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2026.05.31
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カテゴリ: 坐禅
大智禅師偈頌講話 沢木興道

  鳳山山居(五) 
 万象之中独露身 (万象の中独露身)
 更於何処著根塵 (更に何れの処に於いてか根塵を著けん)
 回首独倚枯藤立 (首を回らして独り枯藤に倚って立てば)
 人見山兮山見人 (人山を見る山人を見る)


『大智禅師偈頌』のうち、「鳳山山居」八首中の第五首。
 まず、「万象の中独露身」これは長慶の言葉である。『従容録』の中に「万象の中独露身、払って独露身か、払わずして独露身か」という問答がある。今ばかりじゃない。昔もそれ位のことでさえも、分らなんだことがある。
 万象の中独露身というのは払って独露身か、払わずして独露身か。で、長慶は「万象の中独露身、唯人自ら肯って乃ち方に親し」宗教的体験の上からわれわれの日常生活が、万象の中独露身。天地いっぱい。『正法眼蔵現成公案』の中に「自己を修証するはさとりなり」とある。で、万象の中独露身、天地に、二つのものがなくなる。眺めるものと、眺められるものと二つなくなる。
 拝む衆生と拝まれる阿弥陀さんと二つあるとなると、拝む衆生からは売僧(まいす)根性が出ようし、拝まれる阿弥陀は調子づいて来よう。しかし前に一切衆生はない。またその前に阿弥陀はない。救う観音と救われる衆生と二つない、一つになる。寝ておる、その一睡のまどろみの中に、相手もおれば、味方もおる。ご馳走もあれば、ご馳走でないものもある。うまいものもあれば、味ないものもある。酒もある。ものは二つもない。これを『華厳経』には「三界唯一心」という。あるいは唯識唯心、唯心の所現という。だから、心外の諸法は諸法の本なし。こうして見えるものはなんにもない。
 それは、心内の諸法ともいえるし、心外に一物もないともいえる。万象の中独露身だから、「更に何れの処に於いてか根塵を著けん」根は六根、すなわち主観である。塵は六塵、すなわち客観である。更に何れの処に於いてか根塵を著けん。主観がない。仏道修行というのは、この主観と客観の二つの尽きるところに道がある。
 主観と客観と二つを立てて、阿弥陀さんに賽銭をあげて売僧こくようなつもりで拝んでおる。安心も糞でもない。極楽と娑婆と二つ並べて、「この娑婆は嫌なところでございまして、罪悪深重、五濁悪世、どうぞお救いください」といっても、極楽はないことに決まっておる。二つないところに道がある。それが万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん、なんというか、わたしはこれを実あって名のない世界という。これが万象の中独露身である。そしてそれが人間の進む道であり、それが法性真如の世界である。一心真如門。真如は一つ。それが一心二門三大四信五行と転々として来る。
 その万象の中独露身、それは何であるか。これが坐禅なんだ。わたしは「坐禅は宇宙の全景を一目に見る法である」とよういう。だが、見るといっても眼で見るのではない。心で宇宙の全景を一目に見る。で、誰やらが「お互いを残りなく解することを、愛の第一義」という。「ウン、それだからお前を残りなく解する」お前を残りなく解するということはどういうことか。
 細君と二人で相談して、「お前を残りなく解しておる。俺をどう解しておるか」お前を残りなく解するとは、どういうことか。残りなくといっても、まあ時間的にいって、現在までのところー。それもなかなか容易なことではない。過去にどんなことをしておるか分からん。ましてこれから先どんなことを思うか分からん。どんなことをするか分らん。そうすれば、お互いを残りなく解するということは不可能なことである。
 そればかりではない。自己を残りなく解することも不可能である。道元禅師は「自なほ自の落処を知らず、他いかでか他の落処を識ることを得んや」自分というものの成り行きが分らん。ここまで来たのはまぐれ当たりじゃ。来ると決めて来たのではない。沢木さんもこんなところへ来て、こんなことをしようと思いはせん。どうしようかと思っても、なったものは仕方がない。腐れ縁じゃ。
 これから先自分が分らん。またこれから先、どうなるか分からん。どんな死にようするか分らん。なにを食って死ぬか分からん。逆とんぼして死ぬやら、汽車に乗って死ぬやら、自動車で死ぬやら、中風で死ぬやら、胃病で死ぬやら、肺病で死ぬやら分らん。また、自分の心理状態がいかに転換するやらこれも分らん。「自なほ自の落処を知らず、他いかでか他の落処を識ることを得んや」だから、お互いを残りなく解することは容易なことではない。そのお互いを残りなく見る。それが即ち非思量、それが坐禅である。それが即ち万象の中独露身である。天地同根、万物一体の理屈じゃ。天地同根、万物一体を実物でするのが即ち禅である。(大智禅師偈頌講話p.19-22)


(続く)





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最終更新日  2026.05.31 01:00:06


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