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ドラマの「おかえりモネ」で気象予報士の朝岡が見たいと言った北上川の移流霧を、早朝にモネちゃんたちが眺めるという、たいへんに印象的なシーンがあった。気仙沼線の青いトラス橋が映っていて、場所は鴇波だとわかった。■関連する過去の記事 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 宮城県の渡船を考える(2010年6月5日)(鴇波・柳津の渡しの廃止) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日)さて、ドラマでは、霧を見つめるモネが、故郷の気仙沼の離島の風景と3年前の「あの日」を回想して、自分は何もできなかったと涙を流す。何を見たかは画面で示さないが、前の回でもモネは、「あの日」自分は島にいなかったと独白している。高校のある市内にいたという設定だろうか。多くの宮城県の人々が、心を揺さぶられたのではないでしょうか。東日本大震災のあの日、言葉を失い、何が起きたのか、自分は何もできないのか、何ができたのか、と長い間考えさせられた。10年を過ぎた今でも、いや今こそ、真っすぐに思い起こさねばならないような気がします。
2021.05.22
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気仙沼市の大谷鉱山歴史資料館を訪れた。国道45号から山間に入る道沿いは、初夏の緑に染められていたが、往時は職員住宅などが立ち並び、さぞ賑わっただろう。■大谷鉱山の沿革地域の産金の歴史は遠く前九年の役(1050頃)以前に遡ると言われ、また平泉の黄金文化の源泉であったと伝えられる。大谷鉱山は明治38年唐桑町鈴木哲郎氏が試掘鉱区を設定、露頭部、旧坑の開発を試みて以来、福山久吉氏、三原経国氏、十時精一氏及び久原鉱業株式会社等鉱主の変遷があったが、昭和4年日本鉱業株式会社の経営となり我が国有数の金山として盛名を馳せるに至った。昭和37年大谷鉱山株式会社が鉱業権を継承したが、数十年にわたって地域経済に貢献した業績は誠に甚大であった。その沿革概要は次のとおりである。昭和3 この頃までは手掘り手選鉱であったが、はじめてさく岩機を導入する。昭和6 岩尻坑操業開始(翌々8年さく岩機31台入る)昭和9 浮遊選鉱場完成(鉱石処理能力月3000トン)昭和11 赤牛、萱刈坑を日満鉱業(株)より買収昭和13 浮遊選鉱場拡張。岩尻、赤牛、津谷、新月、矢越の各坑を操業。昭和17年には従業員1303名(鉱山居住580通勤723)坑道総延長55km、立坑深さ450m、年間1トン余りの産金量を誇る。昭和18 太平洋戦争苛烈となり、金山整備令により休山。昭和25 再開。26年以後には、産金年間400から450kgを記録昭和26 青化製錬場完成(36年拡張、処理能力月1500トン)昭和36 青化製錬場わきに浮遊選鉱場完成(処理能力月1500トン)昭和37 日本鉱業(株)より分離、大谷鉱山(株)設立。この頃坑道延長90km昭和39 興北鉱業(株)を吸収合併、大谷及び興北の2鉱業所となった。昭和40 青化製錬場の設備増強、鉱染部採掘が進み、坑内スレイム充填開始昭和46 大谷鉱業所は興北の浮選操業を残して休山昭和51 興北鉱業所も埋蔵鉱量枯渇により操業休止、全面閉鎖するに至った■平泉黄金文化と大谷の金山平泉藤原氏の黄金文化を支えたのは海道の北上山地からの「本良金」「気仙金」によるところが大きい。本吉地方の産金は12世紀の前半と考えられ、その一部が本良荘(東北にあった荘園の一つ)の年貢として中央に貢進されたと思われる。大谷の金山については、安倍頼時・貞任父子が本吉地方を支配下におき、特に後世の大谷金山附近の地を重視していたようである。新館山に館を構えて、そこから山下一帯の地に号令し、金の採取を督励し人夫を酷使したといわれる。新館山には今なお土塁のようなものが残っている。山下には上小屋千軒、下小屋千軒とよばれる鉱夫長屋があったとも伝えられ、現に長屋のあった場所として上小屋、下小屋の地名が残っている。当時の金の採取方法は表面採取で、鉱石ならこれを粉にし、泥や砂に混ざったものはそのままで、これを筵の上に水とともに流し、比重の重い金が下にたまり、筵の網目に沈下する。それを取り外して乾かし、火で焼くと灰とともに金が残るという方法であったという。そこで、金を採取するのに多くの水を必要として、その水を引くために水路が造られたという。金の採掘がそのような表面採取ではあきたらなく、次第に坑道を掘って多量の金を採取するようになっていった。■金鉱山を偲ぶエリアとして!大谷鉱山の歴史を地域・近隣市町村の子供たちに学習の場としての機会を与えるとともに、大谷鉱山資料収集保存会・地域振興会を中心とした地域住民がこの歴史資料館を拠点に金鉱山を偲ぶエリアとして積極的にPRし、気仙沼市の観光スポットのひとつとして位置づけ、地域の活性化を図ることを目的としています。事業紹介 平成16年度魅力ある地域づくり事業補助対象事業 20,000千円 床面積168.51m2(51.06坪)展示内容のご案内 さく岩機、支柱、運鉱機械、鉱石、写真等約140種類450点■関連する過去の記事 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)
2021.05.04
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気仙沼市の鹿折金山資料館を訪れた。■略史藤原時代に黄金文化を支えた金山のひとつと伝えられる。江戸時代には源氏沢鉱山として唐桑村の古館が探鉱。明治14年に山形県南山村の鉱山師信夫歌之助が探査。明治20年に鹿折の菅野駒治が秋田県阿仁の鉱山師中村亀治を招いて開発し、金鉱を発見。明治27年に、仙台の内ヶ崎峯吉が試掘。この頃から鹿折金山が注目される。明治33年、中村亀治から早稲田大学工学部教授徳永重康に鉱山の権利を売渡し。36年、気仙沼の吉田正章と徳永重康が共同で開発、経営した。金の含有率20%という高い鉱脈を発見。明治37年には金の含有率83%という自然金が発見され、セントルイス万国博覧会に出展し、ナゲット・モンスターと称賛され青銅メダルを授与される。このことが日露戦争の外貨獲得に大きな貢献をする。徳永回顧録によると、使用人600人、事務員だけで20人いた。明治42年、古賀廉造個人のものとなり、50馬力の機械を備え付け一日1万貫の鉱石を採掘したが、43年に休山。昭和13年、堀家万太郎により復活。その後、日本産金会社が経営し、一時期トン当たり200gの富鉱にも当たったが、大部分はトン当たり3gの貧鉱だった。昭和24年、堀家が再挑戦し小規模ながら生産した。同46年、鉱業権を放棄し、鹿折金山が閉山した。平成10年、鹿折金山跡保存会が設立、14年、仮設・鹿折金山資料館が保存会有志によって開設。平成24年10月28日、気仙沼市鹿折金山資料館が開館。運営委員会を設置。(以上はパンフレットに掲載の略史。以下には、パンフレットの解説から要点を。)■鹿折金山の伝説大治元年(1126)藤原清衡公が中尊寺金色堂を建立した時、陸奥の多くの砂金が献上された。鹿折金山の砂金も献上されたと云われる。鹿折金山の裾野に源氏の沢があり、三段に流れる源氏の滝がある。また、源義経公、愛馬太夫黒が生まれ、沢の水を吞んだ場所に飼馬桶跡の窪みがある。金山を抱える土地は日ノ口(ひのくち)、奥州平泉藤原時代の所縁か、藤村姓が多く太夫黒の母馬が生まれたという屋号、臺羅貝(飼)(たいらがい)、場産地に繋がる、駒つなぎ、木戸脇、仮松部、などがある。■鹿折金山の事実昭和44年10月故藤村臺一郎氏のゴボウ畑から57基の板碑が出土、うち22基に金泥梵字があった。更に経文を入れた三筋壺も出土、いずれも平安から室町時代のものとされる。■豊臣秀吉、徳川家康の金山管理秀吉の時代、この地方の百姓たちは年3度の運上金制度に反発し、千厩に集まり三千人の一揆を起こした。徳川家康は全国の大名に金山開発を命じ、産金地に奉行を配置し、金を採掘する百姓達に鑑札(御本判)を持たせ、厳しく取り締まった。伊達政宗の時代この地方の鹿折金山、大谷金山、玉山金山等三金山の他多くの金山が砂金採取地として管理され、御本番百姓達が作業に駆り出された。■本格的な鹿折金山の採掘明治20年、秋田、鉱山技師中村亀治が初めて金脈を発見。資金が続かず、同33年、早稲田大学理事徳永重康氏に鉱山権利を譲渡し、その後37年、金の含有率83%の怪物金を発見。米国セントルイス万国博に出展「モンスターゴールド」と命名された。やがて日露戦争が勃発、怪物金は外貨獲得の材料として英国にわたり、司馬遼太郎作「坂の上の雲」にも紹介された。明治42年、古賀廉三が所有権者となり、昭和13年堀家万太郎により再開発され日本産金株式会社となって一時期トン当たり2百gの富鉱があったが、その後トン当たり3gの貧鉱が続き、昭和46年、鹿折金山は完全閉山となる。■明治、大正、昭和の鹿折金山の監督として初代中村亀治の系統である中村家は、二代中村直太、三代中村源一郎まで、金山作業監督として続いた。源一郎の妻はつえは、平成22年2月20日、99歳白寿にて大往生された。はつえは、その生涯をかけて鹿折金山を大切に保存し続けた。(現鹿折金山資料館館長四代中村敬二)■モンスターゴールド明治37年、重さ2.25キロの鉱石に金の含有率83%の巨大な金鉱石が産出された。この怪物金はセントルイス万国博覧会に出展され、青銅メダルと大賞状を受賞。海外にその名を馳せ、モンスターゴールドと命名された。現在は茨城県つくば市の地質標本館に6分の1の塊が保存。■鹿折金山資料館の完成平成23年、東日本大震災の年、菅原市長は郷土の大切な文化財資料として後世に残すことを決断し優先して鹿折金山資料館の建設に着手され、平成24年10月28日、公設民営方式で開館し、現在に至る。運営は鹿折金山資料館運営委員会、展示品は約千数百点にのぼる。また、資料館外部には日本でも珍しい金を溶解したレンガ造りの釜が残されている。■岩手日報2019年12月13日「三陸ジオトレインの旅/8/上鹿折駅・鹿折金山跡」(資料館で頂いたもの。以下要約)気仙沼駅前の停留所からBRTで上鹿折駅までは、一般道を走る民間バス会社路線をBRTとして運行。最終停留所の上鹿折駅で下車、徒歩30分。大船渡線の鉄橋をくぐると、真新しい鹿折金山資料館が見えた。館長の中村敬二さん(81)の案内で、裏手の鹿折金山へ。林道を20分ほど歩き、4番坑口跡と事務所跡。坑道は鉄枠フェンスでふさがれ、奥には水が溜まっていた。さらに林道を10分ほど上り、2番坑口跡に到着。ここからモンスターゴールドが産出。下山し資料館で中村さんの話に耳を傾ける。1887年(明治20)に曾祖父亀治さんが金鉱脈を発見、以来祖父、父の3代にわたり採掘の現場を主導してきた。4代目の中村さんは、「ここはほとんど手掘りで周りの金山と違って大きな機械が入っていない。もしかすると手つかずの鉱脈が残っているのではないか」と力強く語る。(報道部・佐藤渉)【解説】鹿折金山跡鉱脈は約1億2千万年前に起きた火成活動により、マグマや熱水が周辺の地層の割れ目に沿って流動、生成された石英脈。玉山、大谷の両金山とともに奥州藤原氏の黄金文化を支えたと伝えられる。明治初期から本格的な開発が始まり、一時期は1トン当たり200グラムの金を産出したが、次第に減少し1971年に閉山。2002年に資料館が開設された。【おすすめスポット】金山神社の岩塩と黄金水/邪気を清めるパワー資料館に隣接する金山神社には、モンゴルから贈られた世界最大級の岩塩が祭られている。自由に触れることができる。重さ1.5トン、世界遺産に指定されているモンゴルの岩塩産地ダブスト山から切り出された。邪気を浄化する力があるとされ、手についた塩をなめると、海の塩と違うほのかな甘みがあると評判だ。2005年愛知万博の同国ブースで展示され、終了後に引き取り先を探した結果、モンスターゴールドのセントルイス万博(1904年)出展の縁で寄贈された。金山神社そばには金山から湧き出る「黄金水」を汲める水道も配置。鉱床で育まれたカルシウム豊富な水。昔から飲用に使った中村さんは、家族では不思議と誰も骨折したことがないと効果を実感。その場で飲む場合は無料、持ち帰りは500円。■関連する過去の記事 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)
2021.05.03
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