奥羽越列藩同盟の盟主として朝廷に反旗を翻した皇族がいた。戦いに敗れ朝敵の苦汁を喫し苦悩の日々を送りながらも、その戦死は多くの国民が悼んだ。その皇族は、輪王寺宮能久(よしひさ)法親王である。
輪王寺宮は、伏見宮の第九子として生まれ、仁孝天皇の猶子(養子)となる。後の明治天皇の叔父にあたる。安政五年に宮は勅命で輪王寺宮の後継者に任ぜられた。輪王寺宮とは、後水尾天皇の皇子が賜った称号で、輪王寺は日光と上野にある天台宗の寺。歴代の山主は、徳川菩提寺の寛永寺(上野)に常住し法親王が務めている。能久法親王がその最後の輪王寺宮となったわけである。
さて将軍慶喜は朝廷に恭順の意を示して、寛永寺で謹慎していたが、官軍の進撃はやまず江戸も戦禍の危機にさらされていた。そこで、輪王寺宮は、幕臣の願いをうけて、慶喜への寛大な処置を求めるため朝廷に赴こうとし、駿府まで進攻していた東征大総督の有栖川宮と面談する。
有栖川宮といえば、ニセ宮家事件で有名になってしまったが、明治期までの政治に勲功のある由緒ある宮家だ。有栖川宮第九代熾仁(たるひと)親王は、維新の軍人として活躍し、元老院議長も務めた人だ。このとき徳川には強い私怨を抱いていた。後に徳川家に降嫁した和宮との婚約が内定したのに、幕府の強引な要請で破談とされたことに由来している。
京に上って天皇に直訴しようという輪王寺宮に対し、有栖川宮は激しい口調でその愚を罵り、江戸に戻るよう迫った。強大な軍力を背景にした有栖川宮の姿勢に、輪王寺宮は江戸に戻る。やがて朝廷内部にも、和宮や輪王寺宮の動きを認め、慶喜の恭順を受け容れる意見も増えていった。そして、江戸城無血開城が実現する。
慶喜は寛永寺を去り、水戸に謹慎される。輪王寺宮と側近が抱いた、有栖川宮と官軍の傲慢で非礼な態度に対する憤りはおさまらず、ついに、官軍との戦に至る。慶喜の警護から輪王寺宮の守護の役割に変質した「彰義隊」が、ここで登場するのである。
しかし善戦するも、近代装備の官軍に半日で壊滅。輪王寺宮は山を下り、根岸、三河島、尾久、浅草などを逃避行し、奥羽に入る。東北は、幕府に忠誠を尽くし官軍に対抗しようとしていた。宮は会津、米沢、仙台を転々とするが、各藩から盟主就任を強く要請され、宮は「薩長両賊追討の令旨」を発する。はじめは象徴的意味での盟主を受け入れる考えだったが、やがて白石城での列藩会議では、軍事を総括する決意も抱くようになっていた。「朝敵」となる一大決心である。
列藩は官軍の猛攻に降伏し、宮のその後の運命も過酷だった。やがて謹慎を解かれるが、皇族で朝敵となった苦悩は消えず、有栖川宮家での生活という屈辱も強いられる。
その後、北白川宮を継ぎ北白川宮能久となる。ドイツ留学を許され、帰国後は陸軍中将など軍の要職を務めるが、日清への従軍を嘆願しても許されなかった。大本営参謀総長にあった有栖川宮が認めなかったのだ。有栖川宮の死後は、やっと従軍がゆるされる。そして台湾の戦場で病死するのである。
以上は、吉村昭『義彰隊』(朝日新聞社)で描かれた輪王寺宮の過酷な人生である。
(住友生命のスミセイベストブック2006年4月号を参考。なお、このブックレットは「自己変革を応援する住友生命の本の情報誌」なのだという。私、この保険会社に20年近く契約しているけど、初めて見た。他の人が外交員からもらって捨てそうになったのを、面白そうなので読んだ、というわけ。)
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