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今日は、午前中は幼児教室で(「ばばばーちゃんのおもちつき」をやりました)、帰ってきて食事をしたら、映画「沈黙 -サイレンス」(遠藤周作原作)を見に行って、また帰ってきたら即、家内の買い物に付き合わされ、今さっき帰ってきて今パソコンの前に座っています。ということで今日は短くさせて頂きます。またしばらく「気質」について書かせて頂きます。ちなみに、私は1971年の最初の「沈黙」も見ています。愛について、神について、人間について、色々と考えさせられる映画です。***************新しく横綱になった稀勢の里は、「勝っても負けても淡々としている」ということが「横綱の風格がある」と褒められていますが、私はあれは稀勢の里の気質がそうなだけであって、別に「横綱の風格」とは関係がないと思っています。でも、そういう「粘液質的な無表情」を褒める文化が日本にあるのは事実です。日本人は粘液質と憂鬱質が強い民族ですが、一般的に、粘液質が強い人は愚痴も言わず、音も上げず、コツコツと努力する傾向があります。いわゆる、勤勉実直な性格です。またそれは、農耕文化にぴったりの気質でもあります。だから、日本では昔からそのような粘液質的な気質が肯定され、「あるべき姿」として褒められて来たのでしょう。それに対してガッツポーズをする白鵬は、「品格がなく、子どもっぽい」などと、所作に関してはあまり評判が良くありません。でもこれも、騎馬民族出身の白鵬の胆汁質的な気質の表れに過ぎないので、横綱の風格とは関係がないと思っています。もっとも、日本の文化の中に、「横綱とは感情を表に出してはいけないのだ」という暗黙の美意識があるのなら、それはそれでしょうがありません。また、粘液質の人だけでなく、憂鬱質の人も感情をあまり表に出さない傾向があります。でも、粘液質の人とは異なる原理がそこに働いています。粘液質の人の感情はからだに吸収されてしまうので、表に出にくいのです。意味が分かりにくいかも知れませんが、感情がないわけではなく、心の中に生まれた感情がからだの外側に届く前に消えてしまうのです。それに対して、憂鬱質の人は、自分の感情を隠そうとする傾向があるのです。(特に、憂鬱質的な状態を肯定されないで育った憂鬱質の人にその傾向があります。)でも、そのためからだを固めてしまっています。からだを固めないことには感情が外に出てきてしまうからです。粘液質の人の表情は大げさではありませんが、ちゃんとあります。稀勢の里だってちゃんと自分の喜びをそれなりに表現していると思います。でも、否定されて育った憂鬱質の人の場合は、感情表現を意識的に抑えているので、感情が読めないのです。(それは胸の硬さとしてからだの中に存在しています。)じゃあどうして、憂鬱質の人は自分の感情を隠そうとしているのかというと、多分、自分の心を読まれないようにするためだと思います。憂鬱質の人は人の心を読むのが得意なんです。だから、相手にも自分の心を探られないために、隠そうとするのではないかと思います。<続きます>
2017.01.31
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これは紙コップで作った「風車」です。口の部分に切れ込みを入れ、少し斜めに折りあげ、底に糸をつけてあります。この糸を持って走ったり、糸を軒にぶら下げておくと、風を受けてクルクル回ります。いくつかの紙コップで同じものを作り、縦につなげると、また不思議で綺麗な風車になります。切った先を折りあげるときに反対側に折れば回転も逆になります。それぞれに色を塗ると、すごく素敵な飾りにもなります。大きさの異なった紙コップを組み合わせても楽しいです。一番下に鈴をつければ「風鈴」にもなります。他にも、紙コップで誕生日などで使う「クラッカー」(パンと音がして中のものが飛び出すやつ)や、糸電話や、けん玉や、ロケットなどを作ることが出来ます。紙コップの中からお化けや人形が出てくるようなおもちゃにも使えます。アイデア次第で単なる「紙コップ」が「紙コップ」ではなくなるのです。でも、造形が苦手な人や、作ることを楽しむことが出来ない人は、紙コップを見ても「水などの液体を飲む容器」にしか見えません。そのため、使い方や造形素材として様々な可能性を持ったものなのに、単なる「紙のコップ」としての用途しか思いつかないのです。でも、2,3才の幼い子どもたちにはそのような先入観はありません。だから紙コップを渡すと、平気で切り刻んだり、穴を空けたり、別の用途に使ったりするのです。でも、大人に「そんなことをしてはいけません」と禁止されているうちに、次第に、紙コップは「紙コップ」にしか見えなくなっていきます。それでも子どもたちの発想は豊かです。禁止されていない場所では、自由に発想することも出来ます。土曜日に、あるところで造形コーナーを担当したのですが、女の子数人が紙コップに毛糸をつけて、「ポシェット」のようなものを作っていました。(一人、発想が豊かな女の子がいたのでその子に感化されたようです。)でも大人たちは、子どもたちのそんな自由な発想や好奇心を否定して、大人の見方や価値観を教えています。そして、それがしつけであり、大人としての義務だとも思い込んでいます。紙コップは切ってはいけない。虫は殺してはいけない。土に触ったり、水たまりに入ってはいけない。食べ物を手で食べてはいけない。裸足で外を歩いてはいけない。ナイフは危険だから扱ってはいけない。それはそれで仕方がないものもあります。ビー玉を口に入れるのは、取り返しの付かない自体を引き起こす危険性があるので、結果を見る前に止めさせた方がいいです。でも、大人が側にいて見守っていれば、それほど危険なことにはならないようなことは、自由に子どもにやらせて見ると色々と楽しい発見があるものです。ハサミで指を切っても、基本的にバンドエイドでも貼っておけばすぐに治るのです。泥を口に入れても、消毒剤を口に入れるよりは安全です。子どもは大人の発想を超えた発想をするので子どもの行動を肯定的に受け入れることで、大人のコチコチに固まった頭をほぐすことが出来るのです。それに、子どもが何かをやりたい時には、その行為に「子どもの成長とつながった理由」があるのです。だからやりたくなるのですから。子どもが大人の理解を超えたことをした場合には、一方的に大人の価値観でその行為を否定するのではなく、子どもの行動を見ながら、「どうしてこんなことが楽しいのかな?」と考えてみることで、人間や、自分や、生命というものに対する理解が深まるのです。虫を殺すのにも、泥んこを触るのにも、水たまりに入るのにも、紙コップを切り刻むのにも「子どもの心とからだの成長」とつながった理由があるのです。そして、大人が子どもの発想を肯定的に受け入れていると、子どもも成長と共に、単なる破壊から創造へと活動の質が変化していきます。でも、大人が大人の常識で子どもの自由な発想を否定していると、子どもは「自由な心」や、「自由な発想」や、「様々なことに対する好奇心」をどんどん失って行きます。そして、頭がコチコチの大人になっていきます。
2017.01.30
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最近の子どもたちは「自分の手で作る」とか、「作っているところを見る」という体験がないまま育っているので、「自分の手で作る」ということがどういうことなのかを知りません。どんなものを作ることが出来るか、また、どんなものなら自分の実力に合っているのかも分かりません。大きい子や親が自分の手で作るところを見ていないので、「自分で作る」ということに対するあこがれもありません。それで、「何を作りたい?」と聞くと、「ドローン」とか「ゲーム機」とか、お店で売っているようなものを言います。また、教室に置いてある大きい子や上手な子が作ったものを指さして「これが作りたい」と言ったりもします。ノコギリすらちゃんと使えない子にそんなもの作れるわけがないのですが、それ以外の選択肢を持っていないのです。また、「作る」ということに対するリアリティーがないので、お店で売っているようなものや、仕組みが理解出来ないような難しいものでも、先生に教えてもらえれば簡単に作れると思っています。「作る」とか「作っているところを見る」という体験がないので、自分が出来ることと出来ないことが分からないのです。その結果、要求ばかりが高くなってしまっているのです。それで色々手作りの見本を見せ、「子どもの実力に見合った工作」を提案するのですが、「子どもの実力に見合ったもの」は同時に「子どもっぽいもの」でもあります。また、子どもが作った「手作りの見本」も見せますが、子どもが作ったものですから、当然そんな上手でも、かっこよくもありません。それが「子ども自身の現実の状態」なんですから、素直にそこから始めればいいのですが、でも最近の子は、失敗することは嫌いだし、実力はないくせに理想ばかりは高いので、あれこれ文句ばかり言って手を出そうとしません。また取り組んでみても、ちょっとでも思い通りにならないとすぐに放り出してしまいます。そのためいつまで経っても「作る能力」は高くならないし、「作る喜び」を感じることも出来ません。「みんな」とは言いませんが、そういう子の方が多いのです。と、ここまでは「子どもの造形の話」ですが、これと同じようなことが「子育て」の場でも起きているのです。「子どもとの関わり方」も知らない、「子どもの成長の仕組みや生態」も知らない、自分自身も何も出来ないのにも関わらず、子どもに対する要求ばかりは高いのです。また、知識はいっぱいあるので、子どもだけでなく自分に対する要求も高いです。そして、常に自分がやっていることの結果や子どもの状態を評価しています。でも、子どもは親の思い通りになんか育ちません。相手は、自分の意思を持った一人の人間ですから、造形よりももっと思い通りにならないのです。だから、思い通りにしようなどということは止めて、ただ「子育て」や「子どもとの関わり合い」を素直に楽しめばいいのです。「子育て」や「子どもとの関わり合い」を楽しんでいるだけで、子どもは勝手に育つのです。というか、本当は、「造形」も「子育て」も、思い通りにならないからこそ楽しいのです。思い通りになったら単なる「お仕事」になってしまいます。それなのに、多くのお母さんが、思い通りに行かないと「失敗した」「取り返しが付かない」と自分を責めています。造形には失敗などありません。ただ、「学び」があるだけです。そこで学んだことを次に生かせばいいのです。子育ても同じです。子育てには失敗などありません。ただ「学び」があるだけです。今日学んだことを明日生かせばいいのです。それだけのことです。その繰り返しで、子どももお母さんも育つのです。でも、「失敗した」という意識に囚われている人ほど、そこから何も学ぼうとせず、前に進もうともしません。そして、「失敗した」と思い込んでいることを相変わらずそのまま続けています。
2017.01.29
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子どもと大人の価値観は異なります。子どもが喜ぶことと、大人が喜ぶことも異なります。子どもが望んでいることと、大人が望んでいることも異なります。子どもが求めていることと、大人が求めていることも異なります。子どもが楽しいと感じることと、大人が「楽しい」と感じることも異なります。子どもが生きている物語と、大人が生きている物語も異なります。子どもが見ている世界と、大人が見ている世界は同じではありません。子どもが感じている味と、大人が感じている味は同じではありません。子どもが聞いている音と、大人が聞いている音は同じではありません。でも、大人はそのことを知らないか、「まだ子どもで無知で未熟だからそういう状態なんだ」と、一方的に決めつけ、「子どもが大切にしていること」を否定し、「大人が大切にしていること」を押しつけています。そして、子どもの考え方や価値観は間違っていると思い込んでいるので、子どもが、子どもの考え方や、価値観や、感覚で行動すると、大人はそれを否定したり叱ったりしています。現代社会や、都市や、生活空間は、大人が大人の価値観だけに基づいて作ったものです。そこに子どもの価値観など少しも考慮されていません。そのため、現代の子どもは、大人が大人のために作った空間の中で、常に大人に監視されながら生きざるおえなくなってしまっています。大人のための空間の中では、子どもに「子どもらしい行動」をされたら、大人が困るからです。そんな子どもたちが子どもらしさを発揮出来るのは、「子供用」として与えられた小さな空間か、ゲームの中だけです。でも、子どもの頃に「子どもらしさ」を否定されて育った人は、大人になっても「自分」を肯定出来なくなってしまうのです。なぜなら、子どもも大人になれば価値観は変わるのですが、「否定された記憶」の方は子どもの頃のまま消えないからです。その結果、「子ども」を否定する社会では、「自分を否定する大人」ばかりになってしまうのです。そして、そのような状態の人は積極的に子どもを否定します。自分を肯定出来ない人は他者も肯定出来ないからです。確かに、最初に書いたように、「子どもの価値観」や「子どもが求めるもの」は大人のそれとは異なります。でも、同じものもあるのです。それは「幸せを求める心」です。子どもも「幸せ」を求めています。大人も「幸せ」を求めています。そしてその幸せは、「共に」という「つながり」のあるところにしかやってきません。「幸せ」は一人では実現することが出来ない状態だからです。どんなにお金を持っていても、どんなに毎日美味しいものを食べていても、孤独な状態の人の所には「幸せ」は訪れないのです。お母さんが子どもと一緒の状態に幸せを感じているとき、子どももお母さんと一緒の状態に幸せを感じているのです。子どもがニコッとしたときにお母さんもニコッと返してあげる。そんな時に、子どももお母さんも幸せを感じることが出来るのです。自分一人でどんなに頑張っても「幸せ」はやってこないのです。
2017.01.28
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私たちはいつも考えています。お勉強の時だけでなく、お料理を作るときも、歩いているときも、何もしていないときも、友達と遊んでいるときも、自分の生き方を決めるときも、いつも考えています。そして、自分の心の整理をしたり、答えや解決方法を見つけたり、行動の目的や方法を見つけたりしています。その連続がその人の「人生」になるわけですから、人の人生は、「その人が考えたこと」の結果として生まれてくるものです。ですから、上手に考えることが出来る人は幸せに生きることが出来るでしょう。でも、考え方が下手な人は、なかなか幸せに生きることが困難になってしまうでしょう。意識しようとしまいと、人は自分の「考え方」に支配されて生きているのです。でも、そんなにも大事なものなのに、その「考え方」も「上手・下手」も人それぞれです。また、「考え方」を学ぶ場もなければ、教えてくれる人もいません。学校でも教えてくれません。学校は「問題の解き方」は教えてくれますが、「考え方」は教えてくれません。「この問題はこうすれば解けるよ」ということは教えてくれますが、「どうしてそうやると解けるのか」は教えてくれません。だから応用力が育たないのです。「子育て」でも、「子育て書」や「ネット」には「こういうことを仕付けるときにはこうするといいよ」ということは書いてありますが、「どうしてそうするといいのか」までは書いてありません。だから応用が利かないのです。そして、「子育てがうまく行かないのは子どもがワガママだからだ」などというおかしなことを言う人まで出てくるのです。私の印象では、「子育て」に悩み苦しんでいる人の多くは、「方法」にばかりこだわり、自分の頭で考えようとしていません。本人は一生懸命に考えているつもりなのかも知れませんが、同じところをグルグルと回っているだけなら、悩んでいるだけで考えていないのです。「悩む」ということと「考える」という行為は全く異なるものなんです。そういう人に限って、すぐに「どうしたらいいんでしょうか?」と聞いてきます。でも実際には、人に教えてもらった方法をそのまま使ってもほぼ100%失敗します。機械の操作にはマニュアルが使えます。同じ機械なら、扱い方も同じだからです。でも、子どもは一人一人みんな違います。だから同じ方法は通用しないのです。だからといって、本を読むことや人の話を聞くことが無駄だということではありません。問題はそれを「正解」だと信じてしまうことなんです。「読んだこと」や「教えてもらったこと」の意味を考え、「自分で考えるヒント」としてその知識を使うなら、より素敵な子育てをする手助けになるのです。でも現代人は、その「自分の頭で考える」ということが苦手です。だからそれを理解し解釈することなく、そのまま使おうとしてしまうのです。現代人の生活の中には、「考え方」を学ぶことができるような場や機会があまりありません。「物語」や「お話」をいっぱい聞きながら育った子は、その「物語」や「お話」の中に含まれる「考え方」を「自分の考え方」として使うことが出来るようになります。幼い子どもはお母さんが語る「物語」や「お話」を通して「考え方」を学んでいるのです。そして、様々な遊びの中でその考え方を応用していきます。「ごっこ遊び」に使うこともあります。「なぜ?」「どうして?」ということを考えるときの考え方として使うこともあります。その時、お母さん(お父さん)が語ってくれる物語やお話だから子どもは素直にそれを信じ、自分の考え方の中に肯定的に取り入れるのです。文字を教え込まれ自分で読まされたり、テレビやDVDで見ただけでは、同じ物語やお話に触れても、子どもはそこから「大切なこと」を吸収出来ないのです。お母さんやお父さんの「声」を通して伝えられたことだから、子どもはそれを「大切なこと」として心の中に取り入れるのです。また、もう少し成長して自分で本を読むようになると、「本を読む」という行為が「考え方」を育ててくれます。学問的な難しい本だけでなく、物語や詩を読むことも必要です。でも、現代人はあまり本を読みません。仲間と協力し合いながら遊ぶときにも「考え方」は育ちます。みんなで仲良く楽しく遊ぶためには一生懸命に考える必要があるからです。また、何かを作ったり、からだを使って遊んだりするときにも「考える力」は育ちます。木登りをするときにもいっぱい考えているのです。そして、考えたことを実際にやってみることで、さらに考え方が進歩していきます。「考える力」を育てるためには、「お手本」と、「言葉や体験を通した学び」と、「助け合う仲間」と、「考えたことを実践する自由」が必要なんです。でも、今時の子にはそのいずれの要素も不足しています。もしかしたら、「考える必要がない生活」こそが現代人の「理想の生活」なのかも知れません。実際、便利な機械が普及すればするほど考える必要がなくなってきています。でも、それと同時に、人類発生以来のアナログ的な方法しか通用しない「子育て」がますます困難になってしまっています。
2017.01.27
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本来「物語」とは、声によって「語られるもの」であって「目で読むもの」ではありませんでした。「物語」が「語られるもの」ではなく、「目で読むもの」になってしまったため、物語が「伝えるもの」「つなぐもの」としての力を失い、単なる「心を楽しませるもの」になってしまったのです。「声」は「時間」と「空間」を創り出します。「無」の世界に「存在」を創り出します。また人は、「声」を通してその声を発する人の「意識」や、「心」や、「からだ」や、「生命」を感じることが出来ます。実は「人の声」自体が「つなぐもの」であり、「物語りを含むもの」なんです。「物語」は、その「声」によって語られることで「生命」を得、聞き手の心やからだの中に入り込むことが出来たのです。人と人とのつながりもその「声の力」に支えられていました。子どもたちも、「お母さんの声」に支えられて成長していました。お母さんの「声」が子どもの心とからだを育てる栄養にもなっていたのです。逆に、お母さんの尖った、固い声を聞くだけで、子どもの心とからだは傷つくのです。でも、文明の進歩と共に「声の力」は忘れられ、「物語」は「語られるもの」ではなく「目で読むもの」になってしまいました。そこにあるのは「つながり」ではなく「意味の世界」だけです。それと共に、物語から「つなぐもの」としての力が失われました。そして、「物語」は単なる「心を楽しませるためのもの」なりました。子育てにおいても、「声」は単に「意味を伝えるための道具」としてしか扱われなくなりました。今では7才前の幼い子どもたちにも文字を学ばせ、絵本なども自分で読ませている人がいっぱいいます。そのことで「知的な成長」を促そうとしているのかも知れませんが、7才前の子は「心」と「からだ」を育てている時期なので、いくら知的な働きかけをしても無駄です。教え込めば文字は覚えるかも知れませんが、そんなものすぐに追いつかれてしまいます。むしろ、「知的な働きかけ」に偏りすぎることで、「心とからだの育ち」の方が阻害されてしまう可能性の方が高くなります。すると単なる「頭でっかち」の子どもになるばかりです。また、お母さんとの間の「つながり」も育てることが出来ないまま子どもは成長して行ってしまうでしょう。7才前の子どもには文字を教えて自分で読ませるのではなく、是非、「お母さんの声」(お父さんの声でもOK)で語って聞かせてあげて欲しいのです。また、生活の様々なシーンで言葉で色々なことを語ってあげて欲しいのです。「あれやれ」、「これやれ」、「早くしなさい」ではなく、「今日のお空は真っ青だね」でも、「お風呂気持ちがいいね」でも、「アリさん何か運んでいるね」でもいいのです。お母さんがお母さんの声で語れば、それだけで「物語」が子どもに伝わるのです。
2017.01.26
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子どもはすぐに、「なんで?」「どうして?」と聞いてきます。その子どもの「なんで?」「どうして?」の対象は主に自然現象に対してです。それは「なんで雨が降るの?」「なんで毎日夜が来るの?」「なんでリンゴは落ちてくるの?」「なんで死ぬの?」などなどです。これは古代人の感性と同じなのでしょう。でも、大人になると知識が増えるので自然現象に対してはあまり「なんで?」「どうして?」と考えなくなります。その代わりに増えてくるのが人間関係における「なんで?」「どうして?」です。それは、「どうしてあの人はああいうことを言ったのだろう?」「どうしてあの人はあんなことをしたのだろう?」「どうして子どもは親の言うことを聞かないのだろう?」「どうして○○くんと△△くんは仲が悪いのだろう?」などというようなものです。そしてこれが現代の大人の感性なのではないかと思います。ただ、同じ「なんで?」「どうして?」という言葉なんですが、その両者の意味するところは同じではありません。科学の「なんで?」「どうして?」は「原因への興味」です。そして、大人の「なんで?」「どうして?」もどちらかというと「原因への興味」です。大人は「今」を理解するために「原因」を知りたがるのです。でも、直接的な「原因」が分かればそこで「なんで?」「どうして?」という疑問は消えます。「なんでリンゴは落ちてくるの?」「地球には重力という物を引っ張る力があるからよ」で話が終わってしまいまうのです。そしてほとんどの大人は、その先の「その重力ってなあに?」という所までは疑問が進んで行きません。でも、子どもはその先まで知りたがります。大人の「なんで?」「どうして?」は「知識」が終点なんですが、子どもの「なんで?」「どうして?」は知識を教えてもらっても終わらないのです。だから大人はいつまでも質問を繰り返す子どもに「もう、いい加減にしなさい」などと音を上げてしまうのです。では、どうして子どもの「なんで?」「どうして?」がなかなか終わらないのかというと、子どもは大人と違って「原因」が知りたいのではなく、「自分が生まれてきた世界の仕組み」が知りたいからなんです。「仕組み」が知りたくて「なんで?」「どうして?」と問いかけているのです。だから知識を教えるだけでは満足出来ないのです。子どもが色々なものを壊したり、分解して遊ぶのも「仕組み」への興味からです。お母さんが積み木を積むと、子どもは壊します。何回積んでも壊します。お母さんとしては「積み方」を教えたいのでしょうが、子どもは壊すことで仕組みが見えるのが面白いのです。その「仕組み」とは「つながり」のことでもあります。子どもが「どうしてリンゴは落ちてくるの?」と聞いてくる場合は、「リンゴが落ちてくる」という現象が、この世界とどうつながっているのかが知りたいのです。「熟したからよ」とか、「重力があるからよ」とか、「風が吹いたからよ」というのも一つの答えではありますが、でも、それは大人の視点に立った答えです。それに対して、この世界の仕組みとつなげてその問いに答えるとすると、「リンゴが落ちてくるのを待っているクマさんやタヌキさんがいるからよ」という答えも可能になります。「リンゴさんはクマさんに食べてもらって、種を遠くまで届けるのよ。そこでリンゴさんの子どもが育つの」という答えは、この世界の仕組みを子どもに伝えることが出来るのです。実は「物語」と呼ばれるものは、「この世界の仕組みを伝えるための方法」でもあるのです。様々な登場人物(存在)がどのようにつながり合っているのかを表しているのが「物語」でもあるのです。「物の世界の仕組み」は、「科学」で語ることが出来ますが、「生命を持った存在のつながりとその仕組み」は「物語」でないと語ることが出来ないのです。実は「物語」は、「科学」と対等の価値を持った存在なのです。そして子どもは「重力があるからよ」という知識を教えてもらうよりも、このように「物語」として「仕組み」を教えてもらう方を喜びます。自分と世界がつながっていることを感じることが出来るからです。
2017.01.25
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昨日は人間として「やってはいけないこと」、「やるべきこと」の大部分は「社会性」に関するものです。ですから、社会性のある関わりの中でないとそういうものを学ぶことは出来ないのです。大人が言葉でいくら説明しても、社会性のない状態の中で育っている子にはその言葉の意味や価値や必要性が理解出来ないのです。で終わってしまったのでその続きです。現代人は勝つか・負けるかにこだわります。負け組になること、落ちこぼれになることを恐れます。だから子どもを追い立ててしまうのでしょう。そのように考えている人は、自分が「自分の人生」の主役であることを知りません。そして、お金や、権威や、学歴や、権力や、豊かさや、テレビや、ゲームや、会社などに依存して生きようとします。「お金」に依存して生きている人の頭の中にあるのは「お金」が主人公の物語です。そして「自分」は、その「お金」が主人公の物語の中の単なる一登場者に過ぎないと考えて生きています。だから必死になって他の登場者と競争せざるおえないのです。現代は競争社会ですが、「自分が自分の人生の主人公なんだ」という自覚があったら、競争などに振り回されないのです。これは、権威や、学歴や、権力や、豊かさや、テレビや、ゲームや、会社などでも同じです。「ゲーム」に依存している子どもは、「ゲームが主人公の物語」を生きているのです。だから自分の人生を犠牲にしてまでゲームや会社に尽くそうとしてしまう人が出てきてしまうのです。因みに「ゲーム」の一番大きな問題点は、「依存性が強い」ということです。今、テレビなどでも「カジノ」が話題になっていますよね。そして、「依存症をどうするか」という議論が出ていますよね。でも、基本的には「ゲーム」も「カジノ」と同じような影響を子どもに与えているのです。でも、マスコミはあまりそれを問題にしません。経済の活性化につながっているからなのでしょう。「お金」が主人公の物語を生きている人は、当然自分の子どもにも、「自分たちはお金が主人公の物語を生きているんだ」ということを教え込もうとします。学歴に依存している人は「自分たちは学歴が主人公の物語りを生きているんだ」ということを教え込もうとします。そしてより「主人公」に近づくための競争に子どもを追い立てます。でも、そのような物語の世界では、子どもがどんなに大金持ちになっても、東大を出ても、決して自分自身が「主人公」になることは出来ません。本当は貧乏でも、学歴がなくても人はみな「自分だけの人生」を生きているのですから、一人一人みな「主人公」のはずなのですが、でも、何かに依存した生き方しか出来ない人は、主人公として生きる喜びを感じることが出来ないまま、奴隷や使用人のような意識で生きることになります。そして死ぬ間際になって「自分の人生は一体何だったんだろう」と後悔するのです。皆さんも「生まれてきて良かった」という人生を生きてみたいとは思いませんか。子どもにもそういう人生を生きて欲しいですよね。そのためにはまず、自分が「自分の人生」の主人公になる必要があるのです。
2017.01.24
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「子どもを育てる」ということは、子どもが自分の人生を「自分の物語」として生きることが出来るようにしてあげることでもあります。そのためには、まず子どもが「自分が主人公なんだ」という自覚を得るようにする必要があります。それを「お母さん」や「ゲーム」や「テレビ」を「物語の主人公」にしてしまったら、子どもは自分の人生を「自分の物語」として生きるのが困難になってしまいます。そして、子どもが「自分が主人公なんだ」という自覚を得るためには、親や周囲の大人が子どもの意思を尊重してあげる必要があります。ただし、「意思を尊重する」といっても「好き勝手にさせる」ということではありません。好き勝手を許されたら、子どもは「自分は重要な役柄じゃないんだ」と思い込むようになってしまうだけだからです。そして結局は「嫌われ者」の役しか出来なくなってしまうでしょう。「主人公」のような重要な役柄には重要な責任が伴うものなんです。だからそういうことを教えてあげる必要もあります。その「重要な責任」を伝えられることで、子どもの心に「主人公としての自覚」が生まれてくるのです。長男に長男としての責任を与えることで、長男としての自覚が生まれるのと同じです。(長女も同じ)まず子どもは、この世界には「やってもいいこと」と「やってはいけないこと」、そして義務として「するべきこと」があることを知る必要があります。そのこと自体はほとんどのお母さんが知っているし、子どもにも伝えようとしていると思いますが、問題はその「伝え方」です。多くのお母さんが「○○はやっちゃダメって言ってるでしょう。ちゃんと○○しなさい。全く何回言ったら分かるの」というような言い方で、子どもに「やってはいけないこと」と「やるべきこと」を強制的に教え込もうとしていますが、これは召使いや奴隷に対するやり方と同じです。子どもの自尊心を傷つけるようなやり方は「主人公を育てるやり方」ではありません。じゃあどうしたらいいのかということですが、遊びや仲間との関わり合いを通してそういうことを自分の力で学ぶことが出来るような「遊び」や「仲間との関わり合い」の場を作ってあげるのも一つの方法です。人間として「やってはいけないこと」、「やるべきこと」の大部分は「社会性」に関するものです。ですから、社会性のある関わりの中でないとそういうものを学ぶことは出来ないのです。大人が言葉でいくら説明しても、社会性のない状態の中で育っている子にはその言葉の意味や価値や必要性が理解出来ないのです。すみません、時間がなかったのであとは明日書きます。
2017.01.23
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自己肯定感が低かったり、自分に自信がない人の多くが、自分の心を嫌い、自分の心を変えたがっています。でも、そのほとんど全てが失敗していると思います。そして失敗することで余計に自己肯定感や自信を失っています。どうして失敗するのかというと、「自分の心」を変えようとしているのが「自分」を信じていない「自分の心」だからです。これは対人関係でも同じですが、人は自分を信じてくれていない人の言葉は受け入れないのです。じゃあ、どうしようもないのかというと、そういうことでもありません。「心」で「心」を変えることは出来ませんが、別の方法なら変えることが出来るからです。その一つは「からだ」を変えることです。「心」と「からだ」は一つのものなので「からだ」が変われば必然的に「心」も変わるのです。気質も変わります。基本的に気質はしつけや教育では変わりません。子どもの憂鬱質的な状態を変えようとして叱ったり、叩いたり、諭しても無理なんです。そんなことをしたら、子どもは余計に憂鬱的になるばかりです。でも、「からだ」が変わることで同時に「気質」も変わることがあります。思春期や、妊娠出産や大病といった出来事でからだの状態が変わり、それに伴って気質も変わってしまうことがあるのです。これは受け身的な変化ですが、ヨガや整体などという方法でからだを変えることで、能動的に気質を変えることも可能です。ただし、ちゃんとした指導者が必要です。自己流では何も変わりません。自分の考えでやっても同じ事の繰り返しにしかならないからです。ちなみに、この場合の「からだを変える」というのは「心とからだの関係を変える」ということです。「心とからだの関係」が変わると「自分」が変わります。すると、世界も変わります。「からだ」を変える以外にも「心を変える方法」はあります。それは、「自分の思い込みが創り上げた物語」を変えることによって可能になります。そして、「思い込みの物語」を変えるためには、気づきが必要になります。気づきを得るためには視点の切り替えが必要になります。「自分」という視点だけでなく「子ども」という視点で見たり、異性やパートナーの視点で見たり。自分の親の視点で見たり、外国の人や過去の人の視点で見たりするのです。「木」の視点に立って人間を見ると、「人間」として見ている世界とは異なった世界が見えてきます。「今まで見えていなかったものが見えるようになる」ということは、「新しい登場人物」が自分の物語に登場したということです。そして、「新しい登場人物」が登場すれば必然的に「自分の物語」は変化するのです。
2017.01.22
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学校に行けなくなってしまった子は「学校と自分をつなぐ物語」を失ってしまった子です。そういう状態の子に「学校行かないと・・・」というような否定的な物語を押し付けたら当然のことながら逆効果になります。昔の子は今の子よりも「大人になったらやりたいこと」がいっぱいあったような気がします。また「大人になりたい子」も多かった気がします。私自身も早く大人になりたかったです。そして、学校を「大人になるために必要なもの」と理解していたような気がします。ですから、子どものその「やりたいこと」を実現するための物語の中に「学校」が自然に組み込まれていたのです。でも、最近の子どもはどうもあまり「大人」になりたくないようです。「大人」や「大人の世界」に魅力を感じなくなってしまったのでしょう。そういう状態の子は「学校」を肯定的に「自分の物語」の中に取り込むのは困難です。子どもたちに聞いても、「学校は嫌いだが、友達がいるから学校に行く」というように答える子は多いです。そこにあるのは「友達との物語の場としての学校」があるだけで、「学校」そのものは「子どもの物語」の中からは消えてしまっているのです。ですから、「友達との物語」を作ることが出来なかった子は学校に行く理由を失ってしまうのです。結婚するということは、パートナー同士が同じ「物語」を共有するということです。そして、「物語」を共有出来なくなったとき、離婚の可能性が生まれます。自殺は、自分の「人生の物語」が終わってしまったことを感じた人が行う行為です。「引きこもり」は「自分と社会をつなぐ物語」を得ることが出来なかった子が陥りやすい状態です。そんな時に、倫理道徳的な価値観で説得しても全く無意味です。「常識」や「頭で考えただけの論理」には、「物語」の役割を果たすことが出来ないからです。そして、どんな物語にも「始まり」があります。一人の人間の物語は「おぎゃー」と生まれたときから、いやもっといえば、妊娠が発覚したときから始まります。そのまま「産まない」という選択をされてしまう子もいますから。まず、「親がどういう気持ちで妊娠と子どもの誕生を受け止めるのか」ということが「子どもの物語」の出発点を決めます。親の基本的な役割は「保護すること」と、「(お手本になって)導くこと」と、「(子どもが知らないことを)教えること」の三つです。そして、この三つが揃った状態の中で育っている子は、「未来へとつながる自分の物語」が作りやすくなります。でも、世話をしてくれていても守ってくれないと、子どもは自分を守ることだけに精一杯になってしまいます。そのため、「未来」のことを考える余裕を失い、自分の物語が作りにくくなります。口で「ああしろ、こうしろ」と言うばかりでお手本になって導いてくれないと、「人としてのあり方」を学ぶことが出来なくなり、「自分勝手に生きる物語」は作ることは出来ても、「人と人とのつながりの中で物語を作る能力」は育ちにくくなります。世界のこと、自然のこと、昔のこと、生命のことなど、「体験だけでは分からないこと」を教えてもらえないと、子どもは「真・善・美」につながる物語を作ることが困難になります。最後の物語はなくても苦しくはありませんが、前の二つの物語を作ることが出来ないと生きるのが困難になります。
2017.01.21
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「生命」というものを持っていない全ての存在の動きやつながりを支配しているのは物理法則と呼ばれる働きです。一般的に化学は物理学とは違う扱いを受けていますが、化学的な現象の背景にも物理的な現象があります。ただ、原子や分子レベルのミクロな現象であるため物理的な現象のようには見えないだけです。月の動きも、波の動きも物理学で説明することが可能です。でも、「生命あるもの」の行動は物理学では説明出来ません。全く役にも立ちません。そのため、科学の対象にもなりません。「子育て」も科学では扱えません。ロボットは科学理論に基づいて作ることが出来ても、子どもは科学理論では育てることが出来ません。実は、私たち現代人は「物」を扱う理論は持っているのですが、「生命」を扱う理論は持っていないのです。実は、「生命」を扱うことが出来るのは、「物語」だけなんです。なぜなら、「物語」だけが「時間」を扱うことが出来るからです。「生命」は、過去、現在、未来といった時間の流れの中にまたがって同時に存在しているので、「時間」を扱うことが出来ない方法では扱うことが出来ないのです。「今の私」は、過去、現在、未来にまたがって同時に存在しているのです。だから「今」を変えれば必然的に「未来」も変わるのです。また、過去に苦しみ、未来に不安や希望を感じるのです。でも、「物」には「今」を変える力はありません。「苦しみ」もなければ「希望」もありません。ただ時間の流れに流されるだけです。でも、現代人は「物語」の真の姿やその力を知りません。「物語」に支配されて生きているのに、「物語の力」を知らないのです。そのため、「物」を扱うことに慣れた現代人は「生命あるもの」も「物」のように扱っています。実際、政治や経済の世界では、人や生き物は「数」として扱われていますが、「物」だから「数」に換算することが出来るのです。それは、時々テレビのCMなどでも言われている、「森の木を切っても同じ数だけの木を植林すればOK」という考え方にも表れています。それは「時間」を無視した考え方です。また、「子育て」や「教育」の分野でも、「子どもの肉体」や「子どもの能力」や「子どもの知能」を育てようとしていますが、これも「物」を扱うときの発想と同じです。実際、機械などを作るときには同じような考え方をします。でも、元々、「一つの生命の働き」に支えられ、「一つのもの」として存在しているものを別々のパーツに分けて扱おうとすれば、個々の機能は優秀になったとしても、全体を支える調和やバランスが崩れてしまい、結局それらの機能を充分に発揮出来なくなってしまうのです。レスラーが、試合の時に使う筋肉を個別に鍛えてもそれだけでは強くなれません。それらの筋肉を統合して使いこなす能力が育っていなければ、どんなに立派な筋肉を持っていても試合では勝つことが出来ないのです。そして、その「全ての筋肉を統合して使いこなす能力」が育つのが実践の場です。また、実践を繰り返しているうちに「必要な筋肉」は必要な分だけ育っていくのです。個別に育てなくても、人の能力は必要に応じて育つように出来ているからです。これは子どもの育ちでも同じです。子どもにとっては「遊び」こそがその「実践の場」なんです。そして同時に遊びが「学びの場」でもあるのです。だからこそ「多様な遊び」が必要になるわけです。同じ遊びばかりでは決まった能力しか育たないのです。そして、人類発生以来、子どもたちは自分たちの成長欲求に従って多様な遊びを創り出してきました。筋肉が成長しつつある子どもたちはからだを動かしたくてウズウズしています。だから、からだを動かす遊びを考え出しました。それは例えば、鬼ごっこや、木登りや、コマ遊びのようなものです。記憶力が成長しつつある子どもたちはその記憶力を使った遊びを考え出しました。それは例えば、「しりとり」や「逆さ言葉遊び」のようなものです。自分を表現する能力が育ちつつある子どもたちは「表現遊び」を考え出しました。それは例えば、「劇遊び」や「歌ったり踊ったりする遊び」のようなものです。創る能力が育ちつつある子どもたちは「創る遊び」を考え出しました。心が育ちつつある子どもたちは物語の世界で遊びました。社会性が育ちつつある子どもたちは一つの目標に向かってみんなが助け合うような遊びを考え出しました。それは例えば、「基地作り」のようなものです。ですから、子どもが今どのような遊びに夢中になっているのかを見れば、今子どもの中でどういう能力が育っているのかが分かります。そして、子どもの状態に合わせて遊びを提示すれば子どもは夢中になって遊びます。そしてそれが子どもの成長を支える力にもなります。でもその時に必要なのは、そこに「物語」が含まれているかどうかなんです。たとえば、コマに夢中になって遊んでいる子どもは「物としてのコマ」で遊んでいるわけではないのです。「コマが持っている物語」の中で遊んでいるのです。だから、その「物語」を楽しめない子はコマに興味を示さないし、やってもすぐに飽きてしまいます。
2017.01.20
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人類は一人の人間を含んでいます。そして、一人の人間は人類を含んでいます。大人は子どもを含んでいます。そして、子どもは大人を含んでいます。でも、一人の人間=人類ではありません。子ども=大人でもありません。このような考え方は、科学的、論理的には間違っています。A>B でB>C なら科学的、論理的には A>C になるはずだからです。ですから、科学を生み出した西洋哲学ではこのような考え方はしません。でも、現実の世界は科学の論理通りには出来ていないのです。子どものいたずらクイズに電線にスズメが10羽とまっていました。そこに猟師が来て鉄砲で一羽打ち落としました。さて、電線に残っているのは何羽でしょうか?というものがあります。科学的、数学的な答えとしては「10-1」で残りは9羽ですが、子どもが言う答えは「0」です。なぜなら、鉄砲の音に驚いて、撃たれなかったスズメたちも飛び去ってしまったからです。バケツにザリガニが一匹います。そこにもう一匹ザリガニを入れました。さて、バケツの中には何匹のザリガニがいるでしょうか?という問題も同じです。科学的、数学的には「2」ですが、現実の世界での答えは不明です。共食いして「1」になっているかも知れませんし、カラスが来て全部食べてしまって「0」になっているかも知れません。これは現実に我が家で起きた出来事です。なぜ、科学や数学や論理的な考えが「現実」を説明出来ないのかというと、「時間」というものが考慮されていないからなんです。でも、現実の世界には「時間がない場所」などありません。「時間が止まる」ということもありません。だから、「時間による変化」というものを考慮していない科学的、数学的な考え方を、そのまま現実の世界に持ち込んでも「現実」を説明することは出来ないのです。でも、「物語」という方法にはその「時間」が組み込まれています。一粒の種を植えても、数学的にはズーッと一粒のままです。でも、そこに「時間」という要素を加えて「物語」として理解するなら、その一粒は数え切れないないほどの数になってしまうかも知れません。現実に起きていることは「物語」としてなら簡単に説明出来るのですが、科学でこの問題を扱おうとすると、植物学、気象学、数学など様々な要素が関係してきてしまうので話しが複雑になります。それでも、普通の人の頭で納得する答えを得るのは難しいでしょう。でも、私たちが生きているのは「時間」というものが存在していない「科学的な世界」ではなく、「時間」が存在している「物語的な世界」なんです。でも現代人は、「物語」としてこの世界を見る方法を失ってしまいました。だから「子ども」と「大人」を分離し、人間と他の生き物を分離し、生命あるものと生命のないものを分離し、見えるものと見えないものを分離してしまっているのです。そしてだから「本当のこと」が見えなくなってしまっているのです。
2017.01.19
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私は仕事柄、「子育て」の相談をよく受けますが、お母さん達の話をよく聞いていると、「子どもの問題」だと思い込んでいたことの大部分が、実は「お母さん自身の問題」であることが明らかになってきます。子どもはただ「お母さんの状態」や「お母さんとの関係」を、自分の心やからだの成長の状態や行動として表しているのに過ぎないからです。お母さんがイライラすれば子どももイライラします。お母さんが自分のことしか考えなければ、子どもも自分のことだけを考えるようになります。お母さんが我が子のことしか見ていなければ、子どもも自分のことしか見なくなります。お母さんが簡単便利を求めれば、子どもも簡単便利を求めます。お母さんが刺激を求めれば、子どもも刺激を求めます。お母さんが楽を求めれば、子どもも楽を求めます。それだけのことです。お母さんがそんな子どもの状態を見て「嫌だな」と感じてもそれはどうしようもないのです。その時、子どもだけを変えようとすると、親子の間に溝が出来て、親子の良好な関係を築くことが困難になります。子どもを変えたいと思うのなら「一緒に変わろうとする努力」が必要になるのです。そしてそれはまた、自分自身の子ども時代と向き合うことにもなります。お母さんは(お父さんもですけど)、子育てをするときには「自分の中の子ども」と向き合う必要があるのです。そして、「目の前の子ども」と「自分の中の子ども」の両方を育てるようにするのです。両方を受け入れ、両方を抱きしめ、両方の声に耳を傾けるのです。その時、子どもと大人である自分との境が消えます。すると、「大切なこと」がお母さんから子どもへと伝わっていくのです。また同時に、「子どもの中の大人」も意識して、子どもを「子どものくせに」などと思って、支配したり、指示や命令でコントロールしないようにすることです。子どもの頃の体験が大人になってもその人の意識や無意識を支配しているのだとしたら、「目の前の子ども」は「大人になった自分」と同じ存在なのです。「子どものくせに」と否定されながら育っている子は、肉体的には大人になっても精神的には大人になることが出来ないまま大人になってしまうのです。だから、今はたとえ「幼い子ども」であっても、「一人の人間」として、尊重し、肯定してあげる必要があるのです。それがまた「自分を大切にすること」でもあるのです。ただしそれは子どもを好き勝手にさせると言うことではありませんからね。「自分の命や文化や想いを継ぐ者」として正しく導いて上げる必要はあるのです。
2017.01.18
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私たちは「土」と「水」と「空気」から生まれました。だから私たちの「生命」や「からだ」を支えるためには「土」と「水」と「空気」が必要なのです。そしてまただから、「土」や「水」や「空気」を汚してはいけないのです。私たちの「生命」や「からだ」は「土」や「水」や「空気」に支えられているので、「土」や「水」や「空気」が汚れれば、私たちの「生命」や「からだ」も汚れるからです。また、「生命あるもの」は死して「土」や「水」や「空気」に還ります。山や、川や、海の栄養分は、みな「生命あるもの」が存在した証です。地球に「生命」が誕生しなければ、「土」も生まれなかったのです。「水」自体は最初からあったようですが、生き物が生息出来る水は生命が創り出したものです。酸素は植物が作りだしています。ですから、「生命あるもの」と「土」や「水」や「空気」は支え合う関係になっています。生き物には元々「オス」・「メス」はありません。でも、過去のある時期、「オス・メス」があった方が生き延びる可能性が高くなる」と直感した生き物がいたようで、自分たちの生命の形を「オス」と「メス」という二つに分けて伝えるようになった生き物が生まれました。最初はミミズのように条件によって雄になったり、雌になったりして雌雄の区別も曖昧なものだったのかも知れませんが、次第に「雄」と「雌」がはっきりと分かれる種も出てきました。これらの生き物は「オス」だけでも「メス」だけでも命をつなぐことが出来ません。「オス」と「メス」のセットでその「種」なんです。「人間」もその一つです。中には植物のように、一つの個体の中に「オス(おしべ)」と「メス(めしべ)」の両方の性を持っている生き物もいます。ですから、「オス(男性)」と「メス(女性)」はもともと補い合う関係として生まれてきたのです。そこには上下はありません。競争したりする相手でもありません。人間の男女は時に敵対関係になってしまいますが、でも、元々は男性と女性は「補い合う関係」として生まれているので、相手を非難したり、おとしめたり、罵るような行為は、結局自分自身に還ってきてしまうのです。そして、子どもは「世代を受け継ぐもの」であり「次世代の大人」ですから、大人と子どもも「補い合う関係」にあります。ですから当然そこに上下はありません。大人がいなければ子どもは存在出来ませんが。子どもがいなければ大人も存在出来ないのです。だから、相手が何も知らない、何も出来ない子どもであっても、非難も否定もせず、自分のことのように相手を尊敬する必要があるのです。
2017.01.17
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この宇宙に存在しているものはすべて常に変化しています。一つとして「変化していないもの」は存在していません。でも、おかしな言い方ですが、「変化しながらも変化しないもの」もあります。それは例えば、私たちの「からだ」や、「生命」や、「地球」といったような「恒常性を持ったシステム」です。そして、その「恒常性」は「循環」によって支えられています。常に変化しているものでも、その変化がある種の「パターン」の中で循環する時、それは「変化しない形」として存在出来るようになるのです。そしてその「パターンを創り出す働き」は、物理法則と同じように「私たちが生きているこの宇宙を支えている働き」の一つなので、それ自体を直接観察することは出来ません。物が落ちる姿を見ることは出来ても、「重力」それ自体を見ることは出来ませんよね。雪の結晶を見ることは出来ても、雪の結晶を創り出す働きを見ることは出来ませんよね。それと同じです。(「神様」と呼ばれるものもそのような働きの一つだと考える人もいます。)その「パターンを創り出す働き」自体は物理的な存在ではありませんが、でも、そのパターンは「物理的な存在」によって作られているものなので、「パターンを作り出す働き」から生まれたものも一つの「存在」としてこの世界に存在することができます。「生命」と呼ばれるものもその一つです。だから肉体は見えても、肉体を動かしている「生命の働き」の方は見ることが出来ないのです。そして、「恒常性」と呼ばれるものは、「変化するもの」を循環させることで「変化しないもの」(パターン)を創り出すシステムなのです。私たちの「からだ」もその恒常性によって支えられています。私たちのからだを構成している細胞は、常に入れ替わっています。以下の日数は一つの説ですが、数日の違いはあっても、結局1年以内には全ての細胞が入れ替わっていることには変わりがないようです。・皮膚は 28日・胃腸は 40日・血液は 127日・骨は 200日・肝臓・腎臓は 200日 だから、一年経ったら、私たちのからだの全ての細胞は入れ替わってしまうのです。それでも「私」が「別の人」になるわけではありません。見た目も内容もほとんど同じです。それは部品が更新されても全体のパターンは維持されるように「生命」と呼ばれる「恒常性を維持する働き」が整えているからです。皮膚がアカとなって剥がれても、皮膚は再生します。病気で熱が出ても、治れば熱は下がります。ケガをしても治ります。運動して心臓がバクバクしてもしばらくすれば落ち着きます。これが「恒常性を維持する働き」です。その「恒常性を維持する働き」は、「アクセル」と「ブレーキ」のように、相反する働きの組み合わせで出来ています。病原菌が体に入れば、病気になって体温があがりますが、でも、病原菌が体温を上げているのではなく、自分の「生命の働き」が「自分のからだ」を守るために体温を上げているのです。だからむやみやたらに解熱剤で熱を下げてはいけないのです。でも、病原菌が死ねばまた体温は元に戻ります。生命の働きは、「体温をあげる働き」と「下げる働き」という相反した働きをうまく使って体温と生命の恒常性を維持しているのです。地球上の水も、太陽の熱で水蒸気で上昇したものが冷えて雨や雪となって降りてきます。水を「空中にあげる働き」や「地上に降ろす働き」といった相反する働きが、「水」を地球上に留めたり、地球上の生き物たちの生命を支えているのです。気質もまた同じです。実は「気質」は「恒常性を維持するための働き」の要素を象徴化したものでもあるのです。胆汁質的な働きが水を「熱」の働きで上にあげ、「風」という多血質的な働きが「それ」を拡散し、憂鬱質的な働きが「それ」を集め「水」や「氷」の固まりにして地上に落とし、粘液質的な働きが「それ」を集め川にして海に戻します。だからこの「四つの働き」がうまく補い合わないと、地上から「水」も「生命」も消えてしまうのです。これが、「気質」が単なる「性格分類」とはことなる由縁です。まず「全体」から話が始まっているのです。
2017.01.16
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私は「全てのものは補い合う関係にあるのではないか」という仮説を持っています。この宇宙は「存在しない」状態から生まれたとされているので、「存在」と「非存在」は「補い合う関係」にあるはずです。また、「-」が生まれれた時に「+」も生まれたように、存在するもの同士もお互いに補い合っています。「-」ばかり集めたり「+」ばかり集め、その部分しか見なければ、「対立」ばかりが起きていて「補い合い」は存在しないように見えますが、それは「全体」を見ずに、「偏った部分」だけを見ているからそう見えるに過ぎません。「目に見える世界」は全て「目に見えない世界」から生まれたので、「目に見える世界」と「目に見えない世界」は補い合っています。その「目に見えない世界」とは物理法則や、生命の働きや、人の心や、感覚の働きなどです。時間や空間も目には見えません。人の家に行ってその家の外や中を見ると、その「目に見えるもの」を通して、目には見えないその家の住人の「心」が見えてきます。他にも、「神様」や「霊的な働き」といった言葉で表されて来たような、何かしら「科学では説明出来ない働き」もあったのかも知れませんが、いずれにしてもそれらも「目に見えない世界」の存在です。受精卵は細胞分裂を繰り返して、生き物の形になっていきますが、最初はたった一つの細胞に過ぎません。ですから、そこには「目」も、「鼻」も、「手」も、「足」も、「脳」も、「心」もありません。たった一つの細胞が分裂を繰り返しながら、そういうものが生まれてくるのです。だから、「目」、「鼻」、「手」、「足」、「脳」、「心」といった「人間を構成する要素」はお互いに補い合うように出来ているのです。子どもはお母さんとお父さんのつながりの中で「生命」を授かり、お母さんのからだから産まれてきます。だから、子どもとお母さんは補い合う関係になっているのだし、子どもの成長にはお父さんも含めた全体性が必要になるのです。子どもの成長にはお母さんやお父さん(「その役割を果たす存在」という意味です)が必要ですが、同時にお母さんやお父さんの「人間としての成長」にも子ども(ここもまた「その役割を果たす存在」という意味です)が必要なんです。胆汁質・多血質・憂鬱質・粘液質といった「四つの気質」もまたお互いに補い合う関係になっています。この四つの働きが補い合わないことには「全体」を支えることが出来ないのです。ですから、「どれが一番素晴らしい」とか「どれが一番劣っている」などということは全くないのです。「西洋的な考え方」と「東洋的な考え方」も同じです。「科学」と「宗教」も同じです。「男性」と「女性」も同じです。でも、「助け合う」ことよりも「競争」に囚われてしまった人達は、そこに優劣の基準を作ります。優劣の基準がなければ競争することが出来ないからです。その結果「対立」が生まれます。でもその「対立」は「全体の崩壊」へとつながるばかりです。
2017.01.15
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私の話は「子育て」だけでなく、あれこれ色々なところに飛んでしまうので、お読みいただいている方の中には「この人はいったい何を言いたいのだろう」と思われるかもしれませんが、私は一つのことだけを専門に考えるのが苦手なんです。というか、私が興味あるのは「全体から切り離された部分」ではなく、「全体そのもの」であり、「全体を支えているつながり」や「部分と部分の関係性」の方なので、必然的に話しがあちこち飛んでしまうのです。私は、「子育て」とか「からだ」というテーマで多く考えたり、書いたり、実際に様々な活動をしていますが、だからといって私は「子育て」や「からだ」の専門家ではありません。単に、「子育て」や「からだ」というテーマが、「全体」や「つながり」ということの大切さが一番現れやすく、また一番実感しやすい分野だから、それらの分野について一番多く考えたり、活動しているに過ぎません。「人間」は「個人」という「部分」の集合体ではありません。先ず先に「人間」という全体があって、その全体を支えるものとして「個人」が存在しているのです。(だからといって「個人は全体に従うべきだ」ということではありません。このような考え方は「個人」と「全体」を分けた考え方です。私が言いたいのは「自分だけの幸せを求めても、幸せにはなれませんよ」ということです。)「全体」と「部分」の関係は、「私」という存在と「手」や「足」の関係と同じです。「手」や「足」といった部分が集まって「私」が出来上がっているのではなく、「私」という存在を支えるために「手」や「足」が存在しているのです。ですから、「私」が死ねば必然的に「手」や「足」も死にます。そして、部分同士が「幸せな関係」でつながり、支え合っている時に、「全体」は一番生き生きとするのです。また、「全体」が生き生きとすれば「部分」も生き生きとします。お母さん、お父さん、子どもたちといった家族の一人一人が「幸せな関係」でつながっているときに、その家族は生き生きとし、また、家族の一人一人も生き生きとするのです。社会とのつながりも大切です。それを個別に切り離して、「子どもの幸せ」、「お母さんの幸せ」、「お父さんの幸せ」ばかりを求めていたらいつまで経っても自分自身も、また他のみんなも幸せになることは出来ないのです。でも一般的に、専門家と呼ばれる人達は、その対象を「子ども」や、「母親」や、「父親」に限っています。だから「専門家」なんですが、でも、専門家は「全体」を見ようとしないので、対症療法しか出来ないのです。「子育て」で大事なのは、「子どもの育て方」ではないのです。「子育て」で大事なのは、「子どもとの幸せな人間関係の作り方」なんです。これが出来ていれば、子どもはその「つながり」を通してお母さんやお父さんから色々なものを吸収し、自分の力で育っていくのです。「気質」の学びは、子どもとの間に「幸せな人間関係」を築く手助けになります。(茅ヶ崎で毎月、気質の連続講座をやっています。今月は明日です。)「からだの使い方」で大事なのは、「手や足の使い方」ではなく、「手や足とのつながり」を取り戻すことなんです。幼い子どもたちは、手や足が一つにつながった「からだ丸ごと」の状態で動いています。でも、成長して、頭でからだをコントロールするようになると、「手」や「足」を道具として使うようになります。すると、「手」や「足」が「全体」から外れ、「自分という存在を支えるもの」ではなくなり、からだ全体がバラバラになってしまうのです。ちなみに、心を込めて丁寧に動いているときには「からだ」が一つにつながり、丸ごと動くことが出来ます。ポイントは「頭でからだを動かす」のではなく、「心を込めて動く」ということです。でも、簡単便利を求める現代人はこれが苦手です。「心を込める」ということの「意味」や「大切さ」も通じなくなってしまっています。また大きな問題として、「つなぐもの」は目には見えないということがあります。科学的に調べることも出来ません。たとえば、「人間」は、「心」や、「からだ」や、「意識」や、「手」や、「足」や、「胴体」などの様々な部分で出来ていますが、それらを一つにまとめ、「私」という存在を支えるようにつなげてくれているのは「生命の働き」です。「私」という存在がある以上、「私」を支えてくれている「生命の働き」が存在していることは間違いないのですが、でも、その「生命の働き」は見ることが出来ないのです。科学的に調べることも出来ません。だから、忘れられてしまうのです。
2017.01.14
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科学は物事を分けて考えることで成り立っています。科学だけでなく、学問と呼ばれるものもそのほとんど全てが「物事を分けて考える考え方」で作られています。そして、現代人は「物事を部分や要素ごとに分けて考える考え方」だけを教えられて育っているので、日常生活でも「分けて考える考え方」で物事を見るようになってきました。(でもそれがちゃんと出来ていないからグチャグチャになってしまっているのですけど・・・)医学は「肉体」を「生命の働き」から切り離しました。さらに、胃や腸や心臓をバラバラの臓器として扱うことで、それぞれの研究を行い治療法を開発してきました。心とからだを分離して、それぞれ異なった専門家が扱うようになりました。人間と動物、植物を分離してそれぞれの特性を研究してきました。自分と他人を分離して、自分について、人間について考えるようになりました。子どもと大人を分離し、正常者と障害者を分離して、若者と老人を分離して、それぞれの研究をするようになりました。人間も、動物も、生態系も、機械も、地球も、様々な部品や要素の集合体として扱われるようになり、それぞれの専門家が生まれました。「専門家」とは、その「分けられたもの」を個別に扱うプロのことです。「部分」だけを専門に扱っているから専門家なんです。ですから、それらをつなげて全体を扱う人は「専門家」とは呼ばれません。職業としても成り立ちません。例えば、世の中には「お掃除のプロ」がいます。「お料理」や「しつけ」や「洗濯」のプロもいます。でも、日常的にそういうものを全部一人でやり、素敵な家事や子育てをしているお母さんは「専門家」とは呼ばれません。一つのことしか出来ない専門家よりもすごいことをやっているのに、社会的な扱いとしては専門家よりも下になってしまうのです。おかしな話しです。学校では算数や国語や歴史などを教えてくれます。でも、そういうものをつなげて考えることが出来なければ、その学んだことは、その人の「考え方」や「生きる力」を育てる力にはなりません。世界のことや、人類のことや、自分のことや、本当のことを理解する助けにもなりません。ただ試験やクイズの時に役に立つだけです。胃や、腸や、神経や、脳や、血管や、細胞や、骨の研究を全部寄せ集めても、それら全部をつなげて考えることが出来なければ「人間」というものの本質は理解出来ません。でも、現代人は「物事をつなげて見る方法」を失ってしまいました。現代人は、自分と他人を分離し、子どもと大人を分離し、自分の国と他の国を分離し、人間と他の動物を分離し、人間を大地や自然から分離する考え方しか知りません。だから、「全体」が狂いだし、その「全体の狂い」が「部分」に影響を与え、私たちの目に見える問題として表れているのですが、大元の「全体」が見えていないので、その「部分」の問題がどこから生まれているのかが分かりません。そのため対症療法でしか対応することが出来ません。でも、全体が崩壊してしまったら、その対症療法も役に立たなくなってしまうのです。親ガメがこけたら、その上に乗っている子ガメがどんなに踏ん張ってもどうしようもないのです。患者を診ずに病原菌だけを見て、「病原菌は全部殺しましたが、患者も死にました」では何の意味もないのです。古来から、その「物事のつながり」を知る方法として「物語」という方法が受け継がれてきたのです。でも現代人は、物事のつながりを教えてくれる「物語」を捨て、物事を分離し、効率的に対象を扱うことが出来る「科学」を取りました。ただし、これらはどちらの方が大切ということではありません。「物語」と「科学」の両方をうまく使い分けることが大切なんです。そのためにも、現代人は「物語」という方法を想い出す必要があるのです。子育ても「物語」という方法で見たら、全く違ったものが見えてくるのです。そして、「子育てで大切なもの」も見えてきます。「子どもを育てる」と言うことは、「子どもの命の物語り」を育てることでもあるのです。
2017.01.13
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私たちの心やからだは、緩めようと頑張っても緩まないようにできているようです。逆に緩めようと意識すればするほど固くなり、動かなくなってしまいます。じゃあどうしたらいいのかというと、信じて任せるのです。信じて任せるから緩むのです。これは「からだ」だけでなく、子育てでも、仲間とのつながりでも同じです。また、信じて任せる対象は「自分」の場合も「他者」の場合もありますが、「自分」を信じることが出来ない人は「他者」も信じることが出来ません。緊張している相手に「緊張するな」と強く言えばよけいに緊張してしまうでしょう。でも、相手を信じて「自分を信じれば大丈夫だよ」と笑顔で言えば、緊張は和らぐでしょう。これは自分自身に対しても同じです。でもこの「信じて任せる」というのが非常に難しいのです。「みんなが輪になっている中を目を閉じて歩く」というワークがあります。自分は目を閉じて歩いていても、周囲には目を開けて自分を見守ってくれている仲間がいるのですから、理屈的には何にも怖がる理由などないのですが、それでも怖くなって足が動かなくなってしまう人も少なくありません。他の人がやっている時には、「自分は大丈夫」と気楽な気持ちで見ていても、いざ自分がやると、自分でもビックリするほど怖くなって動けなくなってしまう人もいます。実際には、目を閉じていても普通に歩ける人の方が少ないのです。信じて任せることが出来ない人は、ちょっとしたことでもすぐに不安を感じます。頭では「大丈夫」と分かっていても、頭の判断とは別に日頃の「心の癖」の方が自動的に発現してしまうからです。これは中毒者の反応と同じです。そして、不安を感じると、からだを固めます。からだを固めることで自分を守ろうとするのです。すると、からだが動かなくなり、普通に歩けなくなります。また、からだに歪みがある人はその歪みが強くなり、まっすぐに歩くことも出来なくなります。さらに、不安が強くなると意識が自分の心の中に閉じこもってしまうため、聞いたり、感じたりする能力も低下します。そのためさらに自分の心の中に閉じ込められることになり、さらに不安は強くなります。からだの固さや緊張はからだだけの問題ではないのです。ですから、そのことに目を向けずに、いくらヨガや体操やストレッチをやっても、それは単なる健康体操に過ぎません。開脚が出来るようになったからといって、生活の場でのからだが柔らかくなるわけでもありません。子育てのイライラを体操や、セラピーや、おしゃべりや、カラオケなどで発散してまた子育てに向かうのも悪くはありませんが、でも、子どもと一緒に居る時間が楽しくなれば、そんなことをする必要がなくなるのです。自分の人生や生き方を変えるためには、日常生活の場でも固まらないようにからだを変えていくしかないのです。またそうでないと、自分も、自分の子どもも、子育ても変わりません。でも、これは自分でやるしかありません。「信じる」とか「任せる」というのは自分にしか出来ないことだからです。その一つの方法として「感覚に意識を向ける」ということがあります。信じることや任せるのが苦手な人は、感覚の働きに意識を向けるのが苦手な人でもあるのです。だから、簡単に世界が閉ざされ不安が強くなってしまい、自分を守ることばかりを考えるようになり、信じることや任せることが出来なくなってしまうのです。「心の問題」と「からだの問題」は一見異なった分野の問題のように思えますが、実際には密接につながっているのです。もっと言えば、「社会の問題」、「政治の問題」、「科学の問題」、「文明や文化の問題」、「地球や宇宙の問題」も「一人一人の心やからだの問題」とつながっています。「子育て」ともつながっています。だから個別に考えているだけでは「本当のこと」が見えてこないのです。その状態から抜け出すためには、「つながり支えられている自分」に気付くことから始める必要があるのです。「つながり」を感じることが出来るようになるから、信じて任せることも出来るようになるのです。
2017.01.12
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野口体操に「ヨッパライ体操」というのがあります。力を抜いてまっすぐに立ちます。そして、頭を前後左右に軽く倒し、その重みを感じてヨッパライのように動きます。からだは脱力したままです。でも、ほとんどの人がこれが出来ません。脱力が出来ていないので頭の重みを感じることが出来ないのです。全身を脱力するためには、まず顎と顔の力を抜く必要があります。それほど「表情」というのは、からだの状態とつながっているのです。私に野口体操を教えてくれた三上賀代さんは、「アホ面三年」と言っていました。「アホ面が出来るようになるのに三年かかる」ということです。達人になるとヨダレまで出てくると言っていました。普通の体操はまじめな顔をしてやりますが、脱力体操はまじめな顔をしていたら出来ないのです。脱力体操では、やる気のない不良生徒のような動きの方がいいのです。ですから、まじめな人や自意識が強い人ほど難しくなります。「アホ面」をするためには、まず顎の力を抜きます。口を半開きにするといいです。そして、顔の力を抜きます。(だからヨダレが・・・)顎と顔の力を抜いてポケーっとした顔になれば胸の力も抜けます。するとからだが楽になります。まじめな顔をして歯を食いしばっている状態で、胴体を自由に動かそうとしても固くて動きませんが、顔と顎の力を抜くと、胴体も柔らかくなるので自由に動くようになるのです。イスに座って、出来るだけ頭の位置を動かさないようにして、胴体だけを前後左右に動かしてみて下さい。まじめな顔の時にはあまり動きませんが、アホ面にすると楽に動きますから。去年の暮れ辺りのテレビ番組(ためしてガッテン?)で、「狭いところに入ってしまって手が届かないような所のものを取るためには、ベロを出しながら取ると取れますよ」というようなことを紹介していました。何人かのゲストもやっていましたが、みんな「あれ!!」という感じで驚いていました。それはベロを長く出すことで肩の力みが消えて、単に頑張っているときよりも腕が伸びるからなんですが、私がやってみた結果としては「アホ面」の方が効果がありました。でも、まじめな人はこの「アホ面」がなかなか出来ません。そしてそういう人ほど子育てでも悩んでいます。また、一人では緩めていることが出来ても、格闘技のように相手がいるような状況ではさらに難しくなります。私もなかなか出来ません。相手にぎゅっと腕を捕まれただけで、反射的にからだが固まってしまうのです。人が身を固めるのは、心やからだを防御しようとするからです。アホ面の時は防御を諦めている状態だから、緩むのです。だから、楽しいことをしていたり大好きな人に囲まれているときにはからだも緩んでいますが、嫌なことをやらされていたり、知らない人や、嫌いな人に囲まれているときにはからだは固まっています。子どもの頃からそのような状態が継続していると、その状態が癖になり、大人になってもその状態のままになります。そのような人に、「緩めて下さい」といっても、子どもの頃から「緩む」という状態を体験したことがないので、緩めようがありません。それと、「緩める」ということは、「自分の心とからだの防御シールドを解除する」ということでもあるので、緩めようとすると不安が強くなり、またからだを固めてしまうのです。でも、この防御シールドがあると子育ては難しくなってしまうのです。無意識的に、子どもに対しても防御シールドを張ってしまうからです。大勢の子どもと大人が遊んでいると、子どもはまじめな顔しか出来ない人よりもアホ面も出来る人の方に寄ってきますよね。
2017.01.11
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この地球上に存在するもの全ては、地球の重力によって、地球につなぎ止められています。私たちはそれを「重さ」として感じることが出来ます。石を持ったときの重さ、子どもを抱いたときの重さを作りだしているのが「重力」の働きです。でも不思議なことに、なぜか「自分の重さ」はなかなか感じることが出来ません。確かに、疲れたときには自分の体が重く感じます。歳を取ってきても体は重くなります。なわとびをするときや逆上がりをするときもからだの重さを感じます。でも、その重さは、気分次第で変化してしまいます。楽しい時は軽くなり、悲しいときや、気分がふさいでいるときには重くなります。天気の影響も受けます。晴れているときには軽くなり、雨の日には重くなります。また、緊張しているときには体の重さを感じることが出来なくなります。スキップも、笑顔でやると体が軽くなり楽にスキップ出来ますが、無表情や怒った顔でスキップすると急に体が重くなり、足が上がらなくなります。でも、当然のことながら、その重さの変化は主観的な重さの変化であって、客観的な変化ではありません。実際の重さは、気分次第で変化などしないからです。自分で感じている自分の重さは、「実際の重さ」ではなく、むしろ「心の状態」を反映したものに過ぎないのです。ですから、ほとんどの人が本当の自分の体の重さを感じることが出来ないまま生活しています。じゃあどうやったら、本当の自分の体の重さを感じることが出来るのかというと、実は、力を抜いて、重さに身を任すようにすると体の重さを感じることが出来るのです。肩がバンバンに凝っている人は、腕の重さを感じません。でも、マッサージなどしてもらって筋肉が緩むと、腕の重さを感じることが出来るようになります。二人組になってもらい、一方は脱力してただ立ち、もう一方がその人の腕を持ち上げて落とすというだけの簡単なワークがあります。本当に脱力しているのなら、腕を持ち上げてくれている人が手を離せば、自分の腕の重みで、腕は自由落下するはずです。でも、それが落ちない人が結構いるのです。相手の手が離れたのを感じてから自分で落とす人も多いです。最初に「肩の力を抜いていて」と言っているので、本人は肩に力を入れているつもりはありません。でも、支えがなくなっても、持ち上げた腕が落ちないのです。腕が落ちないということは腕の力が抜けていないということなのですが、本人は抜いているつもりなんです。中には、持ち上げなくても、自分であげてしまう人もいます。本人は力を抜いたままにしているつもりなのですが、腕が勝手に上がってしまうのです。それを指摘すると、「え!! どうして?」と自分でも驚きます。一見力が抜けているように見える人もいますが、でも、本当に抜けている人はあまりいません。みんな肩の一部や肘には力が入ったままです。それを確認するのは簡単です。持った腕を揺すってみるのです。本当に脱力している人の腕はブラブラ揺れます。でも、一見脱力しているように見えるだけの人の腕は揺れません。そのような状態の人は自分の腕やからだの重さを感じることが出来ていないのです。それでそれを指摘したり、揺すったりして緩めて上げると緩んできます。すると自分の腕の重みを感じることが出来るようになります。重さを感じることが出来るようになると、重さに任せることが出来るようになります。すると、動きが楽になるのです。からだも楽になります。疲れにくくもなります。不思議なことに自分の体の重さをちゃんと感じることが出来るようになると、からだが楽になるのです。私は野口体操を通してそういうことを学びました。
2017.01.10
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これは、去年のクリスマスの時に生誕劇で「イエス様」役をやってくれたヴァルドルフ人形です。友人から借りました。ヴァルドルフ人形とは、シュタイナー系の人たちが好んで子どもに与えている素朴な手作り人形のことです。鼻も口もありません。目はちょっと糸の縫い目で引っ張って凹ませているだけです。中には買っている人もいるかもしれませんが、私の周りのお母さんたちはみんな自分で作っています。中には羊毛がぎっしり入っています。うちにも「二人(二体)」いるのですが、子どもがいつも一緒に遊んでいたため、こんなに綺麗な状態ではないのでお見せ出来ませんが、顔の作りは写真のものと同じです。この人形を目・鼻・口がちゃんと付いたお人形しか知らない子に見せると、先ず第一声が「変だ」です。「気持ちが悪い」と言う子もいます。逆に、いつもヴァルドルフ人形で遊んでいる子に、はっきりとした目・鼻・口が付いたお人形を見せると「怖い」といいます。お人形が「他者としての主張」を持っているからなのでしょう。それに対して、ヴァルドルフ人形は「他者」ではなく「子ども自身の分身」として子どもの側にいてくれます。子どもが嬉しいときには笑い、悲しいときには泣いてくれます。最初からそういう人形を与えられている子は、目・鼻・口は子どもの心が補っているので、そういうものがなくても気にならないのです。幼い子どもは感じただけで「それ」が見えてしまうのです。(本当は大人にもこの能力はあります。)だから、一つの積み木を自動車やビルやロボットに自由に変身させて遊ぶことが出来るわけです。それがいわゆる「見立て遊び」と呼ばれるものです。泥んこでお団子を作ったり、葉っぱをお金にしたり、ドングリをご飯にすることも出来ます。子どもは大人と違って、「物質的な現実世界」を見ているのではなく、「自分の心を投影した世界」を見ているのでそういうことが自然に出来るのです。そして、大人とは逆に「客観的にものを見る能力」の方は弱いです。そのため、9才頃までは写実的な写生は出来ません。皆さんも、子どもの頃に遊んでいたものや、遊んでいた場所を大人になってから見てみると、子どもの頃にはあんなにもキラキラしていたものや、あんなにも不思議だったものや、あんなにも大きかったものが、「実物通り」になってしまって、「あれ!!」と感じることがありますよね。それは、子どもの頃は、「現実の世界」ではなく、感覚の働きが創り出した「心の世界」の中で遊んでいたからなんです。あまり自己主張しないオモチャや遊びの空間は、その子どもの心の世界を素直に受け入れてくれます。そして自由に変身して付き合ってくれます。何にも加工していないただの一枚の布が、波になったり、風になったり、マントになったり、スカートやドレスになったり、川になったり、火になったり、お花になったりします。また、「お家」になったり「屋根」になったり、「隠れ家」になったりもします。丸めれば「ボール」にすらなります。私の親子遊びでは、布で「かくれんぼ」などもします。ただの「段ボールの空き箱」が、自動車や、お風呂や、電車や、おうちや、基地や、お便所になったりもします。押し入れや、木の洞や、小さな穴が、どこまでも広い空間になったりもします。そのものが持つ素朴な感覚特性が子どもの「感覚」を刺激し、「感覚」が「心」を刺激し、「心」が「自分の想いに合わせた世界」を創り出します。そして、「からだ」がそれに反応し動き出します。大きな布を広げてみんなで揺すって「波」を作ると、子どもたちはピョンピョンしたりします。その過程で、創造力や想像力、そして意思やからだが育っていくのです。そういうものは「子どもの内側」からしか育たないので、感覚の働きを通して「子どもの内側」に刺激を与える必要があるのです。それに対して、自己主張が強いリアルなオモチャや、便利なオモチャで遊ぶときには、子どもがオモチャに合わせる必要があります。そのため「子どもの育ちに必要がない能力」は育ちますが、「子どもの育ちに必要な能力」の方は育ちにくくなリます。
2017.01.09
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それでは、「子どもの心やからだの育ち」という観点から見たら、どのようなおもちゃが「子どもの成長を支える力」を持っているのか、ということです。世の中に、「知育おもちゃ」と呼ばれるものは多いですが、「心とからだを育てるおもちゃ」と呼ばれているものはあまりありません。そういうものに対する必要性を感じていないからなのでしょうか。それとも、「おもちゃ」と「心とからだの育ち」がつながっていることを知らないからなのでしょうか。そもそも現代人は「おもちゃ」とは「おもちゃ屋さんで売っているもの」という固定概念を持ってしまっています。ですから、道端に落ちている小石や、森や林に落ちているドングリや木の実や、小枝や、普通の布を「おもちゃ」とは認識していません。大人にとっては、商品でなければ「おもちゃ」ではないのです。でも、子どもにしてみれば、「それで遊べるか遊べないか」が重要なのであって、「お店で売っているものか」、「拾ってきたものなのか」などということは関係がありません。台所にある、ボウルや鍋でもそれで遊ぶことが出来れば立派な「おもちゃ」なんです。「おもちゃ」を「子どもの遊びを補助するもの」という視点で考えてみた時に言えるのは、子どもに与えるのは、あまり「自己主張しないおもちゃ」の方がいいということです。「自己主張が強いおもちゃ」の方が宣伝しやすいし、お店でも目につくし、子どもも欲しがるのかも知れませんが、でも、そのような「自己主張が強いおもちゃ」は、子どもの遊びに付き合ってくれないのです。だから、子どもがおもちゃに合わせて遊ぶことになります。木でできた素朴な自動車なら、子どもの心の中でどんな自動車にも変身することが出来ます。でも、リアルにできたベンツでは、ベンツ以外にはなりようがないのです。それは「お料理の食材」と似ているかも知れません。キャベツや玉ねぎのように、あまり強く自己主張しない食材は色々な料理に自由に使うことが出来ます。でも、ゴーヤのように強く自己主張する食材は、その食材に合わせた料理を作るしかありません。それはそれで「生活を豊かにするもの」としての意味はありますが、どちらかというと「大人の趣味」です。「子どもの育ち」に必要なものではありません。それに、自己主張が強い食材は、子どもはあまり好みませんよね。ということで申し訳ありませんが、今から出かけるのでこの続きは明日書かせていただきます。
2017.01.08
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人間の心とからだは常に五感からの刺激に反応して変化しています。でも、ほとんどの場合その反応を自覚することは出来ません。自分でも知らないうちに反応しているからです。明るいところから暗いところに入れば瞳孔が開きます。逆に、暗いところから明るいところに出れば、瞳孔は閉じていきます。だから、周囲の明るさに関係なく、人はほぼ一定の明るさでものを見ることが出来ているわけです。カメラの露出の自動調節と同じです。でも、人は「見えているもの」は認識出来ますが、「見るために目がやっている働き」の方は認識出来ません。ちなみに、瞳孔が開いているときと閉じているときとでは、「心」と「からだ」の状態も異なります。機械文明が発達するまでは、「暗い」という状況は「夜」か「洞窟」のような場所でしか起きませんでした。明るければ「昼」に決まっていたのです。そのため、「瞳孔の開き具合」は視覚だけの問題ではなく、自分がいま置かれた状況を認識し、それに対応して心とからだの状態を調節をするためのセンサーとして働くように出来ているのです。そしてこれは、「目」だけが持っている機能ではなく、「耳」、「皮膚」、「鼻」、「舌」といった五感につながる全ての感覚器官の機能でもあります。人間が持っている五感の働きは、単に外部の情報を認識するためだけの道具ではなく、直接自分の生命の働きとつながったところで、私たちの心とからだの状態を整えてくれているのです。でも、その働きは私たちが意識出来ないところで起きています。だから、私たちはその働きの存在も意味も知らずに、その働きを狂わすような生活ばかりをしています。夜でも明るい照明が付いていたり、周囲に大きな音や視覚的に強い刺激があれば、心やからだは眠りに入りにくくなります。夜遅くまで大きな音でテレビを見たり、ゲームをしていれば、必然的に眠りは浅くなります。そのため疲れやすくなったりイライラしたりします。逆に、寝る時間が近づいてきたらテレビなどのボリュームも下げ、照明を少し暗くしていると自然にからだが「寝る準備」を始めるので、眠りに入りやすくなります。子どもであれば、暖かいお布団に入って横になり、お母さんやお父さんに読み聞かせをしてもらっているうちに眠くなってきます。もっとも、子どもよりもお母さんやお父さんの方が先に眠くなってしまうことの方が多いかも知れませんが・・・。因みに、夜の照明は電球色の方がいいと思います。これは寝る前だけの話ではなく、昼間でもあまり刺激の強い遊びをしたり、刺激の強い体験をしていると、脳の興奮がなかなか収まらなくなり、夜も眠れなくなったりします。あまりからだを動かす活動をせず、神経ばかりを使うような活動ばかりしていても同じような状態になります。特に幼い子どもの場合は、「見る」、「聞く」、「嗅ぐ」、「味わう」、「肌で判じる」というような活動がバランス良く整ったような生活をすると、心とからだの状態は落ち着いていきます。実は、幼い子どもの周囲には、あまり強い刺激がない方がいいのです。強い刺激がない方が心やからだがバランス良く育ちやすいのです。なぜなら、強い刺激は脳を興奮させ、からだの感覚を鈍くしてしまうからです。たとえば、ゆっくりと歩いているときには、からだも緩み、森の匂いや、肌に触れる風や、花のにおいを味わうことが出来ます。でも、一生懸命に走っているときには脳が興奮しているため、そのようなものを味わうことが出来なくなります。そこにあるのは脳の働きによる認識と判断だけです。また、強い刺激に慣れてしまった脳は、日常的に強い刺激を求めるようになります。麻薬でなくても、強い刺激にはそれ自体に中毒性があるからです。その結果、遊びなどでも、脳は強い刺激を得ることが出来るような行動をからだに求めるようになります。そして時には、自らの心やからだを壊すようなことまでやってしまうこともあります。イジメでも、刺激を得るために過激な行動に走ってしまうこともあります。困った事に、人間の場合、「脳の要求」と「からだの要求」が一致していないのです。「脳」は刺激を求め、「からだ」は調和とバランスを求めているのです。だから、「脳」に振り回された生活ばかりをしていると、心とからだが壊れてしまうのです。特に、子どもが幼いうちは、直接脳に響くような「強い刺激」ではなく、感覚やからだの活動を通してじんわりと脳に届くような「優しい刺激」を大切にしてあげて欲しいのです。それが子どもの「心育て」、「からだ育て」にもつながるのです。
2017.01.07
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人間は「生命の内側にあるもの」が、「生命の外側にあるもの」(他者)と対話しながら、自分が生きている世界のことや、自分自身のことを学び、成長するように出来ています。その基本は「自己学習」であって、他者からの「教育」によるものではありません。それが「成長」の基本原理です。「言葉」や「感覚の働き」はその「対話」のためのツールとして存在しています。その時周囲の大人たちに出来るのは、環境を整えたり、直接的、間接的な働きかけを通して気づきを促し、その「自己学習」を支えてあげることだけです。子どもが必要としていない知識などを一方的に教え込もうとすると、子どもは自己学習への意欲を失い、大人の評価を気にするようになり、「生命の内側にあるもの」を成長させる能力が低下します。でも、「大人に都合の良い子ども」を育てたいだけなら「対話を通しての学び」は必要がありません。「成長する喜び」の代わりに「評価を得る喜び」を子どもに与えれば、子どもは「大人が教えたいこと」を学ぶようになります。でも、それと同時に、「他者との対話」をやめてしまいます。必要がなくなってしまうからです。そのような状態になると、必然的に「感覚の働き」も鈍くなります。医学的な面での「五感の働き」が異常になるわけではないのですが、「五感の働きと心とのつながり」が弱くなり、見ても学べず、聞いても学べない状態になってしまうのです。子どもでも大人でも、そのような状態になってしまっている人は、「見て」評価し、「聞いて」評価するばかりです。私は自宅では造形教室をやっているのですが、子どもが「○○を作りたい」ということをよく言ってきます。それで以前、他の子や私や家内が作ったその「○○」がある場合はそれを見せて、「これを見てどう作ったらいいか考えて見て」というのですが、それで分かる子と、全く分からない子がいます。そして、分からない子の方が多いです。ヒモの結び方や、輪ゴムのつなげ方を教えるときも目の前でやってみせるのですが、まるで手品を見ているかのような状態の子が多いのです。コマのヒモの巻き方や回し方も、何回も目の前でやって見せても理解出来ず、すぐに諦める子がいっぱいいます。今の子は、昔の子に比べて明らかに「見て学ぶ能力」や「聞いて学ぶ能力」は低下しているようです。うちの教室には「おヒマな子」用に「知恵の輪」も置いてありますが、多くの子がデタラメに動かすだけですぐに諦めます。この、「見て学ぶ能力」「聞いて学ぶ」能力は、暗記が中心の「学校でのお勉強」には直接必要がありません。だから大切にされていないのでしょうが、でも、学校の外や社会に出てからは絶対的に必要になるのです。でもその一方で、数は少ないですが、こういうことが普通に出来る子もいます。そういう子に共通しているのは、「対話が出来る」ということです。「対話が出来る」なんて当たり前のように思われるかも知れませんが、最近では、その当たり前のことが困難な子が多いのです。一方的に話すことは出来るのですが、相手の言葉を聞こうとする気持ちや、聞いて理解する能力が低いので、対話が困難になってしまうのです。皆さんはお子さんとちゃんとした対話をしていますか。子どもはお母さんや家族の間での対話を通して「対話の能力」を育てています。ですから、家族の中で対話がなければ子どもは「対話する能力」を育てることが出来ません。そして、「対話の能力」が低い子は仲間と助け合って遊ぶことも出来ません。創造的な活動も困難です。「心とつながった感覚の働き」も鈍くなります。ちなみに、「ああしなさい」、「こうしなさい」、「学校はどうだった」、「勉強はしたの」などというような、「言いたいこと」だけをいい、「聞きたいこと」だけを聞くような言葉のやりとりは「対話」とは呼びません。実は、「言葉による対話の能力の育ち」と、「感覚の働きを通しての対話の能力の育ち」は密接につながっているのです。だから、もし子どもの「感覚の働き」を育てたいと思うのならば、「言葉での対話」も大切にする必要があるのです。本来「言葉」は「感覚」の集合体だからです。 今日の空は青いね。 富士山は真っ白だね。 どこかに遊びに行きたいね。 何して遊ぼうか。これらの言葉はみんな「感覚のやりとり」でもあるのです。
2017.01.06
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人は「見る」ということでも世界とつながっています。多くの人が「見る」という行為を「自分が相手を見る」という一方的な行為だけのように思い込んでいますが、実際には「見る」という行為は、「見るという行為で生まれたつながり」を通して、「相手が自分の中に入ってくる」という現象でもあるのです。ですから、見れば必ず相手からの影響を受けます。これは「食べる」という行為と同じです。食べれば必ず食べたものから影響を受けますよね。実は、「見る」「味わう(食べる)」だけでなく、触れる、聞く、嗅ぐといった五感の働きはみんな他者とのつながりを創る行為であって、望む望まないに関わらず、そのつながりを通して他者が自分の内側に入って来てしまうのです。そして子どもはその「つながり」を通して入ってきたものによって育っています。子どもだけでなく、私たちの「心やからだの働き」や、「心とからだの健康」もその「つながり」を通して入ってきたものによって支えられています。でも、その現象はからだの中や無意識の世界で起きているので、人は自分の中に何が入ってきているのかに気付きません。「何が見えているのか」は意識出来ても、その見ているものから「何が入ってきてしまっているのか」は分からないのです。人は、「美味しい」とか「マズイ」といったような味は意識出来ます。でも、その食べたものに含まれている栄養は意識出来ませんよね。それと同じです。でも、からだはちゃんとその栄養を受け取り、その栄養でからだを支えているのです。ですから、栄養のことを考えずに「美味しいもの」だけを食べていると、からだを壊します。でも実際には人は「栄養」よりも「味」を選ぶ傾向があります。「見るもの」も、そこに含まれている栄養よりも、単に「見て楽しいもの」を選ぶ傾向があります。そして現代は、科学技術の進歩で、栄養など含まれていなくても「食べて美味しいもの」、「見て楽しいもの」を簡単に創り出すことが出来ます。そして、その方が商品的な価値も高いです。また、そっちの方が子どもも喜ぶので、親は「中味」よりも「見かけ」で選んで子どもに与える傾向があります。ゲームなどもそのようなものです。ゲームはすごく楽しいと思います。でも、子どもの心とからだを育てる栄養は含まれていません。シュタイナー教育では、食べ物だけでなく、オモチャや、飾りや、音や、匂いや、触覚、といった「子どもの周りの存在するもの」から子どもはどのような栄養を吸収しているのか、ということを真剣に考えています。そして、感覚を通して子どもの心やからだの育ちに必要な栄養を与えようとしています。単にオシャレやファッションや趣味で、部屋やカーテンをピンクにしたり、自然のものを置いたり、芸術性の高い飾りを置いたりしているのではないのです。
2017.01.05
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昨日も書いた通り、私たちは「からだ」で自分自身と、他者と、生命と、世界とつながっています。でも、その「つながり」に支えられて生きているのに、その「つながり」のことを知らないし、感じることも出来ていないし、大切にもしていません。それは空気や重力に対する私たちの意識と同じです。「自分」を取り戻し、時代や社会の流れに流されない生き方をするためには、その「つながり」を想い出し、感じるようにする所から始める必要があります。「つながり」を意識することで、それが「自分」と「世界」をつなぎ止める「アンカー」(錨)になるのです。でも、実際にはそれがなかなか難しいのです。私たちは「からだ」を通して「自分自身」や「他者」とつながっているだけでなく、私たち自身も「手」や「足」や「胴体」といった「からだのパーツ」や、「意識」、「心」、「からだ」、「生命」などの様々な要素のつながりによって出来ています。幼い子どもたちはそれらがうまくつながった状態で「丸ごと」動き、「丸ごと」考え、「丸ごと」感じ、「丸ごと」生きていますが、大人になって自分の行動や、動きや、心を自分でコントロールし始めると、その「丸ごと」が崩れ始めます。そのため「自分」がバラバラになってしまうのです。これは私のからだのワークでやることですが、先ず脱力して普通に立って指先だけを動かしてもらいます。指先を軽く数cm動かすだけです。すると、そのわずかな指の動きが頭や胴体の方にまで響いて行きます。指をちょっと動かすだけで目や耳の働きにまで影響が伝わっていくのです。そしてそれを感じるようにします。でも、最初は全く分からないと思います。からだの感覚に優れている人ならしばらくやっていると分かってきますが、鈍い人はいくらやっても分かりません。でも、これは気のせいではなく実際につながっているのです。そういう反射や反応を利用した治療法もありますから。(私は仲間とアメリカから先生を呼んで仁神術というのを少し学びました。でも、具体的な方法は全部忘れましたけど・・・。)私は若い頃から自分のからだに興味があったので、自分のからだで色々と遊んでいました。例えば、からだのどこかに軽く触れます。すると、触れていない全く別の部分にその感覚的な反応が出るのです。手の指5本を順繰りに反対側の手で握っていきます。すると、親指、人差し指、中指、薬指、小指ごとに、からだの違う部分に響きます。このように、「からだ」の各パーツは物理的にだけでなく、感覚的にも「一つの私のからだ」として密接につながっているのです。次に、指を少しでも動かすと、からだの中に緊張が生まれます。するとからだはその緊張を他の部分に伝えようとして、動きたがります。結果として、からだ全体が動きます。指先を動かすだけで、その動きに反応してからだ全体が動こうとするのです。でも、普段は、脳がその動きをブロックしています。指を動かすときには指だけが動いて、他の部分は動かないようにブロックしているのです。そういう生活が続けば、それが「緊張」や「固さ」としてからだの中に定着していきます。子どもたちはゲームで指先だけを動かしています。本当はからだ全体で反応したいところを、指だけが動いて、他は動かないように脳がブロックしているのです。ですから、ゲームで遊ぶ時間が長いと、子どものからだの中には緊張や固さが固定されていきます。それが「イライラ」や「ムカツク」原因になったりするのです。また、そういう分断が継続すると、からだ全体から「システムとしてのつながり」が失われ、からだを統合的に動かすことが困難になります。すると、走っていて倒れても手が出ないで顔から落ちたり、顔に向かってボールが飛んできても目を閉じることが出来ずに眼球を傷つけてしまったり、なわとびのような複数の動作を同時にやる活動が困難になってしまうのです。これは「自分の身を守る能力」を失ってしまったということなので、動物としては非常に危険なことなんですが、安全に管理された都会の中で暮らしている人間には必要がない能力でもあります。そのため、実際にそのような状態の子が増えてきています。でも、都会での生活には必要がない能力でも、「からだ」や「生命の働き」にとって不自然な状態が強くなってしまうと、「からだ」や「生命の働き」だけでなく、「意識」や、「心」の働きにも狂いが生じてしまうのです。ちなみに、「家事」でも「子育て」でも、楽しみながらやっている人はからだが緩んでいるので、からだ全体を使って動いています。からだを固めて部分だけを動かしているのは、嫌々やっている人です。********1月の「からだの会」は16日(月)10:00からです。茅ヶ崎駅の隣のビルでやります。2000円です。ご興味のある方はこちらまでメールを下さい。
2017.01.04
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昨日、友人の家で新年会があったのですが、そのトイレの壁に一枚の紙が貼ってあって、そこには 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。 マザー・テレサと書いてありました。先日来から私も「考えることの大切さ」を書いているので、まさにドンピシャの言葉でした。ただ難しいのは「考えることの大切さ」を訴えても、「考え方」を知らなければどうしようもないということです。だから、いくつかの「考え方」をご紹介したのですが、これは「からだ」でも同じで、「からだ」を動かすことで脳が活性化し、感情が動き出し、気血の流れが良くなり、脳も、心も、からだも生き生きとしてくるのですが、だからといって「ただ動かせばいい」ってものではありません。それにからだを動かすだけなら誰でもみんな普通にやっていることです。また、からだを動かすだけで生き生きとしてくるのなら、からだを使う仕事をしている人はみんな生き生きとしているはずです。でも、実際にはそうでない人も多いでしょう。考えることにも「考え方」があるように、からだにも「からだの使い方」があるのです。「考え方」を知らないと、本人は一生懸命に考えているつもりでも、単に悩んでいるだけだったりしてしまいます。悩んでいるだけの人は、「自分は一生懸命に考えている」と思い込んでいますが、実際には自分の考え(思い込み)を確認しているだけです。それは、道に迷った人が、自分自身の足跡だけを頼りにひたすら歩き続けるようなものです。だから、いくら考え続けても、同じところをグルグル回るだけで外の世界に出ていくことが出来ないのです。そしてだから考えれば考えるほど自分の考えが強化されてしまうのです。出口を見つけたければ、下を向いて自分の足跡を探すことをやめて、前や上を向いて、「外の世界」に意識を向けるしかないのです。「からだの使い方」でも、使い方が間違っていると、いっぱいからだを使っていても逆に「からだ」を壊したり、心が閉ざされて行ってしまったりするのです。では、「からだ」はどういうように使ったらいいのか、ということです。まず、「からだは頭の道具だ」という考え方をやめる必要があります。一人の人間は、「意識」や、「頭(思考)」や、「心」や、「からだ」の統合体として存在しています。人間はその中で「意識」や「脳」の働きだけが一番偉くて、「心」や「からだ」を支配し、命令する権限を持っていると思い込んでいますが、実際にはそれは「右足の方が左足よりも偉い」という考え方と同じです。「右足」が「俺の方が偉い」と「左足」に命令していたら、人は歩けなくなってしまいますよね。それと同じように、「意識」や「脳」が「俺の方が偉いんだ」と、「心」や「からだ」の声を無視して自分勝手な命令に従わせようとしていると、「私」という一人の人間を支えている「生命のシステム」が混乱して、身動きが取れなくなってしまうのです。その状態から抜け出すためには、からだを「つなぐもの」と認識するところから始める必要があるのではないかと思います。「からだ」がなければ私たちは「この世」に存在出来ません。「からだ」がなければ、歩くことも、見たり聞いたり感じたりすることも、喜んだり、悲しんだり、怒ったりすることも出来ません。「からだ」がなければ子どもを産むことも育てることも出来ません。「からだ」がなければ、考えた事を行動に移すことが出来ません。 そもそも、「考える」ということ自体が出来ません。 私たちの「脳」の中味は、「からだの働き」を通して学んだことで出来ています。そもそも、その「脳」も「からだ」の一部です。「からだ」は、「私という意識」と「私という存在」をつないでいます。「からだ」は、「私」と「世界」をつないでいます。そして、「頭」は自分のことだけを考えている間にも、「からだ」は常に外の世界を感じ、その外の世界とつながろうとしています。だから、意識の働きでコントロールしなくても、心臓も内蔵も働き、歩くことも自転車に乗ることも、お皿を洗い、お掃除することも出来るのです。でも、そのような「心」と「からだ」がつながっていない状態の時には、「心」も「からだ」も生き生きとしていないのです。 なぜなら、「心」は「からだ」とつながっているとき、「からだ」は「心」とつながっているときに一番生き生きとするように出来ているからです。夫婦も同じですよね。お互いの気持ちが通じ合っているときに、ご主人も奥さんも生き生きするのですよね。 一方が自分を犠牲にして尽くすだけたつたり、一方が一方を支配、命令するだけの関係では、両方ともに自分らしさを発揮することも、成長することもできませんよね。
2017.01.03
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人間の生命やからだは、宇宙や自然といった「普遍的な世界」に属しています。人間が自然の中で自然と共に生きていた時代の人達は、そのことを実感としてよく知っていました。でも、人々が大きな町や都市に住むようになり、自然から切り離され、生まれてたときからズーッと「人工的な世界」の中だけで生活するようになってくると、自分たちが「普遍的な世界」に属する存在であることを忘れるようになってしまいました。そして、人間が作りだした人工的な世界だけがこの世界の全てであるかのような錯覚を持つようになりました。また、「人工的な世界の方が正しく、人間のためになるもの」であるという価値観も生まれ、身の回りの「自然」を見つけては排除するようになってきました。水たまりも、泥んこも、落ち葉も、カラスも、クマも、イノシシも、バイ菌も、草も、昔は「人間と共存する仲間」でしたが、いまでは「排除されるべき邪魔者」になりました。今、人間の社会の中で許されているのは、「人間に管理された自然」だけです。でも、私たちの心やからだは、もともと「自然」に属するものです。人工物ではありません。「子ども」という存在も、大人の論理や、社会の論理ではなく、生命の働きに基づく「自然の論理」に従って生きています。社会がどんなに文明化しても、人々が必死になって「自然」を排除してもこればっかりはどうしようもないのです。でも、人工的な世界しか知らない現代人は、「何でも人工的に管理出来るはずだ」という思い込みを持ってしまっているので、自分の「心」や「からだ」、そして「子ども」に対しても、人工的に管理し、コントロールしようとしています。確かに医学の進歩や、栄養状態の改善によって、現代人は昔の人よりも元気で長生きになりました。「肉体」は物質界に属しているので、科学や物質的な働きかけが効果的に働くのです。でも、「心」や「生命の働き」の方はそういうわけには行きません。実際、人々の「肉体の健康状態」は良くなっていても、「心の健康状態」や「心とつながったからだの健康状態」の方は不安定になってしまっています。それは、原因の分からない不安感や、精神的な不安定さや、幸福感や満足感の低下や、やる気が出ない、疲れやすいなどというような現象として現れています。社会が豊かになり、科学や医学が発達し、寿命が延びても、幸せを感じる人がそれに比例して増えたわけではないのです。むしろ、そちらの方は低下しているように見えてしまうのは気のせいでしょうか。私たちはもう一度「自分たちの命や、心や、からだを支えてくれているもの」に意識を向け、それを大切にする生き方を取り戻す必要があるのです。それがまた、子どももお母さんも楽しく、幸せになり、「子どもと共に育つ子育て」への道でもあるのです。それは、自然とつながった状態で生きている子ども達の状態を肯定的に受け入れることから始まります。「自然」に支えられている自分の心やからだと素直に向き合うことも必要です。支配したりコントロールしようとするのではなく、子どもや、心や、からだの声に耳を澄まし、共に幸せに生きる方法を探すのです。私が提唱している「子育て」も、「親子遊び」も、「気質の学び」も、「心とからだのセルフケア」もそのためのものです。
2017.01.02
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明けましてお目出度うございます。今年もよろしくお願いします。写真は今朝、茅ヶ崎の海岸で撮ったものです。朝早く、寒かったのに海岸には大勢の人がいました。こんな感じです。他の国の人もこんな風に朝日を拝むのでしょうか。でも1月1日の朝なんて、寒くて眠いだけなのに、どうしてこれだけ大勢の人が、何の見返りも求めずに朝日に手を合わせるだけのために、海に行くのでしょうか。「初日の出」を見るためだけに、わざわざ山に登る人さえも多いですよね。(山は海よりももっと寒いです。)それでも現代では、「初日の出」を拝む人はいっぱいいても、普段の「日の出」を拝む人はそれほど多くありません。でも、昔は、日常的に朝日を拝んでから一日の活動を始める習慣を持っていた人は多かったようです。現代人よりも、「自然」に対する畏敬の念が強かったからなのでしょうか。また、「夕日」に手を合わせる人はあまり多くありませんが、でも「夕日」が好きな人は多いですよね。朝日でも夕日でも、それをジーッと見ている人の姿は非常に美しいです。厳かで、何か「祈り」を捧げているようにも見えます。アウシュビッツの収容所では、毎日過酷な労働で疲れ、わずかな食事しか出なかったのに、その食事すら食べずに「夕日」を見ていた人もいたそうです。山に登る人も同じです。山登りが嫌いな人は、「苦しい思いをして登ってただ降りるだけだろ」と言いますが、山が好きな私としては「そんなこと言ったら人生だって生まれて死ぬだけなんだから同じだろ」と思うのですが、どうなんでしょうか。もっとも、「人生」に対しても「何のために生きているのか分からない」と言う人は多いですけどね。実際、「山に登る意味」や「人生を生きる意味」などというものは最初から与えられているものではありません。これはどんな場合でも同じですが、一生懸命に考えたり行動したりした結果が、「意味」や「喜び」を創り出すのです。逆に言えば、一生懸命に考えたり行動しなければ永遠に「意味」や「喜び」など生まれないということです。「子育て」だって同じですよね。どんなに一生懸命に子どもを育てても、ほとんどの場合子どもはそんな「親の恩」は忘れて親から離れていきます。みんながみんな、成績が良くて、みんなに自慢出来る子に育ち、大人になってもお母さんやお父さんのために尽くしてくれる子に育つのならば、「子どもを育てる意味」もあるのかも知れませんが、そういう子は滅多にいません。そういう見返りを求めて子どもを育てる人もいるかも知れませんが、皮肉なことに、見返りを求める人ほど裏切られるものです。それでも、普通のお母さんやお父さんは、悪たれをつかれながらも、恩返しをしてくれなくても、手伝ってくれなくても、結局の所は子どもが元気でいてくれるだけで幸せを感じます。そして子どもが幸せになってくれれば、「自分たちの子育てが報われた」と感じます。私もそういうことを感じる年令になりました。不思議ですよね。朝日に手を合わせても何にも見返りはありません。苦労して山に登っても、一生懸命に子育てをしても、何の見返りもありません。でも、見返りを求める行為よりも、見返りを求めない行為の方が、多くの幸せがやってくるのです。そして結果として、その「幸せ」が、その行為の「意味」にもなります。誰が創ったのかは分かりませんが、この世界には不思議な仕組みがあるようです。もしかしたら、その「見返りを求めない一生懸命」こそが「祈り」の本質なのかも知れません。
2017.01.01
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