仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.12.21
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カテゴリ: 宮城




■會田康範・下山忍・島村圭一編『文化財が語る 日本の歴史:政治・経済編』雄山閣、2024年
(下山忍さん執筆部分「古代の石碑は何を語るのか」)

以下に当ジャーナルの整理と要約により記す。文字の着色や下線などは当ジャーナル。

1.古代の石碑について
 日本における古代の石碑と確認されているのは18基。最古は宇治橋碑(646以降、宇治市、架橋記念碑)である。(古い順に3番目)那須国造碑(700,大田原市、墓碑・顕彰碑)、(4)多胡碑(711、高崎市、建郡記念碑)、(12) 多賀城碑 (762、城修造記念碑)の 日本三古碑 も含まれるが、18基全体では仏教や寺院関係の石碑が多い中で、これらは地方行政に関し、すべて東国(東山道)であることが注目される。
 上野三碑とされ、特別史跡、またユネスコ「世界の記憶」に登録されているのが、(2)山上碑(681,高崎市、墓碑)、(4)多胡碑、(8)金井沢碑(726、高崎市、供養碑)。

 古代の行政区画では、東山道7、畿内6,西海道4(すべて同一寺院に),南海道1基。
 種類別には、記念碑6、墓碑4、経典・偈文3、寄進・寺領関係2、仏足跡・歌碑2、供養碑1、造塔1基である。
 国宝3基、重要文化財7基、特別史跡3基、など。
国宝 」と明記されおり、表では国宝は4基になる。なお書籍の奥付けでは2024年5月10日初版発行とある。国宝指定(官報告示)は2024年8月27日だが、既に同年3月15日に国宝指定の答申が出ている。〕

2. 歴史的背景
 石碑は、中国では秦の時代から建立された。目的は墓碑が最も多く、顕彰碑、橋や道路の紀功碑なども。
 朝鮮半島最古の石碑は楽浪秥蝉(ねいてい)碑(178年)で、高句麗広開土王(好太王)碑)414年)が有名。半島では、石碑の多くが 領域拡大の証明のため最前線に建立された と指摘されるが、この性格は多賀城碑にも共通する。
 日本には半島伝来で伝わったと考えられ、文字(漢字)の使用に遅れて7世紀半ばから始まるが、中世の板碑の盛行(5万基)などと比較すると、自らの政治的権威を誇示するための有効な方法とは位置付けていなかったのではないかとの見解がある。

3.多賀城碑と壺碑(つぼのいしぶみ)
 多賀城碑は762年(天平宝字6)の紀年銘をもつが、世に忘れられて、江戸時代初期に発見された。
・新井白石『同文通考』には、「万治・寛文の頃に土中」から見つかったとある。

 こうして「発見」された多賀城碑は城修造記念碑より「 壺碑 」として知られることになる。壺碑は、坂上田村麻呂が弓の弭(はず)で日本中央と書きつけた陸奥の古碑とされ、古来より歌枕として著名で、11世紀移行多くの歌人が取り上げた。
・西行 「陸奥の国 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」
 多賀城碑が壺碑として知られた背景には、末の松山、浮島、野田の玉川、千引石、沖の石などの歌枕を領内に整備していた 仙台藩が強く関わった との指摘がある。


4.近世の保護
 仙台藩でも「発見」後に佐久間洞巌らに調査研究を命じたが、文化財の保全に大きく貢献したのは徳川光圀である。光圀は修史事業の一環として家臣の丸山可澄(よしずみ)を1691年(元禄4)に派遣して多賀城碑を実検させ、1694年前後に藩主伊達綱村に親書を送っている(義公書簡)。壺碑は古来有名な碑であるが破損していると聞く、差し出たことだが、修復を加え、覆屋を建て、長く保全できるようにしていただきたい、との趣旨であった。
 なお、光圀は1681年(天和1)に那須国造碑を知り、家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ)に調査と修復を命じている。
 綱村は光圀の助言に従い、覆屋を建立したと考えられる。綱村在任中(1660-1703)に建立という文献史料もあるが、発掘調査結果からも1700年前後が推定され一致する。なお発掘調査からは、1875年(明治8)、1889年(明治22)、1954年(昭和29)にも改修されたという。

5.偽作説と真作説
 明治の研究で壺碑とは無関係であると知られるが、同時に 近世の偽作との説が提起 され昭和に至るまで大きな影響を持った。
・田中義成、黒板勝美、喜田貞吉 らの国史学者
・中村不折 らの書家
偽作説の主な根拠は、(1)碑の形態、(2)書体、(3)碑文内容(里程、国号、官位官職など)、(4)関係文献の批判。真作説からの反論もあったが、学会趨勢は偽作説を黙認する傾向にあり、資料として活用されることはなかった。1969年当時は地元の人も偽作の碑と言い切ったという(平川)。
 真作説の浮上の契機は、 60年代からの多賀城跡の発掘調査 である。その結果、多賀城には4時期の変遷があったことが明らかになる。
・第Ⅰ期 8世紀前半の多賀城創建
・第Ⅱ期 8世紀後半の大々的な改修
・第Ⅲ期 780年(宝亀11)伊治公呰麻呂の乱による焼失後の再建
・第Ⅳ期 869年貞観大地震による崩壊後の復興
このうち第Ⅲ期と第Ⅳ期は文献上から知られていたことを裏付けた結果となった。偽作説は、近世の知識人が文献を基に碑を作成したとするが、 1960年代以降の調査で初めてわかり、江戸時代には文献上知り得ない第Ⅰ期と第Ⅱ期についても碑文と一致する ことが明らかとなった。
 そのため、多賀城碑の再検討が開始された。その経緯と内容は、安倍・平川編『多賀城碑ーその謎を解くー』(雄山閣、1999年)に詳しいが、文字は古代の薬研彫りで、碑文も集字(拓本からの収集)でなく一人が書いたものであること、などから偽作説の根拠は薄弱となり、重要文化財指定にもつながった。
 同書刊行以降は真作説に立つ研究が多いが、碑文の書体と書風から偽作説に立つ研究もある(安本)。

6.碑文からわかること

6-1.多賀城からの里程
・去京一千五百里
・去蝦夷国界一百廿里
・去常陸国界四百十二里
・去下野国界二百七十四里
・去靺鞨国界三千里
 まず京からの位置を示したのは、多賀城が朝廷の出先機関であることを示し、次に蝦夷国との距離を示したのは、蝦夷政策の拠点である多賀城の性格を端的に示す。
 常陸国と下野国は、陸奥国と接するそれぞれ東海道と東山道のそれぞれ果ての国。
 靺鞨国は渤海国と考えられ、出羽国と通交の可能性が高いが、碑を制作させた藤原朝獦が陸奥国だけでなく出羽国も管轄する按察使の地位にあったことによる。

6-2.里程の検証
 一里を534.6mとすると、
・平城京から801.9km
・蝦夷国界から 64.2km
・常陸国界から 220.3km
・下野国界から 146.5km
となる。議論あるが、まず平城京の距離は東山道経由で実測とほぼ一致。蝦夷国界の距離は岩手宮城県境付近となり、当時の最北の城柵が桃生城(石巻市)だったことから当時の律令政府の実効支配の北限となる(柳澤)。
 常陸国界と下野国界は、勿来関(当時名称は菊多関)と白河関と考えると、多賀城からほぼ同距離なのに大きく異なっている(偽作説の一つの根拠だった)。
 常陸国界について。多賀城から東海道経由で勿来関まで計測すると177.7kmで、碑の里程に足りない。里数の誤りの可能性も指摘されるが、東山道を経由すると碑とほぼ一致する。最短距離でないのは非合理だが、多賀城のある陸奥国が東山道に属したためだろう(柳澤)。
 下野国界について。白河関までの計測距離は173.0kmで、碑の里程と一致しない。解釈は難しいが、718年(養老2)に陸奥国から一時分離した石城国・石背国との関係から、陸奥国と石城国の境に置かれていた玉前(たまさき)関から白河関までの里程を示したもの(計測距離は143.4km)であるとされるが(柳澤)、下野国のみ多賀城でなく玉前関を起点とする説明が必要だろう。
 また、常陸国界を、常陸国と下総国の境とし、同様に下野国界を下野国と上野国の境と考えると、碑の里程と非常に近い距離となる。藤原朝獦が常陸国や下野国から鎮兵を挑発する権限があったことに由来するという(長瀬)が、朝獦が任命されていた節度使についてさらに解明が必要だろう。

6-3.蝦夷国について
 蝦夷国界について、里程に異論はないものの、律令国家統治下にない蝦夷に行政単位の「国」を用いた点が問題とされた(偽作説の一根拠)。蝦夷政策を推進した朝獦が敢えて事蹟を誇示したという解釈(平川)や、律令国家の華夷思想を背景に四至を明示したとの解釈(長瀬)がある。

6-4.靺鞨国について
 渤海国のことと考えれている。696年高句麗の遺民大祚栄が靺鞨族を率いて建国し、唐や新羅との対立から727年以来しばしば日本と通交した。靺鞨(靴下を意味)は唐による蔑称で、友好国日本が国号として用いるのは不自然とされてきたが、律令国家の華夷思想から敢えて蝦夷国と並べてこう呼称したとされる(平川、長瀬)。また、この靺鞨国は、渤海国でなくツングース系の粛慎(あしはせ)を指すという説(伊藤)、渤海より北方の黒水靺鞨を指すという説(柳澤)もある。

6-5.藤原朝獦の地位
 多賀城碑は、碑を修造した藤原朝獦の事蹟を顕彰する意図が強く読み取れる。その官位・官職は、「参議・東海東山節度使・従四位上・仁部卿兼按察使・鎮守将軍」とある。
 このうち官位である 従四位上 が文献上の従四位下と一致しない(偽作説の一根拠)が、大野東人の官位との均衡のためとされる(安倍・平川)。
 朝獦は、藤原仲麻呂の四男。757年(天平勝宝9)の橘奈良麻呂の乱の後に多賀城に赴任し、陸奥国・出羽国を管轄する 按察使 に加えて、 鎮守将軍 にも任命され、蝦夷政策の全権を委ねられた。桃生城、雄勝城を造営するとともに、国府・鎮守府の置かれた多賀城の修造にあたった。碑文の天平宝字6年(762)12月1日が、参議就任の日に当たることもその顕彰の意図とされる。
仁部卿 とは民部卿のことで、父仲麻呂政権の唐式官名採用により、当時こう呼称されていた。
節度使 は兵士の徴収や訓練、兵器の製造などを担当する軍政官。761年に新羅征討を目的に任命され、実戦の際は朝獦も指揮官となる予定だったと考えられるが、764年孝謙上皇らの仲麻呂政権打倒(仲麻呂・朝獦父子敗死)で、新羅征討計画は頓挫した。

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最終更新日  2024.12.21 16:24:46
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