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宝慶記 道元 略出(「宝慶記」大谷哲夫 講談社学術文庫、水野弥穂子現代語訳注参照)「宝慶記」 道元、如浄に拳を立て払子をふるい喝をはなち棒を行じることを問う道元拝問す「今、諸方古今の長老等いわく、『聞いて聞かず、見て見ず、直下一点の計較(思慮分別)無き、乃ち仏祖の道なり』と。ここをもって、拳(けん;こぶし)をたて、払(はつ:払子)を挙し、喝を放ち、棒を行じて、学者をして一つも卜度(分別)すること無からしめ、遂にすなわち仏化の始終(仏が衆生を教化するすべて)を問わず、二生(過去・現在)の感果を期すること無し。これらかくのごとき等の類、仏祖の道たるべきや」。・道元は中国において実地に見聞した禅の指導者たちが、払子をふるい、拳を振り上げ、棒で殴り、一喝することによって、その瞬間何も考えさせない接化手段が横行したことへの疑問であった。そこには釈尊の真実の教えはどういうものかや、仏教の教えが入り込むとことはなかった。黄檗が臨済を三度打ち据えることによって悟らせたり、徳山も棒をふるった。また臨済は喝によって教化した。道元の入宋した頃は、その手段・方法のみ伝わり、真の仏法の姿は形骸化していた。
2026.06.06
宝慶記 道元 略出(「宝慶記」大谷哲夫 講談社学術文庫、水野弥穂子現代語訳注参照)宝慶記 1225年7月2日(太陽暦8月14日)道元、初めて教外別伝、祖師西来の意を問う上に問う。宝慶元年七月初日、方丈に参ず道元拝問す「諸方、今、教外別伝と称し、しかも祖師西来の大意を看るとなす。その意如何」。 和尚示していわく、「仏祖の大道、何ぞ内外にかかわらん。しかるに教外別伝を称するは、ただ(迦葉)摩騰等の所伝の外に、祖師(達磨)西来し、親しく震旦に到り(インドから中国に渡来され)、道を伝え業を授く。故に教外別伝というなり。世界に二つの仏法有るべからず。祖師未だ東土(中国)に来らざる先、東土には行李(旅行の荷物)のみ有って、未だ主有らざりき。祖師既に東土に到れるは、たとえば民の王を得たるがごとし。その時にあたって、国土、国宝、国民、皆王に属するなり」。・道元が始めて如浄に参じたのは、1225年7月2日(太陽暦8月14日)時に道元26歳、如浄64歳。明全が5月27日に42歳で亡くなって35日目道元が中国に師を求めるたびに疲れ、天童山で5月1日に如浄との初めての面会から約2月経過していた。・異国の修行僧が、天童山景徳寺の大和尚に、方丈にあがって問いを発する。道元はそれを願い、如浄はそれをゆるした。師が弟子を認め、弟子が正師を得た。この歴史的な邂逅が人が正師を得ることの大切さを道元に悟らせしめた。・「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」(伝菩提達磨)について如浄は「世界に二つの仏法あるべからず」と明確に教示した。道元も「禅宗」という呼称を否定する姿勢につながる。
2026.06.06
宝慶記 道元 略出(「宝慶記」大谷哲夫 講談社学術文庫、水野弥穂子現代語訳注参照)〇宝慶記 如浄、道元に随時参問をゆるす 和尚示していわく、元子(道元)の参問は今より已後、昼夜の時候(時間)に拘わらず、著衣衩衣(袈裟をつけるといようがいまいが)、しかも方丈に来りて道を問うに妨げ無し。老僧、親父のこの無礼をゆるすに一如せん(父が子の無礼をゆるすのと同じ気持ちで迎えよう)。 太白 無甲(太白山(天童山) 如浄)『正法眼蔵』「弁道話」 予、発心求法よりここかた、わが朝の遍方に知識をとぶらいき。ちなみに建仁(寺)の全公(明全)をみる。あいしたがう霜華、すみやかに九回をへたり。聊か臨済の宗風を聞く。 全公は祖師西(栄西)和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり、あえて余輩のならぶべきにあらず。・明全は宝慶元年(1225)5月18日、病にかかり、27日、天童山了然寮でなくなった。年42歳だった。 『宝慶記』の奉呈文は、明全が荼毘にふされた直後に如浄に奉呈された。その一か月後7月2日に道元は初めて如浄を拝問した。
2026.06.06
宝慶記 道元 略出(「宝慶記」大谷哲夫 講談社学術文庫、水野弥穂子現代語訳注参照)○書簡により如浄に随時参聞を願う道元、幼年より菩提心をおこし、本国に在りて道を諸師に訪い、いささか因果の由る所を識る。然もかくのごとくなりといえども、いまだ仏法僧の実帰を明らめず、いたずらに名・相の懐幖(文字・言句)に滞る。後に千光禅師(栄西)の室に入り、初めて臨済の宗風を聞く。今、全(明全)法師に随って炎宗(宗の国)に入る。航海万里、幻の身を波濤に任せて、遂に大宗に達し、和尚(如浄)の法席に投ずることを得たり。けだしこれ宿福(前世からの因縁による福)の慶幸(しあわせ)なり。 和尚、大慈大悲、外国遠方の小人の願う所は、時候(時間)に拘わらず、威儀を具せず、頻繁に方丈に上って、愚懐を拝問せんと欲す。無常迅速、生死事大、時、人を待たず、聖を去りては必ず悔いん。 本師堂上、大和尚、大禅師、大慈大悲、哀愍(あわれみ)して、道元が道を問い、法を問わんことを許したまえ。伏してこいねがわくは慈照(慈悲をもってこの書簡を照覧せんことを)。小師(弟子)道元、百拝叩頭して上覆(申し上げます)。 大谷哲夫p.12 道元の仏法を学びたいと思いながら・・・つまずき、頓挫し、明らめている人々に、筆者は、まずは『宝慶記』の精読を勧めたい。それは若き道元の求道の志が、展開されているからである。・『宝慶記』は道元が如浄に実参した室中の記録である。
2026.06.06
23明治35年(1902)1月31日に、日本精製糖会社の創立以来の社長長尾三十郎が、その主宰していた銀行が前年末に破産したので、会社へ悪影響を及ぼすのをおそれて、社長も取締役も辞任した。藤三郎は、前年10月に渡台し、正月7日に帰京し、初めてこの事情を聞いて驚いたが、どうにもできなかった。明治36年(1903)1月31日の改選で、藤三郎は日本精製糖株式会社の社長に就任した。長尾氏は藤三郎が日本精製糖会社を株式会社にしようとした際に、第三十九国立銀行東京支店長で、国家経済上からも精製糖事業は一日もゆるがせにできないと全面的に協力された。長尾氏が社長となり藤三郎は専任取締役兼技術長だった。長尾氏が社長だったからこそ、藤三郎は安心して1年半もの間、米欧旅行に行き、最新の製糖業の知識や技術さらには米欧の産業革命の実態を知ることができた。長尾氏は、製糖事業における藤三郎の恩人であり、盟友だった。ある意味吉川氏とともにこの人を失ったことが、後に日本精製糖会社の乗取りを許した一因といえるかもしれない。藤三郎は明治36年(1901)3月の第8回総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、彼が総裁をしている政友会に入り、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となった。井上馨が伊藤博文に鈴木藤三郎を紹介した手紙が、森町の周智歴史民俗資料館に残されています。明治36年(1901)1月30日付けの手紙で「鈴木藤三郎という者を静岡県候補とするようお願いします。・・・東京に帰る途中、御地へ立ち寄り、ぜひ台下へ一応謁見したいとのことで、添え書きをいただきたいとの事です。なにとぞご多用中であるとは思いますがご引見くださいますようお願い申し上げます。決して人物は不節の者では無いことは保証いたします。」と依頼する内容です。藤三郎は当時の政治家が、新しい産業に対して無理解であると、砂糖消費税問題で痛感したので、自分の手で擁護するの必要を考えたからだった。日露戦争を眼の前に控えたこの第19国会は、12月11日に河野広中議長が、開院式の時の勅語の奉答文中で、桂内閣の弾劾をしたという奉答文事件があって、開会の翌日解散された。翌明治37年(1904)3月第9回総選挙で、藤三郎は再選された。そして、明治41年(1908)3月まで日露戦争中の戦時議会に出席して、国事に尽した功によって勳四等を贈られた。日露戦争中、醤油エキスを発明し、戦地に供給され貢献したことや、それが後の新式醤油醸造法に繋がったことが鈴木農場を訪問した岡田良平氏や著者の国府犀東(こくふさいとう:日露戦争の頃「太陽」の時事評論を担当)氏らに語ったことが「駿河土産」(第1集P221-222)の中で記述されています。『戦時に際して陸軍糧秣廠よりの依嘱もあり、さきに砂糖凝結の実験をなし、方式に従いて、醤油のエッキスを試造したるに、初めて高熱度を用いし為か、豆分と塩分と全く分離して固有の旨味を失い、実験意のごとくならざりしが、ついで低温度にて固結せしめるの方式を設け、ついに原来の味と全く異ならざる固形醤油を造り得るに至りしが、当時戦地に供給せられしはすべてこの醤油なりしなり』とて膳に用いられし醤油がこのものなりと説明せらるゝを聞きゝては、戦役の当時この便利なる固形醤油がいかに我が軍隊を利益したるの多かりしやを憶えざるを得ず。」また、明治41年藤三郎が緑綬褒賞を受けたときの中央報徳会の受章祝いの席で日露戦争中、兵隊の炊飯用の釜の発明をしたことについて述べている。(第1集p185)「私がこの釜の発明を思付いたのは、普通の飯を炊く際に、火を釜底の中央に当るようにするのを見て、二重底にしてパイプの如きもので釜底の中央に火を送るようにした。▲西洋では「パン」は皆商店より配達するのに、日本では戸ごとに飯を炊くのは不思議である。若しこの如き釜で大仕掛に炊いて配達したようにしたらば、経済であると思う。▲この釜は蒸気機関で炊くのだから、蒸気機関を使用している所では、すぐに実行出来るが、その設備にないところでは機関の据付費が600円ばかりを要す。▲この釜で炊けば手数が省けて出来損ないなどということは決してなく、飯もごく甘く出来る。▲陸軍経理学校では、飯をかしぐに従来2円47銭を要したのが、この釜でやってからは、1円04銭で出来るようになった。また連隊のような人の多いところでは半分の費用で出来る。それのみならず飯を炊けば労せずして風呂を立てることができるという徳用がある。」
2026.06.06
大智禅師偈頌講話 沢木興道 偶作(一) 倒騎仏殿入燈籠 (倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入る)逆順門中有路通 (逆順門中路の通ずる有り)頂上鉄枷重脱下 (頂上の鉄枷重ねて脱下せば)可聞秋雨送梧桐 (聞くべし秋雨の梧桐を送ることを) わたしは先年ハルピンから放送したことがある。大連から礼状がきた。「家内中目のあたり直接お話を承るようであった。是非またラジオでやってもらいたい」と書いてあった。そうすると波長が合えば大連とハルピンと直通しておる。遠いもない、近いもない。そうすれば一切の景色が一つのレンズの中に入ってしまう。大きゅうもない、小そうもない。 そうすると、写真機の中に倒に入っておる。倒(さかしま)に仏殿に騎って、レンズに入っておる。竪でもない、横でもない。遠くもない。近うもない。大きいもない。小さいもない。長うもない。短こうもない。そこの、たった一つの大道理、この大道理をよう飲み込めば、実にこの人生というものは見た通りじゃない。妄想を作らず、分別に支配せられず、そこにこの妄想分別さえなければ、本当に自身の内面の問題であるならば、言葉はなんとあってもドマツク必要はない。倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入る。 逆順門中路の通ずる有り。それでお前がわたしだという道もある。わたしがお前だという道もある。大きいが小さいという道もある。大きいままが大きい、小さいままが小さいということもある。どうということはない。仏さんが凡夫で、凡夫が仏さん、迷が悟で、悟が迷、悟ったのは悟ったで、迷ったのは迷ったということもある。逆順門中路の通ずる有り。ここに縦横無尽、なんの行き詰るものもない。これが宗教的、内面的事実である。「頂上の鉄枷(てっか)重ねて脱下せば」頂上の鉄枷、なんだか知らんが、人間に悟りというようなものができると大変窮屈になる。それでまあ、頂上といえば、軽く言えば悟り、それは迷いを捨てて悟りを開くというのはやはり窮屈じゃ。貧乏人をやめて金持ちになったというのも、ずいぶん窮屈であろうと思う。 わたしは金持ちになったことはないから知らんけれども、あれは先祖の財産を減らすことはできんげな。窮屈でないというのは、あれは麻痺しておるからだ。わたしみたいな貧乏人に、「今日から五百万円やるから、この番をせ」それはかなわんぜ。そんなことはかなわん。それよりはただのものを貰うて食うておる方がよっぽどいい。それは人に番をさして、人に勘定さして食うておる方がよっぽどいい。ところが人間妙な概念に囚われておる。だから貧乏人が嫌いで、金持ちが好きという。そういう概念、迷が嫌いで、悟が好きという概念、そういうのが頂上の鉄枷である。(大智禅師偈頌講話p.36-37)
2026.06.06

187二宮翁逸話37 二宮翁と水野越前守翁を水野越前守に推薦したのは大久保公ではないということである。大久保公は天保8年に薨去されたのである。水野越前守に翁を推薦したのは相馬の家老草野正辰かまたは高野山の弁算和尚かであろうと思う。草野と弁算和尚も二宮翁とは懇意にしておったのである。故に翁が幕府の直臣になる導火線となったのはこの二人であろうと思う。弁算和尚は高野山で立派な一寺の住職であったが、高野山を下って故郷の相模へ帰る途中自分の衣服を乞食に施し、己は乞食の衣服を着て飄然と帰ったということである。この和尚は水野越前守が非常に信用した人であって、和尚はまた二宮翁をすこぶる尊敬したのである。翁の江戸におられた時はしばしば安否を伺いに来たが、その時は決して奥に通らないで玄関から翁の安否を問うて変わりなしと言えば直に立ち去ったということである。弁算和尚は夜話にも何回か登場する。二宮翁夜話巻の2【29】尊徳先生が弁算和尚に問うておっしゃった。「仏が一代の説法は無量である。しかしながら、区々の意があるわけではなかろう。もし一切の経蔵に一言で題する時はどう言えばよいか。」弁算和尚は答えて言った。経典に「諸悪莫作衆善奉行という。この二句をもって、万巻の一切経を覆うことができよう。」尊徳先生はおっしゃった。「そのとおりだ。」二宮翁夜話残篇【47】尊徳先生は日光ご神領の興復法の取調帳数十巻を指差しておっしゃった。この興復仕法計算は、ひとり日光だけではなく、国家興復の計算である。日光神領という文字は本当に素晴らしい。この言葉は世界の事と見てもよい。そうであればこの帳簿は計算帳と見てはならない。これは皆一々悟りの道であり、天地自然の理である。天地は昼夜に変じたり満ちたりして違うことがなく、偽りもない。そして算術もまた同じである。だから算術をかりて、世界が変じたり満ちたりするのはこのとおりの道理であるから決して油断できないと示していましめたものである。この帳面を開くときは神の一を何であろうとも定めてみるがよい。善でも、悪でも、邪でも、正でも、直でも、曲でも、何であろうとも定めて置いて見る時には、元によつて利を生み、利が返ってまた元となり、その元に利が付いて繰返し繰返し仏説にいう因果因果と引き続いて絶えない事、年々歳々このとおりである。たとえば毎朝、自分が先に眼覚めて人を起こすか、また人に毎朝起されるか、この一事でも知ることができる。人の世は一刻勤めれば一刻だけ、ひととき働けばひとときだけ、半日励むならば半日だけ、善悪邪正曲直皆この計算のとおり、1厘違えば1厘だけ、5厘違えば5厘だけ、多ければ多いだけ、少なければ少ないだけ、このとおりと皆180年間明細に調べ上げたものである。朝早く起きた因縁によって麦が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって実が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって馬を買い、馬を買い求めた因縁によって田畑がよくできて、田畑がよくできた因縁によって田がふえ、田がふえた因縁によって金を貸し、金を貸した因縁によりて利が取れる。年々このようになっているによって富裕者となるのである。 そして富裕者が貧困になってゆくもまたこの道理である。原野の草、山林の木の生長もまた同じ理なり、春に延びた力によって秋に根を張り、秋に根を張った力をもって、春に延び、去年延びた力をもって今年太り、今年太った力をもって来年もまた太るのである。天地間の万物は皆このとおりであるこれを理論で言う時には、種々の異論があって面倒であるから、私は算術をかりて示したのである。算術で示す時には、どのような悟道者でも、どのような論者でも一言も言うことができない。天地が開けた昔、人も動物もまだ無い時から、違いがないこともって証拠として、天地間の道理はこのとおりの物であると、知らしめたのである。決してこの帳面を計算と見てはならない。数はごまかすことができない。この数理によって道理を悟るがよい。これが悟道への近道である。弁算和尚がかたわらにあって次のように言った。「これぞ本当の一切経である。仰ぐがよい尊ぶがよい。」弁算は現在の小田原市中里で生まれた、つまり尊徳先生と同郷である。ここに真言宗満福寺があり、そこに弁算の石碑があるという。それによると「弁算尊師は、字(あざな)は恵運、姓は剣持。当村出身で満福寺9代の広弁あじゃりによって得度した。年11歳で高野山の浄応師について学び、功を成して名をあげて高野山を退いた。その後万国を遊歴した。年68歳で江戸の老中水野の宅で法命を終えた。」「傑僧弁算上鋼の碑」抜粋弁算上人は老中水野越前の守忠邦、二宮尊徳等とも深い親交があり、それらは諸書により明らかであり、上人は弘化2年(1845)5月23日であり、68才を一期に水野家にて法命を終えたのである。葬儀は水野家の屋敷にて立派にとり行われたと云い、埼玉県妻沼の名刹歓喜院の立派な宝篋印塔の傍らに今も手厚く葬られている。
2026.06.06
23明治35年(1902)藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。長男嘉一郎が経営に当った。農場の面積は、約百町歩の大農場で、茶園16町歩、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住み、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。 藤三郎は、商業、工業、植民地農業に報徳の仕法を応用し、非常な効果をあげた。そこでこれを内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起した。明治39年(1906)11月9日藤三郎を会長とする佐野実業会は、冬季大会を静岡県駿東郡佐野町尋常高等小学校で開催した。駿東郡の重立った人々が来会し、協議後、藤三郎と留岡幸助が報徳に関する講話をした。その夜、留岡は藤三郎の鈴木農場に宿泊し、その夜から翌日午前にかけ趣味ある談話を交わした。藤三郎が老後の精神的本陣として経営する農場を一巡し、藤三郎と留岡は、10日午後1時の汽車で帰京している。 国府犀東の「駿河みやげ」(斯民第1編第12号明治40年3月23日号p64-74)に、鈴木農場の概要と藤三郎が入手した経緯についての記載がある。「農場の主任らしい人が、静かに農場の説明を始めた。まずこの地はどこかと問うと、静岡県駿東郡富岡村字桃園という。それより反別などを語ったのを記すに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格は1万8千円であって、それ以来開墾等に要した経費を合計すれば、3万1千円に及んでいる。鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治32年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという。」というのが農場入手の経緯です。また「小作人は今10戸を数え、農事の繁忙期には、他から10人を雇った。小作人には、4間半に2間の家屋を建築し、無料で貸与し、鋤鍬の類を与えた。農場の中に5町歩ばかりに、リンゴ、ブドウ、桃、柿等の果樹を栽培している。野菜は小山の富士紡績会社に交渉し、職工の副食に供せしめたところ、会社でも新鮮な野菜を得ることができると喜んだという。製茶は、年1千貫目を産し、一農場でこのくらいの額を生産するものは稀れである。目下、牛舎を建築中で、ここに放牛し、かつ肥料をこれからとろうという計画である。養?、数百羽、その他アヒル、ガチョウ等がある。これが鈴木農場の事業の一端である。」 この「駿河土産」の中に興味深い記事が載っています。著者国府氏らが朝食後、農場を馬でめぐり、南方の丘に馬をつないで、小さな林の中で小さい神祠があってそのかたわらに古い石碣(いしぶみ)あった。『柾薗貞純親王塔』と彫ってある。そのかたわら近くに一碑を建て、鈴木氏がその由来を刻んでいる。『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』と。 2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ石碑を桃園神社裏手に現存しているのを発見した。
2026.06.05
大智禅師偈頌講話 沢木興道 偶作(一) 倒騎仏殿入燈籠 (倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入る)逆順門中有路通 (逆順門中路の通ずる有り)頂上鉄枷重脱下 (頂上の鉄枷重ねて脱下せば)可聞秋雨送梧桐 (聞くべし秋雨の梧桐を送ることを)『大智禅師偈頌』の中には「偶作二首」という題が、二ケ所に出ているが、その最初に出ている二首中のはじめの一首。「倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入る。逆順門中路の通ずる有り」仏殿は大きいもの、燈籠は小さいものというが、われわれの通常の概念である。それを倒(さかしま)に仏殿に騎ってというのだから、どういうぐあいに騎るか知らん。とにかく倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入る。 大体大きいとか、小さいとかいうが、これが大きいということはない。これが小さいということはない。ここに倒(さかしま)に仏殿に騎って燈籠に入るとあるように、この人生なんだか分らん。大きくもない。小さくもない。この中に入る。そんな中に入れるか、そんな理屈をいうものではない。湯呑が大きいということはない。「ワアー、どえらい湯呑」それなら風呂桶より大きいか。 わたしの行くところに小さい風呂桶がある。わたしが入ると、ザブッと湯が出る。小そうてかなわん。では湯呑より小さいか。そんなことはない。そこにいろいろな概念がある。しかし、人間自由の世界には、大きいもなければ小さいもない。お天道様が眼の中に入るではないか。僅か二三寸の絵はがきの中に、千里万里滔々限りない太平洋も描けるではないか。ここに宗教的自由―。十方億土も一歩の問題ではないか。三祇百千劫、長い間の時間も一刹那の問題ではないか。(大智禅師偈頌講話p.33-34) 昔、房州のある地頭さんが、娘を連れて紀州の新宮に参った。そこに有望なる青年僧が修行しておった。その娘さんの顔を見たところが、朝から晩まで、どうにもこうにもその娘さんの面影が離れんという。不動さんを拝んでおっても。それがどんどろんどろんとその娘さんに見える。「オンムニャムニャ」とやっておっても見える。いわゆる昔の言葉でいうたら、恋患いー。 町方より白い脚絆をはいて、旅僧姿になって鎌倉まで来た。鎌倉から昔は船で渡る。船宿に泊った。それから船に乗って、房州へ訪ねて行った。そうしたら「よう来た、まあ当分滞在するがいい」それで、もてなして貰った。それからだんだんと娘さんと心安うなった。そうこうするうちに、娘さんに子ができた。サア、大変。それからとうとう、それが親に分った。「不埒な者は家に置くことはできん。出て行け」というけれども、自分の大事な娘だから、本当に出す訳にはいかん。親類からそおっと手をまわして聞かして、「あの坊んさんが還俗するなら、養子に貰う」「そんなら、もう還俗します」還俗して正式に養子になって、地頭の若殿さんになっておった。 そうして、だんだん子供が三つになり、四つになり、三人でき、五人でき、一番総領息子が十七になった。それから船に乗って、鎌倉の八幡さんに元服ということになった。その一番総領の十七の子供を連れて、坊んさんの還俗したお父さんが船に乗って出かけた。途中になってから大変に荒れて、どうした拍子か、船の舳先におったその十七の子供が、ヒョロッと転げ落ちて、波の渦巻きの間に消えてしまった。 そこで眼を覚ました。見たら波もなんにもない。自分の頭の毛はなんにも生えておらん。まだ元の坊主じゃ。鎌倉の船宿に泊って、これから渡って房州へ行こうという、その晩の夢に、もうそれだけチャンと見ておる。十七年間の夢をずっと見てしまった。人生をなめ尽くしてしまった。ハハア分かった。人生十七か年、やってしまったら同じことじゃ。馬鹿なことじゃ。そうして暮らして見れば、世の中にはあんなこともあった。こんなこともあった。そのまま船宿から海を渡らずに、紀州へ戻って、立派な坊んさんになったという話が、無住法師の『沙石集』に書いてある。 こういう例はいろいろあるが、実にこの夢、夢と現実との交錯、それがたった一人の人間の迷い、長うもない。短うもない。迷えば三祇百千劫、それが悟れば常在一刹那、迷えば十万億土、それが波長が合えばー。(大智禅師偈頌講話p.34-36)
2026.06.05
187二宮翁逸話36 翁の三奇蹟 これも宇津家の下屋敷であったということであるが、暮れ方に先生が風呂に入っておられると、突然若者が来りて「先生おあぶのうございます」というやいな消えてしまった。翁も自分に危害を加える者があろうということは予め考えておられたので、そこそこにして湯殿を出られた。部屋に帰られるや間もなく二本の槍が湯船の真ん中を貫いたということである。これは全く天佑であった。また翁の14歳の時に飯泉の観音堂に行くと行脚の僧が忽然と来たって観音経の奥義を示し、忽然としてその行くところを知らなかったという。もう一つは、弟三郎左衛門もまた道を聴く上からいうと翁の弟子であったので翁を慕って野州に行った。その時翁が言われるのに「よく来たが、お前の家は火災で焼けるかもしれないから直ぐに帰れ」というて三郎左衛門を栢山村に戻された。帰りて見ると自分の家が火を失して畳と板間が燃えつつ大事になろうとしたところを消し止めたということである。この3つは翁の生涯の3奇蹟として数えられておるが、人の一生には不思議のこともあるものかな。☆飯泉観音での僧との出会いは、報徳記に記すところだが、宇津家の下屋敷で若者が危険を告げて危うく槍で突き刺される危険を逃れた話や弟の家の火災を予見して帰さしめた話は初見の話だ。弘化3年の年譜に「この頃 先生を害せんとする噂あり、西の久保にて入浴中槍をもって刺さんとしたるものあり。僅かに免れしという」とある。「突然若者が来りて『先生おあぶのうございます』というやいな消えてしまった。」とあるが、うむ、これは不動明王をサポートする八大童子の一人ではあるまいかなどと想像をたくましくしてしまう。※八大童子とは不動明王の眷属として 、衆生救済に活躍する童子たちで矜羯羅(こんがら)童子、制多伽(せいたか)童子、阿耨達(あのくた)童子、清浄比丘(しょうじょうびく)童子、慧喜(えき)童子、烏倶婆伽(うぐばか)童子、持徳(じとく)童子
2026.06.05
23台湾製糖会社第一回営業報告に、次のように記されている。『5月11日午前1時、土匪が本社建築場へ来襲したが、警察と職員がこれを撃退し、少しも損害負傷者がなかったが、5月18日、西島旅団長は参謀副官を随えて、佐藤警部長等と共に現場を巡視された。5月20日、楠梓坑分遣隊の内から兵士20名を本社付近に駐屯させ、ここにおいて当会社は、構外に仮兵舎を建築しその用に供した。』藤三郎は明治34年(1901)4月21日に東京をたって渡台し、工場の建築や土地の買収に直接に当った。5月25日に釜山丸で高雄を出帆し、31日に帰京しているから、この土匪襲来を橋仔頭で体験している。土匪の襲来はそれからも数度あった。武智元社長の思い出話の中にこうある。『当時は土匪の勢力が極めて盛んで、その巣窟が橋仔頭の周囲を取りまき散在していた。なかなか優勢な集団もあって、林少猫のごときは、実に驚くべき大勢力だった。ある日、東京へ急電が来た。土匪800名襲来しつつあり、救援軍派遣かた総督へ願い出よとのことだった。その当時、児玉総督は在京中だったので、すぐ事を運び、直ちに援軍の指令が台湾に飛んだ。その結果、総勢70名の兵士が工場構内に常屯することとなり、外に30挺の銃の貸下げをうけ、駐在将校訓練の下、社員中で30名の壮丁団を設け、都合100名の戦闘力を保持することになった。当時、島内を旅行するには、常にピストルを懐中したもので、予が最初渡台した時も、ピストルを携帯していたものだ。』(河野信治著『日本糖業発達史(人物篇)』、p195) 当時、支配人として現地に常勤した山本悌次郎氏の追懐談は真剣味にあふれている。『我が輩も鉄砲を担いで、土匪に備える調練をしたものだ。土匪は、牛車に草を積んで来て、家屋の側にぴたりと付け、家を焼き払うので、木造ではいけない。そこで、レンガ造りの洋館を造った。今も銃眼の残っているあの建物さ。あれには5万両もかかって、益田氏から苦情を持込まれたものだ。しかし、ああいうものを造らなければ、危険で仕方が無かったのだ。あの建物の地下には食糧を入れ、いざ土匪襲来といえば、女や子供をここに収容し、二階の銃眼の処から応戦するようになって居た。ところが、ある日、児玉総督が視察に来て、あの銃眼は誰がこしらえたのかと聞くので、私どもがやったと答えると、あの銃眼は逆様だ。銃眼というものは、外の方がせまく内の方が開いているものだ。あの銃眼は、外の方が開いて、内が狭くなっている。あれでは、まるで弾丸を受入れるようなものだ。あれでは反対だ、と笑われた。』「創立2か月後、明治34年2月15日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏だった。」「氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業のさとうきび分蜜製糖にも役立つ訳だが、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、また工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦1888年(明治21年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中の一小図版を参考として設計図を作成し、当時のならわしだった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るがごとき策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏その他を用い、実際の仕事を進めたが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と台湾製糖株式会社史にある。 製糖機械は、仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶だった。その他、火管式ボイラー、圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶それに付属する真空ポンプ、分蜜機その附属品を購入し、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他を購入し、その組立据付に着手したが、齋藤技師が主として当り、鈴木鉄工部派遣の技師職工と紋鼈で甜菜糖製造に従事した人々等と、台湾人を使用した。原料のさとうきびの買収は当初から懸念されていた。明治34年6月下旬から工場付近の各村落に向って交渉を開始したが、同地方の30余所の糖廓所有者は、一面有力者達で農民に手を回し、さとうきびの売約を妨害した。鈴木社長は台湾に滞在中、何度も糖廓主と示談を試みたが、容易に了解がえられず、一時そのまま放置していた。総督府でもこの状態を憂慮し、後藤民政長官が自ら出馬し、明治34年(1901)11月、地方有力者等58名を当社事務所に集め、「糖廓所有者の無理解は遺憾至極である。新式製糖会社の建設は、時代の進運に伴い必然的に生じた重要なことで、台湾製糖株式会社の設立は、幼稚な台湾糖業の現状を打破し、世界糖業の進歩の実状を知らしめ、日新の実を挙げる重大な意義を有する」と訓示し、誠実な協力を求めた。 明治34年(1901)12月8日付け、鈴木社長から益田あての事業実況報告によれば、「いよいよ今回は、示談の必要あると覚悟していたが、案外にかえって糖業場主たちは自ら廃業したもののようで何ら苦情も無かった。これは要するに本社の工場の機械の現状を一見して神業であると驚嘆して競争が及ばないことを悟ったことと、また本年砂糖消費税が施行されるために製糖家の負担に帰することを恐れて、これらの原因によって本社は特別の方法を講ずる必要がなかった。」とある。 原料さとうきびの売買契約については、社有地と売買契約区域内に協議員を置き、各庄長など地方の有力者をあて、農家との間に立って協力することを求めたところ、彼らは満足し尽力するようになった。また、農家でさとうきびの売約を行った者に原料代金の前借を行ったが、低利なため歓迎され、次第に、人心も融和してきた。原料買収価格の決定も難問題で、当時支配人の山本氏は、次のように回想している。「もう一つの困難は甘蔗の値段を定める問題である。砂糖の値段から逆算し、結局百姓の手へ入るのは、いくらくらいということを計算し、買収することにした。」原料さとうきび買収には種々の困難が伴ったが、総督府の尽力と、当事者の努力で地方民の心も和らぎ、砂糖の試験開始前には予定通りさとうきびの買約ができた。さとうきびの輸送問題については、近くは牛車及び手押台車軌道を用い、遠距離は鉄道を利用することとし、総督府に出願し軍用手押台車用軌条の貸下を受け、明治35年2月8日までに合計4マイルの工事を竣工し、橋子頭に新駅も新設された。明治41年(1908)台湾縦貫鉄道全通式に出席した安田善次郎は、そのついでに台湾南部を視察した。善次郎は北海道に1,500町歩の広大な麻畑を経営していたが、汽車が広大な原野を行く時、至るところサトウキビ畑なのに驚き、それが台湾製糖の7,000町歩にわたる耕地と聞いて絶句した。(「名手奇聞録」p291明治44年4月11日)
2026.06.04
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(八) 終日搬柴運水中 (終日柴を搬び水を運ぶ中(うち)) 分明顕露主人公 (分明に顕露す主人公) 三千日月観成敗 (三千の日月成敗を観る) 坐断須弥第一峯 (坐断す須弥の第一峯) その次に、たとえ山居であっても、することをせねばならん、ということを説く。小人閑居して不善をなすというが、もうはや今時分の小僧は、山の中に一人おってもなんにもならん。 しかし、山居というものはここに仕事がある。人間生活であれば、ここで冬籠りをするのには、焚き物をはこばんならん。焚き物なしではいかん。この毎日の生活に、水なしでもいかん。水を運ばんならん。で、「終日柴を搬び水を運ぶ中」これは作務である。これはなにを象徴しているかというと、われわれの生活、生活即宗教、四威儀挙足投足、一切が悉くこれ修行。修行というものは別に坐禅だけが修行ではない。物をいうのも、起きるのも、寝るのも、食事するのも、一切これ修行である。終日柴を搬び水を運ぶ中、「分明に顕露す主人公」日々の生活、起居動作、その態度によって、その人の修行というものが現れる。「三千の日月成敗を観る」この宇宙の全景を一目に見る。この絶対の宇宙を一目に見る。「坐断す須弥の第一峯」須弥山の絶頂におって、ジッとして、こう世界を一目に見るようなー。それだから、坐禅堂に「遍界一覧亭」という額のかけてあるところがある。 以上が「鳳山山居」の八首である。すなわち、これが名高い山居の偈である。この八首の偈は面山和尚のいう如くならば普縁真如である。(大智禅師偈頌講話p.32-33)
2026.06.04
187二宮翁逸話35 反対者翁を威嚇す 翁の名声高くなりてから江戸に来られると、必ず芝西久保にある宇津家の下屋敷におられて、そこへ門下生を集めて話をせられた。ところが翁に反対する者があって「打ち首」とか「遠島」とか「焼き払い」とか、いろいろの張り紙をされた。こういうことがあると人間という者は気の弱いもので、昨日まで門弟子というて集まっておった連中も段々用事にかこつけて帰ってしまう。甚だしきは逃げて帰る者もあった。そうすると先生いよいよ熱心になって元気はますます加わり、困難の襲いきたるごとに勇気百倍して難事にあたられた。ことに著しかったのは不動明王の掛け物をかけて「これでなくては事はできない。人間は火の中に立って厳然と仕事をしなくてはならない」というておられた。その時、弟、三郎左衛門と翁の一子弥太郎と二人切りであった。ちょうど真夜中であったが、翁が二人に向かって一生懸命に天下の道を説いて聞かせられるのに二人はその説法中に居眠りを始めた。翁大いに怒って、「この困難の時にあたり汝らのために天下の道を説くに意気地なしに眠るということがあるか」というて非常に叱られたということである。
2026.06.04
「大智禅師偈頌講話」澤木興道 人に示す 抜粋何百年かの後から見ても、軟千年の後から考えても、本当に明るい、本当に正しいという人は、一体どこにおるか。それは実際は、二宮尊徳など僅かに数えるだけしかない。 こういう人たちは一体何をしたか。自分の考えを少しも混ぜてない。二宮尊徳は、人のためにばかりしている。自分のためにちょっともしておらん。わたしは、二宮金次郎みたいな頭のいいやつが、自分のためにするならば、どえらい悪い事をしておると思う。あのくらい精力家、精力絶倫、成田山で三七二十一日断食して、歩いて戻って来たという。歩いて来て、葛湯いっぱい飲んで田畑を見回る。それに、あれは頭の勘がいい。つまり、わたしのところでいうと、エレキという。茄子をちょっと食うても、アッ、今年は飢饉がある、という、第六感の働く男だ。そんな男でも、自分のためには一つもしていない。だから、碌な出世はしていない。そうして、ただ人のためばかりー。 で、今もこの己を投げ出してー、己を投げ出す。懸崖に手を撤してー。だから無念無想とか、非思量とかいうことは、この懸崖に手を撤して工夫を下すことである。自分のためではない、功利的ではないことである。・・・・・・金のある者も、ない者も、暑いときは暑い、寒いときは寒い、坐禅堂でジッと坐っておる姿が、本当に本来の真面目である。つまり釈迦と続き、達磨と続き、万人共通、諸縁を放捨し、万事を休息して善悪を思わず、是非を管せず、心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図らず、ただ長連牀上の觜盧都(しとろ:柘榴の蕾)、これが只管打座である。(一)只だ他(かれら) の三祇劫空にして︑生死も涅槃も俱(とも )に寂滅なりと了達するが為の故に︒既に未だ這箇の田地に到らざれば︑切に邪 師の輩の胡説乱道(うせつらんどう )して︑鬼窟裏に引き入れられ︑眉を閉じ眼を合(あわ) せて妄想を作すべからず︒邇来(じらい)祖道衰微し︑此の流(やから) は麻の如 く粟(あわ) に似たり︒真(まこと) に是れ一盲の衆盲を引き︑相い火坑に牽(ひ) き入れるなり︑深く憐愍すべし︒願くは公(あなた) は硬く脊梁骨(せきりようこつ )を著(つ )け︑這 般の去就を作すこと莫れ︒這般の去就を作す底(もの) は︑暫(しばら) く箇の臭皮袋子を拘得し住(とど) めて︑便ち以て究竟と為すと雖(いえど) も︑心識紛飛 (ふんび )して︑猶(なお)野馬のごとし︒縱然い心識暫停すとも︑石の草を圧するが如く︑覚(おぼ) えず又た生ずるなり︒無上菩提を直取して︑ 究竟安楽の処に到らんと欲(ほつ) すとも︑亦た難からざらんや︒宗杲も亦た嘗 (かつ) て此の流 (やから) の為に誤らされる︒後 来(のち)に真の善知識に遇わ ざれば︑幾(ほとん) と空しく一生を過ごすに到らん︒每每に思量するに︑直 是(まさ)に叵耐(はたい )なり︒故(ゆえ) を以て口業を惜まず︑力(つと) めて此の弊を救う︒ 今 ま稍 や非を知る者有り︒若し径截(ただち) に理会せんと要(もと) めば︑須らく這の一念子の 地に一破するを得て︑方(はじ) めて生死を了得し︑ 方めて悟入と名づくべし︒然して切に心を存して破を待つべからず︒若し心を破処に存せば︑則ち永劫に破する時の有ること 無し︒但だ妄想顛倒底の 心︑思量分別底の 心︑生を好み死を悪(にく) む底の 心︑知見解会底の 心︑静(しずか )を欣い、鬧(さわがしき) を厭う底の 心を将(もつ )て︑一時に按 下(あんげ) して︑只だ按下の処に就 て︑箇の話頭を看 よ︒僧︑趙州に問う︑﹁狗子に還 た仏性有り也 無﹂︒州云く︑﹁無 ﹂と︒此の一字子は︑ 乃ち是れ許多の悪知悪覚を摧(くだ )く底の 器仗なり︒有無の会を作すことを得ざれ︒道理の会を作すことを得ざれ︒意根下に思量卜度
2026.06.03
23台湾製糖の社有農場の買収と建築材料及び製糖機械の運搬土地社有は、明治34年(1901)1月28日の臨時株主総会で決定し、直ちに橋仔頭及び岡山付近に一千甲の買収に着手した。台湾総督府の援助と、台湾統治後民心も融和してきたため、台湾製糖株式会社第一年度(明治33年12月10日-34年6月30日)に746甲、次年度(明治34年-35年)までに合計1,031甲を買収できた。第3年度、以後は自作を実行した。さとうきびの品種の改良を図るため、第1年度約30甲、第2年度約36甲にさとうきびを試作した。さとうきび栽培について農民を誘導し品種の改良、耕作方法など改善させようと苦心したが、旧来の習慣を守る農民は実行せず、土地を所有してもその効果はすぐには顕れがたかった。鈴木社長は、農民に利益を与え、同時に当社も利益を挙げ、さとうきび農業を進歩させる「両得農業法」を案出した。明治34年12月付の「両得農業法草案」は次の言葉で結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間において2万6千円の実利を生ずる。もしこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」 台湾製糖は、創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来て、広大なものとなった。「台湾製糖株式会社史」では、「創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」と述べている。土地買収と同様に困難だったのは、建築材料、製糖機械等の輸送だった。当時の台湾は交通運輸の便が悪く、陸上では道路に公道もなく、雨期には河川が氾濫し、旅行運輸は困難だった。基隆、新竹間百キロの鉄道が開通していただけで、交通施設は欠如していた。海上交通も基隆、淡水、安平、高雄が四大港と呼ばれていたが、水深が浅く、港湾施設も不備で、数千トンの汽船の碇泊は困難だった。 総督府は新領土の統治上、交通機関の完成を急務とし、道路の開通改修、橋梁の架設、縦貫鉄道の完成等に尽力し、一方海上運輸については、明治29年日本郵船、大阪商船両会社に台湾航路を開かせ、内地と台湾の連絡を密接にした。縦貫鉄道が全線開通したのは明治41年で、それ以前に着手した台湾製糖の建築材料及び機械の運搬は困難を極めた。内地から輸送する機械は大阪商船会社に託し高雄港まで輸送したが、高雄港は港内の水が浅く、岩礁が水路にあり浅洲のため、大型船の積荷は沖合で荷を積み替えるが常だった。ひどい場合、荷役ができないため積荷はそのまま神戸に引返し、神戸、高雄間を何回か往復することもあった。陸上運輸については、橋子頭は建設中の高雄、台南間の鉄道沿線にあったが、駅の設備がなく事務取扱所があった台南から工場建設作業場には、行くだけで一日がかりだった。これでは工場建築材料の運搬及び事業開始後の原料の搬入、製品の積出等に支障を来すので、明治34年1月橋子頭駅の新設を願い出、工場までの引込線を敷設し、鉄道を利用できるようになった。機械の据付は明治34年(1901)11月30日に完了した。12月17日土匪の襲撃を受け、一同は事務所に立てこもって防戦し事なきを得たが、再度の襲来に不安は深刻になり、児玉総督に軍隊の派遣を懇願した。翌35年1月15日に橋仔頭守備分遣隊から一小隊が派遣され、台湾製糖が工場構内に提供した新築兵舎に常時駐屯した。更に社員から30名を選んで壮丁団を組織し訓練を受けて、合計約百名の警戒防禦員を保持した。更に恐るべきは風土病で、毎年5月末から9月まで一人として罹病しない者はないくらいで、製糖を始めてからも常に悩まされた。ある時は社員職工の罹病で機械運転の継続が不能に陥ろうとしたので、応急処置を取った。武智社長に次の懐旧談がある。「当時衛生状態は、実に不良だった。台湾南部には、ペストなど流行し、熱病は至るところ勢いをたくましくし、橋子頭では社員職工等は続々マラリヤにおかされ、勤務に支障を来たす事が多く、発熱が間歇的であることを利用し、互いにその合間を打ち合せて交代執務しているのを渡台した時実際に見た。ある時技師職工(内地人)が病気に冒され、機械の運転を中止しなければならないため、内地から至急職工を派遣せよとの急電に接した事があった。当時親類会社であった日本精製糖会社小名木川工場から数名の職工を借り受けて渡台させ、製造を休止せずに済んだ事もあった。職工が渡台の時、水盃して出発したという話はその時代であった。」土匪や風土病の中にあって、社員職工等はよくその仕事を続け、明治35年(1902)11月15日第1回製糖を開始した。これが台湾否日本における新式製糖工場によるさとうきび製糖の最初である。「われわれは今往時を顧みて、関係者一同の勇猛果敢、堅実にして誠意に充てる奮闘を、驚愕と賞嘆とを以て追懐せざるを得ない」と「台湾製糖株式会社史」に述べる。 明治33年12月10日、台湾製糖が創設されて以来、一年有余の苦心を重ねて、同35年1月15日、本格的製糖作業に着手し、5月25日に最初の製糖を終了した。この製糖作業は、最初すべて無経験なため、時々機械の運転を休止しなければならない場合もあったが、4月上旬から整備され故障なきを得た。製糖作業も故障が多かった上、さとうきびの粗悪、運輸設備の不完全等のため、当初は砂糖出来高は予定に達せず、品質も極めて劣等だったが、その後、品質の改良と販売網の整備がされた。当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地でも大会社の部に属していた。まして台湾では、このような資本を擁するものは、類例を見なかった。だから、当社経営の成否は、新企業たる新式糖業の将来、さらに国家経済の上に大きな影響を及ぼすだけでなく、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。児玉総督始め総督府でも、台湾製糖会社の経営を後援し、その使命は重く大きかった。この使命と期待は着々とその実を挙げ、新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することができた。当時、三井物産合名会社台北支店長だった藤原銀次郎氏は、「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆ご用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主な商売だった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されない。その本当の仕事の先駆をした者は台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起こって、台湾は今日の繁栄を見るに至った。」と述懐されている。
2026.06.03
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(七) 空林卓錫卜幽栖 (空林錫(しゃく)を卓して幽栖を卜す) 冷淡家風実可悲 (冷淡の家風実に悲しむべし) 荷葉満池無線補 (荷葉満池線の補うなし) 白雲為我坐禅衣 (白雲我が坐禅の衣と為す) 枯淡でなければ、いっこう山居というものの妙味はない。水道の水を飲んで、エレベータで上がったり、あるいは駕籠で上がったり、それでは山居はおもしろくない。山居はどこどこまでも、枯淡でなければならん。「空林錫(しゃく)を卓して幽栖を卜す」なんともないところに住まいをする。この『大智禅師偈頌』のずっと前のところにも「道人に寄す」というのがある。「竺乾(じくかん)林下の坐を志慕して、人間の百事已に懐に忘ず。山中個の安禅の石あり、来たらば松枝を折って緑苔を払わん」竺乾林下の坐というのは、インドの林の下に住まいする。竺乾林下の坐を志慕して、人間の百事已に懐に忘ず。人間の喜怒哀楽なんのその、山中に個の安禅の石あり、いい坐禅する石がある。「お客が来ても、なんにも賄いはありませんが、この坐禅のいい石があります、ここで坐禅して下さい」それで松の枝を折って、苔を払って、「どうぞこれへお坐り下さい」坐禅がご馳走という。えらいご馳走がある。 それから「道友に会す」。「一室の煙を惜しんで湿薪を焼く、相逢うて主なく亦賓なし、大慈橋畔分携の後、謂うこと莫れ已に三祀の春を経ると」一室の煙を惜しんでーなんでも冬に違いない。むしろ小屋か知らんが、小屋の中に入っておる。一室の煙を惜しんで湿薪を焼く。生柴を焼くと青いような、灰のような白い煙が出る。煙たい。わたしら若いときに、そんな生柴を焼いてあたったことがある。一室の煙を惜しんで湿薪を焼く、友達同志寄り合うて、相逢うて主なく亦賓なし、大慈橋畔分携の後、謂うこと莫れ已に三祀の春を経ると。これも皆枯淡同志の寄りあい。 その次に「弘宗菴主に寄す」これらが皆枯淡なところである。それからこれより下に「山居」という詩が出て来る。これは坊んさんだから「方袍円頂僧形と做る。何ぞ波波(はは)として利名を競うことを用いん、山上に柴あり渓(たに)に水あり、林間最も好し残生を養うを」これも出家した以上は方袍円頂僧形となる。頭を丸め、四角い着物、そうして坊主の姿をすると、なんぞ波波(はは)として、次から次へ、利と名を求める必要があるか。山上に柴あり渓(たに)に水あり、林間最も好し残生を養うを。これも枯淡である。 で今、空林錫を卓して幽栖を卜す。林の中に仮住まいをする。今ある寺というものは、大体こうした風な理屈に、仮住まいにだんだん信者が集まって来て、お寺になったもので、ずっとまあ昔は、こういう状態であったろうと思う。「冷淡の家風実に悲しむべし」実に冷淡枯淡なんにもない。なにもないどころのことではない。あれは桃水の伝記を見ても、あんなんじゃー。阿蘇の噴火口の清水(せいすい)寺という寺におるときに、友達が尋ねて来た。わざわざ熊本からやってきた。日が暮れた。今なら汽車で行くからなんでもない。半日仕事じゃが、昔だから一日かかって、歩いて行った。ところが、桃水の方では、これに対してなんにも振舞うものがない。まあ麦のお粥でも作って進ぜよう。 次の間に行って、なんやらコツンコツンやっておる。そろっと覗いたら、麦を水に浸してすり鉢で搗いておる。「なにをしていなさるか」「ウン、なんにも振舞うものがないので、麦を搗いて、これが出来たらお粥を炊いてあげようと思う」それがもはや夜中近くじゃ。それが搗けたらもう夜明けになる。「一晩ぐらい食べんでもいいから、ありがたい話をしてください。腹が減っても辛抱するからー」そういって一晩腹をかかえて話を聞いて帰ったということである。実に枯淡である。麦をこれからすり鉢で搗いてというんだから、実に枯淡なものである。 今も冷淡の家風実に悲しむべし。なんにも振舞うものがあるのではない。着物がない。「荷葉満池」蓮の葉が池にいっぱいあるので、綴くって着物にしようと思うけれども、糸がないという。「荷葉満池線の補うなし」仕方がない。「白雲を我が坐禅の衣と為す」これは山居の枯淡な家風を象徴しておる。(大智禅師偈頌講話p.29-32)
2026.06.03
187二宮翁逸話34 翁の嘆息 翁が嘉永6年の2月に日光御神領地の仕法を命ぜられた時、涙を流していわれるのに「俺は土地の開拓よりは人間の開拓をする積もりである。それに、また俺に土地の開拓を申し付けるか」と嘆息やや久しうしたということである。翁は荒地の開拓をもって最も大切なることとしたけれども、更に大切なることは、荒地の開拓よりも、心田の開発である。「一人の心の田地が開発されれば万頃(まんけい)の荒蕪地あるも恐るるに足らない」と言われたのはこの消息を洩らしたのであろう。二宮翁夜話残篇【24】尊徳先生がおっしゃった。私の生涯の事業は、すべて荒地を開くことを勤めとする。田畑が荒れたり、また負債が多いのは、ともにこれは国家の生産の地でもあり、その人のために荒地でもある。また廃地や税金と村費だけの収穫があつて、利益のない田畑や、また身体が強壮にもかかわらず怠惰に日を送る者は、ともに自他のために荒地である。資産があり金力がありながら国家のためになることをなさないで、いたずらに贅沢にふけり、財宝を費す者がいる、これは世の大きな荒地である。また智慧もあり才能もあって遊芸に生涯を送る者がある、これも世の中の荒地である。これらの数種の荒地はその原因は心田が荒地となっていることに原因があるから、私の道はまず心田の荒地を開くことをを先にしなければならない。心田の荒地を開いて後は田畑の荒地に及んで、この数種の荒地を開いて熟田とするならば、国の富強はてのひらをめぐらすようであろう。二宮翁夜話巻の2【21】弘化元年8月、幕府より日光神領の荒地を復興するよう申しつける見込みの趣意書を、調査して仕法書を差し出すよう、尊徳先生に命じられた。私(福住正兄)の兄の大沢勇助は江戸に出て、お悦びを尊徳先生に申しあげた。私は先生に随っていた。尊徳先生はおっしゃった、「私の本願は、人々の心の田の荒蕪(こうぶ)を開拓して、天から授った善種である、仁義礼智を培養して、善種を收獲し、また蒔返し蒔返しして、国家に善種を蒔き弘むることにある。それであるのにこのたびの命令は、土地の荒蕪の開拓であるから、私の本願と違っているのはあなたの知るとこれではないか。そうであるのに、この命があるのを喜ぶのはどうういうことか。本意に背いた命令ですが、命令であればやむをえません。及ばずながら、わたくしもお手伝いいたしましょうと言うのなら悦びもしよう。そうでなければ悦ばない。私の道は、人々の心の荒蕪を開くことを本意とする。心の荒蕪一人開ける時は、土地の荒蕪は何万町あっても憂えるにたりないのだ。あなたの村のように、あなたの兄一人の心の開拓ができただけで、一村が速かに一新した。大学に、「明徳を明らかにするにあり、民を新たにするにあり、至善に止まるにあり」という。明徳を明かにするとは、心を開拓することをいう。あなたの兄の明徳が、少しばかり明らかになるや、すぐに一村の人民が新(あら)たになったではないか。「徳の流行(りゅうこう)するのは、置郵(ちゆう)して命を伝えるより速やかである」(「孟子」公孫丑・上:徳が人々に伝わっていくのは、命令が飛脚で伝わっていくよりも速い。)というのはこのことである。帰国したら早く至善に止まるの法を立てて父祖の恩に報じなさい、これがあなたが専務する事である。」
2026.06.03
栃木県で『安居院庄七と鷲山恭平 』が新たに真岡市立図書館で蔵書となった👏足利市1件真岡市1件栃木県立図書館1件
2026.06.02
ゴルバチョフさんが、「世界一受けたい授業」で日本人に与えたメッセージ。「ずいぶん前から日本は世界の中でとても重要な役割を果たしていると思います。恐ろしい第二次大戦で一度国家が崩壊しましたよね。しかし、その後民主化をした日本は見事に復活し、大きな業績を残しました。戦後の日本の業績とは、武器を持たない、戦争をしなかったという事です。戦争をしなかったから、今のような偉大な民族になったのです。この素晴らしい教訓を他の国々に伝えなければいけません。
2026.06.02
1933年9月21日宮澤賢治は亡くなった。その10日前9月11日に柳原昌悦氏あてに書いた手紙がある。賢治最後の手紙である。そしてその内容が極めて自省の深い内容なのだ。病気もだいぶよくなってきたが、咳が出ると2時間も続いたり、夜中胸がぴうぴう鳴って眠れなかったりしている。もう昔のようなことはできないと近況、心境を語った後で、「私のこういう惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」というものの一支流に過って身を加えたことに原因します。僅かばかりの才能だとか、器量とか、身分とか財産とかいうものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思い、じぶんのしごとを卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想をのみ生活しかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年か空しく過ぎて、ようやくじぶんの築いていた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り、世間を憤り、したがって師友を失い、憂悶病を得るといったような順序です。・・・・・しっかり落ちついて、一時の感情や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまねばならないものは苦しんで行きましょう。・・・」おそらくは「雨ニモマケズ」はこうした自省の中から生まれでた祈りであり、願いであるのかもしれない。
2026.06.02
二宮尊徳は斎藤高行の記録した「報徳外記」の最後において、日本国中が報徳仕法によって満ち足りたならば、海外に及ぼすことまで構想され、世界全体に報徳が及ぶときに我が道(報徳)が終わるとされている。(*) 富士山を見ると二宮尊徳の壮大な構想に思いを致す。*「報徳外記」「そもそも幕府が分度内を譲って、恵みを国中に施し、分度外を譲って海外に恩を推譲する。これこそが天下の長計であって、仁政はこれより大いいものはない。ああ、各藩とも困窮を免れて、守備はおさまり、兵たちの意気は振い、倉庫は穀物に満ち、仁沢が国内にあまね、さらに施して海外に及ぶならば、すなわち赫々(かくかく)たる神州、万国と対峙し、いついつまでも富士山が安定しているようになるであろう。これが報徳の及ぶ所であり、我が道の終わりである」「抑も幕府分内を譲つて以て沢を海内に施し、分外を譲って以て海外に恩を推す。実に天下の長計にして、仁政焉れより大なるは莫し。嗚呼、侯伯窮を免れ、守備脩まり、兵気振るひ、倉廩満ち、仁沢海内に洽く、施して海外に及ばば、則ち赫々たる神州、万国と峙し、終古富嶽の安きを得べし。是れ報徳の及ぶ所、我が道の終はりなり」
2026.06.02
内村鑑三書簡第982信(和文封書)福岡 井上伊之助あて拝啓、又々御病気の由承わり、御同情に堪えず候。但し之が多年蕃人に対する御苦心の結果と見れば、敢えて悲しむべきに無之候。我等此世に在りてキリストと共に苦しむは、之れ以上の幸福無之候。自今充分の御休養を望み候。十年休んで一年善く働くを得ば、それにて事は足り申候。当方別に変り無之候。然し親戚友人中に疾病あり、死あるは、何人にも同じ事に有之候。唯終りまで主イエスの福音を説きたき者に有之候 匆々1917年9月2日 内村鑑三井上伊之助君「生蕃記」井上伊之助 著 抜粋 序 私は本書の著者井上伊之助君に対し、厚き同情を表する者である。私の知る範囲に於いて君は台湾生蕃の霊魂救済をその生涯の事業としている唯一の日本人である。君の父君は台湾で製脳業(樟脳採取)に従事中、生蕃人の殺す所となった。そして君は日本人として父の仇を報ゆるの心を以て生蕃人救済にその一生をゆだねられたのである。まことにキリスト信者らしき復讐の方法であって、かくあってこそ救霊の効果は挙がるのである。この世の人らは救霊と聞いて雲をつかむがごとき業なりと思う。然れども救霊に始まらざる統治も開拓も意味をなさない。救霊は人格の基礎付けである。蕃人を化して文明人となすの途はこれを除いて他にはない。救霊を怠りていたずらに文明を教うるは蕃人をして蕃人以上の蕃人たらしむ。井上君の事業のごとき、領土統治の上より見て必要かくべからざるものである。もし日本人中、永遠を見るの明ある者があるならば、彼らは必ず私と同じく、井上君と君の従事しつつある事業とに対し、甚大の同情を禁じ得ないであろう。台湾生蕃人全体は井上君を通して、日本全国に向かい、「来て我らの霊魂を救いたまえ」と叫びつつあるのである。 大正十五年三月六日 内村鑑三 この書、誕生の原因なる亡父 の霊に献ぐ この書を見ず世を去りし亡母
2026.06.02
森銑三(せんぞう)氏の「明治人物夜話」に日本新聞の主筆をしていた陸羯南(くがかつなん)の逝去の記事が出ている。そこにベルギー大使をしていた加藤恒忠(つねただ)氏の懐旧談がでていて、その響きと調べが実にいい。「去る2日(明治40年9月2日)鎌倉にて物故し、今日5日谷中(やなか)の全生庵(ぜんしょうあん:山岡鉄舟創設の寺で鉄舟の墓もある)で葬られる陸羯南(くがかつなん)氏は、新聞記者の一先達(せんだつ)であると同時に、また当代の一人物で、記者としても、人物としても、広く世間に知られていた。しかし、不幸にして氏の最も親しかった友人の多くは氏に先立って死んでいる。今生存しているのは加藤恒忠(つねただ)氏のみ。加藤氏に陸羯南(くがかつなん)氏の事を問うたところ、次のようであった。」として始まる。(読みやすいように若干言葉を改めた。)「陸(くが)は古い友人でした。 書生時代からの旧友も少なくないが、30年間一日のように絶えず兄弟の交わりをしたのは彼一人です。そのあいだにずいぶん議論もしたし、外交問題などについて意見を異にして激論をしたこともあった。しかし、ただの一度も平生の友ぎを損ぜず、互いに胸中を打ち明けて、親密にしましたから、突然この良友を失い、悲歎に暮れています。 一昨年の秋、ベルギーへ手紙を寄こして、自分は肺病になったから、もうながくないと信ずる。生前に今一度会って馬鹿話がしたいと書いてきた。幸いに僕は先日帰国して生前たびたび会うことができた。もうその頃は、陸はぺたりと枕に就いていて、あまり馬鹿話はできなかった。その上、7月以来、僕自身が痛風にかかって、近いところにいながら、臨終の手を握ることもできず、葬式に立ち会うこともできないのは、実に残念です。先日自筆の見舞状が来て、字もシッカリできてあるから、この勢いなら当分大丈夫だと楽しんでいたのに、これが遺筆になろうとは思わなかった。 世間では陸の人となりを誤解して、極めて頑固な男か、または仙人のように思っている人があるようだが、決してそうではない。極めて聡明な性質で、常識に富み、どちらかというと通人の方だ。ただしあくまで意志が強く、自分の所信は、いかなる場合、いかなる人に向かっても、一歩も曲げない。いかなる逆境にあっても、自分の本心がしたくないことはしない。いわゆる威武も屈するあたわず、富貴も移すことのできない男だ。どんなに貧乏しても、金銭のことを眼中におかぬところが、俗人の目には仙人と見えたのであろう。 先年、ふと陸に向かって、ちかごろ新聞は、たくさん売れるかと問うと、あまり売れないというから、僕が『少し雑報の文体を変えて、ルビをつけて、外国の報道や相場の表などを入れたら売れるだろう』と言うと、その時、陸は『なるほどそうすれば売れるかも知れない。だけど僕の新聞は、そんなに俗世間に売れなくてもいいんだ』と言った。」 加藤氏はさらに日露戦争の少し前に陸(くが)がベルギーにやってきて、ロシアに行きたいが、相棒を紹介してくれと言われて、ドイツにいた医学博士の青山胤通(たねみち)を紹介した話を続ける。 陸と青山の二人は、ロシア、スウェーデン、デンマークに旅行したが帰ってきてからの二人の弁がふるっていた。陸は言う。『青山との同行はもうごめんだ。彼は非常にセッカチで、道を歩むにも名所を見物するにも、ズンズン一人で行ってしまって閉口した。しかし君のおかげでよい友を得た。彼は当世珍しい人物だ』青山はこう言う。『陸は馬鹿に気がながくて、どこへ行っても、グツグツするには閉口した。しかし当世珍しい人物だ』」「僕が始めて陸をしったのは、明治9年司法省の学校にはいった時だ。その前、陸は仙台の師範学校におり、校長と激論して、退校を命ぜられたそうだ。」と加藤氏は話を続ける。「陸は奥州生まれ、僕は四国出の田舎書生同士で、互いに言語もよく通じなかったが、フト意気相投じて、三年間の同窓中、格別に親密にした。夏休みは国分や福本と四人で富士山に登ったり、東海道の徒歩旅行をして、途中一文なしになったり、あるときは千葉に遊歩して、警察署にひっぱられた大失策もある。休暇中でも寝食をともにして、特に心安くしたが、陸は高潔な性格で、胸中一点鄙吝(ひりん)の心がなかったのは、死に至るまでかわらなかった。」司法省の頃、陸と原敬は人のために放校処分になった。司法省の役人が無理をいって、大議論になって、最後は司法卿まで乗り出してきて、学生の大半は屈服したが、陸と原はあくまで正論を唱えて、ついには15,6人放逐された。放校処分を受けた面々は、乱暴者で勉強もせず、成績が悪く、しばしば校則を破っていたが、原、陸両人は、行いもよく、勉強もする、成績はよい、おまけに事件には無関係だったが、他人のために男の意地を張って同じ処分を受けたのだという。しかし両人は少しも未練を残さなかった。その時、陸は原敬のことを加藤氏にこう言ったという。『原はヘンペンたる才子ではないと思っていたが、このように正義を重んじ責任を重んずる人とは知らなかった』原敬、陸羯南とはこういう人物であったのだ。退校後、原は報知新聞に入った。加藤氏と陸もぜひ東京の新聞社に入るつもりで一年間奔走したが、志を得ず、ついに陸は北海道に行った。『その時、僕は大風雨をおかして千住まで徒歩で陸を送り、千住大橋の上で手を握って別れた。二人とも懐に余裕がなく、そこらに腰掛けて一杯のむというわけにいかなかった。』陸は北海道で紋別製糖所の翻訳係に雇われたが、一年もすると上京した。
2026.06.02
西郷隆盛、大島の三年1858年(安政5年)11月15日 薩摩藩は月照を日向の法華嶽寺に追放することを西郷に伝え、今夜すぐに船で出発するように伝える。西郷、月照、平野国臣(くにおみ)、重助(月照の従僕)の4人は藩庁が用意した丸木舟に乗り、錦江湾に漕ぎ出した。大島で重野安繹(しげの・やすつぐ)が西郷にじかに聞いたという話によると、鹿児島城下の沖合を三里ばかり東に行った所で、陸に寺が見える。西郷は舳(へさき)に出て月照を招き、あの寺は心岳寺といって、島津家には由緒深いお寺(島津歳久が豊臣秀吉に島津征伐に抵抗し切腹させられた)ですと由緒を語った。「薩摩藩士はいまも公の義列をしたって参詣がたえません。和尚も御一拝下され」と、月照が手を合わせ、腰をかがめたところを、西郷が抱えて海中に飛び込んだ(諸説あるがここでは「重野安繹演説筆記」による)(『西郷隆盛』井上清著 上p.64)「さてさて残念な事をした。和尚独り死なして自分一人死にぞこない活きているのは残念至極だ。士の剣げきを用いずして身を投げるなどということは、女子のしそうなことで、誠に天下の人に対しても言い分けがない。ただ和尚は法体のことであれば、剣げきを用いずして死んだ方がよろしかろうという考えで投身したけれども、むしろ死するならば、女子のなすようなまねをして自分独り活き残って面目次第もないと、歯がみなし涙を流して拙者(重野)に話した」(「重野安繹演説筆記」)11月29日 平野らによって二人は引き上げられ、二昼夜懸命の介抱で三日目に西郷は蘇生した。藩庁は西郷の処分に困り、幕府へは西郷は死んだと届け出て本人は菊池源吾として大島に潜居させることにし、年5石扶持米を支給することを決定した。12月19日 肥後の長岡監物あて手紙「わたくし事、土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候しだい・・・・・・天地に恥ずかしき儀にござ候えども、今さらになり候ては、皇国のために暫く生をむさぼりおり候事にござ候」12月下旬 大島に向けて出発したが、風向きが悪く、山川港で潮待ち1859年(安政5年)1月2日 大久保一蔵あて手紙「大義の一挙につき御策問の趣き、幾度も承知つかまつり候えども、小生儀、土中の死骨にて、武運つたなくことに大義を後にいたし端島に身を逃れ候儀、たとえば破軍の降卒(戦いに敗れた兵)にて、(策問に答えるのは)たっておことわり申し上げ候儀にござ候えども、数ならずも先君公(島津斉彬)の朝廷御尊奉の御志親しく承知つかまつり、いかにもして、天朝の御為めに忍ぶべからざるの儀も相忍び、道の絶え果て候までは尽くすべきの愚存にござ候。汚顔を顧みず、拙考の儀もお返事申し上げ候」1月始め 大島に向けて出航1月11日 大島の名瀬に到着*重野 安繹(しげの やすつぐ、1827年11月24日(文政10年10月6日) - 1910年(明治43年)12月6日)は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。
2026.06.02
23台湾の工場地選定のため藤三郎台湾視察におもむく明治33年12月5日、東京市麹町区内幸町、東京倶楽部に最後の発起人会を開催し、同12月10日には日本橋区坂本町、東京銀行集会所で創立総会を開催した。 創立総会は益田孝氏が会長席に着き、定款確定の件、創立費認諾の件、重役俸給決定の件、取締役及び監査役選挙の件等を議定した。鈴木藤三郎氏は、この席で先般の台湾実地調査について報告した。まず踏査区域の大体を述べ、糖業地としての諸条件即ち地味、気候、地方農民の甘蔗耕作並びに製糖方法その他を説明し、新式の製糖工場設立の有望について、「今新たに資本と知識とをこの地に加えるならば、今日の産額の5倍ないし8倍を得ることは容易である。」と述べ、その他に対しては次のような要旨を述べた。「工場敷地については、最初4、5か所を見定めて、更にこれを取捨して3か所を選定した。小工場を諸所に散在させることは経済上不利益であるから、目論見書中の粗糖製造力一昼夜20トンを標準とせずより大規模のものとし、それに適する土地を求める必要がある。更に工場建設に伴う製糖経営者の反感に対する懸念は、その処置を誤まらないならば心配はないと思われる。しかし、いつまでも買入原料にだけ頼るならば、いつ面倒が起らないとも限らないし、さとうきびの改良のほうから考えても、会社が自ら土地を所有することが万全の策である。地価も、実地調査の結果、低廉であることが判明した。そして製造に要する地域は、三年輪作として1年500甲であるから、全体で1,500甲を要するが、差当りその3分の2、すなわち1,000甲を所有するだけでも安心である。したがって土地買収に要する資金は予算額を超過することとなり、建築費も予算額より4、5万円超過する等の点から、株金払込みの時期を早める必要がある。この外営業上に対する懸念は少なく、結果は良好である。」と述べた。 報告後、質疑応答が行われ、建築費、土地購入に関する株金払込金額の増加について了承され、総督府から一万二千円の補助金下付の件を報告した。重役会議の結果、取締役会において鈴木藤三郎氏を社長に互選した。 創立総会における藤三郎の報告により、原料さとうきびの円滑で十分な供給のためには、農民から買収する原料だけに頼らず、社有地を持って、自らさとうきび農業を営むことが万全の策なこと。土地を所有し、社業の安定を図ると同時に、品種改良、肥培管理等についてさとうきび農業の模範を示し、農民を指導する必要があることが明らかになった。そこで、事業計画を変更し、株金払込額を増加するため、明治34年1月5日百株以上の大株主協議会を開催し、大株主の理解と承諾を得ることとなった。この大株主協議会は藤三郎が会長となって進めた。会長は工場設置候補地として曾文街と橋仔頭の2箇所を選定した旨を述べ、その付近は将来事業拡張上有望なる土地であるから、その購入について協議したいと提議した。井上馨は、我が国砂糖の消費と貿易状態、糖業振興の必要とを述べ、台湾で新式機械による砂糖製造及びさとうきび農業改良が必要なこと、その経営には社有地の購入が先決問題であると説いた。「私は、官有地払下げについて、およそ5千町ばかりの払下げを受け、これを開墾しサトウキビを植え付ける必要があると考え、児玉総督や後藤民政長官に尋ねたところ『台湾で未開墾地の5千町歩はなんでもない』ということだった。そこで私は、発起人諸君にも未開墾地を買い入れる必要を説いて目論見書に書き入れた。」しかし、藤三郎の実地調査報告に接して井上の考えは次のようになったと述べた。「当社工場敷地の候補地である橋仔頭と曾文渓の両地方の有力者はいずれも工場の建設を希望し、土地を購入する場合には、土地代をもって株主になろうと望む者さえある。新たに土地を開墾するより、現在の耕作地を購入するほうが有利なことが判明した。その結果、まず曾文渓と橋仔頭で、今のうち各1,500町歩以上3,000町歩の既墾地のサトウキビ耕作地を購入しておくことを当社のために希望する。」と力説した。「日本の商工業は日に月に進歩しているが、多くの会社は借財で事業を始め、すべて配当が多いことだけを望んで、その基礎が強固かどうかは気にかけないところがある。私は最初からできる限り土地を買入れる必要があると信じる。実に日本経済界のため、この事業の発達と成功を最も希望してやまない。」と述べ、台湾製糖の社業の堅実な発達を切望した。この主張は井上の持論で、事業会社は株主配当率の高きを競ってはならない。不時の変動に備え、堅実な社礎を確立することが緊要であると唱えた。 後藤民政局長は、土地の買収、建築材料供給など便宜を与えると延べ、従来の台湾企業界には、確実な事業家の渡来がほとんどなく、台湾人の信用を失墜させたと述べ、「従来台湾で事業を起こした者は、多くは俗に壮士とか呼ばれるような、虚業家ばかりで、台湾で営利事業はとうてい成功しないとか、官省が不親切であるとか、いたずらに不平を鳴らし、台湾の生産事業をそしっている」と指摘し、「諸君は、日本の母国者としての義務を保たれ、かつ永遠の営利事業の先導者ですから、十分にこの産業の発達をはかられることを希望してやみません。当社への保護金は、予算外国庫の負担として、議会に提出する積りである。単に今回は台湾事業の発達を計る目的で保護を加える覚悟だが、これらの会社百社ぐらい数えるようにしたいというのが希望である。今後成立する会社で、一々保護を与える事は到底できない。しかし当社に対する保護金は5か年間支出する。」と述べ、金融方面に於ける援助をも強く保証した。いかに事業が重大視せられ、順調な発展を待望されていたか知ることができる。 当社側では鈴木、益田が主として説明に当ったが、山本達雄氏は、「初め百万円でこの事業を起す目論見は、今にして考えれば実に少額に失した感がある。よってこれを盛大ならしめ、充分確固たる事業たらしめんには、これに要する金額の払込みをなし、直ちに増資を実行なさしめるのが最も利ありと信ず。故になお充分必要の施設を加えるに怠るべからずと思考す」と発言された。大株主協議会の協議事項である土地購入の件等すべて出席株主の賛成を得て、臨時株主総会を開いて、当社創立目論見書中、第一期事業計画変更の件並びに土地買入の件が正式に議決された。「台湾製糖株式会社史」においては「今日厖大な耕地を所有し、事業経営上の一大強味となっている台湾製糖の社是は、実にこの大株主協議会において決定、確立された。」と述べている。
2026.06.02
大智禅師偈頌講話 沢木興道 山居というものは一人になって見んならん。そうすると、坐禅は山居である。それは俳人が露の音と風流がっていうけれども、夏ジッとして坐禅しておると、腋の下から出る露の音。汗の音というものを聞く。九州の延岡に夏接心に行ったとき、ある禅宗の坊んさんが、「腋の下から汗がボトボト出る。汗の音というのははじめて聞いた」といったが、それはそうだ。この間も肥前の接心に行くと、鼻の先きに露をぶらさげておる。横から見ておると、くすぐったいような、気持ちが悪いような感じがして、心配でかなわん。露の音という。 坐禅がまためいめい違う。無暗に汗がこわ張って痛い者やら、無暗に眠たい者やら、それも日によって疲労の加減でまた違う。要するに、坐禅は一人の世界である。山居である。坐禅はそれが山居である。誰ぞ助け船というても、誰も足の痛いのは助けてくれん。奥さんが、「旦那さん」「あなた」というてもいかん。「足が痛いか」「ヘエ、足が痛い」そんなことをいうたら、パチンとやられる。どうもいかん。自分一人の世界、自分の暑いのはどうにもならん。手ぬぐいを絞って持って来い。そんな訳にいかん。どうもこいつ山居である。 ただ一人の世界、もっとも清らかにして、もっとも崇高なその世界を象徴するために、ここに「香を焚いて独坐す長松の下」これはいい。即ち坐禅であり、山居である。その外のことは余分である。余分であるけれども、余分なことをいわなければ、詩というものに綾模様がない。「風寒露を吹いて禅衣を湿す」これは枯淡味にいっそう拍車をかける。山住まいは枯淡でなければならん。山居して坐禅して、それで冷やしビールを飲んでー。そんなことはありやせん。坐禅して谷の水にサイダー冷やして、それを飲んでー。それではあまり枯淡味もなければ、禅味もなにもない。で、風寒露を吹いて禅衣を湿す。これは大きな禅堂、伽藍に住まいしておるのではない。ただ雨露を凌ぐための山居であることは分る。岩の上の木の下に坐禅しておる。そこで、風寒露を吹いて禅衣を湿す。風が露を落としたので着物がねれた。「有る時定より起って隻澗(そうかん)に下る」隻澗というのは谷川が両方から流れて来て、一つになるようなところをいう。隻澗に下る。そこのところが水を汲むのにいいところで、そこへ閼伽(あか)桶を持って水を汲みにいく。ここには瓶とある。瓶を持って行く。坐禅してしもうた。さあお粥を炊かんならん。それで、水を汲みにいった。桶には付が映っておるという。月がその閼伽桶に映っておる。「瓶に五更の残月を汲んで帰る」―。(大智禅師偈頌講話p.28-29)
2026.06.02
187二宮翁逸話33 翁の除草法 翁は、「畑の草を取るにはなるだけ小さい草から取れ。またあまり生えていないところから取れ。そうすれば早く取れる」と言われた。この筆法を藩政の改革に用いられたと見え、翁の改革は難村のなかでも比較的良い村から改革を始められた。しやすいところから改革を始めれば自ら難しいところは良くなるというので、また力の消耗しつくさないところから改革を始めたということである。除草法と難村の改革とを同じ筆法でやったところは実に面白いことではあるまいか。「二宮翁夜話」巻の1【28】尊徳先生はおっしゃった。何事にも変通という事がある。知っておかなくてはならない。すなわち権道(けんどう:正しいとはいえないが目的達成のために便宜的にとる手段。方便)である。困難であることを先にすることは、聖人の教えであるけれども、これはまず仕事を先にして、それから後に賃金を取れというような教えである。ここに農家に病人等があって、耕し草刈りが手後れになった場合、草が多いところを先にすることが世上の常であるけれども、このような時に限っては、草が少なく、かえって手をつけやすい畑から手入れをして、草が多いところは、最後にするべきである。これが最も大切な事である。いたって草が多く手重のところを先にする時には、大変手間取ってしまい、その間に草の少ない畑も、皆一面草になって、どちらも手後れになるものであるから、草が多く手重い畑は、五畝(せ)や八畝(せ)は荒してしまっても「ままよ」と覚悟をして暫く捨ておいておき、草が少なく手軽なところからかたづけるべきである。そうしないで手のかかるところにかかって、時日を費やす時は、僅かの畝歩のために、全体の田畑が、順々に手入れがおくれて、大変な損となるのである。国家を復興するのもまたこの理である。知っていなくてはならない。また山林を開拓するのに、大きな木の根は、そのまま差し置いて、回りを切り開くがよい。そして3,4年を経るならば、木の根が自ら朽ちてしまい力を入れないで取れるものである。これを開拓の時に一時に掘り取らんとする時は労多くして功は少ない、百事そのようである。村里を復興しようとすれば、必ず抵抗する者がある。これを処する、またこの理である。決してかかわってはいけない。障(さは)ってはいけない。度外において自分の勤めを励むがよい。
2026.06.02
23台湾製糖株式会社の創立井上馨は、大蔵大臣を辞めると、明治33年(1900)3月に、東京市の内外にある主要工場26か所を巡視し、工場経営の実況を調査研究した。日本精製糖会社には、3月16日に高橋是清、益田孝たちを従えて視察に来た。藤三郎は工場内をくまなく案内した上で、井上に問われるまま、わが国の製糖業について日ごろの抱負を述べ、「日本糖業論」を贈呈して一読をこうた。藤三郎から、台湾での製糖事業が有望であると聞いて、井上は、この巡視を終ると、台湾糖業の開発のため一大会社を創立する決意をし、児玉台湾総督に話した。児玉も前から考えており、三井物産会社益田孝専務理事に相談した。益田は明治33年(1900)4月27日、藤三郎を三井物産会社に招いた。藤三郎は、益田に台湾糖業が有望なことを力説して、台湾に製糖会社を創立する計画は確定的になった。益田は井上に報告すると、井上は藤三郎を社長にすえるよう命じた。益田は、藤三郎を招いて台湾製糖会社の社長になるよう懇請した。「台湾を事業地とする新会社の社長となれば、2年や3年は、それにかかり切る覚悟にならなくてはなりません。私は、日本精製糖会社が最近3倍半の増資をしたばかりで、その事業拡張で手一杯ですから、とてもお引受けはできません。」と回答したが、結局、社長就任を承諾しないわけにはいかなくなった。「明治28年、台湾は日本の領土に帰し、台湾総督によって統治された。数年間は治安の確立に忙しく、産業的開発は十分にはできなかった。明治31年1月第三次伊藤博文内閣が成立し、井上馨がその大蔵大臣となった。同31年2月、児玉源太郎大将が第4代台湾総督として赴任しようとしていたので、井上蔵相は同総督に対し、台湾の産業、特に製糖業を振興し、将来財政収入の増大を図るべきことを説いた。児玉総督も台湾財政独立のため、産業開発を一大眼目とし、糖業の奨励がその中心をなした。 児玉総督は明治31年3月台湾総督府民政長官後藤新平を帯同して着任した。同年6月、各地方長官を総督府に召集し訓示を行った。その要旨は政治機構を簡易にし、運用を敏活にすること。治安上の禍根を除いて島民を安心させること。財政の独立を図ることにあった。このため警察設備の活用、土地調査の実行、専売制を実施した。 当時、台湾産業の主要作物は米、茶、砂糖、樟脳だった。砂糖は輸入を防ぐという国家的大局から振興させることが必要であり糖業の奨励は産業政策の中心をなした。明治33年1月、新渡戸稲造に、諸外国の産業政策、特に糖政に関し調査させた。海外から優良なさとうきびの苗を輸入しさとうきび農業の改善を図り、新式の機械の利用で砂糖の増産を期した。当時、台湾糖業の前途に対する方策については種々の議論があった。総督府内でも、小規模の製糖法から始めて次第に大規模なものに移るべきだとする漸進主義の主張が強く行われていた。そのなかで、児玉総督は、当初から新式機械による大製糖工場設立説を持ち、着々調査準備を進ませた。総督府殖産課技手山田熙氏に命じて、台湾南部糖業地の実状及び新式糖業創始に関する見込等を調査させた。そして本事業の経営者について考慮をめぐらした結果、三井家に当たらせることとし、ここに台湾製糖株式会社設立の端緒が胚胎した。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治33年(1900)10月1日、新橋駅を出発し、3日神戸出帆、7日台北に到着した。13日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、10月14日基隆出帆、安平に上陸し16日台南到着、3日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿?街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この工程に費した日時は2週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て、布袋嘴に至った。布袋庄は糖業地ではないが、内地人経営の塩田があり、本島人を使役しているから、『参考に視察の必要があろう』との児玉総督の注意もあったため、特にこの地を検分した。それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間11日を要し、前後を通じて24、5日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿?付近の大原野、即ち現在当社の阿?及び東港両製糖所区域たる万隆及び大?営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治33年(1900)12月2日であったが、山本悌二郎はなお台湾に止り事業開始の準備を進めていた。」「台湾製糖株式会社の創立に先だって、鈴木藤三郎社長は山本悌二郎を同伴して台湾に渡り、工場建設地の選定、その他を実地踏査の上、創立総会直前一応帰京したが、山本は引き続いて台湾にあり、明治34年(1901)2月、支配人を命ぜられ、専ら現地において事業開始の準備を進めた。 工場は最初、総督府の調査に基づいて、麻豆付近に置こうと考えていたが、鈴木、山本両氏が踏査した結果、曾文渓、橋子頭の2か所が候補地に挙げられた。この2か所は糖業に好適地だったが、運搬及び水に便利がよいことにより、橋子頭に決定した。この地は台南より高雄に通じる鉄道に沿って、台南から南へ約6里、高雄へは3、4里ほどで、サトウキビ耕作地の一中心に当り、当時としては交通の便に恵まれていた。しかし、当時は一小荒村に過ぎなかった。当社は建設工事の着手に際し、明治34年(1901)1月、郵便電信局設置の件を出願し。局用建物を建築して、同年6月25日完成した。が、その通信事務の取扱が開始されるまでは、自ら電信用電話を橋子頭、鳳山間に特設して不便を補った。衛生的施設に至っては、作業開始数年後も、一週に一度阿公店(高雄州岡山)から出張して来る一公医があるだけで、たとえ病人が出ても公医の来ない日には、サトウキビ園の者が薬を調合して、一時の急を凌ぐというものだった。」と「台湾製糖株式会社史」にあります。
2026.06.01
大智禅師偈頌講話 沢木興道 で、万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん。またそれが山居である。山の中ではお客もないし、主人もない。主人とお客と、どっちが主人でどっちがお客か訳が分からん。山の中におるというと、人間がおらんから、主人の自分とお客の自分と、お客と主人とどっちもない。そのないところが人間のまた真実である。 お茶の極意に、「亭主は客次第、客は主人次第」という標語がある。客は客で、「おやじ碌に知りもせんくせに生意気なことをしておるから、一つ知らんことを尋ねていじめてやろう」主人は主人で、「今日のお客はどれくらいの奴か、一つ試してやろう、どうかして困らしてやろう」そういうことを思ってはいけない。 瀬戸物のあひるの置いてある庭を見て、そいつをけなすのもここの礼儀ではない。「ワア、このあひるはよくできておりますな」といって感心する。そこらがまた難しい。ここは主人に気持ちの悪うならないようにする。ここはお客に気の悪うないようにする。相手の気持ち通りー。 相手の力を無視して、自分勝手なことをいうては、それはやはり非思量じゃない。相手もわたし、わたしも相手、で、敵と味方とこれがよう調和する。万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん。それが慈悲というものである。慈悲というのは、自分の理想の高いところを、そこで振り回すことではない。馬鹿にせんと、いいことは、いいこととする。「瀬戸物のあひる、瀬戸物の狸、こういう趣味もあるべきものだ」と見る。それが慈悲である。またそういう慈悲もあって然るべきものである。 それを向こうに回して、敵に回すことは俗である。それを自分の子なら、「ウン、俺の息子も瀬戸物のあひるに趣味を持つようになった。瀬戸物の狸を庭に置いて、飾り物にするようなった」それでいい訳である。それをけなすのは、相手が別にあるからである。 自分のうちに取り込んで、万象の中独露身、そうして一切の世界を見ると、なにもそんなに学者、無学者と隔たっておるのではないし、そう趣味の高い低いと違うておるのではなし、それは純米のもち米の、ぼた餅のアンコロに、砂糖の沢山入っておるやつは嫌いで、外米のガサガサが好きというのはありやせん。たいがい貧乏人でも、たいがい金持ちでも、うまいものはうまい。味ないものは味ない。そう大した距離はない。また思想的にもである。 わたしが一遍博多のある寺におったら、一人の書生がつき歩いた。そうして、のさばって、わたしの上やら下やら、分らんところに坐っておる。そうすると、そこの雲水が襖の外に坐ってお拝しておる。書生曰く、「ここの坊んさん達はまるで封建時代のような礼儀を致しますね」封建時代を見たことのあるようにヌカしよる。それはなにかというと、書生達は勝手主義、我がまま主義。寄宿舎で我がまま勝手、教師は生徒をお客扱いにしておる。いつも付き合い慣れた習慣から、お寺の坊んさんの行儀のいいのを見て、「まるで封建時代のような礼儀」という。自分が尻コソボウなった。 違う世界から見たらたいへん違う。また坊んさん達が書生のやることを見たらびっくりする。それは腰を抜かす。ところが、両方分かったものから見たら、なんでもない話じゃ。良寛さんのところへ坊んさんが来て、足を洗うというので、すり鉢に水を汲んできた。「これはすり鉢ではございませんか」「ヘエ、足も洗えます」トランクの上にふんどしを干す奴がある。ふんどしも干せます。夏、狡いヤモメ生活の奴が、越中ふんどしの垂れで茶碗をふきよる。かなわん。 月謝を木戸銭と同じように払うて、のさばって歩いておるのが、若い奴にある。雲水は、大ぴらにただ飯を食うて、ようのさばらんでー。これは猿芝居じゃ。猿芝居を見ると、テテンコテンテンコテン、猿が、「ヘエ、旦那さんありがとう」あれは礼儀でしているのでもなんでもない。雲水がおじぎをするのは、商売でする。飯代じゃ。なにもかも分って見るとおもしろい。どちらも一目に見る。万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん。主観もない、客観もない。是もない。非もない。「首(こうべ)を回らして独り枯藤に倚(よ)って立てば」なんにもないという。万象の中独露身、だから、宝鏡三昧。だから「宝鏡に臨むが如く、形影(ぎょうよう)相覩(あいみ)る」主観と客観と二つ見る。「汝是れ渠(かれ)にあらず、渠正に是れ汝」宝鏡に臨むが如く、形影(ぎょうよう)相覩る。ここに映る形と影と二つある。汝是れ渠にあらず、渠正に是れ汝。お前のあれではない。あれがお前じゃ。実に躍動して万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん。 主観ぎりの主観もなければ、客観ぎりの客観もない。お前ぎりのお前もない。俺ぎりの俺もない。俺の外にお前がない。その癖お前がある。俺とお前と、お前と俺、その間の蝶番い、それを両方に映したものが、即ち宝鏡三昧、ここに万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん。主観ぎりの主観もなければ、客観ぎりの客観もない。 首(こうべ)を回らして独り枯藤に倚(よ)って立てば「人山を見る山人を見る」そこで杖をついて、ヒョッと向こうを見ると、枯藤に倚(よ)って立てば、人山を見る、山人を見ておる。山が人を見ておる。山が人を見ておるんだから、「ハハア、こいつはちょっと低能じゃわい」「こいつはちょっと美人じゃな」「こいつはちょっとヘチャじゃな」山はなんにも思うておらん。で、転結の二句は、その万象の中独露身の模様をおもしろく象徴しておる。首(こうべ)を回らして独り枯藤に倚(よ)って立てば、人山を見る山人を見るで、これが三昧であり、非思量であり、はたまたこれが山居である。(大智禅師偈頌講話p.22-26)
2026.06.01
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(六) 焚香独坐長松下 (香を焚いて独坐す長松の下) 風吹寒露湿禅衣 (風寒露を吹いて禅衣を湿す) 有時定起下隻澗 (有る時定より起って隻澗(そうかん)に下る) 瓶汲五更残月帰 (瓶に五更残月を汲んで帰る) わたしが、この詩を第五高等学校で、黒板いっぱいに書いて紹介したところが、線香を立て、松の木の下で坐禅しておるところの絵を書いて、それにこの偈を書いた書生があった。香を焚いて独坐す長松の下。『証道歌』の中に「岑崟(しんきん)幽邃(ゆうすい)たり長松の下、優遊として静座す野僧が家、闃寂(げきせき)たる安居実に瀟洒(しょうしゃ)」とある。もうこれは長松の下といえば、そうした風の高い山、深い谷、そうして、岑崟幽邃たり長松の下じゃ。優遊として静座す野僧が家、闃寂(げきせき)たる安居実に瀟洒(しょうしゃ)。やれ電話がかかったとか、電報が来たとか、そんな面倒臭いことはない。 しかし大体においてこれは山居だから、なんにもないほうがいい。なるだけ人も少ないほうがいい。できることなら自分一人でおったほうがいい。しかし、一人はまたなかなか辛い。参禅会も大勢おって、飯炊いて貰って食うて、本堂掃除と、真似事の草取り作務くらいの話だからよいが、自分で飯炊いて一人おってごらん。それは泣き出す。 わたしが熊本の万日山というところに移ったことがあったが、昼は大勢寄ってバケツを持ってきて掃除してくれる、それはいいが、日が暮れると皆帰って一人もおらん。ヒョッと気がついたら飯がない。今晩どうしよう。うどんやは熊本にない。弱った。それからパンを買いに行ったが、ローソクもない、提灯もない。それから、昔十銭で売っておった提灯を一つ買うた。 道はどうぞこうぞでそれで慣れた。そこらはいかにも山の中じゃ。それもえらい深い山というのではない。停車場が見えておる。それでも山の中で豆腐を食いたいと思えば、向こうの道に豆腐は売っておるけれども、ブッチャからんようにささげて戻らんならん。沢庵を食おうと思うと、七、八町も向こうの八百屋みたいなところ、食料品を売っておるところから、背負って来んならん。それは大変である。 良寛が五合庵で豆腐を買うての戻りに、雁が餌を食うておるところに行き合ったので、じっとそれを見ておった。するとなにやらにたまげて雁が飛んで行った。良寛は口を開いてそれをじっと見ておった。そしてヒョッと我に返ったら、豆腐がそこにあった。やれ嬉しやと思ったか、 かりがねは我を見捨てて飛び行けど 豆腐は羽根のなきぞ嬉しき あれは山居の実感である。西有禅師が瓢箪に酒を入れて、飲もうと思って、パシャンと割らかして、失望したときの話をしたことがある。それは失望するであろう。液体を捕らえるわけにいかん。それは山居の気持ちである。(大智禅師偈頌講話p.26-28)
2026.06.01
187二宮翁逸話32 翁若者の遊戯を戒む 村の若者が休日に棒押しをしたり、路傍の石を差し上げて力比べしておると、翁はそこへ行って「お前たちはそんな無益なことに力を遣ってはいけない。もっと生産的のことをやらなくてはならぬ。力比べをするならば山に行って木を担いて来い。自ずから力量が分かる」と 言われたということである。
2026.06.01
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