仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.05.30
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カテゴリ: 国政・経済・法律
藤田宙靖「覚え書き - 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」
(第一法規『自治研究』92巻2号(通巻1104号、平成28年2月)pp3-29)

以下は当ジャーナルにおいて要約整理したもの。なるべく原文の表現を生かしたが、縮約する上での論理展開の明確さなどのため、一部で用語を置き換え、或いは語句を補っている。

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1 問題の所在

昨秋189通常国会で成立した新安保法制とりわけ集団的自衛権行使は、政権が憲法9条改正手続を取らず、内閣法制局に解釈変更させた上で、政府解釈の閣議決定を行い、改正案を国会に提案したものだが、これは多くの憲法学者にとって言わば想定外。従って、この事態を阻止するための憲法理論が前もって十分に積み上げられたとは言えないだろう。

それだけ、「立憲主義」を前提とする憲法学者の想定を越える「非常識」な政治行動だが、しかし、 それが実定憲法に反するかの法規範論理上の問題 は、それとは別に、そして正に実定法学としての憲法学が詰めるべき点だ。憲法学者の9割が違憲を主張することが重みを持つというのは、(数が9割だからではなく)専門家として理論的かつ詳細な検討の積み重ねの上に表明する見解であることが前提にあって初めて言えることだろう。

とすると、行われるべきことは、
事態(1) =内閣法制局による従来の政府解釈の変更
事態(1a)
事態(2) =政府解釈(現行憲法で集団的自衛権行使は不可)を変更した閣議決定
事態(3) =改正法案の国会提出
の国家行為 がいかなる意味で憲法に違反するか、明確で精緻な理論的説明 である。

ところが、憲法学者や法制局長官OB等のこれまでの説明は必ずしもそうではない。その一因は、 実定法解釈論の大前提たるべき法規範論理上のルール(公理)を踏まえた理論的展開がなされていない から。

2 議論の出発点に置かれなければならない法解釈論上の「公理」

公理とは以下の通り。

(1)法解釈である以上、仮に従来の解釈が誤っていれば改めるのは当然。 変更が許されないということは法理論上あり得ない 。(むしろ、誤った解釈を認識しながら放置すれば憲法違反とも。)従って、 解釈の変更が許されるかは、従前の解釈が誤っていたか否かの点に(のみ)掛かるはず

内閣が内閣法制局の見解に法的に拘束される法理は現行法制上存しない

(3)憲法法規の内容について国家としての最終判断権は最高裁に属すから、他の国家機関の解釈は暫定的なものであり、ましてや 内閣を補助する内閣法制局が憲法の守護神であるはずがない 。この意味で、「解釈改憲」の語は誤解を招く。内閣や内閣法制局の憲法解釈が誤っていると考えれば、立法府は政府提案の法律を成立させないことが可能だし、立法が違憲と考えれば裁判所が無効を判断できる。(閣議決定をもって改憲行為や法の破砕行為とみる(石川健治)のは規範論理的に誤り。)

これら(1)(2)(3)は何ら立憲主義に反せず、むしろ忠実。そして、これら枠組との関係で見る限り、上記1記載の 3つの事態 は理論的に悖るところはない。安倍総理が憲法違反はないというのも、まさに理論的根拠がある。

3つの事態 において 何故にこれら公理が適用されないのかを理論的に明確にしなければならない 。以下に順次検討。

3 「公理(1)」に関して

仮に間違った解釈だとしても、一度確立した解釈の変更は許されないということが、いかなる理由のもとにあり得るのか。違憲とする見解がこれまで挙げた論拠は、憲法によって縛られる政府が自ら従来の憲法解釈を変更するのは立憲主義に反するという理屈。しかし、 それだけでは余りに粗雑 だ。

国家権力を抑制するための法規の内容を、拘束される側の国家機関が自らに有利に(拘束緩和の方向に)解釈変更することが許されるかの問題は、行政法では例えば、課税要件の解釈を重課に変更する通達が租税法律主義に反する「通達課税」にならないかとして、古くから議論の積み重ねがある。

すなわち、本来の法規範論理からすれば、行政機関の法解釈である通達は対国民、対司法では一切拘束力を持たないから、新通達に基づく課税処分の適法性は、すべて、法律の規定自体の解釈如何に係るのであって、通達とは無関係に国民は課税処分の違法性を争うことができるし、裁判所は自ら考える解釈に基づいて判断できる。とすれば、通達の変更とそれに基づく処分自体が違法となる理屈は本来ありえない(公理(1))。ただし、旧通達を前提に経済活動をしてきた納税者に及ぼす事実上の影響が大きいから、納税者の信頼保護の見地から、法的効果に(例えば信義則を引いて)何らかの制約をかけることが理論的に(どこまで)可能かが問われる。ここで重要なのは、本来、租税法律主義(法律による行政の原理)の中には、行政庁が予め一般的抽象的に定められた法律に従うことによって国民の信頼保護(法的安定性)と民主的正当性が担保されるという構造が存在することが大前提とされていること。従って、問題は、この基本原則を貫くこと自体が逆に信頼を破ることになるケースがあり得ることを(いかなる場合に)認め得るかに存することになる。最高裁は、まずは租税法定主義の遵守を出発点にして、納税者の信頼保護を個別的に図るという解決方法を選択している。

租税法定主義と通達変更の関係を、立憲主義と憲法解釈の変更に相応して考えれば、行政法学(租税法学)では公理(1)の例外を上記のように理論的に導いているのであり、 政府の憲法解釈変更もそれが本来可能であること(公理(1))を明確に認めた上で、例外が認められる場合と理由を詳細に詰めなければならない 。行政法の世界では、例外を認める根拠は国民一人一人の信頼保護だが、憲法9条の政府解釈の場合は直接そのような理論的構造にはない。従来論拠とされる「法的安定性」は、誰に対するいかなる意味の保護なのか。 憲法尊重義務を負う国家機関が自ら誤った解釈を正しい解釈に改めようとする(まさしく立憲主義に忠実な)所為を制約するほどの「法的安定性」とは、具体的にいかなる要請か明確にすべき だ。

この点、長谷部教授は、従来の政府解釈を一内閣が勝手に変更するのは 「法的安定性」を害する とした上で、この 「法的安定性」の意味は、政府解釈に対する信頼が揺らぐ (その内閣限りの考えに過ぎないという不安感を与える)という。規範論理的意味が理解しにくい主張だが、さしあたり3通りの理解の仕方が考えられようか。

(a)政府が一度憲法解釈を示すや、直ちに不可変更的効果が生じる。(政府の憲法解釈は、現在又は将来の国民や諸外国を名宛人として約束したもので、これを改めるのは合意は拘束するという近代法の根本原則に抵触する。石川健治)
 --> しかし、国家機関が一度行った行為を自ら変更できないというのは、裁判判決の自縛力のように特別の任務を与えられた場合に限られる(なお判例変更が認められる)。契約にも、例外的に事情変更法理がある。

(b)従来の政府解釈は、ある内閣が一時点で示した(可能な中の一つの)解釈というにとどまらず、長期にわたり広く承認され、それに基づいて法的社会的に一定の秩序が形成されてきた。(内閣法制局長官OB達の指摘。阪田雅裕。確立した憲法解釈で、憲法習律といっても良い(宮崎礼壱)。従来の解釈が9条の規範として骨肉化(山口繁)。)
 --> 一定の説得力あるが、事実の積み重ねによる正当化は、規範論理的には限界が残る。例えば、前提状況が全く異なった場合にも変更が許されない(法的安定性が国民安全確保に優先する)のか。また、仮に解釈が行政府立法府の一種の内部規範になっていたとしても、直ちに憲法9条の内容そのものになっていたというためには、理論的根拠が不足する(司法部の判断は全くなされていない)。とすれば、従来の解釈は、通達のように一般的に内部ルール化されたと考えるべきであり、行政府立法府が自らこれに反する行動を取ることは法的安定性を自ら破壊すると言えるとしても、 直ちに憲法の規定の意味するところであるとの論理を導かない 。(例えば、このような拘束に反した法案が国会で法律として成立した後に、 司法が法律の合憲性を審査する場合、上記の事実から当然に司法独自の憲法解釈を禁じられることにはならない だろう。)

(c)「法的安定性」とは実は、従来の解釈こそが内容的に正しく、新解釈は誤りであるという実体的判断が既に前提にされている。(変更後の解釈が憲法9条の下では許容されないから、閣議決定でなし得る範疇を超えた措置であり、内閣の権能を越えたもの。大森政輔)
  --> とすると、 結局、旧解釈は誤った解釈かという(後述の)問題に帰着することとなる 。違憲の論の主張の趣旨を推し量るならば、 (主張される「法的安定性」の実体は;おだずま注) 実質的に、 国会における審議の積み重ねで確立した政府解釈には、正しい解釈であるとの推定が働く、或いは、それを誤りという場合にはそれなりの十分な立証が必要である、という主張 として理解することができるかも知れない。

4 「公理(2)及び公理(3)」に関して

内閣法制局が憲法の守護神というのは誤りだが(上述)、そうした主張の根源は、抽象的違憲審査が認められていない我が国では成立した法律の違憲を裁判所が判断する可能性が実質上極めて限られているところにあると思われる。加えて最高裁の従来の考え方では、安全保障については統治行為との判断を受ける可能性が大きい。 この意味で内閣法制局が事実上護憲の砦として機能せざるを得ないという現実は否定できない 。とすると、制度的制約を踏まえた上で、 内閣法制局に行為規範の内容を法理論上論じることは可能かも知れない

例えば、内閣による憲法解釈変更に際しては法制局見解を踏まえる法的義務がある、法制局の憲法解釈変更に際しては最高裁判例変更のように手続上の加重要件を求める、などの法理が導けるか。長官の人事に関して何らかの制約(山本一。 おだずま注:「本」原文ママ )も検討の余地あろう。

今回の政府の憲法解釈変更は閣議決定の形式。これを、本来よるべき憲法改正手続回避の便法で権限の濫用から違法違憲とする主張ある(石川健治)。個々の行為は違法でなくとも組み合わされた一連の全体では違法と評価されるのではないかとの問題は、行政法の分野ではしばしば論じられる。例えば、行為形式の選択の自由の濫用(行政手続法適用を免れるため敢えて契約形式)、不当結合(行為の結果もたらされる事実上の結果ないし派生的法効果を利用)。これらは、本来の政策的狙いと選択された法形式との乖離が、広義の権限濫用とされる。とすると、 閣議による憲法解釈の変更と法案提出が、当初9条改正を、次いで96条改正を狙い、それが困難であるため解釈変更の手法を用いたという経緯に鑑みて、改正手続回避の「形式の濫用」として違法(違憲)とできないかの問題提起も不可能ではなかろう (石川の主張)。

ただし、その議論の際には 他方で、一般に行政機関には手段の選択の余地も広いことを踏まえなければならない 。本来法律改正で要件効果を明確に定めるのが望ましい場合でも、従来の法制度の運用で処理できる場合は敢えて法改正を求めない行政手法は珍しくなく、その全てを違法と決めつけることは、ほとんど不可能である。憲法9条についても、自衛権の行使が認められ、自衛隊が軍隊ではないとされてきたのは、まさにこの種の解釈運用によるもの。すなわち、権限の濫用が違法と一般的には言えても、何が濫用に当たるかは 精緻な議論を必要とする 問題なのである。

結局、既存の法制度の解釈運用が許される範囲や余地の如何の問題なのであり、新解釈がその余地に納まるのかという内容の問題に帰着する。 今回の閣議決定を、上記の経緯からのみ権限の濫用として違憲と断ずるのは、規範論理的に粗雑に過ぎる と言わざるを得まい。

5 閣議決定並びに( おだずま注:「並びに」は原文ママ )法案の内容の合憲性について

今回の事態 をめぐる憲法問題は閣議決定及び法案の内容自体が正しい憲法解釈かという実体法上の問題を抜きには論じえない 。この見地からまず検討されるべきは、安倍政権が言う従来の憲法解釈の「変更」とは、理論的には性格に何を意味するか。おそらく3通りの考え方があり得る。

(変更1) 旧解釈(集団的自衛権行使認められない)は そもそも間違っていた ので、これを否定して改めて正しい解釈を行うもの。
 --> 政府与党が砂川判決を引き合いに出して主張するところを見ると、この可能性も全く無いではない
(変更2) 旧解釈はかつては正しいが 現在は状況の変化により誤ったものとなった ので、新解釈を行うもの。
 --> 安倍政権が国際的安保環境の変化を強調するところを見ると、この理論的可能性は明らかにある。(変更1)と解釈置換えの理論的根拠は異なるが、法的安定性は正面からは後退する結果になることは共通。
(変更3) 旧解釈は現在も基本的に誤っていないが、現状により則したように 内容を一部解釈し直す もの。いわば(憲法の内容についての新解釈ではなく)解釈についての新解釈。
 --> 従来の政府解釈(三条件前提とする限り集団的自衛権行使認められない)に対し、今回の閣議決定内容は、三条件は引き継いだ上で、その下でも必要最小限のものであれば集団的自衛権行使も認められる場合があるとしたもの。理論的は、旧解釈の内容を全面的原則的に否定したのではなく、例外的に極く絞られたケースにおいては例外も認められることを言うものに過ぎない。このように置換えでなく修正であればこそ、新解釈が従来政府解釈との連続性が断たれ法的安定性が損なわれるのでないかの問題が生じるのである。

上記の3つの論点が明確に区別されないで議論されているため、違憲合憲の両主張がすれ違い、政府与党の「言い抜け」に利した感もある。 論点を明確に整理し正面から理論的に詰める作業 が法律学者に求められている。以下に考察の結果を示す。

(変更1) について。政府自民党が理論的根拠を砂川判決に求めるのは全く的はずれの議論である(同判決が集団的自衛権行使を排除していないのは問題とされなかったからであって、容認しているのでは全くない)が、その理屈は、(1)9条の下でも自衛権に基づく武力行使は許される、(2)武力行使は国家存立を守るために必要最小限のものでなければならない、(3)その範囲内で集団的自衛権行使も許される、との論理に立った上で、砂川判決は(1)を明確に認めているから、(2)の要件クリアされる限り(3)も論理必然的に導き出しうる筈であるから、同判決は(3)の内容を含んでいると読むべきである、との考え方だろう(特に高村副総裁)。しかし、この理屈は、最高裁判決は具体的事案を離れて一般的に妥当する理論や命題を定立する目的でないことを全く理解しない初歩的な誤りを犯している(石川も)。ただ、最高裁判例のこの性質は学者においてもしばしば十分理解されていないと思われ、高村氏等の砂川判決論を批判する学者の側にも自覚が必要だ。
(なお、今回専ら問題とされたのは、旧解釈から新解釈への変更の是非であって、違憲側の論者において 旧解釈の正しさは大前提とされていた ようだが、憲法学者の中にはその前提自体に疑念を抱くものもある。例えば大石眞は、予てより集団的自衛権は明文をもって禁止されてはおらず、立法経緯に照らしても9条制定に際してこの問題を考慮されていたとは考えられないと指摘する。ごく最近では棟居快行が個別的/集団的自衛権の二項対立的図式を批判して、合憲論は「芦田修正という9条の限定解釈」へ回帰すべきと主張。これら見解に対する違憲論側からの反応は不明だ。)

(変更2) について。旧解釈が国際的安保環境の変化により「誤った解釈」に至ったのか否かが問題。誤っていると主張する側に説明・立証責任があるが、個別的自衛権行使で十分対処できるとの批判に政府が十分説得的な反論できていない。ただし、その判断は基本的に国際政治論や安保政策の問題であって、その判断の適否を法律学の分野でどう取り上げうるかは、それ自体十分な検討を要する困難な問題。

政策的判断の適否をどう法的コントロール下に置けるかの問題は、行政法の分野では裁量処分の司法審査の可能性に関して(とりわけ判断過程のコントロールの視覚から)学説判例上議論が進展。かりに憲法学でもこれに類した手続法的アプローチを試みるならば、「ある政治的判断を行うために不可欠の事項について検討・説明を全く行わない(or極めて不十分な)ままに立案されている」場合に、これを法の問題として扱う余地がないか、が検討されるべきである(最大判平成16.1.14補足意見2を参照。おだずま注:参院非拘束名簿式比例代表制の合憲性に関する。立法裁量を尊重する補足意見1に対して、藤田氏を含む補足意見2は立法裁量の適正行使義務を果たさない場合は違憲判断も可能とする)。

(変更3) について。この適否が、今回の違憲論議で究極的に重要な問題。政府の新解釈が旧解釈の枠組みを大きく踏み越えるものではない(基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない)と言えるか否かが問題の枢要。

ところで「旧解釈」による自衛権発動の要件について、従来の考え方は、
(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること。すなわち武力攻撃が発生したこと
(2)これを排除するため他の適当な手段が無いこと
(3)必要最小限度の実力行使に止まるべきこと
であり(阪田)、集団的自衛権行使は他国防衛であり、要件(1)「我が国に...」を満たさないとして、憲法9条の下で許される自衛権の行使に当たらないとの論理を採用してきた。安倍政権は、この解釈を修正して、要件を絞った上で集団的自衛権の行使も認められるというものに変更するのであるが、その際、「旧解釈」の変更であることを認めつつ、しかしその大枠から離れるものではない(その基本は踏まえたもの)と説明をしている。その理由は、新解釈の下で容認される集団的自衛権行使は、我が国の平和と安全を守るため必要最小限度に限られるから、という。

しかし、要件(3)は武力行使に関わる要件であって、自衛権発動の前提条件に関わる要件ではない(阪田)。従来、集団的自衛権が許されないとされたのは、あくまで要件(1)を満たしていないとの考え方による(阪田)。そこで、自衛権行使が許される場合に関する要件(1)を厳密に考え、1ミリたりとも例外は認められないという考え方を前提とすれば、安倍政権の新解釈がその例外を認めようとするものであった場合には、新旧解釈の間には(量的ではなく)理論的に質的差異が生じていることになる(この点最も明確に指摘は宮崎。集団的自衛権は留保無しに、論理的帰結として否定されてきたとする)。長谷部が新解釈は従来の解釈の枠内では説明できないので許されないというのは、この意味で初めて理解されうる(長谷部の「法的安定性」確保には、先に指摘した点とならび、この意味での法解釈の連続性も含意されていると思われる。内閣法制局OBら(阪田、大森)のいう先に取り上げた主張も、法解釈の連続性という「修正の限界論」の一種とみることもできよう)。

以上から、 問題は新解釈の量的な連続性(安倍政権)があれば良いか、質的連続性も要するか、の点に帰する ことになりそうだが、もう1つ看過できないのは、政府与党の新解釈も原則(集団的自衛権行使は許されない)を全否定しているのではなく、 ごく限られた例外のケースにおいては可能性も排除されないという論理に立っている ことで、これを 理論的に質的連続性欠くものと決めつけうるか の問題はなお残されていると思われる。

まず、集団的自衛権が国連憲章51条に導入された背景等に照らし、自衛のための権利ではなく暫定的に認められた「同盟による私的解決」に過ぎない(宮崎)ことが前提とされるべき(石川は、同盟政策(集団的自衛権)と安全保障政策(個別的自衛権)とでは規範論理的構造が全く違うと指摘する)。その限りで、両者の大きな違いは否定できないが、「密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合」或いは「引き続き自国に対する武力攻撃が確実である場合」にどう考えれば良いかは非常に微妙な問題である。集団的自衛権違憲説を徹底して貫くならば、これらケースでも先制攻撃にあたる武力行使は絶対に許されない、となろう(高見)。論理的にも実際的にも十分理由があるが、ただその場合にも 「先制攻撃」とは何かの問題が残る 上に、一般に法解釈論上、ある原則 におよそ例外は一切認められないという硬直性を欠いた議論は (おだずま注:ママ。硬直性を貫徹した、或いは、柔軟性を欠いた、と換言すべきか。) むしろ稀有なことである 。例えば、公明党は例外の要件を厳しく限定する形で旧解釈の修正を図ったが、一般的にあり得ない訳ではない。元長官の大森も、閣議決定が要件として掲げた「...我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」との要件について、素直に判読するとかなり限定的な表現だと発言している。

しかし、例外を認めたとしても、今回の法律は、 厳しく絞った筈の要件が実質的に底抜けではないかとの問題 が残る。大森は表現上は限定的でありながら(ホムルズ海峡機雷掃海は認められる、自衛隊派遣の地理的制約はない、などの答弁から)新三要件は現実にほとんど制限的作用を果たさないとする。定式化された文言と定式化した政府の意思の間にずれがある(長谷部)ことを問題にする。 換言すれば、法律の文言、立法者の意思、背景など、様々な立法事実の何を重視するかの解釈方法論の問題でもある ということだ。例えば、木村草太が、提案者発言から独立して法案文言の緻密な分析が必要との見地から、閣議決定で解釈変更したと説明されることも多いが、それは憲法論的には取り得ない解釈で、あくまで、ある武力行使が個別的自衛権としても集団的自衛権としても国際法上説明可能な場合に限り許されるに過ぎないと理解すべきと主張するのは、一例だろう。(閣議決定や法案の目的は木村の言う範囲に止まるものではない。安倍政権の解釈変更は、従来の政府見解では個別的自衛権しか認められないから解釈を変更したのである。)

法解釈論として考えるとき、 改正法が集団的自衛権の発動要件とする「存立事態」などの概念が余りにも抽象的すぎて、内閣の裁量判断の余地を広く認め過ぎているように見えることに、どのような規範的意味を与えるか が、何より検討されるべき。意味の確定が不明で無効とされるのは自明だが、有意味な文言で要件効果が定められている場合は単純な問題でない。例えば行政法上、裁量処分に関して法規裁量の概念が学説上生み出されたことからも容易に理解されるが、憲法の分野でも、合憲手限定解釈の手法がある。新三要件が、文言を素直に判読してかなり限定的な表現のはず(大森)と評価しうるものならば、問題は容易でない。 法律制定を阻止するための戦略的な違憲論に止まらず、法案成立後に後始末をどうするのかまで視野に入れた場合には、問題は一層複雑となる 。この点において、「憲法の枠内での法整備を実現させるには、提案者の発言から独立して、法案の文言を緻密に分析が必要で、そうでなければ実際に自衛隊が活動する段階で政府の勝手な法解釈を許し、法治主義による権力統制を不可能にしてしまうだろう」との木村の指摘は、極めて重要と思われる。

6 結びに代えて

安倍内閣の政治的な所作に対する怒りや、法制が真に日本の安全保障に必要かどうかの疑問があるとしても、憲法学が法律学であろうとするならば、政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることはむしろ足元を危うくするものであり、憲法学(者)もルールとマナーを踏まえるべきである。憲法学が何に答えており何に答えていないかを整理する作業だけは、誰かがやるべきである。同じ公法学者としてやむにやまれず筆を執った。

本稿の公表に際しては、当初は日本法律家協会の「法の支配」に掲載を希望。しかし、現職の裁判官検察官を会員とする協会として当面掲載はできない。元最高裁判事という地位の影響力の強さも考慮された結果という。それでは、日本法律家協会と法の支配が泣く。真に情けない話と言わざるをえない。『自治研究』の寛容さと良心に深く感謝。


■関連する過去の記事
安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1) (2016年5月22日)
気仙沼の九条 (2015年9月19日)(安保法案成立に寄せて)
新安保法制と憲法学者 (2015年6月6日)





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最終更新日  2016.06.12 07:55:15
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