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兄弟で、廓の真中で次から次へと喧嘩をしかける「股くぐり」で、場内爆笑の渦のなかで、暖簾の奥から「お危のうござんす」と客を気遣う揚巻の声がする。助六は「あいつは、今夜は、身揚り(みあがり=遊女が自分で揚げ代(費用)を払って休むこと)でいるから来いといってよこしたが、客を送るとは。こいつァ一番、言わざあなるまい」と腹を立てる。そこへ編笠を冠った侍客が揚巻に送り出されてくる。「やい、侍。この広い往来でなぜ足を踏んだ。鼻紙を出して拭いていけ」と助六が因縁をつける。新兵衛も「拭かせろ、拭かせろ、今拭かざあ拭きえまい」とけしかける。揚巻は「これ、粗相(そそう)言うて、後で謝らしゃんすなえ」と言うが、助六は「うぬが知ったことじゃあねえ。黙っていやがれ、売女(ばいた)め」と罵る。助六はなおも「なぜ物を言わねえ、聾(おし)か唖(つんぼ)か」と言うと、新兵衛は続けて「のっぺらぼうか」と、二人が騒ぐ。助六は「第一、その蓮っ葉(はすっぱ)を取れ」と、編笠を取ろうとして、顔を覗きこみ驚き慌てる。すごすごとさがる助六を見て、新兵衛は「どうした、どうした。祭りが支えた(つかえた)な。(喧嘩の勢いがそれたという意)よし、おれが出よう」と、助六がとめるのを振り払ってしゃしゃり出る。「ことも愚かや(おろかや)揚巻の助六が兄分、襟巻き(えりまき)のぬけ六とも、白酒の粕兵衛(かすべい)ともいう者だ。こりゃ、こっちの足が住吉の反り足、こちらの足が難波(なにわ)のあし‥抜けば玉散る天秤棒(てんびんぼう)、坊様(ぼさま)山道、破れた衣、ころも愚かや揚巻の前立ち。家に伝わる握り拳のさざえがら、うぬが目と目の間を‥」と、相手の顔を覗き込んで、助六同様うろたえて逃げていく。新兵衛は「ああ、死んだ」と下手(しもて)の床机の下へ首を突っ込む。二人が慌てるのも道理、この侍客は、二人の母・満江(まんこう)なのである。母は助六の喧嘩をたしなめる。そして、赤い毛氈(もうせん)に包まっている新兵衛を引っ張り出してみると、なんとこれが兄・祐成である。満江は亡夫への言い訳に死ぬと言い出す。兄弟はあわてて押し留め、喧嘩は友切丸詮議のための苦肉の策と説明する。母は助六の体を心配して、紙衣(かみこ)を取り出し、「手荒うすると破れるぞ。じっと堪忍して、紙衣のやぶれぬよう。これを破ると母の身に傷をつけるも同然じゃ」と。早速、助六は紙衣に着替える。小豆色(あずきいろ)に黒の切継ぎの紙衣姿が、この伊達男に艶やかな二枚目の趣(おもむき)を添える。友切丸詮議のため、なお廓にとどまる助六を残し、「松にふじなみ‥」の、しんみりとした下座音楽のうち、心残る風情で満江親子は、後を揚巻に託して夜の廓を立ち家路につく。それを見送る揚巻は、そっと右手を胸に当てて、満江の頼みに応える。傍に紙衣姿の助六が座っている。ここのところは、私の好きなシーンである。母・満江の依頼を引き受ける太夫・揚巻の心意気を見せる仕草になぜか泣けてくる。そこへ「揚巻、揚巻」と呼ぶ意休の声がする。きりりと身構える助六に、揚巻は紙衣のことをたしなめ、助六を自分の裲襠(うちかけ)の裾(すそ)に隠れるようにいう。「恋の夜桜‥」の唄になり、禿(かむろ)たちに香炉台と刀を持たせて意休が出てくる。豪奢(ごうしゃ)な蝦夷錦の衣裳に着替えている。「こう並んだところを助六が見たら、さぞ気をもむであろう、のう、揚巻」と言うと意休の脛をつねる者がある。後ろに隠れた助六の仕業である。揚巻は、それを禿たちの所為(せい)にしたり、鼠のいたずらにしたりする。「なるほど、鼠だ。しかも、溝を走る溝鼠が、それ、そこに」と、刀で床机の陰の助六を突き出す。助六はきっとなるが、揚巻が間に入り、「これ、紙衣を忘れさんすな」とたしなめる。意休は「助六、わりゃあなぜ盗み食いをする。そのような根性で、大願成就なるものか、ここな時致(ときむね)の腰抜けめ」と罵り、扇(おうぎ)をもって助六を打ち据える。助六は打擲(ちょうちゃく)する意休の手をとって、下から静かに見上げ、「意休、わりゃァあやかり者だなァ。われわれ兄弟十八年来、付けねらえど今においても敵(かたき)も討てれず。それに引き替えこの助六は、そちがためには恋の敵。その敵を目前に扇の笞(しもと)、さあ、討つという字がうらやましい。あやかりたい。われに教訓の扇といい、母の紙衣に手向かいならぬこの時致(ときむね)、さあ、打て、叩け(たたけ)、打って腹だにいるならば、いくらも打てよ、髭の意休」と、首をうなだれて、愁いの体である。意休は頷き、香炉台を助六の前に据え、その三本の足に譬え、曽我十郎・五郎・祐俊(すけとし)の三人兄弟が、力を合わせれば、この三本の足はびくともしないといい、逆に三人がばらばらでは、この通りと、刀を抜き、香炉台を切る。このとき、助六は手早く刀の寸法を測り、友切丸であることを確認する。意休はすばやく刀を納め、揚巻は仲に入って両手を広げて押しとめる。三人キッパリと見得、ツケとなる。意休は「人多き人の中にも人ぞなき、人になれ人、人となせひと。人目を忍んで時節を待て。助六、さらば」と奥へ引っ込む。助六は「この紙衣を破るまいと、じっと無念を堪えていたが‥。こりゃ揚巻、いま意休が抜いたる一腰(ひとこし)こそ、かねて尋ねる友切丸」と、勇んで奥へ踏み込もうとするのを抑え、揚巻は助六に耳打ちをする。助六は「うむ、そんなら今宵、帰りを舞いうけ」と頷いて、助六は右足を踏み出し、両裾(りょうすそ)をとり、揚幕を睨み、きまる。揚巻は、後ろ向きに裲襠の背を大きく見せて、助六を見送る形にきまる。そこにチョーンと柝(き)が入る。急調子の「曲撥の合方」で、助六は大股で入る。この後、「水入り」がつくこともあるが、一応、この幕で「助六」を閉じることにする。4回にわたって「助六所縁江戸桜」を書いてみたが、4月の團十郎を観れば、私の下手な解説も何かの手助けとなるかも知れない。歌舞伎は「読むもの」ではなく「観るもの」である。あの舞台を観れば、一目瞭然である。ただし、台詞や歌の文句には聞きなれないことが少なくないので、予め、これをさらりとお読みくだされば、「なるほど」と理解がより深まるというものである。
2010年03月07日
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正面の暖簾口(のれんぐち)から「いやだ、いやだ」と大声が聞こえ、やがて、浴衣(ゆかた)がけの湯上り姿で頭へ濡れ手拭(ぬれてぬぐい)をおいた「かんぺら門兵衛(もんべい)」が遣り手(やりて)のお辰の首筋をとらえて出てくる。門兵衛は意休の子分の一人である。風呂に入って女郎たちに背を流させようとしたが、だれも来ないので湯にのぼせたと怒っている。 その騒ぎの最中、下座の音楽が急調子となり、花道から、うどん屋・福山の担ぎ(かつぎ・出前持ち)が登場。往来で立ちはだかって因縁(いんねん)をつけている門兵衛に、うどんを入れた箱をぶっつけてしまう。平身低頭(へいしんていとう)謝る担ぎに門兵衛は八つ当たりし、怒鳴りちらす。下手(したで)に出ていた担ぎは、「どうでも勝手にしろ」と地べたにあぐらをかく。 「廓(くるわ)で通った福山の、暖簾(のれん)にかかわることだから、けんどん箱の角(かど)だって、言わにゃあならねえ喧嘩好き、出前(でめえ)も早いが気も早え、担ぎが自慢の伸びねえうち、水道(すいど)の水で洗い上げた、胆(きも)の太打ち(ふとうち)細打ちの、手際はここで見せてやらァ。憚り(はばかり)ながら、こう、緋縮緬(ひじりめん)の大巾(おおはば)だァ」と、啖呵をきり、両手で縮緬の下がりをひろげて反り返る。新進気鋭の若手の役者か、助六役の後継ぎが演じる慣わしになっている。気持ちのいい役である。 これを聞いて、いよいよ門兵衛は収まらない。「耳の穴をかっぽじって、よく聞けよ。これにござるが俺(おら)が親分、通俗三国志(つうぞくさんごくし)の利者(きけもの)、関羽(かんう)、字(あざな)は雲長(うんちょう)、髭(ひげ)から思いついて、髭の意休殿。その烏帽子(えぼしご)に、関羽の関をとって、かんぺら門兵衛、ぜぜ持ち様だぞ」と威をはるが、助六は「ゆわれを聞きゃァ有り難い(ありがてえ)が、こんたの長台詞(ながぜりふ)のでうどんがのびる。早く行け、早く行け」と、うどん屋を促す。門兵衛は頑として聞き入れない。 助六は「ははあ、貴様、ひだるな(腹が減っているの意)。ちょうどよい時分に担ぎが来たので、一杯やろうというのだな。はて遠慮深い男だ。俺が振る舞ってやろう」と、担ぎからうどんを受け取り門兵衛の鼻先へつきだすが、「俺(おらあ)いやだ」と駄々をこねる。助六とやりとりがあるが、とうとう「どうとも勝手にしやがれ」と門兵衛の頭へうどんをぶっかける。 担ぎは、それを見て「ざまあ見やがれ」と捨て台詞を浴びせて退場。そこへ、「親分、親分」と言いながら、門兵衛の子分・朝顔仙平(あさがおせんぺい)が出てくる。うどんをかけられた門兵衛は斬られたと早合点している。仙平が調べても、どこにも怪我はない。この二人が助六に立ち向かうが歯が立たない。 門兵衛が着替えに奥へ入った後、仙平は助六に向かって名乗りをあげる。「やい、青二歳め、三歳野郎め、仔細(しさい)らしいやつだ。およそ親分に刃向かう奴は覚えがねえ‥。この上はこの奴が料簡ならぬ。おれが名を聞いて閻魔(えんま)の小遣い帳にくっつけろ。ことも愚かやこの糸鬢(いとびん)は、さとうせんべいが孫、薄雪(うすゆき)せんべいはあらが姉、木の葉せんべいとはゆきあい兄弟。塩煎餅が親分に、朝顔仙平という色奴さまだ」と名乗り、助六に向かうが、手もなくやられてしまう。 門兵衛も出てきて、「重ね重ねの曲手毬(きょうでまり)、ウヌはまあ、何という野郎だええ」と詰め寄ると、じっと目を瞑る(つむる)助六は、カッと大目玉を剥き、「いかさまなあ、この五丁町へ脛(すね)を踏込む(ふんごむ)野郎めら、俺が名を聞いておけ。まず第一におこり(マラリア性の熱病)が落ちる。まだいいことがある、大門をずっとくぐるとき、俺が名を手の平へ三遍(さんべん)書えて嘗めろ(けえてなめろ)、一生女郎に振られるということがねえ。 見かけは小さな男だが肝(きも)は大きい。遠くは八王子の炭焼き売炭(すみやき・ばいたん)の歯っ欠け爺(はっかけじじい)、近くは山谷(さんや)の古やり手(ふるやりて)、梅干婆(うめぼしばばあ)にいたるまで、茶飲み話の喧嘩沙汰(けんかざた)、男伊達(おとこだて)の無尽(むじん)の掛け捨て、ついに引けをとったことのねえ男だ。江戸紫の鉢巻に、髪(かみ)は生締め(なまじめ)、そうれ刷毛先の間(ええだ)から覗いてみろ。安房上総(あわかずさ)が浮絵のように見えるわ。 相手が増えれば竜に水、金竜山(きんりゅうざん)の客殿(きゃくでん)から、目黒不動の尊像までご存知の大江戸八百八町(おおえどはっぴゃくやちょう)に隠れのねえ、杏葉牡丹(ぎょようぼたん)の紋付(もんつき)も、桜に匂う仲ノ町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若え者、ま近く寄って、面像(めんぞう)拝み奉れぇ」と、名調子の台詞は「おおむ石」にも必須である。このつらねは、市川家独特の雄弁術である。 初演のニ世團十郎が「外郎売」(ういろううり)を勤めたとき、上方の客が意地悪く、つらねを先取りしてしゃべったとき、ニ世は直ちにその長台詞を逆から言って、上方の客を沸かしたというエピソードがある。 助六のこのつらねは、劇中もっとも酔うところである。最後の「面像拝み」で、右足を踏み出し(ここで、門兵衛と仙平の二人が左右に尻餅をつく)助六は拳(こぶし)を握り、顎(あご)の下から「カッ、カッ、カッ」と拳をこきあげ、息を吸う荒事特有のこなしから、「奉れッ、べー」と、叫んで、ツケを入れた大見得となる。 二人は白刃を抜いて斬りかかるが、助六の相手ではない。たちまち刀の長さを測られて、峯打ちにされてしまう。「寄りゃあがると、叩っき殺すぞ」と白刃を振り上げ、左で褄(つま)をとって見得をきる。傾城たちが「助六さん、大当たり。ヤンヤ、ヤンヤ」と囃す。 助六は、子分がやられているのを見ていた意休に「そこな、撫付けどん(なでつけどん)、此方(こんた)の子分という奴は、みんなあの通りだ。定めて、此方料簡(りょうけん)なるめえ。斬らっせえ、どうでんすな。なぜものを言わねえ、(ここで「差別語」があるが、現在では言わないようにしているようである)はて、張り合いのねえ、猫に追われた鼠同然、チュウの音(ね)も出ねえな」とけしかける。 しかし、何故か意休は黙殺している。助六は「可哀や(かわいや)こいつ、死んだそうな。どれ俺が引導(いんどう)を渡してやろう」と、下駄を脱いで、意休の頭上にのせ、「如是畜生菩提心往生安楽(にょうぜちくしょうぼだいしんおうじょうあんらく)いよお、乞食(こじき)の閻魔様(えんまさま)め」とけしかける。意休は頭の下駄を投げ捨て、たまりかねて刀の柄に手をかける。助六は、ここぞとばかり「さあ、抜け、抜け、抜け、抜かねえか」と詰め寄るが、意休は「抜くまい」と刀を納める。意休は「鶏(にわとり)を裂くに、なんぞ牛の刀を用いんや」などと、わざと平気を装うて、子分どもを引き連れて意休は奥へ入る。 入れ替えに若い衆が助六にかかるが、みな花道へ逃げてしまう。そこに一人の男が座っている。助六は「口ほどにもねえ、弱い奴らだ。どりゃ、揚巻の布団の上で一杯やろうか」と、暖簾口へ行こうとすると、その男が「兄さん、兄さん」と呼ぶ。 「兄さん、ちょっと待ってもらいましょう」「何だ、兄さんだ。しゃれた奴だわええ、ここへ出やがれ、男伊達の総本寺(そうほんじ)、揚巻の助六だぞ、エエ、つがもねえ」と、足をポンと蹴り上げて花道のほうへ行く。「もし、男伊達の総本寺さま、ちょっと待ってください」「こいつ、俺をバカにするな。悪く傍へよると(そばいやがると)大ドブへ浚い(さらい)こんで、鼻の穴へ屋形船(やかたぶね)蹴こむぞ、コリャまた、なんのことったい」という。 花道に座り込んでいる新兵衛を発見し、襟を掴んで舞台のなかに連れ出す。浅黄の頭巾(ずきん)、浅黄の石持ち、大和柿色(やまとがきいろ)の袖なしを着た優男(やさおとこ)が「わしでごんす」と言うのを見て、「こりゃ、兄じゃ人ではござらぬか」と、助六は驚く。白酒売りの新兵衛である。弟・助六の噂を聞いた兄・新兵衛は意見をする。 この「助六」の芝居は「曽我兄弟」をモチーフにしている。二人の兄弟は父・河津三郎(かわずのさぶろう)が不慮の死を遂げた後、源家の重宝・友切丸(ともきりまる)を奪われた。新兵衛、すなわち、兄・祐成(すけなり)は「こなたはどう心得ている。このほどより、この廓に入りこみ、毎日毎日喧嘩ばかりをしやるげな。竹町で竹割にしたのは誰じゃ、助六。砂利場(じゃりば)で砂利へ蹴こんだは誰じゃ、助六。馬道で跳ね倒したは誰じゃ、助六。雷門で臍(へそ)をとったのは誰じゃ、ありゃ助六とまあ、烏の鳴かぬ日はあれど、そなたの喧嘩の噂を聞かぬ日とてはないわいなあ‥」と畳み掛けての意見をする。 しかし、この喧嘩は親孝行のためと言う助六は「紛失(ふんじつ)の友切丸を一日も早く詮議(せんぎ)し、敵祐経(かたき・すけつね)を討ちたいと、千々(ちじ)に心を砕くも今日まで行方はしれず。幸い廓は人の入りこむところ、無理に喧嘩をしかけ、抜かねばならぬようにして、あれかこれかと詮議しているのでございます。訳もお聞きなされずに、今のようなお言葉。ああ、いややの喧嘩、許させ給え、諸仏諸菩薩(しゅぶつしょぼさつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、喧嘩をやめて坊主になると言い出す。 事情が分かり、新兵衛は助六に許しを乞う。しかし、助六はそっぽを向いている。「これはどうじゃ。田圃(たんぼ)から拝む観音様、後ろ向きとは曲がない」との言葉に、やっと機嫌を直し、「ならば、喧嘩をしても大事ござりませぬか」「大事ないとも。喧嘩はお前によく似合うておる」と持ち上げ、やがてはともに喧嘩をしようと言い出す。 助六は新兵衛に「喧嘩の仕様」を教えることになる。「喧嘩はまず足が肝心(かんじん)。肘(ひじ)をはって、足をこう踏んばって、野郎め、まぜ突き当たった、鼻の穴へ屋形船を蹴こみ、大溝へ浚いこむぞ、こりゃまたなんのこった、と、こうせねば先の相手が怒りませぬ」と、何度も練習をする二人の遣り取りが、また絶妙である。 「そうこういううち、風吹烏(かざふきがらす)が来るわ、来るわ」と、二人が顔を合わせて、うなづきあう。唄入り、通り神楽(かぐら)の華やかな合方につれて、上手から廓通いの遊び人たちがやって来る。国侍が伴を連れてやって来る。助六は往来の真中に仁王立ちして「股をくぐれ」と言う。国侍は見上げると、いかにも強そうな助六に仕方なく、刀を草履(ぞうり)にとおして、股をくぐる。伴奴も同じようにくぐる。やっと済んだかと思うと、新兵衛が「股をくぐれ」と立ちはだかる。しぶしぶ、同じようにくぐる。花道へ来て、二人が悔しさを仕草で表して去る。 次に通人(つうじん)と呼ばれる遊び人が来る。今回は「大サービス」で、勘三郎が付き合う。構わず、助六は「股をくぐれ」と両足を広げる。「吉原の真中で、股をくぐれとは、乙(おつ)なものでげすな、と申して、くぐらぬのもまた野暮(やぼ)でげす」とか、なんとか言って、おどけた芝居をする。ここは「なんでもアリ」の場であり、いわば「息抜き」の場面である。通人は当世流行の歌を歌ったり、香水を振り掛けたり、シャレや冗談をさんざん見せつける、いわばちょっとした気休めなのである。この通人は、亡くなった権十郎のが逸品であった。こ
2010年03月05日
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河東節の「思い出みせや清掻き(すががき)の、音〆(ねじめ)の撥(ばち)に招かれて、それと言わねど顔世鳥(かおよどり)‥」で、揚幕がシャリーンと開くと、蛇の目傘(じゃのめがさ)をつぼめて顔を隠した江戸随一のいい男、助六の出である。前かがみで花道を出て、七三に来る。 河東節が「思い染めたる五つ所(いつどころ)、紋日(もんぴ)待つ日のよすがさえ、子供が便り待合の、辻うら茶屋に濡(ぬ)れて濡る、雨の箕輪(みのわ)のさえかえる」で、助六は傘を開き、左手で持ち替えると、右袖を返し、正面を向いてきまる。白い顔、目を紅の「むきみ」に隈どり、紫の鉢巻に色気が漂う。 杏葉牡丹(ぎょようぼたん)の五つ紋、黒羽ニ重(くろ・はぶたい)の着付、その紅葉裏(もみじうら)が浅黄(あさぎ)の下着に映える。浅黄地に三升(みます)・寿海老・牡丹を金糸で織り出した博多帯(はかたおび)、背には尺八(しゃくはち)、腰には印籠(いんろう)、玉子色の足袋(たび)に桐柾(きりまさ)両ぐりの下駄という、色男の拵え(こしらえ)である。吉原の花の雨をよける心で蛇の目傘を使って、頬杖(ほほづえ)の形、着物の紋を見入って立つ形など、数々の美しい形を見せる。 舞台の並び傾城たちが「助六さん、その鉢巻は、ええ」と問い掛けると、「この鉢巻のご不審か」と。そこで「この鉢巻は、過ぎしころ‥」との河東節で、右手でいただき、軽く頭を下げるのは、贈り主の魚河岸への礼儀である。 「松の刷毛先‥」で、右足を大きく踏み出し、重心を右足にかけ、右手をいっぱいに伸ばして、開いた傘の縁(ふち)を持って見上げた形が、ご存知の「透き額」(すきびたい)の形である。そして「富士と筑波の‥」は、その形のまま、右左と、ジリジリと摺り足(すりあし)で寄り、「かざし草‥」できまる。 「浮世はえ、車‥」からは、ぐっと和事味(わごとみ)を出して、「形(なり)ふりゆかし、君ゆかし‥」と、色めきを見せる踊りとなり、助六が「君なら、君なら」と言う。「新造(しんぞ)命のあげまきの、これ助六の前渡り(まえわたり)、風情(ふぜい)なりける次第なり」で、花道から舞台下手に出て、右手の傘を広げ、左は軽く握って懐(ふところ)から覗かせてきまる。舞台の傾城たちが「ヤンヤ、ヤンヤ」と褒める。 助六は「そんなら、一番割り込みましょうか。冷え者(ひえもん)でえす。御免なせえ」と、左手で会釈(えしゃく)をしながら、下手寄りの床机(しょうぎ)に腰をかける。この「冷え者でえす」というのは、銭湯に入るとき、体が冷えているので、こう言って入ったといわれている。女郎(じょろう)たちが、吸いつけ煙草の煙管(きせる)を持って助六のまわりに押し寄せる。「このように、めいめいご馳走にあずかっちゃ、しんぞ火の用心が悪うごんしょう」と言う助六。 上手に座っている意休が「君たちの吸いつけ煙草、一服もらおうか」と請求するが、傾城たちは、もう煙管がないと断る。「そこにそれほどあるではないか」と言う意休に「その煙管には主がござんす」という。意休が「して、その主は‥」とたたみ込むと「ワシでごんす」と助六が答える。 「誰だか知らねえが、一本貸して進んぜやしょう」と、足の指に一本の煙管を挟んで、床机に寝転んだまま意休に差し出す。楽の音(がくのね)がはたと止み、みなが思わず息をのむ。意休は手をのばしかけるが、助六のやり方にこみ上げる怒りをおさえ、笑いとばす。「見かけは立派な男だが、可哀や(かわいや)こやつてんぼう(手がない)そうな。足のよく利く麩屋(ふや)の男か、蒟蒻屋(こんにゃくや)の手間取りか‥」と皮肉たっぷりにけなす。そして、「ままよ、蚊やりに伽羅(きゃら)でも焚こうか(たこうか)」と嘯く(うそぶく)。 すると助六は「変動(へんどう)常ならず、敵によって変化すとは三略(さんりゃく)のことば。相手によってあしれえようが違う。きたって是非(ぜひ)を説く人は、これ是非の人。大きな面をする奴は足であしらう。無礼咎め(ぶれいとがめ)をする奴は下駄でぶつ。ぶたれてぎしゃばると、引っこ抜いてたたっ切る。これが男伊達(おとこだて)の極意(ごくい)だ。習いも伝授もないわ。ひっこ抜いて唐竹割り(からたけわり)にブッ放すが男伊達の極意だ。誰だと思う、ええ、つがもねえ」と啖呵(たんか)を切る。 さらに、「女郎衆(じょろうしゅう)、この頃、この吉原に大きい蛇(へび)が出るとよう」「おお怖(こわ)」「何も怖い蛇じゃねえ。面は力んで(りきんで)総白髪(そうしらが)、髭(ひげ)があって、とんと×××(意休役の役者の名前をいう)に、よく似た蛇だ。‥こいつが髭にしらみがたかる。伽羅はしらみの大禁物(だいきんもつ)。人目に至りと見ようとは、伽羅くせえ奴だ」と、意休をからかう。
2010年03月04日
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来月、4月の歌舞伎座では、「さよなら歌舞伎座興行」がある。その興行の最後は、團十郎の「助六」である。どうしても「助六」のことを書きたいと思い、過去の日記から、何回かに分けて「助六」について再現したいと思う。 とにもかくにも「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)をごいっしょに観ましょう。この狂言は、十八番のうちでも珍しい世話物の要素をもつ。「江戸」という名はついているが、上方の味が残っているという不思議なものでもある。助六の母からもらう「紙衣」(かみこ)でも、また、揚巻が裲襠(うちかけ)のなかに助六を隠すというようなところは、どう見ても世話物である。二代目團十郎(1688~1758)は、初代から継承した芸を洗練させたほか、『助六』『矢の根』『毛抜』など、のちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸も創始、いわゆる家の芸を確立した。その後、幾多の変遷を経て、「助六」はこんにち上演されている台本が定本となっていく。 さて、いよいよ「助六由縁江戸桜」(以下「助六」)の幕開きとなる。忠臣蔵の『口上人形』と助六の口上は歌舞伎狂言でも貴重なものである。下手から、口上役の役者が、鉞銀杏(まさかりいちょう)の髷(まげ)に、市川家の家の紋(三升)をつけた柿裃(かきのかみしも)といういでたちで出てきて、助六劇の由来を述べる。それを11代市川海老蔵がする。「その助六を12代市川團十郎が相勤めまする。なにぶん古風な狂言でござりますので、ゆるゆるとご見物のほどを‥」と口上を述べた後、舞台正面の格子内に居並ぶ河東節(かとうぶし)連中に向かって「河東節ご連中様、どうぞお始めくださりましょう」と挨拶をして引っ込む。始まる前からドキドキさせる憎い演出である。十八番の助六ならではである。 舞台は桜満開の江戸いちばんの廓(くるわ)、吉原の三浦屋の前である。「闇の夜も吉原ばかりの月夜かな」と詠われるように、不夜城の遊郭、吉原に数人の傾城(けいせい)が並び、太夫(たいゆ)揚巻の登場を待つ。格子の御簾(みす)越しに灯りが入り、河東節の演奏が始まる。『春霞(はるがすみ)たてるやいづこ三芳野(みよしの」の、山口三浦うらうらと、うら若草や初花(はつはな)に、和らぐ土手を誰がいうて、日本めでたき国の名の、豊芦原や吉原に、根ごして植えし江戸桜、匂う夕べの風につれ、鐘は上野か浅草か』 いよいよ、揚巻の道中である。若い者の肩に手をおき、ゆらりゆらりと八の字を踏む。伊達兵庫(だてひょうご)という鬢(びん)、18本の簪(かんざし)、3枚の櫛(くし)。衣裳は黒繻子(くろじゅす)へ松竹梅や注連飾り(しめかざり)など正月模様を金糸銀糸で彩り、前に垂れた帯は鯉の滝登りを現わす図柄。黒塗りの高下駄で八文字を踏む。 出迎えの傾城たちが「揚巻さんの道中は、どうやら船に揺らるるようじゃぞえ。さっき松屋で逢うた時から、よほどめれん(ひどく酔う)に見えたぞえ。どこでそんなに酔わんしたぞえ」と聞くと、「これはこれは、お歴々、お揃いなされてお待ち受けとは、ありがたい。どこでそのように酔ったと思し召す。恥ずかしながら、仲ノ町の門並みで、あそこからもここからも揚巻さん、揚巻さんとさあ、呼びかけられて、お盃(さかずき)の数々‥いかな上戸(じょうご)も私を見ては、御免御免(ごめんごめん)と逃げて行くじゃ、ホホ‥‥‥。慮外(りょがい)ながら三浦屋の揚巻は酔わぬじゃて」と揚巻は答える。ここは揚巻役の役者の見せどころである。亡くなった中村歌右衛門丈の揚巻はそれはそれは見事な揚巻であった。 口ではきっぱりと言うが足元が危うい。それを見た禿(かむろ)が「花魁(おいらん)危のうござんす」と言う。揚巻は「これは大きな奴(やっこ)さんのご意見。近ごろありがたい。誓文酔わぬぞえ(神に誓って酔いません)」と答える。禿は「酒のさめる薬」を勧める。「なんじゃ、袖の梅じゃ。誰が袖(たがそで)ふれし袖の梅、とはよう詠んだ歌じゃのお」と、実際に流行っていた薬の名をあげる。今でいうならコマーシャルである。こうして、揚巻は本舞台に進む。 河東節『おちこち人の呼子鳥(よぶこどり)いなにはあらぬ逢瀬より、ここを浮世の仲ノ町‥』コーンと鐘の音が入り、傾城白玉(しらたま)と意休(いきゅう)の出となる。白玉は禿・新造・遣り手・若い者を従え、髭(ひげ)の意休は子分の男伊達に刀・座布団・煙草盆・香道具などを持たせ、左手を懐に、右手に鳩杖を引きずるように突いて出てくる。意休は揚巻をめぐって助六のライバルであり、長い白髭(はくぜん)を蓄えたお大尽(おだいじん)である。意休は本舞台に進む。 そこで揚巻とのやり取りがある。意休は助六のことを「盗人」とののしるに及んで、揚巻は悪態(あくたい)をつく。一つの見せ場である。「慮外ながら揚巻でござんす。男を立てる助六が深間(ふかま)、鬼の女房にゃ鬼神(きじん)とか。さあ、これからは揚巻の悪態の初音(はつね)」と、清掻き(すががき)の合方(あいかた)にのって名台詞が始まる。『もし、意休さん、お前と助六さん、こう並べて見るときは、こっちは立派な男振り、こっちは意地の悪そうな、たとえて言わば雪と墨(すみ)、硯(すずり)の海も鳴門(なると)の海も、海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫(まぶ)、暗がりで見ても、お前と助六さん、取り違えてよいのもかいなあ。ホホ、ホホ、、、、』と、実に小気味のいい啖呵をまくし立てる。揚巻はキセルと指をうまく使って、両者の良し悪しをたとえる。これが『揚巻の悪態の初音』である。 ここで意休は「助六のところへ、失しゃあがれ」と言い放つ。待ってましたとばかりに揚巻は立ち上がり、禿を連れて花道を揚幕のほうへ行こうとする。そこで、朋輩(ほうばい)の白玉が止める。仲良しの白玉の言葉を聞き入れて揚巻は戻るが「お前には、もう逢わぬぞえ」と愛想づかしを言って、白玉と共に引っ込む。すると、揚幕のほうから尺八(しゃくはち)の音が聞こえる。並び傾城が「アレ虚無僧が来やんした」「いや、虚無僧じゃない、地回りの衆じゃわいなあ」と噂話をかわし揚幕のほうを見る。一瞬、舞台は静寂になる。いよぴよ、われらが助六の出である。
2010年03月02日
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日本を代表する歌舞伎専門の劇場「歌舞伎座」が年4月の公演を最後に、全面的に建て替えられる。老朽化に伴うもので、新劇場は2013年中にもビルと劇場の複合施設として誕生する。戦後、60年近く歩んできた名建築が姿を消すことで、保存を求める声も上がっている。 ずいぶん前から「さよなら歌舞伎」と銘打って興行を続けてきたが、この四月に、いよいよほんものの「さよなら歌舞伎」が上演されることになった。その興行の「とり」をとるのが、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)である。花川戸助六 團十郎 三浦屋揚巻 玉三郎 通人里暁 勘三郎 福山かつぎ寿吉 三津五郎 三浦屋白玉 福 助 朝顔仙平 段四郎 曽我満江 東 蔵 髭の意休 左團次 くわんぺら門兵衛 仁左衛門 白酒売新兵衛 菊五郎 口 上 海老蔵 これ以上の配役はあるまいと思うほどの豪華キャストである。團菊の「曽我兄弟」は、贅沢なことである。通人の勘三郎も贅沢な配役だ。福山かつぎの三津五郎も大付き合いだ。朝顔仙平の段四郎、門兵衛を仁左衛門も贅沢なお付き合いだ。芝翫、雀右衛門のお二人は、もう老齢化してしまったから、揚幕の玉三郎も現状では一番の選択かも知れない。白玉の福助もまずまずの配役だ。菊之助ということも考えられるが‥。意休の左團次は、もういまやはまり役となっている。 そして、あの方は、どうしたのかと心配していたら、なんと「口上」を勤めるというではないか。「さよなら歌舞伎座」の最後を飾るのは、お祖父さん似の海老さまが「口上」ということだ。これ以上の贅沢はない。助六の口上は歌舞伎狂言でも貴重なものである。下手から、口上役の海老さまが、鉞銀杏(まさかりいちょう)の髷(まげ)に、市川家の家の紋(三升)をつけた柿裃(かきのかみしも)といういでたちで出てきて、助六劇の由来を述べ、来年ならば「その助六を当世團十郎が相勤めまする。なにぶん古風な狂言でござりますので、ゆるゆるとご見物のほどを‥」と口上を述べた後、舞台正面の格子内に居並ぶ河東節(かとうぶし)連中に向かって「河東節ご連中様、どうぞお始めくださりましょう」と挨拶をして引っ込む。始まる前からドキドキさせる憎い演出である。十八番の助六ならではである。
2010年02月25日
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今日は平成22年2月22日。2時22分22秒‥とまでは申しませんが、もう二度とない日である。私は「そんなくだらぬこと」と蔑んでおりましたが、「誕生日の消印」などとともに、「ぞろ目」の消印も少し集めています。いままでのなかで、「平成2年2月22日」とか、「2000年2月22日」などがあり、消印だけ押印してもらったものや、誰かさんの手紙や葉書の消印がたまさか「ぞろ目」であったりするのがあります。誕生日のは、毎年、娘たちや孫たちのくれるバースデーカードの消印がちょうど誕生日に当たっていれば、なんだか嬉しいように思います。「ぞろ目」の消印なんて、とお思いでしょうが、集めてみると、なかなか趣のあるコレクションになります。
2010年02月22日
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私より1歳下の役者が亡くなった。テレビのはじまったころ、「てなもんや三度笠」での藤田まことさんの姿(時次郎)が目に浮かぶ。「あたり前田のクラッカー」のCMもよかった。それから、「必殺」での恐妻家の中村主水、純情派の安浦刑事、池波作品の秋山小兵衛…。さすがに「上方役者」で庶民派、人情派で、幅広い層に愛され、年を重ねた後も大舞台での座長公演ができる人だった。 だんだんと昭和時代の役者が少なくなってくる。「いぶし銀」のような役者たちが姿を消すたびに、自分の年を考える。寂しいものである。今の人のように「なにかのきっかけ」でのし上がってくる人と違って、芸に深みがあり、人間性がにじみ出ている人が少なくなってきたのは、時代の変遷のスピードのせいであろうか。 藤田まことさん、ご苦労さまでした。ゆっくりと天国でお休みください。
2010年02月18日
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「端唄」というのは、江戸の座敷唄の中心で、文化・文政の頃に流行し、弘化・嘉永の頃には、全盛期を迎えたといわれています。その特徴は、長唄などの段物に対して、短い曲である事と、当世風で自由な曲調だといえます。 季節の風景や、風物の擬人化、粋な恋愛模様を短い曲の中に折り混ぜてあり、中には洒落や風刺を利かせたものも多く、庶民に広く愛唱された様です。 また掛詞(かけことば)の技巧を取り入れたり、男女の秘め事・色事を花や風景などに例えて、ストレートに表現しない言葉遊びも特徴のひとつです。とにもかくにも、江戸っ子は『粋』『いなせ』にこだわりを持っていたと思います。<奴さん>(端唄)♪ハア コリャコリャ エー 奴さん どちらに行く ハア コリャコリャ 旦那 お迎えに さても 寒いのに 供揃い 雪の降る夜も 風の夜も サテ お供は辛いね いつも 奴さんは 高端折 アリャセ コリャセ それも そうかいな エー♪ハア マダマダ エー 姐さん ほんかいな ハア コリャコリャ きぬぎぬの 言葉も 交わさず 明日の夜は 裏の窓には 私独り サテ 合図はよいか 首尾をようして 逢いに来たわいな アリャセ コリャセ そうも そうかいな エー ハアコリャ コリャなんとなく、お座敷遊びの雰囲気がおわかりでしょうか?続けて、もう一つ‥。<松づくし>(端唄)♪ 唄い囃せや 大黒 一本目には 池の松、二本目には 庭の松、 三本目には 下がり松、四本目には 志賀の松、五本目には 五葉の松 六つ昔は 高砂の 尾上の松や 曽根の松 七本目には 姫小松 八本目には 浜の松、九つ 小松を植え並べ、十で 豊久能の伊勢の松 この松は 芙蓉の松にて なさけ有馬の 松ヶ枝に 口説けば なびく 相生の松、また いついつの約束を 日を松、時松、暮れを松 連理の松に契りをこめて 福大黒をみさいな
2010年02月17日
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バレンタインデーのチョコをだれからももらえなくなって久しい。「そんなもんはいらん」と口では言うものの、内心はほしい。聞くところによると、同じチョコでも、「本命」と「義理」があって、いちばんはブランドの「手造り」だそうな。あれは、きっとチョコレートメーカーの作戦が功を奏したに違いない。スーパーでさえ、チョコ売り場を特設している。なかには男の子が並んでいるのを見かけた。外国でも同じようなことをしているのかしら? 日本では「女性から男性にチョコをあげる」と聞く。また、来月には「ホワイトデー」とやらがあって、これには男性から女性にプレゼントをするという。アホらしいことをするものだ‥と言うのは、どこからも、だれからも、チョコどころかあめ玉一つさえもらえない僻み老人の戯言なのかも‥。いずれにせよ、キリスト教文化に由来したこの2月14日をチョコレート屋がほくそえむ儲け日としたことから、大和撫子らが巻き込まれ、また煽りを受けて日本男児らが「義理チョコ」とも知らずに、やに下がっているのを見て、「大和魂は何処に?」と嘆く昭和一桁生まれの後期高齢者である。
2010年02月13日
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明日は「紀元節」である。70年前の昭和15年の「紀元節」は、皇紀2600年だった。授業はお休みで、学校の講堂に集められ、「紀元2600年」の歌を歌い、紅白の饅頭をいただいたことを覚えている。紀元2600年奉祝会選定紀元二千六百年作詩 増田好生 作曲 森義八郎昭和14年 日本放送協会製作 金鵄(きんし)輝く 日本の栄(はえ)ある光 身にうけていまこそ祝え この朝(あした)紀元は二千六百年ああ 一億の胸はなる歓喜あふるる この土をしっかと我等 踏みしめてはるかに仰ぐ 大御言(おおみこと紀元は二千六百年ああ 肇国(ちょうこく)の雲青し荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ>揺るがぬ御代に 生立ちし感謝は清き 火と燃えて紀元は二千六百年ああ 報国の血は勇む 間奏潮(うしお)豊けき 海原に桜と富士の 影織りて世紀の文化 また新(あらた)紀元は二千六百年ああ 燦爛(さんらん)のこの国威正義凛たる 旗の下(もと)明朗アジア うち建てん力と意気を 示せ今紀元は二千六百年ああ 弥栄(いやさか)の日は上るまた、戦局の悪化とともにいちじるしいインフレに見舞われていた当時の世相を反映し、値上げが行われたタバコの銘柄に掛けて「金鵄あがって十五銭、栄えある光三十銭、朝日は昇って四十五銭(「今こそあがる煙草の値」「今こそ来るこの値上げ」トモ)、紀元は二千六百年、あゝ一億の金は減る(「あゝ一億の民は泣く」トモ)」という替え歌が作られ、後年はむしろこちらのほうが有名になった。(Wikipediaによる)それにしても、たいへんな時代だった。この年の翌年(昭和16年)に太平洋戦争がはじまったのである。
2010年02月10日
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姫君様の行列がさしかかります。大勢の供揃えを前後に従えましてやって来るんですが、御六尺と呼ばれる駕籠舁きが担いでいく。人間が舁くんですから休まななりまへんわぁな。立て場立て場で一服しながら行きます。 駕籠の中に乗ってるお姫さんはえろぉ疲れもしませんが、付き合ぉて休まんならん。駕籠の中でじ~ッと座ってなはると、御六尺と言ぅたかてやっぱり駕籠舁きやさかい柄の悪い連中が、何じゃかんじゃしゃべってる声が聞こえてくる。■おい、やっぱり何やなぁ。さっきチラッと見たけど、お姫さんて綺麗なもんやなぁ▲そらそやがな、育ちが違うがな■年はあれで十六ぐらいかなぁ、あんなん、いっぺん何とかならんか。▲アホなこと言え、しょ~もないこと考えるな、手ぇも触れるかい■そんなこと言ぅたかて、おんなじ人間やないか。どないかならんかなぁ▲アホなこと考えんと、早よいんで千擦でも掻いて寝てまえ。 これがお姫さんの耳に入った。「不思議な言葉を聞くなぁ……、あれは何のことかしら?」●さつき、これ、さつき★はい、お呼びでございますか●いま、棒の者の申すを聞けば「早よぉ帰って、千擦でも掻いて寝てしまえ」と言ぅておったが、あれは何のことじゃ?★はっ…… と言ぅたもんのお局(つぼね)さんも返答に困りますなぁ。「それは、あれをぉやってあぁやって……ピュッ」てなこと言われしまへんから、★はい、それはそのぉ~……、下ざまの言葉でございまして……●下ざまの言葉で、これは何を申したのじゃ?★はぁ、早よぉ帰ってゆっくりと疲れをとって休め。といぅことでございます●左様か。 そこはそのまま済んだ。「お立ちぃ~」といぅので、駕籠がまた持ち上がってお城へ帰ります。ご家老さんがお出迎えになる。◆これわこれわ姫君様には、ご無事ご安着。大慶至極に存知奉ります●三太夫か、出迎え大儀。そちも早よぉ帰って、千擦を掻いて休みゃ。今回は、ちょっと短いものを載せました。江戸時代のお姫様は鷹揚なものですね。こんにちの娘さんたちに聞かせても、反応はちがうでしょうなぁ。
2010年01月27日
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日本モンキーセンターで売り出している「絶対 落ちない」絵馬(@1,000円)。受験シーズン真っ最中、ワラにでも縋りたい気持ち‥私も60年前、大学受験のときに体験した気持ちである。JMC(日本モンキーセンター)のホームページでは、絵馬のご紹介絵馬は松材など、天候に強く、変形しないものを使用し、取り付けは紐ではなく、ナイロンの結束帯を使用し絶対に落ちないことを考えています。もちろん絵馬を下げるものもステンレスワイヤーを用いますので、安心していただけます。毎日、御祓いや祈祷はできませんがその前で、「絶対落ちない君」達が見守ってくれるでしょう。■適応例?○各種受験者○高所で仕事をされる方○株などを扱う方○航空機を操縦される方○就職活動中の方○各種セールスをされる方など、何でも信じて見ようと思われる方に ■落ちない君:フクロテナガザル(シャマン)○スマトラやインドネシアのごく一部の地域に生息するテナガザル中最大の種で、ワシントン条約付属書に掲載された希少種。○喉に大きなフクロをもち、動物中、最大級の美しい声でなく。○名前にサルと付きますが、チンパンジやゴリラ同様、人に近い仲間で類人猿の仲間。○モンキースクランブルではこれまでに38km/hという信じられない高速でウンテイをわたった。この速度はオリンピック男子100m走の金メダリストの記録よりはるかに早い。1m間隔の握り棒を4本おきに、5m飛びながらウンテイを移動する。○テナガザルは「落ちれば生きていけない」という生活スタイルから、落ちないための特殊な能力を持っている。掴もうとした枝が風で揺らいだり、つかんだ枝が折れることは日常で、常にそれを予測し、2~3手先まで読んで移動しているとも言われる。と記している。私は、どこも受験するわけではないが、わが「サル・コレ」に加えたいと思い、一枚購入したい。
2010年01月21日
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確か寺田寅彦のことばであったと思う。1995年の今日、淡路島を震源とする「阪神淡路大地震」が起きた。私は東京にいて、すでに起きていた。東京もグラッときた。すぐにテレビの速報を見たが、「阪神地方に地震」という簡単な字幕スーパーがでただけだった。しばらくして、神戸の街の驚くべき被災の様子が放送され、目の前が真っ暗になるほどの驚きを覚えた。関西の知人たちに電話をするが、ほとんど不通だった。時間が経ち、日が過ぎると、その被害は「地獄を見る」ようなことだった。同規模の地震が東京で起きれば、神戸方面の被害の十数倍であろうといわれている。しかも、関東に大地震があると言われてから久しい。しかし、マスメディアが騒いだときだけは、防災関連の物が多少は売れるらしいが、時が過ぎると、すぐに忘れてしまう。15年の間に国内でもあちこちで地震が起きている。国内のみならず世界中で大規模地震が起きている。しかし、そのときは騒ぐが「他人事」視している。阪神淡路大震災15年の今日、私は「いつ起きても不思議でない」という首都圏直下型の大地震が起きたら、どうするかを、もう一度考えなければならない。自宅にいるときは、どうするか? 何を持ってにげるのか、共に老いた夫婦は、どこへにげればいいのかなどを考えてなけれならぬ。また、外にいて地震に遭ったとすれば、どうするか。電車も止まってしまう、携帯電話も仕えない‥一体どうするか。取り越し苦労をし過ぎても仕方がないと言う人もいるだろう。しかし、老夫婦は「自分のことさえ自分できない」のである。取り越し苦労し過ぎるということはない。もう一度、寺田虎彦の言を繰り返してみたい。「天災は忘れたころにやって来る。天災は忘れなくてもやって来る。」
2010年01月17日
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この春、受験を控える、わが孫に贈ることば。私の自慢の一つに、日記がある。13歳から日記をつけ続けている。13歳といえば中学受験の年である。その受験の寸前に大空襲に遭い、結局は「無試験」で入学した。しかし、中学生渇は、あの戦時中だった。来る日も来る日も戦災の焼け跡整理、軍需工場での作業などが続き、ろくに勉強らしいことしなかった。厳しい「教練」という授業があった。あの雨霰と降ってくる焼夷弾に立ち向かうために、連日のように竹やりをもって戦う稽古をしていた。いま、考えてみると、滑稽に思うが、当時は軍国少年として「誇りをもって」竹やりの稽古をした。そして、一年生の夏休み(実際は休みはなかったも同然だった)中に、あの雑音だらけの「玉音放送」を聞いた。「一億火の玉」「撃ちてし止まん」「神州不滅」「神風が吹く」などということばに洗脳されていた軍国少年は、「無条件降伏」ということを受け止めるには時間がかかった。私を待ち受けていたのは「闇市」「復員兵」「進駐軍」「エログロ・ナンセンス」「アプレ」(戦後派)などで、「何を信じていいのか」が分からず、混迷と混乱の渦にまき込まれ、食べるに食なく、働くに職なく、住むに家なく、人々は迷っていた。その時、私の学校の先生が「日記をつける」ことを教えてくれた。毎日「書くこと」は同じだった。「腹減った」ということばが並んでいた。以来、65年間、私は日記を書き続けた。初めのころは、ざら半紙、広告の紙の裏などに書いたが、書くのも鉛筆さえ貴重なものだった。しかし、昭和30年ごろには、ちゃんとした日記帳が売られていたので、宝物のような万年筆で書いた。私は君と同年輩(19歳)のころの日記を探した。すると、ある人からの手紙がページの間に挟んであった。その人は中学の先輩で、すでに大学を出て社会人になっていた。その手紙は、私の手紙への返事だった。どんなことを書いたのかは覚えていないが、多分、受験勉強の苦しさに負けそうになっていたのであろう‥。その先輩は「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」という孟子のことばを引用して、私を激励してくれた。いまはなくなったかも知れないが、私の育ったころには「漢文」の授業があった。これは孟子のことばである。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん 」と読み下す。意味は「自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう。」である。私は、この先輩の手紙に奮起して、志望の大学への入試に合格した。この手紙を日記に挟んで残したのは、私の人生観を大きく変えたからである。わが孫よ、いまの君にこの孟子のことばを、そのまま贈りたい。「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」。いざ、進め、迷わず、惑わされず、受験という難関へ向かって進め!
2010年01月12日
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東京へ来てから、とんと聞かぬようになったのは「えべっさん」である。さすがに商都・大阪では、今日・1月10日は、特別の日である。それは商売繁盛の神様「えべっさん」の愛称で親しまれている今宮戎神社(大阪市浪速区)の「十日戎」である。それは9日の「宵えびす」で始まり、こんにちの経済不況に苦しんでいる大阪人たちが「景気回復」などを願って、今宮戎神社に大勢詰めかけ、真剣な表情で祈るのである。会社経営者や商店主らはもとより、一般の大阪人たちが次々と境内へと詰め掛ける。「商売繁盛で笹持ってこい」とお囃子が流れる中、参拝者らは福笹(ふくざさ)を買い求め、福娘に縁起物の福俵を付けてもらったり、本殿前の巨大なさい銭箱に小銭を投げ込んだりする。年の初めの、大阪ならではの大行事である。「十日戎」は、翌日(11日)の「残り福」まで続き、同神社は3日間で100万人の参拝客を見込んでいるという。大阪人にとっての「えべっさん」は欠かすことのできぬお祭りなのである。「福笹」も、年々大きなものを買うという。また、若い女性にとって、「福娘」に選ばれるというのは、一種のステイタスなのである。元禄期になると十日戎の祭礼を彩る「宝恵駕籠(ほえかご)の奉納」も行われるようになり、今日と同じような祭礼となったという。紅白の布で飾られた宝恵駕籠に盛装した芸者が乗り込み、その周囲を幇間(ほうかん=たいこもち)が取り囲み、「ホエカゴホエカゴ、エライヤッチャエライヤッチャ」の掛け声とともに参詣する。現在では宝恵駕籠も地元商店街の協力の下、昔の様式を残しつつ、一般の応募者から選んだ「服娘」をはじめ、芸能人、野球選手、文楽の人形の参加を得て行列を華やかに盛り立てている。
2010年01月10日
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かねてから噂のあった、あの高さ世界一の超高層ビル「ブルジュ・ドバイ」が4日、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで開業したという。 正確な高さは公表されていないが、地上160階以上で800メートルは優に超え、これまで世界一だった台湾の「台北101」(508メートル)や、建設中の「東京スカイツリー」(634メートル)、東京タワー(333メートル)をいずれも大きく上回る。 ドバイ政府系の不動産開発会社が2004年に着工。総工費は周辺の商業施設も含め約200億ドル(約1兆8600億円)で、オフィスのほかホテル(160室)や住居(1044戸)も入る。施設の90%は売却済みとされるが、昨年11月のドバイショックの後遺症も残る中、入居料はピーク時の半値程度に下落。地元では世界一のタワー効果で景気に弾みをつけたい考えだが、不動産価格の大幅下落で見通しは明るくないと新聞は伝えている。 10年以上も前のことだが、韓国を訪れたとき、ツアーガイドから「このビルは、サンシャイン60より高い」と、何度も聞かされたことを思い出す。キリスト教の教会も「われこそ、いちばん高い」と競っているように、どこへ行っても、十字架を掲げた塔が建てられている。 昔からのことばに「山高きがゆえに貴からず」と言われるように、建て物でも「高さ」を誇ることが多いが、高きがゆえに貴からずである。今度のドバイの「ブルジュ・ドバイ」にも同様のことが言えるのではないだろうか。 人間も「学歴が高い」「金持ち」「地位が高い」「顔がきれい」ゆえに「貴からず」である。その人の「内容」「中身」「人格」‥は、目には見えないが、そこに値打ちがあるのではなかろうか?
2010年01月05日
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あの、財団法人日本漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一字の公募を日本全国より行い、その中で最も応募数の多かった漢字一字を、その年の世相を表す漢字として、原則として毎年12月12日の「漢字の日」に京都府京都市東山区の清水寺で発表する。昨年の一字は「新」だった。 では、2010年(平成22年)の「一字」をなんと予想するか。そんなことを考えながら、午前中に書初めをした。私が選んだ「今年の予想・一字」は『争』である。さて、この一字を書いてみると気づいたことがある。私はあの大東亜戦争を知っている最後の中学生である。菊花のご紋章が半分削られた「払い下げ」の三八銃を持った最後の中学生だった。鬼のような配属将校に学んだ「教練」を体験した最後の中学生でもある。 私が選んだ「争」は、戦争を知らない世代が人口の7割以上になっている、こんにちの日本であるから、まさか「争」の一字で「戦争」をイメージする人はあるまい。「争」を見て、何を思うか‥。そもそも「争」は、は、辞書によると「物をとりあって互いにゆずらない。優劣をきそう。うばいあう。あらそう」の意とある。その「争」の入った熟語には、争奪・争議・争論・争覇・争闘・争乱・競争・闘争・紛争・内争・戦争・力争・抗争・係争・党争・政争・論争などが挙げられている。 「争」の反対は「和」であろうか? 私は、この「争」を書いてみて、今年一年、日本はもとより、世界中で、いや地球上で、さまざまな「争」があると思う。小さくは、自分自身のいのちのなかで、家庭のなかで、社会のなかで、いろいろな意味の「争」があるように思う。もっとも「争」にはマイナスのイメージがあるが、必ずしも、それだけではない。「争」がなければ、発展や進歩もない。科学技術の進歩などは「争」から生まれると申しても過言ではない。 ただ、「争」が、人を傷つけたり、いのちを奪うことにつながってはならない。いい意味でみなが競い合うことが、私のイメージする「争」である。希望的観測でもある。
2010年01月02日
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昨日、先日の前立腺の針生検の結果を聞きに病院に行きました。担当医に面会。「この間の生検、たいへんだったね。その後、出血や痛みはありませんか?」と言う。「はい、別段変わったことはありませんが‥」こちらが聞きたいことは、その結果です。医師は、カルテをあちこちと見ながら、おもむろに「〇〇さん、顕微鏡の検査の結果、癌の疑いは、まったくありませんでしたよ」「ハッ?! 癌はなかったんですか?」「血液検査の数値が、余りにも高かったので、念のために針生検をしましたが、癌は見付かりませんでした」と言う医師の診断に、改めてほっしました。後は、三ヶ月に一回の血液検査をするということになりました。「高齢者の70%は、前立腺癌になる」という定説らしいので、内心ビクビクしていましたが、何事もなく、今年最後の朗報となりました。今年の秋、喜寿を祝ってもらった私は、いよいよ人生レースの最終コーナーを回り始めたというところです。これからは、自分の体を大事にしていきたいと思います。
2009年12月31日
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相変わらず、桂米朝師匠の「艶話」を一席‥。【大根船】 大阪の東横堀。只今はがらっと様子が変わりましたが、昔はきれぇな水が流れてたんやそぉですなぁ。冬なんか朝は一面の水蒸気が立ち込めまして、川岸に住んでる人が顔洗ろたり歯を磨いたりして立ってると、水面を大根を山のよぉに積んだ船がやって来る。■大将、お早よぉさん。大根買ぉとくなはれ◆えぇ?■どぉです、えぇ大根。掘りたて、太い大根どぉだす。朝商い負けときまっせ◆何を言ぅてんねんな、そんな細い情けない大根ばっかり積んで来て■そら何を言ぃなはんねん。こんな一本選りのえぇ大根やがな……こんな太い。◆何が太いことがあるかいな。こんなもん、わいの道具より細いがな■おい、えぇ加減にしなはれ、朝商いやで。まだ口開き、一本も売れてないねん。朝っぱらからケチ付けられたら一日験(げん)が悪い。何ちゅうこと言ぃなはんねん。■さ、この大根。これとおまはんのと比べて、これが負けたらこの船の大根、全部あんたに上げるわ。その代わりこっちのほぉが太かったら験直しを考えてもらいたいなぁ◆……ん~~ん、そないぎょ~さん大根もろたかてしゃ~ないがな■く、糞ぉ。取る気ぃか?◆ほな、見したろか……ほれ、拝め。■お! 恐っそろしぃ奴が世の中にわ………… よっしゃ、しゃ~ない。この船の大根皆やるわ◆おいおい、こないぎょ~さん大根もろてもしゃ~ない、言ぅてるやろ■感心も得心もした。世の中にはえらい人があるもんや。わしも男や、一旦言ぅた以上は大根みな置いていく。さ、えぇよぉにしてくれ。◆ホンマにこんなぎょ~さん要らんちゅうのに……。正直な男やなぁ、行てまいやがったがな●ちょっとあんた、こないぎょ~さん大根買ぉて、どないするつもりやいな?◆買えへんがな、くれたんやがな●誰がいな?◆あの船の大根とわいのんと比べ合いして、負けたぁ言ぅてな。大根みな置いて帰りよった。●アホな事しなはんな、何をすんねやいな。あんたがそんな事するさかい、近所の評判やがな。わてが道歩いてたら笑いよんねんがな……ロクな事考えへんねんから、このオヤジわ。こんなぎょ~さん大根もろて、ただではいかんわ、何ぼか上げなんだら気の毒な。……あの船か?●ちょっと~~~っ、大根屋は~~ん。お~~~い、その船~~~▲おい、船頭■え?▲あそこの家から呼んでるがな、お前とちゃうんか■え?▲向こぉのお上さんが呼んでるがな■どこの家のお上さん?▲あの家、ちょっと戻ったりぃな。■あかんあかん、あそこへは行けんわ。今度行たら船まで取られる。お後がよろしいようで‥。
2009年12月24日
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今日は「大雪」。二十四節気の一。 太陽の黄経が255度の時。雪が大いに降り積もる頃。東京の街は晴天に恵まれたが、北風が吹き荒れる。襟を立てた人がマスクをして、背を丸めて、足早に歩いている。いかにも「大雪」にふさわしい。北風が街路樹の枝にあたり、ヒューヒューと鳴っている。さらに世間には不況風が吹き荒れている。期待していた民主党政権もモタモタとして、一向に活気がない。果たして、この歳末が乗り切れるかどうか‥。昨年末の日比谷のテント村の惨状より、さらに深刻な状況である。その上、デフレの嵐も吹いている。安売りは結構だが、これでは弱肉強食で、生き残れる企業は勝ち組となり、尻尾を巻いて惨敗する企業は負け犬となる。こんな時には、身も心も、財布も寒くなる。安売りの具財を買ってきて「鍋もの」はいかがであろうか? ほんとうは「てっちり」といきたいが、豚か鶏で、「キムチ鍋」など、いかがであろうか?決まって「鍋奉行」と称するお節介役がいて、解説付きで世話を焼いてくれる。近ごろの人たちはビールであるが、やはり、冬場は「熱燗」に限る。日本酒もイロイロ出てきたので、選択に迷うが、こういうときには「辛口」がよい。「ヤケ酒」では寂しいので、ここは不況の嵐をしばし忘れて、ぱ~!と派手に「忘年会」といきたいものだ。
2009年12月07日
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昨日、所用あって、都心に出ました。JR山手線は空いていたのがラッキーでした。iPodで、桂米朝の落語を聞きながら、改めて落語家で始めて文化勲章を受章したワケが分かりました。彼の落語には、先々代や先代の春団治のような時代の落語とは違う戦後の上方落語の味があると気づきました。しかし、いまの落語家には、その米朝の落語も古典になろうとしているのではないかと思いました。落語は古典芸能というか、伝承されていく芸能であります。しかし、それは同時に、その時代背景の中で育まれていくもので、昔のものをきくと、風俗習慣、文化などが通用しないことがあるものです。先々代の春団治のものをきくと、大阪生まれの大阪育ちの私でさえ、「これ、なんのこと?」と思うような話があります。第一、方言そのものが、時代の変遷と共に変化しているのですから‥。おそらく、いまの若い人が、米朝の落語を聞くと、??と思うような箇所があります。でも、米朝は、それをよく分かっていながら、そういうところに現代に通じる「言い回し」をしたり、現代人を意識して話しているおとに気づいて、さすがに‥と感心しました。私が、この日記に時々、米朝の「艶話」を出していますが、あれは、ほとんど彼が50歳~60歳台に語ったものであることを分かっていただきたいと思います。あんな話をして、楽しませてくれるのには、ご本人に、まだ色気が残っているからこそできるのだと思います。いまはもうほとんど舞台にのぼらないようですが、「米朝落語全集」のようなCD化されたものは、そういう時代のものや、70歳を過ぎたころの絶頂期のものが収録されています。電車の中で聞くのですが、ときどき、「プッ!」と吹きだすようなところがあると、まわりの人がヘンに思うのではないかと気を遣いますが、30分があっと言う間にすぎてしまうのがよろしい。
2009年11月27日
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今年の干支はウシ年ですが、国際的には、ゴリラの保全キャンペーンを行う「ゴリラ年」であるって、ご存知しょうか。「国際ゴリラ年」は、YoG(2009 Year of The Gorilla)と略称され、世界の野生動物保全関係者が、絶滅の危機に瀕しているゴリラについて、さまざまな保全キャンペーンを行う年です。西アフリカの熱帯林に住み、絶滅の危機にひんしているニシローランドゴリラの赤ちゃんが、東京の上野動物園で生まれました。動物園では「天気のよい日は親といっしょに外に出してあげたい」と話しています。上野動物園によりますと、今月14日の午後6時50分ごろ、ニシローランドゴリラのオスの「ハオコ」とメスの「モモコ」の間にメスの赤ちゃんが生まれたということです。体重はまだ測っていませんが「モモコ」の両手にすっぽりと入る大きさで、生まれた翌日にはおっぱいも飲み、母子ともに元気だと言うことです。ニシローランドゴリラはコンゴやカメルーンなど西アフリカの熱帯林に住んでいますが、開発による森林破壊などで数が激減し、自然界では絶滅の危機にひんしています。このため、上野動物園ではオーストラリアから父親の「ハオコ」を千葉市動物公園から母親の「モモコ」を借りて繁殖に取り組んできました。上野動物園によりますとニシローランドゴリラの赤ちゃんが生まれるのは国内では10例目で、これで国内の動物園で生息しているは24頭目だということです。動物分類学上、最も大きなヒトの仲間はゴリラです。平均体重160kg、記録に残る最大のゴリラは352kgにもなります。赤道アフリカにわずかに生息し絶滅が危惧されています。ところでゴリラといえば狂暴な猛獣のイメージがついて廻ります。しかし、本来のゴリラは心優しく物静かな森の巨人なのです。握力一つをとってもヒトの十数倍以上の強大な力を持ってはいますが、決して暴力を振るう事なく、シルバーバックと呼ばれるリーダーを中心に小さな集団を作り、木々の葉を主食とし、ひっそりと森の中で暮らしています。私達はよく血液型でその人の性格を占ったりしますが、ゴリラの血液型はB型しかありません。ヒトで言うところのB型は「陽気で楽天家」とか言った血液型と性格の相関関係は、どうやらゴリラにはあてはまらないようです。
2009年11月18日
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昭和から平成へと時代が変わって、今年20年になる。今上天皇と一つ違いだからかも知れないが、天皇陛下といえば、私の脳裏に昭和天皇が焼きついている。戦後、人間宣言をされた昭和天皇が、はじめて民衆の前に出られ、直接におことばを聞くことができた。まだ焼け野が原であった中学校の前に整列して「行幸」をお迎えしたことを鮮明に覚えている。 それまでは「ご真影」でさえ、直接見ると「目がつぶれる」といわれた「現人神」だった天皇陛下が車でお通りになるというので、当然のようにみな最敬礼をした。ところが、どういう予定になっていたか知らないが、われわれ中学生の前で、陛下のお車が止まり、車からお降りになれた。われわれ中学生の周囲には一般の人々も「天皇陛下、バンザ~イ」と叫んでいた。その歓声に応えられて、車をお降りになって、右手で帽子をつかんで、帽子をわれわれのほうに向けられた! 「目がつぶれる」といわれていた天皇陛下が、ほんの2,3メートル先までお近づきになった。あの甲高いお声で「どう? 勉強しているかい?」とお声をかけられた。クラスの級長をしていたSくんは、とっさに「はい」と答えた。それに対して陛下は「あっそぉ! しっかりやってくれ」とおっしゃった。私はその級長とは三人くらい離れていたが、まさに目の前に神さまが現れたのだから、今までに経験したことのない、電気が走ったような衝撃をうけた。 それから、クラスでも、「あっそぉ!」が流行語になった。食べるものがなくて、敗戦の惨めさを感じていた私は、あの甲高い、独特のお声の「あっそぉ!」が、人生観を変えるきっかけであった。そして、時代社会の遷り変わりを経て、「昭和」という時代を生きてきた。いま、平成の時代になって20年だが、私の胸から「昭和」は消えていない。平成を昭和に置き換えると、昭和20年は、その敗戦を味わった年である。そして、「現人神」を目の前で拝み、「現人神」のお声を直接、この耳にした年でもある。 いま、ご即位20年を迎え、昨日の皇居前での祝賀会に、あのエクザイルが「太陽の国」を奉祝歌として、両陛下の前で歌った! なんと、時代はガラリと変わった。わtれわれ、昭和一桁生まれには、とても想像さえできないことである。
2009年11月13日
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わが庭の一隅に咲き終わった女郎花がある。今朝、それを見て「腰折れ」を一首ひねってみた。 盛り過ぎ黄色が薄れ女郎花 秋過ぎ去るも未練ありげになんとなく、この花の名前のような「もののあはれ」を感じた。未練と思ったのは私である。花は自然に身を任せているだけなのに‥。二十四節気を見ても、季節の移り変わりを、昔から日本人は大切にしてきたことが分かる。今は屋内ではエアーコンディションが整い、四季を感じ難くなっている。夏は暑いのがよし、冬は寒いのがよいのに、年中、快適に過ごせるようになったことが、果たして、いいのかどうか‥。それでいて、世の中は、どこを見ても急いでいる。11月が半ばになっていないのに、クリスマスの飾りをして、セールをしている。年賀状のデザインを提供する雑誌がCD付きで発売されている。「狭い日本、そんな急いでどこへ行く」というCMがあったが、道を歩いている人もみな足早である。デフレというが、相変わらず「シャッター商店街」が増えているように思う。家電量販店を二軒回ってみたが、いずれも安売り競争である。いまや、日本全体が「もののあはれ」を感じるような様相である。ああ。
2009年11月10日
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今日は「四大節」の一つ、「明治節」です。この日をお祝いしているのは、賢所と明治神宮ぐらいでしょう。私は小学生だった、あのころ、この日は学校はお休みで、講堂で天長節のお祝いがあり、紅白のお饅頭をもらったことを覚えています。その時の「天長節」の歌を唄いました。天長節アジアの東 日いずるところ聖(ひじり)の君の 現れまして古き天地(あめつち) とざせる霧を大御光(おおみひかり)に 隈なくはらい教えあまねく 道ひらけく治め給える 御代尊(みよとうと)恵みの波は 八州(やしま)にあまり御稜威(みいつ)の風は 海原越えて神の依(よ)させる 御業(みわざ)を弘(ひろ)め民の栄ゆく 力を展(の)ばし外津国々(とつくにぐに)の 史(ふみ)にも著(しる)く留め給える 御名畏(みなかしこ)秋の空すみ 菊の香高き今日のよき日を 皆ことほぎて定めましける 御憲(みのり)を崇(あが)め諭しましける 詔勅(みこと)を守り代々木の森の 代々(よよ)とこしえに仰ぎまつらん 大帝(おおみかど)あのころのことが思い出されます。
2009年11月03日
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桂米朝はんが落語家としては、初めて文化勲章を受章したというニュースに、私は大いに感動しました。その翌日に、今度は円楽さんが死去されたという訃報を聞き、ああ、また昭和の噺家が一人いなくなったと悲しみました。今は、ほんとうの噺家がいなくなったとつく図句感じています。そういう意味では米朝(大阪では、「べいちょはん」といいます)は文化勲章に値する、数少ない噺家の一人です。今日は、お祝いの意味をこめて「米朝 艶話」の一席をお楽しみください。■魚喜よろし●まぁ、魚喜さん。今日は何があるのん?■お竹どん、今日はなぁ、えぇイナがおまっせ●イナかえ?■どぉだす、まだピチピチと生きてまっしゃろがな。これ五、六匹置いて行きまっさ●さよか、ほな、そこへ置いといとぉ。●まぁ~、ホンマに活きのえぇ魚やこと。……イナといぅのん、オモロイ格好(かっこ)してるなぁ。……えぇ形やわぁ頭がこぉなってて、何やおかしぃ気持ちになってくるわ。ピクピクまだ動いてる……ちょっと使こてみたら、どんな気がするやろ? 妙な気になって女衆(おなごし)のお竹どん、張形の代わりにイナをつかまえて用いたんですが……ア~ッといぅえらい声を出しよった。それ見てたんがそこの隠居はんで、▲あれれ、お竹何をしとぉるんじゃ……。おぉ、魚相手にしやがってから、この家に男おらんと思とぉるんか。年取っても、わしゃまだ間に合うねがな。わぁ、あんな顔しとぉる……。どぉいぅわけか、わしゃここはいつまでも元気で困るねやが……、あかん、落ち着け落ち着け。向こぉ、イナが先入ってしもたぁるんやがな。▲……どこぞ持って行くとこないかいなぁ、困ったなぁ。……お、隣りの犬が入ってきたなぁ、さかりが来てウロウロしとぉるねん……。シロ、ちょっとこっち来い。こっち来い。 当てごぉたさかいたまりまへんなぁ「こら厳しいわい」犬相手に隠居難儀しとぉる。それを見てたんが酒屋の丁稚で、◆あれまぁ、隠居はんえぇ年して、犬相手に何しとるねん。……わぁ~っ、あっちではお竹どんがあんなことしてるわ。こんなん見てたらたまらんなぁ。あかんちゅうねん、落ち着きっちゅうねん。それこそどこにも持って行くとこあらへんがな。しゃ~ない、ここにある火吹き竹で間に合わしとこ。 さぁ、しばらくするとえらいことになりますなぁ。魚てなもんは鱗が逆に生えてまっさかい、入るときはよろしぃんやけど、出すことがでけん。隠居はんのほぉは相手が犬やさかい、こらたまったもんやない。丁稚どんは火吹き竹がきつぅて抜けんよぉになる。●先生(せんせ)■お竹どん、どないしなさった?●こ、これ■わゎ~ッ、魚を? お前、何ちゅうことすんねやいな。わしゃ長年医者やってるけど、こんなん来たん初めてやで●どないしまひょ?■無理に引っ張ったかてあけへん。しばらく考えてみるさかいこっち来て待っとりなされ。▲先生、えらいことがでけました■隠居はん、何じゃいな犬抱いて。うちは犬猫病院と違うねんで▲そやおまへんねん。この犬、離せられんことになってしもたんだ■わゎ~ッ、えぇ年してよぉそんなアホなこと。そらどぉにもならんで。しばらく考えてみるさかいこっち来て待ってなはれ。◆先生、痛とぉてかなん■酒屋の丁稚が何や? ……火吹き竹? そら何をするんやいな。何ちゅう妙な患者ばっかり三人も揃ろて。ちょっと待ちなはれ、考えてみるさかい……■お竹どん、あんたそこに居り。隠居はん、あんたそこに居っててな。酒屋の子ども衆(し)さん、そこに居りなはれや。ちょっと待ってなはれ……さぁ、お竹どん、この庭石持ち上げなはれ●こんな重たいもん持ち上がりますかいな■持ち上がらなんだらえらいことになるんやがな。命の瀬戸際やで、一生懸命に持ち上げなはれ。●一生懸命に持ち上げまんのか■それが持ち上がらなんだら、あんた死ぬで。 「死ぬで」と言われたら、死力四層倍てなこと言ぃまして、お竹どん一生懸命「ん~~~~~ン」と石を持ち上げた。下腹へグ~ッと力が入る、イナがそれへスッポ~ンと飛び出す。それ見た犬が食お思て飛び付いた、それ見た丁稚が火吹き竹をパッと振り上げて、三ついっぺんに抜けた。註 イナ=鯔(ぼら)の若魚。オボコ・イナ・ボラ・トドと出世する。お後がよろしいようで‥。
2009年10月31日
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政権交代を果たした鳩山首相の所信表明演説の評判は、概して「分かり易い」「国民目線」「長過ぎた」「具体性に欠ける」などであった。一方、彼の献金問題はますます疑惑を生んでいる。どう乗り切るのか、ここは一つの勝負どころだ。それと、民主党と政府の間の不協和音も問題になる。やはり、小沢さんは「ただの幹事長」ではない。双頭政治といわれる所以である。新人を使うのに「オレの許し」なしには相成らぬというわけである。100数十人の新人を「小沢ガールズ」とか「小沢チルドレン」といわれるわけである。官房長官などは慌てて人事の差し替えをした。小沢さんに対して「骨のある」仙石さんは、「もう一度、小沢さんに会う」と言っているが、果たして勝負になるのか。野党・自民党との対応もさることながら、民主党との軋轢を「友愛」で解決できるのか、ここにも鳩山首相の「腕」が問われる。そう思って、見てみると、自民党のほうがまだマシだったのかも知れない。民主党は人数が増えた分、ゴタゴタを抱えているともいえる。参議院の補欠選挙は、民主党の単独勝ちだった。この調子では来年の夏の選挙も、ずるずると自民党が崩壊してしまう可能性もないではない。自民党の谷垣総裁は、所信表明を評して、「まるで、ヒトラーの演説を聞くヒトラーユーゲントのようだった」と、わけの分からないコメントをしていた。このままで国会討議に入るとすれば、衆寡適せずとばかり、自民党はへこんでしまうかも‥。
2009年10月27日
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西川善文さんは、『最後のバンカー』と称される実業家である。住友銀行、三井住友銀行元頭取、三井住友フィナンシャルグループ元代表取締役社長、元全国銀行協会会長、第2代日本郵政公社総裁、初代日本郵政代表執行役社長を歴任。現代の実業界では、この人の右に出る人はいないと申しても過言ではない。小泉首相に請われて第2代日本郵政公社総裁となり、初代日本郵政代表執行役社長となった。それが「小泉憎し」の亀井静香大臣(内閣府特命担当大臣・金融担当、特命事項として郵政改革担当)によって、ばっさりと首を切られた。昨日の辞任会見をテレビで見ていたが、報道カメラマンの音に怒り、「やめようか!」と、記者会見の席を立とうとした。ちらりと「最後のバンカー」たる所以を見せたように思えた。テレビを見ていた私でさえ、あのカメラの連写の音は無礼極まりないと憤慨するほどであった。今月28日の取締役会で辞表を提出することを明らかにし、「先週、亀井大臣から新しい基本方針の説明を受け、もはや私が職にとどまることは適切ではないと考えた」と、民営化方針の大転換が決まったことで辞任を決意した経緯を語った。西川さんの眼に「悔し涙」が光っているように見えたのは私だけだろうか。小泉劇場の犠牲者だったと言える。そして、よもやと思っていた自民党の崩壊‥一年余で次から次へと総理の「投げ出し」が続き、最後は麻生さんの「お坊ちゃま総理」で総選挙に入り、ものの見事に民主党に圧勝され、自公内閣は、文字通り「ぶっ壊れ」てしまった。その犠牲者が西川さんである。まさに人生無常である。この世の春を謳歌していた自民政権が、見るも無残な歴史的敗北に泣き、かつて自民党に君臨していた小沢さんが民主党の幹事長としてがんばっている。民主党も双頭のワシになるのかと懸念する向きもある。政治の世界だけではないが、わけの分からん世の中である。
2009年10月21日
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旅に病んで夢は枯野をかけ廻る俳聖芭蕉の最期の句(辞世)とされている。亡くなる数年前に、弟子の曾良を伴い、江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』を残している。芭蕉の詠んだ有名句をいくつか挙げてみる。古池や蛙飛びこむ水の音 名月や池をめぐりて夜もすがら 夏草や兵どもが夢の跡 閑さや岩にしみ入る蝉の声 五月雨をあつめて早し最上川 雲の峰いくつ崩れて月の山 荒海や佐渡によこたふ天河 花の雲鐘は上野か浅草か 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也世界でいちばん短い詩・俳句は、たった17文字で世界を詠む。いまでは外国語の俳句を詠む人もある。芭蕉は50歳でこの世をさっていく。しかし、残された句には、数百年経ったいまもなお人々のこころに響くものが多数残されている。元禄7年(1694)の今日(旧暦)、上に掲げた辞世の句を残して、50歳の人生を終える。しかし、ものの本によると、この辞世の句を詠んだ10月8日の翌日、すなわち死の3日前の10月9日に、付き添いの弟子・支考に、嵯峨で吟じた「大井川浪に塵なし夏の月」の句を、次の句に改案したい旨を告げる。「清滝や波に散り込む青松葉」と。だから、ほんとうの辞世の句は、この一句かもしれない。入寂の瞬間まで、意識がはっきりとしていたということであろうか。
2009年10月12日
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昨夜の東京は、窓を叩く風雨の音で、テレビのニュースを見ながら、被害がないようにと祈るような気持ちでした。平成の台風のなかでは最強最大のものだったという。比較的雨量が少なかったために甚大な被害がなかったとも報じられている。50年前の伊勢湾台風のときと同じようなコースだった。あのときには潮岬に上陸して、中部地方を襲った。名古屋は特に水害も重なり、大勢の犠牲者が出た。今度の台風は直に名古屋に上陸して、ほぼ日本列島を縦断していった。あの暴風には驚いた。地方によってはそれが突風になり、竜巻になり、家も、車も、電柱も、薙ぎ倒してしまう猛威をふるった。南半球では大地震が続発している。台風は台湾、韓国でも大きな被害を出した。大自然の脅威の前には、万物の霊長たる人間は、なす術もない。つくずくと無力感を味わった。
2009年10月08日
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あの朦朧会見でしくじった中川元財務相が自宅で急逝というニュースを聞き、まだ56歳という若さで、どうして死に急がれたのかと思った。解剖の結果、アルコールも検出されたという。選挙中に「断酒」を宣言していたのに、先日の総選挙で民主党に負けて落選した後は、やはり飲酒をされていたようである。飲酒だけではなく、他に薬を服していたようである。あの「朦朧会見」も、「酩酊」ではなかったという。睡眠薬や鎮静薬などを常用していたようである。党内でも腕の立つ人であったという。惜しい。この若さで、この死に方では親の名までも汚してしまう。人の生き様、死に様は、自分のいのちでありながら、自分の思うようにはならない。しかも、その人の生涯を価値づけるのは棺の蓋を閉めてから決まる。どんなに批判され、非難を受けようと、弁明も言い訳も出来ない。死人に口なしである。
2009年10月05日
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結党以来の歴史的惨敗を喫した自民党が総裁を選び、解党的出直しをしようとしたが、マスメディアは冷たいもので、記事にもしてくれない、テレビもあまり取り上げない。戦後ずっと「左団扇」できた自民党が野党に成り下がったからしようがないのか。三人の候補のなかから、谷垣さんを総裁に選んだ。果たして、復活への道は開かれたのか? 谷垣さんと民主党の鳩山総理とでは、どちらに軍配が上がるのか? やってみないと分からないが、谷垣さんが党内の「派閥の領袖」たちを、どう扱うかで勝負は決まる。それとも、これを機会に、党内の若手を起用して刷新できるのか‥。スタートした新政権も、なんだか覚束ない足取りである。あの「静かでない」亀井さんが「モラトリアム」をぶち上げたのをどう収めるか? また秘密に満ちた小沢さんのイギリス旅行の真相はどうか‥。これまた新出発した政権の「いのち取り」にならねばよいが‥。鳩山さんもたいへんだ。石原知事に泣きつかれてIOCの会合にコペンハーゲンに飛ぶという。そんなことをしている場合じゃないと思うが‥。これで「東京オリンピック」が成功すればいいが、ブラジルやシカゴに取られたということになれば、高いお遊びと批判されるに違いない。
2009年09月28日
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群馬・長野県境の荒船山がけ下から遺体で見つかった漫画家の臼井儀人さん(享年51歳)の葬儀が22日、埼玉県春日部市内でしめやかに営まれました。式には「クレヨンしんちゃん」の発行元である双葉社の関係者と近親者約30人が参列、本当に近しい人だけの密葬だったということです。臼井さんの遺体は19日、荒船山の登山道の途中にある艫(とも)岩の崖下約120メートル地点で発見されました。遺体の近くから見つかったデジタルカメラには、崖の上から下をのぞいて撮影した写真が残されていました。群馬県警下仁田署は事故と自殺の両面で捜査を進めていますが、遺書や書き置きなどは発見されていないことから、事故の可能性が極めて高いということです。(MSNニュースより)テレビでみたが、荒船山の艫岩の崖は、映像を見ただけでも足がすくむようである。私はあんなところへ普通、行けるのだろうか。だから、私は「自殺説」をとりたい。そうでないと、あのような崖に近づくとは、とても思えない。いまや、「クレヨンしんちゃん」といえば、老若男女、知らぬ人がいないというほどの人気マンガである。作者・臼井さんは人気作家である。どういう背景があったかは知る由もないが、死ぬほどの理由があったのだろうか? 少年少女たちから夢を奪うような結果になったことは、ほんとうに悲しいことである。新政権も、特に青少年に「いのち」への畏敬を教える施策をとってほしい。
2009年09月24日
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だから、何? と言われても、答えはない。国電とか、省線と呼ばれていたのが、JRということになり、都内をぐるっと一回りする電車を「山手線」というようになって百年目だという。今、中学2年生になっている孫が、小学4年生のころ、幼いころから「電車おたく」だったから、「ボク、山手線の駅名、全部言えるよ」と、自慢していた。家の者は二三度聞くと「もうたくさん」と耳をふさぐが、私だけは何十回何百回でも「東京・有楽町・新橋‥」と順次、駅名を並べるのを目を細めて聞いていた「じじばか」だった。何年か前、韓国の友人が訪ねてきて「日本の印象は?」と訊くと、彼は「電車に乗る乗客がちゃんと並んで電車を待ち、降りる人が降りてから、前から順序良く電車に乗っている姿を見て驚いた」と答えた。韓国でも列を作って待つのは同じだが、乗車するとなると、とたんに列が崩れ、我先に乗る‥らしい。それは、電車が時刻表通りに来ないからというのが理由の一つだと言っていた。自動車は交通量や渋滞の関係で、事前に到着する時刻が読めないが、その点、電車は時刻表通りに発着するから、時間が読めることは確かである。日本の電車は「時刻表通り」であることは、われわれは、当たり前と思っているが、外国人からみると、「奇跡だ」と言う人もある。
2009年09月22日
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娘二人に誘われて、夫婦と四人で、ご馳走になった。瀟洒な和食屋さんに行く。懐石料理に舌鼓を打つ。どの皿にも旬の美味が並んでいる。和食は、まず「目で食べる」という。器の一つ一つが、実に美しい。四人が別々のお膳を注文した。というのは、いろいろなバラエティを見たかったからである。同じ食材で、こんなに違った料理があるとは驚きであった。目で食べ、そして料理に箸を運ぶ。先付けから順序よく出される料理。味は京風というか、関西風というか、薄味である。秋は「実りのとき」といわれるように、ご飯も新米ですと説明を受けて、その味を一粒一粒味わってみる。料理のなかに「秋」を感じさせる工夫がしてある。紅葉の葉も、どこでどうやって、あのような紅葉が、この時季にあるのだろうかと思うほど、見事な紅葉が添えてある。「秋茄子は嫁に食わすな」といわれる、なすという素材を様々なレシピによって、美しく盛り付けてある。西洋料理のいちばん後にはデザートになるように、和食の場合もお茶と菓子が出た。抹茶の香りと栗の和菓子が出てきた。四人が揃って、合掌して「ご馳走さま」と言った。
2009年09月16日
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三党連立の鳩山内閣ができる。期待半分、面白半分で、その行方を見ています。問題の小沢さんは、閣内に入らず、党務に専念するという。とはいっても、鳩山さんも小沢さんの意見を聞かずには動けない。一つの見方として、「反」とまではいかないかも知れないが、元代表の前原さんの入閣があるのかが「小沢支配」かどうかを見極める一つのポイントであると言われている。いずれにしても、17人の閣僚をどう選ぶのか、鳩山さんの腕の見せ所ではある。国会の控え室などでも、自民党と「もめている」らしい。惨敗とは申せ、何十年と国会を「わが家」同然と居座っていた自民党だから、そう簡単には譲れないのかも知れぬ。自民の葬祭選びも、これから「まだまだもめそう」である。これによって、来年の参院選の結果も決まってくるという。
2009年09月10日
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4年前の「小泉劇場」選挙を再び見たような、民主の圧勝だった。「小沢劇場」と言えるのか? 自民より、もっとお気の毒なは公明である。これまた解党的惨敗と言えるだろう。正直なところ、国民は、ちょっと「勝たせ過ぎ」だったともいえる。これは、マスメディアの所為でもある。戦前から「民主圧勝」と言い過ぎた。まあ、しかし、自民惨敗は自業自得と言えるだろう。4年前に「自民党をぶっ壊す」と言って大勝した小泉さんのとき、ほんとうに自民党が「ぶっ壊れた」のが、今回の結果を生んだと言えるかもしれない。あとは、鳩山さんが、どういう内閣をつくるのかということになる。組閣に失敗すると、せっかくの大勝がふいになることもあり得る。大勝はしたが、民主党の内部は自民党以上に複雑怪奇なのではあるまいか? うまくいけるのか? また、小沢さんをどう処遇するかも注目である。惨敗した自民・公明が、ここからどう再構築をするかも、見ものである。まさか、これで雲散霧消してしまうようなことにはなるまいが、ここからが勝負どころである。
2009年08月31日
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陸上の第12回世界選手権最終日は23日、女子マラソンがあり、尾崎好美(28)が2時間25分25秒で銀メダルに輝き、今大会日本選手初となるメダルを獲得した。尾崎は昨年の北京五輪代表になれなかったが、同11月の東京国際女子マラソンで優勝。尾崎を指導する山下佐知子監督は91年に東京で開催された世界選手権女子マラソンで2位となっており、師弟で銀メダリストとなった。男女ともマラソンは中継を見た。というのも、マラソンのコースが19年前にベルリンを訪れたときに、あの「ベルリンの壁」が、まだ残っているということで、わざわざ訪れた「ポツダム広場」がマラソンのコースの第一番目であったことから、出発の ブランデンブルク門も、何度も訪れた思い出の場所である。あの近くの「チャーリー・ポイント」は、もう影も形もない。無名というのではないが、尾崎好美が「銀」を取ったのは、お手柄である。女子マラソン競技は、日本人女性にむいているのか、これまでも多くのメダルをあげている。男子のマラソンはメダルは逃したが6位に入賞している。
2009年08月24日
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来週の日曜日、8月30日は総選挙の日である。あと一週間、残暑のなか、候補者は走り回っている。今度の選挙は「政権交代」かどうかを決めると民社党は追い風に乗っているように見える。だが、ほんとうに「追い風」だろうか?タレントやお笑いなどと同様に「一寸先は闇」である。「下駄履くまでは分からない」のが夜の流れである。落ち目の自民党などは、ほんのちょっとしたことでも、風は変わると、もっぱら敵失を待っている。共産党はまだしも、社民党などは風前の灯である。その他、自民を追い出され、「小泉憎し」党などは、突発的竜巻を期待している。宗教団体なのかどうか分からぬ「幸福党」は、自民と同数くらいの立候補者をだしている。どこにそんな金があるのか。宗教らしい衣を着ているのは、金持ちが多い。投票者は繭に唾をつけて、かからぬと、とんだ目にあわされる。この一週間、マニフェスト、政見放送、新聞、ラジオ、テレビなどを注視して、よくよく見定めることがいる。われわれが持っている、たった一つの権利は、一票を投じるという行為である。
2009年08月23日
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衆議院選挙がスタートした。昨日の党首討論を見たが、もう「末期症状」というか、ちゃんとディベートのできる役者がいなくなったのは、日本人にとって不幸なことだと思う。いわば政治家が「子どもの喧嘩」のようなことになった。投票後の結果次第では、政界再編成が起きることは間違いない。どうせ「だめもと」なら、自民党も東国原知事を総裁にという「アホらしい」ことをやればよかったかも知れない。どうやら日本丸は「泥舟」のままで大海原へ船出しなければならぬのかと思う。「だれを選ぶのか?」といわれても、閉店間際のスーパーの「当たり籤」を引くような「箱の中」にてを突っ込んで、「エイヤッ」と籤を引くようなものだ。「当たり」がでれば、幸運だが、ほとんどが「スカ籤」だ。ロト6よりもむずかしい。
2009年08月18日
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今日は終戦記念日である。戦後生まれが7割以上の日本人は、64年前の敗戦も知らないし、あの戦争で死んでいった人が300万人以上もあったことも忘れてしまっている。 連日のように、新聞・テレビで報じられる「戦争」も、どこか他の国のことのように見えている人が多い。何かと話題になる「靖国神社」の境内に「遊就館」(ゆうしゅうかん)という建物がある。そこには、時系列順に古代、近世、明治維新、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争、満州事変、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)関連の資料が展示されいる。 そこに太平洋戦争に若いいのちを散らした人たちが残していった手紙などが展示されている。靖国神社に参拝することの可否とは別に、現代の若者たちに、この「遊就館」の内容を見てもらいたい。おそらく、今の20歳前後の若者たちには書けない文章が多くある。その文章、筆跡などはもとより、彼らが「死」を前にして、親たちに書き残した文章を読んでほしい。 絶対に戦争を起こしてはならないし、巻き込まれてはならない。しかし、64年前、敗戦した日本が、どういう国であったのか? そのことを省みて、いまこそ、戦争でいのちを失った人たちのこころを思い、ここから、どうすればいいのかを求めてほしい。 物質的に繁栄した日本人が「置き忘れてきた」ものがある。無念の死を遂げた人々のこころを忘れてはならない。野坂昭如の「」火垂るの墓」という小説がある。親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を描いた、この小説を、私はぜひ若者たちに読んでほしい。戦争って何かを知る上にも、この小説が訴えかけているものを読み取ってほしい。 戦争を風化させてはならない。戦争といっても、太平洋戦争と現代の戦争とは大きな違いがあろう。だが、二度と再び、戦争を起こしてはならない。戦争に「よい・わるい」はない。戦争はすべて人間が犯した犯罪である。不戦・非戦を誓うことが人間の責務である。
2009年08月15日
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今日は、64年目のナガサキ原爆の日である。江戸時代の開国の歴史が深い街、長崎に原子爆弾が投下され、ヒロシマに続いて多くの市民が熱線で焼かれ、放射線で被爆し、平和な長崎の街を一瞬にして地獄にしてしまった。世界で唯一の被爆国・日本人は、いまこそ、核廃絶を叫び、第3番目の被爆国をつくらないことを強く主張しなければならない。私の知人(現在87歳の女性)は、ナガサキで被爆したのに、奇跡的に助かり、しかし、現在養護施設に入れられている。しかし、成田空港は海外旅行者でいっぱいである。ふるさとへ帰る帰省客で高速道路は渋滞中である。なにも田舎へ帰ること、海外へ遊びに行くことが悪いと言っているのではない。せめて、今日ぐらいは、ナガサキで被爆した同胞のことを祈る一日であってもいいのではないだろうか。そして、「核廃絶」の声を上げてもいいのではないか。
2009年08月09日
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戦後、住むに家なく、食べるに米もない、惨めな敗戦国・日本だった。「神州不滅」を叩き込まれていた軍国少年だった私に、生きる勇気を与えてくれたのは、古橋広之進さんと力道山と湯川秀樹博士だった。なかでも、古橋さんの水泳は、アメリカで行われた「水泳競技会」で見せた世界記録だった。あの当時のことをテレビのインタビュウで語っていた古橋さんの話では、「勤労奉仕で指を一本切断したハンデを負い、泳法を研究した。プールの掃除をすると、ヒキガエルが見つかったので、それをついいつの蛋白源として食べた。お粥ばかりの食事だったが、農家でサツマイモをもらってきて、それを米に換えてたべた。」と語っていたのを覚えている。打ちひしがれていた敗戦国日本だったが、その古橋さんがアメリカで群を抜く記録で勝ったというニュースは、どれほど惨めなこころに勇気を与えてくれたことか。アメリカ人たちは、彼のことを"Flying fish of Fujiyama"(フジヤマの飛び魚)と絶賛したという。満足な食事もせず、ふんどしの上にスフの海水パンツをはいた古橋さんは、記録を次々に塗り替えたのだった。その「フジヤマの飛び魚」が、世界水泳開催中のローマで急逝されたというニュースは、まさに青天の霹靂だった。お年は81歳というご長寿だったが、あまりにも突然のことに、出場していた選手たちもショックだったに違いない。60年前、敗戦国・日本のために尽くしてくださった古橋さんは、いつも請われると「泳心一路」と揮毫されたという。こころからご冥福をお祈りさせてもらう。
2009年08月04日
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先日、ある方から「アホ・バカ」の境はどこかというお話を聞きました。私は大阪生まれ、大阪育ちですから、「アホ」のほうがいい。大阪弁の「アホ」には、どことなく、温かさがある。ところが「バカ」と言われると、もう逃げ場がない。しかし、一般的には「愚か者」という意味で使うことばであるが、地方によって、その使い方が違う。微妙なところがある。その「アホ」と「バカ」の使い方に境目があるというのです。その人は、名古屋あたりが、境目だと言われる。あなたの住んでいらっしゃるところでは、「愚か者」のことを何と表現されていますか? これはきっと日本語の研究されている人にとっても、いい課題になると思います。私が以前、この日記に「大阪弁研究」を書いたとき、「アホ・バカ」にふれて、次のように書いた。私の好きな大阪弁の一つに「あほ」がある。正確な意味では「知恵の薄い者」「愚かな者」である。阿呆は「あほう」ではなく、「あほ」と短く発音する。よく、「ばか」と「あほ」は、どう違うかが問題になる。両方とも愚鈍には違いないが、大阪でいう「あほ」には、どこか間の抜けた、春の花曇りにも似た、どこか温かさがある。「ばか」と言われると怒るが、「あほ」と言われると、一種の褒め言葉になる。もっとも東京語で「バカーン」と、亡くなった三亀松の入れ込み都都逸などで鼻にかかった甘えた女声で言うと、「バァーカ」とは違う味がある。「道歩いてたら、なんや皆、わてを見てにやにや笑うてまんねん。けったいななあと思うて見てみたら、ズボンのチャック開いてましてん」「あほやなあ」と。この場合、「馬鹿だ」「間抜けな奴」ではなく、「あほやなあ」というのは、実に仄々(ほのぼの)として温かいものを感じさせられる。子供のころ、相手を貶すとき「あほ・ばか・まぬけ・ひょっとこ(または、すっとこ)なんきん・かぼちゃ」と言った覚えがある。この他、「あほ」には、いろいろな使い方がある。「あほくさ」というのがある。「馬鹿らしい」に当たる。たとえば、「あんさん(あなた)、わてに惚れてなはんのんか」「あほくさ!」と、こうなる。「あほのこっちょ」は、今は死語か? あほにさらに輪をかけたもの。大ばか者?「こっちょ」は、骨頂?雑駁な文章ではあるが、再読してみるとあじがある、と自分だけは、そう思っています。
2009年08月03日
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日記は、毎日書くから意味がある。せめて週記でも、と思いつつ、夏真っ盛りというのに「冬眠中」のさる奴をおつるしください。「週記」どころか「月記」とさえもいえない、この怠慢をこころからお詫びします。北九州、中国、四国方面の豪雨禍は、たんに偶発的なことなのか? 皆既日蝕と無関係か?テレビの映像でしか見ることができないが、ほんとうにお気の毒であります。「今日は他人事、明日はわが身」というように、一時的にあれほどの量の降雨があれば、首都東京などは、壊滅的な都市機能の破壊になると思います。このごろは「地震」のことを、あまり言わなくなっているが、関東大地震が起きれば、その被害は想像を超えると思います。また、議員のセンセたちは選挙のことで必死になっていますが、自然災害のことに取り組んでいるセンセはいるのでしょうか? 今回の総選挙は、いわば天下分け目の「関が原」と言われていますが、どっちが政権を取ろうと、自然災害への構えは疎かにはできぬことです。とにもかくにも、暑中お見舞い申し上げます。
2009年07月27日
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今日、7月17日、祇園祭のクライマックス、山鉾(やまほこ)巡行。曇り空の下で、約13万人(午後1時現在、京都府警発表)が都大路を進む32基の華やかな姿を楽しんだ。今から58年前、私は初めて祇園祭を見た。まだ「戦後」間もないころの京都で学生生活をスタートさせた年であった。戦災で焼けなかった京都には、戦前の姿が残っていた。大阪で空襲に遭い、「焼け跡派」と呼ばれていた私の世代にとって、この雅な雰囲気に陶酔したことを覚えている。祇園祭は、京都の八坂神社の祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)と呼ばれ、さらに大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本三大祭りの一つに数えられる。しかし、神輿渡御や山鉾巡行や宵山が中心となる祇園祭は、まさに「動く美術館」と評されるほどの美しい織物などで飾られ、人々目を楽しませてくれる。また、山鉾の中で奏される「祇園囃子」の「コンチキチン」と音は、いかにも賑やかで雅な雰囲気を演出する。
2009年07月17日
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「どれにしようかな」と、何かを選ぶときに唄う歌、それが「選び歌」である。ところが調べてみると、なんと全国各地で、それぞれに「どれにしようかな」に続く文言が様々あることが分かった。お暇なお方の調査が、ここにある。1 言うとおり 91 2 天の神様 72 (かなりの頻度で登場されます。)3 神様 17 (北海道はこれが多い様ですね。) 4 柿の種 34 (昔は貴重なものだったのかな?)5 鉄砲撃って 34 (これも時代を感じさせるような・・・。) 6 バンバンバン 31 (上の鉄砲撃ってとセットで使われてます。) 7 もう1つおまけ 20 (これが入ると長くなります(笑))8 あっぷっぷ 8 (大阪・兵庫・岐阜で出没。)9 あべぺのべ 8 (関東が多いです。) 10 なのなのなすび 8 (北海道では定番ぽいですね。)11 あぶらむし このように地方地方で、また時代時代によって異なる。「選び歌」は、日本文化の比較研究の資料になると思う。「選び歌」のHPは、驚くほど多い。「へ~、そんなのがあるのか?」とびっくりする。あなたの地方では、どんな「選び歌」(「ドレにしようかな」に続く歌)を教えてくださいませんか?
2009年07月11日
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連日、テレビや新聞を賑わしている、中国新疆ウイグル自治区で起きた暴動は、ウイグル族に反発する漢族住民が暴徒化するなど、民族対立が先鋭化しているようである。世界一の人口を持ち、世界同時不況のなかで、国民総生産もプラスである中国は、もともと多民族国家である。10数年前、私は中国を旅行したことがある。今、問題になっている中国新疆ウイグル自治区にも足をのばしたことがある。その時、すでに民族間の対立の様相を見た。文化、宗教を含めて、民族感情とか意識の相違がある。また、漢民族との間に、なんとなく差別というか、優越感・劣等感のような空気があった。同じ頃(10数年前)のアメリカにも人種問題を見た。いまは初の黒人大統領までできたから、幾分違ってきたいるが、アメリカも多民族国家ゆえの火種を抱えているといえよう。アイヌ民族の問題など、未解決の問題はあるが、わが国は単一民族に近いから、切実な問題はない。中国は、この新疆ウイグル自治区の問題が全国的に波及すると、どうなるか? 経済の格差がある。一瞬にして経済が崩壊することもあり得る。中国危うし。一時も目を離せない。
2009年07月08日
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今朝は超早起きでテレビにかじりついた。LAのマイケル・ジャクソン追悼式の中継を見るためだった。さすがに世界的大スターの追悼式だった。アメリカは、こういうセレモニーに演出にはすばらしいものがある。入場者も無料というのもアメリカらしい。会場周辺も人々が大勢集まった。NYでも、タイムズスクエアーの大画面テレビで中継し、人々が集まった。ロンドンでも同様だった。アメリカの4大テレビも特集を組んで放送した。いろいろなゴシップも少なくなかったマイケルだった。その死因もさまざまな憶測が伝えられる。しかし、彼の歌やパフォーマンスには、全世界が拍手を惜しまなかった。日本では考えられないようなスケールの大スターだった。著名な歌手が次々と出てきた追悼式は圧巻だった。最後のほうで”We are the world”と"Hearl the world"が全歌手による合唱だった。やはり、あの歌は一世を風靡した歌だ。そして、しめくくりは、彼の愛嬢の短いメッセージだった。あれで泣かされた。演出としても再興のできだった。金色の棺には、彼の遺体が入っていたのかどうかも問題になっていた。いかにもマイケルらしい最期だったと思う。
2009年07月08日
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来るべき総選挙の勝敗を占う都議選がスタートした。あの無遠慮な無礼きわまる大音量のスピーカーで鈴かな街に入り込んで来る選挙カーが、今日から始まると思うと無性に腹だたしい。「××党の▼▼でございます」と連呼する。煩いので窓を閉めると、更に大声で「ご声援,有り難うございます!」とくる。一回も来ないという候補者はいない。だから、連日のようにガナリ立てる奴には投票しないということにする。駅前などで選挙演説があると、たちまち大渋滞である。スーパーへ入れない。迷惑なこと、この上なし。これだけITが進歩しているのだから、投票なんてやめて、電子投票にすればいいと思う。政権発表がどうしてもしたいというなら、HPを立ち上げて、そこでするがいい。読みたい人は読む、聞きたくない人は見ない。だったら、迷惑はかかるまい。昔ながらの「どぶ板選挙」をやっている人に聞くと「握手してくれた人は確かに投票してくれる」と信じているらしい。これは日本だけではあるまい。他の国でも大同小異らしい。選挙は悪いとは思わぬが、あの絶叫型選挙カーだけはやめてほしい。
2009年07月03日
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