仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル
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明治6年(1873)、日本が初めて日本銀行一円券(紙幣)の肖像に採用したのが、上毛野(かみつけの)田道(たじ、たみち)将軍であった。日本書紀によれば、第16代仁徳天皇53年(365)、新羅が朝貢しなくなり、天皇はまず田道の兄で、上毛野氏の祖、荒田別(あらたわけ)の子である竹葉瀬を新羅に遣わした。上毛野氏は、崇神天皇の皇子の後裔とされ、日本書紀によれば軍事や外交で活躍。蝦夷討伐にも軍功をたてた。しかし、竹葉瀬は途中で白鹿を獲て戻り天皇に献上、改めて出発したが成否は述べられていない。弟の田道に新羅征伐の軍令が下り、田道は精騎(うまいくさ)を連ね、巧みな戦術で新羅郡を破ったという。さしずめ田道は日本における騎馬戦の始祖といえるかもしれない。魏志倭人伝の当時の倭人は、馬をもっていなかったはずだ。それまで日本と百済の連合軍は歩戦で、騎馬の新羅軍には勝てなかった。馬が輸入されて日本の軍事レベルは急速に高度化した。この軍事技術に支えられて大和朝廷は半島における任那経営を行い、東国の蝦夷征伐にも、新羅戦の功将の田道を投入することとなった。もっともこれらは神話主体の話であり、馬具や馬形埴輪の出土からは、「精騎」が可能となったのは5世紀に入ってからのことと考えられる。田道は、新羅で活躍したあと百済に遣わされ、止美(とみ)邑の呉女(ごじょ)(南方出身の女性の意か)を娶って、止美連(とみのむらじ)の祖、持君(もちぎみ)をもうけたとの伝承がある(新撰姓氏録)。さらに、田道将軍は仁徳天皇55年、蝦夷反乱を征伐に向かう。しかし、伊寺水門(いじのみなと)(石巻市に比定)で奇襲攻撃を受け深手を負う。一円券はこのおりの奮死(憤死)を描いたものとされていた。将軍の妻は、夫が生前手に巻いていた玉を抱き、首をくくって後を追う。のちに、蝦夷が田道の墓を掘り起こしたところ、神の化身である大蛇が現れ、将兵たちは食い殺された(日本書紀)。近代的な銀行制度をととのえるには、藩札レベルの紙幣ではならない。伊藤博文のなかば独断専行で、米国の印刷会社に、肖像を含む紙幣が発注された。図柄は、上毛野田道のほか、大己貴神(大国主命)、仁徳天皇、三韓征伐、天石窟(あめのいわや)の雅楽、蒙古襲来覆没、楠公迎輦などが考えられた。いずれも、明治維新を成し遂げ国際社会に遅れて加わることとなった日本だが、すばらしい(強い)歴史を持つ国なのだという思いが図柄の選択につながったと思われる。新政府にとって、いにしえの英雄は自分たちを鼓舞する心の支えであったろう。以上は、加来耕三『紙幣の日本史』KADOKAWA、2019年 より。
2020.02.01
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