全31件 (31件中 1-31件目)
1
明日、1日(水)の早朝から5日(日)まで、岐阜、京都の方へ連続5日間の出張ワークに行くため、明日のブログはお休みさせて頂きます。2日以降は現地で書きます。それと、毎週火曜日に茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という親子遊びの会の案内を最後に載せています。ご興味のある方はご覧になって下さい。***************私たちは「私」という意識をもっています。でも、その「私」は非常に不安定です。心穏やかに過ごしているときの「私」もあれば、雷が落ち、暴風雨が吹き荒れる嵐のような「私」の時もあります。春のような温かくてウキウキするような「私」の時も、夏のように「さー、思いっきり遊ぶぞ!」というような「私」の時も、秋のように自分を見つめ、美しいものや優しいものに浸っていたい「私」の時も、冬のように春を待ちわびてマッタリと過ごしたい「私」の時もあります。会社にいる時の「私」と、家庭にいる時の「私」は違います。友達と遊んでいるときの「私」と、子育てをしているときの「私」も違います。朝の「私」、昼の「私」、夜の「私」も違います。食事前の「私」と、食事後の「私」も違います。何らかの失敗をする前の「私」と、失敗をしてしまった後の「私」も違います。立っているときの「私」と、座っているときの「私」も違います。上を向いているときの「私」と、下を向いているときの「私」も違います。その変化に合わせて、感じ方も、考え方も、意識や感情の状態まで違うのです。「私」はこんなにも変化しているのに、でも人はその「私」の変化に気付きません。そして、「私は私」だと思っています。でも実は、その「私」には実体がないのです。あるのは「私」という意識だけです。そして、「からだ」がその「私」という意識を創り出しています。実は、上に書いたような「私」の変化は全て「私のからだの変化」の現れなんです。「からだ」と独立した状態で「私」という存在があるわけではないのです。ですから、「私」を変えたいと思うのなら「私のからだ」を変えるしかないのです。本気で「自己肯定感が低い私」や、「いつも怒ってばかりいる自分」を変えたいと思うのなら、「からだ」を変えるしかないのです。自分で自分を問い詰め、否定し、罵っても何も変わらないのです。まず、「嫌いな自分」の「からだ」をよく観察してみて下さい。姿勢はどうですか。肩や腰や胸は緊張で固まっていませんか。声はどうですか。歩き方はどうですか。目線はいつも近くを見ていますか、遠くを見ていますか。上の方を見ていますか、下の方を見ていますか。しっかり見ていますか。ボーッと見ているだけですか。とは言っても、その「自分観察」がちゃんと出来るようなら問題はないのです。自分を変えたいと思っている人ほど、自分のことを冷静に観察していないからです。そこにあるのは「思い込みの自分」と「こだわりの自分」だけです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、いつもと違うことをしてみるのです。いつもと違う姿勢をしてみる。いつもと違う歩き方をしてみる。いつもと違う話し方をしてみる。いつもと違う怒り方をしてみる。いつもと違う道を歩いてみる。いつもと違う座り方をしてみる。などなどです。すると、「いつもの自分」を客観的に見る目が生まれるのです。「対比する自分」が生まれるからです。そうしたら「いつもの自分」を変える方法も探せるようになるのです。頭で考えるだけでは何にも解決しないのです。*****************茅ヶ崎でやっている、「ポランの広場」という親子で遊ぶクラスの生徒募集です。対象年齢は2才からですが、1才半からでも受け付けています。ただし、来年の4月以降も参加可能な方に限ります。子どもとの遊び方が分からない人、子どもと遊ぶのが大好きな人、大募集です。チラシは以下で見ることが出来ます。毎週火曜日 10:30~12:00です。<チラシはここです>お気軽にお問い合わせ下さい。
2017.10.31
コメント(0)
「腰痛」というのは多くの人が煩っているそれほど珍しくない現象ですが、実はその原因は千差万別で、中には原因不明のものもあるようです。内蔵の病が背中や腰の痛みの原因になることもあります。ですから、ここのところ私が書いていることは、本来そんなものとは無縁なはずの子どもの「腰痛」に関してであって、大人も含めた全ての腰痛を対象にしたものではありません。また、「さえの部屋」さんのように、「椎間板ヘルニアだから腰が痛い」という言葉をよく聞きますが、ネットで色々な専門家の記事を読んでいると、レントゲンを見ると椎間板ヘルニアになっているのに、腰痛を訴えない人もいるようです。逆に、レントゲン的には何の異常もないのに腰の痛みを訴える人もいっぱいいます。そもそも「腰痛」そのものは病気ではありません。単に、「腰が痛い」という状態に過ぎません。それは「辛いものを食べたら舌がヒリヒリする」というのと同じで、何らかの原因の結果に過ぎません。ですから、腰痛だけを消しても、原因がそのままなら簡単にまた再発します。それは、辛いものを食べて舌がヒリヒリする時、牛乳などを飲んで一時的にヒリヒリが緩和しても、辛いものを食べることを止めなければまたヒリヒリするのと同じです。それは当たり前のことなんですが、何回も何回も、その「当たり前」を繰り返す人が多いのです。実は、私は20年ぐらい前にギックリ腰をやりました。腰痛で悩んでいた友人がいたので、何らかの腰痛体操を考えようと、色々と腰をねじったり、不自然なことをしていたら翌日動けなくなりました。それはそれは痛いものです。三日間は寝たきり状態で、寝返りもうてないし、トイレに行くのも難しいくらいです。おしっこする間ですら立っていることが出来ないのですから。それでも少しずつ動けるようにはなったのですが、三年ぐらいはちょっと歩いただけで足がしびれ、棒のように固まり、腰が痛くなってしまいました。そんな時は、しゃがんだり、腰を動かしたり、体操のようなことをして腰を緩めれば痛みが消え、また歩けるようになったのですが、またしばらく歩くと同じ状態になりました。それを繰り返していたのですが、ある時気付いたのです。それは、「腰を緩めるような体操をして痛みが和らぐのなら、最初から腰を緩めるような歩き方をすればいいのではないか」ということです。逆に言うと、腰を固めた状態で歩いていたから腰が痛くなったのです。それで、「足」ではなく「腰」で歩くように、歩き方を変えてみました。すると、次第に腰が痛くならずに歩くことが出来るようなりました。「友人のために」と考えていた時は、「どうやって腰の筋肉を鍛えるか」という発想でしたが、それが間違っていたのです。必要なのは「鍛えること」ではなく「緩めること」だったのです。ただし、筋肉は必要です。でも、その場合でも必要なのは「鍛えて作った固い筋肉」ではなく「動きを通して育てた柔らかい筋肉」なんです。アスレチックで鍛えた筋肉ではなく、野山を歩き回って育てたような筋肉です。そして、それ以降は腰を緩めるようなエクササイズを意識してやるようにしました。そうしたら、腰痛は消えました。以降、大きな再発はありません。中学生ぐらいの子どもをオンブしても、10人ぐらいの子どもを布に乗せて引っ張っても大丈夫です。時々、「今日はちょっと痛いかな」と感じることはありますが、そんな時でも、横になって腰を緩めるエクササイズをすると痛みはすぐに消えます。今、子どもだけでなく、子育てをしているお母さん達でも腰痛に苦しんでいる人がいっぱいいます。お父さんも同じです。「腰が痛いから」とだっこしてもらえない子もいます。でも、子どもにはその痛みは分かりませんから、悲しいそうな顔をします。また、自分自身が腰が痛くなって分かったことですが、腰が痛いときには待てなくなるのです。とにかく待てないのです。また、心のゆとりもなくなります。ですから子育てにも大きな影響があります。それと、腰痛とは全く関係がないことなんですが、この出来事を通して、「分けてやろうとするから問題が解決しないのだ」と、考えるようにもなりました。多くのお母さん達が、「家事」と「子育て」、「家事」と「子どもとの遊び」、「子育て」と「自分の人生」を別のものとして扱おうとしています。子育てをしていない人達も、「仕事」と「娯楽」も分けています。でも、それをしようとすると忙しくなるばかりなんです。心の余裕もなくなります。私は一人しかいないのですから、全部まとめて「私の生き方」として処理してしまえばいいのです。「私の生き方」として家事をして、「私の生き方」として子育てをして、「私の生き方」として子どもと遊び、「私の生き方」として仕事をすればいいのです。そうすれば楽になります。また、子どもの「遊び」と「勉強」も分けない方がいいです。************今日は、お友達の ガンダーリ松本さんの本を紹介させて頂きます。かたくなったカラダをゆるめる和みのヨーガ 世界で一番「ラク」なヨーガ! [ ガンダーリ松本 ]すべてはあなたの心のままに心とカラダがキレイになる和みのヨーガ 世界で一番「ムリしない」ヨーガ! [ ガンダーリ松本 ]
2017.10.30
コメント(0)
昨日もテレビで、子どもの腰痛が増えてきた。その原因はランドセルが重くなったからだ。ということを流していましたね。でも、本当は腰痛の子が増えたのはランドセルが重くなったからではなく、姿勢が悪い子が増えたからなんです。そこには、子どもを取り巻く生活スタイルの変化、家族関係の変化、親の意識の変化、遊びの変化が大きく影響しています。そのように姿勢が悪いところにもってきてランドセルが重くなってきたので、腰への負担が大きくなってしまったのです。普段から姿勢が良ければ多少ランドセルが重くなっても腰が痛くなることなどないのです。「腰痛の原因はランドセルの重さ」というような単純な因果関係ではないのです。姿勢はその人の意識や、感情や、意思の状態を反映させています。普段はだらしない格好で立ったり、歩いたり、座ったりしているような子でも、仲間と楽しく遊んでいるときには胸が開き、顔が上がり、背筋が立っています。腰もしっかり入っています。でも、嫌々何かをやっているときには胸が閉じ、顔が下がり、背中が丸まってきます。それと同時に腰が抜けてきます。この状態の時に腰に負荷がかかります。また、一人でゲームして、一人でスマホして、一人でオモチャで遊んで、一人でテレビを見ているときは姿勢が悪くなります。顔を上げる必要も、背筋を伸ばす必要もないからです。テレビを見るときには顔を上げますが、椅子に寄りかかるか、スマホを見るような姿勢のまま顔だけを上げています。いずれにしても背筋を伸ばしてテレビを見る子はいないと思います。顔を上げ、胸を開き、背筋が立つのは、他者とちゃんと向き合おうとするときです。他者から逃げようとしている子、嫌々その場にいる子は、からだはそこにいても、心が逃げてしまっているので、背骨を立てる意思の力が働かないのです。勉強が楽しくて授業に参加している子は、良い姿勢で先生の話を聞いています。でも、嫌々授業に参加している子は、姿勢が悪くなります。お母さん達も嫌々家事や子育てをしていると姿勢が悪くなります。すると肩こりがひどくなったり、腰が痛くなったりします。
2017.10.29
コメント(1)
姿勢が悪いと、腰痛などの原因になります。また最近は、「スマホ首」というスマホの使いすぎによる首の痛みを訴える人も増えてきました。頭やからだの重さを筋肉で支えるのではなく、骨で支えるようにすれば、筋肉疲労による首や腰の痛みは出なくなるのですが、姿勢が悪いと、からだの重さを筋肉で支えるしかなくなってしまうのです。たとえば、中腰で立ち続けていると、足の筋肉が痛くなってきますよね。それが筋肉で立っている状態です。でも、足を伸ばしてしゃんと立ち上がると足は楽になりますよね。それが骨で立っている状態です。そして、普通の人は足を伸ばした状態で立っています。その方が楽だからです。でも、なぜか上半身の方は、常に変に歪めた状態で立っている人が多いのです。そのような人は、動くときもからだを歪めた状態で動いています。スマホを覗き込んでいるときや、ゲームをしているときなどの姿勢は、人間の体の構造からしたらかなり不自然な状態なんですが、でも、子どもも大人も、それが当たり前の状態になってしまっています。また、昔の日本人はみんな正座していましたが、正座で座ると自然と背筋が伸びます。頭の重さが腹と骨盤に落ちます。お年寄りのように背中を丸めて座っても、頭の重さは真っ直ぐお尻の下に落ちます。そうしないと倒れてしまうからです。でも、椅子に座る場合は全く状況が変わってきます。椅子に座る場合は、背もたれがあるため意識して背筋を伸ばさないことには、背筋が伸びないのです。背もたれに寄りかかれば、頭の重さなどを背もたれが受け止めてくれるので楽ですが、姿勢は悪くなります。腰への負担も大きくなります。それに、最近の子は、長時間歩いたり、からだ全体を使って動いたりすることがないので、小さいときから姿勢の悪い状態で椅子に座って生活していると、背中を真っ直ぐに保持するための筋力や、「真っ直ぐに立つ」という感覚が育たないのです。そのため、すぐに何かにもたれかかりたがります。もたれかかっていないときは姿勢が悪いです。そして、すぐに疲れます。また、スマホを見るときのように前屈みになると、足がからだの重さを支えてくれるので、頭の重さがお尻の方に落ちずに、もっと前の方に行くことになります。すると、後頭部から、首、肩、背中、腰までの筋肉が緊張することになります。そして、それが長時間になると、その状態で筋肉が固まります。同じ姿勢をズーッと取り続けていると、無意識的なレベルでもその姿勢を維持できるように、筋肉が固まってしまうのです。そして、その固まった筋肉を動かそうとすると「痛み」を感じるようになります。これは、皆さんでも簡単に体験出来ます。同じ姿勢のまま5分、10分と動かないままでいるとそのままの状態で筋肉が固まってしまうので、いざ動こうとしても、一度からだを伸ばしたり、揺すったりして緩めないと動けなくなりますよね。その時、痛みを感じませんか。この、姿勢の問題はからだの痛みだけの問題ではありません。からだの歪みは内臓や、神経系にまで影響を及ぼしているからです。さらには、感覚や心の状態にまで影響を及ぼしています。ちなみに、これは気質とも繋がっていて、気質に応じたからだの歪みというものがあるのです。気質が違うと、姿勢や筋肉の状態も違うのです。(この辺は野口整体の創始者、野口晴哉が研究していました。)(私が整体を学んだ岡島瑞德先生は、「ある超能力的な能力を持った人のからだの歪みを消したら、同時にその能力も消えてしまった」と言っていました。)ただ、気質による歪みは生まれつきに近いものなので放っておいてもいいのですが、スマホやゲームのやり過ぎによる歪みや、生活習慣的な歪みは、動物としての人のからだにとって不自然な状態なので、意識の働きや、感覚や心の働きに否定的な影響を与えてしまうのです。からだの歪みが強いと、からだの可動域が狭くなります。歪みがからだを固めてしまうため、からだが自由に動かなくなるからです。最近の子と相撲を取ると、面白いように簡単に転がります。ただ、投げられても、自分のからだを守ることが出来ない子が多いので、実際には投げませんけど。感覚や心の働きの可動域も狭くなります。感覚や心は、筋肉の状態に合わせて働くように出来ているからです。心はからだに影響を与え、からだは心に影響を与えているのです。ですから、「からだの問題」は同時に「心の問題」でもあるのです。子どもたちの「姿勢の問題」は、「子ども達の意識や、感覚や、感性や、心の問題」でもあるのです。「学校の成績だけ良ければいい」というような教育をしていると、困った人間ばかりが増えてしまうのです。*****************子どもが育つからだのしつけ/玉木志保美【1000円以上送料無料】正木健雄先生の子どものからだと心を科学する [ 正木健雄 ]◆◆おかしいぞ子どものからだ 図表でみる最新報告 / 正木健雄/著 / 大月書店
2017.10.28
コメント(0)
昨日テレビで「腰痛で苦しむ子どもが増えている」というニュースをやっていました。そしてその原因を「子どもが学校に持っていく荷物が増えてランドセルが重くなったからだ」と解説していました。それを聞いて、「何を言っているんだ、この馬鹿たれ!」と思ってしまいました。(言葉は悪いですが、「個人の感想」ですから、お許し下さい。)以前からこのブログでも時々書いていますが、本当に今の子はすぐに「腰が痛い」と言います。単に大人の真似をしてそういう言い方を楽しんでいるのではなく、本当に痛いようなのです。数分ノコギリをやっただけで「腰が痛い」と言ってしばらく動けなくなる子もいます。私が見ている範囲では、あまり外遊びをせず、ゲームばかりを熱心にやっているタイプの子どもたちにその傾向が強いような気がします。というか、それが一般的な「今時の子どものからだ」のようです。もし、その腰痛の原因がランドセルが重いことなら、重い荷物を背負って山登りをしている人もみんな腰痛になってしまうはずです。重い荷物を持った時に腰に一番負担がかかるのは、からだの前で荷物を持った時です。重さを全部腰で受け止めなければならないからです。だから介護や保育関係の仕事をしている人には腰痛で悩んでいる人が多いのです。また、お母さん達にも腰痛で苦しんでいる人が多いです。「オンブ」よりも「前だっこ」の方が腰への負担は大きいのです。昔のお母さんは赤ちゃんを背中に密着させて「オンブ」していました。この「オンブ」は荷物を持つときには一番合理的で、からだに負担がかかりにくいのです。腰の筋肉ではなく、腰と足の骨格で重さを支えることが出来るからです。でも、最近のお母さんは、子どもをオンブせず、前に抱いています。その場合は、腰の筋肉で重さを支えることになります。これでは腰が痛くなって当然なんです。また、重い荷物を持たなくても、立ったり座ったりが多い仕事、立ち放しの仕事、また逆に座りっぱなしの人にも腰痛は多いです。タクシー運転手にも腰痛持ちの人は多いと聞きます。タクシー運転手の人達は重い荷物なんか持ちません。基本的には一日中座ったっきりです。それなのになぜか腰痛になってしまうのです。実は、単に「腰が痛い」というレベルの腰痛は、「肩コリ」や「四十肩」で肩が痛くなるのと同じ原理なんです。簡単に言うと「腰コリ」です。これは筋肉の問題であって、骨や神経の問題ではありません。ですから、温泉にでも入って、マッサージを受ければ、少なくとも一時的には消えてしまいます。でも、本当に過重労働で腰椎や背骨の中を通っている神経が損傷しているのなら、単に「痛い」では済みません。温泉に入ったり、マッサージを受けたりするだけでは消えません。歩くことすら困難になります。子どもたちの腰痛もそのほとんどが「腰コリ」レベルだと思います。じゃあなぜ腰の筋肉が凝るのか、ということです。まず一番に挙げられるのが「姿勢の悪さ」と「運動不足」です。筋力の低下もあると思いますが、痛くなるのは「筋力」よりも「筋肉の固さ」が原因だと思います。姿勢が悪いと腰が緩みません。腰にいつも不自然な荷重がかかることになります。しかも、運動をあまりしないので、腰の筋肉は同じ状態のままズーッと固まったままになってしまいます。立ち労働をしている人もタクシーの運転手も同じです。すると筋肉が固くなります。伸びなくなります。また、「否定的な感情」が強い人も同じような状態になりやすいです。否定的な感情にはからだを固める働きがあるからです。実際、最近の子(否定的な感情が強い人も)は本当に、体が固いです。笑ってしまうほど固いです。それは筋肉が固くなってしまっていることの表れでもあるのです。そして、筋肉が固まったままだと、筋肉が常に雑音を発し続けるのでイライラするのです。これは大人も子どもも同じです。そしてそれが「現代人のからだ」になってしまっているのです。
2017.10.27
コメント(0)
武術的な学びをしていて特に重要だと思うことは、「支配されない」、「支配しようとしない」、「常に自由でいること」の三つです。ただし、だからといって相手に対して無関心、無関係という訳にもいきません。何しろ武術なんですから。戦いは、どちらか一方、もしくは双方が、相手を支配しようとした時に、相手が抵抗することで生まれます。ですから、自分が抵抗しなければ戦いは発生しません。だからといって、それだけでは支配されてしまいます。時には殺されてしまいます。それは困りますよね。要は、敢えて抵抗しなくても、相手がこちらを支配しにくくすればいいのです。一番簡単な方法は、危険な相手には近寄らないことです。でも、相手の方から寄ってくることがあります。攻撃してくることもあります。当然のことながらその時は避けた方がいいです。逃げるのではなく、ただ避けるのです。普通の人は逃げてしまうかも知れませんが、逃げたら追ってきます。そして、逃げ続けることは出来ません。結局捕まって、ボコボコにされるだけです。「この野郎と」やり返してもいいですが、その時は力と力の戦いになって、力が強い方が勝ちます。そして、ほとんどの場合、双方共にケガを負います。よっぽど腕力に自信があるなら、やり返してもいいですが、相手が凶器を持っていたら、最悪の事態になってしまうこともあります。その時に重要になるのが、姿勢と呼吸なんです。立ち位置(間合い)も重要です。相手の攻撃に合わせて自分の姿勢と呼吸が崩れてしまうと、相手に支配されてしまうのです。常にからだを真っ直ぐにして、深く呼吸をするのです。これを相手の攻撃を避けながらするのです。また、相手が苦手な位置に立てば、相手は攻撃しにくくなります。つまり、相手に抵抗し、相手をやっつけようとするのではなく、ただ、自分の自由を守り、支配されず、自分が崩されないようにだけするのです。自分を守るためだけに動くのです。それ以上のことをしようとすると、自分が崩れてしまいます。そして支配されてしまいます。攻撃してくる相手は、自分を失っています。体のバランスも崩れ、からだは緊張で固まっています。つまり、不自由な状態にあるわけです。バランスを失わず自由な状態の人と、バランスを失って不自由な人が触れ合えば、どちらが倒れると思いますか。といっても、それはそんなに簡単に出来ることではありません。私も頭では分かっていてもなかなか出来ません。やはり、相手が来たら恐怖心が起きるのでからだは固まります、やられたらやり返したくなるし、攻撃されたら力を入れて頑張ろうとしてしまいます。姿勢も呼吸も乱れます。でも、相手はそれを待っているのです。自分が自分らしくいる。これほど強い状態はないのです。ちなみに、武術でも色々な考え方がありますから、「力には力」という流派もあります。相撲もそのような武術です。体力的に自信がある人はそれでもいいでしょう。でも、私みたいに小柄で、大して筋力もない人間が「力には力」という戦い方をしたら、必ず負けてしまうと思います。「姿勢と呼吸を保って自分を失わない」という戦い方なら、勝てなくても負けることはないのです。 でもだから、勝ち負けを競う「スポーツ」では、この方法は使えません。 たから、レスリングの様な柔道になってしまっているのでしょう。 マハトマ・ガンジーが行った「無抵抗による抵抗」にも同じものを感じます。ちなみに私が今まで学んできたもの、今現在学んでいるものは以下の通りです。子どもの頃は町道場で柔道を学んでいました。そこでも姿勢を真っ直ぐに立つ柔道を教わりました。テレビで見るようなレスリングのような格好をすると叱られました。30才頃には太極拳を学びました。その先生は実践派で、型だけでなく実際にしょっちゅう投げられました。今は、古武術とシステマを学んでいます。どこでも「姿勢を真っ直ぐにしろ」と言われ続けました。
2017.10.26
コメント(0)
人が、自由に踊ることが出来るような能力を身につけるためには、不自由な練習をいっぱい積み上げる必要があります。自由に絵を描く能力を身につけるためにも、不自由な練習をいっぱい積み上げる必要があります。これは、自由に歌う能力や、自由に話す能力や、自由に生きる能力を身につける場合も同じです。幼い子どもたちは、不自由な練習などしなくても、自由に踊り、自由に描き、自由に歌い、自由に生きていますが、大人にはその真似は出来ないのです。なぜなら、大人の場合は、自分で自分を束縛する「自我」という働きが存在しているからです。その「自我」の働きによって、人は大人になると、子どもの時のように、ただただ内側からの衝動に任せて、歌ったり、踊ったりすることが出来なくなってしまうのです。だから、子どもは、大人になっても子ども時代の自由を失わないように、様々な学びをする必要があるのです。「大人になる」ということは、「他者から自由を与えてもらわなくても、自分の力で自由に生きることが出来るようになる」ということなんですから。その学びは一見不自由なものですが、その不自由を引き受けることで、子どもは大人になっても自由に生きることが出来る能力を身につけることが出来るのです。「自由に生きる能力」を得るためには、「不自由の体験」が必要になるのです。でも、最近の子にはその「不自由体験」がないのです。というか「不自由の質」が変わってきてしまったのです。最近の子どもたちも充分に不自由です。子どもが、子どもらしい欲求や衝動に従って、自由に行動しようとすると大人に叱られます。大きな声を出すことも、走り回ることも、泥だらけになることも、許されません。常に、親や大人の監視の目が光っています。教室でも、先生や仲間の目が光っています。公園で野球やサッカーをしたり、鬼ごっこをして騒ぐだけで文句を言われることがあります。そもそも自由に遊ぶ空間も、時間も、一緒に遊ぶ仲間もいません。だから、ゲームの中に自由を求めるのでしょう。その現代の子どもたちの「不自由」は、子どもが頑張っても、工夫しても、努力しても、乗り越えることが出来ない、絶対的な「不自由」です。当然のことながら、そのような「不自由」に浸った生活をしていたら、無力感だけが育っていくでしょう。まただから、干渉されることを嫌う感性も育っていくのでしょう。それでも、子ども時代は大人が子どもを守っていますから、大人の価値観と対立しない限り、子どもは自由に生きることが出来ます。でもその「自由」は、大人によって「与えられた自由」です。ちゃんと宿題や勉強さえしていれば、他の時間はゲームばかりやっていても、許されます。でも、このような「自由」に浸っている子は、「自分の成長に繋がるような不自由の体験」が出来ないのです。それに対して、昔の子どもたちが遊んでいた自然の中での遊びや、仲間との遊びの場には「不自由」がいっぱいありました。自然は「子どもの遊び場」として作られているわけではないので、危険もいっぱいあるし、遊びやすいように作られてもいないからです。また、そこにあるのはただの土であったり、葉っぱであったり、木の枝であったり、崖であったり、水であったりするだけで、遊びやすいように整備されているわけではありません。遊び方も決まっていません。また、仲間で遊んでいるときには、自分だけの要求を通すことは出来ません。みんなで話し合ったり、時にはケンカしたりして、なんとか妥協点を探していくしかないのです。ケガや失敗もするでしょう。でも、そういう不自由は、子どもたちが考え、工夫し、努力することで乗り越えることが出来るのです。そういう体験を通して、子どもたちは「自由に生きる能力」を育てていたのです。「与えられた自由」の中だけで生きている子どもたちは、「檻の中の自由」を与えられた動物園の動物と同じです。そんな生活ばかりしている動物は、檻から出されて保護を失ったら、自分の力で生きていけないのです。******************シュタイナー教育とは違う考え方の学校ですが、学ぶべきことも多いです。きのくに子どもの村の教育 体験学習中心の自由学校の20年 [ 堀真一郎 ]こんな学校あったらいいな 小さな学校の大きな挑戦/辻正矩/藤田美保/守安あゆみ【1000円以上送料無料】ニイルと自由な子どもたち サマーヒルの理論と実際 [ 堀真一郎 ]
2017.10.25
コメント(0)
「男らしさ」「女らしさ」という言葉があります。でも、現代人はこの言葉が嫌いなようです。好きな人もいますが、少なくとも公的な立場の人がこの言葉を使うと非難されます。それはこの、「男らしさ」「女らしさ」という言葉に「自分の生き方に対する干渉」を感じるからなのでしょう。18日のブログに「干渉されたくない大人達」という文章を書きましたが、「男らしさ」「女らしさ」を否定するのもそのような感性の表れなのだと思います。自分で選択したわけでもない性別によって、他者から干渉されることに対して抵抗を感じるのでしょう。その「男らしさ」「女らしさ」の代わりに表れてきたのが「自分らしさ」という考え方です。それは、「人はみな、自分の肉体的な性別に縛られることなく自分らしく生きればいいんだ」という考え方です。それはそれでいいのですが、問題は「じゃあ、自分らしさって何なのだ」ということです。「自分で自分の自分らしさが分かっているのか」ということです。「男らしさ」「女らしさ」というものは社会的、文化的な通念をその基準にしているので、その内容もなんとなく決まっています。そこには一つのパターンがあります。ですから、それに合わせることも、また、拒否することも簡単に出来ます。でも、「自分らしさ」は自分の内側にあるものなので、自分自身で発見しないことには、それがどのようなものなのか自分自身にも分かりません。ただ単純に、「自分らしく生きればいいんだ」と「自分の趣味や興味に従うだけの生き方」をするのは、単なる社会的な責任からの逃避に過ぎません。また、自分自身からの逃避でもあります。「自分らしく生きる」ということが、単に「自分の趣味や興味に従って生きる」というだけのことなら、それは野生動物たちと同じレベルの生き方です。それは「人間らしい生き方」とは呼べないものです。人はみな「自分」についてよく知りません。「自分が知っている(と思い込んでいる)自分」は「脳の中の自分」であり、「意識化された自分」に過ぎないからです。「それは過去の体験によって作られた自分」です。その「自分が知っている自分」には「自分では意識化できない自分」も「未来の自分」も含まれていません。人は誰でも「それまで体験したことがないこと」や、「やったことがないこと」と出会った時に、自分がどのように反応し、どのように感じるのかということを知りません。また、新しい体験や新しい学びによって、自分がどう変わるのかも知りません。だから人生は楽しいのだし、学ぶ喜びもあるのです。そして、その「自分が知らない自分」も含めて「自分」なんです。人間においての「自分」は、確定されたものでも固定されたものでもなく、自分で発見し自分の生き方を通して結果として生まれてくるものなんです。ですから、「今現在の自分らしさ」にこだわってしまうと、「未来の自分らしさ」を否定することになってしまうのです。私には、「頭の中だけの自分らしさ」にこだわる生き方が、本当の意味での、「自分らしさを大切にした生き方」とは思えないのです。むしろ、「古い自分」に囚われることなく、新しいことに挑戦し、新しいことを学んでいく姿の中に「自分らしさを大切にした生き方」を感じるのです。その結果生まれてくるのが本当の「自分らしさ」なんです。頭の中だけで「自分らしさ」を決めつけてはいけないのです。「男らしさ」や「女らしさ」を否定するのは簡単です。「自分らしく生きたい」と言うのも簡単です。でも、「自分の生き方」を自分の頭で決めてしまったら、それは「自分らしさの否定」なんです。
2017.10.24
コメント(0)
子どもの育ちには「父性」と「母性」という二つの価値観が必要です。その時、お父さんがお母さんの言いなりになって動くだけだったり、お母さんがお父さんの言いなりになって動くだけだと、どちらかが欠けてしまって、子どもはバランス良く成長できなくなってしまいます。ですから、イクメンでもお父さんが「お父さん」として積極的に子育てに参加するのならいいのですが、単に「お母さん」の代理人として子育てに参加するだけの育児参加なら、子どもの育ちはバランスを欠くことになってしまうのです。ただ、この「父性」と「母性」には誤解も多いです。それはこの「父」とか「母」というような性別に直結した名前が良くないのでしょう。「父性」とか「母性」というものは一種の価値観ですから、基本的には性別は関係がないのです。そのため、実際には「父性的な考え方をする女性」もいれば、「母性的な考え方をする男性」もいます。ただ、一般的な傾向として「男性は父性的な価値観を持ちやすく、女性は母性的な価値観を持ちやすい」という現実はあります。それは多分ホルモンの違いが大きく影響しているのだと思います。だから「父性」と「母性」という名前が付いたのでしょう。また、子どもの育ちには「父性」と「母性」の二つの価値観が必要ですが、これは別に親が与えなくても、外部の人に依存してもいいのです。シングルマザーの人はよく、「私はお母さんの役割だけでなくお父さんの役割もしなければいけない」などと言いますが、実際にはそれは出来ないのです。お母さんはそのつもりでも、子どもはお母さんに「母性」を求めてくるからです。「じゃあ、父性はどうするのだ、シングルでは子どもはちゃんと育たないのか」というとそれも違います。様々な地域に、子どもたちを集めて様々な活動をしているようなグループがありますが、子どもをそのような活動に参加させることでも子どもは「父性」と出会い、「父性的な価値観」を育てることが出来るからです。一番良くないのは、一人だけで頑張って、子どもを囲い込んでしまうことなんです。どんなに優秀なお母さんであっても、子どもを一人で育てることは出来ないのです。じゃあ、「母性」とは何か、「父性」とは何か、ということです。これは私の考えですから、他の人には他の考えもあると思いますが、私は「母性」とは「許し、信じること」だと思っています。それに対して「父性」は「導き、励ますこと」だと思っています。「母性」は「今」を肯定し、「父性」は「未来に向かっての道筋を示すこと」というような言い方も出来ると思います。「出来なくてもいいんだよ」「失敗してもいいんだよ」「学校に行けなくてもいいんだよ」というのが母性的な価値観です。だからといって、そのままでいいということではありませんよね。大人になってまで、「出来なくていいんだよ」、「失敗してもいいんだよ」、「会社に行かなくてもいいんだよ」という感覚では、社会生活が出来なくなってしまいますから。お母さんもお父さんも「守ってくれる人」です。だから、お父さんやお母さんと一緒に暮らしている間は、母性的な保護によって守られています。でも、子どもはやがて親から離れます。というか、大人になってまで子どものような生活をされても困ります。そんな時には、「父性的な価値観」が子どもを導き支えてくれるのです。だから、子どもは、「母性」によって守られながらも、「父性」を学んでいく必要があるのです。これは子どもの年令によっても異なってきます。3才までの子どもに必要なのは母性だけです。でも、5才、7才と子どもが社会的な活動に参加する度合いが多くなるに従い、父性的な要素が必要になってくるのです。それに伴い「お父さん」の役割も増えてきます。そして、14才頃になったら、子どもは母性的な関わり合いを拒否し始めます。お母さんは「守ってあげなければ」と思い、子どもが幼かった頃のように母性的な感性で関わろうとするのですが、子どもはそれを拒否するのです。それがいわゆる「反抗期」です。お父さんに対する反抗も始まりますが、それは、子どもの中で育ってきた「父性」と、お父さんの「父性」がぶつかるからです。ちなみに、女の子にとっても「父性」の育ちは大切です。男の子にとっても、「母性」の育ちは大切です。この父性と母性の違いは様々な所で見ることが出来ます。西洋は父性的な価値観が強い文化です。東洋は母性的な価値観が強い文化です。ユダヤ教、イスラム教は、父性的な価値観が強い宗教です。キリスト教や仏教は、母性的な価値観が強い宗教です。(この「キリスト教」とは、西洋文明の中のキリスト教ではなく、キリストが説いたキリスト教です。)ただ問題は、今の日本には、「歪んだ父性」、「歪んだ母性」に支配されている人が多いということです。そのような人達は「あなたのためよ」という「押しつけ」と「支配」によって、子どもを束縛したり、追い立てたりしています。「束縛」と「保護」を勘違いしている人も多いです。「指導」と「強制」を勘違いしている人も多いです。そのような人達は、子どもと対等な位置に立っていないのです。********************母性社会日本の病理【電子書籍】[ 河合隼雄 ]父親の力母親の力 「イエ」を出て「家」に帰る (講談社+α新書) [ 河合隼雄 ]
2017.10.23
コメント(0)
ちょっと話題を変えます。昨今、「イクメン」という言葉が一般的になってきました。テレビなどでも、家事や子育てに頑張っているイクメンパパを紹介したりしています。確かに、お父さんも家事や子育てに関わるのは素敵なことだと思います。でも、それが単に「お母さんの手助け」であったり、「子どもの世話をする」というだけのことなら、少し問題を感じるのです。なぜなら、お父さんが「お母さんの手助けや子どもの世話をする人」になってしまったら、「お母さん」が二人になってしまい、「お父さん」がいなくなってしまうからです。「男女平等」という言葉がありますが、これは「社会的な権利や命の重さにおいては、男性も女性も同等だ」ということであって、「男女の区別をつけるな」ということではないはずです。男性と女性の間の生物学的な違いは確かに存在しているのですから。だからお風呂もトイレも、「男性用」と「女性用」に分かれているのです。もともと、男性と女性はお互いに支え合い、補い合う関係として生まれてきました。ですから、どちらか一方を失えば、もう一方も消えるのです。確かに、一般的な社会的な活動の場では、「男性」と「女性」を分ける必要はないと思います。男性がお茶くみをして、女性が工事現場で働いても全くOKです。でも、「家族」という場では、「男性」と「女性」は役割が違うのです。これは、価値観の問題ではなく、生物学的な現実です。ただし私は「男尊女卑」的な違いのことを言っているわけではありません。純粋に生物学的な働きから見た違いのことを言っているだけです。男性には妊娠も出産も授乳も出来ません。でも、力仕事は男性の方が得意です。また、妊娠、出産、授乳と継続して子どもと関わってきてた「お母さん」は子どもとの関わり方も男性よりは得意です。子どもの気持ちを理解する能力も高いです。子どももまた、3才ぐらいまでは「お父さん」よりも「お母さん」を求めます。これは生理的な欲求なので、「男女平等」というような現代人の頭の中にだけしか存在しないような価値観とは無関係な現象です。子どもがお母さんに求めているものと、お父さんに求めているものは、本能的に違うのです。お母さんとお父さんが同じように関わっていても、子どもは異なった影響を受けるのです。<続きます>
2017.10.22
コメント(0)
私は物理学科の卒業ですが、どうして物理に興味を持つようになったのかというと中学生の頃にアインシュタインという人が発見した「相対性原理」という考え方と出会ったからです。相対性原理は私に世界がひっくり返るような意識の転換をもたらしてくれました。「本当の世界」が見えた気がしたのです。それが、面白くて面白くてのめり込みました。それで物理学を学んでみたいと思ったのです。この「相対性原理」とは、簡単に言うと「全ての出来事は関係性の中で生起する」という考え方です。「この宇宙には絶対という基準などどこにもない」ということです。人はみな「私」という存在は絶対のものだと思い込んでいますが、この宇宙から「私」以外のものを消していったら、「私」も消えてしまうのです。あなたがいるから私がいるのです。私がいるから宇宙が存在しているのです。(「そんなことはない、あなたが死んでも宇宙は存在している」と考える人は、「その人」ではなく「自分」を基準にして考えているからそういうことになるだけです。基準を変えてしまったら「事実」も変わってしまうのです。)天動説では、「地球が止まっていて、太陽が地球の周りを回っている」と考えています。それに対して、地動説は「太陽の方が止まっていて、地球が太陽の周りを回っている」と考えています。そして、学校では「地動説」の方が正しいと教えています。でも、実際にはどちらも正しいし、どちらも正しくないのです。地球を中心にして考えれば、間違いなく太陽は地球の周りを回っています。だから、朝・昼・晩という変化が繰り返されているのです。でも、太陽を中心にして考えると、地球の方が太陽の回りを回っていることになります。太陽に行くことが出来て、太陽から地球を眺めることが出来るなら、それを事実として確認することが出来るでしょう。ですから、「天動説」も「地動説」もどちらも正しいのです。でも、ニュートン物理学的には、地球も太陽も、両者の質量を合わせた重心の回りを回っているのです。「太陽」でも、「地球」でもなく、「重心」の周りを回っているのです。さらに、銀河系の中では銀河の中心の周りを回り、その銀河系もまた、更に大きな系の中心を回っています。そのような視点で考えると、「天動説」も「地動説」も、両方とも間違っているのです。この違いは、基準をどこに置くのかということで生まれる違いに過ぎません。それは人間の意識の問題であって、この世界の実相とは何にも関係がないのです。人間は何かを感じようとしたり、思考しようとするときには、必ず何らかの基準を必要とします。「熱い」とか「暑い」という感覚は自分の体温を基準にした感覚です。川魚は人間の体温でも火傷すると言います。善・悪は、個人や社会の価値観を基準にした感覚です。何かを考えるときには言葉や、論理を基準にして考えます。でも、この基準は曖昧です。同じ温度のお風呂でも、外気温や、自分のからだの状態によって、感じる熱さは異なります。からだの状態が異なれば味も匂いも異なります。同じ異性を見ても、素敵な匂いと素敵な音楽がセットになっているとより素敵な人に感じるものです。(その逆もあります。)子どもの時にはコーヒーもビールも苦いだけでしたが、大人になると美味しいと感じるようになります。でも、コーヒーやビールの味が変わったわけではありません。「自分」という基準が変わったので、世界の方が変わったように見えだけです。それなのに、人は「自分という基準を測る基準」を持っていないため、自分の感覚や視点や意識は普遍的で絶対的なものだと思い込んでいます。そして、他者の是非や、善悪や、美醜を絶対的なものとして決めつけています。でもそれは思い込みに過ぎないのです。自己肯定感が低いのも単なる思い込みに過ぎません。それは拒食症の人がもう十分に痩せすぎているのに「まだ太っている」と感じてしまうのと同じです。自己肯定感が低い人は精神的な拒食症に陥っているのです。**************人生の99%は思い込み 支配された人生から脱却するための心理学 [ 鈴木敏昭 ]
2017.10.21
コメント(1)
多くの殺人や、暴力や、犯罪や、戦争は、「自分の方が偉い」とか、「自分の方が正しい」という感覚から生まれます。DVや、ストーカーや、イジメなどで、他の人を苦しめている人でも、「自分は悪くない」と考えています。夫婦げんかでも、お互いに「自分の方が正しい」ということを主張し合っています。子どもに「押しつける子育て」や「追い立てる子育て」をしている人も、「自分は正しい」と思っています。ケンカした子どもに話を聞くと、双方共に「自分の方が被害者だ」と言い張ります。イジメをしている子どもも「自分は悪くない」と言い張ります。この「自分は正しい」「自分は悪くない」という感覚は「論理」ではなく「感情」なので、「いや、そうじゃないだろう」と言葉を尽くして論理的に説明しても、説得することは出来ません。自分の主張が通らないと分かれば「自分の方が悪かったです」と言うかも知れませんが、でも、ほとんどの場合、心の底からそのように納得している訳ではありません。だからまた同じ事を繰り返すのです。この「自分の方が正しい」「自分は悪くない」という感情は、自分を守るための感情です。人は誰でも無意識的に自分の命を守ろうとしますよね。その本能と繋がった感情です。ですから、そのような感情自体は誰でも持っています。でも、日常生活の中の些細な出来事の中でも、過剰にそのような感情が出てしまう人は、小さいときから否定されたり、いじめられたり、攻撃されて育ってきた人だと思います。常に自分を守らなければならない環境の中で育ってきたので、些細な出来事に対しても、自分を守ろうとする反応が過剰に起きてしまうのです。大の大人が、「俺のことを見て笑った」とか、「俺にガンつけた」と幼い子どもに暴力を振るう事件や、歩いていて、ちょっと肩が触れたぐらいなのに「俺にケンカを売るのか」と反応するような人はその典型です。些細なことでクラクションを鳴らす人も、そのクラクションに怒る人も同じです。他の人から干渉されたくない人も同じです。それが好意的な干渉であっても、その干渉を攻撃と感じ、反射的に自分を守ろうとする感情が働いてしまうのです。食事をグチャグチャにする、すぐ洋服を汚す、言うことを聞かない、というような「子どもとしては自然な行為」を、「自分に対する抵抗や攻撃」として受け取ってしまうお母さんもいます。そのようなお母さんは、我が子から自分の身を守るために、暴力的な行為に出てしまうこともあります。そのような人も、悪いのは子どもであって自分は悪くないと思っています。実際、「食事をグチャグチャにする行為をやめさせたいのですがどうしたらいいでしょうか」、「子どもが言うことを聞かないのですがどうしたらいいのでしょうか」というような、「お母さんの立場からだけの一方的な対応方法」を聞いていくるお母さんは多いです。幼い子どもの「お母さんの言っている言葉の意味が理解出来ない」、「お母さんの要求通りにやろうとしても出来ない」という現実や、「お母さんに否定されている子どもの苦しみ」が理解出来ていない自分の問題点には気付かないのです。そして、自分を守ろうとする発想と視点だけから、解決方法を求めるのです。また、「お子さんの長所を教えて下さい」と聞くと、「お手伝いをよくしてくれる」とか、「頑張り屋」とか、「まじめ」とか、「優しい」とかいうようなことを言う人も多いですが、そのほとんどが、お母さんを楽にさせてくれるような特徴ばかりです。「洗濯物は大変だけど、毎日泥だらけになって遊んでいるのがうちの子の長所です」とか、「ガンコだけど、自分の意見を持っているところが長所です」というようなことを言う人は多くありません。みんな「上から目線」だけで我が子を見て、評価し、関わっているのです。だから、子どもは「もっとちゃんと私のことを見て」と問題行動を起こすのです。まただから、子育てを楽しむことが出来ないのです。子どもとの関わり合いを楽しむことが出来ないのです。その「自分は正しい」「自分は悪くない」という感情に囚われている限り、他の人と対等な関係を築くことは出来ません。子どもとも、パートナーとも「対等な関係」を築くことが出来ません。だからといって、「自分の方が悪い、自分の方が間違っていたと思いなさい」ということではありません。「どっちの方が正しいとか悪いという感情に囚われている限り対等な関係は築けませんよ」ということです。子どもは人生を共にする仲間です。今は世話をするだけですが、やがて子どもの世話を受けるのです。そこに上下はないのです。たまたま親の方が先に生まれただけです。だから先に生まれたものが、後から生まれたものを導いてあげるのです。それが、「子育て」や「仕付け」の意味でもあるのです。子どもの未熟なところは大人が教え、指導しなければなりませんが、本質的には「仲間」なんですから、楽しく一緒に生きればいいのです。そうすれば子どもは勝手に素敵な人間に育つのです。***********************Q&Aこころの子育て 誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [ 河合隼雄 ]子どもと悪 (岩波現代文庫) [ 河合隼雄 ]いじめと不登校 (新潮文庫) [ 河合隼雄 ]
2017.10.20
コメント(0)
私は、人と人の関わり合いは、原則として対等であるべきだと思っています。大人と子どもの関わり合いも、親と子の関わり合いも、教師と生徒の関わり合いも同じです。ただし、この「対等」とは「ため口」を聞くというような意味での対等ではありません。英語には敬語がないので最初からため口ですが、だからといって、子どもを自分と対等な存在として受け入れている大人は多くないと思います。「大人」と「子ども」は別の生き物ではありません。「ペット」はどんなに一生懸命に人間のように育てても、決して「人間」に育つことはありませんが、「子ども」はペットのように育てても、やがて「大人」に成長します。「大人」と「子どもの」の間にあるのは、生まれてからの経過時間の違いだけであって、本質的には同じ存在です。「老人」「中年」「若者」の違いも同じです。今はどんなに元気な「若者」でも50年、60年したら、特別なことをしなくても、自然に「老人」になってしまうのです。「大人」とか「子ども」という違いに囚われている人は、その本質に気付いていないのでしょう。そこには「先輩」「後輩」の違いはありますが、身分的な「上下」の違いはないのです。そのような視点で考えたら、「子育て」も「教育」も、「自分たちが受け継いだものを、次世代を支える子どもたちに伝える行為」として考えるべきであって、大人の個人的な価値観だけで、子どもを管理、支配し、子どもの成長や人生をコントロールしようとしてはいけないはずなんです。子どもは親の所有物ではないし、生徒は先生の奴隷でも家来でもないのですから。私が言っているのはそういう意味での「対等」です。昔の「仕付け」は、「大人達が子どもの頃から受け継いできた立ち居振る舞いや、価値観などを子どもたちに伝えるための行為」でした。それは、目上の人に対する言葉遣いや態度、茶碗の持ち方、敷居には乗らない、ちゃんと挨拶する、というようなものです。昔の人も現代人と同じように「親の個人的な価値観」も子どもに伝えていたと思いますが、同時に、自分が受け継いだ「個人を超えた価値観」も伝えていたのです。だから、「文化」というものが継続してきたのです。でも、「文化」というものが崩壊し、「伝承された価値観」が価値を失い、「個人の価値観」だけが大切にされている現代社会に生きている大人達は、「大人の価値観に合わせた良い子」を育てることだけが「仕付けの目的」だと思い込んでしまっています。そして、その「個人的な価値観」を一方的に子どもに押しつけるような「仕付け」をしています。そこには「主人」と「家来」のような関係はありますが、「同じ人間としての対等な関係」がありません。でも、子どもの方は大人を「ご主人様」とは思っていません。子どもは大人を、「自分を守ってくれるはずの存在」、「色々なことを教えてくれるはずの存在」だと思っています。そのように遺伝子的に書き込まれているからです。子どもにとっては、大人は自分と対等な存在なんです。だからこそ、放っておくだけでも子どもは大人を模倣し、大人から学ぼうとするのです。大人は「子どもだった頃の自分」のことを忘れていますが、子どもは「やがて大人になる自分」のことをちゃんと認識しているのです。だから色々なことを教えてくれる大人に、先輩としての「あこがれ」を感じるのです。その「あこがれ」が、子どもに対する「大人の権威」を支えてくれるのです。でも、そんな子どもたちでも、自分を対等な存在として扱おうとせず、指示命令し、自分の価値観を押しつけてくるだけの大人にはあこがれを感じません。そのような大人が増えているせいか、最近は、「大人になんかなりたくない」と言う子どもも多いです。「お母さんごっこ」をする子どもが減ったのもそのためだと思います。「大人になったらどんなことをしたい」と聞いても、「サラリーマン」とか「普通の人」と答える子も多いです。アイドルや、野球選手にはあこがれても「大人」にはあこがれないのです。そしてその子どもたちもまた、「仲間」という「対等な存在」を失ってしまっています。「ゲーム」で遊ぶのも、「仲間」と遊ぶのも「遊び」は「遊び」ですが、でも、「仲間との遊び」では「対等な存在との関わり合いの体験」が出来るのに対して、「ゲームでの遊び」では「コントロールするもの」と「コントロールされるもの」の関係しか体験出来ません。そのため、「仲間と協力して遊ぶような遊び」をせず、「ゲームのような遊び」だけで育った人は、他の人と対等な関係を築くことが困難になります。人間は体験によって学ぶ生き物なので、体験したことがないことは出来ないのです。体験がないのに、大人になれば自然と分かるようになったり、自然に出来るようになることなどないのです。そして、相手を支配しようとするか、相手に従属しようとします。そういう上下の関係しか体験がないからです。それが昨日書いた、「干渉されたくない大人達」や、「干渉されたくない子どもたち」 の増加にも繋がっているのだと思います。大人は「たかが遊び」と思っていますが、子どもにとって「遊びの場」は、「人間として生きていくために必要なことを学ぶ場」でもあるのです。「大人にとっての娯楽」と、「子どもにとっての遊び」は、その意味が全く違うのです。でも現代社会では、「子どもを育てる役割をしていた遊び」が、大人と同じように娯楽化し、商品として扱われています。そして、子どもが「人間として生きていくために必要なことを学ぶ場」が消滅してしまいました。******************遊びこそ豊かな学び 乳幼児期に育つ感動する心と、考え・表現する力 [ 今井和子(保育学) ]子どもは「育ちなおし」の名人! 見えますか、子どものシグナル [ 広木克行 ]
2017.10.19
コメント(0)
夕べ、夢を見ました。どこかの公民館に「親子遊び」の指導で呼ばれた夢です。時間は10:00~11:30で、会場に行くと大勢の親子が集まっていました。なぜか私が来る前に、もうすでに、いつもその会で遊びを指導していると思われる男性が、テレビでやっているような遊びを教えていました。でも、やっている人もいればやっていない人もいます。それで私にバトンタッチされたのですが、私が話し始めてもおしゃべりが止まりません。「輪になって下さい」と言ったら、なんとなく丸くはなるのですが、なんとなくしか丸くならないし、おしゃべりも止まりません。「動きを回す遊びをするので、ちゃんと丸くなって下さい」と言ったのですが、変わりません。「じゃあ、順番を確認するために、最初に、1,2,3・・・と数を回して下さい。」と言って、隣の人に「1」をお願いしたら、次の人が「2」と言って、そのまま回っていくかなと思ったら、三番目の人がなぜか「3万」と言ったのです。笑っているので、受け狙いのようです。それで「どうしてちゃんと番号を回してくれないのですか?」と言ったら、「どうして自分が好きなようにやったらいけないんですか?」と言い返されました。それで、最初にいた男性に、「この人達は、みんなで遊ぶということが分かっていないようですね」と言ったら、「私だって頑張っているんです」と逆ギレされました。そこで私が「じゃあ、遊びを変えましょう」と言ったところで夢が覚めました。これは夢ですが、この「どうして自分が好きなようにやったらいけないんですか?」という言葉は教室の子どもからもよく聞きます。何でもかんでも教えてもらおうとする子もいますが、逆に、教えられることを拒否する子も多いのです。そのような子に教えようとすると「どうして自分が好きなようにやったらいけないんですか?」と言ってくるのです。でも、だからといって「やり方」が分かっている子は多くありません。ですから、「じゃあ、好きにやりな」と言って見ていると、グチャグチャやってすぐに諦めます。やり方が分かっていて、自分のやり方でやりたいから「どうして自分が好きなようにやったらいけないんですか?」と言い返しているのではなく、単純に他の人に干渉されるのが嫌だからそう言っているようなのです。また、そのような子は「聞いて理解する能力」も低いので、説明しても理解出来ずにイライラするようです。そして、この「他人に干渉されたくない」というのは子どもだけでなく、現代人に多く見ることが出来る感性のような気がします。お店などで子どもが困った事をしているときに他の人が注意しても、「うちの仕付けに干渉しないで下さい」と言ったり、注意してもらっているのに無視したり、自分の子どもが他の大人に助けてもらっているのに、お礼も言わずに子どもを連れて行ってしまう人も多いです。表札を出さない人も増えてきています。挨拶をしない人も増えてきています。レジや、道路などでも、前の人がゆっくりしていて、自分のペースを乱されるとイライラしたり、怒ったりする人も多いです。それは意図的な干渉ではないのですが、自分のペースが乱されるだけで「相手が自分のやり方に干渉してきた」と感じてしまうのでしょう。そのくせ、自分が他の人に迷惑をかけていても気にしません。それを注意すると「自分のやり方にケチをつけられた」と感じ、怒り出します。最近の、高速道路での事故もその表れのような気がします。全く論理的に破綻している考え方なんですが、でも、本人にはそのことが分からないようです。子どもの時からこういう子が増えているとすると、これは現代の子育ての問題なんだろうと思うのです。
2017.10.18
コメント(0)
昨日は、「優しさの体験」がない状態で育っている子に、「優しくしなさい」と怒鳴るのは、肥料も水も世話も与えないのに、「なんでもっと立派な実を結ばないんだ」、「なんでもっと立派な花を咲かせないんだ」と怒鳴るのと同じバカげた行為なんです。と書いたのですが、自分で自分を否定している人にも同じ事が言えます。自己肯定感が低く、自分で自分を否定している人も、どうしてそうなってしまったのか、どうしてその状態が維持されているのかということは考えずに、ただ自己肯定感が低い状態だけを嘆き、自分で自分を責めています。でも、そのような形で、いくら熱心に自分と向き合っても、何も変わりません。肥料も水もやらず、世話もしなかったから実を結ばなかった木に、「どうしておまえは実を結ばないのだ」と責めても無駄ですよね。それと同じです。この世界は「原因」と「結果」の連鎖で出来あがっています。そして、その「原因」を創り出しているのは「他者との出会い」です。道ばたに転がっているだけの石ころが何らかの「原因」になることはあまりありません。でも、誰かがその石に躓けば、その石が「人が転ぶ原因」になります。「石が転がる原因」になるかも知れません。子どもがその石と出会い、拾い上げたら、投げるかも知れません、その石に絵を描くかも知れません、「きれいな石」と言って持って帰るかも知れません。何らかの「他者との出会い」が、そのもの自身や、出会った他者に対して変化を与える「原因」になるのです。「出会い」がなければ何も変わらないのです。子どもが成長するためにも出会いが必要です。木は肥料や、水や、世話をしてくれる人と出会って変化するのです。「原因と結果の連鎖」は「出会い」によって発生するのです。月の風景は原則としてほとんど永遠に変わりません。空気や水や生き物といった「出会いを生み出すもの」が存在していないからです。変化が起きるのは外から隕石が落ちてきたときぐらいなものです。自分を変えたいのなら、自分で自分を責めたり、自分と向き合うだけでなんとかしようとすることをやめて、心とからだを開き、積極的に「他者との出会い」を受け入れることです。「他者との出会い」がなければ人は変わらないからです。ただし、その他者は「人」でなくてもいいです。本でも、風景でも、音楽でも、また、山登りのような体験でもいいです。とにかく、「それまで自分の世界の中には存在していなかったもの」と出会うのです。すると、「自分」が変わるのです。自分で自分を変えようとしても、何にも「新しい要素」がないのですから、「新しい変化」など起きないのです。「新しい変化」を引き起こすためには、「新しい出会い」が必要なんです。でも、大人も子どもも、現代人の生活ではその「他者との出会いの場」が極端に少ないのです。簡単で便利な道具や、お手がるに楽しさを得ることが出来るオモチャや施設がいっぱいあるので、現代人は「自分の世界」に閉じこもったままで、他者と出会わなくても生きていけるからです。自然と共に暮らしていた時代の人は、自然との出会いがなければ生きていくことが出来ませんでした。でも、便利な道具や機械やインフラに満たされ、人工的に管理された都会の中だけで生活している人は、「自然」と出会う必要がありません。「人間世界」の中に閉じこもったままでも生きていけるからです。でもその結果、「自然との出会い」によって育てられていた心や、意識や、感覚や、からだの働きが育たなくなってしまっています。そして、「人間中心」の考え方になってしまっているのですが、その事にも気付きません。さらには、子どもたちは、他の子どもや大人との関わり合いすらも必要としなくなってきました。衣食住は親が与えてくれます。遊びはオモチャやゲームが与えてくれます。そのため、現代の子は「自分の世界」の中に閉じこもったままで、遊ぶことも生きて行くことも出来るのです。学校に行って友達と遊ぶことはあっても、「鬼ごっこ」のように、みんなで一緒に同じ事をして遊ぶようなことしかしません。話し合ったり、協力し合って、何かを創り上げるような遊びはしません。ケンカも止められています。ですから、「他者」と一緒にいても、その「他者」と出会うことが出来ません。学校に行かず、部屋の中に閉じこもってしまえば、「みんなで同じ事をして遊ぶ」ということすら出来なくなります。それでもゲームという「自分を受け入れてくれる世界」があるので、子どもは困りません。むしろ「自分を傷つける他者」と出会うこともないので安心です。でも、ゲームの世界は閉ざされた世界です。檻のように子どもを狭い世界の中に閉じ込めています。そして、「ゲームの外の世界との出会い」を阻害しています。そのため、ゲーム漬けの状態では子どもは成長できません。(ゲーム自体が悪いのではなく、ゲーム漬けが良くないのです。)人は「外の世界」との出会いで傷つくこともありますが、「外の世界」との出会いを拒否してしまったら成長することが出来なくなってしまうのです。私は、子どもが学校に行けなくなったお母さんからの相談も時々受けます。そのようなお母さんは、「子どを学校にまた通わせることが出来るような方法」を聞いてきます。でも、お母さんがどんなに頑張っても、子どもを説得しても、子ども自身が変化しないことには学校に行きたくならないのです。そして、子どもが変化するためには「出会い」が必要なんです。だから私はそのようなお母さんに対して、「子どもが学校には行かなくてもお母さんと外に出ること自体を嫌がらないのなら、子どもと一緒に色々なところに行き、色々な人と出会い、色々な体験をして下さい」と言います。学校に行くこととは直接関係がなくても、新しい体験と出会えば、子どもは変わるのです。その変化がまた新しい変化の引き金になります。そして、時期が来るとドミノ倒しのように一気に変化が起きて子どもが変わるのです。ただし、それでも「学校に行きたい」と言い出すかどうかは不明です。これは「子どもの成長を促すための方法」であって、「子どもを学校に戻すための方法」ではないからです。でも、学校に行きたくても行けなかったような子は、学校に戻る勇気を得ることが出来るでしょう。最初から、「ぼくには学校は必要がない」と考えている子は、精神的に学校を卒業して自立した生き方を歩むでしょう。それはそれで素敵なことだと思います。************脳は出会いで育つ 「脳科学と教育」入門 [ 小泉英明 ]河合隼雄セレクション 「出会い」の不思議 (創元こころ文庫) [ 河合隼雄 ]【中古】 人に出会い、人は育つ 縁を活かせば人生が活きる / 三輪 真純 / サンマーク出版 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2017.10.17
コメント(0)
人間は体験によって学び、成長する動物です。他の動物も、体験によって学び、成長しますが、でも、その割合は人間に比べたら大したことはありません。ネコが犬に育てられても犬らしくはなりませんが、人間が犬に育てられたら、犬らしくなってしまうのですから。その適応能力、可塑性の高さが人間の素晴らしさであり、可能性の高さでもあるのですが、それは同時に、弱点でもあります。なぜなら、「人間らしさ」や「心やからだの育ち」を支えるような多様な学びの体験をいっぱい受けて育った子は、「人間らしさ」や、「頭や、心や、からだを操る高い能力」を育てることが出来ますが、逆に、そのような体験を奪われた状態で育った子は、非常に困った状態に育ってしまう可能性が高くなるからです。よく、「その人がこれまでに食べたものがその人のからだを作っている」というようなことが言われますが、それと同じように、その人がこれまでに体験したことが、その人の「人間らしさ」や、「心やからだの状態」を決めているのです。(遺伝的な影響も大きいようですが、体験による影響はそれを上回るのではないかと私は考えています。)カルシウムが不足した食事しか食べていない子に、丈夫な骨の成長を期待しても無理です。鉄分が不足した食事を続けていれば血が薄くなり貧血になります。テレビやスマホやゲームばかりして、積極的にからだを動かすような活動をしていない子に、からだを動かす筋肉や、神経系の成長を期待しても無理です。自分のからだに対する肯定感を育てることも出来ません。意識的に感覚を使うような活動をしていなければ、意識的に感覚と対話する能力は育ちません。人とのコミュニケーションがない状態で育った子は、人とコミュニケーションする能力が育っていません。この世界は、原因と結果の連鎖によって維持され、その形を決めています。量子的な極小の世界では因果関係が成り立たないようですが、少なくとも私たち人間のサイズの世界は100%、因果関係によって支配されています。種を蒔くだけで、肥料もやらず、水も撒かず、世話もせず、豊かな収穫を期待するのは全くナンセンスですよね。もし、豊かな収穫を期待するのなら、ただ種を蒔くだけでなく、ちゃんと肥料をやり、ちゃんと水を撒き、ちゃんと世話をする必要がありますよね。そのような行為が「豊かな収穫」という結果を得るための原因になるのですから。このようなことは誰にでも分かることです。でもみんな、「目に見える世界」での因果関係は理解し、大切にしているのに、「命の世界」や、「心の世界」や、「からだの世界」や、「感情の世界」や、「賢さの世界」といったような「目に見えない世界」での因果関係に関しては無頓着で、大切にしようとしていないのです。そして、肥料もやらず、水も撒かず、世話もしないのに、豊かな収穫は期待するようなことをしているのです。そして、「優しさ」を与えもしないのに、「優しくしなさい」と「優しさ」という収穫を得ようとしています。でも、優しい子に育って欲しいのなら「優しさの体験」が必要になるのです。「優しさの体験」がない状態で育っている子に、「優しくしなさい」と怒鳴るのは、肥料も水も世話も与えないのに、「なんでもっと立派な実を結ばないんだ」、「なんでもっと立派な花を咲かせないんだ」と怒鳴るのと同じバカげた行為なんです。賢い子に育って欲しいのなら、「賢さ」を必要とするような体験が必要となるのです。少なくともそれは、テレビでも、スマホでも、ゲームでもありません。テレビや、スマホや、ゲームでの遊びに必要なのは、無意識的な反射だけです。意識的な判断や、思考や、活動は必要ありません。だから3才児でも出来るのです。ですから、そのような遊びばかりして育っている子は、意識的な活動が苦手になります。自分との対話も困難になります。<続きます>
2017.10.16
コメント(0)
日本人は自分を表現することが苦手です。これは、日本人の粘液質や憂鬱質が強い気質の影響もあると思いますが、それだけではないと思います。日本人は、子どもも大人も、「あなたの考えを聞かせて下さい」と問われることがあまりありません。また、「自分の考え」を育てるような教育も受けていないし、また、そういうものが育つような環境も与えられていません。日本人は、他の人と同じ「常識的な考え」は肯定しますが、他の人と異なるような「自分の考え」は大事にしません。そのため、ワークなどで、「あなたの考えを聞かせて下さい」と聞いても、自分の考えではなく一般的な常識や様々なメディアが言っているような答えしか返ってきません。それは、「メディア」や「周囲のみんな」が言っていることを単純にコピペして合成しただけの考えなんですが、それが「自分の考え」だと思い込んでいるのです。ですから私が、「どうしてそう思うのですか?」、「そのように考える根拠は何ですか?」と更に問い返すと、答えに詰まってしまいます。「正解」は知っていても、その「正解が生まれた根拠」を持っていないからです。そのような人に、「それは知識であって、自分の頭で考えた考えではないですよね」と言っても、その言葉の意味を理解出来ない人の方が多いです。本来、「自分の考え」に正解はありません。ですから、10人の人がいたら10通りの考えがあっていいのです。自分なりの根拠があるなら、「学校では地球は丸いと教えているけど、私は地球は平らだと思う」と言ってもいいのです。逆に言えば、「自分なりの根拠」がないのなら、それは「自分の考え」ではないのです。その「自分の考え」を他の人にも押しつけると困った事になりますが、そうでない限り、「自分の考え」は全く自由でいいのです。常識に囚われない幼い子どもたちは、大人の理解を超えたことをよく言います。でも、常識に囚われている大人達はそれを簡単に否定して、常識を教え込もうとします。でも、子どもたちはみんな「自分なりの根拠」で、その発言をしているのです。大人のように知識で発言しているのではないのです。だから、大人の常識とは合わなくても、それは「その子の考え」として大切にしてあげる必要があるのです。それは大人には間違いであっても、その子にとっては事実なんです。その「その子にとっての事実」を大切にしてあげることが、その子が自分の頭で考える能力を育てるきっかけになっていくのです。また、日本の子どもたちは「自分の頭で考えて、自分の頭で工夫して、自由にやってみてもいいよ」と言われることもあまりありません。自由に考え、工夫し、行動する場も、時間も、自由も与えられていません。特に最近の子は、自由な時間があるとすぐにスマホを見たり、ゲームを始めてしまうので、本当の意味での自由な時間がありません。そして、スマホやゲームがない状態で自由にさせられると、すぐに「退屈だー」と言い出します。最近の子どもたちは、自分の頭で考え、工夫する習慣も、自分の感覚で感じ、自分の責任で行動する体験もないまま、大人になっているのです。当然のことながら、そのような状態で育った人は、自分でも「自分」のことがよく分かりません。「自分の頭で考えていない」と言われても、「そんなことがあるわけがない」と反発します。でもそのような人に、「じゃあ、自分で考えてやってごらん」と、自分の頭で考えなければ出来ないような課題を与えても、実際には何も出来ません。(そういう子がいっぱいいます。)そういう状況になったことがないから、自分が自分の頭で考えていないことが分からないだけなんです。自分のからだを使った活動をしたことがない子は、自分のからだを使う能力も低いのです。でも、本人はその事を知りません。子育てを始めると、そのような事実と向き合わざるおえないのですが、それでもみんな自分の頭で考えようとしないで、正解探しばかりをしようとします。昔の子どもたちは、「自由な遊び」の中でこのような能力を育てていたのですが、「自由な遊び」を奪われてしまっている現代の子どもたちは、その能力を育てることが出来ないまま大人にならざる終えなくなってしまっているのです。そのように育った人は、自由に行動しようとする我が子と向き合っても、どうしていいのか分かりません。「自分」という存在自体が曖昧なのですから、「一人の人間」として子どもと関わることも、「一対一の関わり合い」を楽しむことも出来ません。「自分らしさ」自体が曖昧なので、「自分らしい子育て」も出来ません。そのため、誰かが考えた正解に当てはめるような子育てをしようとします。そうして、子どもを責め、自分を責めるような苦しい子育ての悪循環が始まります。その時、その苦しみから逃げなければ、「自分の頭で考える能力」も「自分らしさ」も育っていくのです。また、「子育てを楽しむ能力」も育っていくのです。でも、そういう覚悟を持つことが出来る人は多くありません。「自分」を失っているから子育てが辛く苦しいものになってしまうのです。逃げ回っていたら、苦しみは増えるばかりなんです。
2017.10.15
コメント(0)
(昨日からの続きです)私が多くのお母さん達を見ていて感じるのは、日本のお母さん達は一生懸命に子どもの世話はしていますが、「世話」という範囲を超えてまで、積極的に子どもと関わろうとしないということです。「お母さん」という役割はちゃんとこなしているのですが、「人生の先輩としての関わり合い」(縦の関係)や、「仲間としての関わり合い」(横の関係)が希薄なんです。「お母さん」という立場を、「子どもの世話をする役割」としてしか理解していないのかも知れません。これは「お父さん」も同じで、多くのお父さん達が、「お父さん」という立場を、「お金を稼ぐ役割」と理解しています。最近は「イクメン」と呼ばれるお父さんも増えてきましたが、そのようなお父さん達も「お母さんの役割を補助する」という意識で子育てに参加している人が多いような気がします。実際、テレビなどで「イクメンの実態」を見ていると、そのようなお父さん達も子どもの「世話」はちゃんとしているのですが、子どもに対して「人生の先輩」として関わったり、「仲間」として関わろうとしているわけではなさそうです。日本人は、一対一で関わり合うことが苦手です。また、何かをしようとするときも、「個人」としてではなく「役割」としてそれを行おうとする傾向があります。「自分」を表現することが苦手だからでしょうか。学校の「先生」も、山田太郎(仮名)という個人の立場で教壇に立つのではなく、「先生」という無機的な立場だけで教壇に立っています。ですから、上の方から「こういう内容をこういう風に教えろ」と指示されれば、その通りに教えます。そこに個人の判断は加えません。それが「教師という立場に求められる役割」だと理解しているからです。ただ問題は、先生は「山田太郎」ではなく「先生という役割」で子どもの前に立っているつもりでも、子どもの方は、「山田先生」を「一人の人間」として、「人生の先輩」として、何か大切なことを教えてくれる「仲間」として見ているということです。なぜなら、子どもには「社会の仕組み」も、「大人の立場」も、「教師という役割」も理解出来ないからです。子どもが仲間と遊んでいる時には、その仲間はみんな一人の個人として遊びに参加しています。そこにいるのは、「たろうくん」であり、「はなこちゃん」であり、「よしこちゃん」や、「こたろうくん」なんです。大人は「お友達」という言葉をよく使いますが、「お友達」という立場と役割で遊びに参加している子などいないのです。これは、親子という関係でも同じです。お母さんは「お母さんとしての役割」を果たすことばかりを考えていますが、子どもの方は、「お母さん」という役割でお母さんのことを見てはいません。子どもにとっては「お母さん」は「役割」ではなく、自分の生命を支え、自分を守り、自分に色々なことを教えてくれる、世界にたった一人しかいない大切な存在なんです。それに、子どもには「お母さんとしての役割」が何なのかも分かりません。(これはお父さんも同じです)ですから、お母さんが家事や掃除をしなくても「うちのお母さんはダメなお母さんだ」などとは決して思わないのです。子どもがお母さんに求めているのは「(社会的な意味での)お母さんとしての役割」ではなく、「一人の人間としての関わり合い」なんです。お母さんがどんなに立派に「お母さんとしての役割」をこなしていても、子どもとの間に「一対一の関わり合い」がなければ、子どもは自分を「人間」として育ててくれる存在を失うことになってしまうのです。そのため、人間としての成長が困難になってしまうのです。「ペット」の場合は、飼い主が「飼い主」としての役割をちゃんと果たしていれば、ペットとの間に「飼い主としての役割を超えた一対一の関わり合い」など必要がありませんが、人間が人間を育てる場合にはそういうわけにはいかないのです。人間が人間の子どもを育てる場合には「お母さんとしての役割を超えた一対一の関わり合い」が必要なのです。そうでないと、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうからです。「人間らしさ」の根幹は、「人と人の関わり方」の中に存在しているのです。これは、人間以外の動物でも同じで、犬の「犬らしさ」は、犬同士の関わり合いの中に存在しているのです。社会的な「役割」の在り方は社会の変化と共に変化してきました。昔の「お母さん」に求められていた役割と、現代のお母さんに求められている役割は同じではありません。でも、子どもがお母さんに求めているものは、昔と全く同じなんです。ですから、お母さんが「お母さんとしての役割」しか見ていないと、「子どもがお母さんに求めているもの」、「子どもの成長に必要なもの」を子どもに与えることが出来なくなってしまうのです。でもどうも、現代社会では、この「子どもとの間の一対一の関わり合い」を避けようとしているお母さんが多いようなのです。そのようなお母さんは、子どもに衣食住と安全を与えていれば「お母さんとしての役割」は果たしていると思い込んでいます。でも、子どもは「安全」よりも「安心」をお母さんに求めているのです。そしてその「安心」は「共に」という関わり合いを通してしか得ることが出来ないのです。お母さんがいつも側にいてくれるから子どもは安心するのです。子どものために、どんなに美味しいお料理を作り、どんなにいっぱい洗濯をして、どんなにきれいにお掃除をし、どんなに安全な状況を作ってあげていても、お母さんが側にいなければ子どもの心は満たされず、不安を感じるのです。逆に、どんなに苦しくて大変な状況でも、お母さんが側にいてくれると、子どもは安心するのです。ただし、この「側に」は、物理的な意味での「側に」ではありません。共感することによって発生する心理的な距離の話です。*********************子どものこころとことばの育ち (子育てと健康シリ-ズ) [ 中川信子 ]
2017.10.14
コメント(0)
以下は「Jcast ヘルケア」というサイトの記事からの引用です。(抜粋)「子育てに自信がない」「子供が好きではない」 クック・ジャパンの発表資料によると、調査は2017年8月、日本・米国・フランス・スウェーデンの都市圏に住む、子供がいない18~39歳の女性計800人(各国200人ずつ)を対象に「妊娠・出産・不妊治療」などに関する意識を聞くために行なわれた。 まず、「将来子どもが欲しいと思うか」という問いでは、子どもを持つことを希望する割合は、日本人は63.0%と、フランス(80.0%)、米国(79.5%)、スウェーデン(73.5%)の4か国の中で最も低かった。子どもを望まない理由(複数回答)の上位は、日本人は「子育てをする自信がない」(51.4%)、「子育てが大変そうに思える」(44.6%)と、自分では子育てを担うことが出来ないのではと考える自信のなさがうかがえる。一方、ほかの3国で最も多かった理由が「現在のライフスタイルに満足している」で、スウェーデン62.3%、米国58.5%、フランス57.5%と軒並み6割近いのに対し、日本人はわずか23.0%だった。 また、子供を望まない理由で日本人に目立ったのは、「体力に自信がない」(24.3%)だ。ほかの3国では米国4.9%、フランス2.5%、スウェーデン9.4%と、ほとんどの女性が体力を問題にしていないのに。また、日本人は「子供が好きではない」(37.8%)という人も多く、米国12.2%・フランス12.5%の約3倍いた(注:スウェーデンは35.8%)。 こうした結果から、欧米人女性は自分の人生の設計上、子どもの必要性を感じない人が多いのに比べ、日本人では子育てに自信が持てないから産まない傾向が強くみられるという。少子化問題を解決するためにも、日本人女性が出産を避ける原因をいろいろな面から調べていく必要があるだろう。どうでしょうか。この数値は子どもがいない人を対象にした調査の結果ですが、子どもがいる人にもこのような傾向が強くあるような気がします。それは、「子どもを望んではいなかった、子育てに自信はなかった、でも、子どもが産まれてしまった、子どもを産んでしまった」という人です。そのような人は当然、子育てに苦しむことになるでしょう。また、子どもが好きで望んで産んだ人でも、いざ子育てが始まると、その過酷な現実に「こんなはずじゃなかった」と苦しむ人は多いです。「子育て」が始まる前は、「子どもは可愛くて、お母さんの言うことはちゃんと聞いて、お母さんのことを大切にしてくれて、言葉で言えば理解してくれて、お母さんを困らせるようなことはしない」という幻想を持っていた人も多いと思います。実際、我が子の子育てが始まるまでは、スーパーなどで走り回っている子や、だだをこねている子を見ると、「お母さんがちゃんと仕付けていないからだ、と思っていた」と言う人も多いです。男性にもこのような思い込みを持っている人が多いです。だから、子どもが問題行動を起こすと、「お母さんのしつけがなっていない」と非難されるのです。でも、実際にはお母さん達は必死になって仕付けようとしているのです。怒鳴ったり、しかり飛ばしたり、脅かしたり、諭したり、褒めたり、ご褒美を挙げたり、時には叩いたりして、必死になって仕付けようとしているのです。でも、自分の期待や、感情や、不安や、欲望や、見栄や、体裁を子どもに押しつけるばかりで、子どもの心やからだの状態をちゃんと見て、ちゃんと感じ、子どもの心やからだを肯定した上での仕付けではないので、子どもはそれを受け入れることが出来ないのです。反抗しているのではありません。子ども自身にもどうにも出来ないのです。現代の人は、「子育て」を身近に見て育ってきていない人が多いです。また、子ども同士で群れて遊びながら育っていない人も多いです。兄弟も少ないので、小さな子どもとも関わり合いも少ないです。また、子育てで困っていても、助言を与えてくれる人や手助けをしてくれる人もあまりいません。そのため、「子育ての現実」や「子どもの現実」を知らないまま、単なる思い込みだけで子どもを産んで子育てを始める人が多いのです。それで、「こんなはずじゃ・・・」となってしまうのでしょう。じゃあどうしたらいいのかということですが、「子ども」を受け入れることが出来ない人は、「自分自身」も受け入れることが出来ていません。「子ども」を肯定出来ていない人は、「自分自身」も肯定出来ていません。まずは、そこをなんとかするところから始めるしかないと思います。それが出来れば、子育てはなんとかなってしまうのです。それが出来ないから苦しいのです。そしてそれが出来ない人が増えてきたから、このような調査結果が出たのだと思います。どうして日本だけが突出してこのような状態の人が多いのか。私たちは、その事をもっと真剣に考えなければならないと思います。
2017.10.13
コメント(0)
京都でのワークがまだ定員に達していません。お近くの人、どうですか。泊まりがけも可能なので、遠方の人も大丈夫です。それと、この情報を拡散して頂けると助かります。*************詳細篠秀夫さんと遊ぼう 第2回 in京都 亀岡・美山こどもを受け入れる、自分を受け入れる―心の育ちから考える子育て―2017年11月3日(金)・4日(土)・5日(日)親子遊び研究家 篠 秀夫さんと一緒に、子育て、自分育てについて考えてみませんか。亀岡の部の開催場所は、築100年を超える古民家「育ちとつながりの家 ちとせ」。そとっこ・そらまめという自主運営のようちえん・学校が活動している場所をお借りします。かまどを使った料理作りや薪割りなども体験できます。ワークショップや共同生活を通して、親子や親同士、子ども同士、たくさんのつながりが生まれる場を一緒に作り上げましょう。子育てが思い通りにいかない、こどもを愛せない、受け入れられない、こうあるべきという価値観にとらわれて苦しくなっているお母さん…周りに助けを求められず、自分のこころもからだもかちかちでくたくた。こどもを受け入れるためには、まずはお母さんが自分自身を受け入れることが必要です。どうして子育てが苦しいのか、どうしたら前に進めるのか、明確な答えはありませんが、篠先生は親子遊び、お話会を通して背中を押して、気づくための種を蒔いてくれます。お母さんたちの仲間づくりのきっかけになること。幸せな親子関係を築ける親子が増えることを目指します。子育て中のお父さんお母さん、これからをされる子育て方、自分育てに興味がある方、ぜひご参加ください。*******篠さんからのメッセージです。子どもたちはお母さんや大人を苦しめるために生まれてくるのではありません。だからといって、お母さんや大人を喜ばせるために生まれてくるのでもありません。子どもは「自分の幸せ」を実現するために生まれてくるのです。そんな子どもが、生まれて最初に願うのが「お母さんと心を通わせること」です。なぜなら、幼い子どもは、お母さんに助けてもらわないことには生き延びることが出来ないからです。また、幼児期は、心とからだの成長もほとんど100%お母さんに依存しています。だから、お母さんと心が通じると子どもは喜びます。安心します。そのための方法が「親子遊び」です。でも、多くのお母さんが自分のことで精一杯です。「子どものために」と色々と考え、やっている人もいますが、それが大人の価値観に基づくものなら子どもは苦しみます。お母さんも、子どもと心が通わなければ、子どもと一緒の時間が苦しくなります。子育ても辛くなります。また、良いお母さんを演じても、心が繋がらなければ、子どもは苦しみます。じゃあどうしたらいいのかということですが、まずお母さんが「自分らしさ」に気付くことが大切なんです。そして、「自分らしい子育て」を考えればいいのです。そこに正解はありません、どんな本にも書いてありません。「自分らしい子育て」は自分で発見するしかないのです。「気質の学び」は、そんな「自分らしさ」を発見する手助けになります。子どもを理解し、パートナーを理解する手助けにもなります。【スケジュール】11/3(金)10:00 開場、受付12:00 昼食13:00-15:00 ワークショップ①(大人向け) 子どもの心を理解する話、気質の話とワークこどもは… そとっこ・そらまめスタッフによる体験会(希望者・有料) 晴れたら近くの山まで散策、 木の実や焚きつけ用の小枝も拾ってきてね。 薪割りや火起こしもやってみよう!18:00 夕食 座談会 ふだん考えていること、悩みなどを分かち合いましょう20:30 終了11/4(土)7:00 朝食9:00-11:00 ワークショップ②(親子遊び) 子どもの成長を支え、親と子をつなぐ親子遊びを11:30 昼食13:00 亀岡の部 解散11/5(日)午前中に美山で大人向けのワークショップを開催します。主催は森の共同保育のらあそびです。詳細は、お問い合わせください。【講師紹介】篠 秀夫さん湘南・茅ケ崎で親子遊びの会、造形教室などを主催。シュタイナーの考え方をベースとして、子育て、セルフケア、気質、人間の成長についてのワークショップや勉強会などを全国各地で行う。ブログ 「森へ行こう」https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/【参加費】ワークショップ①(大人向け)ワークショップ②(親子向け)座談会各5000円、食費込み一つから参加できます全日程参加の場合、12000円ですそとっこ・そらまめ体験(3歳以上):1人2000円*お米、お野菜(1-2つ)の持ち寄りをお願いします*大人のワークショップは、寝返りをする前くらいの小さな赤ちゃん以外のこどもは部屋に入ることができません。 見守りをしてくれる方をお連れしていただくか、そとっこ・そらまめ体験会、または託児(料金調整中)をお申込みください。【宿泊】希望者は、寝袋などの寝具をご持参ください。【会場】育ちとつながりの家 ちとせ〒621-0004京都府亀岡市千歳町毘沙門向畑35(https://goo.gl/maps/ejRFzb3L3CP2)(イベントページの地図で表示される場所は異なります、正しくはこちら、へき亭のお隣です)電車・バス:JR嵯峨野線亀岡駅より ふるさとバスF11系統 乗車約10分 「毘沙門」バス停下車すぐ車:京都縦貫自動車道 亀岡ICから約15分*車での来場可(宿泊者優先)*JR亀岡駅から送迎します【ご予約方法】下記問い合わせ先までご連絡ください。(イベント参加ボタンを押しただけでは予約されません)【お問い合わせ・お申し込み】 担当 木村 メールはこちらです。 担当 平 (森の共同保育のらあそび)メールはこちらです。
2017.10.12
コメント(0)
多くの人が知っている「自分」は、自分の命の働きや、無意識や、からだまで含めた「丸ごとの自分」ではなく、頭の中に「思い込み」として存在している「非現実的な自分」に過ぎません。人が「自分」だと思い込んでいるのは、「自分の意識が見ている自分」に過ぎず、その「自分を観ている自分」、つまり「自分では見ることが出来ない自分」はすっぽりと抜け落ちてしまっているのです。人は自分で自分の体を触ることが出来ます。そしてそれが「自分のからだ」だと思い込んでいます。でもそれは、自分の「表面」であって「中味」ではありません。自分の体を触り、感じている「主体的本体としての自分」には触れることが出来ないからです。それと同じ事です。また、お母さん達が知っている我が子もまた、「お母さん達の頭の中で作られた子ども」であって、「生きて、呼吸し、感じ、考えている現実の子ども」ではありません。人は「頭の中の世界」と、「命やからだが存在する現実の世界」という二つの世界を同時に生きています。でも、ほとんどの人が「頭の中の世界」だけが「世界の全て」であり、それがまた「現実の世界」だと思い込んでいます。そして、「命やからだが存在する現実の世界」を無視して生きています。でも、それはリアルなこの世界の現実ではありません。だから、「生きる」ということにおいても、「子育て」においても、思い通りにならないことや不都合なことがいっぱい起きてしまうのです。でも、思い込みだけで生きている人は、「命やからだが存在する現実の世界」に気付きません。そのため、毎日毎日、同じ事を何回も繰り返し、毎日毎日、同じ苦しみを何回も味わっています。それでも、「なんか変だ?」とは気付かないのです。お母さんが知っている自分は、「頭の中の自分」に過ぎません。でも、実際に子育てをしているのは「頭の中の自分」ではなく、「命やからだの働きによって支えられている現実の自分」です。それを「からだ」と言います。「頭の中の自分」は、その「命やからだの働きによって支えられている自分」がやっていることを見ていることしか出来ません。だから、「そうじゃない」「そんなこと言っちゃいけない」「そんなことやっちゃいけない」と分かっているし、言わないつもり、やらないつもりでも、気付いたら、言ったりやったりしてしまうのです。そして、「頭の中の自分」が「思い通りにならない自分」に苦しみ、自分の無力さを嘆くのです。お母さん達はそれと同じ事を子どもに対しても行っています。お母さん達は、「現実の我が子」ではなく、「頭の中の我が子」を相手に子育てをしているので、常に予想を裏切られ、思い通りにならない現実に苦しむことになってしまっているのです。そもそも、自分のことだって思い通りにならないのに、別の人格である子どものことが思い通りになるわけがないのです。冷静に考えれば当たり前のことなんですが、みんなその「当たり前のこと」に気付かず、悩み、苦しんでいるのです。じゃあ、その「思い通りにならない相手」とうまくやっていくためにはどうしたらいいのかということです。どんなに頑張っても思い通りにならないのですから、支配しようとすることをやめて、相手の存在を肯定し、共存していくしかないのですそれは、自分自身に対してでも、子どもに対してでも同じです。
2017.10.12
コメント(0)
私には、「子どもを見たときにはその子が大人や年寄りになった姿を想像し、大人や年寄りを見たときには、その人が子どもの時の姿を想像してしまう」というおかしな癖があります。親子で歩いている人を見ると、「数十年後はこんな感じになるのか」などと考えたりします。ですから、私には「子ども」は「年寄り」であり、「年寄り」は「子ども」なんです。誕生から死までが繋がった状態で人を見てしまう癖があるのです。どうしてこんな癖が付いてしまったのかは不明ですが、子どもの頃から「伝記」を読むのが好きだったことも関係しているかも知れません。また、多くのお母さんの子育ての悩みを聞くことで、その苦しみの原因が、その人の子ども時代の体験にまで遡ってしまうことを知ったからかも知れません。実際、今現在の苦しみの背景には、子ども時代の体験が強く関係していることが多いのです。人は「今」を生きているのと同時に、「過去」を生きているのです。そして、「過去」に束縛されている限り、その「今」はそのままその人の「未来」なのです。本人が自覚して自分の人生を変えるように努力しない限り、人は子どもの頃の苦しみを一生背負い続けなければならないのです。ただし、これは「苦しみ」だけではありません。「喜び」にも同じ事が言えると思います。子どもの頃にいっぱい喜びを体験した子は、その喜びを忘れない限り、一生、その喜びに支えられて生きることが出来るでしょう。お母さんは、「あなたのためよ」と子どもを追い立て、厳しく仕付けようとしていますが、その行為が子どもを苦しめているとしたら、実際にはそれは「子どものため」にはなっていないのです。それは、お母さんが自分自身の不安を消すための行為に過ぎません。子育てをするときには、自分自身の子ども時代を想い出すと、子どもの気持ちが分かりやすくなるので、子育ての勉強会などでは、お母さん達が子どもの頃どんな子どもだったか、どんなことを感じて、どんな遊びをしていたのか、ということを聞くことがあります。その時、生き生きと子どもの頃のことを想い出すことが出来る人と、想い出そうと考え込まないと想い出せない人がいます。「想い出そうとすると苦しくなってしまうので想い出せません」と言った方もいました。まだ、20代後半のような若いお母さんが「そんな昔のこと思い出せません」と言ったので驚いたこともあります。そして、私の印象では子どもの頃のことを想い出すことが困難な人ほど、子育てを楽しむことが出来ずに苦しんでいる人が多いような気がするのです。その一方で、子どもの頃のことを生き生きと話すことが出来る人もいます。そのような人は、「自然の中で遊んだ想い出」を語ることが多いです。そして、「子育て」も楽しんでいる人が多いような気がします。「仲間と遊んだ体験」が多い人も同じです。「崖を思いっきり走った」とか、「棒を振り回して遊んだ」とか、「川で遊んだ」とか、「稲刈りが終わった田んぼで遊んだ」とか、そういう遊びをした人は、まるで昨日のことのように生き生きとその想い出を語ってくれるのです。子どもの時の喜びがまだその人を支えているのです。それに対して、一人で部屋の中ばかりで遊んでいた人は、なかなか子どもの頃のことを想い出すことが出来ません。人間の記憶は感情によって強化されるように出来ているので、「感情を伴わない記憶」は消えやすいからです。また、子どもの頃の記憶を失ってしまった人は、子どもの心が分からないため、「押しつける子育て」になりやすいです。でも、子どもは押しつけられるのが大嫌いですから、当然反発します。そして子育てが苦しくなります。そのような状態の人は、自分の中の「子どもの心」としっかりと向き合って、その「自分の中の子ども」の声に耳を澄ますようにすると、目の前の「子どもの心」も分かるようになってきます。ただしそれは、苦しい作業になると思います。****************私は佐々木正美さんの本は読んだことがありませんが、私の周囲にはファンが多いです。子どもの心の育てかた [ 佐々木 正美 ]はじまりは愛着から 人を信じ、自分を信じる子どもに (福音館の単行本) [ 佐々木正美 ]子どもへのまなざし [ 佐々木正美 ]
2017.10.11
コメント(0)
最初に「参加者募集」のお知らせです。山梨の塩山の方で年に数回やっている親子遊びの会が、今月(10月)の28日(土)にあります。以下は主催者からのコメントです。今月の28日の土曜日に篠秀夫先生と一緒に遊ぶ会をやります✨キャンセルなども入り、人数に空きがでましたので募集です!11:00-15:00で子どもひとり2000円です。今回は、劇遊びをやります(*^^*)※人数によっては、自然の木を使って工作になります。お弁当持参です。場所は山梨県のザゼンソウ公園です。毎回、色んな発見あり、笑いあり、とっても楽しい会になってます。先生のブログもファンが多いので是非見てみて下さい(*^^*)問い合わせはとりあえず私の方にお願いします。主催者の連絡先をお教えします。場所の地図は「ここ」でで確認してみて下さい。************************先日、岐阜の多治見でお話をさせて頂いたのですが、その自己紹介の時に、若い頃のエピソードとして「インドのガンジス川のほとりで、死体を焼く現場を見に行った」という話をしました。その会に参加して下さっていた「小さな天才の育ち方・育て方」という本を書かれた吉田晃子さんが後日、ご自身のブログに篠秀夫さんも言いました。魚といっしょだと。ニンゲンだけが偉いんだとおもうからへんになるんだと。「笑顔でつながる子育て・自分育て」というテーマがつくお話し会の冒頭で、人間が焼かれていく光景と、藤原新也さんの本のことを話す篠秀夫さんに、わたしは強く興味をもちました。と書いて下さいました。(詳しくはこちらで読んで下さい。)http://ai-am.net/sino2吉田さんご自身も、インドに行かれて、同じ光景を見て来た方なので、夜の飲み会では「人を焼く話」で盛り上がった(なんじゃそりゃ・・・)のですが、私はこの吉田さんのブログを読んで初めて、「子育ての会で人を焼く話しは変なんだ」と気付いたのです。私の中では、誕生と、成長の延長に死があるというのは当然の感覚だったので、「常識的にはそうなんだ」と、ちょっと驚きでした。(「死」は別れとしては悲しいですが、誕生の当然の帰結としての自然現象なので、別に隠すべきことでも、忌み嫌うものでもないと思っています。誕生と死は表裏一体なんです。)そもそも、現代人は「死」を語りませんよね。子どもが「死」と出会う場も、あまりありませんよね。「ペットは死ぬから飼いたくない」という人も多いですよね。でも、今生きている命は、やがて全て死ぬのです。人間も例外ではありません。私たちは取り返しが付かない時間を生きているのです。だから、「今」を精一杯に生きなければもったいないのです。でもみんな、いつまでも今の自分のまま生きていけると勝手に思い込んでいます。よく、「たった一度の人生なんだから」という言葉が使われますが、死を想定していなければその言葉は無意味なんです。*********朝、ここまで書いて出かけたのですが、先ほど弟から甥っ子が急性心不全で亡くなった、という連絡が入りました。若干31才です。今日、このテーマにしたのは虫の知らせでもあったのでしょうか。人は誰でも死ぬのです。それは皆さんだけでなく、皆さんの子どもも同じです。だから、「今」を大切に、「自分」を大切に生きる必要があるのです。今日は暗くなるような話しで申し訳ありません。(このブログをアップするかどうか悩んだのですが、アップしました。生と死に関して何かを感じて頂けたら幸いです。)
2017.10.10
コメント(0)
昨日は、「感覚」が育つことで、「肉体と心の繋がり」も育ち、「からだ」や「心」も育つからです。というところで終わってしまいました。今日はその続きです。人は、他の人の「心」に直接触れることは出来ません。ですから「心」を育てたいと思っても、この仕組みのことを知らなければ何も出来ません。せいぜい、言葉で「優しくしなさい」と教えるだけです。でも、そのような言葉は子どもの「頭」に入るだけで、「心」には届きません。「イジメは良くない」とか「命を大切にしよう」という言葉も同じです。大人は「理屈の世界」に生きています。ですから、子どもにも理屈で説明しようとします。でも、実際に子どもが生きているのは「体感の世界」であって、「理屈の世界」ではないのです。ですから、理屈でどんなに説明されても分からないのです。そのため、他の子を打ってしまった我が子に「ぶたれたらこんなに痛いんだよ!」と言って、自分で我が子を打つことで、「打たれた痛み」を伝えようとするお母さんがいますが、これもまた「理屈から生まれた行為」なので、お母さんの意図は全く子どもには伝わりません。確かに、打たれた子どもは「打たれた痛み」を知ります。でも、子どもが体験するのは「お母さんに打たれた痛み」だけです。当然のことながら「自分が打った子の痛み」ではありません。「友達に打たれた痛み」でもありません。大人は、その両者を無理矢理大人の論理でこじつけて、つなげて説明しようとしますが、その「大人の論理」が子どもには理解出来ないのです。結局、子どもの心の中に残るのは「自分には理解出来ない理由でお母さんに打たれた痛み」だけです。そのため、このような行為は「子どもの優しさ育て」には全く無意味であるだけでなく、親子の信頼関係の育ちを阻害してしまうので止めた方がいいです。我が子に「優しい子」に育って欲しいのなら、「理屈」ではなく「優しさの体験」が必要なんです。子どもは、自分自身の体験を通して、「優しさ」を伝える方法を学ぶのです。いつも殴られている子は、「殴り方」を学びます。いつも叱られている子は、「叱り方」を学びます。いつも脅かされている子は、「脅かし方」を学びます。いつも理屈を押しつけられている子は、「理屈の押しつけ方」を学びます。待ってもらえない子は、「人を追い立てること」を学びます。「汚いものに触ってはいけません」と、木の実や野の花に触ることを禁止されている子は、「神経質」と「自然への恐れ」を学びます。だからといって、「いいお母さん」を演じようとすると、「自分に嘘をつくこと」を学びます。そして、「いい子」を演じるようになります。だから、お母さんは「自分らしさ」を大切にする必要があるのです。ただし、「自分勝手な自分らしさ」ではありません。それでは子どもも「自分勝手な自分らしさ」を学んでしまうだけです。いつも殴られて育った人は「殴られる痛みと悲しさ」を知っているはずです。いつも叱られて育った人は、「お母さんに拒絶される寂しさ」と、「否定される苦しさ」を知っているはずです。いつも脅かされて育った人は、「脅かされることによって生まれる不安と恐怖」を知っているはずです。いつも理屈を押しつけられて育った人は、「気持ちを理解してもらえない悲しみと孤独感」を知っているはずです。追い立てられて育った人は、「自分自身に対する不安」や「自分自身に対する違和感」を知っているはずです。「そんなことしたら病気になる」、「そんなことをしたら落ちこぼれる」、「そんなことをしたらケガをする」と不安を煽られて育った人は、「他者との繋がりを作ることが出来なくなってしまった苦しさ」を知っているはずです。そのような「自分が向き合いたくない自分」と向き合って、「本当は何をしたいのか」、「本当は何を望んでいるのか」、「本当はどういう人間になりたいのか」ということに気付き、その「本当の自分」の「自分らしさ」に素直になるのです。そして、子どもの時に満たされなかった肌の温もりを、我が子を抱くことによって満たすのです。目の前にいるのは、子どもの時のあなた自身なんです。子どもは「(お母さんから)与えてもらうだけの存在」ではなく、「(お母さんに)与えてくれる存在」でもあるのです。「子どもが与えてくれるもの」を素直に受け取って下さい。すると、子どももお母さんも幸せになるのです。***********************今日も河合隼雄さんの本です。父親の力母親の力 「イエ」を出て「家」に帰る (講談社+α新書) [ 河合隼雄 ]子どもと悪 (岩波現代文庫) [ 河合隼雄 ][新版]こころの天気図 [ 河合隼雄 ]
2017.10.09
コメント(0)
昨日は「肉体の成長」に必要なのは「栄養」と「運動」ですが、「からだの成長」に必要なのは、「言葉」と「感覚の働き」だからです。と書いて、「からだ育て」にはなぜ「言葉」が必要なのか書きました。今日は「感覚」について書いてみます。「肉体」は感覚の働きを通して、「心」とつながっています。そして、「心とつながった状態の肉体」を「からだ」とひらがな表記しています。私たちが「自分のからだ」と認識しているのは、「心から切り離された肉体」の方ではなく、「心とつながった肉体」、つまり「からだ」の方です。「肉体」は自分以外の人でも見たり触れたりすることが出来る客観的な存在ですが、「からだ」の方は自分でしか感じることが出来ない主観的な存在です。だからこそ、体重計で計った体重は同じでも、「今日はからだが重い」とか「からだが軽い」とか感じることがあるのです。「からだ」は心の状態に応じて簡単に重さが変わってしまうのです。「肉体」の重さは体重計で計ることが出来ますが、「からだの重さ」は「体重計」では計ることが出来ないのです。そして、私たちがは毎日その「からだ」で動き、感じ、生活しています。子育てをしているのも、「肉体」ではなく、「からだ」の方です。ですから、「からだ」が育っていなかったり、からだの使い方を知らないと、毎日の生活も、子育ても、生きるということも辛くなってしまいます。だからこそ「からだ育て」が大切になるのですが、「感覚の働き」を通して「肉体」と「心」が繋がった状態が「からだ」なので、「からだ育て」は同時に「心育て」でもあるのです。というか、そういう形でないと、子どもの「からだ」の内側にあって、見ることも、触れることも出来ない「心」を育てることは出来ないのです。その時に重要になるのが「感覚」に働きかけることなんです。「感覚」が育つことで、「肉体と心の繋がり」も育ち、「からだ」や「心」も育つからです。今日はこれから、筑波の方で農業をやっている友人の所に芋掘りに行くので、短いですが、これくらいにさせて頂きます。毎年、何十キロももらってきて、教室で焼き芋パーティーをしています。
2017.10.08
コメント(0)
茅ヶ崎でも毎月「気質の勉強会」をやっています。次回は9日(月)「体育の日」です。会場はJR茅ヶ崎駅隣のビルです。10:00~12:00で、2000円です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。*******************子どもの「からだ」を育てるためには、子どもの「感覚」を育てる必要があります。「肉体の成長」に必要なのは「栄養」と「運動」ですが、「からだの成長」に必要なのは、「言葉」と「感覚の働き」だからです。「なぜ言葉?」と思われるかも知れませんが、実は「言葉」は感覚の働きに非常に深い影響を与えているのです。「言葉」が「意識」に影響を与え、「意識」が「感覚」に影響を与えているからです。私たちは「命を感じる」というようなことを言いますが、「命という言葉を持たない人達」は「命を感じる」という発想を持つことが出来ないのです。「青という言葉を持たない人達」は「青」を認識出来ないのです。それは「空気という言葉を持たない人達」が空気の存在に気付かないのと同じです。「自由という言葉を持たない人達」は「自由」を認識出来ないのです。「愛という言葉を持たない人達」は「愛」を認識出来ないのです。実は、感覚の働きを支えているのは「五感の働き」だけでなく、「言葉の働き」も感覚の働きを支えているのです。それが「心の感覚」です。「愛」や、「勇気」や、「希望」といった、五感では感じることが出来ないものを感じるためには「言葉」が必要なんです。「言葉」が人間に「五感」以上の「新しい感覚」を目覚めさせるのです。子どもたちは「言葉」を親や周囲の大人から受け継ぎますが、それは同時に親や周囲の大人の「感覚」を受け継いでいることにもなるのです。ですから、子育てでは「言葉育て」も非常に重要になるのです。「言葉」が育たなければ、お母さんがどんなに頑張って子どもに様々な体験をさせても、「感覚の育ち」には繋がらないのです。でも、これがなかなか難しいのです。目に見える存在である、本や、椅子や、お花や、虫の名前などは簡単に教えることが出来ます。「あれやれ」「これやれ」といった指示命令語や動詞なども簡単に教えることが出来ます。「行動」のようなことは、目で見ることも出来るし、やってみせることも出来るからです。でも、「命」や、「勇気」や、「希望」や、「約束」や、「時間」や、「空気」や、「つながり」といったような「五感の働きでは感じることが出来ないようなことを表す言葉」を伝えるのは非常に困難です。これらの言葉が意味することは、全て「繋がりの中にしか存在できないもの」です。「命」も、「愛」も、「勇気」も他者との繋がりの中だけに存在していて、単体では存在できないのです。「お金」もそうですよね。「お金」に依存しない生活をしている人達に「お金」をあげてもただの紙切れに過ぎませんよね。「お金」が価値を持つためには、「お金」というものを共有する繋がりが必要なんです。でも、子どもたちにはそのつながりが見えません。理解することも出来ません。じゃあどうやって、そのような言葉を伝えたらいいのかというと、そこで必要になるのが「物語」なんです。「物語」は「繋がり」を伝えるための方法でもあるのです。ですから、「物語」を伝えてもらえない子は、「繋がりの中でしか価値を持つことが出来ないもの」の本当の価値が分からなくなってしまうのです。当然、それを感じることも出来ません。「からだを育てる」ということは、それだけ広い繋がりを持っていることなんです。身体測定や、体力測定なんかで分かるようなことではないのです。********************私は河合隼雄さんの本が好きでよく読みました。河合隼雄全対話(7) 物語と子どもの心 [ 河合隼雄 ]Q&Aこころの子育て 誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [ 河合隼雄 ]子どもの宇宙 (岩波新書) [ 河合隼雄 ]
2017.10.07
コメント(0)
では、「からだを育てる」とはどういうことなのか、ということです。この場合の「からだ」とは「肉体としてのからだ」のことではありません。ですから、単に「栄養のあるもの」を与えて育つものではありません。じゃあ、なんなのかというと、「命の働きの現れとしての身体」のことなんです。「肉体」のような「物理的な存在」ではないのです。そのため、誰でもが見ることができる「肉体」と違って、「からだ」の方は、感覚的に感じることによってしかその存在に触れることが出来ないのです。「命の働き」は、自分自身の「命の働き」と共鳴させることによってしか知りようがないのです。ですから、自分の中の「からだ」という働きを感じることが出来る人には「他者のからだ」も感じることが出来るのですが、そうでない人には「肉体」しか見えないのです。そして、自分の「からだ」を「頭の働きの道具」としてしか考えていない現代人は、自分の「からだ」に無関心です。だから、子育てや教育の現場でも、「からだ育て」がないがしろにされてしまっているのです。でも、その事で、子どもの意識の働きや、心の働きの育ちが困ったことになってしまっているのです。短いですが、今日はこれくらいにさせていただきます。タブレットに入力するのは疲れます。
2017.10.06
コメント(0)
実は、「からだ」は、目で見ることができる「心」なんです。「姿勢」も、「仕草」も、「眼差し」も、「行動」も、「声」も「心」の現れだからです。ですから、その人の「からだの使い方」を見ていると、その人の「心の使い方」が見えてくるのです。また、「からだの使い方を学ぶ」ということは、「心の使い方を学ぶ」ということになるのです。茶道等を学ぶと、その事がよく分かりますよ。「心」は、「心」単体で存在してるわけではないので、「心」だけを育てることは出来ないのです。だからこそ、幼い子どもの「心育て」においては、「からだ育て」が、非常に大きな意味を持ってくるのです。でも、現代人は子どもの「からだ育て」にはあまり興味がありません。でも、優しい子、賢い子にはなってほしいと思っているので、「いじめはよくないよ」とか、「優しくしようね」とか、「もっと頭を使いなさい」とか、言葉だけで子どもの「心」を育てようとしています。でも、それは無理なんです。子どもは、お母さんの「姿勢」や、「仕草」や、「眼差し」や、「行動」や、「声」を見たり、聞いたり、体験し、模倣することで、「からだの使い方」を学んでいます。ですから、子どもはお母さんと似たような「姿勢」や、「仕草」や、「眼差し」や、「行動」や、「声」を持つようになります。そうやって子どもは「お母さんの心」を受け継いでいくのです。それ自体は、「そいうもんですよ」というだけの話なんですが、問題は、「お母さんの心」を受け継ぐだけでは子どもの心は育っていかないということです。それは、「朝顔の種」が、「朝顔の特質」を受け継いでいるのと同じレベルの話だからです。大切なのは、「そこからどう育つのか」ということなんです。
2017.10.05
コメント(0)
明日の朝早くから岐阜の多治見に行ってしまうので、明日はお休みさせていて抱きます。帰りは6日ですが、5日、6日は、多治見から更新します。よろしくお願いします。*************************昨日、教室のお母さんから「今、学校の朝の体操で骨折する子がいっぱいいて先生が困っている」という話を聞きました。その話を脇で聞いていた子どもが「5人だよ」と言っていました。運動会の騎馬戦のような過激な運動で骨を折るのなら分かるのですが、普通の授業の体操で骨を折ってしまうなんて、その状況が全く理解出来ません。栄養の偏りや運動不足などで骨が折れやすくなっているということもあるでしょうが、からだの使い方が下手くそだということも骨折の大きな理由の一つだと思います。昨日の話との繋がりで言えば、からだとの対話がうまく出来ないのでしょう。もう随分前から子どもたちのからだの異常の報告はありました。私が、転んでも手が出なくて顔から地面に追突してしまうとか、顔にボールが飛んできたときも目を閉じることが出来ないので、眼球を傷つけてしまうとか、握って回すタイプの水道の栓が回せないとか、山道のように平らでない道を歩かせるとすぐに転ぶとか、からだが異常に固いとか、指先が不器用だとかいう子どもたちが増えてきたということを知ったのはもう10年以上前です。そして、その状態はますます悪化してきているように感じます。筋力も、骨力も、運動神経も低下した「老人のようなからだの子どもたち」が増えてきたのです。もっとも、最近の子は老人と同じような生活をしているのですから、老人と同じようなからだの状態になっても当然です。私は子どもたちと相撲を取ることも多いのですが、最近の子と相撲を取るときは神経を使います。昔の子は投げ飛ばしても大丈夫でしたが、最近の子は投げ飛ばすと大けがをしてしまうからです。とにかく、倒れるときに自分のからだを守れずに、顔や頭から倒れるような子が多いのです。ですから、倒しても手を離すことが出来ません。本当に、信じられないような倒れ方をするのです。それでヒヤッとしたことが数回あります。ただし、これは個人差も大きく、野山をいつも走り回って遊んでいるような子は、比較的昔の子どものようなからだをしています。ですから、幼稚園によっても子どものからだの状態は大きく異なっています。遊びを大切にしている幼稚園の子は比較的からだの使い方は上手です。私の周囲の子どもたちは、比較的そのような幼稚園に行っている子が多いのですが、でも、全体的な割合から見たら、そのような幼稚園は少数派だと思います。「我が子が小学校に上がったときに困らないように」という親の不安に応えることを大切にした幼稚園の方が多いと思います。最近のお母さんは不安が強いので、その不安に応えることをウリにしているのです。我が子を「遊び重視の幼稚園」に入れているお母さんでさえ、「うちの子は字も書けないんですけど大丈夫でしょうか」という質問はよく来ます。「遊びを大切にしたい」という想いはあっても、「本当にそれでいいのかしら」という不安も強いのです。マスコミなどもその不安を煽っています。単に生活が簡単便利になったからからだを使わないようになったというだけでなく、そこに、お母さん達の不安も加わって、さらに子どもをお勉強に追い立てたり、「危険で不潔な遊び」(自然の中での遊びは危険で不潔ですからね)から遠ざけようとしているのです。その結果が今時の子どもたちの「からだ」なんでしょうが、問題は、そのような生活で育ち損なってしまうのは「からだ」だけではないということなんです。人間の心も、からだも、精神も、知能も、必要に応じて育つように出来ているので、そのようなものが必要がない状態で育っていると、からだだけでなく、心も、精神も、知能も育ちにくくなってしまうのです。ただ、心や、精神や、知能は見えにくいですが、「からだの状態」は見えやすいということに過ぎません。今時の子は、「骨」が折れやすくなってしまったのと同じように、「心」も折れやすくなってしまっているのです。(お母さん達も・・・)「心の使い方」を学ぶことが出来ないまま成長することになってしまっているからです。
2017.10.03
コメント(2)
ほとんど全ての人間の「人間らしい能力」は、「他者との対話」によって育つように出来ています。感覚の使い方も、思考の使い方も、からだの使い方も、「他者との対話」によって育ちます。先日書いた、指先の器用さも、指先を使った活動を通しての対話によって育ちます。この時、「他者」と対話しているのは「意識」や「心」と呼ばれるものです。ですから、他者との対話で育つのは、対話に使われている様々な能力だけでなく、対話の主体としての「意識」や「心」も育っています。逆に言うと、他者との対話が不足すると、様々な能力の育ちに遅れが出るだけでなく、意識や心の育ちにも遅れが出るということです。その時、様々な能力の育ちの遅れは、ある程度は本人も自覚できます。他の人に出来ることが自分には出来なかったり、他の人には理解出来ることが自分には理解出来ないからです。でも、「意識」や「心」の育ちの遅れは、本人には意識できません。なぜなら人は自分の意識や心を使って、そのような判断をしているからです。つまり、自分の「意識」や「心」は「他者を測る物差し」なので、自分自身を測ることは出来ないということです。その状態は、音痴の人が、自分が音痴であることに気付かないのと似ているかも知れません。音感がいい人は、自分の音程が狂っていると分かるのですが、音痴の人は自分の音程が狂っていても分からないのです。(自分が音痴だということを知っている人でも、みんなから言われるから、「音痴なんだ」と知るだけです。自分の音程が狂っていることを感じることが出来るのなら、音程を合わせることも出来るはずだからです。)周囲はみんな分かっているのですが、本人だけが分からないのです。ただ、音痴の人でも、繰り返し、繰り返し、音と対話することで、次第に自分の音感のズレに気付くことは出来ます。でも、音との対話をしない人はそのままになってしまいます。私の知り合いにも、すごく音痴の人はいましたが、気持ちよさそうに歌うのです。ですから、本人は気付いていないのだろうと思うのです。同じようなことが、意識や心の状態に起きてしまうのです。でも、自分のズレには気付かないので、相手の方が間違っていると感じてしまうのです。でも、この「音との対話」のようなことも、その根底には、人と人の対話があります。お母さんとの対話や、身体的、感覚的やりとりが、子どもの対話能力の基礎になっているのです。人間相手の対話でも、人間以外の他者との対話でも、その基本は同じだからです。それが「やりとり」であり、「フィードバック」と呼ばれるものなんです。大人になってからでも、ある程度なら訓練次第でこの対話能力を育てることは可能だと思いますが、子ども時代に対話を通して学んできたことを取り戻すことは困難です。そして今、この対話が出来ない子どもたちがいっぱいいるのです。自己主張はするのですが、相手の言葉に耳を傾けることが出来ないのです。そのような子は、造形の場でも、素材に対する関わり方が一方的です。<続きます>
2017.10.02
コメント(0)
「集中する」ということは「統合する」ということでもあります。五感の働きや、意識や、心やからだを、一つの対象や目的に向かって統合していく時に「集中」という現象が起きるのです。ですから、ゲームをしている時にも確かに集中は起きているのですが、問題はその集中が「自分の意思によるものではない」ということです。ゲームの強い刺激が「意思の働き」の代わりをして集中を起こさせているのです。森の中でクマに出会ったら、誰でもそのクマに意識も、感覚も、心もからだも集中しますよね。でもその集中は「自分の意思によるもの」ではありませんよね。それと同じです。(集中しているのではなく集中させられているのです。だから疲れるし、だからやめることが出来ないのです。)そして、外部からの刺激による集中だけを繰り返していると、「自分の意思で集中する能力」が育たなくなってしまうのです。その結果、勉強や、アナログ的なオモチャや遊びや造形といった、「能動的に関わらなければ何も始まらないような活動」に対しては集中できなくなります。先生が楽しく授業をしてくれれば授業に集中できるのですが、自分の意思で集中する能力が弱いので、楽しくない授業だと、ジーッとしていることが出来なくなってしまうのです。そんな時、先生が厳しく叱って恐怖心を与えれば、一時的には静かになりますが、それは恐怖心で心とからだが固まって動けなくなっているだけであって、集中が始まったわけではありません。ですから当然、先生の言うことは頭に入っていません。私は自宅では造形教室をしているのですが、造形は一生懸命に取り組むことで初めてその楽しさが分かる活動です。木々や、紙や、様々な素材を眺めているだけでは何にも楽しくありません。何か作る目標を決めて、一生懸命に取り組むことで初めて、楽しさが生まれてくるのです。楽しいから一生懸命にやるのではなく、一生懸命にやるから楽しくなるのです。これは勉強でも同じです。でも、最近の子どもは、最初から楽しいこと(楽しそうに見えること)以外のことには取り組もうとしない傾向が強いのです。それは、ディズニーランドなどで、面白そうなアトラクションだけを選んで遊ぶような感覚です。簡単な失敗ですぐに諦めてしまうのも、「お客さん感覚」で取り組んでいるからです。失敗を乗り越えてまで頑張る動機が存在しないのです。でもだから、自分の世界を広げることが出来なくなってしまっているのです。昨日は大勢の親子と凧を作って遊んできたのですが、他にも、クギ刺しの「クギ」、「ベーゴマ」、「コマ」などを持って行きました。その会の子は基本的に外遊びが好きな子どもたちばかりですから、最初は全然出来ませんでしたが、あれこれ工夫して、頑張って遊んでいました。特に、「クギ刺し」にはまった子が多かったです。昔の遊びは工夫次第でどんどん楽しくなるのです。でも、工夫しなければ楽しくありません。ベーゴマやコマはちょっとハードルが高かったようです。ちなみに「クギ刺し」という遊びは、五寸釘のような長いクギを投げて地面に突き刺して遊ぶ遊びです。なかなか難しいですよ。大人でもなかなか出来ません。でもだから、工夫し次第で上手になるのです。最初は刺さらなかった子が、刺さるようになるとどや顔をします。まぐれで刺さったとしか思えないような状態でも刺さったクギを見せるために大人を呼びに来ます。工夫し、努力した結果がちゃんと形になって表れたのが嬉しいのです。(ベーゴマやコマは「まぐれで回る」ということがないので、そこまでたどり着けなかったようです。)そういう遊びが、子どもが育つ遊びだと思うのです。そして、そういう遊びの中で子どもの集中力が育っていくのです。「遊びだ」けでなく「オモチャ」も、本来は、素朴で、刺激が少なく、能動的に関わらなければ楽しくないようなものがいいのです。でも、子どもを金儲けの対象として考える大人達は、刺激が強く、努力も必要とせず、最初から楽しく遊ぶことが出来るようなオモチャを開発して、子どもの購買意欲を刺激しています。そして親も、それに踊らされています。*****************
2017.10.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1