげ、それから文章を構成したほうがいいと思うよお」そんな風に自分で自分が書いた日記文章に対してツッコミを入れることがよくあるのだ。よくある、というよりも毎回毎回僕の日記というのは、そういう意味でツッコミどころが満載であるといえる。その代表的なものが昨夜遅くに発信した日記であろう。今しがた再読しながら腕を組みつつ、「わけわかんないなあ」と首を傾げた理由を自問自答したところ、ふと思い出したことがあった。日記の前半部分、これは何と、何週間か前にワード・ソフトに綴ったまま放置していた文章のひとつ。日記の冒頭から、 ”芥川龍之介の小説のタイトルのように、すべては、藪の中。確かなことなど何ひとつない。” という箇所までの文章がそれ。その何週間か前に自分で書いた文章を読みながら、「あんた、それ違うでしょう?それだけじゃないでしょう??」なんて自分にツッコミを入れながら自分と対話するように昨夜に綴ったのが昨夜の日記であるということを思い出したのだ。「わけわかんないなあ」と自分で書いた日記を読みながら僕が首を傾げた理由は、昨夜における自分との対話が上手くいかなかったことを確実に物語っている。こうして日々、自問自答は続く。これからも。まあなんというか、僕の日記というのは基本的にそういう類のものである。実に個人的な事柄を綴ったものに過ぎず、且つ、混乱と矛盾と僅かばかりの真実めいた光の発見の入り混じった得体の知れない渦の中で進行しているごくごく個人的な世界。なので、もし仮に僕のブログを読みにきてくれている方に僕の内なる混乱さ加減が悪しき影響として及んでしまう可能性は否定出来ない。今日は日曜日ということもあってか、何度も訪問してくれた方々がいたのだけれども、兎にも角にもそんな程度のブログでしかないことは明白なので御訪問は各々の自己責任で御願い致します。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『DREAMING 美しい春の訪れに想いを馳せながら』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.22

己を「流す」己が「固まらない」そして、他者の存在を慈愛を込めて、「未来に流す」他者の存在を敬意を込めて、「やわらかく、未来に、後押しする」そうした相互の響き逢いこそが、人と人との真の良質な関係性なのと思います。そして、世界を構成するありとあらゆる無数の粒子を善きにつなぎとめる真理なのだとも思います。一体どうして僕は、上に書いたようなことを思いついたのでしょうか?これを説明すると実に、長い話になります。しかし、長い話になると面倒なので、簡略に記しましょう。--------------------------------------------------肩凝りが非常に物凄いのですよ。年がら年中、僕は。それで、こうした症状をどうにかしたいと、20代の頃から真剣に考え続けてきた経緯があるわけです。以上。 --------------------------------------------------一旦、話題を変えて。今日、仕事を終えた後に街角を歩きながら、肩が非常に凝っていた時のこと。こんな文字が掲げられた看板が目に入りました。要約すると、 ”肩凝りを治したい方へ”。・・・・・本当?。肩凝り、治るの??。半信半疑で、その看板が案内するお店に入りました。そこは台湾の方が経営する健康指圧店。一時間4000円とのことで利用することにしました。病院の施術室のようなベッドにうつぶせになり肩凝りの激しい部分を揉み解してもらっている最中、施術してくれている台湾の方が、少しタドタドシイ日本語で僕にこう言ったのです。「体の力を抜いてください」体の力を抜く??ハッとして、僕は、そのワケ(理由)を質問しました。僕の体に必要以上の力が入っているのですか?肩を触っていてそれが分かるのですか?と。「分かります」上に書いた会話の最中に僕は、突如として眩しい光に包まれたように、気付いたのです。これだ!と。これが僕という人間に欠けていたことだったのだ、と。20代から悩まされていた肩凝りの苦痛から開放されるべく最良の知恵だったのだ、と。つまり、こういうこと。----- 力を抜く -----その後、次の質問を続けました。「体から力を抜く方法を教えてください」返ってきた答えは、このようなものでした。「何も考えず、ただ、リラックスしてください」どうすればリラックスできるのですか?と、けっこう真摯な質問を続けたのですが、あまり早口で且つカタコトな日本語であったために、僕はその答えを聞き取ることが出来ませんでした。なんとも歯がゆい想いで自問自答を繰り返していたら、ふと、ひらめいたのです。もしかしたら、こういうことなのではないだろうか?と。何も考えず、ただ、リラックスできる最良の方法とは、目の前の相手を、ただ、信頼し、心を委ねることなのかもしれないそんな風に思えたら、大きな大きな光に祝福されたような、そんな風に、あたたかな気持ちになりました。いやあ、どうして、こんな単純なことに今まで気付かなかったのだろう・・・?。人生って本当に奥深いものだ。そのように想いながら、今日は、こうした気付きを得ることが出来た自分を褒めたくなりました(笑)。 上に書いた気付きに至ることが出来たことには伏線があるのです。玄侑宗久さんと鈴木秀子さんの対談本に記されていた、ひとつの言葉、これが最大のヒントでした。----- 日本で死者を「仏」と呼ぶことがありますね。「仏」はもともと「ほどける」が語源なんですよ。もちろん日本人が勝手に「仏に「ほとけ」という読み方を当てはめたわけだし、仏教本来の「仏」は死者を意味する言葉でもなかった。そのあたりの分析や解釈は学者さんたちの仕事なわけですが、私自身は「ほどける」という解釈がひじょうに気に入っています。仏教的な「死」をじつにうまく表現していると思いますね。 (玄侑宗久)-----では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.01.15

---仕事を通じて人は成長する---自分自身が大事にしている持論であり、これまで生きてきた中で内に培ってきたエトセトラを最大に集約する考えだと思っている。勿論、仕事ばかりが人を成長させるものではないことは確かだとも思う。人は恋や失恋からも非常に大きな成長を得るし、子供は家族間のやりとりの中で人として成長してゆくものだから、なにも人を成長させるものが仕事に限った話ではないことは当然のこと。仕事が人を成長させる、というのは、まあそうした沢山の成長へ導く場面の大きなひとつであるというだけのこと。男の人生にとって、仕事に費やす時間というのは誰にとっても日々の生活において大きなウェイトを占めていることは確かであり、そういう意味合いで仕事を通じて成長をしてゆくという考えにつなげているわけなのである。と同時に、どうして仕事が人を大きく成長させる機会であるのかという問題は実にこれまた深い。また機会を設けて詳しく日記に綴ってみたいところであるが、そこを敢えて言葉数少なく言ってしまえば、己を強制的に仕事という ”人ごみが生み出すカオスの坩堝の場” に追いやることで、そこでしか得ることの出来ない成長というのは実は何ごとにもかえることができないほどに貴重なものであり、自分自身の至らない部分をこれ以上に成長させてくれるありがたい場・機会など他にないのでは?と僕自身の経験からさえ思えるから。そうした意味で、やはり、僕には現代日本に溢れているらしい「ニート」な若者たちに対し考え込まざるをえないわけなのである。行政がわざわざニートな若者たちに職業を斡旋しようと様々な策を講じているらしいという話もきく。にも関わらずニートさんたちは耳を貸す気もないらしいという図式があるという話もきく。これは先日の日記で紹介したyoutubeの動画とは別な動画の中で紹介されていた話。http://www.youtube.com/watch?v=iRZfRDABf9E&feature=related現在、ニートさんたちの数は実に63万人に上るという。誰が彼らの生活を支え養っているのだろう?。ニートさんたちは「自分だ」と答えるかもしれない。しかし、そうじゃないだろう。影ながら自分の子供の安否を気遣い見守ってくれている年老いた親たちの存在が当然ながら彼らの生面線であることに彼らニートさんたちは恐らく気付いていないことだろう。そしてこれも当たり前の話だが、沢山の仕事人たちの日々の仕事面における苦労の結晶の一端である税金が、そして行政が、本来ならば飢え死にしているはずの彼らの生命を何とか今のところは根底から支えていることが出来ているに過ぎないのだ。この大不況の只中であっても国の財政の余力が現代日本に生きる ”脱力ニートさんたち” が凍え死にしないように、「なんとか今のところは」養えてゆけているというだけの話なのである。この先の未来において今同様に彼らを守る余力がこの国にあるなどということは総理大臣でさえ保障はしないだろう。さて、あなたはどう思う。先日に発信した、ニートさんたちにまつわる二つの日記も読んで下さると嬉しいです。2010.01.20日記 「ニートの気持ちが分からないのは僕がオヤジになったからなのか」http://plaza.rakuten.co.jp/lukanomatinami/diary/201001140008/2010.01.21日記 「日本の未来、あなたの隣人の未来。不良少女と呼ばれてな人々はどこへ消えたのか? 「不良」から「ニート」へ、時代の移行に想いを馳せて」http://plaza.rakuten.co.jp/lukanomatinami/diary/201001140010/ 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14

「不良少年の目は透き通っている。なぜなら彼らの心が純粋だからだ」そんな意味合いのことを故・作家の開口健氏がエッセイに綴っていたことを今思い出している。さすが、開口健。いいこと言う。そんな気分で今夜の日記をはじめるとしよう。BGMはシド・ビシャスの「マイ・ウェイ」で決まり。ドンピシャって感じ。http://www.youtube.com/watch?v=WIXg9KUiy00&feature=relatedさて、何十年か前にダムドという外国のパンクバンドが「ニート、ニート、ニート(Neat Neat Neat)」という歌を歌っていた。かなり、エネルギッシュな激しく熱い歌です。ところで今この日記を読んで下さっている方の中には、「パンクバンドって何??」と腕を組みつつ考えていらっしゃる方もいるかもしれません。PUNKこれを、どのように説明すればいいのでしょう?難しいですね。あれこれ説明するよりも、次に紹介する映像を見てもらえば即座に誰にでもPUNKあるいは、その昔にニートと呼ばれていた若者たちの姿を垣間見れます。THE S○X PISTOLS - God Save The Queenhttp://www.youtube.com/watch?v=MeP220xx7Bs昨夜の日記にて紹介した映像は一週間くらい前にYOUTUBEにて「おすすめ動画」として大きく紹介されていたもの。それほどまでに社会的な関心がニートという存在に集まっているということなのでしょうか?あるいは少なからずな人々がニートと呼ばれる若者たちが象徴する何かに困惑しているということのあらわれなのでしょうか?どうなんでしょうね。難しいところです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、ニートは以下のように定義されているようです。---------------------------------------------------ニート(NEET)とは、教育を受けておらず、労働や職業訓練もしていない若者を指した造語で、「Not in Employment, Education or Training」の頭文字を採っている。ただし、この訳は日本におけるニートの定義・用法とは異なる。なお、以下では特に断り書きの無い限り、日本における(若年)無業者について・・・・・・(云々云々、以下省略)。---------------------------------------------------おそらく日記の冒頭において記したダムドの歌のタイトルの由来は、上に説明されていたところの、”教育を受けておらず、労働や職業訓練もしていない若者を指した造語”に該当するのでしょう。一方、現代日本における ”ニート” というのは一体どんな存在なのだろうか?。気になった方がいましたら上にあげたウィキペディアを是非参照願うところです。詳しい考察のエトセトラがあたかも学術本の如きに列挙されており一読の価値は大いにあります。まあダムド的、あるいはPUNK的な熱いニート像とは趣を変える現代日本的 ”脱力ニートたち” が象徴するものは果たして一体何なのでありましょうか。僕なりにニートの歴史を簡単安易に綴るとすれば、ケルアックの文学「路上」、その後のサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」、でもってそうした時代の流れと歩をあわせるようにしながら進んだ諸外国におけるロックなりPUNKの歩みがあるとして、まあそこまでは元気な勢いがあって甚だ宜しい頑張れってなもんなのだが、その後に続くのが、「脱力」って一体何なのさ?(爆)・・・・・おいおい。そんな風な簡易郵便みたいな考察から見えてくる日本の未来ってマジで絶望的???どうなんでしょうね。いやあ、そんなことはない、と僕は思うのですよお。というか、思いたい。願いたいものだ。だいたいが日記の冒頭にしるした、開口健の「不良少年の目は透き通っている。なぜなら彼らの心が純粋だからだ」云々云々なだけでは、人は長い人生において如何なる事故に遭遇することなしに長きに渡り前に進み続けることなど出来ないのだから、そういった歴史の流れをもしかしたら現代日本に生きるニート君たちは本能的に嗅ぎ取っているのかもしれない。そうした実にアンニュイな可能性も、もしかしたらニートさんたちの存在から導き出すことも可能かもしれないと、かなり強引だけど、なんとなく思わないこともない・・・・・と崖っぷちジャポンの未来に何らかの処方箋を差し出したく願いながら様々な思考をめぐらせているわけです。時に暗澹とした気分の中で。明日もニートについて云々云々と考察してみたいと思います、かもしれません。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14

ここ数年、日増しに雑誌やテレビ等で、やたらとニートという言葉を目にする頻度が高くなってきたような気がする。僕は、この「ニート」という言葉の意味がよく分からなかったのだけど、興味深い映像に出会い、これがニートなのかと何となく理解した次第。『たけしがニートに激怒 「働けよ、バカ野郎!」 』http://www.youtube.com/watch?v=4KMcLgi-DScさて、あなたは上の映像を見てどう思う?。話は僕自身の事柄に移るが、僕という人間はお世辞にも社交家とはいえず、どちらかというと内向的なタイプ。プチ・ニート系タイプといえなくないかもしれない。しかし、だからといって、毎日部屋に閉じこもっていたいとは皆目思わない。外に出て自然の景色に感動したり、街行く人々のエネルギーを感じて刺激を受けたりすることの愉しさを僕は知っている。まとまった時間と大金があれば、いつだって世界中を旅していたいと思う。だいたいが、部屋に一人で閉じこもっているなんてこと自体が心の健康を考えた場合、太陽の光を浴びて成長することを自ら拒むようなもの。体にも心にも、良いわけがない。というより、面白いことなんて何ひとつないじゃないか?とさえ思う。たとえば僕が、自分の部屋で一人で過ごしている時間というのは、一日の中でそんなに多くない。せいぜいが仕事を終えて、眠る前の2時間程度。この2時間程度の時間は、自分にとって貴重で大事な時間。その理由として、次のふたつに大きく集約されると思う。*今日一日の仕事において良かったことも反省点も含めて色々なことを内省するための時間だから。*様々な本を読み、心に栄養を与えることが出来る時間だから。こうした静かな時間というのは、仕事面において素晴らしい人物との出会いを通じた内面の成長とはまた異なる醍醐味がある。上に記した時間は、自分にとって、ひとりで部屋に閉じこもることが目的で用意された時間ではない。ある意味、明日のために用意する時間、明日に出会う沢山の人々と豊かにつながるために用意された時間ともいえる。そういう意味で、僕は、こう考えるのだ。「ニート君たちよ、君たちは人生を損しているよ」 と。内に閉じこもることで心に一時の安定を与えることは可能だけど、それにばかり慣れてしまったら、野原に咲いている花の美しさを忘れてえしまうだろう。社会で生きていると、嫌なことも辛いことも多々あるだろうけれど、そこから完全に離れてしまったら、そこでしか体験できない己の成長だって放棄してしまうことになるし、そうしたことを通じてしか見つけることが出来ない他者の心のありがたみや美しい笑顔のかけがえのなさというものだってあるんだ。つい、そんな風なことを、上から目線ではなしに、遠い親戚の青年に接するように、いいたくなる。誤解を避けるために付け加えるけれど、僕は、ニート=単なる怠け者というような図式を頭に描いてはいない。彼らの心の戸惑いや社会への不安定な眼差しというのは、ある意味、この現代社会の歪みと正確に対峙していることのあらわれだと実直に思うから。それくらい社会に息づく人々の心の荒廃が加速し、もはや修正など利く余地などないのでは?と思えるほどに酷い世の中であることは間違いないのである。と同時に、ニートとして生きる若者たちに対して、必要以上に応援したり同調したいとも思わない。日記の冒頭に紹介した北野武氏の発言と同じように、僕も次の言葉を投げかけるだろう。「働けよ」。言葉をかえれば、ニートとして社会の中で生きるよりも、もっと別な、あなた自身の存在を輝かせる社会との交わり方を模索し実践したほうが絶対に良いということ。本当、そう思う。ニート君たちは人生を損していることを自覚すべきである。閉じこもるのではなく冒険すべきだ。でないと、ニート君たちの瞳はいつまでたったって輝くことを知らず、怠惰なときの連続の中で老いさらばえてゆくだけになってしまう。こういうことを、人生損をしていると呼ばずに一体なんとよぶのか。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14

あなたは、どんな女性と接した時に「ああ、この人はキレイだなあ」と感じますか?。あるいは、「この人は周囲の人達から愛されているなあ」と感じますか?。僕の経験上、この人は周囲の多くの人から美人と称され愛され慕われていると感じるタイプの女性というのは、意外と質素で地味な感じの人、佇まいが普通で自然体な感じの人だったような気がします。笑顔が絶えず太陽のように燦燦と輝いている人であるとか、八方美人風なタイプの女性というよりも、けっこう地味で穏やか表情ながら、だけれど、ちょっとした心遣いが場を和ませ安心感を与えるような、そんなタイプの女性が殆どだったといっても過言ではないでしょう。決して顔自体が女優さんのように整っているから、皆に愛されているというわけではないはずです。こういうことって女性に限らず、いままで出会ったモテ男たちにも同様のことがいえるような気がします。その人らしさ、というものが、良質な品性を伴いながら、表面にあらわれているような、そんな人を、本当の意味での、美人、美男子、というのでは?と僕は考えています。こういう事柄って、モテル女や男だけに限った限らず、会社についても同じことがいえるような気がするのです。つまり何がいいたいのかというと、 ”周囲に安心感を与えられるかどうか””安定しているかどうか”が大事だということなのでは?ということです。たとえば前述した「笑顔が絶えず太陽のように燦燦と輝いているタイプ」には、同時にその人が内に宿している影の部分というのが、本人がどんな隠そうとしても、なにかしらの事象を伴って必ず表面化し他者に伝わってしまうものです。八方美人タイプの人もこれと同じように、実は大きなアンバランスを内に抱えていることが往々にしてあります。いっぽうの、普段は地味な感じで、普通に穏やかな感じの人というのは、たとえ時に寂しそうな顔をしていたり不安そうな表情を見せることがあっても、意外と心のバランスが安定しているものなのです。そして、日々のちょっとした他者の心遣いが、計算としてではなく、その人の自然な真心や品性から生まれているということが他者の心に安心感を与えるから、いざという時に、必ず周囲の誰かから守ってもらえることが出来る。少し話は変わりますが、こうした話って、会社もきっと同じことでしょう?と思うわけです。だいたいが、ぱっと華々しく勢いよく登場した会社やお店ほど、散るのが早いというもので。この不景気の只中を生き残っている会社やお店を考えてみてください。長く続いている会社ほど、一年を通じてあんまり派手なことはしていないでしょう?。意外と地味ですよね、そしてお客さんに安心感を感じさせる、そんなあたたかさがありますよね?。それが、その会社やお店の品性なのであり、長きに渡り周囲の人々から評価を受け続けていることにもつながっているのだと思います。こういう話というのは、先日から連日で日記に書いている平林都さんの本に書かれてある事柄と深い部分でリンクしているように思います。ということで、「他人から愛される3つの条件」と題し発信した昨夜の日記を以下に再掲載。------------------------------------------他人から愛される3つの条件------------------------------------------平林都さんの本を読みながら、すごく勉強になる部分ってどこかといえば、全ての頁です。だけども、読む日によって、その時の自分自身の心持ちで、「今日は特にこの箇所が勉強になる!」と思える頁が当然あります。僕にとっての、今日に平林さんの本の中で特に「いいこというなあ!!」と唸った箇所を以下に記すことにします。----- 3つの条件を満たせば、いい印象とチャンスが与えられる -----そう綴った後、平林さんは次の文章を続けるのです。グレイ文字で引用しましょう。人に、「この人、なんかとっつきやすくて好きや」と思ってもらえると、得こそすれ損をすることはありません。とっつきやすい人は、人から頼りにされたり、かわいがってもらえたりするからです。私が考える「とっつきやすい人」とは、次の3つの条件を満たしている人です。1. 笑顔の人2. 自分から挨拶する人3. 自分から動く動作がみられる人どうして僕が、上に引用した箇所に唸ったのかというと、それは実に単純な話で、僕自身が仕事を通じて良き機会に恵まれたり、仕事を頂けたりする際の、自分の行動を内省する際に、それは決まって、上に平林さんがあげている3つの条件に自分の動きが重なっている時であると思い当たったから。たとえば、今日に僕がお得意先のお客様とどのように接していたのかを少しだけ書きたいと思います。朝方にそのお客様から電話が鳴りました。「このあいだの仕事、○○の件、あれ頼むよ」(相手)僕は感謝の気持ちを電話越に伝え、日程の調整などを含んだ書類を作成し届ける旨を伝えました。その後に、同じお客様から相談されていた別の物件のことを差し当たりのないように伺ってみたところ、こんな返事が返ってきました。「ああ、あれね、ちょっと中止・・・・・まあ検討しとく」その後、僕がとって行動とは次のようなものでした。早速、相手の望むスケジュール調整を行うために作成した書類を持って、相手先の会社にお伺いしたのです。そして依頼された仕事の日程等の取り決めを行った後に、さりげなく、先程にお客様から「検討しとくわ」とやんわり断られた物件の話題に移りました。相手の表情から、これは、こちらに非があったわけではなく、お客様自身の心の中になにか迷いがあることを察しました。その迷いが一体どのようなものであるのかを知るべく、30秒ほどの会話を重ねた結果、僕は、こう確信しました。(このお客様は自分が作りたいものの正確な姿を、まだ本当はイメージできていないのだ)僕は次のように会話を続けました。「一旦、あのプランを横に置き、別なアプローチで進めてみてはいかがでしょう?たとえば、こういう方法もあります」そして、数週間前にお客様から ”具体的なプラン” として差し出されたアイディアを一旦白紙にし、別な角度から、様々なアイディアとそれらを実現させるより具体的な技術に関する云々を幾つかお伝えしました。すると急にお客様の表情から陰りが消え始めたのです。先程に僕がお客様の表情から読み取った「迷い」が消えた瞬間でした。「それ、いいなあ・・・そういう方法もあったのか!」お客様はそう言って、笑顔になってくれたのです。その後に、数時間前に電話越しにやんわりと断られた物件が再始動したのは言うまでもありません。上に上げたお話は、平林さんの説明する 3つの条件の中の、 ”3. 自分から動く動作がみられる人” に該当するのではないか?と思います。やはり仕事でも何でも、自分から動こうとする意志が感じられる人を信じてみようと、誰でも考えるはずなのです。日記の冒頭に紹介した平林さんが述べる3つの条件とは、思うに、仕事が舞い込む条件ばかりではなく、他人から大切にされる3つの条件、他人から必要とされ愛される3つの条件と言い換えても何ら違和感はないでしょう。以下に、数日前の日記--------------------------------------------------------------------- 言葉は力であり、敵にも味方にもなる -----エチカの鏡で有名な平林都さんが、自身の本の中で太文字で記していた言葉が上。この言葉の後に次の文章が続きます。以下にグレイ文字で紹介しましょう。言葉が力なら、「わざわざ敵にする必要はない。味方にしてしまえ!」というのが私の考えです。他の店、他の企業では聞けないような言葉を使い、お客様にまた足を運んでいただくこと。それが接遇なのです。そして、人が人を呼んでくれます。これを体験すると、ますます自分に自信ができて、仕事にも人生にも生きがいが持てるようになります。このようなことを実感したので、私はいろいろなところで、「接遇が幸せを呼ぶ」「誰でも接遇で幸せになれる」と、お話しするようになったのです。すごく勉強になる本です。本当、こういう本がほしかったと実直に思います、というくらい凄い本。平林都さんという人物。いま、この人のことを知らない人はいないんじゃか?というほどに有名な方ですよね。僕自身、平林都さんの出演する番組はけっこうチェックしているので、よく平林さんが番組でお話されていたことを仕事中に思い出したりするのですが、本を出されているとは知りませんでした。この本を知ったのは、たまたま偶然によってでした。先日の大石ゆうさんの日記を訪問させてもらわなければ、今も知らずにいたでしょう。大石ゆうさん、ありがとうございます。良き情報に感謝します。また次回の日記でも平林さんの話題で日記を発信する予定です。---------------------------------------------------------------- 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14

母の実家は純粋に神社系でその道一筋、父の母親の家系は熱心な天理教であり、しかし現在、そんな父と母は特にひとつの宗派に拘るのでもなく、自分の家には仏壇と神棚が別々な場所に大切に祀られてる。こうした家庭は別段めずらしいとは思わない。大方の日本人が、そんな風に信仰や宗教というものを捉えているであろうし、またそれが不自然で奇異なことであるとも僕は思わない。伊勢神宮について書かれた本の中に、岡野弘彦さんという方が「神々の物語」と題された文章を寄せている。以下にその抜粋部分を太文字で紹介しよう。----- 「日本人は信仰を持たない民族だ」というような言葉を、時々、聞くことがある。その言葉は、強固な一神教の国から来た外国人が日本人の信じる神に初めて触れて、その微妙な深さや多様さが自分たちの神観念では理解できないために、ついに混迷して発する場合が多いようだ。そういう外からの言葉を契機として、自分たちの神について内省を深めることは大切だが、自身を卑下したかたちでそのまま受容する必要はない。 -----上の文章を読み深く頷いた方も多いことと想像する。かくいう僕もこの本を初めて読んだ際に大きく頷いたものだった。日本人が自身の日本人としてのアイデンティティを模索する場合、時に混乱に陥りやすいのは(僕自身が若い頃にそうであった)、こうした ”曖昧さ” が深い森の如きに、ただただ広がっている様相のようにしか思えない混乱のようなものかもしれない。しかし、そうした様相、風景を前に、そこから如何なる確固とした思想体系が見えてこないように思えてしまうのは実は誤り以外の何ものでもなく、まあ言ってみれば若葉の季節を生きる者の特徴ともいえるだろう。実際、僕がそうであった。そんな風に生粋の日本人であるはずの僕が、なんとなく日本人の文化が見えてきたのは、これは実にお恥ずかしい限りなのだが、数年前からである。そして、一見、傍から見れば無信仰のようにしか映らない日本が長く守り育み受け継いできた、確固とした軸を敢えて外すかのように曖昧さを大事にしてきたのかということが、そのような文化や信仰の歴史というものが宿している奥深さや神秘さ神々しさに目が開かれてきたのが、実につい数年前からでしかないのだ。こうして最近になってようやく少しだけ大人になれたかもしれないと考える今日この頃。若い頃にも確かに伏線はあった、それは黒川記章という建築家の思想からの影響。そうした影響がようやく30代の後半になり少しばかり実を結んできたともいえる。40にして遂に成人式を迎えた気分だ(笑)。って、まあ冗談はさておき。それくらい日本の文化というのは深遠な世界なのだと思うし、外国の方々が日本を訪れて首を傾げたくなる気持ちも分からないではないというものであろう。建築家の黒川記章氏がどんなに共生の思想を説いたとしても利休ねずみの美しさを説明しても外国の方々にとってそれを肌身で皮膚感覚で理解してもらうということは到底不可能なのではないか?とさえ思えるほどに。さて、ここでもうひとつ、途方もなく魅惑的な、ある作家による伊勢神宮への憧憬と賛辞がこめられた文章を紹介したい。石原慎太郎さんによる「伊勢の永遠性」と題された文章からの一部を以下に太文字で抜粋。----- それはアニミズムをはるかに超えて昇華された、人間とその存在の光背である「自然」との合体融和を象徴しています。故にも、伊勢はいかなる時に訪れても人々の心を深く捉え静謐な感動をもたらしてくれます。それは一日の中の時を問わず、一年のうちの季節を問わず、その折々に醸し出される光景をも問わない完璧な融和です。もし許されるのであれば、私はいつか深夜にも伊勢に詣でたいと願っています。 -----上の文章中の、もし許されるのであれば、私はいつか深夜にも伊勢に詣でたいと願っています。という箇所、これはもう感極まってしまうほどに何とも味わい深くそして美しい表現。さらに、実に素晴らしい、もうひとつの文章を以下に加えたい。玄侑宗久さんと鈴木秀子さんの対談本からの、玄侑宗久さんによる文章抜粋。----- どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じる ---------- (鈴木秀子さんの存在を指し)先生のキリスト教は、いわゆる赤毛ものではなく、日本人としての先生の体や生活にすっかり沁みとおっている。きっと「よすが」も「ご縁」も「お陰さま」も、いやいや「仏さま」だって、おそらく先生は柔らかく語ってしまうだろう。神仏は概念としてではなく、たぶん鈴木先生の実感の中で生きているのだ -----上の文章を読んだ方の中には、「ルカさん、伊勢神宮のことや日本の文化の曖昧さについてのエトセトラを書いておいて、急にキリスト教の話とはこれ如何に?」とズッコケタ方もいるかもしれない。しかし、こうした話題とする信仰系列の無秩序さ加減、混沌さ加減の中を通して確かに見えてくるもの、それが本当の意味での信仰というものの意味、世界の在り方・人生の在り方を見据える目を心に内に養うということなのではないだろうか、とも思うのである。という意味合いにおいて、玄侑宗久さんの文章を加えた次第。年明けの二つめの日記では、1月3日にみた初夢のことを書こうと考えていたのですが、これはまた後日の機会へ。昨夜遅くに伊勢神宮のことを綴った文章を日記として発信したのだけれど、ふと今日になって少し真面目に(どっこが?笑)、神社であるとか日本人としてのアイデンティティみたいなものへ想いを馳せたくなったのでした。ちなみに日記のタイトルとして的確な言葉が思い浮かばず、岡野弘彦さんが伊勢神宮について書かれた文章のタイトルを失礼かと思いつつ、敬意を込めてそのままお借りしたことを付け加えておきます。また機会を設けて神社であるとか伊勢神宮であるとかキリスト教であるとか禅宗であるとか、そうした信仰というものに集約される目には見えないものに関するお話を日記文章を書くことを通じて考察したいと考えています。
2010.01.12

謹賀新年!本年もどうぞ宜しく御願い致します。2010年は寅年ですね。寅といえば ”寅さん”、そして寅といえばタイガー。タイガーといえば ”タイガーマスク”。寅さんのあたたかい笑顔とタイガーマスクの強さの両方を道標とする、そんな一年にしたいと考えています。さて、一年のスタートに掲げる夢や願いを新年の挨拶に代えダイジェストに上記したわけですが、以下にもう少し詳しく一年の抱負の言葉を紡いでみたい。時間に余裕のある方だけ以下に読み進めてください(長いです。笑)------------------------------------------------------------------ 世界は常に、美しい。もし、僕らが己の人生の中で、美しく生きられない瞬間があるならば、それは自分自身の心のあり方を修正する必要があるからだろう。泣いても笑っても、等しく時間は同じように過ぎてゆきます。別に泣くことが涙を流すことが悪いことで、笑うことだけがすべてだと言いたいわけではありません。その両方が誰にとっても重要であることをきちんと理解しながら、その両方のバランスの中で、豊かさを内に育み続け生きてゆく時間の集積こそ大事だと思うのです。神々しいほどの、そうしたバランスへの思慮、命の豊かさへのあたたかな眼差しこそが、僕らの人生に崇高で美しい清らかな一筋の光の雫を生み落とします。至上なる美を纏いながら。ルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」http://item.rakuten.co.jp/esteya/y-ba1068/話題を少し変え、昨年の一年の始まりに発信した日記の中で僕は次のようなことを書いていました。-----------------------------------------------------------------------------ギターの演奏におけるビブラートと ”エスプリ” には深い関係があるように僕は考えています。そして、現代日本社会に足りないものは、僕が思うに、人々の心と心をつなぐ愛のビブラート・・・・・これに尽きるのではないか、とも。ビブラートが上手くなるように演奏を心がけながら、同時に心の片隅で ”エスプリ” に想いを馳せる。そして少しずつ、楽器を弾くということがどんなことなのかを身体で理解出来てゆく人生の素晴らしさも、笑顔の美しさも、人と言葉を交わすことで生まれる感動も、---少しずつ---、手に取るように分かってくる。人生というのは、きっと、そういうものだと思います。さて、これから始まる 2009年。僕は、ビブラートへの想いを深めながら、ただ忙しく走り回るのではなく、人と人との心がより豊かに愛と笑顔を伴いつつ共振し互いに前に進んでゆけるような、そんな風に仕事に励み、人生に取組みたいと考えています。-----------------------------------------------------------------------------一年前の自分自身の抱負を、きちんと叶えることが自分は出来たのか?出来ました。だけど、同時に、昨年のスタートの際に掲げた抱負を活かせなかったこともあります。”ただ忙しく走り回るのではなく” という箇所、これが全く活かせなかった・・・というのも2009年は2008年を超える多忙さに眩暈を覚えつつ何とか前進出来た、そんな一年に終始したから。しかし、です。眩暈級に多忙を極めたこの一年だったからこそ、おまけに年の後半に体を壊し不安感に打ちひしがれたこともあった、そんな一年だからこそ、同時に、”人と人との心がより豊かに愛と笑顔を伴いつつ共振し互いに前に進んでゆけるような、そんな風に仕事に励み、人生に取組めた” こともまた事実。実に矛盾に満ちたことを書いているような気もしますが、生きるということはそうした途方もない矛盾や混沌の渦と流れの中で進み続けること。少しばかりであっても何か自分にとっての収穫があったのであれば、マイナス要因が付随することも、これはいたしかたないこと。そうしたプラスとマイナスの部分を含めての ”人の生” なのであります。生きるというエネルギーの根源なのであります・・・恥ずべきことはないのです。と自分に言いきかせよう(笑)。兎にも角にも我々は、プラスとマイナスの混沌の渦の流れの中でしか己の生を前に進ませることは出来ません。少しずつ、です。そうした ”少しずつ” の連続の日々の中で、とても大きな豊かさを、なんとか勝ち取ることの出来ないのが、成長というものである。日々の己の成長が実に僅かで些細な小さい歩みの連続でしかないとしても。だけど、それ以外に、大きな海へとつながる小さな川の流れを、自らの中に齎すことが出来ないこれもまた人間の宿命なのだともいえるのかもしれない。現在、新たな一年の抱負を自分が内に掲げるとすれば、それは以下のようになるでしょう。世界は常に、美しい。そして、圧倒的に目も眩むほどに、正しい光に貫かれている。もし、僕らが己の人生の中で、美しく生きられない瞬間があるならば、それは自分自身の心のあり方を修正する必要があるからだ。自分に出来ることは、己の羅針盤に狂いはないのかを日々問い詰めながら、逞しく前進し続けるだけ。栄光を目指して、光に満ちた未来を航海の到達点として力強く内に定めながら。ということで、今年も昨年同様に、逞しく生き、笑顔を忘れずに力強く前進すべく、一年のスタートに発信する日記の締めとして、これ以上は望むべくもない名言を、自分に渇を入れるが如く添え記すことにしましょう。-----負けの九十九パーセントは「自滅」-----(桜井章一)-----人生に勝てとは言わない。勝つことが善で、負けることが悪とは思わない。たとえ負けても、強く生きているが問題なんだ。困難や不安定を楽しめる、強さを持っているかと強調したいのだ-----(桜井章一)上に記した桜井章一さんの言葉を肝に銘じ日々を真剣に生きていれば、自ずと誰にとっても、次の言葉が天から差し込む光のようにあたたかさを伴いながら体の隅々にまで染み渡るはずです。-----あなたは いつも 守られている-----(鈴木秀子)では、また次回の日記で逢いましょう。今年も宜しく!!。皆様にとっても幸ある一年となることを祈念します。
2010.01.01
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