仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.03.28
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カテゴリ: 東北
■前回  東北の旧石器時代 (2016年3月6日)

1 環境変動と東北の適応行動(1万8千年前から7千年前まで)

旧石器時代から縄文時代にかけて、環境は大きく変わった。1万年前の更新世から完新世への移行期の気候変化は大きく、短期間で気温が上昇した。日本列島でも海水準があがり降水量が増加した。この中で人類は定住生活を採用し、地域性が形成され現代社会に繋がっている。縄文時代への移行は温暖環境への人類の適応行動と捉えられる。

1万8千年から1万6千年前頃は、現在より気温は4から5度低く降水量も少なかった。津軽海峡は存在したが、一時的に凍結した海面を歩いたのか航海技術を持っていたのか、湧別技法という細石刃製作技術を持ち北海道から渡ってきた人たちがあった。シベリアを含め東北アジアに広く分布する石器群であり、北方系細石刃石器群と呼ばれる。

北方系の人々は主に利根川流域以北の東北日本で暮らした(分布範囲はサケマスの遡上地域に一致)。石器のほとんどは東北日本海側産の頁岩であり、定期的に長距離を移動して産地に戻り石器を補給したのだろう。各地の石器は器種が共通しており、狩猟のための骨角器づくりや皮なめしの道具として使用された。人々は動物を追って移動していたが、新潟県荒屋遺跡は竪穴住居状遺構や多くの土坑をもち、繰り返し遺跡が利用された証である。オニグルミなどの堅果類の採取や火の利用もみられた。

東北地方には、北方系のもう一つの石器群である白滝型細石刃核であり、打面に擦痕があるのが特徴。山形県湯ノ花遺跡では北海道産の黒曜石が含まれていた。

1万6千年から1万4500年前、最古の土器が出現する。青森県大平山元1、赤平(1)など。文様がなく平坦な口縁と平らな底をもち、煮沸用と考えられる。この頃、気候は依然として乾燥、冷涼であった。

1万4500年から1万3千年前は気温が2度ほど上昇し降水量も増加する(ベーリング/アレレード期と呼ばれる世界的な一時的温暖期)。本州から四国九州では、隆線文土器が主体となり、遅れて爪形文土器に徐々に替わっていく。北海道と沖縄を除き土器文化圏が形成された。



しかし、1万3千年前から1万2千年前、再び寒冷で乾燥した時期になる(ヤンガードリアス期と呼ばれる寒の戻り。日本への影響は比較的小さいとされる)。この時期の初期は爪型文土器、やがて縄による文様があらわれ、押圧施文から回転施文に変化し列島規模に広がる。関東以南では竪穴住居跡が確認される。狩猟具は石鏃が主体となり、宮城県野川遺跡の石鏃には、弓矢の突刺の結果と思われる縦断の破損がある。秋田県岩瀬遺跡では石匙が出土し、イネ科植物を切断した使用痕が確認されている。石核が集積された非住居遺構が各地でみつかり、回帰的使用を前提に設置された道具箱であろう。

1万2千年から1万500年前、気温は再び上昇し海水面もあがる(冬季降水量はまだ増えない)。東北地方でも関東以西と同様に竪穴住居が出現する。青森県櫛引遺跡、岩手県上台1など。東北の土器は、多縄文(回転縄文)から薄手無文の平底土器主体に変化する。石器では、狩猟具は石鏃にほぼ限定され、石匙はまだ多くなく、スクレイパー類が多い。櫛引遺跡では網漁に使われた石錘が出土。この時期になって、やっと狩猟、植物採集、漁労の生業が組織的に開始されたと評価できる。

1万年前から以降、気温は7千年前をピークにどんどん上昇し、最終的に現在より1から2度高い気温になる。約8500年前からは、対馬海流の日本海流入により冬季降水量もあがり、日本海側の多雪化をもたらし東北地方でもブナ林が成立する。土器は撚糸文や押型文が主体で、尖底が一般的になる。竪穴住居は後半になると長軸10メートルにも及び(青森県中野平遺跡)、定住による大型化といえよう。気候変化で堅果類利用にも変化があり、クルミなどが出土。これに連動して敲石や磨石などの礫石器も増加し、石匙も増加した。関東東海では貝塚が形成されはじめるが、東北地方では認められない。

東北南部の住居数は、1万年前から7千年前までの間徐々に増加するが、東北北部では8500年前頃にピークを迎える(一つの遺跡で10棟程度)。7千年前以降には、一遺跡数十棟と集落規模の拡大があった。植物利用では、クルミに加えてクリも増加する。縄文前期には三内丸山でクリ主体への移行が確認される。

8500年前頃から沿岸部で石錘が増加。北海道南西部も同様で、北部東北と一つの文化圏を形成し、その後の縄文時代前期中期の円筒土器文化につながるものである。また、貝塚も増加し、沿岸部への住居域が拡大する。集落間の住居数の格差も少なく、階層化社会には至らなかったと考えられる。墓域の形成もなく、土偶や祭祀的遺物も少ない。

2 縄文土器

東北地方の縄文時代前期・中期は大きく2つの土器形式からなる。南部の大木式土器と北部の円筒土器。円筒土器は、北緯40度付近を南限に北海道石狩低地帯に主体的に分布する。

縄文時代早期の尖底土器は厚い底を持たない分、持ち運びやすい。移動生活での効率的な煮炊きに適する。前期になると、関東地方で平らな底の土器が登場し、東北でも同時に、不安定ながら平底化する。その変化に呼応するように、器面は多様な縄文原体で飾られるようになる。

前期後半になると、繊維土器からの脱却(大木4式)、粘土紐による加飾化の開始など東北地方独特の個性の発揮が特徴となる。山形県押出遺跡では、住居の木柱が並び、漆の精製に使われる要具として大木4式土器が出土していることから、漆の乾燥作業に不可欠な高湿度を求めて、あえて大谷地の低地に平地式住居からなる集落を作ったと考えられる。

大木5式になると加飾化はさらに進行。大木6式になると、球胴器形や長胴器形が特徴。南は伊豆諸島八丈島や北陸方面に搬出され、北はそれまで影響関係が乏しかった円筒下層d式の一部にも取り入れられる。前期末は、北陸の土器が東北日本海側で、関東の土器が南東北で出土することも多く、広域的な動きが活発化した時期である。

中期には、大木式も円筒上層式も器種が増加し、食物資源が多様化している。大木7a、7b式のあと、8a式は加飾化のピークで、福島県域で特に資料が充実。円筒土器のピークは上層b式。大木8aに並行する円筒上層e式のあと、大木8bのB類型と器形と文様帯を共有する榎林式に引き継がれ、東北北部まで大木式系土器が拡大する中、円筒土器は終焉する。



3 土器の変化にみる縄文社会の姿

(縄文時代の時代区分について)
(草創期)、早期、前期、中期、後期、晩期

総体としてみると、中期にかけて加飾化が進み、その後、後期に向かって器種の文化と実用化の方向がある。加飾化は大木8b式で一気に収束に向かい、文様のバリエーションも少なく斉一性が高くなる。

文様の流れを概観すると、当初は隆帯、沈線、隆沈線を問わず線描によって直接的に刻んだり貼付していた。大木3式にはじまり8a式で頂点。ところが、8b式の半ばから沈線間の磨り消しが始まり、隆帯の連結が増し、囲まれた領域は区画化する。9a9b式では隆帯、沈線の表現が徐々に欠落し区画のみが顕在化するに至る。つまり、直接線で表現する手法から、中抜き文字のように、区画による図像表現手法に転換している。やがて区画は、アルファベット的な様々な形に変化していく。



このように器種の文化と文様の変化のある中期後葉の考古資料の総体をみわたすと、拠点的な大規模集落が点在し遺跡数も増加する中、呪術や儀礼に関わる土製品、石製品が多様化し、複式炉が成立する。関東中部では、敷石住居がさかんに作られ、後期には配石墓が出現する。

想像の域だが、これは縄文世界に起こった何らかの不調和への生態的精神的な対応であり、それを調整・修正するための装置とも考えられる。

土器形式は一定の地域で似通った特徴を持ち、時間の推移の中で同様な変化をたどる。なぜ、そのような減少が起きるのか。それを考える前提として、土器づくりを担うのは古今東西女性が多い。この前提からすると、女性が結婚によって移動して故郷の土器を作る結果、土器が斉一化するとの仮説が支持されてきた。しかし、土器の文様表現の転換や器種多様化などの変化が、呪術具の増加、住居や炉の変化などの転換の時期と類似する現象も総合的に考察すると、女性が婚家で作るとの仮説だけで斉一性が起きるとは考えがたい。

さらに、縄文時代は、植物質食料に依存し、平和を維持して政治的統合が低い社会であり、このような社会では妻方居住婚が多いとされる。これは抜歯研究やミトコンドリアDNA解析などでも否定されない。さらに、結婚後の居住形態は妻方夫方の二重居住が平安時代末まで続いた(鎌倉時代にようやく父系直系家族)とされることからは、妻方居住婚を含む形態が縄文時代にも存在したとも考えられ、前提自体が成り立たない。

土器の作り手が移動しないのに一定の地域の土器が似通うのは、土器文様が集団間の区別を意識した積極的な役割を担っていた可能性がある(北米先住民の衣服やトーテムポールの文様、アイヌ文様が部族の神話の記憶装置であったように。)

土器の搬入、製作者の移動などが考えられるが、関東甲信越に対して東北地方は土器形式の系統性が強く、胎土のバリエーションが乏しいのは、製作者集団の系統が世代を超えて錯綜しなかったからでないか。一方で、北緯40度を越えて大木式は円筒土器文化圏へ、円筒土器は北陸へ到達したことから、相互の交流は活発だった。交易を担う男性の動きを反映したものだろうが、大木8a式までは従来の系統を突き崩すまでに受容はされなかった。やがて、大木8a式末から8b式の土器の南への大拡散が起こり、大木式は積極的に受容される。これは、通常動きにくい土器製作者を含めて大規模なムラ単位の移動が繰り返し起こっていた可能性がある。寒冷化や何らかの外的要因か。

一万年を越える縄文文化の中で、大木式と円筒土器の緩やかな形式変化は、関東や中央高地の多様な土器形式に比較して、人口密度や集団間の交流頻度の差などが予想されてきた。ミトコンドリアDNA分析では、関東に比べて東北北海道は地域集団の系統が複雑ではない予想を支持している。そして、穏やかな東北の土器が大量に関東や中央高地に大量に南下したことの意味は大きい。今後の実証的研究の進展に期待。

■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年 を参考にいたしました。
(鹿又喜隆氏、水沢教子氏の執筆部分)





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最終更新日  2016.03.30 21:56:40コメント(0) | コメントを書く
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