仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.12.01
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カテゴリ: 仙台
明治15年9月7日午前11時過ぎ。仙台城二の丸から黒煙が上がる。鎮台本営に使っていた建物が倒壊すると火の粉と煙が空高く舞い上がった。火元は台所の萱葺きの建物で当時は軍隊の鉄工場であった。武器庫所属の兵士2人が9月9日の榴岡兵営の軍旗祭で揚げる花火を製造中に火薬に引火させてしまったのが原因。市中の消防組、警察署、工兵隊などが懸命に消火に当たるが、付近の池はたちまち干上がった。営倉から解放された囚人18人も消火作業を手伝った。火薬庫が危険との声が上がり、川内地区の住民は逃げ惑った。

12時30分頃には鎮火。この火事での焼失建物は17か18棟。旧二の丸の9割が灰になった。二の丸の建物は二代藩主忠宗が寛永16年に築いた。文化元年(1804)の落雷で炎上したため再建している。これで本丸と二の丸が姿を消してしまった。

慶長年間に政宗が築いた本丸の建物と石垣の一部は、明治6年、陸軍によって取り壊されている。壊された本丸大広間は、聚楽第を範とする壮麗なもので、本丸門内は藩士も自由に出入りできなかった。

この本丸と二の丸は戊辰戦争で仙台藩が降伏後、明治4年10月までは仙台藩、その後は仙台県の所有だった。11月に東北鎮台本営により、鎮台すなわち兵部省(陸軍省の前身)の所有となる。さらに、明治6年1月、陸軍省達で諸国存城調書記載の城郭は改めて陸軍省所管となった。この調書では、仙台城は現今城郭ナシとされていないから、明治5年に本丸はあったのだ。

伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志補修編』に引用されている大槻文彦『仙台城本丸御殿記』によると、明治7年陸軍省にて悉階(ママ)(ことごとく)撤去されたと記す。明治9年に天皇が天主(ママ)台から仙台市街を一望したとき、仙台城を破壊した経緯を聞き、失錯(あやまち)ナリと嘆いたという(前出大槻)。

明治7年3月5日付けで、元公儀使(他藩では留守居役)の大童信太夫が富田鉄之助(当時ニューヨーク在勤副領事)に宛てた手紙の下書きでは、大童は仙台に10日間居て1月東京に戻ったが、青葉(城)は枯落感慨ただならず、鎮台兵営となり、榴岡松木壇に新たに建築中の鎮台兵営に兵卒引移りの後は古城跡は狐狸猛獣の営となろう、三百年前の復古無し、と。

これらの文献から、本丸は明治6年から7年にかけて陸軍により取り壊されたとわかる。

既に本丸が失われたことに加えて、二の丸の炎上である。旧藩士で仙台の大久保彦左衛門を自称する沼澤与三郎が堤通(上杉一丁目)の自宅から駆けつけて、伊達家累代の居住した仙台城が一片の煙と化すか、残念、心魂ともに焼かれる思いなりと泣き叫びながら地面をのたうち回り、吹き出した野次馬を蹴倒する気迫に周囲は圧倒されたという。

本丸、二の丸を失った仙台城は、大手門などごく一部を残すだけとなった。その大手門も、昭和20年7月10日の空襲で焼失するのである。






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最終更新日  2012.12.01 19:08:44
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