仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.08.13
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カテゴリ: 国政・経済・法律
日本では国会や地方議会を軸とした議論と採決による政治過程というものが、議会メンバーを選定する選挙制度の浸透を含めて、いちおう根付いていると思う。欧米やアジア各国と比較して、政治社会学的に、日本人に馴染んだ制度化や受容がなされてきた面もあると感じる。しかし、江戸時代の都市や農村社会の社会学的な状況をひきずった明治維新の時代には、いきなり会議をせよ、意見を述べよ、などと言われても、それこそ混乱の極みだっただろう。

以下、三村昌司「日本の議会事始め」(歴史科学協議会編『知っておきたい歴史の新常識』勉誠出版、2017年)から要点を当ジャーナルで整理(小見出しも一部当ジャーナル)。

(日本における議事機関の始まり)
議会制度の始まりとされるのは、慶応4年(1869)5月の貢士対策所である。これは、広く会議を興し万機公論に決すべし(五箇条御誓文)の趣旨にのっとり、貢士と呼ばれた構成員が各藩から出すと定められたが、人材不足もありうまく機能しなかった。
そこで、洋楽に通じた若手官僚の神田孝平、津田真道、加藤弘之を中心に改めて制度設計を行い、公議所という議事機関が創設され、その議員たる公議人は選挙でなく各藩内で家老クラスが任命された。また、過半数でなく5分の3以上の賛成で可否が決まる点も現在と異なる。それでも、西洋の制度を参考に、様々な意見をもった人が一堂に会して討論し、多数決で可否を定め、そのプロセスと結果を公表するという議事機関はそれまでの日本にないものだった。

(江戸時代との関係)
そもそも江戸時代は、代表者が公的な場に会して討論して、その政治的意思決定を公開にするということはなかった。幕末に海防問題が浮上すると、幕府が大名以下に諮問したことはよく知られているが、あくまで諮問であり、一堂に会して多数決するものではなかった。諸藩でも同様で、藩主への意見は直接藩主に提出するものであって、公開の場で討論するという発想はなかった。
とはいえ、政治的な問題を討議する経験がいっさいなかった訳ではない。幕府の意思決定にかかわる数人による討議は勿論あっただろうし、江戸時代の民衆は非常に多様な要望書や建白書を幕府や藩に出すのだが、そのような要求を作成する過程で人々が討議することは当然あっただろう。ただ、村の寄合では結論が出るまで話し合って最後に責任者が決をとったという。多数決の原理はなかった。近世と近代で異なるのは、一堂に会した場で多数決によって意思(おだずま注:原文は意志)を決し、そのプロセスを公開することだった。

(公議所の実態 - 硬直的な「評論」と根付かない多数決)
公議所は​明治2年(1869)3月7日に初めて開かれた。公議所は討論をどう制度化していったのか。
「公議所法則案」では、​「各議員は議案を受け取ったら持ち帰って、熟考の上評論を加えて、次の会議の日に持参して議員の前で読み上げるべし」「そのとき、質問するものがあればそれに答えるべし」と定められている。
佐倉藩の公議人であった依田学海は、「人々の論ずるところが多すぎて聞くに耐えない」「数が多すぎて読むのに不便」と日記に記した。学問のある家老クラスを集めたことで「評論」は集まっただろうが、逆に議事の実効性を欠いたようだ。

ただ、そのような公議人の強硬な態度は必ずしも個人の資質によるのではなかった。「評論」は藩の公式見解であり、他者や公議人個人が簡単に曲げることができない性質だったからだ。ある公議人は「100人いてもはいはいというだけならば、1人の士が率直に意見を述べるのに劣る」という中国の故事を引きながら、多数決を改めるべきとする内容の建白書を出している。
しかし、それでは参加者相互の妥協点を見つけることはほとんど不可能になる。すなわち、質問や討論の意味がなくなり、異なる意見への罵倒につながってしまうのだ。この点は、廃刀論をめぐって最も先鋭化した。当時公議所議長心得の森有礼が提出した廃刀論に対して、多くの公議人が激憤し、森や賛成派公議人の命を狙ったのである。
このような行為は、武士の矜持から出たとのみ理解するのは一面的だ。先述のように、公議所で表明される「評論」は他と妥協しえない性質を持っているから、自分の意見に従わせるためには、究極は暴力に訴えることになったのだ。

(地方ではどうか)
明治に入って各地の地方民会(地方議会)はどうだったか。
木更津県会は、明治5年(1782)にはじめて開催された。議員は複選制で選ばれた者と官吏から任命された者の2通り。議事の様子は、やはりうまく機能しなかった。最初の県会の様子を翌年振り返った藤田九万という官吏議員の記録によると、「知事のルールが不備のため、発言は私語のようであり、大声で罵詈に類するものもあり、ほとんど議会としての体面がなかった」という。権令として県会を開催した柴原和も、初県会の様子は「集会談話場にすぎなかった」と4年後に振り返っている。
翌6年、木更津県が合併した千葉県では、千葉県議事条例という詳細な議事のルールを作成した。議事進行の円滑化を図ったと思われ、議長から番号を呼ばれない限り議員に発言権がないと定められ、私語や罵詈の抑制が図られた。また、議員の意思が選挙区の意思であるとして (*) 、議員個人の発言の裁量を認めた。これは、議員個人に個人的な意思の存在を認めることで、公議所のような非和解的な対立を防ごうとしたと考えられる。
(*) おだずま注: 議員の意思は選挙区の意思との面を強調すると(憲法学でいう法的代表、命令的委任とか)、論旨の議員の裁量を認める趣旨には接続しにくいと感じるが、ここは、議員個人に託された「評論」に拘泥せず、選挙区(地域)にある多様な意見を代議人個人の裁量で踏まえて発言するべき(政治的代表、自由委任)との趣旨であろう。
しかし、討論の経験の少なさはすぐに改善できるものではなかった。県令の柴原和は地方官会議の場で、明治7年開催の県会では出席県吏の能弁に多くの議員が雷同してしまったと語っている。また、同年千葉県のある大区で開催の民会の様子について、千葉県会議長が「議事がどういうものか分かっていない」「私語雑話を思い出す」と語っている。

(討論の経験の積み重ね)
それでも、地方民会の経験を積むことで、少しづつ公の場での討論や多数決の原理になじんでいったと思われる。もちろん、議場における野次や罵声はどこでもあったし現在もある。しかし、議員個々の意思を認め討論による妥協と多数決の承認の可能性を開いた意味は大きい。現在の感覚では、政治的意見が異なるからといって暴力で屈服させるのは許されないし、私語や罵倒はよくないという感覚もある。それは、明治に入って積み上げてきた討論の経験の延長線上に位置づけられるといえよう。





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最終更新日  2022.08.13 21:36:22
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