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藤原忠良夕づく日さすや庵いほりの柴の戸にさびしくもあるか蜩ひぐらしのこゑ夕べに向かう日の射している、鎖(とざ)そうとする柴の戸に、なんとも寂しいなあ、ひぐらしの声(が降り注ぐ)。新古今和歌集 269註さすや:「日が射す」と「戸を鎖す」の掛けことばになっている。「や」は、軽い詠嘆。ひぐらし:カナカナゼミ。さびしくもあるか:「・・・も・・・か」は、詠嘆の定型表現。「何とも寂しいことだなあ」。夏の夕べの情景に、「もののあはれ」を漂わせている。デブがニヒリズムを漂わせるぐらいの力技ではないだろうか。・・・確かに、ヒグラシの声には一抹の情趣はあると思うが、このクソ暑さでは、どうもこの境地には至れそうもない。
2007年07月29日
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近所の菩提寺にて、けさ写す。この写真、色彩はいじってません。すごい鮮やかな“紅(くれない)の蓮”。関東地方は、このところけっこう日は射してるのですが、まだ梅雨明けしていません。たしかに雲を見ても、もくもくと元気な夏の積乱雲ではなく、何となくどんよりとした雲が漂ってるようです。
2007年07月27日
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所属している短歌結社の「短歌人」8月号に、拙作短歌6首が掲載されました。〔掲載された作品〕春泥といふ言葉より立ち上る詩あらむ未だ意味を知らずも蝶の吻くち薇ぜんまい伸びて蜜吸ひついとどはかなきいのちなりけり蛾の骸むくろ蟻ら運べりパセリの葉縮れて萌ゆる木この下闇にそれからは薔薇を諦めひたぶるにトマトを植ゑて妻を愛して撫子が夏の日差しをうまさうに受けてゐるなりすつくと伸びて「チー坊」に瓜ふたつなる我が娘杉田かをるになるのだらうか〔ボツになった詠草〕行く春を惜しみて部屋にいざなひし風入る窓に蜘蛛の肥えをり春植ゑし阿蘭陀芹に蝶々の幼虫をさなむし這ふ殺すべかるや上河原精霊しゃうりゃう河原下河原魂合たまあふ夏のあをきゆふぐれ孕はらみ女めのうつくしき夏削氷けづりひに銀しろがねの匙挿して抉りぬ鮮あざらけき黄色の花が下向きに恥づかしさうに咲きたりトマトをりふしは君の裸身がちらつきぬセックスレスはをはりにしない?――やっぱし、言葉だけでこねくり回したようなのは駄目かな~、って感じ。それと、過激な表現は、今のところ十年早いみたいです「杉田かをる」が限度か(爆)・・・「セックスレス」の歌は、大向こう受けを狙って、意図的にやや奇を衒(てら)ったのですが、結果的に採用されなくて良かったかも知んない・・・反省&感謝
2007年07月27日
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式子内親王夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしのこゑ新古今和歌集 268夕立を降らせた雲も止まらない夏の太陽が傾いてゆく西方の山に、また鳴きはじめた蜩(ひぐらし)の声がする。註前に夏の名歌は少ないと書いたが、これはその数少ない例外というべきか。さすがは、プリンセス式子(のりこ・しきし)さまのお歌である・・・その場所・時空に身を置いてみたいぐらいだ。言葉に切れ目がなく、上の句から下の句までつながっているのだが、論理的意味としてはどこがどうつながっているのか、やや茫漠として重層的で、いささか曖昧模糊たるところがある。そういうところが、日本語表現の王道といえる、・・・かも知れない
2007年07月26日
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源頼政(みなもとのよりまさ)庭の面もはまだかわかぬに夕立の空さりげなく澄める月かな新古今和歌集 267庭の面(おもて)はまだ乾かないのに、夕立の空は、すでにそれらしいところも留めずに澄んだ月だなあ。註源頼政:一昨年のNHK大河ドラマ「義経」で、名優だった故・丹波哲郎が扮し、遺作となった役柄の武将。平清盛政権に与(くみ)していたが、奢れる平家の独裁政治への上下各層の広汎な不満を背景に、後白河法皇の内意を体し、平安末期の1180年、親王・以仁王(もちひとおう)を立てて、平家に対して初めて謀反を起こし、敗れて死去した。平氏の対抗勢力としての源氏の存在を初めて本格的に世に示し、木曾(源)義仲の乱や、ひいては源頼朝の武家政権樹立の先駆けとなった功績は大きい。教養人として知られ、歌人として聞こえた。さりげなく:それらしくなく。
2007年07月24日
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きのうのエントリーでご紹介したトマト12個は、昨晩、妻が湯剥きにしてくれて、家族5人でペロリと平らげてしまいました。考えたら、一人2個強だもんね、軽いよね。・・・というか、あっけないよねスーパーで売っているトマトに比べると、皮は、明らかに分厚くて、いかにも野性的でした。ちょっと堅くて酸っぱかったのですが、その分キュっと締まって凝縮されたような濃厚な風味と、いくぶん野生っぽい生命力というか野趣が感じられて、悪くなかったです。しろうとが作ったにしては上出来でした。3歳4ヶ月になった三つ子三人かしまし娘たちも、最初「すっぱ~い」とか言ってたのですが、「おとうちゃんが作ったんだよ」とプレッシャーをかけたら、「ほんと~?」とか言いながら、ありがたみが分かったらしく(?)、神妙な顔つきで食べてくれました。ちなみに、生まれたときは三人とも2000gないしそれ以下の未熟児で心配しましたが、今では同年輩の子供より頭ひとつ飛び出た大女になりつつあり、性格も明朗快活、顔も(親のひいき目か)かなり可愛く、このまま素直に育っていけば、将来はエビちゃんバリのファッションモデルにでも仕立てて荒稼ぎできるのではないかと期待しているところです加えて、次女は明らかに僕の遺伝と思われ、口から先に生まれたような子で、言語能力が発達してるように思われるので、一流歌人に仕込んで大儲けしようと思ってますこれで老後は安心だ
2007年07月24日
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これは、スーパーで買ってきたトマトではありませんお伝えし忘れてましたが、自宅のプランターで育てているトマトの第一弾が、先日一斉に実りました。どうも、梅雨空が続くのを、秋が来ちゃったとか何とか勘違いしたんじゃないかと思います。梅雨が明ければまた茎も伸びて、今後も続々収穫が期待できそうです。 色は鮮やかな真っ赤になりましたが、1~2個食べてみたらまだちょっと堅いので、室内で熟成させているところです。もうすぐ、おいしく頂けそうです。なお、2個は野鳥に食われてしまいました。嘴の痕跡から推理すると、たぶんスズメだと思われます。けっこうおいしかったらしく、派手に食われていました。もともと植物の実が成るのは、自らを鳥に食わせてフンと一緒に種をばら撒いてもらう戦略・企みですから、これこそ自然の生態系の本筋とも言えますね。決して悪い気はしませんね。“陰徳を積んだ”気分。・・・トマトも本望でしょう
2007年07月23日
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西行道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ新古今和歌集 262 / 家集(個人歌集)「山家集」道端に清水が流れる柳の蔭に、ほんの少しだけと思って立ち止まった(が、あまりの趣きに、立ち去りがたくなってしまった)。註いわゆる「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」の歌として知られる名歌。この柳のある場所は、現・栃木県那須郡那須町芦野。現地には、西行歌碑と芭蕉句碑がある。こちら地元の、隠れスポットである(?)歌自体は、いかにも西行らしい、手練(てだれ)で悠然たる無為自然な読みぶりだが、後世、能・謡曲の「遊行柳」の舞台となったことから歌枕の地として一躍有名となり、西行を崇敬しその生き方まで模倣したといわれる松尾芭蕉も現地で名句を詠んだことは著名。田一枚植ゑて立ち去る柳かな奥の細道初夏、早乙女たちが田一枚に稲苗を植え終わるのを柳の蔭で見届けて、私は立ち去った。*今、この「見届ける」という単語を思い出すのに、約1時間かかってしまったよくよく見れば、実に変な言葉だと思う。日本語は難しい。いすれにせよ、年は取りたくないものですね~
2007年07月22日
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式子内親王(しきし・ないしんのう)窓近き竹の葉すさぶ風の音ねにいとど短きうたたねの夢新古今和歌集 256窓辺に近い竹の葉をカサカサ弄(もてあそ)ぶ風の音に(目が覚めて)、すっごく短い一炊の夢だったわね~。註式子内親王:「しょくし」とも読む(慣用読み)。当時の本来の読み方は、「のりこ」と推定される。すさぶ:遊ぶ。弄ぶ。現在でも「筆の遊(すさ)び」というような雅語、はたまた「手すさび(博打・道楽)」などの俗語として残る。この場合、「竹の葉」を主語とする自動詞と解釈されるが、「風」を主語として他動詞的に用いているとも取れる。もともと日本語においては、動詞の自他の区別はそれほど厳密ではないとされる。いとど:「いといと」の約(つづ)まったもの。非常に。とっても。うたたね:仮寝。「うたた」は「うつつ(現)」と語源的関係があるといわれる。夏の名歌はきわめて少ない。この歌も、才女・式子内親王の作としては、イマイチかな~。いにしえの日本人は、夏にあまり詩情を感じなかったのかも知れない。その点では、夏が嫌いな「冬男(冬彦?)」の僕も同類ざんすかね?(花火、祭り、プール、すいかなどなど、夏の風物詩は好きだよ。)
2007年07月21日
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マイ・パーソナル 独断的うまいものランキング1 カツ丼2 おにぎり(握り飯、おむすび、コンビニ可)3 鮨(寿司)/刺身4 鰻蒲焼(鰻丼、鰻重)5 鮎/その他の魚介類6 おでん(お田、田楽)7 日本蕎麦8 生卵9 カレーライス10 ビーフステーキ(ビフテキ)11 炒飯(チャーハン、チャオハン)12 ハヤシライス(ハッシュド・ビーフ)13 漬物(お新香、香の物)14 スパゲッティ15 海苔嫌いな食べ物1 ラーメン(特にトンコツ系)2 イクラ3 海老のチリソース和え(エビチリ)4 その他、グジャっとした食感のもの別に有名人でもない僕の嗜好など書いても何の意味もないと重々承知していますが、こういうのは一種の思考実験のトレーニングになります(・・・ならないか?)まあ、どうでもいいっちゃどうでもいいのですが、自己分析と頭の整理を兼ねて(?)やってみました。ランキング付けの作業は、皆さんもやってみると分かると思いますが、テーマのいかんを問わず、すごく楽しいですよ~。・・・さて、血液型性格論がどこまで当たっているのか知らないが、いかにも大雑把なO型丸出しだと思う。と同時に、我ながらあきれるほど、骨の髄まで日本人だと思う。ちなみに「血液型人間学」なるものは、当初は非科学的な「占い」にすぎないとして、医学界からは完全否定または黙殺されていたが、最近では、ちゃんとした大学教授クラスの医学者からも、「一理ある」という説を唱える人も出てきて、混沌とし始めている。確かに、インド人はB型が圧倒的優勢、同様に欧米人はO型、東アジア(東洋)人はA型優勢という統計を信じれば、性格やその文化への影響など、何かあるのではないかと思いたくなるのは人情である。ガリレオ・ガリレイですら、当時の知識層である宗教・科学界から総スカンの吊るし上げを食らい、「それでも地球は回っている」と、言ったとか言わないとか(言わなかったらしいが)、大変な目に遭ったわけで、科学的真理なんてのは、なかなかしろうとには分からないものだ。話を戻すと、豊かな日本に生まれ育って、人間40代も終盤になれば、地球上の大抵の食えるものは口にしてきたと思う。特に僕の場合、好き嫌いはもともとあんまりないのみならず、好奇心が強く、下手物(げてもの)の類いも至って平気なほうなので、女房などが蛇蝎のごとく嫌う信州長野の「蜂の子」(見た目、ウジムシそのもの)とか、東京(江戸)名物・佃島の「イナゴの佃煮」なんかも大好物であるが、まあこれらはやはり「珍味」に属するものであって、ランキング入りとまではいかないだろう。銀座のフランス料理屋で食したエスカルゴ(食用カタツムリ)の蒸し焼きも美味かった。まあ要するに陸の貝であって、上品なタニシみたいなものだった。言ってみれば、海のザリガニであるロブスターを食うのと大して変わらんよ。小瓶1個で4000円ぐらいする富山の名物、海鼠(なまこ)の塩辛「このわた」などは、地上の天国というべき味覚である。・・・とはいえ、おおむねグルメ趣味は薄いと思うし、一食に何万円もかけたりすることもこれまでの半生では節目節目ではままあったけれども、食べた後、非常に虚しく感じる質(たち)である。そんなわけで、“美味いもの”を思い浮かべると、ごくごく健全かつ常識的な日本人になってしまうのだ。ただ、地元・宇都宮の名店「存じやす」のステーキは、年に一度や二度は食べたい。結婚記念日のディナーに決めており、このときばかりは夫婦で一食2万円ぐらいは使うことになる。――ちなみに、僕のラーメン嫌いはきのう今日に始まったことではなく、若いころから一貫して嫌いだった。何が嫌いなのかと問われても、嫌いに理屈はない。とにかく、あの過剰きわまる炭水化物と脂質と塩分からなるギドギドした食い物が嫌だ。浮世の義理で時たま食べはするが、これの何がそんなに持て囃されるのかと、いつも釈然としない。カツ丼、ラーメンとも、店によって当たりはずれがあるのは当然だが、カツ丼の“はずれ”はまあ何とか食えるが、ラーメンの“はずれ”は食えたものではない。こうなると、地上最悪の食い物だと思う・・・なんか、言語明瞭意図不明な文章でした
2007年07月21日
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僧正遍昭(そうじょう・へんじょう)はちすばのにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく古今和歌集 165(泥の中に育つ)蓮の葉は、濁りに染まらない清い心を以て、なぜ葉に置く露を玉と見せかけて欺くのか。註はちす:ハスの古語で、語源。実が蜂の巣に似ていることからついた名とされる。しまぬ:「染(し)む(現代語・染みる)」の否定形。染まらぬ。なにかは:どうして。何の意図でか。なにを思ってか。言わんとすることは分からないでもないが、発想がいささか突飛過ぎてピンとこない憾(うら)みがある問題作。ハスの花に置いた露が玉のように美しいということを、斜に構え、一ひねりして表現したものか。あるいは、仏教の修行で言う「魔境」などの邪念への戒めを詠んだものか。そう読めば、一種の道歌(思想歌)ということになる。・・・さすがは高僧、宗教者というべきかな(?)
2007年07月20日
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くまんパパ柊ひひらぎは我が守護神ジニアスと妻言ひつ夏の日差しに棘の伸びつつ雉鳩きじばとの番つがひ棲みつき夏空の中の木立にとまりてをりきこんな夢を見た雪散らふ森の国行き亡き母のごとくに愛はしきをんなと逢ひぬどう死ぬか問題なんてそれだけだ例へばビートたけしならでも鳥の餌えの稗ひえの実毀れあをあをと育ち実れり梅雨の晴れ間に
2007年07月19日
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壬生忠岑(みぶのただみね)暮るるかとみればあけぬる夏の夜をあかずとや鳴く山郭公ほととぎす古今和歌集 157日が暮れるかとみればもう明けてしまう夏の夜を、飽き足りないと鳴くのだろうか、山のホトトギス。註「暮るる」は古語の動詞「暮(く)る」(現代語「暮れる」)の連用形。「溢(あふ)る・溢るる」などと同様。「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形。「・・・てしまう」の意味。詠嘆のニュアンスを持つことも多い。「風と共に去りぬ」は「風と共に去ってしまった」の意。字数の限られた和歌・短歌表現においては、非常に便利な言葉ともいえる。「郭公」と書いてあっても「カッコウ」ではなく、不如帰(ほととぎす)のこと。ホトトギスが夜鳴くのかどうか知らないが、そういう前提で詠んでいる。「明けぬる」と「飽かず」が、品のいい言葉遊びになっている。
2007年07月19日
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紀貫之夏の夜の臥ふすかとすれば時鳥ほととぎす鳴くひとこゑに明くるしののめ古今和歌集 156夏の夜は、寝るかと思えば、ホトトギスが鳴く“汽笛一声新橋を”で、もう明ける東雲しののめだね。註「夏の夜は、寝たかと思えばもう朝だ」というのである。確かに、筆者なども受験生時代にはそういうこともあったように思う。紀貫之の、理知的で余情に乏しい散文的な作風の最たるものとして古来悪評嘖嘖(さくさく)であるが、しかしある種の面白みはあるという、いわば“川柳和歌”とでも言うべき問題作(?)酒席での一瞬芸みたいなもんで、まあ、ちょこっと笑える作品ではある
2007年07月17日
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谷川俊太郎タラマイカ偽書残闕すでに在るものは無い未だ無いものは在る。註老いてなお、ますます旺盛な創作活動を続ける現代日本最高の詩人、イギリスでいえば桂冠詩人のような存在といえる巨人・谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)の、脂が乗り切っていた1978年(昭和53年)9月刊行の力作。オリジナルは、一冊の詩集であると同時に、一箇の長篇詩でもある。谷川氏の作風の一つの特徴は、常に、詩とは何か、人生とは、世界とは、宇宙とは何かを執拗に問いつづけ、研ぎ澄まされたシンプルな文体で呈示し続けるところにある。これは、20世紀以降の文学一般の、世界的な流れにも呼応している。また文体はしばしば絵本や児童文学のように素朴で、それは同時にある種の古代の叙事詩のように力強く、根源的に響く。この長大な詩篇も、詩の始源、言葉の淵源、生命の根源、宇宙の起源に迫りつつ、迫り得たのか迫り得なかったのかは、何だかよく分からないが(笑)、全ての言葉が生き生きとした生命力を宿し、熟読玩味していると、果てしない夢に耽っているようだ。“北部ギジン(詳細不明)タラマイカ族(不明)の伝承より採集した”民族叙事詩のようなものが、スウェーデン語、ウルドゥ語、英語訳などの紆余曲折を経て作者の手許に辿り着き、作者が日本語に訳したという体裁を取っている。この設定そのものも、大まじめなところが何ともユーモラスであるとともに、ゾクゾクするほど魅力的だ。「キウンジ」(作者/訳者?の自註によれば、発音は「キュンゼ」に近いという。アクセントは最後に来るらしい。)と呼ばれる、「はじめての名をもたらしたもの」をめぐる詩である。問うことをやめよキウンジにキウンジの名をもたらしたものは何かと。キウンジを名づけたものもまたキウンジの名で呼ばれる。・・・それは、“英訳者”によれば、「命名し得ず、対象化できぬ一なる全体」という意味と推測される“タラマイカ語”の「アギラハナミジャクラムンジ」と呼ばれるものから発生したと言っているようにも思われるが、そうでないのかも知れず、軽々には言えない。図書館などでめいめい読んで、ご判断下さい。チョコッと出てくる「とんがり人」、「くぼみ人」なんてのも楽しい。作者(訳者?)によれば、それぞれ「男」、「女」の意味と確実視されるという。むろん、小説のような、いわゆるストーリーはないが、魂の冒険と言っていいような読後感が残る。僕は20歳頃、この詩集をリアルタイムで読んで、まさに魂を震撼させられた。爾後、変わることなく谷川俊太郎のファン、いや、崇拝者である。昨夜、ふと思い立って読み返してみて、全然古びていないことに、改めて驚いた。言語表現に興味があるものとして、勉強になりまくり~、です。詩というものが、もともと天上に属するものであったことが、強く想い起される。谷川氏の詩集は、ほとんど全て何らかの形で持っていると思うが、とりわけこのオリジナル初版本は、僕のパーソナルな宝物(神器?)である。谷川俊太郎詩集(続続)(楽天ブックスでは売り切れらしい)
2007年07月17日
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紀友則音羽山けさ越えくればほととぎすこずゑはるかに今ぞ鳴くなる古今和歌集 142音羽山をけさ越えて来ると、ホトトギスが梢のはるか上で今鳴いているんだなあ。註何ということもない、ごく素直な詠みぶりだが、素朴なナチュラルさとイメージ喚起力のある佳作。やや万葉集みたいな感じもするが、やはりどこか研ぎ澄まされたセンスがある。「ぞ・・・なる」は係り結び。
2007年07月16日
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皆さんのお住まいの地域では、台風4号はどうでした?北関東の当地では直撃は辛くも免れたようで、雨風ともにさすがに尋常ではなかったものの、ニュース映像で見てビビった沖縄・西日本などの惨状ほどではありませんでした。ただ、午後6時現在、吹き返しの風は、まだ凄いです。この大雨の中、きのうのエントリーで触れた地元神社の祭りは、なんと、「決行」!!!・・・ケッコー毛だらけ猫灰だらけ。GOサインを出した執行部の気が知れないと、みんなブーブーブーイングざんす午前中の、宇都宮市上町(うわまち、山の手)方面の神輿渡御(みこしとぎょ)は実行されたらしい。さすがに午後の、筆者くまんパパも属する下町方面の練り歩きは中止になった。予期したほどの大荒れじゃないとはいえ、当然だよね。祭りの町会会所の後片付けも、明日以降に先送り。・・・何せ、古い門前町・城下町でございまして(宇都宮はギョーザだけじゃないざんすよ)、祭り関連の町内備品は、すべて年代物のレア物。中には、江戸初期の1600年代鋳造の鈴なんてのもあるんです。これ、マジです。・・・めったに町会長の自宅の金庫から出さないけれども。濡らして錆付かせたりカビでも生やしたりしたら、ご先祖様に顔向けが出来ないのよ~んところで、先ほどの「アッコにおまかせ」で“漢字クイズ”をやっていたが、もちろん全問正解。「徒に」を、軽く「いたずらに(旧仮名づかひ・いたづらに)」と読めてしまう僕は、頭のキャパシティの使い方を間違っているのだろうか??さて、お話変わって、所属している短歌結社の「短歌人」9月号の歌稿として送付した詠草は、次の通りです。ご参考までに。ありてある色褪するなき蒼穹あをぞらの全き無関心の大いさ毟むしれども毟れどもなほイタリアン・パセリ萌え出づ夏の木蔭に 成らざりし「歌人の星」の徒夢あだゆめは娘に託す 星一徹かよ酒一斗飲み干すごとに詩一篇出来たとかいふ古人いにしへびとは知久といふ苗字の由来由布姫の族うからなるとふ友と語りきテレヴィジョン消せば見るべきもの見えつ月と夜空と妻子めこと我が身と汗だくで擂鉢すりばちの胡麻擂りにけり昭和四十年頃の夏雑草と誤り抜きし柊の蘖ひこばえ萌えてほつとせしかも蝉時雨幾たび聞きし生よならむか梟ふくろふ睡る欅けやきの巨木蝉時雨、海、山、花火、かき氷 わけて祭の夏は来にけり*「星一徹」の歌は、“一球入魂”の自信作ですが、いささかフザケているので、“載るかそるか”ワクワクざんすよ一応、父親としての娘への惜しみなき愛を表現したつもりなんですけど、・・・ダメ?
2007年07月15日
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どういう訳か、「不朽」を「ふちく」と読む人がけっこういる。「朽ちる」という訓読みとゴッチャになるんだろうか。あるいは、「破竹(の勢い)」辺りに引きずられるのかな。・・・もちろん、「ふきゅう」。「脆弱」を「きじゃく」と読むのは、定番の間違いか。・・・「ぜいじゃく」である。「修業」と「修行」は、意味が違う、というか、別の言葉。「修業証書」、「修行が足りない」という風に使う。「徐(おもむろ)に」を「突然、唐突に」の意味で使うのは、僕の記憶では、'70年代のフォーク歌手などが、曲の合間のトークなどで使い始めたように思うが、これはもちろん間違いで、「ゆっくりと、落ち着きはらって」の意味。意味が180度近く変わっている。これは、意思の疎通に関わることがあるので、妻には口を酸っぱくして注意して、嫌われている・・・などと、細かいことを指摘する嫌味な傾向を、トリビアリズム(瑣末主義)という。知性と教養があふれ出てしまうディレッタンティズム(衒学癖・げんがくへき)とは、似て非なるものである。世間では、最も嫌われるタイプであるこの手の間違いは、世に少なからずあるだろう。気が付き次第、ブログのネタ切れの穴埋めを兼ねて、メモ代りにエントリーしてみたい
2007年07月13日
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佐野元春 COYOTEう~む、これはすごいかも知んない。むろん、一般受けする軽快なポップ・チューンとは、お世辞にも言えないだろう。だが、やや地味ながらゆったりとスケールの大きい曲調に、佐野一流のさりげなく洗練された発音(エロキューション)のデフォルメ、あるいはデストーション(歪み)がナチュラルに乗って、徐々に高揚してゆくのを静かに聴いていると、じわじわ~っと魂に沁みてくるのを感じる。・・・と言っても、「コヨーテ、海へ」一曲を、きのうNHK-FMで聴いただけだけど。幸い録音していたので、この7分を超える長大な曲を、感動のあまり今朝まで15回ぐらい繰り返し聴いてしまった。どっちみちアルバムを買うことになりそうだが、この曲のシングルカットも望みたい。アマゾンのレビューを覗いても、皆さん気合入りまくりだ。(アマゾンの記事にリンクしようとしたら、楽天以外のアフィリエイトになるので、表示できないらしい。うまく出来てるね~楽天ブログ。・・・仕方がないので、少々引用する。)「時は流れ、僕は今34歳。それなりに歳を重ねてきた。そして気づく。やはり元春は凄い。 今だからこそ、前作「THE SUN」、そして今作「Coyote」は深く染み入る。 「THE SUN」はある種元春自身がもう一度自分自身を深く見つめ、対峙した内省的な傑作アルバムだった。今作は、さらに外へと意識が向かっている。若い頃の声はここにはないけれど、今の声に癒されるリスナーも決して少なくないはずだ。 若いミュージシャンを迎えて、実に伸びやかに強度のあるロックを鳴らしつつも、バラードが、本当にリアルで、切ない。 陳腐な言い方だけど、あえて日本のボブ・ディランは彼だと断言させてもらおう。 30歳すぎて「折れた翼」、「呼吸」、「コヨーテ、海へ」を聴いて、何も感じない人はロックを語る資格はないと思う。 そして、きっと気づくだろう。僕らは大人になったと。」・・・ああそうか、ボブ・ディランか。僕はむしろ、このサウンドからピンク・フロイドやジョン・レノンを連想したけれども。これも、あながち的外れではないと思う。しかも、一見佐野に最もふさわしくないと思われる形容詞、「エレガント」さもどこかにまとっている。いや、よく考えると、意外と若いころから押しまくりの猪突猛進ロックンロールではなく、ある種の洗練された内省的なテイストを、常に持ち味として秘めていたような気もする。言語表現に興味を持っている者として、歌詞も、すばらしいの“一語一会”。特に、リフレインで繰り返される「勝利ある」と“Show real”の踏韻の妙は、圧倒的。ザブトン10枚。まあ、“Show real”は、どう見ても文法的には無理であり、正しくは“Show the real(リアルなものを見せよ)”か、“Show reality”と言うべきであろうが、サブカルチャーのJ-POPの歌詞としては、悠々受忍限度、セーフであろう。・・・ただし、活字の詩歌においては、こういった文法的な「いろは、てにをは」の誤りは致命傷で、鼻先で笑われ知性を疑われるから、要注意。「まだまだ世の中捨てたもんじゃないぜと思わせる唯一の存在が佐野元春!ある意味頑固職人。 自己の持つ純粋さを保ちつつ成長するには時として世間と戦わなきゃいけない。 佐野の歌詞は"暗闇の向こうに"とか"輝き失わぬように"といったものが多い。 生きていく為にはお金よりもなによりもまず前向きになろうとする意志そのものだというメッセージなんだと勝手に私は解釈している。 どんなに傷ついたとしても一貫として前を見続け走り続ける佐野の姿は感動的だ。 今作は過去のどの作品とも違う2007年今の力強さがそこにある! 」全く同感。・・・僕としては、特に付け加えることはありません〔「コヨーテ、海へ」の楽曲としての総合評価:91点〕
2007年07月12日
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当地、栃木の地元紙「下野(しもつけ)新聞」に心霊写真(?)が載ったというので、だいぶ早めの「真夏の夜のミステリー」ってな感じで、大騒ぎになっている。・・・ってほどでもないか問題の写真は、7月4日(水)付け14面(スポーツ面)である。さまざまなスポーツの強豪として全国的にも知られる地元高校の選手を紹介する記事に添付されたものである。僕は、早大・大槻教授と同じく、この手のオカルト風の非科学的な話はまるで信じないので、多少は面白がるけれども、鼻で笑っておしまいなのですが、万一これで心が傷つく人でもいれば、この記事は削除する用意があります
2007年07月10日
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詠み人知らずほととぎす鳴くやさつきのあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな古今和歌集 469ほととぎすが鳴くさつきのあやめ草。文目(あやめ)も知らないムチャクチャな恋だってしちゃうのよね~。註さつき:皐月。陰暦五月。現在の梅雨時。「五月晴れ」は、もと「梅雨の晴れ間」の意味。文目も知らぬ:分別のない、五里霧中で何が何だか分からない、むちゃくちゃな。
2007年07月10日
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藤原良経うちしめりあやめぞかをるほととぎす鳴くやさつきの雨のゆふぐれ新古今和歌集 220しっとりと湿ってあやめが香る、ホトトギスが鳴いているのか、梅雨の雨の夕暮。註古今和歌集・恋歌(詠み人知らず)469(次のエントリー)の本歌取り。
2007年07月10日
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藤原忠良樗あふち咲くそともの木蔭露落ちて五月雨さみだれ晴るる風わたるなり新古今和歌集 234樗(おうち)が咲いている、家の外の木蔭に露がこぼれて、梅雨の晴れ間の風が渡っている。註樗:栴檀(せんだん)。初夏、薄紫の花をつける。そとも:(家屋敷の)外側。「外面(そとおも)」の約(つづ)まったもの。「背面(そつおも)」の転じた「そとも」(後ろの方)もある。五月雨:旧暦5月(ほぼ現在の6月)の雨。梅雨。
2007年07月10日
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蝉時雨せみしぐれ、海、山、花火、かき氷 わけて祭の夏は来にけり蝉時雨幾たび聞きし生よならむか梟ふくろふ睡ねむる欅けやきの巨木
2007年07月08日
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今日は七夕。'07年7月7日のゾロ目でもある。とはいうものの、梅雨真っ盛りで、星空は見えそうにない。それどころか、九州の方では大変なことになってるらしい。これ以上の被害が出ませんよう、遠く関東地方よりお祈り申し上げます。この日雨が降ると、天上でも、銀河(漢、天の川、ギャラクシー、ミルキーウェイ)は水かさが増して、織女は牽牛の待つ夜空ノムコウというか、大河の向こうに行けなくなってしまうのだ。今みたいに橋脚とかの建築技術が発達してないから。ただ、そういう時は、カササギがどこからともなくたくさん集まってきて、橋になるのか船になるのか知らないが、渡してくれるのだそうだ。親切ですねえ。西洋なら、天使になるところだね。もちろん、7月7日といっても、本来は旧暦(太陰暦)の行事だから、今年でいえば8月19日に当たる。まだ暑い盛りというか、暑さのピークがようやく過ぎ始めるかな~、という時期だ。夕立も少なくなるし。牽牛(彦星・ひこぼし)と織女(棚機女・たなばたつめ・おりひめ)の年に一度の邂逅と灼熱のロマンスには、じめじめした梅雨どきより、やっぱり夏だろうか。そもそも、天帝(北極星)の娘であるプリンセス・タナバタと一介の牛飼いである彦星とは、身分違いの生さぬ仲だったのかも、などとあらぬことを考えてしまう。「美女と野獣(ビューティ・アンド・ビースト)」みたいな。父親である天帝から見れば、梅宮アンナに接近する羽賀研二みたいに胡散臭い男に見えたかも知れない。なんだかんだいって、年に一度のランデブーを、よく許したもんだと思う。天帝の気が知れない。僕だって、娘が将来、どこの馬の骨とも知れぬカウボーイ(牛飼い)の兄ちゃんかなんかを連れてきて「彼氏だ」などと言おうものなら、反対するに決まっている。仕事もほっぽり出してあの手この手、あらゆる大人の手練手管で翻意を迫るのではないかと思う。・・・というのは僕の妄想で、実際のストーリーは違ってますから、念のため。七夕伝説の骨子は、以下の通り。二人は紀香・陣内バリに周囲に祝福されて結婚した、れっきとした夫婦でした。ヒルトンホテル創業者一族の大して美人でもないバカ娘と違って、織姫は絶世の美女で、とても働き者で不平一つ言わず、当時最先端技術だった機織り・デザイン・ファッション関連の仕事に精を出すバリバリのキャリアウーマンでした。しかし、結婚してからというもの、エクスタシーを知って “Addicted to you” になってしまった織姫は、四六時中ボーっとして、仕事に身が入らなくなってしまいました。業を煮やし、怒髪天を衝いてしまった天帝は、二人を天の川の両側に別居させてしまいました。なんと酷(むごい)い家父長権の濫用でしょう。日本国憲法第22条の「居住・移転・職業選択等の自由」や同24条「婚姻における両性の合意、夫婦の同等の権利、住居の選定等における個人の尊厳と両性の本質的平等」などなどの違反で、勝訴の最高裁判決は確実です。ちなみに、古代において織物の技術は、最高度の文明の象徴。とりわけ、絹織物が長らく事実上の中華文明の専売特許だったことは、「シルクロード」の存在を思い起こせば分かる。原始的な織機(しょっき・たなばた)であっても、扱えること自体が特権的なことだった。わが国においても、世を席巻したマルクス・レーニン社会主義プロレタリア文学のコンテクスト(文脈)の中で、女性の職工たちの「女工哀史」的側面(「あゝ野麦峠」とか)ばかりが強調されてきたが、実際は彼女たちは士族の娘が多く、それなりの社会的エリートの側面があり、彼女らもそれを自覚していたという点を見誤ってはならない。最近では理解している方も多いと思うが。・・・もちろん、当時の労働環境の劣悪さについては同情されるが、それは産業革命以後の社会のほかの分野でも同じか、もっとひどかった。今、妻が編物をしているのを見ていても、糸の絡まり具合のプロトコルには超高度な論理性がある。織物を発明した人はIQ200ぐらいの天才だったろう。数学でいうと、トポロジー(位相学)の分野に近い。僕なんか、ボタンの付け直しも怪しいもんね。・・・なんかワケの分からない文章で、すんまそん。
2007年07月07日
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藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい、としなり) むかし思ふ草の庵いほりの夜の雨に涙なそへそ山ほととぎす新古今和歌集 201昔を思う草庵に降る夜の雨に涙を添えるな、山の不如帰ほととぎすよ。註雨:旧暦(太陰暦)の五月雨(さみだれ)、すなわち現在の梅雨。
2007年07月06日
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一般論として「頭の整理」は大切であろうと思う。僕なんかも、頭の中は、実人生(仕事、家族、町内会など地域住民としての活動、友人知人などとの交際などなど)や、歌詠みの端くれの端くれとしてのアート的思考など、年相応に(?)雑多な知識や感覚がごちゃごちゃのごった煮になっていて、時折は整理しないとオーバーヒートする恐れがある。そこで、頭の整理を兼ねて、ランキングをしてみたい。自分がいったい何を求めているのかとかを探るよすがになりそうである。とりあえず「現在、いいな~と思っている車」。例えば、電球は「飽和製品」といわれ、弛まぬマイナーチェンジ・改良によって、現在ではもはや性能・コストなどで改良の余地がないぐらいに完璧な大量生産工業製品になっていると聞いたことがある。自動車も、性能(スペック)面でいえば、環境への配慮を含め、各社似たり寄ったりで、電球などと似たところがあるだろう。現在では、むしろトータルなコンセプトとか、デザインとか、そういうところで競い合っているようにも思う。・・・というわけで、性能的な差は無視して選ぶ。車オタクじゃないので、正直よく分からんということもあるし。しかも、実際に乗ってみたいとかいうこととも、ちょっと違う。街などで見かけて、なんとなくいいな~と僕が思う車を、完全に独断的にランク付けする。前置きが長すぎるのが、僕の文章の欠点であることは重々自覚している。もう書こう。1 トヨタ レクサス2 シトロエン C4 ピカソ3 日産 マーチ4 メルセデス・ベンツ Bクラス5 プジョー 307SW6 日産 キューブ・キュービック7 ダイハツ タント8 日産 シーマ9 ボルボ 85010 日産 ラフェスタ(順位は多少流動的であり、そんなに確乎としたものではない)日産党の僕を以ってしても、現在レクサスが世界でいちばんカッコイイ車であるという一般的評価はくつがえせないレクサスの登場によって、帝王ベンツ(SクラスやEクラス)のデザインが古くさく見えはじめたという意見にも賛成である。ちなみに、ラフェスタは現在僕の愛車で、まずまず満足している。マーチは、妻が子供3人を乗せて毎日愛用しているちなみに、ワースト・ランキングは、1 メルセデス・ベンツ ビアノ・アンビエンテ・ロング2 トヨタ アルファード3 日産 エルグランド4 アメリカ車 全て5 トヨタ エスティマなどである。乗ってる方には、ゴメンチャイ・・・なんか、トラックでもあるまいに、ズデ~ンとでかくて、威圧感のあるのは苦手である。
2007年07月03日
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小池光どくだみの花白うあるくさむらにあるかなきかに雨は入りゆく耳もちてぶら下げしとき家兎あはれあはれ葱のごときしづかさ蓮根を穴もろともに太らしめ泥田にふかく突き刺さる雨食卓に沈黙すれば、オ父サンもう少しわかりやすく居てくれと娘が言ふ
2007年07月03日
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塚本邦雄赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へ咲くジギタリス水葬物語(昭和26年)ジギタリス
2007年07月03日
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正岡子規真砂まさごなす数なき星の其その中に吾に向ひて光る星ありたらちねの母がなりたる母星ははぼしの子を思もふ光吾を照せり玉水の雫絶えたる檐のきの端はに星かがやきて長雨はれぬ空はかる台うてなの上に登り立つ我をめぐりて星かがやけり天地あめつちに月人男つきひとをとこ照り透とほり星の少女をとめのかくれて見えずひさかたの星の光の清き夜にそことも知らず鷺鳴きわたる草つつみ病やまひの床に寝がへればガラス戸の外とに星一つ見ゆ明治33年(1900)7月註数なき星:無数の星。数限りない星。空はかる台うてな:観天望気をする台、すなわち気象台・天文台の類い。月人男つきひとをとこ:なんのこっちゃ不明。牽牛星(鷲座アルタイル)と織女星(琴座ベガ)の恋路を邪魔する無粋なお邪魔虫の意?そことも知らず:どことも知れず。いずこからか。草つつみ:不明。「山」に掛かる枕詞でもあろうか?さらに考究する。
2007年07月02日
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早いもので文月(ふづき)になった。今年も半分が過ぎ去り、後半に入ったわけだ。先月下旬に、所属している短歌結社誌「短歌人」7月号が送られて来たと思ったら、もう9月号の締め切りが迫ってきた。8月号の詠草は、すでに先月上旬に送付済みである。これからずっと、死ぬまでこの周期を繰り返すことになるだろうし、そうしたいものである。締め切りに追われると言うと、受動的というか消極的というか自虐的というか、要するに受け身な感じに聞こえてしまうかも知れないが、実際の気分としては、決して不快ではない。むしろ、このぐらいの節目というか、毎月一度ぐらいの緊張感があった方が、気持ちに張りが出る。まだまだ老け込む年には遠いが、かといってとっくに若くもなくなった。毎日の生活からは清新さが失われがちであり、惰性に流されることが多くなった。そういう人生の秋に、すばらしい刺激だと思う。「恋をするには遅すぎると言われる私でも・・・」(竹内まりや「マイ・スウィート・ホーム」)なのだ。ところで、自分の短歌を、内省のために仮に自己分析してみると、2つの流れがあるように感じられる。i)戦後短歌の巨人、故・塚本邦雄氏のような、古今東西の詩歌に通暁し、博覧強記の知識に裏打ちされた、超絶的でアヴァンギャルドでありながら、モダニズムと重厚華麗さの同居する作風に憧れている自分。塚本氏は空前絶後の存在であるから軽々には言えないが、小池光氏の作風に、どこか深いところでつながっているものを感じるのは、僕だけではあるまい。ii)知的、都市的で冗談っぽく、自虐的ギャグをちりばめて軽妙洒脱な中に、現代人の哀愁と詩を滲ませた藤原龍一郎氏のような作風に憧れている自分。小池氏は、所属する「短歌人」の編集人。藤原氏は、同じく有力な同人である。しかも、お二人とも、思春期から青年期に、塚本氏の短歌に衝撃を受けて、歌壇に足を踏み入れたとおっしゃっている。非常に共感できる。この点だけで言えば、月とスッポンながら僕も全く同様であり、15~16歳頃、塚本氏の歌集にリアルタイムで触れて、気が変になるほど魂が震撼させられた。もっとも、一般社会人として生きるのに精一杯で、僕が割と本気で詠み始めた時は、もう30代後半になっていたが。塚本氏の膨大な力業に表現された、言葉ではあるが、日常の言葉とは全く隔絶し次元を異にする詩にノック・アウトされた。ついでに言えば、性的嗜好としては、やや「薔薇族」的な変態性欲(同性愛やSMなど)を感じさせる部分も、女性が好きで全く健全ノーマルな僕には全くその気(け)はないので、薄気味悪いと思いながらも、表現としては受け入れざるを得なかった。ボードレール、ロートレアモン以降の詩人には、こういう一種の“反社会的自意識(アウトサイダー意識)”は必修科目であるから、致し方ないかな~春日井建氏の影響を受けたという、現在トップランナーの天才女流歌人・水原紫苑氏にも、似た面があるように思われる。そんなこんなで、個人史的に正直に考えれば、おおもとはやはり塚本氏というべきなのであろう。塚本氏の作風は、自らが創設・主宰し、現在ご子息の青史氏が継承しておられる結社「玲瓏(れいろう)」が最も嫡流であることは当然だが、あまりにもある種の色が濃いというか、ちょっと近寄るのがコワイともあれ、氏の影響は、このように広範囲に及んでいるのは事実である。・・・ま、とりあえず、今宵あたり塚本短歌を読み返してみるとするかな~。
2007年07月01日
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ヒルガオ(ひるがお科)。アサガオの原種とも言われる。ヒルガオなど、野生の蔓(つる)状植物は、他の直立する草木に巻きつき、旺盛にはびこる葉で覆い隠し、時には枯らすぐらいの勢いで生長する。生命力といえば聞こえがいいが、じっと見ていると、大自然の生存競争の弱肉強食のえげつなさに、ふと空恐ろしさを覚えることもある。
2007年07月01日
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