仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.08.27
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カテゴリ: 仙台
郡山遺跡の概要を辺境支配の変遷の見地から整理。遺構の概要は省略し、多賀城以前の同遺跡の存在意義を中心に。

1 時代概要(地方支配制度)

大化の改新(645年)を出発点に大宝律令の施行(701年)で律令制国家が完成する。

地方支配制度は、大化の改新で従来の国造制から、国評(こくひょう)制に転換される。国造(くにのみやっこ)制は各地の豪族を任じたのものだが、国評制は、国と評の二段階の支配組織で、国造のクニを分割再編して評を置き、その上に国を設けた。評には評督、助督などの役人を置いて、国造など有力な地方豪族を任じ、国には中央政府から国宰という役人を派遣した。地方豪族の上に中央から派遣された国宰が常駐することで中央集権を強めた。

国評制は評が国より先に設置される。649年に全国に一斉に評制施行が開始される。まず国造のクニを評に転換し、次いで653年に評を分割して新らしい評をもうけ、評督・助督を任命。このときの評が、後の郡の前身を形成している。全国の国造のクニ数は120、8世紀初めの郡の数は555なので、評制の転換で支配単位が細分化されたことになる。

国の設置は評制に遅れて行われ、地方によって遅速がある。

大宝律令で国評制が国郡制に代わり、評が郡に代わり、国司と郡司という役人を設ける。国評制の国宰が国司に代わり、評督・助督は、郡司の大領(長官)・小領(次官)に代わる。

2 陸奥国の状況

全国の国造名を記す『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、大化改新以前の陸奥の国造は10である。

 これら10の国造が置かれた陸奥では、全国と同じく649年、653年の2段階で11の評が設置される。それを受けて、653年から654年頃に陸奥国が設置される。国名は「みちのおく」と読み、古くは道奥とも表記。
 陸奥国と越国の以北は蝦夷の居住地域である。この時代の両国の北限は、太平洋側(陸奥)は、現在の亘理町、角田市など阿武隈川以南、日本海側(越)は渟足(ぬたり)柵を最前線に新潟平野南半分以南。山形県地域(後の出羽国)はまだ組み込まれていない。

3  郡山遺跡の概要

 新旧の遺構が重複している。1期官衙(学術上ローマ数字を用いるがブログ表記上アラビア数字に。)は7世紀中頃から末。2期官衙は7世紀末から8世紀初めの多賀城建造(724年)までで、郡山廃寺が付属。藤原京(694年-710年)をモデルにしたとみられるが、飛鳥時代の都と共通点も。
 2期官衙の政庁の後庭にある石組池は古代遺構に珍しいが、飛鳥の石神遺跡に類似の石組池(7世紀中頃、斉明天皇時代)がある。『日本書紀』では657年から660年に蝦狄が都に参上し須弥山の園池で服属儀礼をしたとあるが、それが石神遺跡の石組池である。
 蝦夷の服属儀礼は701年の大宝令を境に様式と性格が変わっている。7世紀の服属儀礼は呪術的性格が強い。斉明朝の服属儀礼がこれ。仏教で須弥山は世界の中心であり、儀礼は、天皇に服属を誓約する意義がある。
 天武持統の時代には蝦夷の服属儀礼は飛鳥寺の西の斎槻(ゆつき)の広場で行われる。斎槻は神が降臨するケヤキであり、神に服属を誓約した。これが700年まで続けられた。藤原京遷都(694年)の後も飛鳥で呪術的な服属儀礼が行われていたのだ。
 701年からは、蝦夷は元日に大極殿・朝堂の朝賀に参列して服属を誓約するようになる。朝賀は、臣下が毎年元日に天皇に拝礼する儀礼で、蝦夷もこの一般的な服属儀礼に参加するようになった。
 園池での服属儀礼は神に誓約する神聖で呪術的なものだから、池は、水に入って身心を清めるために用いられたと思われる。郡山の石組池も、この呪術的な服属儀礼のミソギに使われたのだろう。つまり、政庁後庭は、飛鳥の須弥山の園地や斎槻の広場と同様の意義があったのだ。

4 郡山遺跡の性格

 地方官衙には、国の官衙である国府、郡の官衙である郡家(ぐうけ)、蝦夷の地に設ける城柵などさまざまあるが、郡山1期官衙は城柵、2期官衙は陸奥国府、と考えられる。



○参考:花登正宏編『東北-その歴史と文化を探る-』東北大学出版会 2006年、「2 郡山遺跡の時代」(今泉隆雄)

 ■関連する過去の日記
  ○ 多賀城の基礎知識(前編) (06年8月7日)
  ○ 多賀城の基礎知識(後編)
  ○ 郡山遺跡が国指定史跡に (06年8月24日)





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最終更新日  2006.08.27 07:49:19
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郡山官衙について  
テイエム さん
郡山遺跡について興味深く読ませて頂きました。また

勉強になります。どなたか専門家の方でしょうか?
1000人の名取軍団が郡山周辺にどのように駐屯していたのかとか、西多賀の多賀神社(式内社)が旧東街道沿いであり官衙の西約一里の位置にあって笹谷街道にもつながっており、2期官衙の時代から現在地にあったのではないかと勝手に推測したりしています。ご指導願いたく思います・・・。
(2009.06.13 10:02:02)

Re:郡山官衙について(08/27)  
テイエムさんコメントありがとうございます。

もちろん全くの素人でありまして、ただ、この地は昔はどうで、自分につながる祖先達はどうしていたのか、に関心がありまして、勉強したことを整理したりなどいたしております。

特に古代の東北は文献も少ないので、近時の発掘で新しいことが次々と分かって来ているのが、大変興味深いですね。 (2009.06.13 12:49:41)

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