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松岡大臣の自殺という衝撃的な事件について、ちょっとおちゃらけた書き方をしてしまったが、やはり心の底に、澱(おり)のように重いものが残った。松岡氏以前の現職大臣の自殺が、終戦時(62年前)の阿南陸軍大臣だったというつながりで、昨夜はとうとう「日本のいちばん長い日」を塵を払って引っ張り出してきて、全巻読破してしまった。だから、きょうはちょっと寝不足。(なお、この名著は、刊行時ノンフィクションという分野が未確立で、著作権意識も希薄だったこともあるのだろう、当時著名だった評論家・ジャーナリスト、大宅壮一氏の名義を借りて、「大宅壮一編」という形で出したらしいが、現在は、当時実際に執筆したノンフィクション作家の半藤一利氏著となっている。)読みながらひしひしと感じたことは、詰まるところ、古いマッチョな男たちの昔気質(かたぎ)の振る舞いだな~、ということである。松岡氏の父は、職業軍人だったそうである。そう言われてみれば、まさに、映画とかに出てくる軍人そのもののイメージだった。無口で、あれこれ説明しない。黙って俺について来い、男は黙ってサッポロビール、である。家へ帰れば概して不機嫌で、メシ、フロ、ネルの三語しか発しない、・・・というのはもちろん誇張があろうが、昔の男には確かにそういうところがあった。しくじった時は、自分の腹に収めて、釈明などしない。大きなしくじりで、進退窮まった時は、黙って消えて、酒でも呑む。老兵は死なず、ただ去り行くのみだ。消えることが叶わなければ、黙って死ぬ。・・という事態は、昔の人でもそうそうあったとは思われないが、ま、ものの喩えである。腹の話である。「週刊女性」最新号が伝える、明石家さんまと長渕剛のトーク番組収録本番中の大ゲンカ・絶交騒動は、傍目で見ている分にはまことに面白い。さんまの番組に出た長渕が、最初は和気藹々としゃべっていたが、何が気に障ったのか突然ブチ切れ、ケンカ腰の応酬となった。さんまも決して気が弱い方じゃない。「なんで俺の番組に来たんや」、「なんで呼んだんだ」という売り言葉に買い言葉になり、長渕が席を立ち、周りは大童(おおわらわ)だったという。結局、トークの使える部分のパッチワークで編集し、オンエアは支離滅裂の竜頭蛇尾だったという。さもありなん、と思う。この二人は水と油だ。さんまは、どこでもどの時代でも、すいすい適応できるお調子者の典型だろう。もちろん馬鹿じゃない、・・・どころか、ものすごい怜悧な頭脳を持っていることは、テレビを見ていれば明らかだ。たぶん芸能界以外でも、組織のトップは無理としても、そこそこ出世できるタイプだろう。こういう人は、軽くエゴイストが入っているのは常である。人の話なんか、よほど面白くなければ真剣に聞かない。自分の頭の中が一番面白いからである。これは、ひとつの持ち味であって、欠点とは言い切れない。また、芸人としては、案外伝統的なタイプとも言える。一方、長渕は、伝統的な男のイメージ、アイデンティティ、それもかなり無頼派というか、任侠の徒の皆さんのような物腰と精神の構えを持っている。少し破滅型も入っている。一言で言って、コワイ。あんまり実生活では、お近づきになりたくないタイプだ。これで音楽的才能がなければ、間違いなくある方面の社会にのみ適応できるようなタイプである。自分や他人の言葉や態度に対する姿勢も厳しい、重い感受性を備えている。思い込んだら命がけという感じである。したがって、怒り出すと怖い。ブチ切れる。何をしでかすか分からない。・・・とはいっても、年を取ってくれば、自然と角が取れて丸くなってくるのが普通だけどね。僕の周囲の友人たちを見ても、若いころは硬派で近寄りがたかった奴もずいぶん丸くなって、今や“宴会部長”になったりしている。そこがアーティストだと、そういう方向の成熟はしづらいのかも知れない。一般社会の常識から言えば、100%長渕の方に非がある。が、芸能界という、実像と虚像の虚実皮膜の上に成り立つ、広い意味のアートの世界では、何とも判定しかねるところである。僕は現在40代終盤だが、僕らの世代や、ちょっとお兄ちゃんのさんまや長渕の世代より上には、確かに昔かたぎの、無口な男が多かったような気がする。僕自身は、しゃべりの才能の差は天と地としても、人間のタイプとしてはさんまに近かった。片田舎の、僕らの世代としては、アルピナ(突然変異)に近い少年だった。だから、今回のさんまと長渕の顛末(てんまつ)のようなことはたびたび経験しており、そうなってしまう阿吽(あうん)の呼吸みたいなものは、痛いほど分かるのだ。口から先に生まれ、けっこう生意気だったので、人によってはけっこうカチンとくるようなことを平気で口にしているのだろう。・・・三つ子の魂百まで。このブログでもけっこうそういうことをやっているらしく、時々感情的な反発を食らっている。最近はかなり嫌気が差してきた。事実今でも、酒など飲んで言いたい放題しゃべっていると、急に相手の顔がこわばるのを感じる時がある。さすがにこの年で手が出るとか喚き出すということはないが・・・。しまった!と思って慌てて話題を変えるのだが、しばらく空気は凍りついたままだ。こういう空気の原状回復がきわめて困難であることは、皆さんも経験があるだろう。その内容についても記憶しており、書けばけっこう面白いと思うのだが、その当人がこのブログをよんでいる可能性が低くなく、詳細は伏せさせていただく。ただ、たしかにギリギリのギャグだった。その友人の初恋の女性に関することだった。テレビのバラエティ番組ではナイスなぎりぎり内角低め一杯のクセ球でも、一般社会では“悠々アウト”の場合も多いから、要注意である。長渕の場合は、テレビであるにもかかわらず、まさにカチンときてブチ切れたのだろう。これに似て、口下手で口より先に手が出る昔の少年たちにぶん殴られて、目の周りに青アザを作ることなどは日常茶飯事だった。高いところから飛び掛かられて、腕を骨折したこともある。しばらくギブスをはめる騒ぎで、けっこう大変だったと思う。今なら「いじめ」ってことで大騒ぎになりそうだが、昔はそんなこと夢にも思わなかった。子供ながらに、子供同士のケンカであって、やられた方がドジなんだと思っていた。周囲も親も、「子供のケンカに大人が口を出すな」という暗黙の不文律というか美学があったせいか、さほど騒ぎ立てることはなかった。・・・まあ、これがいじめだったとしても、現在伝えられるいじめの陰湿な様相と違って、昔はカラっとしてたからね。決着をつけるのは、タイマンの「相撲」だったりして!!・・・田舎だったせいもあるが、のんびり牧歌的な時代だったんだね~。ヒョロっとしていたが、上背はあったから、正々堂々と相撲に持ち込めば、勝機はあった。周りは「やれやれ~!」とはやし立てて大ハシャギ、その時ですら楽しかったな~という記憶がある。もちろん、今思い出すと、さらに楽しい。そうこうしてるうちに、近所の浅野というガキ大将に、最初はジャブ的に軽くいじめられてたのだが、そのうち知的実力を認められてか(?)、そのブレイン兼No.2格に収まり、理科系知識のご進講を毎日やってたように思う。だいたい子供が何人か集まれば、「ひょっこりひょうたん島」の「ハカセ」とか、「サンダーバード」の「ブレインズ」みたいなブレイン格が一人いるのが普通なのかなと思ってたし、そういうキャラクターがカッコイイと思ってたので、事実そういうポジションで僕はご満悦だった。・・・なんだかんだ言って、けっこう世渡りは上手く、如才ない子供だった?しばらく会ってないが、浅野は今どうしてるかな~。市内には住んでるらしいんだが。むしろその、ジーンズの似合う美人の姪っ子さんが近所に住んでて、ボルボのワゴンに大型犬を乗せて颯爽と走っているのをよく見かける。話がそれたというか、そもそもこの文章に筋らしい筋はないというか、まあそんなわけで、昔の少年は単純明快で、口下手で、手が早かった。・・・身の上話をするつもりもなかったのだが、なんか筆が滑ってしまった要するに、そういう昔の男の子のメンタリティがそのまま大人になって、攻撃性というか破壊衝動が、ある時自分自身に向くと、こういう自殺、自刃というような悲惨な結果を引き起こすんだな~、と思った次第である。・・・ってことざんす。
2007.05.30
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クローズアップだと、少しグロテスクかも。近所の菩提寺で、半月ぐらい前に写して忘れてました。
2007.05.30
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くまんパパ 自由律俳句のおけいこ栄養がほとんどない胡瓜きうりを好む蛾を叩き殺して蟻の餌にやる麦秋に大臣が首を括つた睡蓮が妬ましい正午草原の朝ハードボイルドな卵だどうせあと三十年妻と君が好きだねむのきがねむたき芹は直射日光が嫌ひだほそいふともも交流抵抗インピーダンスけつこう合ふおまへたちがいのちだTBSが楽天になる
2007.05.29
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自宅にてけさ写す妻がスーパーかどこかでもらってきた、「デルモンテトマトジュース」(キッコーマン)の販促品のトマトの苗が育って、可愛い花が咲き出しました。ちなみに、うちは3歳の娘たちも含めて、トマトジュース(と野菜ジュース)が大好きで、絶対に切らしたくないんです。ナス科だけにナスの花に似てますが、鮮やかな黄色ですね(ナスは、確か薄紫)。・・・それにしても、12本はもらいすぎだろ~妻は子育てにかかりっきりなので、トマトの世話はもっぱら僕の役割。最近は、けっこういとおしくなってきました。これから実になるのでしょうが、トマトの栽培はなかなか難しいんだそうです。・・・バラ並み?!?なんでも原産地はペルーの高山みたいなところなので、水をやりすぎると根腐れするのでいけないとか、葉っぱに水をかけると葉っぱが傷むから根元にかけるとか、梅雨時はビニールシートで覆うのがいいとか、これから果実が成り出したら支柱が必要で、しかもあんまり強く縛り付けてはいけないとか、実にシチ面倒くさい。病虫害も多いらしいし。まあ、そこそこ気配りはしますが、プランターで密植しすぎだし、肥料もホームセンターで買ってきた「ハイポネックス」をたまにやってるだけですから、あんまり結果に期待はしないでくれと、妻をはじめ各方面に予防線を張っているところです
2007.05.28
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実は今、たまたま知ったある楽天ブログが荒らされつつあるところを、リアルタイムで見ているところである見たところ、ここ数日で、にわかに荒れ始めたようである。「炎上」とまではいかないが、「小炎上」ぐらいにはなりかかっている。「コメントスクラム」とも言うらしい。「スクラム」といっても、荒らす側に“共同意思・謀議”があるわけではなく、あくまで自然発生的なものである。これまでに、有名人のブログが炎上するところはけっこう見てきたが、アマチュアの一般ブログが蟻地獄に入っていくところは、初めて見た。これがもう、“荒れるセオリー”通りの、荒らしとの応酬が続いているわけで、書けば書くほどドツボにハマっていくといった感じである。ブログタイトルなどの“実名報道”や、ましてリンクは、やろうと思えばお安いご用だが、火に油を注ぐ恐れもあるし、やっぱりやめておいた方がいいでしょうね?・・・正直、巻き込まれるのも嫌だしただ、この事実をお伝えするのは、他山の石とする意味でも、無意味ではなかろう。野次馬として、全然面白くないと言えば嘘になるしまあ、「美容、暮らし、栄養・食事、育児、アンチエイジング」などに関する「大辞典」を標榜しているブログサイトで、今日現在58件のエントリーがあるが、毎回かなり長文の記事で、なかなか力が入っている。ブロガー(著者・運営者)は薬剤師らしく、上記のテーマに関してはプロフェッショナルである。きわめて専門的な知識が開陳されており、確かにシロウトの気楽な日記とは違う。僕の地元・宇都宮在住で、インターネット・ブログメディア分野のトップジャーナリスト・増田真樹氏の「超実践!ブログ革命」(角川ONEテーマ21新書)は、非常にリアルで犀利な分析が面白い本だが、その中に、「ブログで起こるトラブル」も書かれており、「文章崩壊・土足コミュニケーション理論」という著者の造語で一節が割かれている。それによると、炎上しやすいブログの条件とは、1)自己主張が強いのに、自己情報開示が不十分で不必要にガードが固い。2)人が読むことを前提に文章が成り立っていない。3)他人の領域・テリトリーに“土足で”踏み込む。などだそうである。ひと言で言うと、自分と他人の間合いというか、距離感を間違っているということのようだ。ざっと眺めたところ、問題のブログは、これら全ての条件を完璧に兼ね備えている。これでは、何かをきっかけにトラブルが起こることは時間の問題だった。1)専門的な知識を、非常に断定的な口調で書いており、筋の通った批判を受けても、絶対に自分の非を認めない。多少腰の低そうなことを言うが、結局は必ず相手に非があるような言い方になる。また、内容的にも、いわゆる「LOHAS」ムーブメントや菜食主義者(ベジタリアン)の、やや狂信的な部分を感じさせる。「ご飯は、必ず五穀入りの玄米」、「赤ちゃんには必ず母乳」、「パンは全粉粒(小麦ふすま入り)以外はダメ」などなど、ふつう実行不可能であると思われることが並べられる。こういうのは、「週刊金曜日」が出してベストセラーになりつつも物議をかもした「買ってはいけない」に近い主張である。あの本の言う通りにしたら、まず現代生活は成り立たず、日本経済は破綻するというシロモノだった。一種のイデオロギー(観念論)である。2)非常に思わせぶりな文体で、あるテーマについて語っているらしいのだが、最後まで論旨がはっきりせず、話がどこかへ飛躍してしまったりする。例えば、「私は我が子に、毎日あることを強要している」という、なかなか衝撃的な書き出しで始まった文章が、最後の最後まで読んでも、その「あること」が書いてなかったりする。・・・どうやら、「青汁を飲ませる」ことを言っているらしい(??)のだが、よく読んでも、そのことはハッキリしない。3)やたらにトラックバックを繰り返し、人の領域に土足で踏み込む。非常に頑迷で、高みから物を言われている感じが消えない。ユーモア感覚、自己客観視、反省などの精神作用は全く感じられない。読んでて苛立つ、というより、ムカつくのは否めない。結局、このブロガーは人の感情を理解する力がいささか欠落していると思わざるを得ない。つまり自己中心的なのであろう。今や、あの天下の二枚目Gacktですら、トークの節目節目には自虐的ユーモアで笑いを取る時代である(大河ドラマでの上杉謙信役の登場が待たれる)。あまりにもカッコつけた堅い姿勢は、反感しか買わないだろう。・・・以上、僕が書いたことは、「いじめは、いじめられる方にも問題がある」という論法に似ていると言われるだろうか?そういうことを言うと、「狭量な正義」をこととする世論から総攻撃を受ける息苦しいご時世であるから、みんな表向きは口をつぐんでいるが、私はこのブログではなるべく本音を書きたい。然(しか)りである。「いじめはいじめられる方にも問題がある場合もある」というのが正確でリアルな認識ではないだろうか?このブロガーも、子供が「五穀入り玄米」のお弁当を学校に持っていったら、からかわれ(いじめられ?)た、というようなことを被害者意識を持って書いているが、ある意味では当然ではないか?日本社会は、異質なものを排除しようとする悪い社会である、とかいう議論に持っていく方が、芸風に無理がある。お互いに、ブログでは気軽に言いたいこと、本音を言いたい。私は、努めて節度は保ちながら、政治的問題も含めて、けっこう書きたいことは書いてきた方だと思う。・・・が、批判に対しては謙虚に聞く耳を持ちたいし、あまりにも自己中心的な振る舞いは、最終的に陰険な攻撃にさらされるよと、自戒をこめて言っておきたい。けっこうマジな結論でした
2007.05.27
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正岡子規百花ももはなの千花ちはなを糸につらぬける藤の花房長く垂れたり広庭の松の木末こずゑにさく藤の花もろ向けて夕風吹くも広前の池の水際にしだれたる藤の末花うらばな鬢びんにさやりぬ公達きんだちがうたげの庭の藤波を折りてかざさば地つちに垂れんかも池の辺のさじきに垂るる藤の花見れば長けく折れば短し註この連作は、亀戸辺りの情景を詠んだものらしいが、詳しくは不明。・・・ま。いいか鬢びんにさやりぬ:頭の側面の髪に触った。
2007.05.26
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種田山頭火(たねだ・さんとうか、明治15年-昭和15年)――自由律(不定形)俳句分け入つても分け入つても青い山笠にとんぼをとまらせてあるくまつすぐな道でさみしいしぐるるや死なないでゐるわかれきてつくつくぼうしどうしようもないわたしが歩いてゐる分け入れば水音酔うてこほろぎと寝てゐたようしろすがたのしぐれてゆくかすッぱだかへとんぼとまらうとするか病めば梅ぼしのあかさあるけばかつこういそげばかつこうなるほど信濃の月が出てゐる山頭火句集
2007.05.26
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富安風生(とみやす・ふうせい、明治18年-昭和54年)淋しさの蚊帳釣草かやつりぐさを割きにけり何もかも知つてをるなり竈猫かまどねこ街の雨鶯餅うぐひすもちがもう出たかまさをなる空よりしだれざくらかな露寒つゆざむや凛々しきことは美しきわが机妻が占めをり土筆つくしむく一片の落花の意をばよみとりぬ山萩のまつすぐに立つ性さがかなし遠花火寂寥せきれう水のごとくなり一生の楽しきころのソーダ水菜の花といふ平凡を愛しけりかげろふと字にかくやうにかげろへるきちきちといはねばとべぬあはれなり奇はつひに凡に及ばず草紅葉
2007.05.26
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純文学作家として円熟期にある、保坂和志氏の「書きあぐねている人のための小説入門」は、大変面白い本である。 私は小説家になる意思も能力も時間もない男であるが、広い意味での文学ファンとして、非常に示唆に富み、ためになった。この本に限らず、“小説入門”、“小説論”のたぐいの本は、表現論とともに、最終的には高度な人生論にならざるを得ず、書いている人ももちろん一流の文学者であるから、非常に面白くてためになるものが多い。中村真一郎氏の「小説入門」(光文社文庫)も、ちょっと古いが、小説の歴史が俯瞰の視点で一望できてすばらしい。折に触れて読んでいる、枕辺(まくらべ)の書である。ついでに言うと、私のもうひとつの枕頭(ちんとう)の本は、小林秀雄の畢生の名著「本居宣長」である。定評ある、史上最高の評論本であると同時に、最高の睡眠薬である。必ず眠くなるさて、小説形式には、すでにそれ自体に小説固有(プロパー)の抒情性というか、一種のバイアス(偏倚)がかかっており、けっこうそれが陥穽(わな)なのだ、というようなことが書いてあった。例えば、彼女は彼に、さよなら、と言った。・・・と書かれていると、これがもう“今生の別れ”というか、ウルウルの“永遠性”みたいなものを帯びてしまうというのだ。実作者ならではの、思わず笑っちゃうぐらい鋭い指摘だと思う。だから、こういう文章の延長線上に成立する「世界の中心で愛を叫ぶ」みたいな小説は、一番安直でお手軽なシロモノであり、私はそんなお涙頂戴の新派劇みたいなのは書けないし、死んでも書かないのだ。・・・とまでは書いてないが、まあそんな風にも取れる趣旨のことが書いてあった。小説形式自体が帯びている、そうした“負の抒情性”を“予感”させる文章さえ書きたくない、というのだ。なるほどと思う。純文学作家として、まことに志が高い発言だと思う。そんなわけで、保坂氏の作品は、玄人筋や見巧者(みこうしゃ)の読者からはきわめて高く評価されている反面、一般の(ウルウルしたい、泣きたい)小説ファンからは、ダラダラしてて即物的で、どこが面白いのかサッパリ分からん、とも酷評されている。・・・その結果、当然金にもならない ・・・が、それでいいのだ、と思う。短歌や俳句なんか、さらに固有の抒情性が強くて、これを利用したり排除したり、つまり、つかず離れず振り子運動したりしながら何とかかんとかやってるわけだ。石川啄木の短歌なんて、もう最初から最後までイジイジウジウジジトジトヂメヂメしていて、「いわゆる短歌的抒情」の塊である。はっきり言って、私は大嫌いである。同様に、「昭和の石川啄木」を自称した寺山修司も大嫌いである。ただ、この二人には熱狂的なファンが付いており、こういうことをあまり書くと、このブログは炎上する恐れもあるので、口を噤(つぐ)むことにする短歌・俳句には、「なんでも鑑定団」バリの、マニアックな面もある。一部の好事家にはたまらない世界だが、ほとんどの人にとっては「ナンノコッチャ?」の世界。俳句ってものの固有の抒情性は、もの凄く、狂おしいまでに研ぎ澄まされた、究極の、極限の叙情性である。僕は短歌もどきは詠むが、自分では逆立ちしても俳句は詠めないと思う。だが、俳人という人々を非常に尊敬しており、世界最高の詩人群だと思っている。なにしろ、五・七・五の、たった17文字(正確には17音節)の枠しかなく、おまけに正統派俳句の場合は必ず季語を入れなくてはならないから、ひたすら言葉を削ぎ落とし、研ぎ澄ますしかないわけだ。それが詩の表現には、かえっていいんだね。「理(理屈)」を入れる余裕はなく、また入れるのは大野暮のコンコンチキだとされるから、そういう方向で修行していると、皆多かれ少なかれ詩人になる。禅や瞑想の、悟りの境地みたいなものに近づく場合も多い。言葉が研ぎ澄まされた果てに、一つの確乎とした宇宙が立ち現れる。大抵の場合、静謐な、寂寞とした、永遠(とこしえ)を身にまとった、スローモーションのワンショットのような抒情である。俳句は、その“教祖”松尾芭蕉が、地元の大名・藤堂家の殿様の近習まで勤めた、れっきとした伊賀の武士であったこともあり(忍者・上忍説も無視できない)、寄らば斬るぞの武士道に近い凄みがある。本気でやるつもりなら、修行も厳しい。侘び、寂び、枯淡、孤独の表現に向いており、これが俳句形式が備えている固有の抒情かも知れない。笑いや理屈を入れたい人には、形式的には酷似している「川柳」という道もあって、そちらに向いている人もいる。短歌の方は、もっとずっと自由だ。いわゆる詩(詩情 poem)はもちろんだが、喜怒哀楽、全てOKだ。だから、東京・下北沢あたりでは、「絶叫歌人」なんてものも出没したりする。何でもあり、と言っていいくらいだ。五・七・五より七・七の14文字が多いだけで、全く質的な違いがある。理屈、論理、あるいは思想も、かなり入れられる。古今和歌集の大歌人・大江千里(おおえのちさと)の歌なんか、よく読むとけっこう理屈っぽいとも言える。また、エロス方面が得意だ。和歌も含めれば、俳句より歴史は遥かに古い(文献で確認できるものだけで、少なくとも1300年前から存在していた!!)が、むしろ「青春」や「恋愛」などとの馴染みがよく、表現としては若々しい。なにしろその歴史的淵源は、アジア少数民族に今なお広く存在する風習「歌垣」(山の中の「合コン」みたいなもの)だとされているのだから、当然かも知れない。「和歌、やまとうた」と呼ばれるようになってからも、「相聞歌(そうもんか、相互に贈答した恋歌)」が最も古い伝統を持つことは明らかだ。だから、万葉集と俵万智の共通点は、“青春の胸キュン”だ。先日も、武田晴信(信玄)が、下手な和歌で由布姫(諏訪御料人)のハートをつかんだばかりだこの場合、純文学小説では排除される“負の抒情性”が、総動員され発揮されたりする。さらにいえば、アニミズム(汎神論)風な原始宗教みたいな「言霊(ことだま)」の共同幻想さえ垣間見せることもある。しかも、和歌・短歌の“総家元”は、言ってみれば日本国天皇である。言い換えれば天皇のご道楽であるから、格調が高いことは言うまでもない。ちなみに、今上陛下の御製は、さすがにおおどかで帝王の御作にふさわしいが、特に皇后陛下の御歌は、お世辞抜きで本当に手練(てだれ)で、大変な名手であらせられる。読むたびに感服している。ご指導は、自ら大歌人である岡野弘彦・國學院大學名誉教授(読売新聞歌壇選者)である。そんなこんなで、和歌・短歌って、何かもうあらゆる意味で至れり尽くせりざんすね。というわけで、一生の趣味にするなら、短歌が一番いいに決まっているのである。・・・なんか我田引水・竜頭蛇尾な文章でした
2007.05.25
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尾崎放哉(おざき・ほうさい、明治18年-大正15年)――自由律(不定形)俳句氷がとける音がして病人と居る仏にひまをもらつて洗濯してゐるこんなよい月を一人で見て寝る底がぬけた柄杓ひしゃくで水を飲まうとしたすばらしい乳房だ蚊が居る爪切つたゆびが十本ある入れものが無い両手で受ける口あけぬ蜆しじみ死んでゐるせきをしてもひとり枯枝ほきほき折るによし肉がやせて来る太い骨である 尾崎放哉句集
2007.05.23
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阿部みどり女(あべ・みどりじょ、明治19年-昭和55年)ざらざらと櫛にありけり花ぼこり春夜しゅんやの子起しておけばいつまでも大樽に糸瓜へちまつけあり水澄める大椎おほしひの中よりいでし梅雨の蝶黄を尽したんぽぽ絮わたとなりにけり物言はぬ独りが易し胡瓜きうりもみ光陰は竹の一節ひとふし蝸牛雑用の中に梅酒を作りけり頬白ほほじろの嘴はしより落ちし蝶の羽リラに鼻つけて踝きびすをかへしけりいのちより俳諧重し蝶を待つ註糸瓜へちまつけあり:ヘチマの果肉を腐らせ、残った繊維質を垢こすりなど(今でいうスポンジ)にした。今でもけっこう使っている人はいそうだ。光陰:時間。いのちより俳諧重し蝶を待つ:俳句としては、理に堕ちた、きわめて野暮な作品と言わざるを得ないが、言葉の力はある。いわば「辞世、遺言」みたいな感じか。詠まずにはいられなかったのだろう。近代女流俳人の草分けであった作者の、思わず居ずまいを正すほどの、厳粛な信念の披瀝。ここでいう「蝶」とは、まさに「詩」とか「霊感」などのことか。古代ギリシャ語の「プシュケー πσυκε psyche(霊魂、蝶。心理学 psychology などの語幹)」を連想させずにはおかない。
2007.05.23
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めでたくご次男を出産されたばかりの、ステキな choco7933さん が、コメントで何気に僕の短歌を絶賛してくれた上に、著作権の心配までしてくれたので、いささか有頂天になりつつ、ちょっと調べてみた。・・・まあ、一般的な意味でもそこそこ興味のある問題だし、ブログでいろいろ引用したりする際にも、気になることもあるよね。ちょっと前までならば、こんなこと一つ調べるにも、最寄の図書館へわざわざ行って半日かかったような気もするが、インターネット、および検索エンジンの進化って本当にありがたいもので、すぐに難なく、簡にして要を得た説明が見つかった。「CLIC・著作権情報センターホームページ」はじめての著作権講座「著作権って何?」によると、「著作権の発生」については以下の通り。「産業財産権(工業所有権)は、登録しなければ権利が発生しません。これに対して著作権は、権利を得るための手続きをなんら必要としません。著作物を創作した時点で自動的に権利が発生(無方式主義)し、以後著作者の死後50年まで保護されるのが原則なのです。著作権に対する理解と保護の度合いは、その国の文化のバロメーターといわれています。それだけに、著作権とは何か、なぜ大切なのかをもっと知ることが必要です。」ということだそうだ。ごもっともである。著作権の保護期間については、「著作権の原則的保護期間は、著作者が著作物を創作した時点から著作者の死後50年までです。」ということで、詳しい一覧表はこちら。だいたい、おぼろげには知っていた通りであった。ただ、「公表してから~」だとばかり思っていたが、「創作した時点から~」というのにはちょっと驚いた。・・・「創作」ってことの重さが再認識されるというか。なお、わが国の「著作者の死後50年間」の原則は、作家、漫画家、その他の芸術家などから、事実上先進国標準の「70年」にせよという意見が高まっているようである。また、映画の著作権はすでに比較的優遇されており、封切り後50年を超えた名作「ローマの休日」(ウィリアム・ワイラー監督、オードリー・ヘプバーン主演)の著作権について、アメリカの著作権法が適用されて今なお有効である(無断ダビング・DVD等の頒布は違法)との判決が、先ごろ話題になったのは記憶に新しい。逆に言うと、夏目漱石や正岡子規がいつ亡くなったのかはウィキペディアなどで調べる必要があるが、たぶん、どれだけ引用しても大丈夫じゃないかな~
2007.05.22
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正岡子規はしきやし少女をとめに似たるくれなゐの牡丹の陰にうつうつ眠る五月八日、福井大火、曙覧あけみ翁遺稿焼失せるよしかぐつちのあらぶる神のあらぶると玉も瓦も共に焼きけり五月十二日、虚子の子来る高浜の浜の真砂の名にしおふみどり子まさ子我になじまず散り落ちし牡丹の花の花びらに君を思ふの歌書き贈る明治33年註曙覧あけみ翁:橘曙覧たちばなのあけみ。幕末、福井の歌人、国学者。子規が再発見し世に送った。近代短歌を準備したものとして高く評価されている。歌風は、平明にしてリアルな万葉調。筆者くまんパパも大好きである。そのうち、秀歌をご紹介したい。虚子:子規の俳句の弟子・高浜虚子。この日、女の赤ちゃんを連れて来たらしい。高浜の姓に因(ちな)んで子沢山を洒落た。
2007.05.22
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一流の男、二流の男酒と子供の菓子を買いに行った、近所のセブンイレブンの本棚で目に付いて、思わず買ってしまった。この著者の書いたものは、すでにけっこう読んでいるし、これから全部読破したいと思っているぐらいだが、これまで損したという感じがした験(ため)しはない。その意味では、絶対に近い信頼がある。この本も、期待に違(たが)わない。非常に面白くて、1時間半ぐらいで一気に読了してしまった。全編これ、胸のすくような、竹を割ったような“辛口暴論”である弱肉強食の格差社会を全肯定、男尊女卑は当然の前提として、男は一人で闘って勝ち抜けということが、著者一流の、研ぎ澄まされた明晰な文体で、熱く語られる。国に頼らず、会社に頼らず、女に頼らず、もちろん親にも友人にも頼らず、ただ一つ己(おのれ)の才能と努力とプロ意識のみを恃(たの)んで、女子供に尊敬される強い男=成功者になれと説く。結果として、それら全ては後からついてくる。著者によれば、女は、闘う男を癒す存在であるべきであり、男と張り合うフェミ女などは、無駄に進化した有害無益な存在であるから、美人であってもゆめゆめ近づいてはならない。この本に限らず、著者の本のほとんどは、このような論旨がかなり思い切った激しい舌鋒で展開されており、現代女性にありがちなタイプの多くが、“撲滅”すべき“主敵”として描かれているから、過激派フェミニズム・ジェンダーフリー陣営などからは、ウェブ上でしばしば脅迫に近いような攻撃を受けているという。・・・お気の毒ではあるが、自業自得の面もあるよね タメ口のフェミ女の攻勢にタジタジの、元気と自信を喪失した近頃の若い男たちには、特にお薦めしたい。読んで直ちに“一流の男”への道を踏み出せるかどうかはともかく、少なくともカラ元気ぐらいは確かに出る。・・・間違いない タイトルはいささか耳障りで刺激的だが、売れなきゃしょうがないから、まあいいいんじゃないすか~。編集者が考えたんだろうが、パンチが効いていて、まあ上手いとも言える。余談だが、「吾輩は猫である」も、漱石の初稿では「猫伝」と、すっきりしていたというか素っ気なかったのを、「ホトトギス」の“編集長”格だった俳人の高浜虚子が「吾輩は猫である」と直した、というか名づけたそうだ。タイトルの歴史的名作と言えるだろう。この著者は、こう見えて非常に遅筆だという。勢いに任せて書き殴っているのではなく、十分に考え抜き計算し尽くして書かれていることがよく分かる洗練された筆致であり、決して野卑な感じはしない。心臓神経症という重い病気に苦しみ、死線を彷徨(さまよ)いながら今日の成功を勝ち取った著者ならではの、凄味の利いたシャープな文章に魅了される。・・・イケてる。(僕くまんパパは、著者の意見に全面的に賛成というわけではないよ。タメ口も、OKで~す。)オフィシャルブログ「里中李生の 辛口じゃないよ」里中李生オフィシャルウェブサイト「赤ちゃんポスト」についての里中氏のご意見は、かなり同感です。
2007.05.21
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夏目漱石 吾輩は猫である 冒頭 吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いてゐた事だけは記憶してゐる。吾輩はここで始めて人間といふものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪だうあくな種族であつたさうだ。この書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。しかしその当時は何といふ考かんがへもなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。ただ彼の掌てのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあつたばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいはゆる人間といふものの見始みはじめであらう。この時妙なものだと思つた感じが今でも残つてゐる。第一毛をもつて装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢つたがこんな片輪には一度も出会でくはした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。さうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽むせぽくて実に弱つた。これが人間の飲む煙草といふものである事はやうやくこの頃知つた。 この書生の掌の裏うちでしばらくはよい心持に坐つてをつたが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思つてゐると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶してゐるがあとは何の事やらいくら考へ出さうとしても分らない。 ふと気が付いて見ると書生はゐない。たくさんをつた兄弟が一疋ぴきも見えぬ。肝心の母親さへ姿を隠してしまつた。その上今までの所とは違つて無暗に明るい。眼を明あいてゐられぬくらゐだ。はてな何でも容子やうすがをかしいと、のそのそ這ひ出して見ると非常に痛い。吾輩は藁わらの上から急に笹原の中へ棄てられたのである。 やうやくの思ひで笹原を這ひ出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐つてどうしたらよからうと考へて見た。別にこれといふ分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考へついた。ニャー、ニャーと試みにやつて見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡つて日が暮れかかる。腹が非常に減つて来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物くひもののある所まであるかうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這つて行くとやうやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ這入はいつたら、どうにかなると思つて竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れてゐなかつたなら、吾輩はつひに路傍ろぼうに餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云つたものだ。この垣根の穴は今日こんにちに至るまで吾輩が隣家となりの三毛を訪問する時の通路になつてゐる。さて邸やしきへは忍び込んだもののこれから先どうして善いいか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降つて来るといふ始末でもう一刻の猶予が出来なくなつた。仕方がないからとにかく明るくて暖かさうな方へ方へとあるいて行く。今から考へるとその時はすでに家の内に這入つてをつたのだ。ここで吾輩は彼かの書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢つたのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋くびすぢをつかんで表へ抛はうり出した。いやこれは駄目だと思つたから眼をねぶつて運を天に任せてゐた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這ひ上つた。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶してゐる。その時におさんと云ふ者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬さんまを偸ぬすんでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞つかへが下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家うちの主人が騒々しい何だといひながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所おだいどころへ上つて来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚ひねりながら吾輩の顔をしばらく眺めてをつたが、やがてそんなら内へ置いてやれといつたまま奥へ這入つてしまつた。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜くやしさうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はつひにこの家うちを自分の住家すみかと極きめる事にしたのである。(旧かなづかひ原文)註なんか、突然読みたくなった。岩波文庫本を開いてみると、これがまた矢張りと言うべき名文で、ぐいぐい引き込まれる。明治の日本を代表する知性であると同時に、江戸っ子で落語をこよなく愛した庶民性と、成熟した諧謔(ユーモア)を交えた話法が綯い交ぜになっている。一度開いたら、巻を擱くあたわずである。近代日本文学に大道を拓いた夏目漱石の処女作である。親友であった俳人・歌人の正岡子規が創刊した俳句雑誌『ホトトギス』に、明治38年(1905)から翌年にかけて連載され絶賛を博し、英文学者であった漱石は作家への道を踏み出した。処女作には、その作家の全てがあるといわれる。この有名な書き出しの件(くだり)は、漱石の生い立ちや青春時代にまつわる孤独感が、見事に表象されていると云われる。 岩波文庫版(現在は新仮名遣いになっているかも知れません)
2007.05.21
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佐藤雅彦ポリンキーの秘密ポリンキー ポリンキー三角形の秘密はねポリンキー ポリンキーおいしさの秘密はねおしえてあげないよ。註「ポリンキーの秘密」はどうでもいいから、あんたの才能の秘密が知りたいよ 「クリック」
2007.05.21
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佐藤雅彦切手ハガキを貼ってお使いください。「クリック」
2007.05.20
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佐藤雅彦(1954-)しゃかいも ↓ざづまいも濁点の貸し借りを禁止します。「クリック」
2007.05.20
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よみ人知らずわがやどの池の藤なみ咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴きぬ古今和歌集 135わが家の池のほとりの藤の花房が咲いたなあ。山のホトトギスは、いつ来て鳴くかなあ。註藤波:藤の花房が揺れるさまを、波に見立てた語であるという。「池」に掛けてある。ニャンとも優雅というかのん気というか、おっとりのんびりした、マラソンの土佐礼子選手みたいな歌である(?)
2007.05.19
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寂蓮(じゃくれん)暮れてゆく春のみなとは知らねども霞におつる宇治の柴舟新古今和歌集 169過ぎ去りつつある春の行く先の寄港地はどこなのか知らないが、霞の中に流れ去ってゆく、宇治の柴を運ぶ舟(の行き先と同じでもあろうか)。註宇治:現・京都市宇治。新古今和歌集を代表する、うっとりと陶酔を覚えるほどの名歌。紀貫之「年ごとにもみぢ葉流す立田川みなとや秋の泊りなるらむ」(古今和歌集311)の本歌取り。
2007.05.19
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藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい、としなり)駒とめてなほ水飼はむ山吹の花の露添ふ井出の玉川新古今和歌集 159乗って来た馬を止めて、もっと水を飲ませてやろう。山吹の花の露がこぼれ加わる井出の玉川。註飼ふ:禽獣に飲食させる。現在でも、この意味で使うこともある。露添ふ:露が滴って、流れに加わる。「露」は、「玉」の掛詞(かけことば)でもある。井出の玉川:現・京都府綴喜(つづき)郡。
2007.05.19
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結社「短歌人」入会にともない、これまでの全作品をブログから削除しました。ご了承ください。
2007.05.18
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正岡子規かな網の鳥籠広みうれしげに飛ぶ鳥見れば我もたぬしむ鳥籠のかたへに置ける鉢に咲く薄紫のをだまきの花草つつみ病みふせるわが枕辺に牡丹の花のい照りかがやく病みふせるわが枕辺に運びくる鉢の牡丹の花ゆれやまずくれなゐの光をはなつ唐草の牡丹の花は花の王おほきみ古鉢に植ゑし牡丹の枝長くよろよろとして一輪開く明治33年註一読して、上手いな~と思う。病の床に臥せった晩年(といっても、まだ33歳!だが・・・)の春の身辺雑記みたいな歌が並んでいるが、話法・語法の巧みさで魅了される。「い照りかがやく」なんてのは、万葉集というよりも、もっと前の「古事記」から引っ張り出してきたような上古語で、大輪の牡丹の花の輝くばかりの美しさが、一語で示される。「花ゆれやまず」なんてのも、なんてことないが、なんとも言えず上手い。「唐草の」(中国産の、外来種の、舶来の草)なんて言い回しも、言われてみれば意味は分かるが、言われないと気がつかない。「花の王おほきみ」:やられたよ! 僕はこないだ、拙作歌集「カリフラワー・レッスン」で、カリフラワーを「野菜の王おほきみ」と詠んだばかりだ。・・・これは決してパクリではなく、独自に見つけた表現のつもりだったが、あるいは以前にこの歌を読んでいて、記憶の底の方に残っていたかも知れない。100年以上も前に詠まれていたとは!!!全体的に、淡々と、平明に平明に(言うなれば「平静に、つまらなそうに」)詠もうとしている感じがうかがわれ、一種の格調につながっている。
2007.05.18
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熊本市の慈恵病院(蓮田晶一院長)に新設された、いわゆる「赤ちゃんポスト」に10日、3歳の男児が遺棄された事件は、各方面に波紋を広げている。私も、同じ3歳の3人の娘を持つ父親として、まことに痛ましく衝撃を受けた。熊本県警は、保護責任者遺棄罪の適用は見送ったが、引き続き父親の行方を追っている。おそらくこの父親は、同ポストの運用が始まるのを報道などで知った上で待ち構えており、運用開始からわずか2~3時間後に、きわめて計画的に実行に移したと見て間違いないだろう。この男の子は、自分の名前や年齢を答えることが出来、「福岡から新幹線で父親に連れられて来た」、「父親から『かくれんぼをしよう』と言われ、入れられた」という趣旨のことを話しているという。この子が無事手厚く保護されたことは、何にも増してとりあえず良かったとは思うが、この親の行為は鬼畜の所業と言わざるを得ない。生後1ヶ月ぐらいまでの新生児・乳児を対象に想定している「赤ちゃんポスト」に、すでに物心がついた幼児が遺棄されたことについて、「人里離れたところに置き去りにしたわけではないのだから、これを『捨て子』ととらえるべきでない」とする「赤ちゃんポスト」推進派の識者の意見は、奇矯な詭弁であり、到底肯(うべな)えるものではない。こういうのを曲学阿世(学者が、学を曲げて世におもねること)という。そこまでこの親を庇って、どうするつもりなのだろう??これは、まさに「捨て子」そのものと言うべきだろう。「赤ちゃんポスト」設置反対・批判・慎重派からは、「それ見たことか、こういう捨て子・育児放棄(ネグレクト)を助長するおそれが現実になった最悪のケースだ。今からでも遅くないから、廃止すべきだ」とする疑問の声が高まりを見せている。その一方、推進派などからは「いやいや、むしろ虐待やネグレクトから子供を守ったと見るべきだ。こういう親がいるという現実がある以上、必要性はある」という反論がされている。私は、感情的に言えば前者の意見に与(くみ)するが、後者の意見にも傾聴すべき重大な一理はあると思われ、その当否はにわかに判断しがたい。・・・私は興奮すると、文章が堅くなる。これは、政府・厚生労働省、すなわち安倍首相、柳沢厚生労働大臣らの見解と、結果的に同じスタンスともいえる。後者の論理を重く見て、しぶしぶ許認可したのが政府の立場だが、今後もこういうことが続発するようでは、見直しもありうるだろう。連れてきたのが、父親である点も気になる。母親はどうしたのか?失踪でもしたのか?よほど追い詰められたのか、正気を失っているのか、あれこれ憶測しても仕方がないが、ともあれ、後味のいや~な事件であったことは確かだよねえ。捨てられし三歳児あり愛さるる三歳児ありかなしきろかも遺棄ポスト捨て子ポストと見つけたり泣きつ嘆きつ拾ふ神ありchoco7933さんのコメントへの返信の形で書いたものを収録します。chocoさん、ありがと~。3歳といえば、うちの子を見ても、物心付きかけてますし、第一次反抗期というらしいですが、たわいもない「反抗」で、可愛いヘラズ口を叩くぐらいになりましたので、記憶は残るだろうな~と思いますね。僕自身の記憶を辿っても、菩提寺でもあるお寺の幼稚園に入園した前後から、かなりはっきりした記憶が残っています(余談ですが、祖母と園長先生は短歌仲間の親友でした)ので、心の傷という面では、気の毒ではありますが、残らないというほうが無理でしょうね。・・・ですが、実は私、仕事柄、地元の児童養護施設「S園」の子供たちや先生たちと、身近に接する機会がかなりあります。虐待や育児放棄などで心の傷を(場合によっては身体の傷も)負った、小説「永遠の仔」の主人公のような少年少女たちを、けっこう日常的に見ていますが、多少翳を感じさせる子もいますが、みんな普通に明るくて元気ですよ。本当に健康な、普通の子そのものです。高校まで全寮制で、元気で社会人に巣立って行きます。もちろん、そうなるまでには、さまざまな「修羅場」もけっこうあると聞きます。やはり、子供たちは手ひどい心の傷(トラウマ)を負っていますからね。先生方も、本当に心やさしく、粘り強く、かといって真面目なだけでもなく適度にユーモアもある立派な人たちばかりで、黙々と彼らを包み込み、親代わりを務めておられます。本当に頭が下がります。ただ、こういう施設は、ものの15年ぐらい前までは、傍目にも一種の昔の軍隊組織みたいな、命令調の堅く重苦しい雰囲気がいくらかあったのは正直否定できませんが、現在ではすっかり改善されて、フランクで明るい雰囲気になっています。・・・ですから、内面の深いところまでは分かりませんが、けっこう人間って大丈夫だと思います。
2007.05.17
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正岡子規大川の川の堤つつみに咲く花の薄花雲はたなびきにけり桜さく隅田の堤人をしげみ白鬚しらひげまでは行かで帰りぬ雨そそぐ桜の陰のにはたづみよどむ花あり流るる花あり我が宿の山吹咲きて向むかつ家やの一重桜は葉となりにけり年長く病みしわたれば花をこひ上野に行けば花なかりけり花散りて葉いまだ萌えぬ小桜の赤きうてなにふる雨やまず病む我を写す写真に床のへの瓶にさしたる桜写りぬ明治33年註大川:隅田川の異名。というか、むしろ地元では大川と呼ぶ方が普通だった?人をしげみ:人が多いので。混雑しているので。行かで:行かずに。「で」は打ち消しの助動詞。宿:万葉集などの古語的意味では、家の意味。語源は「宿る」と同根であろう。向むかつ家や:「向かいの家」の上古語(古事記時代)的表現。あるいは子規のシャレのめしたナンセンスな擬古的造語か。うてな:台。花の場合、ガクのこと。写真に・・・写り:明治33年(1900)に、既にこの表現があったという、国語学的興味もそそる一首。「写生」は子規が作った言葉であるが、「写真(フォトグラフ)」との関係も興味深い。
2007.05.15
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正岡子規桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂れたり雨にして上野の山をわが越せば幌ほろのすき間よ花の散る見ゆ岡の上に天凌あめしのぎ立つ御仏みほとけの御肩にかかる花の白雲人群るる花の林を行き過ぎて杉の木の間に鳴く鳥聞きこゆ明治33年註上野の岡:忍が岡。現・東京都台東区上野公園。ゆ、よ:「・・・より、から」を示す古語。幌ほろ:人力車のカバーか。
2007.05.15
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正岡子規桜咲く御国みくにしらすと百敷ももしきの千代田の宮に神ながらいます桜さく浜びの宮に外国とつくにの使等つかひら召して大御言おほみことたまふ高砂の新高山にさく花はやまとの花に似て似ざりちふ黄金こがね塗り丹ぬり青ぬる御魂屋みたまやの鳥居うづめて花さきにけり御魂屋の杉の林の影にさく老い朽ち桜花の乏しき明治33年註千代田の宮:皇居。浜びの宮:浜離宮の古語的表現。高砂の新高山:現・台湾の玉山(ぎょくさん)。似ざりちふ:似ていないという。御魂屋みたまや:明治天皇までの歴代天皇陵は京都などにあるので、ここでは何を指して言っているのか、恥ずかしながら不明。・・・東京招魂社(現・靖国神社)の事?
2007.05.15
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うちの周辺に棲みついているキジバトは、いつもは絶えずポッポーポッポポーと鳴いているのですが、けさは珍しくその声が聞こえない。不思議に思って周囲を見渡すと、電線の上でデートの真っ最中でした。メスと一緒だと鳴かないらしい。つまり、あの鳴き声はメスへのアピールの求愛行動なんだね。小倉山の秋の鹿みたいなものだ。鳥類の雌雄の仲がいいことはよく知られています。「鴛鴦(えんおう、オシドリ)の契り」という言葉もあるし、フラミンゴもそうらしい。ちなみに、多くの鳥でオスの方が派手なのは、天敵(ワシタカ類など)に襲われた場合など、オスがオトリになって陽動作戦を展開し、メスとヒナを無事逃がすためであると言われている。鳥も人も、男はつらいよ 人の(?)恋路の邪魔をするほど野暮ではありませんので早々に引っ込みましたが、ちょっと写真を2~3枚フライデーさせてもらいました。すばしっこくて写真には撮れませんでしたが、雀のオスもメスを追いかけてジャレ合ってました。今忙しくて行けないのですが、ちょっと郊外に足を伸ばせば、揚げ雲雀(ひばりのオスの求愛行動)が天空高く、ピーチクパーチク囀っていることでしょう。見ていると“痛い”ほど必死で、天の中の点になって見えなくなるほど高く青空に吸い込まれて行きます。地面では、草の茂みの中から、しっかりとメスがオスを見ています。生物学的に言えば、体力と「遺伝子」の優秀性をメスに証明しているのでしょうが、なんともウララカで、すばらしい自然のスペクタクルです。青春という字は青い春と書く通り、春たけなわですね~。
2007.05.13
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全くの私事(わたくしごと)だが、昨夜、車のタイヤをパンクさせられた。けさ、車に乗ってみて、異常な振動と異音で初めて気がついた。慌てて点検すると、左後輪タイヤのどてっ腹に、明らかに人為的な穴が開けられていた。普通こんなところに単独の傷はつかないし、こすったりぶつけたりした覚えもないので、悪質ないたずらと見て間違いないと思う。まだ真新しい車である。実損としては大したことはないが、今、僕が非常に不愉快な気分であるのは言うまでもない!!もうかなり(20年ぐらい)前のことだが、やはり車のボンネットに硬貨で傷を付けられたこともあった。この犯人は後に見つかって逮捕され、栃木県警から連絡があったが、類似事件累犯・常習犯のタチの悪いホームレスであった。損害賠償能力もなく、板金塗装代は結局うやむやになってしまい、泣き寝入りであったと記憶している。数年前には、近所のレンタカー会社に駐車してあった社長さんのベンツ数台に放火されるという凶悪事件も起きている。こういうのに思いを至せば、まだパンクぐらいでよかったと言えるかも知れない。私の自宅は、繁華街からちょっと入った住宅地にあり、深夜までけっこう人通りが多い道沿いである。“花金”の夜である昨夜などは、ずいぶん遅くまで男女の酔っ払いが闊歩していた。まあ、こんなことをする奴は、たぶん“明るい酔っ払い”ではなく、もっと陰にこもったオタクなタイプだろうな、・・・分からんけどね。妻の車と父の車は、自宅ガレージの堅固なシャッターの奥に置いているが、僕の車は出し入れが面倒くさいということもあって、シャッター前の露天のスペース(つまり道沿い)に置いてあり、いたずらしようと思えば誰でも手が出せる場所にある。・・・といっても特に無用心というわけではなく、ご近所の皆さんもだいたい大同小異である。今後は毎朝毎晩、出し入れが面倒でも、シャッターの奥に“格納”しなくてはならないかも知れない。車ではないが、少し離れた住宅地では、女性への引ったくり事件も何件か起きている。小なりといえども、この世には“悪意”が存在することが、身を以って再確認できた。我々健全な市民は、ますますセキュリティを重視して、ハリネズミのようにヨロイをまとって、自分と家族の安全・財産を守ることに汲々としなければならない時代がやって来ている、と言うべきか。それは哀しいことではあるが、自由狼藉と犯罪者の人権ばかりが重視されるこのご時世では致し方ないんだろうか。教育基本法は改正された。その内容は、歴史や伝統文化とともに、社会秩序維持をより重視する方向を含んでいる。このことを大多数の国民は熱烈歓迎であり、評価し支持している。安倍首相の「美しい国」も、当然このコンテクスト(文脈)に位置付けられる。小人閑居して不善を為す(孔子「論語」)の類いの不逞(ふてい)の輩(やから)は、日本国から撲滅、一掃、デリート(削除)すべきである。男=生物としてのオスが持つ破壊衝動・本能は、光を背にして、闇に向けて、正義の名において防衛的に発動されるのでなければならない。その際、多少の過剰防衛、過剰制裁は容認される、というのが、僕固有の“暴力の発動論”である。・・・ヒジョ~に頭に来たので、最後はなんかワケの分からない、ラジカルな文章になってしまった!!! ゴメンチャイ
2007.05.12
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何だかんだと勝手なことをホザきつつ、累計40,000アクセスを超えました。日ごろのご愛顧に深く感謝申し上げます。なお、映えある(!?)40,000アクセス目は、常連読者でリンクもしている sh3042 さんでした~sh3042さんは、楽天ブログ あの三島由紀夫を知る文学ツーリング で健筆を揮っておられます。sh3042さん、いつもご訪問ありがとうございます。僕も20代から30代半ばぐらいまでは、オートバイを乗り回して日本各地を漂泊(さすら)っていましたので、ツーリングと日本の伝統文化を訪ねる旅への志向には、とっても共感しています。今後ともヨロピコ。400052007-05-11 08:36:07URUMSさん 400042007-05-11 08:03:25宮 寿陵さん 400032007-05-11 07:53:20124.37.*.* 400022007-05-11 07:38:04***.live.com 400012007-05-11 06:36:34220.194.*.* 400002007-05-11 06:29:05sh3042さん 399992007-05-11 06:18:17EZweb 399982007-05-11 06:17:30EZweb 399972007-05-11 06:15:04EZweb 399962007-05-11 05:56:03*.ocn.ne.jp
2007.05.11
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またまたニュースネタで恐縮だが、大物音楽プロデューサー、作詞作曲家の小林武史(47)と、妻で「マイ・リトル・ラバー」のボーカル、akko(34)が離婚に向けた話し合いを始めたことは、各方面および大ファンである僕くまんパパに衝撃を以って受け止められている。彼の紡ぎ出す音楽は、現代日本に降臨した天上のメロディである。個人的には、最高度に評価している。小林夫妻は既に別居しており、小林は人気歌手の一青窈(ひととよう、30)と不倫交際中。妻のakkoも公私ともに独り立ちする意思を固めている。離婚成立後、小林は一青と再婚するとみられる、ということである。僕は、この三角関係トライアングルの三者とも好きであり、小林ほどではないが、一青もakkoもアーティストとしてかなり好きである。特に、小林と一青が作詞作曲のタッグを組んでSalyuに提供している近作群は、J-POPの最高水準を示す出来映えになっているといっていいだろう。折に触れて、このブログサイトでもご紹介してきた通りだ。結局小林は、家庭人(2女の父)であることよりも、アーティストであることとエゴイストであることを選択したわけだ。これは小林の自由であり、とやかく言うほうがおかしい、・・・とまで強弁する度胸は僕にはないが 。“公序良俗”には反するし、世の奥様方を敵に回すことになろうが、もともと小林には僕を含め男のファンが多く、セールス面の影響はないどころか、ここまで自分勝手を貫く、また貫き得る男への羨望から、プラスに働く可能性すらある(?)まあ、マイ・リトル・ラバーの代表作の一つで名曲の「Hello Again ~昔からある場所」(小林武史作詞作曲編曲)の歌詞を見ても、この「君」は、あきらかにakkoのことじゃないもんね。表現者が、女房をヒロインないしプロタゴニスト(主人公)として描くことは、ほとんどありえないとは、短歌など詠む表現者のはしくれのはしくれの僕も思う。妻とは、新婚の蜜月期間を除くほとんどの場合、夢のない、口うるさい、時にヒステリックな、コミカルな、夫を縛りつける存在である。それは妻にとっての夫もそうであろうから、おあいこだ。これは世界の分厚い文学史を紐解けば一目瞭然のことだ。あらゆる文学作品に、そう書いてある。哀しいっちゃ哀しいことだが、笑えるっちゃ笑える、人類普遍の法則である。なお、言っては悪いが、小林抜きのakkoは考えられず、彼女の実力から推すと、今後の歌手、ソングライターとしての大きな活躍はまずありえないだろう。ハッキリ言って、捨てられたということだ。慰謝料をタンマリふんだくって、泣き寝入りするしか道はないだろう。まあ、傍目で見る限り、スレンダーな美人ではあるが、正直勝気で理屈っぽくて口うるさそうなカミさんだな、とはテレビ画面やFMラジオのトークからも、十分に察せられていた。無口な小林が嫌気が差したというのも無理からぬ気もしないでもないが、夫婦のことを他人が言うのは野暮天にして具の骨頂であるから、当面ここらで口を噤(つぐ)むことにする とりあえず、ご一報まで。
2007.05.10
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本日の各局ワイドショーを賑わせている“コピペな”話題で恐縮だが、“第2の迷惑おばさん”が、8日逮捕された。全く栃木の恥さらしな事件である。ワイドショーの伝えるところでは、今回逮捕された直接の容疑のほかにも、多数の被害の申し出があり、何の理由もなく「殺人罪」で告訴された近所の主婦もいるという。またその主婦の10代の長男は度重なる常軌を逸した嫌がらせでノイローゼ状態に陥り、リストカット(自殺未遂)に及んだという。まさに傷害罪に相当する。精神医学的に言って、彼女が被害妄想を伴う典型的なパラノイア(偏執性気質)であることは、しろうと目にも明らかだ。自分がストーカー行為をしていながら、されていると主張する(信じ込んでいる)のは、心理学的「投影」が昂じたものであり、もはや健常者と見なすことはできまい。「人権、人権」と、犯罪者の人権ばかりを尊重する日本弁護士連合会(日弁連)の強大な圧力が、こういうアブナイ人が大手を振ってまかり通る、病んだ社会を“実現”させた。精神鑑定が行われるのは必至と見られているが、こういう人が直ちに検束され、完全に治癒しない限り、もう二度と社会に出てこられない社会が実現されることを望む。また、この女が住んでいたのは公営住宅だという。またしても行政は何もしなかった。具体的な被害が出ているのに、なぜ叩き出せないのか。壬生(みぶ)町の不作為の怠慢である。このオバさん、私は実際に目撃している。宇都宮市内の目抜き通りで、引用記事通りの「サンドイッチマン」スタイルの異様な風体で歩いたり、自転車で徘徊しているのを2~3度見たことがある。鈴や空き缶もカランカランぶら下げていた。「殺人者」呼ばわりされた「某化粧品会社」の実名も確かに見た。気が変な人だとも思ったが、あるいは政治的主張を持つ左翼過激派の残党オバさんかな?とも思った。健全な企業にとっても、こういった人たちを含むクレーマー対策には、頭が痛いところである。私も、仕事の上でクレーマーに近い人に接したことは複数回あるが、本当にヘトヘトにさせられ、胃が痛くなる。大きく言えば、気の毒な人であるという寛容な見方も出来るのであろうが、当事者にとっては迷惑と怨嗟の対象以外のなにものでもない。この世から静かに消えていただきたい。私はこう見えて、かなり短気な方である。ネチネチ系のからみには相当イライラする。特に、和やかたるべき酒の席でネチョネチョ絡んでくる奴は、たいてい僕の鉄拳制裁の一撃のもとに沈むことになる。決して自慢しているわけではないが、若気の至りの武勇伝は数知れない。今のところ、逆襲されたことはない。むしろ、そういう奴が僕に会うとオドオドしてるのが、正直言って面白い。ある時、虫の居所が悪かったこともあり、クレーマーにブチきれて怒鳴りつけてやったことがある。それ以来そいつが来ることはなくなったし、胸の痞(つか)えも下りたが、省みれば、一歩間違えれば何をされるか分からなかったとも言える。こういう方法(?)は必ずしも皆様にはお奨めできない。・・・いかん、書いてるうちに詳細を思い出して本当に腹が立ってきてしまった。血圧が上がっちゃうので、締めにかかることにする。壬生町の「おもちゃのまち」駅から宇都宮市中心部までは、東武宇都宮線で直通、すぐそこであると言ってもいい。もしかすると、伝えられる格好のままで東武線の電車に乗ってきたのだろうか?報道を総合すると、どうもそのようである。それほど、人格が荒廃してしまっている。それにしても、誰も通報しなかったんだろうか?・・・まあ、変だとは思っても、何もしてない段階で通報はしないかな。関わり合いにならなくて本当に良かったと思う。・・・なるわきゃないか 栃木にもいた!誹謗中傷大暴れ!張り紙オバさん (スポーツ報知) 「引っ越~し♪ 引っ越~し♪ しばくぞっ!」のフレーズで知られる奈良県の“騒音おばさん”に続く迷惑おばさんが栃木にも登場した。栃木署は8日、同県壬生町の無職・今林セツ子容疑者(67)を名誉棄損で逮捕。同容疑者は同じアパートの男性(65)に対し「逮捕歴がある」「危険人物」などと事実に反した内容の張り紙をアパートに張りつけ、嫌がらせした疑い。同容疑者は25年以上前から、某化粧品メーカーを中傷するなど奇行が日常化。近所ではかなり有名な存在だったという。 鎖と数個の南京錠でガードされた今林容疑者の自宅アパート玄関。付近には「うるさくしつこく今林セツ子につきまとうことをやめなさい」という張り紙が。さらに通路には、付近住民に対する罵詈雑言(ばりぞうごん)がさまざまな張り紙にあふれていた。 「危険人物」「変態性欲者」「強制わいせつで逮捕歴」…。近所の無職男性の実名を挙げ誹謗(ひぼう)中傷を書きなぐっていた。さらに「人権を侵害された」として男性宅に「告訴状」とする文書も送付。男性によると嫌がらせは15年前から始まったという。 奈良の「騒音おばさん」ばりに早朝から音楽を大音量で流したり、他人のベランダに水をまいたり、ツバを吐くなどやりたい放題だったという今林容疑者。耐えかねた男性は4月に同容疑者を名誉棄損で告訴し、これまでも散々注意してきた栃木署も、ついに逮捕に踏み切った。調べに対し容疑を認めているものの、「相手の方が悪い」と開き直っているという。 東武線「おもちゃのまち」駅からほど近い今林容疑者のアパート。付近住民によれば「地元では誰でも知っている」存在だったようだ。 同容疑者は約25年前に某化粧品会社の製品を使い「顔がかぶれた」として、バッシングを開始。当時、同容疑者には自衛隊員の夫と娘がいたらしいが、離婚を前後に様子が一変したという。化粧品会社を「人殺しだ」などと中傷する文句を書いた2枚の看板をひもでつなぎ、腹と背中にぶらさげ「サンドイッチマンみたいな格好」(住民)で地元を徘徊(はいかい)。駅前や夕方のスーパー、祭りなど人が集まる場所のほか、時にはその“サンドイッチマンスタイル”で電車に乗り込み、遠征することもあったという。 路上であたり構わずどなる時もあったという同容疑者。警察では犯行の動機を調べている。[ スポーツ報知 2007年5月10日8時00分 ]
2007.05.10
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どうも~、ちょっとご無沙汰でした~。個別のコメントには書いたんですが、現在私は結社「短歌人」に入会して初の投稿となる、同人誌7月号の歌稿(詠草)に釈迦力になっておりまして、ちょっとした5・7・5ノイローゼになっております(笑)。12日必着なので、いよいよ明日ぐらいにはひとまず決着しないと。しかしこれがまた、ハマると楽しくて甘美なノイローゼでありまして、一種自虐的な快感すらある。・・・だから私はやめられない。同人誌に載る短歌というのは、プロの歌人、アマチュアを問わず、みんな全身全霊、全人格、全教養を傾注して詠んできますから、さすがにレベルが高くて、下手な歌を出したんでは、フフンと鼻で笑われそうです。そうなったら正直、滅入るかも知んないね~。けっこう難しい漢字にもルビ(振り仮名)も振ってなかったりして、読めないほうが悪い、と言わんばかりのや~な感じ。・・・こりゃマジだぜ~。同人誌をあんまり読むと顔面蒼白になるので、なるべく読まないことにしています(笑)・・・そんなわけで、ブログの方はこのところ放擲しております。それどころじゃないよ、って感じざんす。お許し下され~。まあ、道楽も多少は緊張感がないと面白くないし、続けるにはある程度発奮材料も必要ですよね。・・・とか何とかかんとか言いながら、まあ乏しい才能なりに相応の短歌が10数首ぐらいは揃ってきたので、ま、こんなもんでいいかな~と、幾分ホッとしているところです。載るのかどうかもよく分かりませんが、まんまと7月号に掲載されたら、これ見よがしにここで発表しますので、お楽しみにね~
2007.05.07
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正岡子規自作土像 秀真ほつまへ我が顔を鏡に写し其の顔を土にかたどり土の坊主成る我が顔を鏡に写しかたどりし竹の里人さとびと手づくねの像我が顔を見てかたどりし土がたは我が顔に似ずあらね顔に似る渾沌が二つに分かれ天あめとなり土となるその土がた我は土がたに自らつくる我が顔のすこしゆがみて猶なほおもしろし人がたを入れたる缶を携たづさへて秀真がり行く途中気をつけよ明治33年註秀真:香取秀真。金属工芸(金工)作家。歌人。竹の里人:子規の和風の雅号。秀真がり行く:秀真のところへ(使いが)行く。この連作は、自分のささやかな一連の行為について、あれこれ言葉の写生・デッサンをしているような趣きとユーモアがあって、しみじみ面白い。・・・今でいうブログ日記みたいなものですね。
2007.05.04
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正岡子規飼鳥の小鳥の餌ゑにと植ゑおきし庭の小松菜花咲きにけりガラス戸の外面とのもさびしくふる雨に隣の桜ぬれはえて見ゆ左千夫来り夜一時頃去る歌がたり夜はふけにけり立川の君が庵いほりに牛の乳取る頃鼠骨の出獄を祝すくろがねの人屋をいでし君のために筍鮨たけのこずしをつけてうたげす明治33年註左千夫:伊藤左千夫。歌人、作家、牛乳製造販売業。鼠骨:寒川鼠骨。俳人、新聞記者。言論弾圧で収監されていた。一首目、何気なくさらりと詠み下したようでありながら、滋味溢れるなかなかの名歌と思う。子規の俳句の方の傑作「鶏頭の十四五本もありぬべし」を想起させる。僕はこの歌をパクって、次の歌を詠んだことがある。結婚の記念に植ゑし沈丁花ぢんちゃうげ構ひもせぬに今年も咲けり元歌(本歌)がいいので、拙作にしてはけっこう上出来の方かと思う。筍鮨たけのこずしというのは、食べたことはないと思うが、テレビで見たことはあるような気がする、どんなんだろう。質素だが、案外おいしいかも知れない。
2007.05.03
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正岡子規うららかにガラスを照す春の日ににはかに曇り雹ひょう降り来きたるともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん歌をよみにつどひし人の帰る夜半よはを花を催す雨滝の如し詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ明治33年
2007.05.03
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短歌結社に入会したのはいいのですが、同人誌「短歌人」の7月号の締め切り(5月12日必着)が迫っているのに、ロクなのが詠めず焦りまくっております、ざんす。締め切りに追われるなんて、ちょっとした流行作家の気分だね~ まあ、投稿しなければ掲載されないだけの話で、なんら世の中の大勢に影響はないのですが、そこはそれ、できれば一発決めてみたいと思うのが人情である。・・・そういう変な欲がいかんのだ、たぶん スランプなどという言葉は、それぞれの分野でそれなりの実績を持つ者に使う言葉であって、しろうとが言うのは十年早いのは重々承知しておりますが、それでもやっぱし、スランプだ~とつぶやきながら苦吟しております今日このごろざんす。
2007.05.01
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