仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.06.10
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カテゴリ: 仙台


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松森城は鶴翼の形から鶴ヶ城とも呼ばれています。頂上の平場は本丸跡、西側の平場は二の丸跡と言われ、北側は岸壁になっている山城です。
戦国時代に国分盛顕がこの地に移り住み、最後の城主17代国分盛重が天正の頃まで居住しました。盛重は伊達晴宗の5男で政宗の叔父。慶長元年(1596年)の国分氏没落後は伊達氏の重要な城となり、江戸時代には仙台藩の正月行事「野初」の舞台となりました。
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鶴が丘と松陵の両団地に包囲されて残された丘陵地が松森城跡である。

富谷から東に伸びる丘陵地は岩切洞ノ口で沖積平野に没する。その周辺には伊達上野築造とされる化粧坂城跡があり、やや西にある東光寺は東光寺城跡遺構とされる。さらに西の高森山は伊沢将監家景以来の留守家居城岩切城跡がある。松森城は、東西に留守と国分の境を成す要所であった。

標高70メートルの頂部を削りだして2つの郭(平場)を造っている。東郭は高くて広く東西50メートル、南北100メートル。西郭は低くやや小さい。南面から見ると、この両郭はさながら鶴が左右両翼を広げて羽ばたく姿に似ており、また戦法上で言う鶴翼の陣の構えとなっている。

宮城郡33郷を領した国分盛重が小泉村から松森に移り、たびたび岩切城主の留守氏と戦う。二の丸には盛重の重臣の高平大学が住んだという。城郭南麓には水濠が作られ町屋も形成されたそうだ。


また岩切の街道沿いの西に稲荷館跡があり、兵藤一族に関係するとされる。兵藤大隅は元和、寛永の頃の今市開墾の祖で、耕田寺に墓がある。

県道泉塩釜線も今は免許センターやスポパーク松森を通る堂々とした直線道路だが、以前は岩切東光寺から台が原を通って丘陵南麓沿いに七北田まで通る細い道だった。根白石多賀城線と呼んだのかも知れない。この古い県道は鶴ヶ城跡の南を通っているのだが、さらに並行して一本北側、つまり城に近い道路があり、この辺が昔の町屋だったのだろうか。

■参考 吉岡一男監修『新・仙台の散策 歴史と風土をたずねて』宝文堂、1990年





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最終更新日  2007.06.10 08:52:25 コメントを書く
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