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「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」 芭蕉が寿貞の死を知らされて、お盆にこの愛染院で詠んだ句 芭蕉の一生で女性が登場するのは一人だけで、出家して寿貞と名乗った人で本名も分からない謎の多い人です。 そもそも芭蕉との関係は正式な妻ではなく、寿貞の芭蕉妾説は、風律の『こばなし』のなかで他なら ぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 」 と芭蕉の妾とありますが現代では愛人と言うべきでしょうか。 伊賀の出身で江戸で出会ったのか伊賀から追いかけて行ったのかも記録がありません。伊賀出身なの は江戸で亡くなった後、現在の伊賀市寺町の念仏寺に葬られたので間違いないでしょう。 元禄7年6月2日、江戸深川の芭蕉庵にて寿貞尼死去。享年42歳? 寿貞の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けられ、芭蕉が深く嘆いたとあります。 芭蕉が去った後の芭蕉庵に越してきたかたずねる手紙があり病状を気にしている文章が残っている。 芭蕉が去った後からでないと庵に病気の寿貞は越せなかったという関係でした。 現代の感覚では理解に苦しみます。 遺髪が納められている芭蕉故郷塚その手前右に「数ならぬ身」の小さな句碑があります。 伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」と いう人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼ですが、 「6月2日」と死亡日と同じなのは後世に書かれたものでしょう。 寿貞のお墓がある念仏寺 過去帳に 「享保三戌四月廿六日 歓誉光安浄喜 寿貞尼舎弟」「享保三戌四月廿九日 享誉利貞信尼 寿貞尼姉也」 と記載がある。寿貞の弟と姉の法号であり、「寿貞尼舎弟」「寿貞尼姉也」と寿貞を主とした 表わし方は寿貞はあまりにも有名な芭蕉の妻であったといふ事が、これ等二人の姉弟には歓びであり、誇りでもあったということで過去帳へ直接記入したのでしょう。 後世の人には数ならぬ身ではなかったのです。 次郎兵衛という寿貞の子という説もある人のことは次回。
2020年04月28日
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芭蕉の甥に桃印という人がいました。 誰の子供なのか判然としないですが芭蕉の姉の子供 というのが有力で、その姉が婚家から離縁され たか、夫と死別したかして松尾家に出戻ったときに同道してきたのが桃印であるとする説がある。 桃印5、6歳の頃で、芭蕉は22、3歳。何故か若い芭蕉が彼を養育することになったようです。 これは、兄の半左衛門家が貧しく、桃印を扶養する経済力が無かったためかもしれない。 その後、芭蕉が江戸に出て、生活のめどがつくのを待って 延宝4年(1676)ごろに江戸に連れて行った。 ただし、延宝8年頃の深川隠棲以後桃印が何処に住み、何を生業にしていたかは全く不明で謎である。 芭蕉の桃印に対する愛情は並々ではなく、33歳という若さでの桃印の死に落胆した芭蕉は自らの 生への執着をも喪失した風がある。許六宛書簡にその時の心情が吐露されている。また、桃印重態の ため借金をせざるを得なくなった芭蕉は膳所の門人曲水に宛ててた書簡で1両2分工面してくれるよう依頼している 。 元禄五年(1692)第三次芭蕉庵の生活は充実していたが、桃印の肺結核が進行し兄への手紙に心配させ ても仕方がないので久居の母親には逐一報告はしない。 とあり、桃印の母親は久居に居たことになり芭蕉が責任をおっていたことになります。 明けて六年、桃印の病状はいっこうに改善せず、芭蕉は自庵に引き取り、自ら看病しました。 しかし同年三月桃印は亡くなりました。 この看病で結核菌がうつり翌年芭蕉が亡くなったのは結核菌が原因の潰瘍性大腸炎だという説が 現在定説になっています。 桃印が江戸に下ってから一度も伊賀に帰った記録がないことは最も理解出来ないことです、久居にい る姉の子ならば藤堂藩法の五年帰国法に触れるのですが藤堂新七郎家が便宜を図り見逃していたので はないでしょうか、とすると新七郎家に関わる子だった可能性があります、芭蕉のただならぬ献身的 な看病ぶり桃印死亡後の落胆ぶりは単なる甥に対してのものなのかも理解しがたいことです。 寿貞の子という説は久居の母親に知らせるなという手紙と矛盾します。 桃印が芭蕉の愛人の寿貞と駆け落ちしたという説がありますがこれは後の人が面白おかしくした話で 若くして死亡し記録が余りないので出来た話だと思います。 その寿貞の話は次回。
2020年04月26日
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伊賀市 芭蕉翁記念館所蔵の「埋木」 芭蕉が江戸に出て3年間には記録がありません。しかし2年後に北村季吟から宗匠(俳句の師匠)の 認可書とも言うべき「埋木」を授与されています。 此書雖ニ家伝之深秘一、宗房生、 依ニ俳諧執心不レ浅一、免ニ書写一而、 且加ニ奥書一者也。必不レ可有ニ外見一 而己 延宝二年弥生中七 季吟(花押) 読み下し文 此の書は家伝の深秘といえども、宗房生(そうぼうせい)、俳諧執心浅からかざるによって、書写を 免じて、且つ奥書を加うるものなり。必ず、外見有るべからざるもののみ 延宝二年弥生中七 季吟花押 現代語訳 この書は、家伝の秘密文書であるが、宗房(後の芭蕉)生は俳諧に実に熱心であるから、書写を許 し、かつ私の名を奥書に署名した。門外不出と心得ること。 延 宝2年(1674)2月17日 季吟花押 この宗匠立机の授与「埋木」は江戸に出て二年後のことで、この「埋木」の授与の場所やひいてはその信憑性を疑う人もいます。 藤堂藩の法でいったん伊賀を出国したものは四年帰国が許されず、そして四年毎に故郷へ帰り郡奉行所へ出頭することを命じる。と上野市史芭蕉編にあります 「宗国史」に貞享四年(1687) 古法の如くの後、五年目毎帰国法が 記されているが、古法の如くとあるので従来からの原則をあらためて記したものと思われる。 上野市史芭蕉編の年表に正保五年(1648)12月 「伊賀国からの出奉公について定」 とありこれが古法だと思われます。 芭蕉は寛文12年(1672)出国して五年目(江戸時代は0年という概念がないので四年毎)の延宝四年 (1676)に一時帰国している。 そうすると二年後に帰国していたのは考えられず「埋木」を受け取った場所は伊賀ではなく京都か 江戸ということになるが伊賀市の芭蕉翁記念館の学芸員の方は郵送した例もあるとの返答でした。 そしてこの「埋木」が藤堂新七郎家に残っていたことも信憑性を疑う一つになっていて郷土史家の方は 新七郎家が北村季吟(季吟の書であることは証明されています)に頼み書いてもらったのではないかという説を唱えています。
2020年04月24日
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伊賀市 菅原神社の「貝おほひ」以前見せて頂きました。 松尾芭蕉が伊賀上野の天満宮に処女作「貝おほひ」を奉納し江戸に旅立った。 芭蕉の生前中自著して自著として刊行した唯一の出版物で現在一冊だけが現存するといわれる 「貝おほひ」の刊本は、延宝初年に江戸の中野半兵衛から出版されたもので、 天理大学附属天理図書館が所蔵しているといわれています。 その天理大学から複製本を昭和二十一年に奉納されたそうです。 版木が発見されたので五十冊複製された中の一冊のようです。 「小六ついたる竹の杖、ふしぶし多き小歌にすがり、あるははやり言葉の一くせあるを種として、 捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちてつれぶしにうたはしめ、」 というのが書き出しです。 この 「貝おほひ」を 上野天満宮(上野菅原神社)に奉納し、またこれをパスポートとして持参すること で江戸俳壇に乗り込んだのである。なお、刊本は、江戸の書肆「中野半兵衛」から出版され 江戸における芭蕉の存在を印象付ける大きな機序となった。 というのが定説ですのでこの複製本の版木も江戸の 「中野半兵衛」のものなのでしょうか。 三重大学文学部教授 山田雄司さんに古文書講座の折にこの写真を お見せして版元の印を読んで頂いたところ「わたやのほん」ということでした。 天理大学綿屋文庫という古典専門の俳諧に特化した部門がありそこの出版のようです。 ということはやはり昭和になって復刻された一冊のようです。 江戸に出てからの三年間は記録がありません。その間に北村季吟から俳諧指南書「埋木」を授与され ていますがこの授与に信憑性を疑う人がいます、これは次回。
2020年04月23日
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良忠(蝉吟)が寛文六年(1666年25歳で(芭蕉23歳時)亡くなり芭蕉も職を失ったとしてその後の江戸に旅立つまでの6年間がはっきりしません、 芭蕉生家 上野市史芭蕉編には 芭蕉は良忠の遺髪を高野山報恩院におさめた。報恩院は焼失したが、その位置に高室院が再建され、 今も高室院は上野関係の人々の寺院として知られているから、実際に高野山に登ったのであろう。 その後京都に遊学したとの説、あるいは禅門に入り修業したとも言われているが、実際はそのまま 上野にとどまり、上野俳諧で力をつけていたものと思われる。 季吟邸や宗匠たちのところに出入りしていたものと思われる。 とあります。 芭蕉が新七郎家に通った200m程の道 他の説には 京都五山の禅寺ひとつにでも入って、 勤労奉仕、托鉢、座禅、学問、漢詩文などの修業生活を送って いたのでは、という説もありますがこれは 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき 風雲に身をせめ」(幻住庵記)との記述から推測されたものだと思われます。 京都などに行き北村季吟に会ったり寺院に入ったことがあったかもしれませんがそれは一時のこと だったと思われます。 藤堂新七郎家下屋敷裏門(勝手門)芭蕉は台所用人でしたのでこの門から出入りしたものと思われます。 大垣市の「芭蕉の歴史」には13歳で小姓として新七郎家に入り良忠が亡くなって台所用人として 雇われたとしています。 江戸に立つまでの6年間にも数回、句が入選し掲載されていますし、三句で一組の句も入選していて 助勝、正朝、宗房と長忠、定就、宗房で二組が掲載されていて他の人は新七郎家の若手の武家衆で あったとしていますのでその間は上野で宗匠への道を切り開いていたのでしょう。 伊賀の郷土史家の人は新七郎家下屋敷の前に9軒程の家臣屋敷がありましたがその一軒に新七郎家 の庇護のもと芭蕉が住み蝉吟の句集を編纂していたという説を唱えています。 古地図では9軒の新七郎家臣屋敷が左側に並んでいたが、今はこの土塀の一軒だけが文化財として残っている。 藤堂新七郎家(様々園)の庭 右手に枝垂れ桜がありました。 そして現在の伊賀市菅原神社に句集「貝おほひ」を奉納し江戸に旅立ちました。
2020年04月22日
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芭蕉生家の離れ釣月軒 芭蕉には解明されていない事柄が余りに多い、それは芭蕉が生きていた時代にはあまり重要に思われ ていなかったせいでしょうか、記録が詳しくなく、まず生年月日がわかりません死亡した年が数え年 51歳とあるので換算して正保元年(1644)としているだけで月日の記録がありません。 多くの弟子達がいて多くの記録を残しているのにた生年月日を記したものがないことを少し奇異な ことに思うのは今の時代の考え方なのでしょうか。 母親の出自もミステリアスです、元は桃地氏(百地とも)で伊予の城を任されていた藤堂高吉が名張に 移るとき(寛永13年、1636年)共に移ったとの記録はありますが家柄の記録がなく、芭蕉が新七郎家と いう侍大将の屋敷に仕えられたり後に妹が名張藤堂家下臣に嫁いだり兄が仕えたりしたのは母親がど ちらかの家の隠し子ではないかとの説があります。 そして芭蕉が藤堂新七郎家に仕えた年も豊かでない家の次男が19歳まで働いていなかったのか、 仕えられたのは俳句をたしなんでいたからか、それとも仕えた後に俳句を学んだのかもはっきりしません。 「芭蕉は仕える前年の1661年頃から北村季吟に俳諧を学ぶことがあったか」と「上野市史芭蕉編」に記載されています。 芭蕉は新七郎家に仕える以前から窪田政好、保川一笑と俳句を通じて親交がありその縁で新七郎家に 仕えた。と伊賀市の(芭蕉翁顕彰会)のサイトにあり 伊賀市の「芭蕉と伊賀上野」でも同じ文章が掲載されています。 保川一笑は伊賀上野で紙屋を営む富裕な町人で本名は保川弥右衛門というが生年月日等年代は不詳。 貞門の同士として窪田政好らと藤堂新七郎良忠(蝉吟)の下屋敷に出入りし、 京都の北村季吟に 師事し本格的に俳諧の道をたしなむ蝉吟の相手をしたり、当初は貞門の先輩として芭蕉(宗房)に 俳諧の手ほどきもしたと思われる(伊賀上野町家みらいセンター) どうやら伊賀の人達は俳句が縁で新七郎家に仕えた説のようです。 寛文二年(1662)千宜理記.(ちぎりき)に 「春や来し 年や行きけん 小晦日」 の句が掲載されていて、19歳 時のこの句が現在は一番古い句とされています。 この寛文二年が発行の年だとすると「こつもごり」は寛文元年の暮れということになり出仕前の作と なり以前から俳句をたしなみその縁で新七郎家に仕えたということになります。 大垣市のサイトには 芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。 藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。 良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。 蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。 季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。 このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。 京都の北村季吟中心のサイトも同じような文脈です。 しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。 蝉吟が亡くなった後の芭蕉も定かてでないことがありますがそれは次回。
2020年04月19日
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