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上野市服部に小宮神社(おみや)がある。 伊水温故(1684)に 「小宮ノ社 服部村 酒ノ君の霊地也 延喜式伊賀二十五座唯一 正二位 二の宮と号す 服部氏の祖神也」 とあり服部氏の祖神「酒の君」をお祭しているということです。 酒の君とは 仁徳(にんとく)天皇41年(推定353年)紀角宿禰(きのつのすくね) が百済につかわされたとき, 紀角に 百済の王族にあたる酒君が礼を示さなかった。 そのことで紀角が百済王を責めると、王は鉄の鎖 で酒君を縛り捕らえ,日本におくられた。 その後罪をゆるされ,43年天皇から鷹の飼育を命じられました。 鷹甘(たかかい)部のはじまりということです。 呉国から来た人を呉服(くれは)漢国より来た人を 漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した 部署を部(とり)と 言いました。 それで呉服部(くれはとり)、漢服部(あやはとり)と 書きます。 この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの 先祖を王族出身の酒の君とし この酒の君が伊賀 で領した場所を服部と言います。 服部川をくれは川と呼ぶのは「くれはとり」の 前半をとり、氏の「はっとり」は後半をとったと思われます。 拝殿 服部氏の祖 呉服比売命(くれはとりひめのみこと)を主祭神とする。 拝殿と後に本殿 小宮神社の社紋は丸に並び矢筈(やはず)服部半蔵と同じです。 服部に三流ありそれぞれ家紋が違います 漢服部は平内左衛門相続し平氏 紋は丸に横二つ切り竹矢筈 呉服部は服部六郎時定相続し源氏 紋は 左ひとつ巴 敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏 紋は八つ矢車 百地氏は七曜星に二枚矢羽根 服部町公民館の石碑 呉服川(くれはがわ)の塘(ほと)り並み 伊予松ふると傳えられ 志を空へ誉れる雄姿 城下 毎年 名木を知る 側面 ここより南西約700m服部川左岸堤防止の老松指定解除に付き保存施設をこの地に移転し伊予松を植える 上野市 塘つつみ 燧灘(ひうちなだ伊予の海岸)から藤堂高虎が持ち込むが三本のうち一二本が成長し呉羽の老松とよばれた。
2020年05月30日
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斎宮芝は伊賀市柘植地区に残る斎王が伊勢神宮に向かう時の宿泊所 斎王とは国の安全と平和を祈願するため、京の都から伊勢神宮に派遣され、天皇の名代として神に仕えた人のことで、斎王には、皇女や皇族の未婚の女性から選ばれました。 斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神 に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まります。 承久の乱(じょうきゅうのらん)、鎌倉時代の承久3年(1221年)に途絶えました。 津藩主藤堂高猷が再興を主張したが、成らなかった 斎王に選ばれると、都で2年間精進禊をし3年目に伊勢の斎宮に向けて5泊6日の旅をします。 この斎宮芝は平安京遷都(794年)から鈴鹿峠開通(886年)までの92年間、斎王群行の重要な役割を果たしていました。 その間、九人の斎王が任にあたったとありますので一人が約十年務めたことになります。 京の都での「別れのお櫛」の後、斎王群行の3日目、勢多頓宮、甲賀頓宮の宿泊をへて、伊賀に入り 柘植で300名を越える群行を迎えました。 その道中で泊まられる所を、頓宮といいます。群行の都度、仮宮として設けられました。 柘植川と倉部川の合流地点近くに古来より「斎宮芝」というこの場所が 頓宮場所とされています。 この斎宮芝で宿泊した道程は赤く描かれています。 因みに斎王も加太峠を越えました。 役目を果たした斎宮の復路は2の道で一志から西に向かい青山地区を通り大和地区を経て山城国岡田賀茂(木津川)などで禊を済ませてから京に帰ったそうです。
2020年05月22日
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柘植説の芭蕉誕生宅跡家自体は石碑の向こうに在ったそうです。芭蕉翁生誕宅阯碑と刻まれた石碑芭蕉の父、与左衛門はこの家で生まれたでしょうが芭蕉が生まれたかどうかは、はっきりしない。与左衛門はこの地を離れ現在の伊賀市赤坂町に移り住んだが、その時期が芭蕉が生まれる前か後かがわからないので誕生地がはっきりしません。正面?側面から?撮りました。芭蕉の父親、与(儀)左衛門は長男なのかどうかも問題です、次男、三男なら独立時期は成人とほとんど同時又は結婚を機にでしょうから三番目の子、芭蕉が生まれるまでこの家に居たとは考えにくく上野生まれということになりますがそれがはっきりしません、上野に出る時この家を一族の者に譲ったとありますので長男かもしれませんが上野松尾家は上野、愛染院を芭蕉父の代から菩提寺としていますので長男では無い可能性の方が高いと思います。松尾芭蕉家は無足人といわれ、普段は禄を貰えませんが戦など一朝あれば駆り出される武士と農民の間のような身分でしたがその身分も分家すると無くなるとされています。藤堂高虎が伊賀の藩主となり城下町を整備したのは慶長16年(1611)といわれているのでその頃上野に出たのではないかという一説「柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。」がありますが父の年齢は、亡くなった年は承応五年(1656)と分かっていますが生まれ年の記録が無く年齢が分かりませんが三番目の子芭蕉が1644生まれなのでその時父は三十歳位としますと高虎城下整備の慶長年間に生まれたことになりこの説はないことになります。この看板には「父、儀左衛門は芭蕉の姉を愛田村の竹島家へへ嫁がせ、上野に出た」と書かれていますがそうすると芭蕉が十歳位の時になり、もっと記録がのこっていて芭蕉自身も柘植を詠んだ句がありそうなものですが一句も詠んでいませんこれは不自然に思います。結局状況証拠ばかりでいつ上野に出たのかは分かりませんでした。
2020年05月21日
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梅田竹次郎宅跡 「跳ね釣瓶の庭」 「新感覚派」の作家、横光利一(1898〜1947)が小学生時代を過ごした伊賀市の屋敷跡の公園。 この土地の所有者である梅田卓さんが、2012年に 「横光と横光の作品に興味を持ってほしい」と現在のような公園に整備されました。 奥に井戸 横光利一は母や姉と1904年(明治37年)から小学生の4年間、 伊賀市野村の母の実家の向かいにあった梅田さんの祖父の屋敷の2階に住んでいました。 横光が短編「笑はれた子」に書いた跳ね釣瓶は「この家の井戸の物だろう」と推測されることから 「横光利一の心のふるさと公園・跳ね釣瓶(つるべ)の庭」と名付けられました。 「笑われた子」では嘲笑された吉少年は釣瓶の重しの檜の丸木を外し笑っている面を作ります、 その後下駄屋になっても面は店の鴨居にありました。その最後の一文 「貴様のお陰で俺は下駄屋になったのだ」 吉は假面をひきずり降ろすと鉈を振るってその場で假面を二つに割った、、、 最後に忍従から解放されて終わります。 横光自身内面を描けた作品と評しています。 跳ね釣瓶は支柱に上下に動く横木を渡し、井戸側に釣瓶を、反対側に重しを付け、 てこの原理で力仕事が軽減されるという仕組みになっています。 その重しが手前に上に横木、下に向かって釣瓶があります。 「蟻薹上に飢ゑて月高し 」(ありだいじょうにうえてつきたかし)の句碑 伊賀市柘植町にある「柘植歴史民俗資料館(2020年3月31日をもって閉館)」の脇の小道を入ると、 彼がよく登って物想いにふけったという小さな丘に利一が最も好んだ「蟻台上に飢えて月高し」の句を刻んだ文学碑と、川端康成による解説文碑が建てられています。 川端康成解説文 「横光利一が柘植の古い友にあてた手紙によっても横光の心の故郷は母と共に少年期を過ごしたこの 柘植である横光を追慕する古里のよくここに記念の文学碑を建て横光の愛した句を自筆にもとづいて刻んだ。」 昭和三十四年九月一日 川端康成撰 斎藤昇書 除幕式には横光の遺児二人も出席しました。 史跡 旧麗澤舎石碑 江戸時代、庶民教育の場として建てられた心学道場。庶民を対象に、平易に勤勉、倹約を説いたもので 京都心学の中心的存在であった上河淇水らを招き、地元の有力者らが都講となり、私財を投じ、道場 を経営し、講義をおこなったもので、寛政(1789)年刊の諸国舎号に、その名を見ることができます。 なお、現在残る建物は、医師でもあった冨山采一の遺宅で、木造平屋建瓦葺、文政12(1829)年建立とされる。
2020年05月20日
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萬寿寺 寛慶作 木造地蔵菩薩坐像が国指定重要文化財ですが勿論見ることは出来ませんでした。 松尾家の菩提寺です、松尾芭蕉の父の出自に基づきます。 松尾家代々の墓 他家の墓地とは別の場所に在ります。 その菩提寺の先に福地城跡 松尾芭蕉の松尾家の先祖は平宗清と言われます。 平宗清は永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に 送りました。 この際、清盛の父、平忠盛の正室で継母の池禅尼を通じて頼朝の助命を求め死罪を免れたといわれます。 この行いにより壇之浦の戦いの後、源氏の世になった後も領地を許されますが平は名乗れないので 日置、福地、北村と兄弟は名乗りました。 福地氏は石垣が残る城を持つ豪族としてその四百年後も栄えていました。 松尾家は福地家の分家とされます。
2020年05月20日
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旧加太峠 672年壬申の乱で積殖(つみえ。現在の伊賀町柘植)で大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子と 合流し加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入りました。 その加太峠です。 天正10年(1582)本能寺の変の時、徳川家康が伊賀を越えて逃げ柘植の徳永寺で食事をとった後、 この峠を越えました。 歴史上に何回も登場します。 その奥へ川沿いに登ったところ かなり古い橋が掛かっていました。 石積みも江戸時代のようでした。 地図で見るとこの先に不動滝があるようですがそこまでは行けませんでした。 余野公園、壬申の乱古戦場の滝川 余野公園古戦場跡は天武天皇(大海皇子)が高市皇子と会った後、鈴鹿に向かいその後関が原で戦い 大津に押し寄せました。そして落ちてきた大津勢が伊賀で天武天皇勢とぶつかり戦った。 その待ち伏せしたであろう川淵が壬申の乱古戦場。
2020年05月19日
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松尾家の墓といわれる墓列伊賀市の芭蕉記念館に保存されている芭蕉の兄への遺書「松尾半左衛門宛遺言状」には「如何様(いかよう)とも又右衛門便(頼)りになされ」とありこの又右衛門という人が最後の大坂への旅に同行しています。又右衛門を兄、半左衛門の実子としていたり甥とあったりはっきりしません。また通説では末妹の、およしは長兄半左衛門の実子又右衛門の没後、半左衛門の養女となり後に松尾家を継いだと考えられています。しかしこれでは、およしが松尾家を継いだ時の年齢は、芭蕉の三番目の妹ですので10歳以上離れていたとしても40代半ばか50歳位になり婿をもらって子供を産むことは出来ないと思われます。松尾家の墓は、故郷塚の北側に垣根を隔ててあります。愛染院の過去帳に「凉月臨松 元禄十二(1699)卯年一月 松尾又右衛門事」というのがあります。この又右衛門が芭蕉の手紙に出てくる又右衛門にほぼまちがいないと思われます。しかし又右衛門が実子であるならば「半左衛門子息」と書くべきですが書かれていません。元禄十二年は芭蕉の兄半衛門はまだ存命でしたから。本多光照の「上野松尾家代々法名」によると初代 松尾半左衛門父事(1653) 同母(1683)二代 半左衛門事(1701) 同妻(1705)三代 半左衛門事(1743)四代 半左衛門事(1764) 同妻( 1764)五代 半左衛門(1771) 同妻(1793) とあり二代が芭蕉の兄で三代がおよしの子として又右衛門没後婿をとって産んだとは考えられません。そこで又右衛門はおよしと夫婦で半左衛門宅に同居か、もしくはごく近くに暮していてその子を松尾家の跡継ぎにすることになつていたと考えたらどうでしょう。ですが又右衛門の松尾家における地位はいわば付属的なものだったと考えられます。そして又右衛門は松尾家における籍あつかいがはっきりする前に兄より先に亡くなり後の人に分かりにくくなったのでしょう。愛染院過去帳に、延宝八年十月十二日(1680)に没して「冬室宗幻松尾半左衛門甥」と記されている人物が、およしの子であるらしく思われることも、ここに考慮する必要があります。「冬室宗幻」を又右衛門の子と書かずに「松尾半左衛門甥」としてあることは、松尾家の中での又右衛門の特殊な地位を示しているのてはないでしょうか。松尾家の墓に入れる甥はおよしの子以外は考えられません。過去帳の「松尾半左衛門甥」という記載は二人の子でしたら諒解できます。つまり延宝八年(1680)芭蕉死亡14年前にはおよしは夫婦生活を送っていたことになります。二人には他にも子供がおり松尾家を継ぐことになっていて実際三代半左衛門は没年からみて二人の子でしょう。松尾家墓列の一番西側の大きな墓は第二次世界大戦戦死者の墓石でした。「血脈断絶」には翁兄、藤堂修理家来、松尾半左衛門。甥二代目同名。大甥三代目同名。とあるので芭蕉の兄が名張藤堂家三男の家系の藤堂修理家に仕えたとしていましたが藤堂新七郎家臣、安屋冬李の『蕉翁略伝』には「宗房の舎兄儀左衛門より上野赤坂町の辺に住居して手跡の師範其後儀左衛門嫡子半左衛門、藤堂長基に仕ふ」(藤堂長基は名張、藤堂修理長定の世代的には子か孫或は親戚筋にあたると思われる。)とありますが兄半左衛門命清が儀左衛門であり、手跡の師範をし、その嫡子(と言つているが、半左衛門命清には子がなかつたのですから、およしの子、(兄、半左衛門には甥)の半左衛門が藤堂長基に仕えたことになります。儀(与)左衛門という名は諸書に、芭蕉の祖父の名となり、父の名となり、兄の名となり、およしの婿 の名にもなる。少なくともここ二三代の間、儀左衛門という名がこの松尾家の代々の当主の通称のように用いられたのではないでしょうか。だとすると、又右衛門の死後、儀左衛門という婿をとったのではなく又右衛門が半左衛門命清が隠居後、松尾家当主の名の儀左衛門を称したのでしょう。又右衛門と儀左衛門とを別人と考えたために混乱に陥りました。過去帳には代々半左衛門と書き、俗名を代々儀(与)左衛門を名乗ったので分かりにくくなりました。三代目半左衛門の法号「松岸凉清」は、父、又右衛門の法号「凉月臨松」を念頭においてつけられたものだと思われるます。江戸時代の家長制度、養子の扱いが後の人には理解しがたい分かりにくい事が又右衛門と松尾家との関係にいくつも説が出たのでしょう。
2020年05月08日
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寿貞の墓がある念仏寺本堂 次郎兵衛という名前が元禄五年(1692)から記録に出てくる。 以前は芭蕉と寿貞の子ではないかという説がありましたがおそらく寿貞の連れ子ということが定説になってきています。 寿貞に子供一男(次郎兵衛または二郎兵衛)二女(まさ・ふう)がいて次郎兵衛は芭蕉の世話をし ていたのではないかとされています。 寿貞は元禄七年(1694)に初めて記録がお出てくるのですが次郎兵衛はその二年前から出てきて元禄七年の芭蕉最後の旅に同行しています。母親が病なのに伊賀へ共に帰るのは少し奇妙ですが。 次郎兵衛の墓は見当たりません。母親の念仏寺の過去帳にも見つかっていません。 最後に大坂への旅にも同行しています。 もう一人又右衛門という謎の人は次回に。
2020年05月01日
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