全4件 (4件中 1-4件目)
1

旧長野隧道美里村側坑口 重厚な石組み「近代土木遺産2000選」では総切石造とあり,そんな総切石造の隧道を初めて見たと あり,アーチ環の輪石は異形状のものを組み合わせ,全体として一個の装飾となっているのも美しい ものでした。素人の私でも機能美構造美を感じました。 明治13年11月に着工、明治18年6月に旧長野隧道は完成しました。人力で掘り抜かれた隧道は長さ 216m。残念ながら西側は土砂でほとんど埋没していますが、東側の坑門(出入口部分)は重量感の ある明治時代の姿を良好に残しています。 坑門は峠の岩盤を逆台形に削り、花こう岩の切石を積み上げています。アーチ部分は一重の迫石で、 鉾状模様に御影石を組み込んでいます。アーチの高さは3.6m、最大幅は4.6mで、荷車なども通れる道でした。 隧道に掲げられていた石造りの偏額が右に「其功以裕」の一筆があり,小じんまりした字で「従三位 勲四等岩村定高」と添えられている.もう一つはふくよかな書体で「補造化」と暘刻されたものが その右側にあります。 「隧道改修記念の碑」美里村側の昭和トンネルの手前にあります。 「旧伊賀街道 長野峠」の案内 明治18年以前はこの峠道伊賀街道だったので江戸時代の藤堂藩の通行し松尾芭蕉が越えた峠だと思われ 「初時雨 猿も小蓑(こみの)を ほしげ也」 の句を峠を越えた伊賀側で詠んだといわれます。 峠の頂点 少し下った所に茶屋があったそうでその痕跡です。 茶屋といっても大きな礎石が石垣状に遺っていて個人の物だったとは考えにくいものでした。 榊原温泉に寄り「田中善助翁碑」を探してみつけました。 石碑の裏側に刻まれている文字
2020年10月20日
コメント(0)

蓑虫庵 伊賀市上野愛宕町芭蕉の弟子服部土芳の庵土芳は伊賀上野本町通りの米問屋に生まれたが、幼くして藤堂藩士の服部家の養嗣子となった。片鎌槍、内海流槍術の槍師範代の家であったが、庵開き前年に三十二歳で致仕しており、蓑虫庵という庵を結び俳諧に没頭していた、という人物です。大津、義仲寺の芭蕉庵に倣い芭蕉堂を昭和五年当時の庵主菊本 直次郎氏が建立菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年(明治3年) - 1957年(昭和32年))は、三井銀行取締役会長や寿重工業取締役会長、日本パルプ工業取締役を歴任。松尾芭蕉の研究家としての顔も持つ。1870年(明治3年)9月、藤堂家旧臣菊本保有の次男として三重県伊賀国阿拝郡上野萬町に生まれる。昭和五年(1930)芭蕉堂建立 なずな句碑建立 その「なづな塚」「よくみれば なつな花さく 垣ねかな」芭蕉四十三歳の作句意 ふだんは気にも止めぬ垣根の根元、薺の花がひっそりと咲いている。昭和十四年庵主菊本直次郎氏建立芭蕉堂の屋根の押さえとして「すり鉢」が置かれている。建築者は伊賀の数寄屋師、森本源吉氏「卒度(そつど)往(ゆき)てわかな摘ばや鶴の傍」の句碑若菜塚などがあります。庵日記元禄九年(1694) 1月7日の七草粥の七草を採りに河辺での句芭蕉最後の年の正月の句 元禄9年(1696年)土芳40歳の作。季語「若菜」で春。土芳の『蓑虫庵集』に「七草の夜雪芝の祖母、舛(ます)かけ切る。年賀とて例の若菜の会次手(ついで)祝あり。二句」と前書がありますがよく判らないので調べました。「七草の夜」は1月7日の夜「雪芝の祖母」広岡雪芝、上野中町、野松庵主、土芳の従兄弟「桝かけ切る」は枡 かけは、桝の穀類などを量るとき、盛り上がった部分を平らにならすのに使う短い棒のことで米寿の祝いに作ることから米寿の祝いのこと米寿の祝いとついでに七草の祝いをした時の句ということらしい。 句意は、「蓑虫庵の庭にも鶴が降り立つ。その鶴のように雪芝の祖母が気高く年を重ね88歳の米寿を迎えた。おめでたいことである。そっと静かに近寄って初春の若菜を摘みたいものである
2020年10月19日
コメント(0)

コスモス畑から垂園森を望み遠景右奥に風力発電の風車群が山の峰に垂園森は室町時代にも清少納言の枕草子の九十六段に「森は、大あらきの森。しのびの森。ここひの森。 木枯らしの森。信太の森。生田の森。とつづき たれその森、」と七番目にあります。 山の峰の風車は近くで見ると迫力があり風車の上までは高さ75nあります。コスモス畑を撮っていると伊賀鉄道の電車が後ろの市部駅に止まり偶然一台だけの松本零士サイン列車でそれも東側にのみ書かれているのを撮れました。伊賀鉄道200系201号(青色の忍者列車)の運転台側乗務員用のドアの横に、松本零士氏の直筆サインが書かれています。どうやらこのサインのようです。柘植地区の風の杜徳永寺から700m北に行った風の森社跡の碑風の森社は「三国地志」に風神を祀ったと記されています。「三国地志」とは伊賀上野城、七代目家老、藤堂采女元甫(もととし)が編纂させたもので伊勢、志摩、伊賀地誌とされていますが実際は藤堂藩の津地区、久居地区、伊賀地区の地誌で1751―1764年に纏められました。また源義経が木曽義仲追討の途中、戦勝祈願したと源平盛衰記に記されているそうです。石碑側面 明治四十年八月二十七日 合祀干天神明治末期の一町村一社令で近くの天神が合祀されたようです。柘植地区は北側に琵琶湖でブロックする山脈が無く日本海からの湿った風により気候も変わりやすく雨の多い地域です。
2020年10月14日
コメント(0)

伊賀には古くから和歌などに詠まれた三つの森があります。まず垂園森境内にあたる部分には紀貫之(きのゆらゆき、?~945年)の「われならで たれ其森の玉櫻 たまさかにもや 色にそむべき」の歌碑西行法師=1118~1190年「小夜更けて たれその社の ほととぎす 名のりかけても 過ぎぬなるかな」誰そ(たれそ)とたずねなければならない程の昼なお暗い森「打ちならび月見るやうな森二つ」伊賀の俳人 服部土芳元禄十一年(1698)八月兼好の遺跡等探勝(現在の伊賀市青山地区)の帰途市部の里に立寄り十六夜の月誰そ哀その間にさしのぼるを眺めて土芳が詠んだとあります。哀園森の石碑哀園森哀園森から左後方に垂園森 森二つ「うつせみの かりの此世に 住みながら なくねそうすき あはれその森」 西行法師「秋過ぎて あはれをもらす あはれその森の しぐれを袖に知るかな 僧正遍照哀園森も平安時代から和歌に詠まれています。鷺の森猪田神社の手前に広がる田んぼの中にあります。 延暦三年、白鷺が空中を翔り、白羽の矢をくわえて松の木の上に止まる時に、その矢が光を放って今の猪田神社の社地に止まった。その鷺の止まった所だという言い伝えが残ります。一面田園風景の中、ぽつんと木々が生い茂っており、不思議な光景を生み出しています。
2020年10月13日
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1