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小出川の河津桜も終わり、3月も下旬になり日本列島もいよいよソメイヨシノの開花時期になり、市内の桜を追った。3月24日(火)9:00この日は「運動耐容能 (CPX) 検査」で市立病院へ。1月に上記検査を行い、その後週2回のリハビリを行いその効果をチェックのため2度目の検査。リハビリの内容は30分間筋力トレーニングを行い、そのあと自転車を30分間こぐ。運動耐容能 (CPX) 検査運動耐容能(CPX)検査は運動負荷検査の一つで、心電図、血圧、呼気ガス(マスクを装着)を測定しながら、ペダルがだんだん重くなる自転車をこぐ運動を行って頂きます。心電図からは運動に対する心拍数応答、虚血性変化、不整脈など、血圧も運動に対する血圧応答、呼気ガスからは運動に対する酸素などの摂取量、換気量などを測定し、肺・心臓・筋肉を含めた予備能力を測定する検査で、体力測定である。(写真はネットから)この日の検査結果は「前回と変わらず」で自転車の負荷は「43W」と。市立病院の中庭に「お月さんとうさぎ」のモニュメント。この中庭はリハビリ専用で一般者は立入禁止になっている。帰り際、リハビリの係の方から「市内の妙伝寺の枝垂れ桜が奇麗」と聞き帰宅後行くことに。市立病院の東側にある「上ノ田公園」。ソメイヨシノが10本ほど植えられているがまだ開花前であった。この地下には雨水調整池がありこの地区の浸水対策用に設けられている。上ノ田公園雨水調整池浸水被害を軽減し、安心して快適に暮らせる環境づくりを!この施設は本村周辺地区の浸水区域の雨水を調整池に導水し、一時的に貯留した後、調整池の雨水ポンプにより菱沼雨水幹線へ強制排水させていきます。 計画貯留量 約6,000m3上ノ田公園に設けられている「健康遊具総合案内板」。遊具が4基設置されている。最近はリハビリの帰りに、上記①の「てくてく(ウオーキング)」を使用している。上ノ田公園の北側から富士山の頂上が見える。上ノ田公園の北側を千ノ川が流れており、その一角に枝垂れ桜があり毎年奇麗に咲いており五分咲きか。ズームアップ(3/24撮影)。以下2枚の写真は、上記撮影3日後の3月27日(金) 午前中の開花状況。昨日(3/26)は雨が降ったが満開に近かった。千ノ川沿いに植えられているソメイヨシノ。枝先のところどころが開花していた。下流側を振り返る。この先の上流側はバス通りになっており「一時停止」の取締りを度々行っている。千ノ川は十数年前に氾濫しその後浸水対策で50cmほど嵩上げされている。水位計も設置され、市立病院横の「上ノ田公園雨水調整池」へ導水しているようだ。ここからは残念ながら富士山は見えない。11:10リハビリ後自宅へ帰り、妙伝寺の枝垂れ桜を見るため「昼食は欠食」にして愛車のリンちゃんででかけた。バッテリー残量は30%で、走行可能距離は23kmとギリギリであった。県道404号線(小出県道)の「300CLUB 入口」。案内板には「300CLUB ENTRANCE」と。この時期クラブハウス前の枝垂れ桜が奇麗であることを思い出し急遽立ち寄ることに。この交差点から「ENTRANCE」までは急坂になっており愛車のリンちゃんで上った。スリーハンドレッドクラブ所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼441予想どうりクラブハウス前の枝垂れ桜は満開であった。駐車場には高級車が並んでいた。スリーハンドレッドクラブの会員数は少ないので駐車場が狭い。既に満開の枝垂れ桜である。自然のままか樹形が素晴らしい。高級車の後ろに周りクラブハウスを望む。まだ咲き始めの枝垂れ桜もあった。ENTRANCEのドアーをズームアップ。ドアーには「魚」の絵があったが。満開の枝を見上げる。更にズームアップ。クラブハウスの周辺には枝垂桜が5~6本植えられているようだが関係者以外は立入禁止?。すれ違ったクラブ関係の女性から「危ないので・・・・・」と。枝垂れ桜は古木になっているようで枝には支柱。青空に映える枝垂れ桜まだ花吹雪にはなっていなかった。コースにも桜がありこの奇麗な枝垂れ桜を市民に開放してほしいものだが。一本の木はこれから咲く遅咲きか。古民家風の建物があったが。11:30クラブハウスの手前東側には送迎車用の運転手控室がある。著名人が来場されるだけに高級車が多く、キャディーが終了時間予定を知らせている。 ー 続く ー
2026.03.31
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小田原城の馬出門を後にして帰路についた。2月6日(金) 14:50小田原市観光交流センター所在地:神奈川県小田原市本町1丁目7-50小田原城の正門馬出門の前に建つセンターで、観光資源の活用を図る拠点として観光に関する情報の発信及び提供、地域の文化、歴史、伝統等の体験の場の提供等を行っている。1階は、観光案内所、カフェ、物販などがあり、2階はフリースペースになっている。国指定史跡 小田原城跡 小田原城跡小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は中世の城と近世の城が同じ場所に重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、二の丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門、馬出門、御用米曲輪の復元整備が進められています。小田原城の歴史年表 応永24 1417 鎌倉公方・足利持氏が大森氏に小田原を与える。 明応9 1500 伊勢宗瑞(北条早雲)、この頃までに小田原に進出。 永禄4 1561 長尾景虎(上杉謙信)、小田原城を攻め城下に放火。 永禄12 1569 武田信玄、小田原城を攻め城下に放火。 天正18 1590 豊臣秀吉、小田原に侵攻 北条氏直、総構で大軍を防ぎ、長期戦の 末に開城。 その後、徳川家康の家臣 大久保忠世が入城。 慶長19 1614 大久保忠隣改易、小田原城破却 元和5 1619 阿部正次が入城。 寛永9 1632 稲葉正勝が入城、近世化工事が進められる。 寛永10 1633 寛永地震により、小田原城、城下町に甚大な被害。 延宝3 1675 この頃、稲葉正則による小田原城近世化の改修が完了する。 貞享3 1686 大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城。 元禄16 1703 元禄地震により、天守など倒壊・焼失 宝永3 1706 天守再建 天明2 1782 天明地震により、天守が傾く。 嘉永6 1853 嘉永地震により、石垣など崩れる。 明治3 1870 小田原城廃城、天守など売却され、解体される。 明治34 1901 小田原城内に御用邸が建設される。 大正12 1923 大正関東地震(関東大震災)により石垣など崩落、御用邸が廃止される。 昭和4 1929 小田原高等女学校・小田原第二尋常高等小学校建設。 昭和9 1934 隅櫓復興、この頃までに二の丸堀に石垣が積まれる。 昭和25 1950 小田原こども博覧会が開催され、動物園、こども遊園地が開園される。 昭和35 1960 天守閣復興。 昭和46 1971 常盤木門再建。 平成9 1997 銅門復元。 平成21 2009 馬出門復元。 平成23 2011 馬屋曲輪整備。 平成28 2016 天守閣平成の大改修。主な城主北条氏直(1562~1591)、大久保忠世(1532~1594)、稲葉正則(1633~1696)。 2021.3 小田原城総合管理事務所右上の絵図は、文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城お堀端通りのソメイヨシノ。開花時には桜のトンネルになる。二の丸隅櫓、左奥には天守閣。前回令和5年(2023)3月30日(木)に訪れた時の桜満開時の写真。二の丸東堀にはカモ馬出門土橋のめがね橋めがね橋をズームアップ。学橋 (まなびばし)この学橋が最初にできたのは昭和4(1929)年のこと。市立の城内小学校が二の丸に移転した際に竣工した。この橋を渡ると小学校があったことで、「学橋」と名付けられた。その小学校は平成4年に移転したが、橋だけは今も残っていると。二の丸広場にあるMAP学橋を渡り二の丸広場へ立ち寄った。二の丸広場を通り抜け本丸東堀へ。高い場所に本丸広場があり天守閣を見上げる。梅の木があり紅梅が咲いていた。”小田原城の観梅”を目当てに来たが梅の満開には少し早かった。本丸東堀の菖蒲畑この場所は6月に「あじさい・菖蒲まつり」が開催され多くの観光客が訪れる。常盤木橋の北側にある本丸東堀で右上には常盤木門。本丸の東側の斜面には多くのあじさいが植えられている。常盤木橋を望む。本丸東堀には鉢に植えられた菖蒲が出番を待っていた。本丸東堀の植込みにはロウバイが咲いていた。紅梅とロウバイ白梅をズームアップ。弁財天通りに立つ標柱に「史跡 小田原城址」と。小田原駅東口(約470m)への弁財天通りを進む。弁財天曲輪にある広場。民家の後方は松が聳える本丸広場の杜。弁財天通りを進むと道路脇に標柱。標柱に「弁財天」と。江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし元禄十年(1697)に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六、七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。弁財天通りの旭丘高校前交差点からお城通りへ。旧町名保存碑 弁財天所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目6お城通りの標柱には「べさいてん」と刻まれていた。側面の説明文は、先ほどの「弁財天通り」のものと同じであった。駅前からのお城通りの突き当りにある旭丘高校前交差点を振り返る。南西の方向には天守閣が見えていた。標柱には「弁財天」と。お城通りの小田原駅東口を望む。某ビルの掲示板に、かつての小田原駅の写真、浮世絵があった。小田原駅小田原駅が開業したのは、大正9年(1920)10月のことでした。国府津駅の開業から、実に33年の月日が過ぎていました。開業にあたっては、盛大な祝賀会が催しされ、多くの人々が昼夜の別なく祝賀に酔いしれたと言う事です。この写真は、乗合自動車や人力車など、大正の昔を偲ばせる乗り物が写し込まれています。 写真集「昨日の道 去年の坂」より東海道小田原宿東海道を歩む旅人にとって、この地は特別なものであったことでしょう。徳川幕府は江戸防衛のため、酒匂川へ橋をかけることも渡し舟を使うことも許さず、旅人は渡し場から川越え人足によって川を渡らねばなりませんでした。酒匂川を渡り疲れきった旅人を出迎えるのが、江戸日本橋を発ち九つ目の宿にして初めての城下町であるこの地「小田原」です。人々はここ小田原の地で疲れを癒し、英気を養い、天下の嶮、箱根山に向かいました。町並みの一角にはコンビニの「LAWSON」が営業。人通りが少ない感じがしたが。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場へ上がる。以前来た時は多くの人が訪れていたが。小田原駅東口のペデストリアンデッキからミナカ小田原のテラス席がある「金次郎広場」。「ひもの山安」の試食コーナーがあったが準備中であった。ステージの台座に「映画 二宮金次郎 夫婦像」と。二宮金次郎の夫婦像説明小田原が生んだ偉人、二宮金次郎夫婦の像江戸時代末期、小田原の栢山村に生まれた二宮金次郎(尊徳)の生涯が、史上初めて描かれました。五十嵐匠監督の手によって、2019年1月、尊徳翁の関係した多くの市町村の皆様の協力により、百十三分の劇映画として完成いたしました。多くの皆様にご覧頂きたいと願い、劇中の二宮金次郎夫婦の像をここに設置いたしました。尊徳翁の業績に感謝して、今こそ、その教えを実行する時が来たと考えます。 平成三十一年一月六日(小田原市特別上映会日)寄贈 万葉俱楽部会長 高橋 弘 小田原市長 加藤 憲一 彫刻制作 宇野 務二宮金次郎夫婦の像金次郎広場には揚げ物、スイーツの店があり購入してテラス席で飲食できる。テラス席からは天守閣も見えていた。ミナカ小田原のタワー棟3階エントランスホールへ入ると、甲冑が展示されていた。エレベーターで最上階へ上ると足湯もあったのだが今回もスルーした。雛壇飾りも置かれていた。また街角ピアノも置かれていた。パネルには、「演奏無料 どなたでもご自由に演奏いただけます 時 間 11:00~18:45 場 所 タワー棟3階エントランスホール」と。金次郎広場からペデストリアンデッキへの通路から小田原駅の東口を見下ろす。ミナカ小田原の前では「みかんの詰め放題」がまだ営業していた。15:35小田原駅の改札口へ。上野東京ライン「15:38 高崎」へ乗車。昼食も食べずに動き回ったので、ホームのコンビニで食料を購入、車中で遅い昼食をとった。16:10茅ヶ崎駅に到着。この日は”小田原城天守閣への登城”と”観梅”を目当てに来たが梅の満開には少し早かった。また、この日の歩行数は14,000歩であった。 END
2026.03.30
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本丸広場から二の丸広場へ。2月6日(金) 14:25小田原市郷土文化館開館時間:9時~17時 入館無料小田原市の郷土資料を収集、保存、展示する資料館。市の歴史の他、民俗や考古、自然に関する資料を収蔵・展示している。今回はスルーした。南曲輪に咲く紅梅。老木越しに銅門を見る。二の丸の一角にビャクシンと銅門。ビャクシンの根元に標柱、「小田原市指定天然記念物 小田原城跡のビャクシン 小田原市教育委員会 平成十六年度設置」と。小田原市指定天然記念物 (昭和五十六年三月三十日指定)小田原城跡のビャクシン 所 在 小田原市城内3-22 樹 相 目通り幹囲 3.1メートル 株本周囲 約3.9メートル 樹 高 約15メートル 枝張り状況 東西約12メートル、南北約15メートルビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。 小田原市教育委員会深い年輪が刻まれている目通り幹囲3.1メートルのビャクシン。城址公園内の巨木巨木 (オオマツ) 天保年間(1830~1844)に書かれた「相中雑志」に記載されている「七本松」の一つと 推定され、市内最大のものです。イヌマキ 常盤木橋の前にある、樹齢約520年以上、幹回り4.5mに及ぶ市内最大の巨木です。 本丸広場の巨松と双璧をなします。ビャクシン カブ元周囲約3.9m、樹高約15.0mと市内最大級です。樹齢不詳ですが、小田原の歴史 とともにあり続けてきた風格を感じとれます。御感の藤 東側と中央の株は樹齢180年を超える古木です。大正天皇がご覧になって感嘆されたこ とから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。樹高が約15メートルあり二の丸広場で存在感を示している。紅白の梅の後方は小田原市郷土文化館銅門の復元銅門は、住吉堀の復元事業と併せて昭和58年(1983)から平成5年(1993)まで発掘調査が行われた後、平成5~7年(1993~1995)にかけて、桝形や櫓台石垣復元工事が、平成8、9年(1996、1997)にかけて、渡櫓門や土塀の復元工事が、日本古来の伝統的な工法で行われました。石垣の復元工事には、関東大震災で住吉堀に崩落した石材に加え、角石に真鶴産小松石(安山岩)平石に、蔵王山系安山岩か使われています。建築工事は、小田原市建築協同組合が受け負い、復元にあたっては、宮大工の芹澤伸明氏が棟梁を務め、市内の大工職人や近隣の左官職人らの匠の技が結集されました。復元に使われた木材のうち、鏡柱など14本の檜材は、ラオスから輸入しています。また、天井の大梁2本は、国産の黒松を使用し、丸い刃が付いたハマグリ釿(ちょうな)により、鱗のような風合いの加工がされています。これらの檜や松は樹齢200年を超える大径木が使われています。小田原城案内図正面入口から天守閣への登城ルート(赤線)二の丸広場から常盤木門の南多聞櫓・北多聞櫓、後方に天守閣を見上げる。銅門 (あかがねもん)江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。 2019.03 小田原城総合管理事務所銅門前からビャクシンを望む。銅門渡櫓門を潜り抜け振り返る。国指定史跡 小田原城跡 銅門 (あかがねもん)銅門は、小田原城二の丸の表門にあたる桝形形式の城門で、渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていることから、この名で呼ばれています。馬屋曲輪から住吉橋を渡って、桝形正面の埋門形式の「内仕切門」を潜って桝形内部に入ります。桝形を西に折れると「銅門渡櫓門」となります。渡櫓門は、幅約6m、長さ約23m、高さ約12mの規模で、渡櫓には「石落とし」と呼ばれる敵を撃退するための仕掛けが設けられていました。銅門は、明治5年(1872)に解体されましたが、発掘調査により石垣の位置が明らかになり、城絵図や古写真などから復元設計が検討されて、平成5~7年(1993~1995)にかけて桝形や櫓台石垣が、平成8、9年(1996、1997)にかけて渡櫓門や土塀が、日本古来の伝統的な工法で復元されました。写真上 明治5年に銅門が解体される直前の写真で、櫓門の屋根や土塀の傷みが激しく小田原 藩が城を維持できなくなった様子を示しています。下の図 文久図に描かれた江戸時代末期の銅門と住吉橋土塀に組み込まれた銅門桝形内仕切門を内側から見る。銅門桝形の土塀の内側にある二の丸に聳える松。右側は住吉堀に面した土塀。内仕切門を出て銅門渡櫓門を望む。住吉橋銅門桝形内仕切門と馬屋曲輪の間にかけられた橋。 平成 2年 (1990) 復元 平成30年 (2018) 改修 2019.03 小田原城総合管理事務所住吉橋の袂に、「銅 門 開門時間 午前7時から午後9時 照明時間 日没から午後10時まで」と。住吉堀に架かる住吉橋。国指定史跡 小田原城跡 住吉堀 (すみよしぼり)住吉堀は、銅門と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間を仕切る堀で、寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。昭和58年(1983)から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認され、江戸時代の絵図と合致することが確認されました。また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘り残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988)から発掘調査と並行して、城絵図や発掘成果と整合させて行われました。また、平成2年(1990)に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には、平成7年(1995)までの6年間を要しました。復元に際しては、関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、真鶴産小松石(安山岩)を新たに使用しています。写真上:住吉堀の近世石垣と戦国期の障子堀写真下:銅門の下から検出された江戸時代初期の野面積みの石垣右上図:戦国時代の住吉堀 障子堀右中図:江戸時代初期の住吉堀 障子堀右下図:江戸時代前期以降の住吉堀銅門 (あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。写真:解体される前の銅門(明治5年) 横浜市美術館蔵小田原城二の丸の表門であった銅門。銅門への住吉橋。小田原城と銅門 (あかがねもん)銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋 (現在のめがね橋) から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。左図:江戸時代末期の小田原城絵図 (部分) 小田原城天守閣蔵馬屋曲輪から銅門、後方に天守閣を望む。多くの説明板があった。城内には歴史を伝える老松が多く聳えている。天守閣、巨松をズームアップ。馬出門桝形の内冠木門平成21年(2009)に復元。馬出門と内冠木門の2つの門を配した構造となっている。内冠木門内冠木門はそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門である。内冠木門 (うちかぶきもん)馬出門の枡形の内側にある門 平成21年 (2009) 復元 2019.03 小田原城総合管理事務所内冠木門国指定史跡 小田原城跡 馬出門桝形馬出門桝形は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡って奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。明治34年(1901)に、二の丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、平成15年(2003)から整備のための調査を開始し、平成21年(2009)に復元整備を完了しました。石垣の復元には、安山岩を用い、馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。右上:発掘された馬出門枡形右下:寛文図に描かれた馬出門枡形 左/改修前 右/改修後馬出門桝形(内側)から馬出門を見る。馬出門もそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門である。周囲の土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が1間(約1.8m)間隔で開けられ、流石に小田原城の大手口(正面)だけに、太平の世に建設されながらも実戦的な防備が備わっている。馬出門から内冠木門を見る。馬出門馬出門 (うまだしもん)馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大震災で倒壊しました。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されました。 2023.03 小田原城総合管理事務所二の丸東堀に建つ二の丸隅櫓、朱色の学橋(まなびばし)。二の丸広場、隅櫓。国指定史跡 小田原城跡 馬出門馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、枡形の内側に位置する内冠木門と同様、控え柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門であったと考えられています。発掘調査によって、明治34年(1901)に設置された皇族の御用邸時代の石垣や江戸時代の石垣、門の礎石などが確認されました。これらの成果や絵図をもとに、平成21年(2009)に高さ約6.3m、幅約4.7mの規模を持つ馬出門が復元されました。復元には、柱や扉は欅、屋根の下地は椹(さわら)、土塀の控柱には栗を用いました。御用邸時代の門は、馬出門土橋から直進して門をくぐることができるように向かって左側に位置をずらすとともに、石垣を高く積み直しており、写真で当時の様子を知ることができます。写真上:発見された馬出門の礎石跡と石垣写真下:御用邸時代の馬出門馬出門土橋から南方向を見る。右側は馬屋曲輪。馬出門土橋からきた方向の二の丸東堀を望む。3月下旬には桜が咲き誇る。馬出門前に聳えるソメイヨシノ。14:50馬出門を振り返る。この日は正規ルートを逆に散策した。 ー 続く ー
2026.03.29
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小田城天守閣の5階から下りる。2月6日(金) 14:005階の展望フロア―から4階へ降りる。4階と3階は吹き抜けになっており、3階の甲冑展示品が見えていた。4階から3階への吹き抜けに掛軸が2枚吊るされていた。3階企画展示室金小札紫糸威二枚胴童具足 (きんこざねむらさいとおどしにまいどうわらべぐそく)小田原藩主大久保家に伝来した品で、鎧の着初めや元服時に着用する少年用の童具足です。胸板や吹返、杏葉などに大久保家の家紋である「上り藤に大」が金蒔絵でほどこされています。元禄年間(1688~1704)頃の製作と考えられます。体験コーナー甲冑姿で写真を撮ろう!顔出しパネルではなく甲冑姿であった。1階常設展示室左に、「平成の大改修 新・小田原城 神奈川二十一世紀の会 二○一七年一月二十七日」中央に、「賞状 第19回神奈川イメージアップ大賞 小田原城殿 2017年1月27日 毎日新聞社 代表取締役社長 丸山昌宏」。小田原フラワーガーデン 2026年梅まつり 1月24日(土) ~ 3月1日(日) 約300品種 500本 梅園入園 駐車場 無料1階 常設展示室 江戸時代の小田原城1階 常設展示室から、階段下の「入場券販売所」フロアーを見下ろす。フロアーの一角に小田原城のパンフレット、日本100名城のスタンプ類が置かれていた。ポスターには「北条五代を大河ドラマに!」と。入場券販売所発券は待つこともなく購入できていた。天守閣を出ると西側の斜面に桜の古木があった。桜の枝に「カンヒザクラ」の名札。カンヒザクラ(寒緋桜)はやや膨らんだ蕾であった。天守閣から下り本丸広場から見上げる。展望デッキには多くの人が登城していた。常盤木門・SAMURAI館史跡 小田原城跡 本丸跡小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門(くろがねもん)と呼ばれていました。本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図 (通称「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。図ー1 江戸時代の小田原城復元模式図図ー2 「宮内庁図」本丸部分(宮内庁書陵部蔵)図ー3 発掘調査で発見された「七本松」を囲う石組図ー4 発掘調査で発見された焼土本丸広場にはソメイヨシノの古木も聳えている。3月末の桜まつりには多くの人が訪れる広場である。また本丸広場には「桜の標準木」がある。その幹には「桜の標準木」と書かれ名札。この桜(ソメイヨシノ)は、小田原城址公園内の開花を観測するために指定した「標準木」です。 小田原城総合管理事務所本丸から常盤木門を出て見上げる。昭和46年(1971)に再建。同門内には、刀剣・甲冑を展示しているSAMURAI館がある。また甲冑などの着付け体験も受け付けている。常盤木門の下に標柱と説明板。標柱に「常盤木門」と。史跡 小田原城跡 小田原城 常盤木門 本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繫栄しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました(「文久図」右図)。明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常盤木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示しています。また、日本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。朱色の常盤木橋を見下ろす。市指定天然記念物のイヌマキが聳えている。紅梅が咲いていたが満開ではなかった。常盤木橋上から北側にある本丸東堀の菖蒲畑を見下ろす。この場所は6月に「あじさい・菖蒲まつり」の会場になり多くの鉢が準備されていた。常盤木橋・常盤木門を見上げる。常盤木門の渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式となっている。国指定史跡 小田原城跡 本丸東堀と常盤木橋江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に本丸と二の丸をつなぐ木製の橋が描かれており、「常盤木橋」と名付けられていたことが分かります。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面入口になります。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。右上:文久図に描かれた江戸時代末期の常盤木橋と本丸東堀右下:明治3年の常盤木門と常盤木橋本丸東堀の菖蒲畑を見下ろす。青フェンスの先は御用米曲輪発掘調査現場。本丸への正面入り口になる常盤木橋。常盤木橋紅梅はまだ満開ではなかった。梅の木には俳句の短冊が吊るされていた。咲いていた紅梅をズームアップ。小田原城跡のイヌマキ小田原市指定天然記念物 (昭和四十九年三月三十日指定)小田原城跡のイヌマキ 所 在 小田原市城内3-22 樹 相 目通り幹囲 4.5メートル 株元周囲 約6メートル 樹 高 約20メートル 枝張り状況 東西23メートル、南北13メートルイヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り4.5メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 小田原市教育委員会イヌマキの主幹は左巻きで目通り幹囲 4.5メートル。樹齢を感じさせる幹周りである。支柱があるイヌマキを見上げる。常盤木門の南多聞櫓・北多聞櫓を見上げる。白梅も見頃にはまだ早かった。後方は銅門(あかがねもん)。梅の木の下ではご婦人が休んでおられた。白梅はまだ満開ではなかった。ズームアップ。小田原市のおすいマンホール蓋。背景に箱根の山と奥に頭をのぞかせる富士山。二の丸櫓を従えた小田原城と酒匂川の渡し。地名はないが、小田原とわかるデザインである。14:25銅門 (あかがねもん)手前には市指定天然記念物のビャクシン。 ー 続く ー
2026.03.28
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小田原城の天守閣は、平成28年(2016)に耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われたとのことで、十数年ぶりに登城することに。2月6日(金) 13:15小田原城の天守閣登城口は階段を上った天守台の上にある。今まで多くの天守閣へ登城したがこのような構造になっているのは珍しいのでは。登城口への階段には桜の木が覆いかぶさっている。満開の時には、この写真は、’23/3/30(木)に訪れた時の写真。桜まつり期間中で登城口は長蛇の列であった。この時のブログは「小田原城のサクラ見物」👈をクリック願います。高齢者のためのバリアフリー化は行われているのか気になったが。登城口から本丸広場を見下ろす。登城口へ入ると「小田原城 天守閣」。 1 常設展示室1 2 常設展示室2 3 企画展示室1 企画展示室2 (回廊) 企画展示室3 4 企画展示室4 5 常設展示室3 展望デッキ1階の入場券販売所天守閣へは1階で靴を脱ぎ見学、インバウンド客もチラホラと見うけられた。これに大陸からの人が訪れると順番待ちになるのであろう。いろんなパンフレット、日本100名城のスタンプが置かれていた。今回押印した「日本100名城のスタンプ」「入場券」。前回は平成28年(2016)の耐震改修工事前に登城したようだ。日本100名城は2016/11/18に岐阜城で制覇し、1,292番目で登録完了者として認定された。現在は続日本100名城に挑戦中で、現在70城を征服し残るは30名城のみになっている。1階には「箱根の寄木細工」が展示されていた。天守閣内の撮影についての注意書き。2階 常設展示室 戦国時代の小田原城 小田原城を本拠とした戦国大名小田原北条氏の事績と、歴史上名高い小田原合戦に ついて紹介しているが、何故か撮影禁止になっていた。3階 企画展示室 (回廊) 小田原ゆかりの美術工芸や甲冑・刀剣、小田原城周辺の発掘成果などを紹介している。 回廊ののぞき窓から北方向の小田原駅周辺を見下ろす。 右側の山影は ”大山” であろうか。4階 企画展示室 その後の小田原城 明治時代から現代に至る小田原城の歴史を、古写真を中心に紹介します。 左写真:銅門・住吉堀・馬出門・馬屋曲輪・御用米曲輪などの発掘調査が行われ、そ の成果を基に史跡整備が進められています。 中 央:小田原宿のにぎわい 右写真:小田原城を取り巻く城下の暮らし 御用邸時代明治時代の小田原には、伊藤博文や山県有朋らが別荘を構えました。明治天皇の皇女である常宮・周宮内親王も小田原の気候や土地柄を気に入り、御用邸の建設計画が持ち上がりました。小田原町と旧藩主大久保家は宮内省と土地の売買や交換を行い、明治34年(1901)に御用邸が建設されました。これを期に、天守台に設けられた大久保神社を移し、馬出門や隅櫓の整備が行われました。御用邸には後の大正天皇や昭和天皇も滞在しました。関東大震災大正12年(1923)9月1日、マグニチュード7.9の関東大震災が発生しました。小田原の町はほぼ全ての建物が倒壊・損傷するとともに、町の中心部は火災により焦土と化しました。城跡内では御用邸も被災し、江戸時代の姿を残す二の丸隅櫓、天守台、堀の石垣も崩壊しました。右写真:二の丸住吉堀と銅門跡左写真:お堀端通りの桜並木 大正12年(1923)頃 小田原市立図書館蔵天守閣復興昭和25~28年(1950~1953)にかけて、戦後復興の一環として天守台の石垣の積み直しが行われました。折しも、全国的に天守の復興が盛んになっており、「小田原城天守閣復興促進会」が結成されるなど、市民からも復興を望む声が高まっていました。昭和33年(1958)市は天守閣の復興を決定し、翌年から始まった「天守閣復興瓦一枚運動」では、瓦の枚数にして2万枚以上の寄付が集まりました。昭和35年(1960)5月25日、小田原城天守閣は開館の日を迎えました。また、天守閣に続き昭和46年(1971)には常盤木門も再建されました。写真上:建設中の天守閣建設中の天守閣再建された常盤木門昭和45年(1970) 小田原市広報広聴課蔵進む史跡整備小田原城廃城明治3年(1870)、暴風雨による被害や藩の財政難を理由に、知藩事大久保忠良が新政府へ小田原城の廃城を願い出て、天守は解体されました。城跡は陸軍省の所管になり、二の丸隅櫓だけが残りました。その後、旧藩主大久保家の請願申請により、明治23年(1890)に払い下げられ、更に小田原町へ転売・貸し出されました。天守台には、明治26年(1893)に藩祖大久保忠世をまつる大久保神社が建てられました。写真上:解体中の天守5階展望デッキ5階には警備員の方がおられた。順路は西側のデッキからで反時計回りに巡った。西側のデッキにある説明板。諸山十尊 (しょざんじゅっそん)天守閣最上階から見えるのが箱根連山です。これらの中で、天守背後に位置する駒ヶ岳、明神ヶ岳、二子山、石垣山など10の山頂は、諸山十尊として天守七尊とともに信仰されていました。西側の箱根連山。柵には「⇦ 箱根」と。写真に山の名前が書かれているので助かる。箱根連山の左に、二子山、その右側に駒ヶ岳。手前の傾斜地の右側には小田原競輪場。南側のデッキにある説明板。この日は見えなかったが伊豆大島も見える。展望デッキの南西側隅に望遠鏡が設置されていた。南側の柵に「真鶴・伊豆半島 ⇨」と。小田原漁港に架かる”小田原ブルーウェイブリッジ”をズームアップ。。いつもは海岸線を走る国道135号からこの天守閣を望んでいるが。南東隅にも望遠鏡が設置されていた。展望デッキは高いところで足がすくむがどうにか撮影。東側のデッキにある説明板。本丸広場の”常盤木門・SAMURAI館”を見下ろす。広場には樹齢が400年を超える”巨松”が聳えている。小田原の城下町を見下ろす。遠くには三浦半島が見えるのだが。北側のデッキにある説明板。北方向を望む。北方向の小田原駅周辺を見下ろす。右側眼下には”御用米曲輪”の発掘調査現場。ミナカ小田原高層ビルの上層階には公共サービスやホテル、クリニックモール、14Fの屋上には無料の展望足湯庭園がある。小田原駅は、JR東海道本線、東海道新幹線、小田急が乗り入れ交通の要衝になっており、箱根への玄関口になっている。5階 常設展示室3 小田原城天守再現 江戸時代に天守にまつられていた摩利支天像の安置空間を再現し、再現に生かされた 職人の技を映像で紹介します。摩利支天と小田原城小田原城天守閣上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていました。大久保忠朝が貞享3年(1686)に佐倉藩(佐倉市)から小田原藩に復帰した際に、天守に祀ったとされています。『御天守摩利支天』と呼ばれ、元禄16年(1703)の地震において焼失をまぬがれたことから、更に尊崇を集めました。摩利支天像は、明治3年(1870)に天守が取り壊された際に、永久寺(小田原市城山)に移されましたが、昭和35年(1960)に天守閣復興された際に遷都されました。小田原城天守模型の調査小田原市から委託を受けた・・・・・(後略)。市民による摩利支天安置空間再現摩利支天安置空間の再現にあたっては、かつての小田原藩有林などを中心とした小田原産材が用いられ、その多くは市民の寄付によりまかなわれました。切り出しや・・・・・・・・(後略)。14:00天守型厨子 (てんしゅがたずし)天守型厨子 年代未詳 小田原城天守閣蔵 高さ 161.0cm 幅 72.5cm 奥行 71.5cm摩利支天像が納められていた厨子で、小田原城天守の姿を模したものと思われます。一層部分には観音開きの扉があり、内部には金箔が貼られています。作られた時期は不明ですが、明治3年(1870)の小田原城廃城後に摩利支天像を安置していた永久寺(小田原市城山)刊行の「天守七尊」図には、本資料に納められた姿で摩利支天像が描かれており、昭和35年(1960)の天守閣復興の際に摩利支天像とともに小田原城天守閣に収められました。摩利支天と天守七尊摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。小田原城天守のものは三面六臀(さんめんろっび)(3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。また、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められています。江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年(1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。 ー 続く ー
2026.03.27
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この後、久しぶりに天守閣へ登城することに。2月6日(金) 12:50中国からの来日客は減少しているようだが、小田原駅から南下するお城通りには大きなスーツケースを持った観光客が往来していた。右の町並みは江戸っぽい雰囲気を出しているミナカ小田原で、レストラン、土産物店がある。ラスカ小田原の駅ビルを振り返る。旭丘高校前交差点に立っていた案内板、周辺案内図交差点から城址公園北入口へ向かった。右側はお城通りで、前方に東海道線に架かる青橋がある。正面に「小田原城址碑」が立っている。碑には「小田原城址」と。小田原城址公園北入口になる。小田原城案内図天守閣開館時間 9時~17時(最終入館16時半)。小田原城案内図案内図には小田原城正規登城ルートは、左の「馬出門」からの赤線であると。今回は、裏側のルートを選び短距離で登城。御用米曲輪北西土塁 国指定史跡小田原城跡御用米曲輪の外周部には、江戸時代に土を盛って造られた土塁が廻っており、この場所は北西土塁と呼ばれています。この場所は本来は土塁で塞がれていましたが、野球場として利用されていた時に開削されたこの場所を利用して、土塁の構築状況を確認しました。その結果、高さ5m以上に土を積み上げていたことが分かりました。ここから本丸側20mの場所で実施した発掘調査では、自然地形の尾根が確認されていることから、地形を巧みに利用し、その上に土を盛り上げて土塁が造られていることが分かりました。出土遺物などから、この土塁は江戸時代の寛永10年(1633)・延宝8年(1680)などに修復されたと考えられます。また、下層からは、戦国時代のかわらけが多く出土しており、土塁の下には戦国時代の遺跡が広がることが分かりました。発掘調査で確認された北西土塁の断面左図:文久図に描かれた江戸時代の御用米曲輪と北西土塁右図:現在地 2023.3 小田原市教育委員会かつては野球場であった、御用米曲輪。現在も発掘調査が行われている。発掘調査現場天守閣を望む。大掛かりな発掘調査が行われており立入禁止になっているのか。小田原城址公園北入口から天守閣への遊歩道を上り、柵越しに”御用米曲輪”を撮影。遊歩道脇には多くのパネルが掲示されていた。御用米曲輪の蔵跡 国指定史跡小田原城跡御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、曲輪への出入りは二の丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から黒門坂を下って入るしかありません。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輪」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。城絵図などの資料から、蔵の規模は3間×15間(約5.9m×約29.5m)で、文政4年(1821)頃には、北東土塁上に3棟、平場に3棟の計6棟の蔵が存在し、蔵には米のほかに、大豆、小豆、あらめ、塩、武具などが備蓄されていたことが分かりました。平成22~27年(2010~2015)に行われた発掘調査でも、6棟の蔵跡が確認されましたが、この中で6号蔵跡は、一番新しく19世紀以降に構築された可能性が高いなど、蔵の構築時期に差があることが分かりました。また、遺構からは、布基礎状に外周を掘り込み、人頭大の礫と土や砂利を積み重ねた重厚な造りの基礎であったことが確認されました。これらの蔵跡の遺構は重なっていないことから、場所を変えずに建て替えが行われてきたものと考えられます。蔵跡の周辺からは、徳川将軍家の家紋である三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多数出土しており、天守閣に展示されています。写真左上:文久図に描かれた江戸時代末期の御用米曲輪写真右上:調査で確認された6ヶ所の蔵跡写真左下:御用米曲輪から出土した三ツ葉葵紋の瓦写真右下:発掘された4・5号蔵跡の基礎瓦積塀で囲まれた空間 国指定史跡小田原城跡この場所は、御用米曲輪北西土塁の裾にあたり、瓦と土で積み上げられた瓦積塀が2列見つかりました。瓦積塀の奥には石垣が築かれ、手前からは柱穴列が見つかったことから、囲まれた空間が存在したと考えられます。囲まれた空間は約10m四方であり、柱穴列は柵などとみられます。柱の間隔が一部広く空く場所があり、この部分が出入り口である可能性があります。空間の底面には砂利が敷かれていました。石垣は北へと延びていますが、どのような構造が続くのかは不明です。瓦積塀は、基礎に根府川石を敷き、主に平瓦を転用して積み上げています。塀は、上部は後世の削平を受けており、もともとの高さや上部構造は不明ですが、残る瓦積塀の高さから150cm以上の規模を持つことが確認されました。瓦の年代から塀は元禄16年(1703)以降に築かれたものとみられます。この空間は、絵図や文献に明確な記載はなく、どのような使われ方であったのかは分かっていませんが、構造的には宗教施設や煙硝蔵等の可能性が考えられます。相次ぐ災害や明治時代の廃城により、江戸時代の建物の残っていない小田原城においては、江戸時代から遺る唯一の構築物ということになります。下左図:発掘調査で確認された空間中央上:江戸時代の絵図に見る瓦積塀の位置中央下:瓦積塀と基礎の石 (南東から)右 上:全景 (北西から)右 下:瓦積塀の側面 (北から) 2023.3 小田原市教育委員会戦国大名北条氏政はここで何をした? ー 史跡小田原城跡御用米曲輪現場説明会 ー 2月15日 (日) 10:00~15:00(12:00~13:00は休止) 担当者による解説 ①10:30~11:15 ②13:30~14:15 場所:小田原城址公園内御用米曲輪 昨年11月の現場説明会以降、新たに戦国時代の石組水路や建物跡などが見つかりました。 4代目当主北条氏政はここで何をしたのか? 今回の説明会では、そのナゾに迫ります。御用米曲輪の発掘調査現場を見下ろす。御用米曲輪の戦国時代のかわらけ御用米曲輪の調査では、戦国時代の素焼きの土器であるかわらけが大量に見つかっています。かわらけは、主に非日常的な儀式や饗宴などで酒杯や皿として用いられますが、再使用しない習わしがあります。大量に廃棄されたかわらけは、戦国期小田原城の中心でもあった御用米曲輪の様子を考える上で、重要な出土品です。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪の戦国時代の建物跡御用米曲輪の南西側には戦国時代の建物群が広がり、周囲には石組水路や石で化粧された井戸などが配置されていました。湯屋(蒸し風呂)の可能性が高い建物とつながる一番大きい建物跡は、趣向を凝らした庭園に面していました。小田原北条氏の主要な人物の居館であったことが推定され、戦国期小田原城の中心ともいえる場所でした。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている小田原市観光アプリケーション ARポイント 風魔小太郎 御用米曲輪江戸時代の御用米曲輪内の様子を再現しています。周囲をぐるりと土塁で取り囲まれた曲輪で、江戸幕府の蔵が最大6棟あって、米やアラメ、塩などが厳重に保管されていました。AR機能の使い方 ダウンロード無料 ①メイン画像「バーチャル歴史散策」をタップ ②「表示施設設定」をタップ ③「小田原城 御用米曲輪」のみにチェックし「設定」をタップ ④このポイントだけが表示されます。御用米曲輪の切石敷遺構御用米曲輪の南西側からは、切石を敷き詰めて造られた戦国時代の庭園の一部が発見されました。色の異なる切石をモザイク模様のように配し、切石敷の一角には板碑を転用した巨石が立てられていました。このような切石を多用する庭園は、小田原北条氏の本城である御用米曲輪以外にはないとても個性的なものです。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪の池御用米曲輪の南東側からは、16世紀後半に小田原北条氏によって造られた庭園の池が見つかりました。 安山岩製の石塔の四角い部材や風祭石、鎌倉石と呼ばれる切石を用いて護岸されていることが大きな特徴です。このような護岸がなされた池は全国的に例がなく、小田原北条氏の文化や技術を知るうえで重要な成果となりました。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている遊歩道を上ると天守閣下の石垣に突き当たる。この辺りでは城内整備工事が行われていた。城内案内板。御用米曲輪の瓦積塀御用米曲輪西側の土塁の裾の部分から、瓦と土で築かれた瓦積塀と呼ばれる当時の建物の一部が発見されました。相次ぐ災害や明治の廃城により、当時の建物の残っていない小田原城においては、現存する唯一の貴重なものです。江戸時代の絵図や文献史料には描かれてない建物跡が明らかになったことは、大きな成果でした。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている遊歩道脇のフェンスの合間から御用米曲輪を見下ろす。御用米曲輪出土の三ツ葉葵紋軒丸瓦平成22年度から実施した御用米曲輪の発掘調査では、推定15tを超える大量の瓦が出土しています。中でも徳川将軍家の三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多く出土したことが特徴的で、全国的にも最多の出土量です。御用米曲輪に幕府の蔵が置かれるなど、小田原城が徳川幕府と関わりの深い城であったことを示す重要な出土品です。 小田原市教育委員会御用米曲輪の蔵跡江戸時代の絵図には、御用米曲輪に江戸幕府の蔵が最大で6棟描かれています。発掘調査では北東側の土塁の上から3棟、曲輪内部から3棟の蔵跡の基礎が発見され、絵図の記載が裏付けされました。蔵には米のほかに弓や鉄砲などの武具や馬具、大豆や籾(モミ)、小豆、塩、アラメ(海藻)なども収められていたようです。 小田原市教育委員会右の上:文久図(部分):文久元~3年 (1861~63)頃右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪説明板前方に見える平坦な場所は、江戸幕府の米などを収める蔵があったことから御用米曲輪と呼ばれています。平成22年度から史跡整備事業に伴う発掘調査を行い、江戸時代の蔵跡、戦国時代の建物跡などが発見されました。現在、江戸時代と戦国時代の双方の小田原城の魅力を体感していただけるよう、整備工事を進めております。 小田原市教育委員会上記説明板の写真(空撮)。手前の広場が”御用米曲輪”、上の山は豊臣秀吉が陣取った石垣山。御用米曲輪を見下ろす。戦後は、野球場、臨時駐車場として使用されていただけに広い。国指定史跡小田原城跡小田原城は15世紀の文献史料に初めて登場し、その後、戦国時代には小田原北条氏の東国支配の拠点となりました。江戸時代には、現在見られるような天守や石垣を備える城に改修され、江戸の西の守りを固める重要な城でした。現在、二の丸の表門である銅門(アカガネモン)や大手筋の馬屋曲輪、馬出門の整備が進み、小田原城正面の景観が甦っています。 小田原市教育委員会小田原城の空撮(東側から)。本丸茶屋・売店横から上ってきた遊歩道を振り返る。多くの説明パネルがあった。樹々の間から御用米曲輪を見下ろす。本丸広場の公衆トイレ傍に立つ案内板。小田原城案内図 周辺案内図 本丸広場本丸広場 ⇦ 天 守 閣 ⇦ こども遊園地 休園中 ⇩ 常 盤 木 門 ⇩ 銅 門 ⇩ 馬 出 門国指定史跡 小田原城跡 小田原城天守閣小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)、二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1706)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。現在の天守閣は、昭和25年(1950)から3年かけて天守台石垣の復興工事が行われ、その後、観覧車が設置されるなどしましたが、昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興されました。そして、平成28年(2016)に「平成の大改修」として、耐震補強と大規模な展示リニューアルが行われました。左の絵図は上から、 初代 望楼型天守(加藤図)、二代目 層塔型天守(正保図)、三代目 層塔型天守(文久図)。右の上絵図、 文久図に描かれた江戸時代末期の本丸と天守 写真は中央から、 明治3年解体中の天守、明治26年天守台に建立された大久保神社 昭和30年頃天守台の観覧車、昭和35年天守閣復興工事小田原城址公園 花案内城址公園内では四季を通じて花が咲いておりその場所が記されている。各々の花の開花時期花ごよみ うめ 1月下旬~2月下旬 ふじ 4月下旬~5月上旬 さくら 3月下旬~4月上旬 はなしょうぶ 5月下旬~6月上旬 つつじ 4月中旬~5月上旬 あじさい 6月中旬~7月上旬 はす 7月上旬~8月中旬主な行事 梅まつり 2月上旬~2月下旬 小田原城あじさい花菖蒲まつり 桜まつり 3月下旬~4月上旬 6月上旬~6月中旬 小田原北條五代祭り 5月3日 小田原ちょうちんまつり 10月上旬 小田原城菊花展 11月上旬~11月中旬本丸広場から天守閣を望む。石垣からの高さは27.2mで、全国第7位の高さを誇る。最上階のデッキからは小田原市街地や相模湾などを一望できる。天守の鯱をズームアップ。天守へは今日は行列になっていないのでスムーズに登城できるようだ。桜まつりの時期には長い行列になっている。小田原城 天守閣 登城口小田原城天守閣「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、 入り口の「付櫓」、 両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。天守閣入場料:大人/510円、小中学生/200円。開門中 小田原城 天守閣 登城口13:15小田原城 入 館 料 :天守閣/大人 510円、常盤木門SAMURAI館/大人 200円 天守閣+常盤木門SAMURAI館の2館共通券/大人 610円 開館時間:9:00 ~ 17:00 (16:30 入館締切) 休 館 日 :12月31日 ~ 1月1日・12月第2水曜日 (天守閣のみ) ー 続く ー
2026.03.26
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ブログアップが遅れましたが、2月初旬にネットで小田原城跡の280本のウメが見頃であるとのことで訪れた。あわせて天守閣への登城が数十年前であったので、午前中はリハビリに行き早めの昼食をとり電車で出かけた。2月6日(金) 11:35いつもの駐輪場へ愛車のリンちゃんを預け茅ヶ崎駅へ。駐輪場は現在は無料。今日はカメラに「UVフィルター」を装着したので青空が映えない。割烹寿司魚重所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町3-24茅ヶ崎駅北口から徒歩数分にある老舗寿司店で、以前、”平塚から茅ヶ崎を歩くツアー”で昼食をとった所である。店先には、2月6日(金) ランチメニュー値段は2年前と同額であった。後日、訪れた”割烹寿司魚重”の店内。昼食をとるため息子夫婦と12時半ごろ訪れたが、店内は満席で約20分待ちであった。座敷席(椅子席もあり)、カウンター席とあった。”一口カツとあら煮定食”をオーダーした。税込1,400円。みそ汁にも魚のあらが入っており、ライスはお代わり自由であった。店先に「夜の部は予約のみ」との貼り出しがあった。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキワットマンBLiX茅ヶ崎店ペデストリアンデッキの茅ヶ崎駅北口大きな横断幕に、「SHONAN UNITED BG 2/20(金)18:30、2/21(土)15:00、4/11(土)15:00、4/12(日)14:00 会場 茅ヶ崎市総合体育館」と。JR茅ヶ崎駅改札口茅ヶ崎駅での改札はここ一カ所のみである。茅ヶ崎駅は3本のホームがあり、北側の1~4番ホームを見る。相模線の1、2番ホームのこの石は烏帽子岩に似ているが。説明板の字が一部消えていたが「開業90周年記念 烏帽子岩モニュメント」と。JR小田原駅小田原駅に隣接する伊豆箱根鉄道大雄山線で「大雄山線道了尊方面電車のりば」と。沿線には富士写真フイルムの工場がある。12:25ホームから3階の改札口へ。右上の壁には「相州小田原停車場」の写真が貼られていた。駅前には多くの乗り合いタクシーであろうか勢ぞろいしている。東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川 絵 師:歌川広重 制作年:天保4年(1833)頃 版 元:竹内孫八 判 型:大判錦絵 所 蔵:斎藤文夫コレクション色彩豊かな山肌の箱根連山。小田原城の城郭と宿場の家並を背景に、酒匂川が流れゆく。この川の往来は、川越し人足が旅人や荷物を運ぶ徒渡しでおこない、旅人が一人で川を越えることはできなかった。人足がかつぐ輦台には駕籠ごと載せられ、侍川越とよばれる経験豊富な人足が先導する。また、肩車で川を渡る旅人も見える。穏やかな流れのようであるが、河川敷には蛇籠をおいて洪水に備えている。天井から大きな小田原提灯が吊るされている。改札を出て振り返る。■ JR線近距離きっぷ運賃表 ■ 茅ヶ崎から510円小田急線乗り換え方向。コンコースの上には小田原だけにいろんな魚のイラストが掲げられていた。観光案内所の前に立つ風魔忍者(ふうまにんじゃ)。3階の小田原駅東口ステンドグラス東海道線のりば(上野東京ライン・湘南新宿ライン)改札口を振り返る。海鮮茶屋 魚國所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目1-9 ラスカ小田原 2階産直鮮魚と地酒にこだわる気取らない海鮮料理店で、天ぷらやご飯ものも提供している。人気店でいつも順番待ちの人が店先に並んでいる。店先にメニュー海鮮茶屋のお膳料理 刺身盛合せ御膳 2250縁(税込)、魚國の海鮮丼 2150縁 他多くのメニューがあったが、金額は2000~3500縁店先には順番待ちのお客さんが並んでいたが高齢者が多かった。東口にある2階のペデストリアンデッキから南側にある小田原城を見る。天守閣をズームアップ。出かけに嫁さんから「駅前にあんパンの有名店があるのでお土産に」と言われていたのでGoogleマップで調べ訪れた。駅前東通り商店街守谷製パン店所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目2-2小田原では歴史ある老舗のパン屋さんで”あんパン”は餡が多く美味しいと。店先にカラーコーンがあり一瞬定休日かと思ったが入口は路地側であった。店内に入ると、店員の方が5人ほどおられ手際よく対応しておられた。お土産にあんパンを3個、途中で食べるために”甘食”も2個オーダーした。帰宅後、嫁さんに渡したが以前に比べ小さくなったと!店を出て小田原駅側のアーチには「HIGASHIDORI」。横断幕には「小田原駅前東通り商店街」と。おいしいもの横丁ガイドマップ小田原駅前東通り商店街マップにはいろんな飲食店が記載されていた。東口バスのりば案内バスのりばへは、 ルート① 地下街を通ってご利用下さい。 ルート② エレベーター経由で2階デッキを通ってご利用下さい。小田原市全域案内図バス乗り場箱根方面のバスが発着する。小田原駅東口から南方向に目的地の小田原城がある。2本の石碑が立っていた。手前の石碑には「小田原高等学校 発祥之地」。明治三十三年(1900)神奈川県第二中学校設置が認可され、翌年ここ新蔵・揚土の地に開校した。その後県立第二中学校、県立小田原中学校と改称。大正三年、東海道線小田原駅開設のため、北条五代の小田原城趾であり宮内省の御料地であった八幡山の現在地に移転。昭和二十三年県立小田原高等学校となった。二本目には「あげつち(揚土)」。地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった、谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されていた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。バスロータリーを振り返る。ミナカ小田原入口万葉倶楽部が手がける商業施設で小田原駅に直結している。江戸っぽい外観が楽しい雰囲気で、レストラン、食べ歩きにむいたお店や、お土産屋さん等色々あるので館内散策するだけでも楽しいと。12:50ミナカ小田原前に出店していた「小田原みかん詰め放題」。1回300円と安かったが荷物になるのでスルーした。 ー 続く ー
2026.03.25
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伊勢原市の大山阿夫利神社の麓にある「大山新道おかめ桜並木」を楽しむ。3月14日(土) 13:40道路脇の広場に車を停めおかめ桜を観桜。県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)沿いに植えられている桜並木である。木によって差がありこの木は満開前であったか。イギリスから里帰りしたおかめ桜である。大山ケーブル駅方向へ少し上ってみた。伊勢原カントリークラブ入口を振り返る。昨年はここで引き返した。道路を横切り伊勢原カントリークラブのコースを見る。川は鈴川。未確認だが相模湾が見えていたか。ズームアップ。再度、伊勢原カントリークラブコースを見る。大山ケーブル駅方向の桜並木。スマホで「大山新道おかめ桜並木」が紹介されたので訪れる車が多く駐車していた。Googleマップで「大山新道おかめ桜並木」を検索するともう少し先であったので上ることに。伊勢原カントリークラブの入口から県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)を上ると、桜並木が続いていたので脇道へ入り停車。大山ケーブル駅方向の桜並木を見る。桜並木はおかめ桜。道路脇のおかめ桜と菜の花。大山バイパスへ出て並木を望むがまだ若木が多い感じがした。道路脇の看板に「大山小学校 学校農園」と。県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)を上り大山への入口にある、左側に「清水屋みやげ店」、右側に「かどや」。所在地:神奈川県伊勢原市大山295、296左側に広場があり、公衆トイレもあった。清水屋は夏場にはかき氷を販売し人気であると。更に坂道を登ると「丹沢大山国定公園」のゲートが建っていた。このゲートを潜るのは久しぶりであるが何度目になるか。県道611号線(大山坂戸線)を上り、大山旧参道入口。今回はここでUターンした。大山旧参道入口かつて江戸時代から大山詣で人々が渡った加寿美橋(何代目か)である。橋の袂に立つ看板案内板に「P 神社駐車場 この橋から約160㍍」と。この先から急な坂道を登り大山ケーブル駅へ。今回はここで引き返したが、機会があればこの先に駐車(無料)して散策したいものだが。大山旧参道入口の向かい側に鎮座していた「お稲荷さん」。交通量が多く、向かい側からズームアップ。大山旧参道入口から下り、石碑があったので道路脇へ駐車。御柱 (おんばしら)この御柱は、第五十六回を迎えた「伊勢原観光道灌まつり」において、姉妹都市 長野県茅野市のご協力による「御柱里曳き」に使用されたもので、 最大直径 一・○五メートル 長 さ 十三・五メートル 重 さ 四トン のモミの木です。 令和五年十月吉日 第五十六回伊勢原観光 道灌まつり実行委員会 協力 阿夫利陸2メートル四方の中に石碑が置かれていた。中央の石碑に「大山参道入口」と。最大直径 1.05m、長さ 13.5mの御柱。傍に駐車場がなかったので道路脇へ駐車した。車窓からの”大山新道おかめ桜並木”。大山バイパスの両側に植栽されているおかめ桜であった。先程撮影した伊勢原カントリークラブ入口には数台の車が駐車していた。伊勢原カントリークラブ入口から帰路につき県道603号線(上粕屋厚木線)を走る。前方は新東名高架橋。この辺りには「神成松遺跡」がありいまだ発掘調査が行われている。道路標識「新東名 3⃣ 伊勢原大山」。伊勢原へ来たら「寿雀」で卵を購入するのが恒例になっているのでこの後立ち寄ることに。14:20寿雀 直売所所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋47兎に角濃厚な卵であると。土日休日は開店前から行列となることが多いが、サイズを選ばなければ午後でも並ばずに購入できると。この時間帯は待つこともなくLサイズ(約500円)を2パック購入できた。営業時間 午前9:00 ~ 午後4:00定休日・・・第4日曜日・元旦しかし店先で撮影しようとして1パックを落とし7個が割れ2個は使用不可能に。落とした卵の後片付けは店の方が行うとのことでお願いし帰宅した。自宅には15時過ぎに到着した。急遽訪れた早咲きの「春めき桜」と「おかめ桜」であった。機会があれば大山の麓を散策したいものだが。 END
2026.03.24
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石庄庵と周辺の春めき桜を愛でる。3月14日(土) 12:45手打ちそば石庄庵所在地:神奈川県秦野市寺山1580 ☎ 050-5869-7909 (予約・問い合わせ)。蕎麦の自家栽培や地元野菜の地産地消を継承しながら、秦野の財産、丹沢の緑と名水を大切に考えているスローフード蕎麦店。全国約4万軒と言われるそば店の中で、つねにベスト100店に選ばれる、神奈川を代表する手打ち蕎麦店である。今回は1時間は待つようでスルーし次回の楽しみとした。予約可と。(以下3枚の写真はネットから)お品書き石庄庵そば懐石(右上) 3,500円税込み 新聞、そば専門誌、TVなどで広くご紹介頂いている一番人気のおしなです。天ぷら蕎麦(上) 2,100円税込、下は”せいろと天ぷらセット”か。第2駐車場から店舗を見る。バリアフリー化されていないので高齢者、障害者用の駐車場が店舗入口近くにある。多くの人が順番を待っておられた。満開の春めき桜を見上げる。第1駐車場を見下ろす。第1駐車場に隣接して西側にある「石彫の小径」。石彫の小径 施工協力者順不同石庄庵中丸の里山を守る会 特別警備保障 中野建設 秋山石材 亀川石材 関野 勇井上 進 奥津晶男 はだの南レディスクリニック 防犯カメラ設置 特別警備保障石碑に、 西巻一彦 石彫のある 小径 ー 石庄庵 ー 西巻一彦 プロフィール 1959 神奈川県横須賀市生まれ ・ ・ 2018 石庄庵に「西巻一彦 石彫のある小径」開園後方の高台に、待ち合い休憩テラスがある。園内には石彫作品が多数あったが説明板を見つけれず詳細は不明。園内には四阿、椅子席もあり休憩できるようであった。隣の第1駐車場に咲く春めき桜。この辺りには春めき桜以外の桜が植栽されていた。高台に店舗がありテラス席からそばを食べながらここを見下ろせる。ネットの中には何が植えられていたか。ワサビ畑かと思ったが。再度、春めき桜並木通りへ出る。バイク、自転車で訪れる人もいたがまだメジャーでない場所であるので人が少ない。まだ石庄庵へそばを食べにくる客筋がメインであるか。駐車場へ車を停め桜並木の上流側へ移動。満開の春めき桜であるが、最大の特徴である「香りの強さ」は感じられなかった。石庄庵の杜を望む。四季折々で違った光景になるのであろう。駐車場の手前が蕎麦畑になるのであろうか。ご夫婦であったようでまだ奥さんとペットを被写体に撮影しておられた。この畑には秋には白いそばの花が咲くのであろう。下流側の駿河橋上へ戻る。13:00この時間帯には駐車場は空いていたが、店舗前には順番待ちの人が多くおられた。春めき桜を約40分ほどの散策で楽しんだ。この後上流側へ上り帰路についたが次の目的地を、「大山新道おかめ桜並木」とした。石庄庵から狭いくねくねとした道を走り県道70号線へ向かった。道路脇に「手打ちそば 石庄庵 ➡ 500m」の案内板、道路標識、道祖神があった。道路標識に、「不動越 高取山 大山 ⇨」、下には「⇦ バス停 才戸入口」と。小径脇に置かれていた道祖神であったか。13:10石庄庵から県道70号線(秦野清川線)へ戻り坂を下り、国道246号の名古木交差点へ。ここを左折して国道246号を伊勢原方面へ走った。国道沿いのガソリンスタンドのレギュラー値段は187円/ℓとあった。国道246号は渋滞が予想されたがスムーズに走れ、昨年4月に伊勢原地区を動き回ったのでこの辺りの地理感があり坪ノ内交差点を左折し裏道を走った。県立いせはら塔の山緑地公園所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1804-1ここも何度か訪れており今回はトイレ休憩で立ち寄った。いせはら塔の山緑地公園パークセンター山の斜面に寒緋桜が植えられており満開に近かった。まだ若木の寒緋桜であった。ファミリーマート 伊勢原三ノ宮店所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1101-1石庄庵で手打ちそばを食べれなかったのでコンビニに立ち寄った。左側は東名高速道路。当店は東名高速の側道の三宮交差点脇にあり、伊勢原の渋滞区間を回避する裏道にある。近くに「三之宮比々多神社」があり昨年数回参拝し立ち寄っているコンビニである。窓ガラスに、「ファミチキ or レッド とおむすびセットで買うと 100円引き!! 3/23(月) まで」と。ファミチキの意味が分からず店員に聞くと、ファミリーマートが2006年から販売し、同ブランドの主力商品となっているフライドチキンであると。また、ファミリーマートはファミチキを自らの「看板商品」と位置づけており、世間一般からもファミリーマートを代表する商品と受け止められていると。購入は、おにぎり2個とファミチキをオーダーしたが暖かくジューシーで美味しかった。また、おにぎりも値上がりした分大きかった。ファミリーマートから県道612号線(上粕屋南金目線)を北上、大山バイパス入口へ。前方は、大山入口交差点。左折すると県道611号線の大山バイパスを走り「大山ケーブル駅」へ。目的地の「大山新道おかめ桜並木」は途中にある。大山入口交差点をズームアップ。石碑と石燈籠が立っている。13:40大山入口交差点から大山バイパスを2キロほど走ると桜並木が車窓に見えてきた。左側に「伊勢原カントリークラブ ⇦ 左折」の看板。スマホに「大山新道おかめ桜が満開」とあったので訪れたが、ここは昨年伊勢原の史跡を散策している時訪れた場所であった。その時は木の幹に「おかめ桜」の名札がなかったので桜の名は不明であった。既に満開の時期は過ぎ花びらが散っていた。枝先をズームアップ。 ー 続く ー
2026.03.23
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”手打ちそば石庄庵”周辺の春めき桜へ到着。3月14日(土) 12:20奥から引き返し道路脇に止め桜並木を見下ろす。スマホで紹介されたので桜見物、手打ちそば石庄庵への車が来ていたが桜見物用の駐車場がなかったのが残念。右側は棚田で、まさに里山の風景である。左側を流れる中丸沢沿いに植えられている桜並木である。更に左上には”東京カントリー俱楽部”のコースがある。手打ちそば石庄庵 (いししょうあん)所在地:神奈川県秦野市寺山1580 ☎ 050-5869-7909 (予約・問い合わせ)。最初からこの電話番号でカーナビをセットすべきであった。駐車場を探すが道路脇にはなく、石庄庵の駐車場を利用することにするが満車でしばし待機。ようこそ石庄庵へ訪ねてみたい蕎麦店 全国百選入選店蕎麦の自家栽培や地元野菜の地産地消を継承しながら、秦野の財産、丹沢の緑と名水を大切に考えているスローフード蕎麦店。全国約4万軒と言われるそば店の中で、つねにベスト100店に選ばれる、神奈川を代表する手打ち蕎麦店である。営業中 ● 午前11時30分より ● 休憩時間 午後3時00分~午後5時 ● ラストオーダー午後7時 定休日は毎週月曜日 祭日のみ営業 翌日振替え 丹沢里山の移り行く四季をお楽しみ下さい 春・・・・多品種の桜、眩しい新緑 夏・・・・棚田、ホタル、紫陽花 秋・・・・彼岸花、秋そばの花 初冬・・・里山の紅葉 冬・・・・空気が凛としています★ そばの里会員募集 ★ ● 竹炭焼き会 ● お米作り田植え ● ホタルを育てる会 ● そばの自家栽培 ● 手打ちそば教室 ● 陶芸教室 高齢者、障害者のお客様は、店舗入口の第2駐車場をご利用下さいませ。満開の春めき桜中丸の里山を守る会 春めき桜植栽地域この地域は2013年神奈川県で15番目の里地里山に指定されています。ふるさとの原風景を残す貴重な棚田や田畑、竹林、源氏蛍の生息地域でもあります。私たち中丸の里山を守る会は上流に桃の木の植栽、下流は早咲き品種の春めき桜の植栽を行い、地域やハイカーさんに花の美しさに感動を与えています。春めき桜は秦野市の桜の名所としても広報されています。又河川の定期的な清掃活動や道路の草刈を行い景観の維持管理をしています。主な活動として植栽の他、田植え、農業、炭焼き、桜祭り等を行い地域と一体に活動しています。この様な活動に興味をお持ちの方、募集中です、市内外問いません。 連絡先 0463-82-1222 石井みんなのふるさと豊かな自然を大切に守りましょう!!石庄庵の駐車場に車を停め、春めき桜の散策開始。満開の春めき桜春めき桜は、南足柄市発祥のサクラの栽培品種。2000年(平成12年)に品種登録された。花形は一重咲きで、開花期は3月中旬。最大の特徴は香りが強いことで、視覚障害者も香りを楽しめる桜として知られる。春めき桜は植物学的には、カンヒザクラとシナミザクラの交雑種であると考えられている。最大の特徴は、その圧倒的な「香りの強さ」にあると。だが私の鼻には届かない。中丸沢に架かる駿河橋蕎麦店の石庄庵へ上ってきた道を振り返る、この先にも石庄庵の駐車場があった。この橋が春めき桜並木の入口にあたる。橋の欄干に「駿河橋」と。この駿河橋の袂が春めき桜の起点になる。橋を渡ると200メートル程の春めき桜の並木が見える。駿河橋の下の斜面にも植栽されており桜の絨毯の如くに咲いていた。手打ちそば石庄庵の駐車場。ちょうど昼時の12時半で駐車場は満車状態であった。管理する人も不在で各自で駐車。駐車場入口前から上流側を望む。まさに満開の春めき桜であった。中丸沢の擁壁に「工事概要」。道路と中丸沢の間に植栽された春めき桜。手前には近年に植栽された桜もあり、幹には植栽者の名札があった。南足柄市で咲く春めき桜はもう少し赤みを帯びている感があるが。一般的に桜というと4月開花のソメイヨシノ「新入生を迎える桜」だが、『春めき桜』は3月に開花する「卒業生を送る桜」として愛されていると。後方の山には”東京カントリー俱楽部”のコースのネットが張られていた。桜の下では白いドレスを着た女性が犬を抱いて写真撮影。道路の左側は棚田であるので田植え後に再度訪れてみたいものだ。春めき桜の花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしていると。ズームアップ。青空に映える春めき桜石庄庵の駐車場を見る。手打ちそば石庄庵の店舗は前方の杜の中に建っている。黄色の花は菜の花ではなかったが。駐車場から店舗への入口に、毎週月曜定休日営業時間 (昼) 午前11時30分~午後3時迄 準備中 午後3時~午後5時迄 (夜営業)午後5時~午後8時迄 午後7時迄にご入店お願い致します 午後5時以降は電話ご予約をお願い致します タクシー手配は最終午後8時です 定休日 毎週月曜日、祭日のみ営業翌日振替休日以下は新聞の切り抜きから、寺山の春めき桜が開花 夜はライトアップも寺山の中丸沢の川沿いに植えられている春めき桜が開花した。この桜は「中丸の里山を守る会」(石井貞男会長)の会員が毎年のように植樹を続けてきたもの。川沿いを中心にその数はおよそ90本にまで及んでいる。春めき桜は、南足柄市で開発された早咲き種。ソメイヨシノより一足早く咲き、春の雰囲気が楽しめる。石井会長は「寺山の素晴らしい里地里山の自然環境を、地域の皆さんで楽しみながら保全している。今年も咲きだしたかれんな花を楽しみに多くの方に訪れて欲しい」と話す。また、夜はライトアップも行われている。先程から「・・さん何名様どうぞ」の声が聞こえていた。駐車場から階段を上り店舗へ行くが待ち時間があることを感じた。前方には「屋根付きの待ち合い休憩テラス」が設けられていた。”待ち合い休憩テラス”に貼られていた感謝状、神奈川新聞の記事他。訪ねてみたい蕎麦店全国百選 丹沢の懐 小蓑毛そばの里 手打ちそば 石庄庵 石庄庵の移り行く四季折々をお蕎麦とご一緒にお楽しみくださいませ● 1月、2月雪が降ると里山は幻想的な風景になります。● 3月~5月上旬迄石庄庵敷地内及び河川敷には約130本を超える桜の競演 (春めき桜、染井吉野桜、大島桜、枝垂れ桜、八重桜 桜切りそばの材料)● 5月~6月新緑と共に蛍池付近や河川敷で源氏蛍の観賞ができます (テラス席はご予約を)。● 7月~9月秦野の軽井沢石庄庵は標高230mで市街地とは外気が3度低いので涼しいですよ (8月のお盆には古代蓮も見頃です)● 10月第一駐車場隣の蕎麦畑にて可憐な白いそばの花が観賞出来ます。● 10月中旬~12月下旬駐車場隣の彫刻公園で10月桜も観賞出来ます。● 11月中旬~12月末は敷地内及び里山の紅葉が奇麗ですよ■ 手打ちそば 石庄庵の営業時間 午前11時30分より午後8時迄 午後5時以降はご予約をお願い致します。 休憩時間 午後3時30分~午後5時 午後5時以降ご予約お客様のお車配車は最終午後9時とさせて頂きます。 毎週月曜日定休 祭日のみ営業翌日振替休日石庄庵ドローン空撮 2024年 撮影者 神奈川新聞秦野支局長浅川氏待ち合い休憩テラスから店舗方向を見る。正面の三角屋根が店舗 (赤色)。第1駐車場からは階段がありバリアフリー化されていないが、高齢者用には店舗傍に第2駐車場が設けられている (右上)。水場にはフキの葉が育ち立札に、「秦野の水は環境省指定の『名水百選』」と。右側の庭に小さなな祠があった。立札に「隠れそば店 石庄庵の縁結び蕎麦」と記されていた。12:45矢張り店舗の前には席があり順番待ちの方が十数名おられた。待ち時間を尋ねなかったが今回は諦めることに。 ー 続く ー
2026.03.22
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スマホ情報で「秦野市寺山の春めき桜が見頃」とあったので急遽愛車のノートで出かけた。カーナビで住所を「秦野市寺山86-2」で設定するがヒットせず「寺山865-2」とでて仕方なくとりあえず出発した。近くに蕎麦屋があったのでそれにすべきであった。3月14日(土) 11:00急遽出かけることにしたので「昼食は不要と伝え」自宅を11時前に出発、県道44号線を西へ。いつも訪れる西久保橋の上には数人のカメラマンがこの光景を撮影に来ていた。寒川町へ入る。寒川南インタから高速道路を使用するかどうか迷ったが、到着時間を考え圏央道東名利用へ。東名高速道路の渋滞情報「秦野中井ー足柄SA 断続渋滞17km 80分」と。圏央道寒川南インタ圏央道の西側には富士の姿が見えていた。ズームアップ。圏央道の海老名南JCTから新東名高速道路へ入る。この辺りからの富士の全景は丹沢の山並みで裾野部分が隠れている。新東名厚木南インタ厚木南インタをズームアップ。右には大山が聳え、正面に富士と絶景である。願わくば富士の裾野が見れれば最高だが。伊勢原JCTの後方に大山が聳える。右側は新東名高速道路の高架橋。現在の新東名は「新秦野 ⇦⇨ 新御殿場インタ」間の高松トンネルの完成遅れで全線開通が遅れている。カーナビの案内で東名秦野中井インタを出た。国道246号の名古木交差点。カーナビの案内はこの交差点を横切り県道70号線(秦野清川線)をヤビツ峠方面へ。交差点脇にガソリンスタンドがあったが「レギュラー 179円/ℓ」と高騰していた。折角値下がりしたガソリン価格も、米国のイランへの武力行為で高騰。トランプ大統領の指示ひとつでガソリン価格高騰、株価下落と日本経済は揺さぶられている。カーナビのセットが曖昧であったので愛車は山中の狭い道路へと入ったので引き返した。11:55秦野市 東公民館所在地:神奈川県秦野市東田原1538-3カーナビのセットが出来ず館内の受付で尋ねた。スマホで探していただき「県道70号線へ戻り、道路脇に”手打ちそば石庄庵”の案内があるのでそれを目指してください」と親切に教えていただいた。東公民館前から富士が見えていたので公民館前の道路へ。観光案内標識があり、「関東ふれあいの道 ⇦ 源実朝公御首塚、下大槻 ⇨」と。東公民館前交差点からの富士。同交差点から富士をズームアップ。この先約1キロに”源実朝公御首塚”があるが今回は以前行っているのでスルーした。興味のある方は以前行った時のブログ「秦野にある源実朝公の首塚」👈をクリック願います。公民館入口に貼られていた「歴史と文化の里・東みちご案内」。 ②ヤビツ峠レストハウス ⑭源実朝公御首塚 ③菜の花台展望台 ⑮波多野金塊植物苑 ⑤大日堂 ⑯田原ふるさと公園 ⑨緑水庵 ㉒名古木の棚田 (北・南)東地区まちづくり運動実施委員会 令和4年11月16日 設置案内板には記載されていなかったが今日の目的地は「★」辺り。所要距離は約2キロほどであったか。東公民館はコミュニティセンターで地域の女性グループが集まっておられた。ブロンズ像は平成3年11月23日に設置された「慈愛 井上久照作」と。ここは旧東秦野村の役場跡で、駐車場には多くの車が駐車していた。公民館から教えていただいた県道70号線(秦野清川線)へ戻りヤビツ峠方面へ上る。電柱には「手打ちそば石庄庵」の案内板が多くついていた。県道70号線のバス停脇に石碑群があり駐車。バス停には「神奈中 東中学校前」と。後方には「東京カントリー俱楽部 ➦ 右折」の看板。右側の岩に石板がはめつけられ「清水湧水池跡」と。ふるさと秦野 景観100選 清水湧水池跡 (記念碑)新編相模國風土紀稿(1841年)に「此所清水湧出す 田間の用水として 又民家の用水ともなす」と記されている。かつてこのあたりに四カ所の湧水池があった。この地を「清水」と呼ぶのはこの湧水による。縄文中期から、この地で生活をしてきた先人たちの命の水でもあったこれらの湧水地は、2004年におこなわれた県道改修工事を最後に、その姿をすべて消し、東小学校・東中学校の校歌の歌詞にその影を残すのみとなった。人は歌うとき、おのずとその情景を思い浮かべる。この地に住む子供たちが、思い浮かべる「清水」として、先に私たちは記念の碑を建立した。このたび、秦野市は市制五○周年を記念して『ふるさと秦野景観100選』を選定したが、「清水湧水池跡」がその一景として選ばれた。私たちは、そのことを喜びとし、この案内板を設置した。 二○○七年 一月吉日 清水自治会左側には「久奈斗神(道・境の神)」「萬霊塔」と刻まれた石塔。県道70号線から斜め右方向の県道701号線(大山秦野線)へ入り、工事中で突き当たる。道路脇に「手打ちそば石庄庵」の案内板があり右方向へ。石柱に文字が刻まれていたが確認できなかった。左側にも壊れた石碑があった。右折すると直ぐにあった「文字道祖神」。文字道祖神と地蔵が数体集められていた。新東名の高取山トンネル出口(西側)上を越え、東京カントリー倶楽部の西側の谷戸へ下る。”手打ちそば石庄庵”の駐車場。中丸沢に架かる駿河橋を渡ると「石庄庵 P」の看板が。車窓には春めき桜の並木が満開であった。道路脇に駐車場がなかったので通り抜けた。坂を上り奥で引き返したが中丸沢の上流にピンクの花が咲いていた。”中丸の里山を守る会”が上流に桃の木の植栽、下流は早咲き品種の春めき桜の植栽したと。花桃をズームアップ。12:20春めき桜並木の最上流部から見下ろす。右側の広場は農耕地で駐車場としての整備は行われていなかった。 ー 続く ー
2026.03.21
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログ最終です。3月8日(日) 9:45この日は車で買い物に出かけたが西の空が晴れていたので小出川沿いに遠回りして撮影。新湘南バイパスの高架下から小出川の河津桜を望む、予想どうり富士が見えていた。石碑には「旧跡 懐島山 (ふところじまやま)」。小出川の河津桜まつりも3月8日まで。富士をズームアップ。茅ヶ崎JCTから延びる圏央道の高架。後方には大山が聳える。小出川の東側も市街化調整区域で田んぼが広がっている。箱根の山並み、金時山、富士を追う。新湘南バイパスの料金所辺りは高所になるので最高では。ダイヤモンド富士も絶好のポイントであろうか。愛車を西久保橋の東側下に駐車していつもの定点ポイントへ上がる。今年も多いに楽しませてくれた絶景である。西久保橋から下流右岸に咲く桜並木である。10:00今年も2月には下流の梅並木、3月にはここ小出川の河津桜と多いに楽しんだのであった。また、ここを訪れた時、下流の萩園橋までの両岸を歩く散歩道にもなった。また来年もアップすることを目指したいが・・・。ここからは嫁さんが昨年ネット販売で苗を購入して育てた庭の花をアップします。3月14日(土) 撮影玄関先に咲くパンジー毎日の水やり、花がら摘みと大変だがおかげで奇麗に咲いている。パンジー、ストック他の苗を購入して寄せ植えした。パンジーパンジーとの寄せ植え。白菜の花が咲いた。これからは脇芽を摘み食材に。パンジー、アリッサム地植えしたパンジー、アリッサムパンジーいろんな寄せ植えをしているが赤系統がないのが私にとっては不満であるが。嫁さんの好みは、白、青、黄色系統であったか、いつも意見が合わず。鉢植えのクリスマスローズ地植えのクリスマスローズをローアングルから追う。白の一重のクリスマスローズ地植えしたクリスマスローズの八重低いところに咲くので一重か八重か分からない。嫁さんに言われローアングルから撮影。白の八重もあった。ズームアップ。朝陽を浴びるクリスマスローズを撮影。オダマキ種が飛び散り咲いたオダマキである。リュウキンカも種が飛び散りいたるところで咲き乱れている。ワスレナグサ地植えのヒヤシンスも毎年咲く。ハナニラ多年草で毎年咲いてくれる。オキザリス球根性の多年草で繁殖力が強くカタバミの仲間である。ハクモクレン我が部屋から見え、昨年大胆に剪定したハクモクレンも2月下旬に咲き始めたが終盤に。これからは散った花びらの清掃が大変である。これからはサクラ前線が北上するがどこまで追いかけれるか。 END
2026.03.20
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログです。この日はその二日目で、西の空が青空であったので再度訪れた。3月5日(水) 9:30予想どうり車の車窓から富士山が全景をみせていた。ようやく富士山が全景をみせてくれた。この先で左折して左側手前に愛車をとめ散策した。いつもと同じように西久保橋上から下流側を望む。昨日は風が強かったがこの日は穏やかな日であった。まだ時間が早かったので訪れている人は少なかった。富士と箱根の山並みが良く見えていた。今年は富士の積雪は南側の静岡県側が多いようだ。西久保橋を渡り東側へ移動。ズームアップ。左側に金時山、倉庫の右側に矢倉岳、富士山と並ぶ。私以外にも数人の方がこの光景を撮影に訪れておられた。いつもの定点ポイントから撮影。対岸から撮影。寒緋桜越しの富士山この日も小出川を萩園橋まで下ることに。右岸の桜並木の上には富士の姿が。水鏡も映える。鉄塔も映える。途中で上流側を振り返る。桜の間に茅ヶ崎市環境事業センターの煙突。富士も奇麗に見えていた。富士をズームアップ。メイン会場近くにはキッチンカーが出店していた。対岸を幼児集団が”雀の学校”の如く賑やかに上ってきて集合していた。先生から集合がかかるとその途端に雀たちは静かに整列していた。キッチンカーは2台出店、農道には多くの車が止まっていた。幼児たちをズームアップ。”ファーム29萩園農園”には温室が多く建ち、電線が景観を失っている。下流側の萩園橋。ここからも富士が見えていた。天気が良く子供たちの集団が訪れていた。萩園橋から上流側へ上る。この日は何故か幟旗が立っていなかった。桜並木の全景親子連れのグループが多く訪れていた。メイン会場近くには多くの自転車が駐輪していた。キッチンカーは2店出店、車の上には富士の姿も見えていた。新しく建てられたESRの倉庫が景観を損なっている。既に散り始めた河津桜の枝も。車を西久保橋の西側に止めているので更に上流へ進む。数名のライダーが遊歩道に乗り入れ撮影に興じていた。ヘルメットを被っていたので最初男性かと思ったが女性であった。河津桜をバックに愛車を撮影。満開の河津桜、菜の花。女性ライダーは3名であった。話しかけると、撮影した写真はインスタ映えの写真に投稿すると。天気が良く穏やかであったので幼児連れのグループが多く訪れていた。最上流部から振り返る。ズームアップ。10:30平和な日本を象徴する光景である。約1時間の散策で後にした。 ー 続く ー
2026.03.19
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログです。3月4日(水) 11:25萩園橋から上流側を望む。堤にも菜の花急斜面を下り河川敷から見上げる。北からの強風に幟旗がはためいていた。水際にも遊歩道が欲しいものだが。階段がなく下りるのも大変であった。この日は風が強く幟旗がはためいていた。今年も多いに楽しんだ小出川の河津桜。メイン会場の標本木今年のソメイヨシノの開花は3月20日以降には咲くとの情報があり今年はどこへ行こうかと。続日本100名城とのコラボで行こうかと。桜の幹に名札「春めき桜」。春めき桜の蕾も赤く染まり開花間際に。おかめ桜も咲いていた。この時期、本場のJR根府川駅周辺も桜まつりが開催されている。可憐なおかめ桜をズームアップ。富士をバックに。新しく新設された倉庫が邪魔に。河津桜と菜の花のコラボ。菜の花の香りが漂う。幹に「玉縄桜」の名札。玉縄桜もいつのまにか満開に。青空に映える満開の玉縄桜。玉縄桜をズームアップ。河津桜と寒緋桜。二本の寒緋桜が満開に。満開の寒緋桜ズームアップ。昨夜降った水溜りに花びらが。一部葉桜になった河津桜もあった。ズームアップ。最上流部から振り返る。この景観を今年も何度撮影したか。今年も楽しませてくれた河津桜である。平日であったがこの時間帯には多くの人が訪れて来た。11:55最上流部の河津桜の下には休憩所があり、”花とともにくらす会”のメンバーが休憩。 ー 続く ー
2026.03.18
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茅ヶ崎市の”小出川河津桜”を追っておりますが、ここからも引き続き、天気が良い日に河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログです。3月4日(水) 10:50天気が良かったので愛車のノートで出かけ、西久保橋の西側の袂へ駐車して散策した。桜並木の最上流部から下流側を望む。一部葉桜になっていた。西久保橋の西側に上がり富士を望む、この光景が見たかったが残念ながら雲がかかっていた。圏央道の高架橋下を走る県道44号線。この先の相模川に架かる湘南銀河大橋からも絶景だが。前日雨が降ったので丹沢の山並みが白くなっていた。手前の大山にも雪が降ったようだ。いつものように小出川の両岸を歩くことに。西久保橋上では風が強かった。箱根の山並みが奇麗に見えていた。右側には雲がかかった富士。ズームアップ。この日は水曜日で訪れる人も少なかった。西久保橋を渡り左岸を下ることに。この光景を求めて望遠レンズを装着したカメラマンが数人訪れていた。何度もアップしているのでキャプションも省略。菜の花とのコラボ。寒緋桜、河津桜が満開に。鉄塔も全景を取り入れる。河川敷に水がたまり水鏡を追うが。河津桜の間に玉縄桜があり満開に。左奥には雪が積もった大山。雲がかかる富士も。左岸の菜の花。川面にはカワウであったか。上流側の河津桜。大山をバックに。メイン会場の河津桜。ここの小出川から見る富士も、建物、電線が景観を損なっている。大山の方向にも鉄塔、送電線と。厚木基地へ帰還する自衛隊機。萩園橋近くから上流を望む。萩園橋上からのぞむ。ズームアップ。11:25萩園橋からの右岸には桜まつり期間中で幟旗が多く立っていた。 ー 続く ー
2026.03.17
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今日もう一つのミッションが、肉の老舗香川屋分店で「今夜のお惣菜を購入」であったので久しぶりにサイクリングロードを走ることに。2月28日(土) 15:40相模川左岸河口からサイクリングロードの「柳島終点」へ。防砂ネットに「茅ヶ崎市柳島 柳島 終点」と。ここの表示板は終点となっているが、西側の起点であり7.7km先の鵠沼海岸までがサイクリングロードになっている。防砂林の中に寒緋桜が咲いていた。寒緋桜は下向きに釣鐘状に咲く。かつてこの花を知らないとき「下向き桜」と冗談を言っていたことを思い出す。ズームアップ。サイクリングロードを走ったがこの日は風もなく走りやすかった。風の強いときに一度走ったことがあるが砂が顔に当り痛かったことを思い出す。茅ヶ崎漁港近くの表示板。表示板に「茅ヶ崎市南湖 柳島 1.2km ⇦⇨ 鵠沼海岸 6.5km」。茅ヶ崎漁港駐車場営業時間は、4時から19時までとなっているので退場に注意する必要がある。開場が4時と早いのは釣り客の事を考えているのであろう。漁港の一画にレストランの「サザンビーチ ポセイドン茅ヶ崎」があり、ラーメンを食べ、釣りたての刺身を食べながら一杯飲める。最近は外国人住民も多い茅ヶ崎である。サザンビーチちがさきには「サザンビーチカフェ」、メキシコ料理店の「メサビア」がある。茅ヶ崎サザンCCの右側に人が立つとCの切れ目が繋がって円 (縁) になることから縁結びスポットとして有名である。烏帽子岩を真ん中にセットして撮る人も多い。”茅ヶ崎サザンC”から東側のサイクリングロードが工事中であった。かつては海側の右側に下っていたが直進するようにルート変更されていた。かつては防砂ネットの手前に「八大龍王神」が祀られていた。工事現場の傍に移動された八大龍王神があった。かつての、八大龍王神所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目海の安全と豊漁を守護する茅ヶ崎の八大龍王神のひとつである。表示板に「茅ヶ崎市南湖 柳島 1.7km ⇦⇨ 鵠沼海岸 6.0km」。工事現場に工事看板が立っていた。「サイクリングロードの整備を行っています 令和8年3月27日まで」「工事のお知らせ 令和7年5月26日から令和8年3月27日頃まで」と。工事現場を東側から見る。更にサイクリングロードを東へ向かって走る。こちらは自転車で走っているが、老若男女のランナーとすれ違う。ロード脇には防砂用の柵があるが風の強い日の翌日は堆砂して走れない。案内板に「茅ヶ崎駅入口」と。サイクリングロードから国道134号へ出ると「茅ヶ崎駅南口入口」の交差点。この交差点から茅ヶ崎駅南口は県道310号線で通称「雄三通り」と呼ばれている。ヘッドランドビーチ ウッドデッキ所在地:神奈川県茅ヶ崎市東海岸南4丁目9デッキ越しに江の島を望む。右側にはビーチがあり海にT字型に突き出ている人工岬がある。毎年初日の出で訪れるビーチである。サイクリングロードの案内板に「第一中学校入口」と。表示板には「茅ヶ崎市東海岸 柳島 3.2km ⇦⇨ 鵠沼海岸 4.5km」。案内板に「ゴルフ場入口」と。目的地の「肉の老舗香川屋分店」はここから北のラチエン通りにある。同入口から江の島を望む。江の島をズームアップ。多くのインバウンド客が訪れているのであろう。片瀬江ノ島駅周辺のビル群。海の中にはまだ数人のサーファーが楽しんでいた。江の島大橋をズームアップ。江の島花火大会もこの辺りで楽しめるか。沖合の烏帽子岩をズームアップ。午前中は釣り客が上陸しているがこの時間帯には茅ヶ崎漁港へ帰港。しばしサーファーの波乗りを追うが初心者であったか。防砂ネットの合間からこの後北上するラチエン通りを望む。ラチエン通りの名の由来は、ドイツの貿易商のルドルフ・ラチエンが、1932年(昭和7年)に建てた別荘沿いの道であったことに因み2001年2月に正式な愛称になった。国道134号の菱沼海岸交差点。正月恒例の箱根往復大学駅伝で応援する場所である。交差点からラチエン通りを北上、鉄砲道の松が丘交差点を横切り近づくにつれて幟旗が立っていなかったので嫌な予感が。肉の老舗香川屋分店ガラス戸に「本日臨時休業」と、メンチカツ、サザンコロッケを購入予定であったのだが、仕方がなくいつも行く「イオンスタイル湘南茅ヶ崎」へ立ち寄ることに。JR東海道本線異人館踏切ラチエン通りは、この先の国道1号(旧東海道)の松林中学校入口と、海岸線の国道134号の菱沼海岸交差点の間約2キロを呼ばれている。16:25線路脇に「異人館踏切 57K061M 茅ヶ崎市小桜町1」と。この名はイギリス人ボールデンの邸宅に因むもので、ラチエン邸とは関係ないと。庭先のハクモクレンが開花していた。例年は3月に入ってからの開花だが2月末に開花していた。これも温暖化の影響か。この日のリンちゃんでの走行距離は20キロ、歩行数は6,600歩であった。 END
2026.03.16
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小出川沿いを南下、国道1号(旧東海道)を横切る。2月28日(土) 14:45旧相模川橋脚所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目3こちらの史跡は、吾妻鏡によれば建久9年(1198)に源頼朝が渡った橋の橋脚とされています。橋脚が発見された経緯は、大正12年(1923)の関東大震災による液状化現象により水田から鎌倉時代の橋脚が発見されたというものです。プールの周りにはソメイヨシノが植えられていたが2月下旬でまだ蕾は固かった。この史跡も今まで何度もブログアップしているので今回はスルー。東海道本線の踏切へ。小出川沿いのサイクリングロードは整備されていないので川沿いを離れることが度々ある。踏切を渡り北側を振り返る。遮断機際に「松尾踏切 60K675M 茅ヶ崎市下町屋1-1」と。ここは東京駅から60キロ675メートルにあたるようだ。上り東京方面を見る。下りの平塚方面。電車はこの辺りでは高速の100キロ近くで通過するので近くにいると怖い。住宅街を抜け鉄砲道へ。この先の国道134号との三差路に「道の駅湘南ちがさき」があり、昨年の令和7年7月7日にグランドオープンした。鉄砲道に立つ「道の駅 湘南ちがさき」の表示板。駐輪場は国道側にあるのでこのまま直進。道の駅の西側から。15:00国道沿いに立つ「SHONAN CHIGASAKI」。実はこの日に”道の駅湘南ちがさき”を訪れたのは、旅友から届いた次のポスターから、「茅ヶ崎・藤沢・寒川産のお花が勢ぞろい! 湘南 花の展覧会 道の駅湘南ちがさき 2/28(土) 10:00 ~ 17:00 3/1 (日) 11:00 ~ 13:00 ※日曜日は販売会のみ実施」。東側の交流広場にはこの日もキッチンカーが出店していた。またテントが張られ白いジャンバーを着たスタッフがパンフレットを配っていた。テント脇に、掲げられていたパネル。GREEN×EXPO 2027GREEN×EXPO 2027は、国際的な園芸文化の普及や花と緑のあふれる暮らし、地域・経済の創造や社会的な課題解決への貢献を目的に開催される。会場の旧上瀬谷通信施設は横浜市の北西部(旭区・瀬谷区)にある面積約242haの平坦な土地、長年米軍に提供していたが、2015年6月に返還された。農業振興と都市的土地利用による新しいまちづくりを進めており、郊外部の活性化拠点として大きなポテンシャルを有している。【開催期間】 2027年3月19日(金) ~ 2027年9月26日(日) 約6か月間【博覧会区域】 約100ha(内、会場区域 80 ha)2027年国際園芸博覧会公式マスコットキャラクター トゥンクトゥンク 神奈川県GREEN×EXPO 2027 会場スタッフから頂いたパンフレット。休憩所の入口に、「道の駅 湘南ちがさき来場者 祝 100万人達成 ご来場いただきありがとうございます 2026.02.18」と。館内に入り、BBQの「ホノルル食堂」、スイーツの「Plenty's」が営業。Plenty's の前にはいつも長い行列。1階では地元野菜、鮮魚、弁当、湘南のお土産等を販売しているが地元人だけにまだ未購入。2階には、フードコートがあり「なんどき牧場」「田中水産ゆうまん丸」「ニコとモク」が、茅ヶ崎・湘南の”美味しい”が集う場所として、”茅産茅消(ちさんちしょう)”を大切に地元食材を地元で味わう、食の楽しみをご提案しますと。奥の西側からは「天気の良い日は富士山が見えます♪ サンセットも絶景!」と。右から「田中水産ゆうまん丸」「なんどき牧場」「ニコとモク」の3店。食べてみたい「なんどき牧場」。かつては市内の別の場所で営業していたがこちらへ移転。気になるメニューが、期間限定 広島県産 大粒牡蠣フライ 牡蠣フライ(2個)&茅ヶ崎メンチ(1個)定食 1600円 牡蠣フライ(2個)カレー 1500円 単品 牡蠣フライ 400円 2階の多目的スペースに「湘南の花の展覧会」の幟旗。横断幕に「藤沢・茅ヶ崎・寒川 湘南花の展覧会」と。会場には胡蝶蘭、切り花が展示されていた。切り花には名札があり、1,000円~/本の値段がついていた。鉢植えの多肉植物もあった。展覧会出品物の販売会が、3/1(日) 11:00~13:00 ※先着順(10:00~ 整理券配布) ※売り切れ次第終了 に行われると。2階のステージから東側を見下ろす。右下にはドッグラン(小型犬専用)がある。東側の交流広場にはキッチンカーが2台出店。奥には駐車場があり、普通自動車:160台、大型車:28台のスペースがある。国道134号沿いにある駐輪場。道の駅の2階を見上げる。そこからの景観は「天気の良い日は富士山が見えます♪ サンセットも絶景!」と。15:25国道134号の道の駅湘南ちがさき交差点。この後サイクリングロードを走り帰路につくことに。今日もう一つのミッションが、肉の老舗香川屋分店で「今夜のお惣菜を購入」であったので、交通量の少ないサイクリングロードを戻ることに。相模川左岸河口天気が悪く当然ながら富士山の姿は見えなかった。砂浜には整地作業用の重機が置かれていた。対岸の平塚側は夏には「平塚の花火大会」が開催される場所である。砂浜には釣り人が二人いたが高波に要注意!富士山が見えないと絵にならない場所である。湘南平のみが見えていた。相模川左岸河口には「柳島水再生センター」からの放流口があり下水処理の生物臭が漂う。またプランクトンが多いので釣りの穴場になっているが波が荒いので要注意!海鳥がいつも多く飛来している。東をズームアップすると、”柳島海岸の石積み”の先に江の島が見える。15:35昨年来た時はこの砂州は消失していたのだが。 ー 続く ー
2026.03.15
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この日はタウンニュースで「道の駅湘南ちがさき来場者100万人達成」の記事を見て、久しぶりに訪れることに。併せて遠回りをして満開の「小出川の河津桜」を連日観桜することに、愛車のリンちゃんででかけた。2月28日(土) 13:35茅ヶ崎市内を愛車のリンちゃんで動き回っているので頭にインプットされた小径を走る。日蓮宗法性山 妙運寺 (みょううんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保1564本堂の裏手を新湘南バイパスが走りJCTがあるが、静かな住宅街に佇む寺院である。寺院の前に駐車場がありその一角に河津桜が咲いている。ズームアップ。山 門境内にはいろんな建物があったが既にアップしているので今回は本堂のみを紹介。境内には落葉したイチョウの木が聳えている。本堂の扁額「法性山 妙運寺」。本堂前に立たれる、日蓮聖人像。妙運寺から小径を西へ向かい、新湘南バイパスの高架下から小出川の河津桜を望む。旧跡 懐島山 (ふところじまやま)所在地:神奈川県茅ケ崎市西久保附近新湘南バイパスの高架下にある旧跡で碑が立っている。天気が良ければ富士が見えるのだがこの日も残念ながら雲の中であった。小出川の東側も市街化調整区域になっているので田んぼになっている。石碑の碑文、旧跡 懐嶋山新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を歩んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤)を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。 平成二十七年三月 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会うっすらと大山が見えていた。ここから先は同じような写真が続きますが、西久保橋へ上がり西方向を望むがこの日も富士は見えていなかった。この日は土曜日で多くの人が訪れていた。座り込み宴会をする人も。湘南平の山並みが映える。桜並木の最上流部には座り込み談笑する人が。今年もこの光景を度々見ている。西久保橋から右岸へ下りたつ。満開の河津桜の下にはベンチが置かれていた。最上流部のこの辺りには既に葉桜もあったがまだ楽しませてくれる。菜の花も匂いをただよせながら鮮やかに咲いている。畑の農道から東側を見る。桜並木に出ると多くの人が上流側に向かって散策。満開の河津桜。昨日は1台であったがこの日は土曜日でキッチンカーも多く出店していた。自転車を道路脇に置き桜並木へ出る。いろんなカップルが桜を愛でに。この日は土曜日でメイン会場周りでは桜まつりが開催されていた。花とともにくらす会のメンバー(黄色)の方達もテントを張り世話をしておられた。昨年は甘酒を御馳走になったが売り切れになっていた。この手前の木は私にとって小出川の河津桜 ”標本木” であるのだ。満開の上流側。桜の下のテーブル席も満席に。一番最初に植えられた河津桜のトンネルである。樹齢25年になる河津桜である。桜の下にはリュウキンカが咲いていた。トンネル内から見る。次世代の若木も植えられていた。農道にキッチンカーが出店。まとまった駐車場がないため訪れた人は道路脇に駐車して散策となる。地元野菜の直販も行っていた。14:35コミュニティバス停留所には上下線ともに多くの人が待っていた。一時間に一本の運行であるのだが事前に調べておられたのであろう。鶴嶺北コースは「14:38発」であった。この時刻表は上記写真の右側のバス停に立っていた。14:35萩園橋上から上流側を望む。この後小出川に沿って南下し昨年グランドオープンした「道の駅湘南ちがさき」へ向かった。 ー 続く ー
2026.03.14
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会場の対岸を歩き「小出川の河津桜」を追った。残念ながらこの日は曇り空で富士山も見えなかったので被写体は河津桜に。2月27日(金) 14:50メイン会場の河津桜を追う。小出川の左岸を下り萩園橋へ。神奈川県立茅ケ崎支援学校の西側にも河津桜が植えられている。メイン会場を振り返る。上流側の鉄塔群。何処から送電されているのか気になるが。圏央道の高架橋が横切る。桜並木をズームアップ。メイン会場を望む。萩園橋近くから上流側を望む。この時期は寒いので長いものがいないので安心して歩ける散歩コースである。萩園橋上から振り返る。鉄塔の水鏡を追ったが。河川敷にサギが飛来していた。一瞬のうちに長いくちばしを水中に突き刺していたが。小魚を捕らえたか。吞み込んでいた。萩園橋から上流側へ上りメイン会場へ戻る。両橋間の両岸を歩いて約3,000歩になる。左側の駐輪場には愛車のリンちゃんのみになっていた。下流側の萩園橋を望む。上流側には多くの人が訪れていた。先程まで河津桜の下で宴会をしていた人も帰路についていた。ズームアップ。掲示板に貼られていた今年のポスター。両岸を一周し上流側を望む。この日は平日であったが多くの人が訪れていた。満開の河津桜を見上げる。キッチンカーは軽四トラックを改造した「たこ焼き専門店」であった。明日は土曜日で多くのキッチンカーが出店する。種々たこ焼きは「6個入り 500円」。アルコールも販売「レモンサワー、ハイボール 各550円」と。左側の高木は昨年咲いた「リュウゼツラン」。リュウゼツランはシャープで肉厚な葉をもち、大地に根差す逞しさが魅力の多肉植物である。開花までに数十年かかるという珍しい特徴があり、タウンニュースで紹介されていた。LOPIA 茅ヶ崎店所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1270-1知人から安いということで立ち寄ったが支払いは現金のみとのことで今回は購入を止めた。いつも利用している ”CREATE” が同居する店であった。カートは前払いで100円が必要で使用後返却されるシステムになっている。JR相模線の北茅ヶ崎駅へ戻る。新しく完成した、東邦チタニウム茅ヶ崎工場事務棟。東邦チタニウム正門前に鎮座する「三嶋社」。タウンニュースで「事務棟が『ZEB』取得」と紹介されていた。ZEB(ゼブ:ネット・ゼロ・エネルギービル)とは、電気や熱などのエネルギー使用量を多く減らすために、高い断熱性能の壁や窓、電力消費の少ないLED照明などの省エネ機器を駆使し、それでも減らせない分を太陽光発電などの再生可能エネルギーを利用して賄おうという考えで設計・建設されたビル。ZEBの認証を取得したビルは茅ヶ崎市内では初で、神奈川県内でも2例目だと。この先では「一旦停止」の取締りをやっているので要注意三差路である。北茅ヶ崎駅を望む。相模線も電化され、後は複線化を残すのみだがいつ完成するのか。複線化されると橋本駅、茅ヶ崎駅間の所要時間も大幅に減少されると思うが。また、寒川町の倉見駅には東海道新幹線駅の計画があるがこの実現もいつになるのか。北茅ヶ崎駅の東側には居酒屋、中華店が5軒ほどある。焼鳥トサカ所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844市内のいろんな催事にキッチンカーで出店、焼き鳥等を販売している。中華 のんち所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパートテレビで全国放映されて以来いまだ行列をなしている人気中華店である。Rakuten BLOGの某さんも遠方から訪問し、ブログアップしておられた。16:15この時間帯には閉店となっている。放映前は夜の部もあったが現在は昼間のみの営業になっている。テイクアウトできるのでいつか購入したいと思っているのだがいまだ実現していない。この日河津桜が満開になっていたので2月28に「速報 河津桜が満開に」でブログアップした。 ー 続く ー
2026.03.13
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この時期遠出をしないので地元の「小出川の河津桜」を追った。残念ながらこの日は曇り空で富士山も見えなかったので被写体は河津桜に。2月27日(金) 14:20お子さんが一人で走っていたが小出川の斜面が急なだけに危険予知を感じるが。将来は木製の柵でも必要ではと思うが。満開の河津桜。送電線の鉄塔の水鏡も追ったが。このご婦人もしばし立ち止まり携帯電話の操作に夢中であった。匂い漂う菜の花と河津桜の競演。構図を考えながら撮影したが空が曇っていて映えない。菜の花も”花とともにくらす会”のメンバーが植えられたものである。玉縄桜が二本植えられており満開になっていた。玉縄桜も早咲き桜の一つである。河津桜をバックに玉縄桜が映える。余談ですが、元祖の伊豆の河津町では「第36回 河津桜まつり」が、2/7(土)~3/8(日)まで開催されているが遠距離であるので今年も地元で楽しんでいる。ここ茅ヶ崎でも外国人がチラホラと確認できたが、地元企業への就労者であろうか。今年は熱海の「あたみ桜」も観桜した。河津桜の間により赤い寒緋桜も数本植えられており満開になっていた。寒緋桜の花は中輪の一重咲きで、釣り鐘状の下向きに閉じたような半開きの形で咲き、濃い紫紅色の花弁を付けるのが最大の特徴である。寒緋桜の交配種には、 ・河津桜 ・熱海桜 ・寒桜 (鎌倉) ・おかめ桜 ・大寒桜 等とあり、それぞれ寒緋桜の紫紅色を引き継いでいるようだ。河津桜と寒緋桜の競演である。河津桜は寒緋桜の紫紅色を引き継いでいるので赤みを帯びている。この女性が一人ポーズをとっていた。このような動作をするのは、中国、韓国人であろう。県道44号線へ上がり西久保橋上からいつものように下流側を見下ろすが逆光で。先程の女性が人ごみの中で手を上げていた。ズームアップ、この女性はインバウンド客であったか。橋の上では望遠レンズを装着したカメラマンが待機していた。天気が良ければ右側に富士が見えるのだが。カメラマンのレンズにはこの映像か。西久保橋を渡り東側へ移動。西久保橋の中央から河津桜並木を望む。河津桜並木の後方の中央には新しく建設された倉庫の「ESR茅ケ崎ディストリビューションセンター」、左側には「茅ヶ崎市環境事業センター」の煙突が建っている。圏央道の高架橋に、「小出川渡河第二橋梁(P1L) 2003年1月 関東地方整備局 道 示 (1996) B活荷重 使用鋼材:SM570、SM490、SM400、SS400 製 作:東綱橋梁株式会社」下には、塗装年月 2002年12月の「塗装記録表」が記されていた。ここは私にとっての定点撮影場所である。残念ながら富士の姿はなく。カメラを左に振り桜並木を追う。ここからは左岸からの撮影です。先程のカメラマンが女性の傍で撮影していた。ズームアップ。女性はモデルではないようであったが。ふたりの撮影場面を追った。満開の河津桜と菜の花。こちらは親子連れで、お子さんは新しい制服を着て記念撮影か。再度カップルを追う。人通りが多くワンちゃんを連れた人が来て撮影中止に。このような情景を追うのも面白い。河津桜と寒緋桜の前で撮影に夢中。こちらでは愛犬の撮影に夢中。14:50このヤシの木の下流側が最初に植えられた河津桜であろう。 ー 続く ー
2026.03.12
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今年も地元で咲く河津桜を追いかけたブログです。この日は前回訪れた21日(土)以降悪天候が続いていたので、曇り空であったが愛車のリンちゃんで出かけた。また、小出川の河津桜へ行く途中に、市内で咲いていた早咲き桜を追った。2月27日(金) 13:20国道1号(旧東海道)の本村交差点から北上する県道404号線沿いの”東和茅ヶ崎ハイタウン1号棟”近くの公園に、早咲きの桜が1本咲き春の訪れを告げている。下から見上げるが桜の名札はなかった。スマホのカメラ機能で検索し「河津桜」と出たが。ズームアップ。国道1号(旧東海道)の本村交差点に聳えるタブノキ。この交差点から北側へ延びる県道404号線。写真はかつて撮影したもの。本村のタブノキ指定理由 市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。市街地では珍しく自然 の形で大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に変わらない姿で 在り続け、緑のある沿道の景観を創り出している。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第4号 平成23年8月22日 茅ヶ崎市指定交差点から北側へ走る県道404号線を見る。この先は下り坂に。タブノキを見上げる。タブノキの下から交差点を見る。タブノキは2本であったか。この交差点から”一中通り”を南下して約2キロで「茅ヶ崎パーク(ヘッドランドビーチ)」へ。枝別れしたタブノキを見上げる。左側のこの道は旧鎌倉街道にあたる小径である。タブノキは3本であったようだ。ここに咲く河津桜も眼を楽しませてくれる1本である。国道1号の本村交差点近くに咲く河津桜である。残念ながら曇り空であったがかつて朝の通勤時に楽しませてくれた河津桜である。旧鎌倉街道に入り振り返る。説明板に樹齢は書かれていなかったが江戸時代or鎌倉時代からのものか。民家の庭先に咲く河津桜である。本村交差点から旧鎌倉街道の一部、第1カッターきいろ公園(中央公園)の北側を走りここへ。この道は国道1号の北側を並行して走るルートであるのだが。パークスクエア湘南茅ヶ崎北側。右側の小径は「一旦停止」等の交通違反取締ポイントであるので要注意である。この先西側にも広い道が整備されているのだが物置等が置かれている。地域住民の反対かスチール製鉄板で遮断されている。西側へ回り込み野球供の住宅前から振り返る。この道に国道1号の迂回路として車が入ってくるとこの生活感は失われるであろう。矢畑の新興住宅街を抜け鶴嶺通りへ。徳多屋 本店(持ち帰り専門)所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑403−1 1F刺身や寿司の他、店先で三浦産の大根やスイカを販売している時がある。店先にはマグロのオブジェが置かれていた。鶴嶺八幡宮前の通りにある鮮魚店で、他にも肉屋、和菓子屋さんがある商店街である。鶴嶺通りの新鶴嶺橋(赤橋)から小出川沿いを北上。右側は河津桜が咲く前に眼を楽しませてくれた梅並木である。浜園橋周りの「小出川の護岸整備」が行われており、工期は令和8年7月31日まで。浜園橋が架け替えられ護岸工事が行われている。河川敷の土砂も除去され流れも良くなるのであろう。浜園橋を渡り上流側から振り返る。同地点から上流側を望む。この先は三月下旬頃からソメイヨシノが咲き乱れる小出川の右岸である。萩園橋から上流側へ進む。左側が駐輪場になっていた。小出川の河津桜所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番前回訪れた21日は咲き初めであったが6日ほどで満開になっていた。急な斜面を下り見上げる。河津桜はやはり菜の花との競演である。キッチンカーが1台出店していた。テーブル席では多くの訪問者が携帯電話を操作、写真を送信しているのであろうか。満開のトンネルを抜ける親子連れであったか。上流側の河津桜も満開になっていた。河津桜の根元にはクリスマスローズが咲いていた。下流側の萩園橋を望む。南足柄市発祥の「春めき桜」、別名「足柄桜」と呼ばれている。春めき桜の蕾は固かった。こちらの木は「おかめ桜」で蕾も膨らんでいた。可憐なおかめ桜が一部咲いていた。淡い紅色の一重咲きで、花が下を向いているのが特徴であると。また、おかめ桜は、1947年にイギリスで誕生し日本に里帰りした珍しい品種である。最近人気があり各地に植えられていると。近場では小田原市の根府川が知られている。上流側の西久保橋へ向かって歩く。14:20小出川の斜面に咲く菜の花は自然に生えたのであろう。 ー 続く ー
2026.03.11
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しばらく、今年訪れた茅ヶ崎市の「小出川の河津桜」をアップします。前回の第3弾は2月12日(木)に訪れ、その時は「蕾も多少赤みを帯びていた」が、それから10日を経て、いよいよ開花が始まっていた。2月20日(金)タウンニュースにも記載された「第17回小出川桜まつり」。期 間:2月22日(日)から3月8日(日) までの土日祝日最近はGoogleにも開花状況がアップされ知名度が上がっている。日々の”花とともにくらす会”のメンバーさん達の地道な努力結果であろう。2月21日 (土) 13:50小出川の河津桜所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番桜まつりの22日(日)は天気が悪いとの情報から前日のこの日に訪れた。この日はリハビリも考え愛車のリンちゃんで訪れた。既に多くの人が訪れていた。掲示板があるメイン会場。護岸工事竣工で8本の河津桜がここへ植えられたのが始まりで、植栽後25年を経ていると。この日はキッチンカーの出店はなかった。ベンチも置かれ食事可能になっている。左奥に仮設トイレが置かれているが平日は施錠されていた。枝を見上げると三分から四分咲きであったか。他の枝を見る。開花状況も木の樹齢によって違っているのか。小出川の土手沿い右岸(西側)に約70本ほどの河津桜が菜の花と一緒に咲く。2026年 第17回小出川 桜まつり 2月22日(日)から3月8日(日)まで ともに10時より14時まで ※雨天などの日は中止 土、日、祝日は重点開催日この後、観桜しながら上流側の西久保橋まで上り、東側に渡って萩園橋まで下ることに。一周すると約3,000歩の散歩コースになる。この枝の開花は二分咲き。河津桜以外にも「寒緋桜、おかめ桜、春めき桜、玉縄桜」の4種が植栽されている。おかめ桜はまだ蕾が硬かった。おかめ桜は若木で10本近く植えられていたか。上流側の方の開花が早い。河津桜と菜の花のコラボ。菜の花の臭いが漂う中、簡易椅子に座り河津桜の下で談笑するご婦人。河津桜をズームアップ。この桜は玉縄桜であったか、こちらも開花し始めていた。玉縄桜と河津桜。玉縄桜の花と蕾。中央に2本の寒緋桜、両側に河津桜が咲く。望遠レンズを装着したリュックを背負ったカメラマンが追うのは・・・。寒緋桜は開花前で、蕾は大きく膨らんでいた。寒緋桜の蕾を追うメジロが囀りながら動き回っていた。カメラマンもメジロを追っていたのか。メジロの眼をキャッチした。メジロの撮影は我慢が必要である。河津桜の蜜を吸うメジロ。河津桜と寒緋桜の蜜度の違いがあるのか。上流側から振り返る。ここは西久保橋の袂で、ここの右側にも駐車できる。最上流部で西久保橋の西側下。車の場合はここへ駐車している。県道44号線の西久保橋へ上がり下流側を見下ろす。西久保橋の東側から見下ろす。この日は薄曇りで富士は見えなかった。県道44号線の上に圏央道が走りこの先にいつも利用する寒川南インタがある。富士の頂上部がうっすらと見えていたが。小出川の左岸におり萩園橋まで下ることに。対岸には開花も始まり犬を連れた人、子供連れの方が記念写真に。水鏡を期待したが水量が少なく。左岸の土手の草は放置され伸び放題に。メイン会場の8本の河津桜。正面から。河川敷へ降りたいが土手の傾斜がきついので高齢者にはつらい。こちらの左岸側も草が伸び放題で無理。地域の人々の散歩コースにもなっているようだ。下流側の萩園橋から上流側を望む。後方を圏央道の高架橋が横切る。水面に映える、二基の送電線の鉄塔である。小出川の河津桜会場へはコミュニティバスでと。アクセスは鶴嶺循環私立病院線北コースの「萩園橋」で下車。少々疲れていたが「コミュニティバス 19 萩園橋」と。予定時刻表 19 萩園橋鶴嶺北コース 運行は1時間に1本と少ない。近い将来には先日乗車した「自動運転バス」になるので あろうか。「茅ヶ崎市が自動運転バス」👈をクリック願います。バス停案内図 運賃:大人 200円、小児 100円こちらも疲れた案内図である。このようなメンテをするために市民からの募金をやったらどうかと思うが。萩園橋。最近は「消費税ゼロ」という政党が多くあるがやはり国民は税金は納めるべきではと!因みに、市民ひとり「1,000円運動」で呼びかけると20万都市(茅ヶ崎)では2億円になるが。萩園橋から小出川の右岸を上り会場へ。駐輪場はこの先にあった。小出川の上流側を望む。今年が「第17回小出川桜まつり」となっているがいつまでも継続されることを願う。14:50メイン会場のテーブル席には多くの来訪者が休憩していた。この日も西久保橋、萩園橋の両橋間を散策したがこれからのリハビリコースにしたいと。開花が始まった河津桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.03.10
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途中から「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って歩き、下曽我駅へ。2月4日(水) 15:20城前寺の下の辻に立っていた案内板 (上段)。国府津・曽我丘陵ウオーキングコース曽我の里散策コース(見晴らしコース)⇦ 宗我神社 310m 祐信の墓宝篋印塔 1,250m ⇨ 瑞雲寺 1,120m 六本松跡 1,900m 下曽我駅 2,220m案内板に「下曽我駅 2,220m」とあり「エッ、まだそんなにもあるの」と思ったが、この距離は「曽我の里散策コース(見晴らしコース)で瑞雲寺経由」の距離であったようだ。ここから直接下曽我駅へは約300~500メートルであった。宗我神社の参道入口に建つ青銅製の宗我神社鳥居。ここから宗我神社までは坂道で急であったので今回はスルーした。標柱に「右□ 曾我兄弟遺跡城前寺」と。写真は前回訪れた昨年9月23日(火) 午後に撮影した。宗我神社社殿所在地:神奈川県小田原市曽我谷津386宗我神社は、長元元年(1028)、宗我播磨守保慶の建立で、宗我氏の祖先を祀った神社といわれている。曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)のそれぞれの鎮守を明治時代に合祀し、曽我の里の総鎮守となっている。現在の社殿は大正12年(1923)の関東大震災後に復興したものであると。県道72号線(松田国府津線)から小径に入り下曽我駅へ。小径から振り返り交差点は「下曽我駐在所前」。一方通行の道を進むとGoogleマップに「道祖神」があった。所在地:神奈川県小田原市曽我原562-2双体道祖神15:30JR下曽我駅前へ到着。国府津駅から歩き始めて約6時間を要した散策であった。途中から「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」の案内板に従って歩いた。下曽我駅はレトロな駅舎。下曽我駅は大正11年5月15日に開業。 近くには、梅の名所である曽我梅林があり、毎年2月上旬から2月下旬まで開催する「梅まつり」の期間中には、多くの観光客で賑わう。また、小田原市では、平成4年(1992)3月に駅の近くに「梅の里センター」を開設した。壁面に「JR 下曽我駅」と。駅舎に絡んだ梅の木。駅舎内、16時前で有人であった。近距離きっぷ運賃表茅ヶ崎 420円、横浜 990円、東京まで1,520円。下りは御殿場 590円、沼津 990円。御殿場線の運行本数は1~2本/時間と少ない。上り16時9分に乗車することに。下曽我駅観光案内図駅からの徒歩時分 小田原球場 約22分 中河原梅林 約7分 別所梅林 約17分 城前寺 約7分 原梅林 約8分駅舎内に貼られていたポスター第56回 小田原 梅まつり 2026年2/7(土) ➤ 3/1(日) 写真は「曽我梅林と富士山(関東の富士見百景) 約35,000本の白梅が開花」。ポスターの裏面に、小田原梅まつり 曽我梅林案内図 令和8年2月7日 (土) ~ 3月1日 (日) この地図は富士山を左手側に合わせてご覧下さい。左上には、下曽我駅では「Suica は使えません」と。この小径を下りて来た。駅前ロータリー駅前には銅像のほか説明板もあったが前回撮影しているので今回はスルーした。曽我乃正栄堂 (株式会社正栄堂)所在地:神奈川県小田原市曽我別所808明治38年(1905)に創業した和菓子屋で、お土産にと思っていたが残念ながら定休日。小田原市梅の里センター所在地:神奈川県小田原市曽我別所807-17前回入館していなかったので、乗車時間まで時間があり立ち寄った。梅の里センター受付とあったが。1階には、梅干をはじめとする地元の特産品がずらりと並んでおり、また、梅に関する展示も多数あったようだが少々疲れシャッターは・・・。館内には休憩所もあった。来館者も少なく”梅の里センター”の見学もほどほどに下曽我駅へ戻った。駅の改札口は昼間は有人だが16時以降は無人になると。案内図に「Suica は使えません」とあったが、Suicaで入った。駅のホームは1面2線であった。ホームから富士を望む。下り線の松田、山北、御殿場方面。ズームアップ。ホームの行き先表示板。下曽我駅の西側にある”駅裏ロータリー”。かつての御殿場線は複線であったので現在の西側は空地に。戦時中に鉄材供出でレールを撤去し単線になったと。ホーム上から北側の丘陵地にある「中河原配水池」を望む。小田原市高田にある高田浄水場にて処理された水は、ほぼ全てこの配水池に送られている。丘陵地には3つのプールがあり、総容量は26,000㎥。標高73.9mにあるこちらから小田原市内の約7割の家庭へ水を送っていると。乗車する上りワンマンカーが入線。電車は2両編成であったか多くの人が乗車していた。中には大きなスーツケースを持つインバウンド客もおられ、富士山観光の後か。ホーム上に「名所案内」。曽我兄弟の墓 城前寺境内 東 300m曽我の梅林 2万㎡の敷地内に約35,000本、見頃・2月中旬~下旬 北 1kmハイキングコース 下曽我駅 ~ 中河原梅林 ~ 瑞雲寺 ~ 城前寺 ~ 別所梅林 ~ 原梅林 ~ 下曽我駅 (所要時間 徒歩1時間) 上りの国府津方面。国府津駅では、上りの東海道本線はホームが違い時間もなく急いで乗り換えた。到着16:15、国府津発16:18と3分間の乗り換えであった。16:41茅ヶ崎駅到着。下曽我駅で Suica で入ったので精算は有人窓口で行った。下曽我駅はJR東海、茅ヶ崎駅はJR東日本のため Suica は使用できないと。茅ヶ崎駅北側のペデストリアンデッキでは演奏家が演奏、多くの人が聴き入っていた。楽器はサクソフォンであったか。北口のペデストリアンデッキには茅ヶ崎ゆかりの人の5人の手形モニュメントがあるが、その袂に幟旗が立っていた。幟旗には「市民栄誉賞 受賞 長谷川 優美」と。長谷川選手は日本初開催となった「東京2025デフリンピック」において、バレーボール女子日本代表として出場し、宣言通りの全勝優勝を成し遂げ、金メダルを獲得した。同賞の受賞者は長谷山選手が10人目になると。かつては「イトーヨーカドー」の看板であったが昨年「BLiX」に変わった。愛車のリンちゃんを預けている「イオンスタイル湘南茅ヶ崎」の駐輪場へ。国道1号(旧東海道)の松並木。17:00朝8:50に愛車を預け約8時間後に戻ってきた。かつては駐輪料金が100円必要であったが現在は無料になっている。この日の歩行数は国府津駅から歩いたため22,000歩になった。途中から「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」の案内板に従って歩いたが、地元の方々の手で寺社史蹟は奇麗に整備されていた。機会があれば再度訪れたいと。 END
2026.03.09
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次に向かったのは「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って「城前寺」。2月4日(水) 14:50小田原鋳物研究所を出、信号は県道72号線の「下曽我小入口」でここを右折した。交差点から小径を北上、三差路にあった道祖神。コンテナハウスには「曽我原自治会 防災倉庫 No.3」とあった。堀之内の道祖神Googleマップを見ると曽我地域の辻々には道祖神が多く立っていた。これも地域住民の信仰心の厚さか。風化して文字は判読できなかった。民家のブロック塀に、「曽我の郷めぐりのコース ⇦ 物見塚へ」。曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡)所在地:神奈川県小田原市曽我谷津昨年9月23日(火)に下曽我の史跡を散策したがその時訪れていなかったので今回訪れた。曽我兄弟の墓がある城前寺の東側の丘陵地にあった。石碑には「曽我氏館跡」と。曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡)『新編相模国風土紀稿』に曽我太郎祐信(すけのぶ)屋敷跡が「(曽我谷津)村の南方」・「城前寺の後」にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一帯と考えられる。その規模は、「方二三町許」(一辺が約200~300mの四角形)で、外構の土塁の跡や、高さ二・五m前後の土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。現在、地表面からこれらの遺構を検証することは困難である。平成元年、小田原市教育委員会によりこの区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・遺物はまだ確認されていない。曽我祐信は曽我兄弟の養父にあたる人物としてよく知られているが、曽我氏は平安時代から戦国時代にわたってこの地に拠点を置いたと考えられる。この丘は周辺で鎌倉街道・大山道・曽我道が交差し、背後に剣沢の水源を控え、さらには眼前に足柄平野・箱根連山を見渡すなど交通・水利・軍事上、館を構える上できわめて良好な条件を備えていたといえる。 小田原市教育委員会曽我氏館跡の周りには民家の梅林、畑があった。曽我氏館跡から東側へ幅1メートル足らずの通路があった。周りにはみかん、タマネギが植えられていた。通路を進むと社が建ち説明板が立っていた。説明板の下に小さな祠。曽我一族郎党の供養御堂曽我氏は、太郎祐信(すけのぶ)(曽我兄弟の義父)以来、連綿として十四代甚五郎信正まで繫栄しましたが、永禄二年(1559)に北条氏に叛いた為、氏康に攻められ、六月十六日、城に火を放ち城主の信正とともに三百六十余人が自決したと伝えられています。その後、四百年の月日が経ちましたが、誰一人としてその霊を供養する者もありませんでした。平成五年六月、曽我兄弟の仇討八百年記念を機に、曽我御堂供養の会有志により観世音菩薩を祀り、曽我氏一族の供養のための御堂を建立することになりました。曽我一族郎党の供養御堂木柱に「曽我一族郎党の供養御堂」と。供養御堂の大きさは三尺四方であったか。供養御堂の右側にはアジサイも植えられ整備されていた。石で囲われた中に説明板。物見塚古墳小田原市教育委員会は、平成元年八月、地元自治会をはじめ土地所有者の御協力を得て、この物見塚を発掘調査しました。調査では、古墳の石室の側壁や天井石は消失していましたが、玄室部分は小さな川原石が敷き詰められ、ここから鉄鏃(やじり)や金環などが出土しました。この結果、この古墳は、古墳時代後期(七世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定されます。また、この古墳近くの西側の一画からは、弥生時代から平安時代、室町時代頃と考えられる柱穴が多数確認され、この中には柱穴の底に川原石を礎石としたものもありました。これらのことから、この付近一帯は古くから人々の生活が営まれていたことがわかります。 小田原市教育委員会供養御堂の東側の低地に梅が咲いていた。供養御堂前から西側を望む。現在の曽我氏館跡は畑になっている。左側に曽我氏館跡碑が立っている。曽我氏館跡から次の目的地「城前寺」へと向けて坂を下った。朱色の板の社が建っていたが神社名は不明。手前に道祖神があった。道祖神 (曽我原)所在地:神奈川県小田原市曽我原484年月が経ち風化した双体道祖神であった。鳥居も立つ神社であったが詳細は不明。丘陵地の小径を下り振り返る。分岐点に新旧の案内板が立っていた。国府津・曽我の里散策コース 曽我の里散策コース⇦ 城前寺 70m、中河原梅林⇨ 東光院 600m、二宮尊徳遺髪塚 1,000m H24.3 小田原市観光課三差路を西方向にある城前寺へ向かった。スマホのGoogleマップに「雄山荘跡」と。所在地:神奈川県小田原市曽我谷津現在は立入禁止になっている。焼失後の「雄山荘跡」には建物の基礎のみが残っていた。この地は太宰治の小説「斜陽」ゆかりの地で不審火で焼失したと。先程の道祖神辺りを振り返る。浄土宗 城前寺 (じょうぜんじ)所在地:神奈川県小田原市曽我谷津592二度目の参拝で前回は昨年9月23日(火)に南足柄の酔芙蓉を見た帰路に訪れた。前回のブログは「下曽我の寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。城前寺(浄土宗稲荷山祐信院)曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193) 富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師は、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられる。なを、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当る5月28日には、この故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが類例の少ない祭であるので有名である。境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄附の兄弟の記念碑等のほか各種ゆかりの品がある。なを、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。足柄平野を見下ろす高台に「曽我兄弟之遺跡」の石柱が立っている。本 堂本尊は、阿弥陀如来である。。本堂の裏へ廻り、曽我十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓供養墓の前の紅梅が咲いていた。紅梅が映える。紅梅をズームアップ曽我兄弟 発願之像曽我十郎・五郎兄弟、父祐信、母満江御前の供養墓4人の供養墓は曽我城の土塁跡にあり玉垣で囲まれている。供養墓の前にはいろんな石碑が立っている。境内に座られる「阿弥陀如来座像」。城前寺前から富士、金時山、矢倉岳の競演を望む。15:20城前寺の下の辻に立っていた案内板(下段)。国府津・曽我の里散策コース曽我の里散策コース(里コース)⇨ 城前寺 40m 別所梅林 900m 二宮尊徳遺髪塚 1,080m ※ サル・イノシシ・ハチなどの野生生物にご注意ください。 H30.3 小田原市観光課上の案内板に「下曽我駅 2,220m」とあり「エッ、まだそんなにもあるの」と思ったが。 ー 続く ー
2026.03.08
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散策路の「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って下曽我駅へ向かって歩いた。2月4日(水) 14:05真言宗東光院所在地:神奈川県小田原市曽我原261境内は比較的広く、古い石像が多く存在する。また境内の墓地には古い墓石が多くあり、二宮尊徳の母の生家である川久保姓の墓や当地の地名である曽我姓の墓が多くある。県道72号線沿いの寺号標石の右側に駐車場があったか。当寺は「国府津・曽我の里散策コース」に入っている「東光院」である。寺号標石「真言宗 瑠璃山南谷寺 東光院」。県道からの短い参道は桜並木になっていた。また、木柱には「東光院山門前の徳本名号碑他石造物」と。徳本の名号碑ほか石造物群徳本(1758~1818)は日課として弥陀の六字名号を唱えることを教え、江戸で教化していた頃は、毎日数千の群衆に囲まれたという。この碑は天保五年(1834)の造立で徳本没後一六年を過ぎているが、裏面には足柄平野一帯の各地の信者の名が、一面に刻まれており、なお信仰が衰えていないことが知られる。石幢型六地蔵は笠付六角柱の各面に地蔵の立像を浮き彫りにし、文化二年(1805)の銘がある。もとは大山道沿いに祀られていた。山門を入って左手に木造の小祠があり、中に延命地蔵と呼ばれる石像地蔵菩薩立像が祀られている。 小田原市教育委員会説明板は壊れ地面に置かれていた。県道沿いに立つ「徳本の名号碑」。参道の左側にも石造物、六地蔵があった。手水鉢か「石」と刻まれていた。参道の右側には「双体道祖神」があり野菜のお供え物があった。壊れた五輪塔であろうか桜の間に奇麗に並べられ集められていた。桜の老木に囲まれた山門。東光院の縁起当山は往古別所字東畠に建立されたが文禄2年恵誉法印、大施主中村家の喜捨により現在の地に移す。山号瑠璃山、寺号南谷寺といい現号東光院はその塔中といわれる。本尊薬師三尊、不動明王をまつり大護摩秘法を修し下曽我村民の現世安穏、五穀豊穣を祈ると伝わる。近年は兵庫県宝塚市にある清荒山神清澄寺(鉄斎寺・真言宗十八大本山の一つ)との仏縁により昭和29年真言三宝宗に改め諸堂を再建・修復し今日まで法燈を守る。山門を潜ると右側に鐘楼が建っていた。左側には木柱が立ち「東光院の露座の薬師如来座像及び延命地蔵」と。木造の小祠の中には延命地蔵と呼ばれる石像地蔵菩薩立像が祀られている。延命地蔵と呼ばれる石像地蔵菩薩立像本堂右前に立つ「薬師如来」。薬師如来座像本 堂東光院は本尊薬師三尊、不動明王をまつり大護摩秘法を修し下曽我村民の現世安穏、五穀豊穣を祈ると伝わる。本堂の水をためる天水桶。本堂前に立たれる「弘法大師修行像」。本堂前の墓地に古い墓石が立っていた。納骨堂西側の墓地から本堂を見る。山門から参道越しに県道を見る。参道の両側には桜が植えられており、開花時には目を楽しませてくれるのであろう。14:15参道入口から山門を振り返る。歩き疲れ時間も14時を過ぎお腹が空いてきた。東光院の参拝を終え県道を下曽我駅方向へ歩く。交差点は「下曽我小入口」。道路脇に広いスペースがあり、野菜・みかん・卵の直売をやっていた。また入口には「梅園駐車場 有料 500円」と。小田原鋳物研究所あすなろファーム所在地:神奈川県小田原市曽我原241平成19年(2007)社会的貢献事業を目的とする、NPO法人小田原鋳物研究所を設立したと。入口の門柱に「NPO法人 小田原鋳物研究所」と。こんなところで鋳物?、何をやっているのか気になる。門の手前右側に看板があり「食事処」とあり昼食をとることに。 ● 鯵フライ天ぷら定食 1500円 ● おにぎりコロッケ定食 1000円 ● たまごかけごはんセット 1000円 ● 菜の葉コロッケ 180円 ● うめコロッケ 180円 ● コーヒーセット 600円 ● 甘酒 200円門を入り敷地内を見る。広い敷地で枝垂れ梅が咲いていた。小屋がありメニュー看板、横断幕があったが人の気配がなく食事ができるのかと。横断幕には、「マツコの知らない世界では、江戸風鈴について紹介され NHK日本の芸能のテーマ曲にも使われている 風鈴・持鈴・仏鈴 澄んだ音色をぜひお聞きください」と。奥のコーナーでは、大根もち、平飼い卵、梅干し等が販売されていた。人の気配がしないので奥に入ると梅の木の下にテーブルが置かれていた。この建物は母屋、工場であったか人の気配がしたので中へ入った。若い女性が出て来られ、昼も14時過ぎになっていたので食事ができるかどうか尋ね「OK」とのことで「鯵フライ天ぷら定食」を注文。食事は裏のテーブル席でと。料理ができるまで時間があったので「風鈴・持鈴・仏鈴」を見学。小田原の鋳物室町時代から続く小田原の鋳物は、鉄製ではなく「砂張」という銅にスズや鉛を加えた合金で鋳造する製法により作られています。風鈴を例に、鉄を使う場合との差をあげると、砂張で鋳造する方が音色が良く、また余韻も長く続きます。一方で、砂張の品はとても繊細なため鋳造や加工が難しいため、価格や工芸品としての希少性が高くなるのです。ここ「小田原鋳物研究所」の工房では、定期的に鋳物工芸を体験できる講座を開いていますと。ここまで既に一万歩以上歩いており梅の木の下でしばし休憩。梅の開花はまだ二分咲き程度であったが幹には「白加賀」と記されていた。あすなろファームのオーナーは年退職後、素人から3,000坪を有す敷地で梅の原種でクエン酸が豊富な杉田梅や野菜の栽培を20年近くやってきましたと。無農薬、無化学肥料の梅栽培あすなろファームでは、2008年の就農から農薬や化学肥料を一切使用していません。それを支えているのが循環型農法です。園内には山からとった落ち葉の堆肥、米ぬかや牡蠣殻石灰の肥料、園内の伐採木やもみ殻から作った灰など自然界のあらゆるものを土に還元していますと。道路脇の直販所で「草木灰 1袋 200円」で販売していた。鯵フライ天ぷら定食 1500円(鯵フライ・やさい天ぷら・小鉢・みそ汁)まだ梅の木は二分咲き程度であったが一人静かに昼食がとれた一時であった。たまごかけごはんセット 1000円もよかったが。14:45あすなろファームは3,000坪を有するだけに広かった。梅まつり期間中は駐車場になると。また、利用しなかったがトイレは建屋外に男用(小)、洋式一つがあると。 ー 続く ー
2026.03.07
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散策路の「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って下曽我駅へ向かって歩いた。2月4日(水) 13:35曽我別所の丘陵地からの西側には富士が見えていた。両側が高くなった溝形の小径を下った。富士をズームアップ。手前にはおにぎりのような矢倉岳。三差路に新しい案内板が立っていた、「国府津・曽我の里散策コース 曽我の里散策コース ⇦ 別所薬師堂 50m、下別所バス停留所 290m、国府津駅 4,300m ⇨ 二宮尊徳遺髪塚 340m、東光院 670m、城前寺 1,200m ※ サル・イノシシ・ハチなどの野生生物にご注意ください。 R2.3 小田原市観光課」。これから進む、「二宮尊徳遺髪塚 340m、東光院 670m、城前寺 1,200m」方面。下って来た「別所薬師堂 50m」方面。乗用車がどうにか走れる道幅である。スマホのGoogleマップの案内で進む。途中に「曽我別所公民館 (満江御前屋敷跡)」があったようだが下調べ不足でスルーした。小径脇に見慣れた案内板が立っていた。国府津・曽我の里散策コース ⇦ 二宮尊徳遺髪塚 100m、東光院 550m、 ⇨ 満江御前の墓 300m、玉泉寺 1,100m H23.3 小田原市観光課小径脇に梅の老木が咲いていたのでしばし撮影に専念。ローアングルから撮影。この木からも梅の実を収穫するのであろう。青空に映える白梅。ズームアップ。幹の太さから樹齢は30~50年であろうか。また、幹の根元近くで枝分かれするように栽培されていた。幹の根元近くをズームアップ。国府津・曽我の里散策コース ⇦ 東光院 450m、二宮尊徳遺髪塚 別所梅林 300m ⇨ 満江御前の墓 400m、玉泉寺 1,200m H23.3 小田原市観光課再度梅林を撮影。下曽我の梅の生産量生産量は、年間約600~650トンで、神奈川県内では最も多く生産されています。特に、「十郎」や「南高」などの品種が代表的で、これらの梅は梅干しや梅酒に使用されます。また、曽我梅林の栽培面積は約100ヘクタールで、県内でも首位を占めていると。我が家でも梅の木は2本あるが、20~30キロの生産か。梅の木が植えられている丘陵地から県道72号線(松田国府津線)へ下り立つ。道路脇に石造物群があった。道路側に出て下って来た道を振り返る。道祖神所在地:神奈川県小田原市曽我別所624-1右側に双体道祖神、中央と左側は文字等を確認できなかった。道祖神の後方に案内板が立っていた。「⇦ 二宮尊徳遺髪塚 100m、東光院 300m ⇨」。二宮尊徳遺髪塚へ行く予定であったが間違えたようで引き返すことに。同場所の植込みに木柱があり「史跡 二宮尊徳遺髪塚 入口」とあった。案内板もあり、曽我の里散策コース/(国府津・曽我の里散策コース) ⇦ 城前寺 910m 瑞雲寺 1,980m(2,500m) 下曽我駅 3,100m(3,420m) ⇨ 二宮尊徳遺髪塚 150m 満江御前の墓 510m道祖神から坂を引き返し、二宮尊徳遺髪塚へ。サイクリストの方が同じように登って来られ記念写真。二宮尊徳遺髪塚にある梅の巨木が咲いていた。サイクリストの方は坂道を登って行かれたが目的地は「六本松跡」であろうか。梅の木の下に「大山道」と書かれた木柱と説明板が立っていた。大山道大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山(あふりやま)とも呼ばれた。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降は阿夫利神社が信仰されている。相模平野の農村では雨乞いなど農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遥拝される山なので海上安全の目的で信仰された。江戸から講を作って参拝団がくるのは、春秋のレクリエーションの目的を兼ねていた。その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがあった。曽我の大山みちは、千代ー曽我原ー殿沢川ー曽我別所ー六本松峠ー田中のルートである。 小田原市教育委員会二宮尊徳遺髪塚所在地:神奈川県小田原市曽我別所420二宮尊徳の遺髪が納めて有る塚。綺麗に掃除もされていて塔婆も立ててあり、大切にされているようで、ベンチ等も置いてあり、六本松峠への途中で一休みできる。広場の木柱に「二宮尊徳遺髪塚」と。二宮尊徳遺髪塚尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。天保一一(1840)年、尊徳は川久保家の再興をはかることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。その結果もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家をつぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。 小田原市教育委員会塚があり二宮尊徳像が立っていた。塚の上に「二宮尊徳先生御遺髪塚」と。二宮尊徳像かつての学校の校庭ではよく見かけたが、今の時代”ながら”は禁止に。二宮尊徳遺髪塚から県道72号線(松田国府津線)へ戻り振り返る。次回は愛車のノートでこの道を入り「六本松跡」を訪れてみたい。唯念名号碑ほか石造物群道祖神の傍に立っていた石造物群。大きな念仏塔には「南無阿弥陀仏」と。台座には「郷中安全」と。唯念名号碑(ゆいねんみょうごうひ)ほか石造物群唯念の特徴のある筆で「南無阿弥陀仏」と大書する。このような阿弥陀如来の名号を彫るものを、名号碑または念仏塔という。唯念(1791~1880)は相模・伊豆・駿河にかけて各地に念仏講を組織し、阿弥陀如来の名号を唱えることによる功徳を説いて、多数の信者を教導した。曽我地域には他に大光院や瑞雲寺にも唯念名号碑が建つ。台座には「郷中安全」の文字があり、この碑が曽我一帯六か村の人々の信仰によって造立されたことが知られる。建立は元治元年(1864)、唯念七五歳の時であった。この場所には庚申塔と青面金剛とみられる石造物が、また、道をはさんだ場所には念仏供養塔と、双体道祖神などの石造物がある。 小田原市教育委員会津島神社所在地:神奈川県小田原市曽我別所県道72号線(松田国府津線)の道路脇にあるコンクリート製の小さな神社。かつて道路の拡張工事を行っていたので新設改修されたのか。紙垂で飾られていたが説明板がなく詳細は不明。バス停 別所梅林富士急グループが運行する路線で、行き先は「下曽我駅、新松田駅」。バス停から東側の「唯念名号碑ほか石造物群」を見る。曽我地域の東側の曽我山には展望台があり富士のビュースポットになっている。相州 曽我屋総本店所在地:神奈川県小田原市曽我別所640梅干し専門店で味噌なども販売する土産物店である。県道72号線沿いに鎮座する「東光院」の寺号標石。14:05県道を挟んで東光院の向かい側にあった説明板。国土地理院の水準点水準点とは地面の標高の基準となるもので、その位置がこの標石頂部に示されている。このような標石は全国の主な国道にそって一キロないし二キロメートルごとに配置される。また緯度や、経度の基準を表示する三角点標石は、山頂など見晴らしのよいところに設置されている。水準点、三角点はともに、地図の作成をはじめ道路の建設や地域の開発など、すべての測量の基準になるものとして大切な役割を果たしている。これらの基準点を一定の周期でくり返して測量すると、地殻の観測や、大地震の予知などにまで役立っている。全国の水準点標石は約二五、八○○点、三角点標石は約九五、○○○点あり、小田原市内では水準点は四二点、三角点は四五点である。 小田原市教育委員会 ー 続く ー
2026.03.06
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途中から「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って下曽我駅へ向かって歩いた。2月4日(水) 13:10無駄な動きをしたようで剱沢川から小径を歩き東側の県道へと坂を登った。小径脇に「国府津・曽我の里散策コース 法蓮寺」の案内板。小径脇の白梅が青空に映えていた。小径を登り県道72号線(松田国府津線)へたどり着く。道路の反対側に「法蓮寺」への案内板があった。坂を登った辻から西方向には「曽我別所梅まつり会場」のケヤキが聳える。県道脇には「かながわの景勝50選 曽我梅林」と。民家の紅白の枝垂れ梅が咲いていた。歩道から見上げる。Googleマップに「下窪の道祖神」と。所在地:神奈川県小田原市曽我別所40県道72号線(松田国府津線)から”法蓮寺”への入口にある道祖神。木柱に「下久保の道祖神ほか石造物群」と。下には「国府津・曽我の里散策コース、曽我の里散策コース」、「法蓮寺 100m」と。下久保の道祖神ほか石造物群ここには次の石造物が見られます○道祖神 小田原市内で最も多く見られる浮き彫り双立像です。この像は僧形となって います。○地神講碑 この碑は弘化三年(1846)造立で、中央に天社神と彫られています。この地の 地神講の人々が建てたものです。○題目塔 中央に南無妙法蓮華経と彫られています。安政五年(1858)この地にコレラが 流行した時、法華経一千部を奉唱して、病気退散を祈りました。老人や子供 までもが、昼も夜も、題目を唱えたことが碑文に読まれています。 小田原市教育委員会左から「題目塔」、「地神講碑」、「道祖神」と並ぶ石造物群。曽我梅林展望・・・・・ 曽我丘陵ハイキングコース案内図 所要時間 ●現在地・・・・・・六本松跡まで 2.0km 約45分 ●六本松跡・・・・・曽我祐信の墓 0.7km 約10分 ●曽我祐信の墓・・・城前寺 1.5km 約20分 ●城前寺・・・・・・中河原梅林 0.7km 約12分案内図は少々剥がれて見ずらかったが。特にMAPの修正をお願いしたい。石造物群から小径を登る、この辺りの家々では庭先に枝垂れ梅が植えられていた。まだこれからの開花であったが満開時には鮮やかになるのであろうと想像しながら法蓮寺へ。緩やかな坂道を登り法蓮寺前へ到着。右側に駐車場があったが「これより先、体の不自由な方以外の駐車禁止」とあった。日蓮宗法蓮寺所在地:神奈川県小田原市曽我別所54山門の左右に二基の題目塔があり、左上の枝垂れ梅はこれからの開花であった。木柱には「法蓮寺と毘沙門天像」と。右側の題目塔に「南無妙法蓮華経 十部供□」と彫られている。これから開花の紅白の枝垂れ梅。満開時が楽しみだが。枝垂れ梅の奥に立っていた「子育安産 鬼子母神(きしもじん)」。向かい側には白梅の老木が咲いていた。本堂前には槙の巨木であったか境内を覆っていた。本 堂本堂の扁額「千葉山(せんようざん)」。内陣を見る。本堂前から山門を振り返る。法蓮寺と毘沙門天像山号は千葉山(せんようざん)。この地方の古寺の通例として、もとは天台宗であったというが、寺伝によると慶長十九年(1614)に日蓮宗に改宗したという。この寺の木彫毘沙門天立像は、現在独立した毘沙門天堂に祀られ、古風な唐破風二重樽木の厨子に安置されている。この像は別名「夢の毘沙門天」とも言われ、安永三年(1774)に住職の日迂(にちう)上人と小八幡の漁師双方の夢枕に立った。そしてその言葉どおり小田原市小八幡の海で、漁網にかかって出現したという伝承がある。毎年一月の寅の日が毘沙門天の縁日であったが、現在では、毎月十七日が縁日で近郷から信者が集まってくる。また、山門に二基の題目塔がある。 小田原市教育委員会本堂の左側に建つ「毘沙門天堂」。毘沙門天堂の扁額「毘沙門天」。引き戸を開け内陣を見る。ズームアップ。更にズームアップ、古風な唐破風二重樽木の厨子に安置されている「木彫毘沙門天立像」。再度、「子育安産 鬼子母神」。後方の木の花が咲くと鬼子母神も映えるのであろう。この後、法蓮寺の裏に「満江御前の墓」があるので立ち寄ることに。法蓮寺の裏に廻る。木柱には「国府津・曽我丘陵 曽我の里 ウォーキングコース 散策コース」」と。右側は駐車場であったか。案内板には「満江御前の墓・六本松、別所梅林・下別所バス停、二宮尊徳遺髪塚」の案内。案内板に従い丘陵地を登ると右前方に木柱・説明板が目に入った。前方は法蓮寺本堂、毘沙門天堂で「満江御前の墓」は裏山の墓地にある。辻には案内板があり散策しやすかった。木柱に「曽我兄弟の母 満江御前の墓」と。満江 (万却) 御前の墓満江御前は、日本の三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟十郎祐成と五郎時致の母の墓である。伊豆の狩野親光の三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源佐衛門尉仲成で、一男一女を生んだが四年にして離別した。その後、伊東祐親の嫡男河津の庄の地頭河津三郎祐泰と再婚し、三人の男子を出生した。兄は幼名一万、後の十郎祐成で、弟は箱王、後の五郎時致で末弟は祐泰の死後誕生の律師坊実永である。一族の領地争いが起因で夫の祐泰は非業の死を遂げ、舅伊東祐親のすすめにより曽我の庄の地頭の曽我太郎祐信の夫人となる。安元二年(1176)満江三十歳位。十郎・五郎の兄弟が富士の裾野で父の敵の工藤祐経を仇討した後、建久六年(1195)に夫の祐信と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してきたが正治元年(1199)兄弟の七回忌の五月二十八日奇しくも没した。戒名は、祟清院浄岩高恩大姉。この年満江は五十歳位だったと言う。墓石は自然石で史跡の木柱が立っていなければ分からないものであった。木柱には「曽我兄弟の墓 満江御前の墓 管理者 別所宇坊田 武藤家」とあった。墓石の前には花が供えられており、今だ人気の史跡であるようだ。戒名は「祟清院浄岩高恩大姉」とあるようだが墓石では確認できなかった。また墓石は2基あったが。別所薬師堂所在地:神奈川県小田原市曽我別所96-1案内板に従って小径を登ると、トタン葺きの小さな建物が見えて来た。堂内には背面の焼けた薬師像が安置されているらしいが見ることはできないと (ネット情報)。堂の入口に「薬師如来堂」と。別所薬師堂本尊は、瑠璃光薬師如来(脇侍十二神将)で行基菩薩の作といわれ、長さ四尺八寸(約145cm)の立像です。里人の伝承によれば、この薬師如来像は、山彦山薬師沢の奥の佛体ヶ窪という所に、奈良時代から平安時代にかけて安置されていましたが、戦国時代兵火をこうむって、その背が焦げてしまったことから、別名「やけ薬師」と呼んでいました。北条氏没落後、小田原唐人町の中国人・葉七官の配下の者が来て、ここに草庵を結び礼拝していましたが、その後谷津法輪寺の末寺となり中華山応福寺と称しました。明治に廃寺となり薬師堂だけが昔の面影をとどめています。小径脇に立つ木柱に「別所薬師堂 (焼け薬師)」と。小径の分岐点に案内板があり散策者に優しい。案内板に「曽我の里散策コース/国府津・曽我の里散策コース」」と。この案内板には距離数があり高齢者には優しい。13:35この後、左方向の「二宮尊徳遺髪塚 370m、東光院 750m、城前寺 1,300m」へ向かった。右方向へ登ると「六本松跡」方面であろうか。 ー 続く ー
2026.03.05
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途中から「国府津・曽我の里散策コース」の案内板に従って下曽我駅へ向かって歩いた。2月4日(水) 12:30真言宗金蔵院所在地:神奈川県小田原市田島707玉泉寺から東側にある津島神社へ向かったがその途中にある金蔵院門前へ到着。真言宗東寺派寺院の金蔵院は、寶篋山観音寺と号す。寺号標石に「真言宗宝筐山金蔵院」。金蔵院の概要金蔵院の創建年代等は不詳ながら寿永年間(1182-1184)の開創と伝えられる。江戸期には津島神社の北側にあり、津島神社の別当を兼ねていた。明治維新後廃寺となった吉祥院を明治初年(1868)合併、吉祥院の本尊不動明王像は当寺に移されている。境内の西側に石造群があった。その左側には、石祠、五輪塔。弘法大師修行像。本 堂金蔵院の縁起寶篋山觀音寺と号し、津島神社の別当を兼ねていた。中興は慶長11年と云われている。本尊は聖観世音菩薩。左側に弘法大師、不動明王、大黒天、右側に大日如来地蔵菩薩像等。尚不動明王像は河原にあった吉祥院の本尊なり、この吉祥院は寛延3年(1750)長慶と云う修験者が同地にあった長福寺(尼寺)を吉祥院と改名して、明治初年(1868)当山と合併したものである。以前は神社の北にあったのが、地表の変化のため現地へ移住せしもの、現在の建造物は火災のため昭和51年10月15日建造せしものなり(川東仏教会寺院名鑑より)。本堂の扁額「宝筐山」。本堂前に並んでいた六地蔵であったか。六地蔵の右側に「金蔵院石像群」があった。小さな祠をズームアップ。説明板等がなく詳細は不明。墓地入口にも石造群。津島神社所在地:神奈川県小田原市田島境1489金蔵院から更に東側へ進むと玉垣に囲まれた杜があった。この神社は国道246号からの帰路、県道72号線(松田国府津線)を走っていて以前から気になっていた神社であった。神社前を右側へ進むと田島駐在所前交差点へ出る。鳥居の左側に手水舎があった。田島駐在所前交差点側から振り返る。門前にはケヤキの巨木。小田原市指定保存樹林この樹林は、小田原市緑と生き物を守り育てる条例に基づき、小田原市と市民が一体となって、緑豊かな住み良い環境づくりをするために指定されたものです。 指定番号 第8号 指定年月日 昭和52年4月1日 所 在 地 小田原市田島1,489番地ほか 主要な樹種 ケヤキ 面 積 1,500㎡ 小田原市環境部円柱を組み合わせた鳥居は石製であったか。鳥居を潜ると広い境内に社殿が建っていた。拝殿前に立つ右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「津島神社」。津島神社の由来 住 所 小田原市田島1489番地 元村社 津島神社 祭 神 素鳶嗚命 例祭日 毎年四月七日源実朝死んで北條政子尼将軍となって五年目の貞応二年(西暦1223年)に北條政子より社地を貰い、嘉禄元年(西暦1225年)に神社が竣工した。丁度北條政子の死んだ年であった。疾病平癒のため、尾張の津島神社を勧請して『牛頭天王』と称した。明治二年(西暦1869年)になり、祭神『牛頭天王』とは印度(インド)の舎衛国祇園精舎の守護神だと云う事から日本の神様『素鳶嗚命』と改称した。こちらは新しい説明板で、津島神社の由来一、鎌倉時代(貞応二年=西暦1223)に津島神社(愛知県津島市)の祭神・牛頭天王(インド 祇園精舎の守護神)を勧請(分霊を移す)して、この地に疫病除けの神様として祀る。一、社地は鎌倉幕府の尼将軍・北条政子より寄進された由緒ある神社である。一、明治初期の神仏分離令により、この地氏子持ちとなる。 この時祭神は牛頭天王の権化(化身)=須佐之男命に改めた。一、明治ー昭和期には出征戦士の武運を祈り、弾丸除け神として近隣から多くの方が参詣 された。一、山車は江戸時代(文政五年=西暦1822)に奉納、彫飾は信州松本村(長野県)の彫刻師・ 岩吉作である。一、神輿は(昭和十年=西暦1935)に奉納、鳥居清吉作=彫刻は松野良光作である。一、祭礼=村祭りは例年四月の上旬、盛大に行われる。 令和五年正月 津島神社氏子拝殿前から境内を見下ろす。境内の東側に聳えるケヤキ。石碑には、「明治百年記念事業境内整備竣工記念碑 寄付者芳名 昭和四十五年四月竣工」と。後方の県道沿いに田島駐在所がある。東側から社殿を見る。社殿の左手に建つ二棟は山車庫or神輿庫であったか。石祠と堅牢地神巨木が聳える本殿裏の杜の中へ入る。北側から本殿を見下ろす。境内の隅には紙垂で飾られた□神が置かれていた。境内の西側に建つ2棟。右側は山車庫or神輿庫。拝殿を西側から見る。聳える樹は落葉したケヤキであろう。津島神社の北側の小径から本殿を見る。県道72号線(松田国府津線)の別所堺交差点。津島神社裏にある信号で、バス停は「別所堺」。別所堺バス停から県道沿いにある北側の民家の枝垂れ梅を見る。毎年きれいに咲いている枝垂れ梅である。津島神社から再度西側へ下り、玉泉寺入口へ降り立つ。正面は玉泉寺入口で、右遠方には富士が見えていた。剱沢川沿いの桜並木ここの桜はほぼ地元民しか訪れない観桜スポットであると。橋には「下剣沢橋」と。玉泉寺入口を右折して剱沢川沿いを北上。次の目的地は橋を渡り「法蓮寺 (Horen-ji Temple)」へ。案内板に距離が欲しい。剱沢川に架かる「剣沢橋」。上流側に「曽我別所梅まつり会場」がある。橋の袂でみかんの販売をしておられた。試食どうぞとのことで一個頂く。みかん 100円/1袋、しらぬい 中 100円/1袋、しらぬい 大 200円/1袋、はっさく 70円、ネーブル L 150円と安かったので、荷物になるが”みかん”と”しらぬい中”を購入した。みかん直売の傍に無造作に置かれた「道祖神」があった。13:00この後坂を上り東側へ移動したが、Googleマップで見ると津島神社から県道を北上すればよかったようで無駄な動きをしたようだ。津島神社は「国府津・曽我の里散策コース」に入っていないようだ。 ー 続く ー
2026.03.04
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引き続き案内板の「国府津・曽我の里散策コース」を下曽我駅へ向かって歩いた。2月4日(水) 12:05県道72号線(松田国府津線)の田島石橋交差点から進むと直ぐにあった「介護施設潤生園みんなの家たじま」前の手作りモニュメント。県道を進むと巨木の下に「国府津・曽我の里散策コース」の案内板があった。又後方には「道祖神」があり、次に訪れるのは「玉泉寺」だが□mと距離が欲しい。道祖神の先には「バス停 田島」があった。三体ある内の左側が双体道祖神、中央が観音様で、右側は不明と。県道の反対側に田島地蔵堂があり元々ここまでが敷地であったが、旧県道に分断されたと。田島地蔵堂所在地:神奈川県小田原市田島1204-4道祖神の県道を挟んだ向かい側に「田島地蔵堂」が建っている。寺院の田島地蔵堂は、杉崎氏の先祖が、永禄3年(1560)に美作国から勧請、建立したと伝えられる。明治維新後には小学校の分校としても使用されたと。建物は一見民家かと思ったが玄関入口上に「田島地蔵堂」と。県道側の壁面に、「田島地蔵尊 永禄元年(1558)開基」「お地蔵さまと暮らす郷里」と。田島地蔵尊田島の地蔵尊は、古くから紺屋(杉崎正五氏宅)の地蔵さんと呼ばれて、毎年1月と7月(明治以後8月)の地蔵縁日には、近郷72ヶ村の信奉者によって盛大に供養が行なわれていた。田島の地蔵尊は、永禄3年(1560年)に杉崎氏の先祖が、美作国(岡山県北東部)から勧請したといわれ、その際立派な地蔵堂も建立され、地蔵供養が行われていた。近代になって、県道松田国府津線が地蔵堂境内を横断することになり、かつては小学校の分校として使用された立派なお堂も、やむなく縮小されてしまい、以後年2回の地蔵縁日に、老人による念仏が行われる程度となってしまった。しかし、近年地元子供会の協力もあって、有志手作りの灯籠を道路沿いに飾り、堂前に祭り提灯を掲げて、地蔵供養が行われるようになった。Googleマップで見ると石塔の右側に「田島堂の前の大山灯籠」が立っていた。石塔2基に文字が刻まれていたが判読できなかった。田島地蔵堂の前に「バス停 田島」。田島バス停から数十メートル進むと「国府津・曽我の里散策コース」の案内板があった。案内板に従いここを左方向の小径に入ったが距離表示が欲しい。県道から坂を下り西側へ歩いてくると川の手前に道祖神があった。道祖神は道路脇に置かれておりお供え物もあった。文字道祖神の周りには五輪塔も集められていた。田島尾崎の大山灯籠田島地蔵堂からこの道を下って来た(写真はネットから黄色丸内が大山灯籠)。山岳信仰として、江戸時代に庶民の間で流行した伊勢原の大山詣り。「雨降山」の別名をもつことから雨乞いの神として農民に親しまれ、参詣仲間による「大山講」が関東南部を中心に各地に結成された。小田原市田島地区では、その風習が今もなお受け継がれている。田島地区で大山講が結成されているのは4カ所。堂の前・境・河原・尾崎の小字名により、200年以上にわたって代々活動を続けてきた。かつて、大山に登山が許されていたのは年間で7月27日から8月17日のみ。この開山期にあわせ、各講の代表者が大山参詣に向かった。残った者は地域に木製の大山灯篭を立て、ろうそくに火を灯して雨を乞い、「講中」と呼ばれる仲間の無事を祈った。現在は参詣することこそなくなったが、開山期になると日暮れにあわせて当番制で灯篭に火を灯し続けていると。かつては夏山期間になると皆で集まって酒を飲み、それ以外の時でも米や農機具の貸し借りも行うなど互いに助け合う存在だった。だが、近年は少子高齢化によりメンバーの高齢化が進み、後継者も不在。その数は年々減少傾向をたどっていると。我が茅ヶ崎・寒川地区でも同様に大山灯籠は無くなってきているようだ。橋の袂に「国府津・曽我の里散策コース 玉泉寺」の案内板が立っていた。桜並木の間に石柱「平成十六年度 宝くじ桜植栽地」と。平成16年度は2004年で植えてから22年を経た巨木の桜並木になっている。橋の袂に「剣沢川」とあり上流側を望むが水は流れていなかった。下流側も桜並木に、ソメイヨシノであろうが開花時には多くの人が訪れるのであろう。橋には「尾田原橋」と。再度上流側を望むが両岸に桜が植えられていた。国府津・曽我の里散策コース上に「⇦ 玉泉寺入口」、下には次の「法蓮寺 (Horen-ji Temple)」と。臨済宗 玉泉禅寺所在地:神奈川県小田原市田島577玉泉寺は約730年前に建立された歴史あるお寺です。日本三大俳諧道場のひとつである大磯鴫立庵の俳人「三浦柴居」のお墓があります。自然豊かな環境にあり、日当たりの良い霊園です。付近の剣沢川沿いは桜並木がとても綺麗ですと。剣沢川沿いの桜並木から西側の境内へ下りる。境内には広い駐車場があった。寺号標石に「玉泉禅寺」。金剛山玉泉寺の由来玉泉寺は、金剛山(韓人□斉の□)と号し、臨済宗建長寺派の末寺です。正応四年(1291)に玉仲珊甫禅師(ぎょくちゅうしんほぜんじ)・・・・・開基とする寺歴七百年の古刹である。公爵九条道孝公筆の寺号額(玉泉寺)を掲げる本堂には、本尊として釈迦如来坐像 □□□してある。寛永四年(1627)仏師五郎兵衛の作と伝えられている。門外には「経石 名号石」がある。これは□古□の□より□□□□が渡来する際、□□に積まれていたものと言われている。また、この寺は、詩人で鴫立庵主(七代目)柴居(三浦三郎次)の菩提寺として知られている。 遺 詠桃の宴日につく夜のたてあいし山吹を祈りかをしたつ□□□かな 石碑に寛永四年(1664)とあったが間違いでは。枝垂れ梅の下に句碑が立っていた。句碑には「桃の宴日につく 夜のたてあいし 柴居」と。山門前に立つ石造物群。左から、「経石 建保十年大般若経 渡来唐船底之石也」。一徳寺にあった同じ「六観音像」があった。右側に五重塔の「納経塔」と立っていた。また玉泉寺の西側には「JR東日本 国府津車両センター」の車両基地がある。山門と石造物群山門の扁額「金剛山」。山門に掲げられていた像は。山門の右側に並ぶ石造物。説明板がなく詳細は不明。山門から本堂を見る。山門を入ると右側に像が立っていたが奇麗に整備されていたので近寄れなかった。本堂の左手方向には木の間に富士が見えていた。本 堂本堂には本尊として釈迦如来坐像が安置されている。本堂は明治19年(1886)に再建されたが、関東大震災により倒壊し、昭和4年(1929)に復元された。本堂の扁額は公爵九条道孝公筆による「玉泉寺」。本堂前から山門を見る。境内の西側から富士、矢倉岳をズームアップ。ピンクの枝垂れ梅を見上げる。ズームアップ。駐車場脇に小さな祠があり後方には枝垂桜、遠く富士が見えていた。12:25わずか10分ほどの参拝であったが玉泉寺を後にした。 ー 続く ー
2026.03.03
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道路脇にあった案内板「国府津・曽我の里散策コース」を歩き下曽我駅へ。2月4日(水) 11:25Googleマップに載っている「道祖神」。ゴミ集積場の傍にブロックに囲まれた道祖神があった。道祖神所在地:神奈川県小田原市国府津道祖神から左方向へ曲がると正面に富士、東海道新幹線、小田原厚木道路の高架が見えていたのでしばし新幹線を待った。待つこと数分で新幹線が通過。富士の右側には矢倉岳。鳴沢公園所在地:神奈川県小田原市国府津2105-11裏道から出ると三差路に公園があった。下曽我に向かって歩くと東海道新幹線の高架橋。信号は県道72号線(松田国府津線)の国府津新幹線ガード下交差点。国道246号からの帰路、この交差点から国道1号の岡入口交差点への裏道を走る。生田の道祖神国府津新幹線ガード下交差点の脇にある道祖神。双体道祖神であったが無造作に置かれていた。東海道新幹線、小田原厚木道路の高架下を潜ると三差路があった。直進は県道72号線(松田国府津線)。県道脇に「国府津・曽我の里散策コース」の案内板。案内板に従って右方向の旧道へ入り「一徳寺」へと進む。案内板に従って進み一徳寺の山門下へ到着。天陽山一徳禅寺所在地:神奈川県小田原市田島1102当寺は1298年創建、鎌倉建長寺の末寺。 境内にはマキの大木2本が聳えている。寺号標石「臨済宗建長寺派 天陽山一徳禅寺」。一徳寺一徳寺は、天陽山と号する臨済宗建長寺派の寺院です。創建は永仁6年(1298)で、開山は雪庭白禅師(元応2年(1320)12月13日没)と伝えられています。かつては天台宗寺院であったと伝えられています。本尊は、行基作と伝えられる釈迦如来坐像です。大正12年の関東大震災によって本堂、鐘楼等が倒壊し、本堂は昭和10年、鐘楼は昭和15年に復興しました。由緒縁起等の記録は、こうした天災などにより焼失してしまいました。本堂の西北に老槙が2本ありますが、樹齢約700年で雪庭白禅師により植えられたと伝えられています。700年来毎年行われる伝統行事として、1月に大般若経六百巻転読祈祷会と、8月に山門施餓鬼会が行われています。下のMAPには「国府津・曽我の里散策コース」。「一徳寺 入口」「田島横穴古墳群 300m H22.2 小田原市観光課」。参道の先に階段があり高台に本堂が建っていた。山門前に仁王像。筋肉隆々の右側の仁王像。左側の仁王像。山門前の左側に立つ掲示板、石碑には「三界□霊」と。山門から西側の参道を見下ろす。山門前では参拝者の方が国府津・曽我の里散策コースを歩いておられたのか、暑いので着替えをしておられた。本 堂本堂前には大きな石燈籠、右側には六観音が立っていた。左奥ではクレーン車が入り作業が行われていた。本堂の扁額「一徳寺」。本堂前から境内を見下ろす。境内には伐採された槙の枝が積まれていた。本堂の右側に樹齢約700年の2本の老槙が聳え、伐採作業が行われていた。ちょうど12時になり作業を止め降りてこられた。作業中で近寄れなかったが老槙の根元に五輪塔があった。左側の石碑には字が刻まれていたが風化して確認できなかった。こちらも伐採された木があり近寄れなかったが、右側の石碑には「新築記念碑」とあった。左側は「石造閻魔坐像」であろう。本堂前の右側に、台座には左から「如意輪観音、不空羂索観音、白衣観音、馬頭観音、千手観音、聖観音」と。本堂の右側に建つ庫裡であったか。庫裡の扁額は「一華堂」。庫裡の前から本堂を見る。境内には樹齢約700年の2本の老槙が聳えている。石燈籠は大きなものであった。境内の南側に鐘楼。鐘楼は関東大震災によって倒壊したが、昭和15年に復興したと。鐘楼後方から境内、山門を見る。山門右側に六地蔵。六地蔵を正面から。鳥居の前に大きな石燈籠が奉納されていた。鳥居の扁額「稲荷大明神」。境内に鎮座するお稲荷さん。境内の樹々の間から富士が見えていた。国府津からの寺院は高台にあるので富士が良く眺望できる。参拝を終え山門から南側の参道を見下ろす。箱根の山々もよく見える。丹澤の道祖神所在地:神奈川県小田原市田島1111一徳寺から国府津・曽我の里散策コースを進むと道路の辻に道祖神があった。双体道祖神の前にはお供え物があった。県道72号線(松田国府津線)の田島石橋交差点。小田原中井広域農道が交差する交差点で富士が奇麗に見えていた。県道72号線(松田国府津線)を下曽我駅方面へ歩いた。12:00 県道脇にキウイフルーツ畑があった。小田原市はキウイフルーツの産地で、市内で300年続く農家の15代目、石綿敏久さんは有機農業を始めて約40年。キウイフルーツを日本で最初に無施肥で作ったことで知られ、キウイフルーツを筆頭に、レモン、ライム、レモンライムなどを農薬、肥料、除草剤すら使わず、草生栽培で育てていると。この畑は別の方が栽培しているのであろうが樹齢何年か、太い幹であった。 ー 続く ー
2026.03.02
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次に訪れたのは国府津駅前の「周辺案内図 見どころ案内」にあった、「宝金剛寺(Hokongo-ji Temple)」。2月4日(水) 10:55宝金剛寺(ほうこんごうじ)所在地:神奈川県小田原市国府津2038当寺はこの地方では最も古い寺院(平安時代初期)で、数多くの優れた仏像・仏画や古文書類が所蔵されています。また、隠れた観梅の名所でもあります。裏山には、死者の往生と仏果を本願とし、根府川石を利用した地方色豊かな表現の石塔婆がありますと。宝金剛寺当寺は国府津山医王院宝金剛寺と号し、平安時代の初期、天長六年(829)弘法大師十大弟子の一人、杲隣(ごうりん)大徳によって開創された。久安元年(1145)僧一海が中興、近年まで近郷三十一ヶ寺の本山であった。古くは地青寺(じしょうじ)と称したが、弘治二年(1556)に後奈良天皇の勅によって今の寺号に改めた古刹である。宗派は東寺真言宗。この地方屈指の大寺院であったので、当寺には数多くの文化財が保存されている。本尊地蔵菩薩立像(木造・神奈川県指定重要文化財)は、藤原時代初期の造像で、俗に”帯解地蔵”と呼ばれ安産祈願の信仰をいまに集めている。寺伝によると、治承二年(1178)小松内大臣重盛公が安徳天皇のご安産を祈願して寺領を寄進したという。寺宝の大日如来坐像(銅像・国指定重要文化財)、不動明王および両童子立像(神奈川県指定重要文化財)は、ともに鎌倉時代作の優れた尊像である。また室町時代には後北条氏の祈願所として厚い信仰と保護を受けたこともあって、後北条氏関係の古文書等(小田原市指定重要文化財)も多数に所蔵、当寺裏山の元墓場には、中世板碑の代表例である「国府津建武古碑」(小田原市指定重要文化財)が建っている。国府津・曽我の里散策コース 一徳寺(いっとくじ) 1.0km 田島横穴古墳群 1.3km H22.2 小田原市観光課寺号標石「眞言宗 国府津山 寶金剛寺」。参道の両側に聳えるカイヅカイブキ。駐車場はこの先の左側にあった。対の石灯籠が建つ山門。山門の扁額「国府津山」。山門を入ると右側に、ロウバイ、梅が咲いていた。ロウバイの花と種子。山門から進むと枝垂れ桜か。左側には宝篋印塔等が立っていた。宝篋印塔をズームアップ。一部は風化していたが説明板等がなく詳細は不明。枝垂桜の下に石造物群。後方には梅林が広がる。山門から進むと正面に建っている庫裡。庫裡の右奥に本堂が建っている。天長七年(830)、弘法大師十大弟子の1人、杲隣(ごうりん)大徳が開山と伝わる。平重盛や北条氏康、徳川家康などが寺領を寄進した。本堂内を見る。祭壇には本尊の地蔵菩薩像であろうか。本堂前から境内の北方向を望む。鐘 楼『風土記稿』に、寛文3年(1663)に鋳造された鐘が掛けられていたことがみえるが、この梵鐘は第2次世界大戦のとき、金属供出によって失われた。現在の梵鐘は、戦後に再鋳造されたものである。宝物収蔵庫 (非公開)境内の梅が咲いていた。庫 裡棟札により寛政12年(1800)に建てられた庫裡は、昭和33年(1958年)、平成15年(2003年)の改修工事を経て、平成23年(2011年)に国の有形文化財に登録された。登録有形文化財 第14-0168入口上に鶴の彫り物。庫裡の前に案内板。「⇦ ペットの郷、国府津 建武古碑」。庫裡前から西を望むと富士が見えていた。ズームアップ、右側の山は矢倉岳。庫裡の左側には墓地があり入口に枝垂れ梅が奇麗に咲いていた。この右奥に移設された「国府津建武古碑」がある。ピンクの枝垂れ梅をズームアップ。国府津建武古碑元々はここより坂を登った山の中にあったが、平成20年(2008)暮れにお寺の墓地に移動したが、もともとあった場所には小さな五輪塔や、かなり古い手水鉢などがまだ遺されている。 これらもいずれ忘れられ山の中に埋もれていくのだろうかと。以下3枚の写真はネットから。地上150cm余りの根府川石で造られた建武古碑。形は幅の広い矩形で、左上半分が斜めに欠けた自然石を、平滑な面に加工してあります。その中央に、上から阿弥陀(キリーク)、観音(サ)、勢至(サク)の三尊をあらわす梵字(20〜30cm)が刻まれ、その左右に造立の年や願主名などが刻まれている。小田原市指定重要文化財 (昭和三六年三月三○日指定) 国府津建武古碑 (所在地)小田原市国府津二○三八板碑は、鎌倉時代以後、武蔵国を中心に普及し、秩父の青石で造られた板状の石塔婆が典型とされていました。しかし、地方では石材の関係上、形・彫り方・意匠など、規格を離れた様式が見られます。この板碑はその好例で、相模型板碑と呼ばれ、手近な根府川石をそのまま塔婆に利用し、素材を自由に取り扱って、豊かな地方色を表現しています。造立の目的は、主として死者の往生と仏□(仏の信仰による良い結果)を本願とした、浄土教信仰を示すものといえます。願主の沙弥法明については、伝えがりません。造立年は建武五年(1338)で、南朝の延元二年にあたります。 小田原市教育委員会本堂を振り返る。境内に梅林があった。11:15宝金剛寺の参拝を終え、山門へ。11:20八幡神社所在地:神奈川県小田原市国府津1977-2境内には子供用の簡単な遊具があり子どもの遊び場になっている神社である。また境内にはスチール製の倉庫があり「9区 神輿収蔵庫」「10区自治会 防災器具置場」。小さな社殿の前に、木製の鳥居、社号標石に「八幡神社」と。右側には朱色の鉄製の鳥居、より小さな社。石祠、社があった。一段高いところに慰霊碑。この石碑は昭和二十九年に国府津町と、小田原市と合併した記念として国府津町が企画・建立したもので、戦没者慰霊碑です。正面には満州事変・支那事変・大東亜戦争の田島を含む国府津全域百八十九名の戦没者の氏名がきざまれています。猶西南戦争日清日露戦争の戦没者の氏名は菅原神社境内にある慰霊碑にきざまれています。慰霊碑の下に百八十九名の戦没者の氏名がきざまれている。西側から境内を見る。イチョウの木が聳え、ふじ棚もあった。この実は。境内に貼り紙があり、八幡遊園地の成り立ち八幡遊園地の始まり当遊園地の歴史は、昭和三十年代に地元の有志が、子供たちのために地域の遊園地を作りたい、と発意したことから始まります。その趣旨を受けた八幡神社の好意により、境内の南半分の地を借り受けることができました。それからは、趣旨に賛同した方々の様々な努力により、遊園地としての環境整備が進み、遊具も次第に整えられていきました。・・・・・以降略ラジオ体操に参加しませんか八幡神社境内で、毎朝ラジオ体操が行われています。皆さん、少し早起きして六時半から十分間体を動かしましょう。悪天候の朝を除き、年間を通して毎日行っています。・・・・・以降略11:20境内にはイチョウの木が二本聳えていたが途中で切断されていた。 ー 続く ー
2026.03.01
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