2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全19件 (19件中 1-19件目)
1
今日、惣菜屋さんでお惣菜を買いました。センスのいい店構えで、料理は趣のある陶器に盛られています。大皿に盛られているその料理を自分の好きな量だけ取って量り売りしてもらう仕組みです。結構、高いです。でも買っているその瞬間はそんなに高く感じないのです。家に帰ってきて食卓に広げると、結構高かったなぁ、と思うのです。買い物における価値は、商品の質だけではないのですね。もちろん結構おいしいのですが、価格にはそれ以上の何かが含まれています。そう、お店の雰囲気やいい陶器に盛られているセンス、そしてそんなお店で買う楽しみや満足感、そのようなものが価格に含まれているのですね。不思議なのは、価格にそういうものが含まれていることは、冷静になって考えると分かることなのですが、お店で買う瞬間には気になっていないことです。ある意味、何ももらえないのに満足感みたいなものにお金を払っているわけですが、払っている瞬間、つまりその満足感に浸っている瞬間は金銭感覚が少し変わってしまっているのですね。一種の麻痺のような状態です。安売りのスーパーにいるときの感覚と比べてみて下さい。明らかに違うわけです。同じ買い物なのに不思議ですね。
2004.02.29
コメント(1)
先日、生命保険の営業マンと話をしていてこちらの要求通りに資料をくれないから怒ったことがあったのです。ただ言う通りにしてくれないから怒ったのではありません。いつも自分の都合のいい資料しか持ってきてくれないからです。私は癌保険は要らないと言っているのに、癌がお勧めですよ、と持ってくる。なんで違うものを見せて、と言っているのに癌保険を持ってくるの?あまりにも癌保険にチカラを入れて説明するので、何だか癌になって欲しいかのようにさえ聞こえます。そんなことが続いたので怒ったのです。自分の都合ばかりを考えて訪問されても困る。困るどころか、いい気分がしない。解約したくなる。明日までにこちらが求めている資料を持ってきてくれ。さもないと解約も考えさせてもらう(今、加入しているものがあるのです)、と。そしたら来なくなったのです。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。とうとうこちらから電話を入れました。別の方が電話に出て、担当営業マンは外出中であると。携帯に連絡してみると。その後、数分、さっき電話に出られた方からかかってきて、担当の携帯が繋がらないと。一体、どうなっているんでしょう?みなさんは、こんな経験はないですか?やっぱり、怒られたときほど、会いに行かないとダメだと思うんです。一番溝を埋めるのは、面と向って話す生の会話です。だから怒られた後は会いづらいけれども、あえて会うべきだと思うのです。今、私のココロの中には、担当営業マンへの不信感で一杯です。
2004.02.27
コメント(3)
今日、ある得意先と話をしていて、その方は理想だけをおっしゃいます。確かに、そんな理想通りにいけば嬉しいのですが、どう考えても現実的ではない。私はもともと楽天家で、どちらかというと理想を夢見る方が好きです。しかし、夢を追いかけながら、そのために現実的にできる最初の一歩を踏み出すから、夢も近づくのだと思います。理想だけを追いかけて、現実的にできること、本当に実行できることを無視していると、結局理想はいつまでたっても理想のままだと思います。あまりにも理想の話しかしないので、現実を逃避されているのだなと思いました。次回会った時には、現実的にできることを提案したいと思っています。掲げている理想から比べると、ほんの小さな現実的な一歩を。
2004.02.26
コメント(0)
東京は大消費地です。モノが大量に消費され、そして情報も大量に消費されていきます。大量に消費されるようになると、少量の個性を持ったものが価値を発揮します。モノで考えると簡単ですね。高度経済成長期は、画一的な商品が大量生産され、隣の人と同じモノを持っていることが安心、みんなが持っているならば自分も持っていたい、そんな価値観が横行しました。しかし、モノが溢れかえると価値観は一転します。他人と同じではイヤだ、同じでは刺激も発見も喜びもない、自分だけしか知らないオリジナルが欲しい、そんな価値に転換するわけです。情報も同じです。はじめはみんなと同じ情報を持っていることが安心につながっているのですが、大量に情報が流布するようになると自分しか知らない情報に価値がつくのです。なので、東京ではマスメディアを使わなくても価値のある情報がつくれます。カリスマショップだけに情報を流す、芸能人だけに情報を流す、高級クラブにだけ情報を流す、そうしておくだけで情報を入手した情報感度の高い消費者が自ら広告塔になってくれます。東京では情報が刺さるんですね。地方では、ここまで鮮明にはコトは運びませんが・・。
2004.02.24
コメント(2)
先日、仕事で調査をしていて思いました。なんて、常識に頼りすぎているのだろう、と。例えば、トヨタという会社についてイメージを訊いていたとします。「一流企業だと思う」80%「信頼できる」75%だったとしましょう。分析するとき、一流と思うから信頼もできるんだな、と勝手に思い込みます。常識的に考えれば、誰も反論しないでしょう。トヨタは一流、だから信頼できる・・・。たとえ、相関関係を計算してみても恐らく高い相関係数が出ると思います。でも、数字で見ないで、机の上で計算されたスコアを見ないで、調査に答えた一人ひとりを見てみると、全然違うことが言えるかもしれません。おじいちゃんが大のクルマ好きで、いつも愛車のトヨタ2000GTの自慢をしていたことが耳に残っている。それ以来、おじいちゃんを信頼するようにトヨタという会社も信頼している、ということかもしれないし、海外でホームステイをしていたとき、日本の企業の話になった。ホストファミリーのお父さんは日本の企業で一番信頼できるのは、何を差し置いてもトヨタだと言う。それ以来、自分の中でもトヨタに対する信頼がある、ということかもしれない。「一流企業」だから「信頼」というのは、関係性がありそうだし、相関係数を計算してみても、そうだと数字が証明する。しかし、はじめからそうした常識に囚われて分析してしまうと進歩がない気がするのです。常識通りの答えが出るだけだったら、いつまでたっても常識を超えることができないじゃないですか!想像できる明日じゃつまらない。常識に頼って判断するのではなく、違う角度から自分なりの判断をしたいですよね。トヨタの場合は、それでも当てはまっていると思うのですが、企業によっては常識を当てはめずに考えた方が面白い場合が多々あるのではないでしょうか?
2004.02.23
コメント(1)
先日、ある講演を聴いていました。それは調査結果から、未来を予測するというものです。未来を予測する!? なんか面白そうではないですか。でも行って聴いてみたらがっかり。今の20代はこんなこと考えているから、10年後は30代の人がこんなこと考えている。なぜならば、20代の人が10年後には30代になっているから。・・・こんなことで未来が予測できたら苦労しない。私はそこで思いました。やっぱり未来は予測できないから面白い。想像できる明日はつまらない。今日と不連続だから明日に期待できるし、時代は発展する。よく考えると時代が一歩前に進んだときって、不連続な何かが起こっているんですよね。ビートルズ、ガウディ、黒澤明、ビル・ゲイツ・・・彼らは今日の延長の明日を考えたのではなく、今日とは不連続な明日を作った人たちです。調査なんかで未来は予測できない。未来は予測するのではなく、不連続な明日を作るんだ、という自分の意思で創るものなのですね。
2004.02.22
コメント(0)
数年前、マーケティングの業界ではワン・トゥ・ワン・マーケティングが流行りました。どういうものかというと、字のごとく、一人対一人のマーケティングです。例えば、美容院で髪を切れば数週間後、前回はいかがでしたか?そろそろ切り揃えた方がいい時期ですね、などと一人の顧客に対応したダイレクトメールが届くわけです。しかも手書きで。もらった方は、自分一人に対応してくれることに感激して、その店のファンになる、というマーケティングです。確かに正しいし、それでうまく行ったお店もたくさんあるでしょう。でも、ここで重要なことは一人一人に対応していることではありません。手書きでもありません。最近、カミさん宛てにデパートや専門店から手書きダイレクトメールがたくさんきます。以前よりさらに増えた気がします。しかし、その中には一回しか行ったことがないようなお店も含まれているらしいです。だとしたら、そのお店はカミさんの何を分かって春物の服を薦めているのでしょう?要は、手書きで一人一人の対応でたいへん結構なのですが、結局、自分たちが儲かりたい、また買いに来て欲しいだけ、が透けて見えるようなダイレクトメールでは、一人一人対応でも手書きでもダメだ!ということなのです。本当に自分のことを考えてくれている、好みまで分かって薦めてくれている、自分のお店の儲けより、ホントに自分のワードローブのことを考えてくれている、そういうココロが伝わらないと、一人一人対応で手書きでも意味がありません。それは伝わるように書き方を工夫すればいいという問題ではなく、ココロから顧客のことを想うように気持ちを入れ替えないと達成できません。そう思いません?
2004.02.19
コメント(1)
昨日、朝の4時まで同僚と飲んでいました。会社の仲間と飲むとどうしても会社の話しになります。そして酔いが回ってくると、たいてい、愚痴。夜中の2時ごろ、愚痴大会になっていました。何だかイヤな気分です。でもよく考えたら、自分が愚痴を言いたいように、相手だって愚痴を言いたい。自分の都合を優先したいという欲は、実は相手も同じように思っている。ということは、自分の言いたいことや、やりたいことを通したいならば、まずは相手を認めること。自分を認めて欲しいならば、同じように認めて欲しいと思っている相手をまず認めること。そんな話になりました。それで2時から4時までのラストスパートは、誉めまくり大会。なんだか気分がいいです。寝不足にはなりましたが、飲後感がいい飲み会になりました。
2004.02.18
コメント(1)
私は広告会社で働いていますが、広告の仕事を長くしているうちに、だんだんと医者のことが気になりはじめました。別に自分の健康に不安があるわけではありません。ましてや病院の広告が多くなってきたという話でもありません。なぜ医者が気になり始めたのか?それは、広告を通して結局はヒトの幸せを考えている自分がいるからです。仕事に打ち込めば打ち込むほど、結局はヒトが幸せであることを如何に達成するか、このことを考えていることに気付きます。そして気になり始めたのです。直接、ヒトの体を扱うお医者さまは、さぞかし大変だろうなと。お医者さんは、医学的な知識や技術以外に、やはりハートが必要ですよね。この病人を助けたい!という気持ちが最後は大きなチカラとなる気がします。広告だってそうなんです。得意先を、ひいてはその商品を手にする生活者を幸せにしたい!この気持ちが強ければ、いい広告が生まれるのです。私が扱っているのは広告というカタチのないものです。もろにヒトを扱うお医者さんのココロの強さというか優しさを見習いたいものです。
2004.02.17
コメント(1)
過去の日記で、ヒトの営みは、ビジネスにしても普段の生活にしても、大きな原則のようなものがある、定めのようなものがある、と書きました。それは脳が顕在化していない部分に、人間という生物としての本能があるからだ、と思っています。 ○ スローフードがブーム、 ○ ビジネスではスピードが大切、 ○ 癒し系が流行り、 ○ どんなヒット商品でも必ず飽きがくる、どれも、他の生物と同じように「自然の中で進化を求める生き物」としてのごく当たり前の行動なのです。一方で、脳の中で顕在化している部分では、「今」という時代を敏感に読み取ろうとします。今でこそ日本は、人間としてより本質的な行動様式が見られ始めましたが、バブルのころを思い出してみてください。とても、自然の中で生きる生物としての営みとは掛け離れたことも行っていましたよね。土地への投資や、絵画への投資。これは単に貨幣経済という人間が脳の中で考えた仕組みの中でお金を儲けたいがために行っている行動です。貨幣経済、或いは資本主義という仕組みが考え出されていなかったら、誰も取らない行動です。つまり、本質的には意味がない、ということです。しかし、時代的には意味があった。その時代には、それが善です。それで世の中が動いているのですから。最近、中国が急成長しています。世界の工場として大躍進です。変化を取り入れるスピードも、日本より遥かに早いと聞きます。今、中国は、資本主義という、人間という生物が考えた仕組みの中に漬かりました。資本主義は、脳の中で考えた仕組みなので、操作もしやすいです。これから中国は、この資本主義という仕組みの中で世界中からチョッカイを出されることでしょう。ぜひ、チョッカイ出された後に、失われた10年がやって来ないように、日本のケースを反面教師として活用していただきたいと思います。
2004.02.15
コメント(0)
最近思うんです。生活するにも、ビジネスするにも、目には見えない大きな「さだめ」みたいなものがあることを。ヒトは今まで何万年もかけて、動物から人間へと進化してきました。その歴史の長さから考えると、アメリカが主導するこの資本主義が成立している世界はほんの一瞬なんだな、と。ビジネスで言ったら、こうやったら儲かるとか、こうやったら成功するとか、いろいろと考えますが、本来人間はもっと大きな目的のために生きている気がするのです。それは生物としての進化です。昨日より今日、今日より明日、人間は自然に進化を求めている。進化するには、新しいものを取り入れなければなりません。なので、変化することは善です。最近、その傾向は顕著です。変化をスピードをもって成し遂げる。ビジネスをする上で重要なファクターです。成功したパターンを踏襲するというのも効率的経営には必要なことですが、人間がそもそも持つ、進化し続けたいという本能がそれをどこかで否定するのです。日常生活でもありますよね。ちょっと新しいお店ができたらのぞいてみる、コンビニで新しい商品がでたらちょっと買ってみる、新しい経験を求めて旅行に出る、知らない人との出会いは、出会う前はドキドキだけど、出会った後は清々しい、など。大きな「さだめ」を見つめると、生活やビジネスに違った切り口を持ち込める気がしています。
2004.02.14
コメント(0)
私は九州に住んでいます。福岡です。鹿児島へは仕事でよく行きます。芋焼酎の生まれた鹿児島の焼酎に対する感覚は、なんとなく分かっているつもりです。私もアルコールの中では芋焼酎が一番好きです。先日、東京へ出張したときにふと酒屋に寄りました。最近目立っている、焼酎ばかりを扱う大きな酒屋です。店頭には、鹿児島の焼酎がドンと並んでいました。しかし、その銘柄に驚いたのです。全く見たことがないのです。聞いたこともない銘柄が、和紙のラベルに墨字でそれなりのブランド名が書かれてあり、店頭の一番目立つところにデンと置いてあるのです。そこには、「鹿児島でしか獲れないコガネセンガンを使った本格焼酎。一番売れ筋です。」とPOPに書かれてあるのです。ビックリしました。東京の人はこれを見て、これが本場の芋を使った焼酎かぁ、と思ってしまうことでしょう。隣には、売れ筋No.2が同じようにそれなりの宣伝文句と共に並べられていました。鹿児島での実態とはかけ離れて、情報によって焼酎が消費されています。本当の老舗の焼酎や、本当に杜氏がこだわって作っている焼酎ではなく、東京という大消費地で、情報操作によって価値を高めた商品が売れていく構図。分かってはいましたが、ビックリしました(私が知らないだけで、それらの焼酎も杜氏がこだわって作った幻の焼酎かもしれませんが・・)。ヒトはおいしさより、情報の方が判断基準になるのですね。舌よりも頭、資本主義経済の面白いところです。
2004.02.12
コメント(1)
最近、自分の周りの人たちの多くが大きな病気にかかっています。入院しなければならなかったり、手術が必要だったり、場合によってはそれ以上に大変なことも・・・特にカミさんの友達たち、つまり女性が多い気がします。カミさんは、あの方は厄年だから、などと言っています。しかし、この厄年、よく考えると振り回されている気がします。厄年だから、よくないことが起こる。逆ですよね。昔、人はある年齢になるとなぜか病気をしたり、怪我をしたりすることが多かった。それは子育てが終わって安心して気が抜けたタイミングかもしれません。生活が順調になって、緊張感がなくなったタイミングかもしれません。いずれにしても、自分のみならず世間一般的に病気や怪我に見舞われる年齢があった。それに理由をつけたのが、厄年です。厄年はヒトの脳ミソが考え出した知恵です。病気になってしまう、怪我をしてしまうことに対する見えない恐怖。これを「厄年」として目に見えるカタチにして、御払いをする。その年は気をつけるようにして、自然と病気や怪我を予防する慣例を生み出す。これが知恵としての「厄年」な訳です。現代。厄年が一人歩きをして、厄年だから何かが起こる、という本末転倒が起こっています。厄だから何かが起こるとネガティブに受け取ると、損ですよね。厄だからといって何かが起こるわけではありません。ドライな言い方をすれば、統計的に言って病気などをしやすい時期である、ということに過ぎません。ならば、それを貴重な事前情報として受け止め、いつまでも元気でいられるようにポジティブに捉えた方がいいですよね。そうは言っても、病気にかかってしまった友人たちの1日でも早い回復を望んでいます。ポジティブな気持ちで、ホントに、頑張ってもらいたいです。
2004.02.11
コメント(0)
今日は、今のこの時間も含めてバタバタしているのですが、大切なことを見失わないようにするために、日記を書いています。今日思った大切なこと。それは自分を高めるコミュニケーションです。過去の日記のあらゆるところでコミュニケーションの大切さは触れているので、自分の中ではいまさらなのですが、やっぱりコミュニケーションって大切です。今日は、本日中にやらなければならない作業をやろうと思ってとっておいた時間に大切な友人から電話が来ました。近くにいるからお茶を飲もうと。私はもちろん受けました。友人とお茶を飲む。緊急な業務ではないです。本日中にやらなければならない業務の方が緊急度合いだけを見れば上です。でも、思うのです。本当に大切なことはたいてい緊急ではない、のです。クレーム処理、企画書の仕上げ、締切日までの投稿、どれも緊急です。一番プライオリティが高く感じます。でも本当にプライオリティが高いのは、緊急ではない友人との会話だったり、家族との団欒だったり、遠方の知人との交友だったり、読書だったり、絵を見たりすることだったりするわけです。緊急ごとばかりに対応していたら、毎日疲弊するばかりで、人生が削れてきます。なので私は、友人とお茶を飲みました。そして、飲んでよかったと思っています。友人との会話は、私をインスパイアし、元気が出ました。かえって、その後の仕事の効率がはかどるぐらいです。そして、今。他にやるべき緊急の仕事があるのですが、楽天日記を書いています。
2004.02.09
コメント(2)
私は会社の先輩に、この人の頼みならば絶対に受けよう、絶対に裏切るまい、という人がいます。この先輩は、数年前、私がプロジェクトを起こしたとき協力してくれた人です。そのプロジェクトはあるテレビ番組を新規に立ち上げるというものだったのですが、周囲の人はムリだムリだと言って、取り合ってくれません。ムリは承知です。でも誰かがやってみないといつまで経ってもムリなものはムリ、で終わってしまいます。少しでも可能性があるならばやってみたかったのです。周りに反対され、もうあきらめようかと思ったとき、その先輩に相談しました。その先輩は「おう、やろうよ。協力するよ。」と言ってくれました。あまりにもあっさりで、最初は耳を疑ったぐらいですが、ホントに先輩は親身に協力してくれました。番組は実現しませんでしたが、ものごとをやり遂げる、やり遂げようとする勇気や根性、そして人を信頼する大切さやチームワークなどを学びました。それ以来、その先輩との信頼関係は続いています。ビジネスといえども生活と同じ。結局はヒトの営み。人間関係が、ヒト同士の信頼関係が最も重要ですよね。
2004.02.07
コメント(2)
節分に恵方巻きを食べる習慣、って知っていますか?関東をはじめとした東日本の方は知らないかもしれませんね。私も東京に住んでいるときは知りませんでした。これは節分の日に、その年の恵方の方角を向いて、目を瞑り、太巻きを一気に食べる、という習慣です。そうするとその年は、いい年になるというものです。元は、関西の海苔の商人が始めたと聞いています。こういう習慣って他にもありますよね。つまり、文化や風土、稲作などの生活や、季節などに基づいた習慣ではなく、特定の企業などが仕掛けた習慣。世界的にメジャーなのがクリスマスやバレンタイン。チョコの販売促進に利用されたバレンタイン。コカコーラのキャンペーンで始まった赤と白の衣装のサンタクロース。なんで特定の企業などが儲かる行事が、習慣となって後世に残るのでしょうか?これは、コミュニケーションが関わるのではないでしょうか?今ほど情報が流通していなかった昔は、どこかの国やある一時期だけブームになった事柄は、タイムラグをもって、ブームにならなかったエリアに情報が蔓延したのではないでしょうか?情報が来た頃には、その実体は見られない。一種の伝説状態です。これが興味や憧れを醸成させ、習慣化に結びついたのではないでしょうか?(完全な仮説です。どなたか真相がわかりませんか??)
2004.02.05
コメント(2)
私たちは瞬間瞬間にあらゆる判断をします。ランチに何食べようか? あいつにメール書こうか? 家にケーキでも買って帰るか?どの瞬間も、いろんな要素が絡み合って判断を下しているわけですけれど、結局、突き詰めればイチバン幸せになる選択をしているはずなんですよね。自分の幸せ、家族の幸せ、自分と同じように相手も幸せになりたいはずだから皆の幸せ、それを無意識に意識して瞬間瞬間を過ごしているんですよね。そう考えると世の中すべて、日本に限らず世界全てが幸せを求めて瞬間瞬間を過ごしている。スゴイことです。企業は自分の商品やサービスを売ろうとする。それが資本主義経済の生業だから。でも、全てのヒトが幸せになろうとしているチカラをそのまま受け入れられれば、イメージで言うと、巴投げのように相手のチカラをそのまま活用して大きな動きが取れるなら、もっと世の中は幸せにならないでしょうか?自分だけが、自分の会社だけが儲かろうとするのではなく、ヒトが幸せになろうとしているチカラを借りてマーケティングする。そんな瞬間の幸せの累積みたいな経済活動ができないものでしょうか?私は過去の日記でマーケティングはムズカシクないものだと言って来ました。そうなんです。全てのモチベーションは幸せになりたいという欲求にあるのですから。その単純なマインドを掴めばマーケティングはできるのです。(ムズカシイのは自分だけが儲かりたいという欲求も強い、ということですね。これは企業に限らず、個人のレベルだったり、もちろん今世界を揺るがしているように国レベルでもある話です。)
2004.02.03
コメント(1)
かなり前の日記にケイタイ電話の本質的価値は「つながっている」ことと書きました。だから「つながっている」ことを助長するサービスで革新が起きてきた、とも書きました。メール、写メール、着メロ、着うた、などが「つながる」ことを楽しく、便利にする機能やサービスたちです。一方、単に着メロの和音数や、カメラの画素数を高めることは、技術的にはすごいのだけれど、本質的な革新にはならない。また、Javaなどのゲームも「つながっている」に関係ないので革新にはならない、とも書きました。そして、最近思うのです。「つながっている」ことが本質的な価値であるケイタイ電話。ケイタイ電話が鳴ることに結構、神経過敏になっている人はいませんか?「つながっている」ことが断ち切れるのがイヤだ、だからケイタイが鳴ったことを無意識のうちに、必死に聞き逃すまいとしている自分がいたりしませんか?他人のケイタイが鳴っているのに自分のが鳴っているとつい思ってしまう。鳴ってもいないのに、鳴っているような空耳を覚える。メールはいつ見ても、いつ返事をしてもいいという時間制約がないのがメリットですが、そのくせ、メールが来ると食事中でも、会話中でも、会議中でも見ちゃう。そんなケイタイ中毒の人、いませんか?本来は「つながっている」相手が重要なわけです。恋人と、家族と、親友と、つながっていたいからケイタイが鳴るのを逃すまいと思うのです。「つながっている」こと自体が重要なのではなく、相手を想うココロが重要で本質なわけです。ですが、もはや本末転倒。ケイタイが鳴っているを逃すまいという脅迫観念が一人歩きをし、相手が誰であろうと、ケイタイが鳴ることにビクついたり、期待したりしてしまう。こんな世の中は、人類史上初めてです。手紙を待ち焦がれる、家の電話が鳴るのを待ち焦がれる、という文化はありました。でも、それは恋人からだったり、都会で一人暮しをする子供からだったり、あくまで気持ちの中に大きく存在しているのは、手段である手紙や電話ではなく、相手です。ヒトです。ところが今、ヒトのココロの中に大きく存在しているのは、自分のケイタイなのです。使いこなし、オリジナルの壁紙で、お気に入りの着メロがなる、自分のケイタイです。友達とのプリクラが貼ってあり、彼とおそろいのストラップがついているケイタイです。相手は誰でもいいのです。自分のケイタイがいつもそばにあって、そのケイタイが定期的に鳴ることが、もはや普通の生活なわけです。もう中毒ですよね。だから、あまりケイタイが鳴らないとそれがストレスになる。家の固定電話は、鳴らないからと言って契約を解除したり、イラツいたりしませんが、ケイタイはイラツきます。ストレスです。やっぱり自分にはケイタイはいらないと思って解除するヒト(中年の方など?)もいるのではないでしょうか?ケイタイのある生活。これだけ普及すると、あらたなステージを迎えたようです。
2004.02.02
コメント(1)
うちの子供は幼稚園受験をしました。先日、内部受験で小学校受験もしました。試験のメインは幼稚園の時も、小学校の時も、面接です。これには当然、親も付き添います。面接の準備、いろんなことが考えられます。私が思っている一番の準備は、親子のコミュニケーションです。面接での質問をシミュレーションして、子供に回答を用意させても、本番の雰囲気や緊張感でそんなものは吹っ飛んでしまうじゃないですか。たとえ数ヶ月前から準備していたとしても。学校側は、その子供自身が知りたいはずですし、その親子自体を知りたいはずです。面接という短い間に、その家庭がどんな家庭かを発揮する、読み取ってもらうのは、とてもムズカシイことだと思います。だからこそ、普段のコミュニケーションだと思うのです。教科書に出ているような回答の準備をすればするほど、無個性な家庭になります。自分の家庭ならでは回答を用意するのではなく、良いとされる回答を準備する訳ですから。普段のコミュニケーションは、その家庭らしさを増幅します。ヒトはコミュニケーションなしでは生きていけない。そして、そのコミュニケーションの中で自我を作って行くわけです。家庭でのコミュニケーションが多ければ、子供の自我がどんどん芽生えますし、その家庭らしさも、知らず知らずのうちに築き上げていかれるものです。そして、本番でも、両親が両脇にいるというだけで子供は安心できてしまうわけです。普段からコミュニケーションを密にしておけば!ムズカシイのは、子供との接触がそもそも少ない父親とのコミュニケーションですねぇ。
2004.02.01
コメント(1)
全19件 (19件中 1-19件目)
1