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明治36年(1903)の第19帝国議会は奉答文事件でたちまち解散されたが、この議会で藤三郎は、元十州製塩会社社長の井上純太郎と知合いになった。解散前の5月、井上は、藤三郎に発明の才能があることを知って「日本の塩は、ドイツからの輸入塩にけ落とされかかっています。もう3割くらい製塩費を軽減する方法を考えなければ、わが製塩業は全滅してしまう。なんとかいい方法を考えてください」と頼んだ。
わが国に外国塩が初めて輸入されたのは、明治26年(1893)で、品質は内地塩の純分が80%に過ぎないのに、外国塩は平均86%以上ある上、価格も安いため、外国塩の需要は激増した。政府は、技師を海の内外に派遣したり、また塩業試験場を設けたが、改善する見込みが立たなかった。そこで最後の手段として、明治38年(1905)に食塩専売法を施行した。井上純太郎の依頼を受け、藤三郎は農商務省の奥健蔵の調査報告を読み、欧米の製塩方法を研究した。その結果、藤三郎は風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置(特許7218号)を発明し、明治37年(1904)3月に特許を取った。翌年には、海水を経済的に蒸発させるために、気圧を低くすると低温でも蒸発する理を応用した低圧蒸発缶(特許8726号)も発明した。なお続いて硫酸石灰の付着結晶を防ぐためには、多管内自動掃除装置(特許8734号)を発明した。そのほか、自動製塩機(特許15951号)や、海水導入装置(特許13620号)なども発明した。
藤三郎は、直接、製塩に関する発明だけでも、最後まで33件の特許をとったが、明治38年(1905)に福島県岩城郡小名浜に、新しい方法の試験工場として、鈴木製塩所を新設した。機械の運転を始めたのは、明治40年10月であった。この工場は全く独力で建設した試験工場だったが、資本金40万円を投じ、一昼夜に300石、1年に3万石の製塩をする計画で、壮大なものだった。その後も、改良に改良を加えて、完成したのは、明治42年(1909)のことだった。
藤三郎はなんとこの時代に、水力ダムを設け、水力発電を製塩工場に使用する構想を持っていたことを「駿河土産」(第1集p214)の著者国府犀東氏が記録している。
「◎ 『岩城の小名浜近く、流るゝ夏井川といえるに水力電気を仕掛け、工事もすでに竣成して、2個の電力併せて1万5千馬力、近所に石灰山もあり、海浜も近くして、アルカリーを製造するには、最も適当の地を得たり。水力電気を純然たる工業用に使うは、これが始めてなるべし』とは、鈴木氏の談。 猿橋の水力電気は、7,500馬力、宇治川の計画は、1万馬力、今日にては小名浜の水力発電を随一とせんか。鬼怒川に15万馬力とかの計画ありとかいえど、いまだそのいかんを知らず。」
また、「なぜ大胆に一事業のため40万円の試験費を投じたるか」の質問に対して、「私が事業を創始するについては、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の御歌に、 仮の身をもとの主に貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞ というのがある。
これは翁の根本主義を説明したもので、翁則ち神という大抱負を示したものである。我々の到底及ぶ所ではない。また翁のお歌に、 世の中に人の捨てざるなきものを 拾ひ集めて民に与へん というのがある。ある人は「捨てざるなきもの」というのが偉い。「捨てたるものを拾ふ」といえば、何人もするが、「捨てざるなきものを拾ふ」というのは、なかなかできがたいものであると言ったものがある。私はこれに倣うて、 世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いん と詠んだことがある。翁は「なきもの」といわれ、あらゆる事物に通じた意味を示されてあるが、私は「業」といい、事業だけの狭い意味にした。世人の捨てない事業を開拓し改良して、些少なりとも国家に益したいという微意を現したものである。
したがっていったん見込みをつけた事業に向かっては、40万円でも50万円でも必要に応じて投下することを厭わない。いやしくも国家のためになるべき地形であれば、資産はもちろん、借金してまでもやる覚悟である。その代わり、この事業で何のくらいの利益を得なければならぬとか、損をしてはならぬなどということを考えない。損得はまったくこれを別にし、事業にかかっては鉄砲玉のごとく邁進する。人は事業を計画するに、利益の割合ということを目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かぬ。事業が成るか否やというのを主眼としているのである。」鈴木藤三郎 27 藤三郎、日本精製糖会… 2026.06.06
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