全30件 (30件中 1-30件目)
1

女坂最終処分場周りにある女坂花桃の道を反時計回りに散策。最終処分場の北側にあった薬王寺を参拝。4月2日(木) 15:55日蓮宗妙龍山薬王寺所在地:神奈川県藤沢市用田141道路脇に寺号標石「日蓮宗 妙龍山 薬王寺」が立っていた。後方には開花前の桜。掲示板に、「今月の聖語 吉事には八日をつかひ給ひ候也」と。薬王寺本堂。明治10年(1877)、尾上ハマ尼によって薬師菩薩を祀る薬師堂が建てられたのが、この薬王寺のはじまり。関東大震災で倒壊し、しばらくの間廃寺となっていたが、平成8年に現在の3代目住職によって再興されたと。日蓮聖人像台座に「立正安国」と。上空を見ると厚木基地への帰還機。この時間帯次から次と帰還していたがどこから来ていたのか。4発の大型ジェット機である。銅板葺き屋根の本堂。本堂の扁額「薬王寺」。本堂左前に覆い屋があり像が立っていた。水かけ用の柄杓もあったが。右側には、座像、記念碑が立っていた。右から「開堂廿五年祭記念碑」「南無妙法蓮華経」「開堂五十年祭記念碑」と刻まれていた。覆い屋の中には座像。座像をズームアップ。慈悲のあるお顔であった。本堂前から南側の参道を見る。新しい大きな石燈籠が対で立っていた。本堂の左奥に駐車場、トイレがあった。”女坂花桃の道”の案内板に書かれていた利用トイレである。薬王寺脇の坂道にも花桃が植えられていた。この道を北へ向かうと中原街道(県道45号線)と合流する。女坂花桃の道周辺へ戻る。薬王寺を見る。女坂最終処分場の西側に植えられた花桃並木。こちら側は臨時駐車場から車椅子で来れ新幹線の跨線橋辺りまで散策できる。花桃をズームアップ。ピンクの花桃。白の花桃。並木を振り返る。まだ若木だが十年後には。花桃をズームアップするがまだ若木で樹高も低かった。女坂最終処分場のフェンス越しに南側の花桃を見る。臨時駐車場入口へたどり着く。ここから南下、すぐ左折して反時計回りに散策した。約1時間の散策であったが最終処分場の目隠し用?のフェンスが景観を損なっていた。臨時駐車場の南側のフェンス。せめてこちら側のフェンスは不要ではと思うが。フェンス越しの花桃並木。花桃をズームアップ。ピンク、白の花桃。花桃を楽しませていただいた。駐車台数は約30台とあったが広かった。北側のフェンスで最終処分場を囲っている。浸出水処理設備処理施設は「凝集沈殿、砂ろ過、活性炭処理」をして下水道放流している。興味ある”浸出水処理設備”をズームアップ。北側にある薬王寺を望む。最終処分場はシートで覆われて破砕不燃物・焼却灰が埋められている。東側の花桃並木。こちら側が木も成長して見応えがあった。約1時間と短い散策であったが花桃を愛で後にした。10年後の光景が楽しみであるが。16:25馬頭観音・庚申塔・道祖神・地蔵堂所在地:神奈川県藤沢市用田252アップダウンの帰路の途中に史跡があったので駐車。振り返ると花桃。中原街道への途中にあった史跡である。地蔵堂赤頭巾と前掛けで飾られたお地蔵様であった。右から「馬頭観世音・双体道祖神・庚申供養」と並べられていた。来た道を振り返ると花桃が栽培されていた。植木鉢に植えられた花桃。天気の合間に訪れた花桃であった。5月のGWは”長野県阿智村の「花桃の里」”は混雑しているのでは!阿智村の「花桃の里 2026見頃・開花状況・花桃まつり」👈をクリック願います! END
2026.04.30
コメント(0)

”女坂花桃の道”を引き続き散策。4月2日(木) 15:30東海道線沿いの南側から上ってきて南東部に位置する新幹線の跨線橋。この跨線橋を渡ると南側に女坂スポーツ広場があり駐車場もある。跨線橋に「お願い」「投込み禁止」の2枚の掲示。この場所は「46K115M JR東海 湘南保線所」と。大阪側にある”女坂花桃の道(南側)”。新幹線車内からこの景観が確認できるか。東京方面を見下ろす。撮影用の100φmmほどの覗き窓が欲しいものだが。天気が良ければ富士が見えるのであろうか。ズームアップ。下り線の東京方面に新幹線が見えた。現在の東海道新幹線の最高速度は270キロである。因みに他の山陽・東北・上越新幹線は300キロ、北陸・九州・北海道新幹線は260キロで運行している。東京方面の線路。北側に”厚木海軍飛行場”があるので上空を軍用機が着陸態勢に。跨線橋の南側から北側を望む。跨線橋の上から女坂最終処分場東側の花桃の道を見る。こちらにも「花桃基金」があった。「この花桃は地域の奉仕活動です 花桃基金にご協力ください 女坂に花桃を育てる会」。 「トイレは薬王寺境内にあります。(注意)トイレは綺麗に使用してください!」と。昨夜の雨で散った花びらが路面を彩っていた。昔から中国では「災いを除き福を招く」と言われている「モモ」。その「モモ」の花を観賞するために改良したのが「花桃」です。品種はさまざまありますが、ここでは「ほうき立ち性」という「横に広がらず、天に向かって伸びる」タイプの「花桃」を多く見かけると。ローアングルから見上げる。厚木海軍飛行場への帰還機が旋回して着陸態勢に入っていた。かつては相模湾から茅ヶ崎上空を飛んでいたが。三色の花桃と菜の花とのコラボ。桜には黄色の菜の花が映える。幹から芽吹いたピンクの花桃をズームアップ。ピンクと白の花桃。女坂最終処分場の周りには畑が広がり工場もある。道路脇に立っていた看板に、「御所見花桃の咲く町女坂 女坂花桃の道 女坂に花桃を育てる会」と。女坂花桃の道を振り返る。女坂最終処分場所在地:神奈川県藤沢市用田150藤沢市では、ごみの焼却処理施設から出る焼却灰や不燃物を埋立処分しています。現在廃棄物の埋立を行っているのは女坂最終処分場であると。入口横に看板があり、「一般廃棄物の最終処分場 一般廃棄物の種類 破砕不燃物 焼却灰 埋立処分の期間 平成9年10月~令和25年3月予定 管理者名 藤沢市長 連絡先 藤沢市役所 0466(25)1111」とあった。 こちらには、「厚生年金・国民年金 積立金還元融資施設 女坂一般廃棄物最終処分場 藤沢市」と。女坂最終処分場入口入口手前右側に桜が咲いていた。大島桜であったか。ズームアップ。受付があったが人影を見かけなかった。女坂最終処分場藤沢市内の一般廃棄物処理施設には、5つの最終処分場と2つの焼却施設がある。女坂最終処分場の東側のフェンス沿いに花桃が植えられていた。ズームアップ。最終処分場内に入り北側から女坂最終処分場を見下ろす。南側に浸出水処理設備がある。持ち込んだ破砕不燃物・焼却灰は覆い土されているのであろうか。臨時駐車場に咲く花桃をズームアップ。土盛りに「女坂」と。フェンスの外から最終処分場の南側を望む。金網越しにズームアップ。道路脇に「P ⇦ 200M」の標識があった。女坂最終処分場入口を振り返る。15:55道路を挟んだ女坂最終処分場の北側に、薬王寺が建っていた。 ー 続く ー
2026.04.29
コメント(0)

花桃と言えば長野県阿智村の「花桃の里」が有名だが遠いので、昨年義姉(ぎし)から聞いていた近場の「葛原の女坂花桃の道」を訪れた。4月2日(木) 15:10女坂(めざか)花桃の道所在地:神奈川県藤沢市葛原182午後天気が回復したので急遽カーナビを「女坂花桃の道」にセットして出発した。場所は藤沢市北部の御所見地区の女坂最終処分場周辺にあるためフェンスに囲まれていた。道路沿いの案内看板に「⇨ 駐車場」と。臨時駐車場になっており開けられていた。花桃の開花に合わせて無料駐車場(約30台)として開放している。フェンス越しに赤・白・ピンクの花桃が咲いていた。”女坂花桃の道”は、地元住民がまちづくりの一環として約20年前に整備したものである。約450本の花桃が植えられ、沿道約250メートルにわたり、赤・白・ピンクの花が順次開花する。花桃は観賞用に改良された桃で、中国では古くから「福を招く縁起の良い木」として伝えられている。見頃は4月上旬までと。フェンスの南側を東海道新幹線が横切っている。駐車場脇に、「この花桃は地域のボランテア活動 花桃基金ご協力」の募金箱。「トイレは薬王寺境内にあります。(注意)トイレは綺麗に使・・・」と。女坂花桃の道では「ほうき立ち性」と呼ばれる、横に広がらず上方向に伸びる品種が見られるのが特徴。赤、白、ピンクの花が混在して咲くほか、足元の菜の花が黄色の彩りを加える。写真愛好家の間では、東海道新幹線と花桃の景観を組み合わせた撮影も見どころの一つとなっている。駐車場に車を置き、反時計回りに散策することに。こちらの案内板には「⇦ 駐車場 午後六時閉門」と。駐車場から南へ進み振り返る。フェンス沿いに進んだが、昨夜の雨で足元はぬかるんでいた。多くの家族連れが訪れておられた。路地を抜けると扇状に広がったピンクの花桃が迎えてくれた。青空に映える花桃。ここからは下り坂で足元も悪く車いすはここで折り返し。路面には昨日の雨で花びらが散っていた。菜の花とのコラボ。右上を東海道新幹線が走る。女坂最終処分場の周りに花桃が植えられているがここは南側に位置する。左側のフェンス内は女坂最終処分場になる。過密ダイヤの東海道新幹線は数分ごとに高速で通過していた。花桃を見上げる。花桃は下枝には花芽が少なかったこの辺りは一番低地になっておりこの先で坂になっている。新幹線も上を走る。フェンス内は女坂最終処分場。南側に東海道新幹線が走り高速で通過するので風圧がすごい。花桃が植えられ散策路にベンチが置かれていた。南側の散策路はアップダウンがあった。この辺りは小田原、新横浜間の直線路で時速200キロ以上で走行では。まだ若木の花桃の木であった。前方に赤錆びた跨線橋があった。新幹線が通過、乗客も高速で走るのでこの数百メートルの光景は見えないのであろう。新幹線路線の出入口があったが当然ながら施錠されていた。看板に、「東京 46K230M 上 新大阪 天沼」とあった。こちらは上り線側であるのでキロ数は東京までか。この辺りからは上り坂に。階段を上り見下ろす。バリアフリー化されていないので車椅子では通れない。数分待つと上り新幹線が来た。撮り鉄の撮影スポットになっている。十秒ほどの撮影タイムである。南側の東側は階段を上る。赤・白・ピンクの花が順次開花すると。階段を上ると緩いスロープになっていた。ローアングルから見上げる。紅白の花桃を見上げる。赤色の花桃をズームアップ。女坂最終処分場の西側にも花桃が植えられていた。15:30女坂最終処分場越しに大山が見えていた。 ー 続く ー
2026.04.28
コメント(0)

出雲大社相模分祠からの帰路に急遽「関東三大稲荷の白笹稲荷神社」へ立ち寄った。3月22日(日) 15:10拝殿右側へ2基の鳥居が建っていた。右側に幟旗があり、「~ 秦野で福集め ~ 南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。鳥居の扁額「七福神」。寿老人寿老人とは、長寿・財宝・名誉・病気平癒を授け、人々の安泰と健康を守る神様である。寿老人は位の高い神様で、常に長寿と自然の象徴である鹿を従え、不老長寿のシンボルであり、邪悪を祓い退ける桃の実を手にしているのは、その証である。寿老神と書く場合もある。祠の中には陶器製の寿老人があった。拝殿右側から千本鳥居をくぐり社殿の裏側にある「東末社」へ。朱色の鳥居の扁額には「正一位 稲荷大明神」と。東末社への案内板。千本鳥居をくぐり下ると「東末社」前へ。下ってきた千本鳥居を振り返る。右上に社殿。東末社東末社草木の精霊を祀る東末社は、草祖社・木祖社と言い、霊験あらたかなパワースポットとして信仰を集めています。社の左右に鎮座するお狐様は、明治時代にイギリスから初めて輸入されたコンクリートで造られました。東末社右側から千本鳥居をくぐり社殿裏へ上る。鳥居の左前には、東末社の右側に鎮座するコンクリート製のお狐様。説明板に、「コンクリート製のお狐様 明治五年にイギリスから初めてコンクリートが輸入され、そのコンクリー トにより造られたお狐様です」と。東末社の右側に、白笹稲荷神社と書かれた扁額の鳥居。境内絵図では「狐塚」とあったが。小さな祠があり、周りには大小の狐が多く奉納されていた。この鳥居の扁額にも「白笹稲荷神社」と。権兵衛稲荷新しい石鳥居、石祠が建っていた。石鳥居の扁額「権兵衛稲荷」と。新しい狛狐と石祠。権兵衛稲荷の名称由来茨城県神栖市周辺に於いて代々庄屋を務めていた安藤家の当主が権兵衛と名乗っていた事に由来している。茲に奉納にあたり従来の西末社を合祀し、権兵衛稲荷としたものである。東末社、権兵衛稲荷から坂を登り本殿裏へ。境内案内「⇦ 社務所」「東末社 ⇨」。写真の右奥に「鹿子の木」があったようで根元に説明板があった。本殿裏に鎮座する「祖霊社」。祖霊社の裏側に石碑が立っていた。祠の傍に「祖霊社」と。祖霊社の裏の石碑に「敷石寄附碑」、右側の円柱には「御神木」と。社殿横の千本鳥居。歌碑?があったが判読できなかった。後方は東末社への千本鳥居。境内から階段を下り”白笹の杜広場”から鳥居を見上げる。鳥居の扁額には「白笹稲荷神社」と。階段右上に「弥栄銀杏」が聳える。銀杏の根元に、「弥栄銀杏(いやさかいちょう) 銀杏の木は、昔から子孫繁栄や良縁御縁をととのえると共に、安産の御利益 があります。 雄雌揃った銀杏ですので夫婦円満や子宝の恵みが受けられます。 銀杏は樹根を拝むと母乳の出がよくなるという言い伝えがあります」。境内の高木が聳え鬱蒼としていた。この日は夕暮れになり参拝者も少なかった。右側の鳥居をくぐり下ると白笹の杜広場へ。高木の銀杏の木を見上げる。駐車場への途中に「白笹うどん 近道 歩3分」と。木柱に「一貫田(いっかんだ)湧水」。一貫田湧水は、秦野市名水スポットの一つで、水道水源としても利用されていた。小さな崖からしたたり落ちる白笹稲荷神社湧水と合わせて日量500㌧が室川へ流れ出ている。白笹稲荷神社を後にした。いつもながらにもう少し下調べをして参拝すべきであった。黄金(おうごん)の泉白笹稲荷神社の駐車場脇にひっそりとあるので、気づかず通り過ぎる可能性大である。黄金の泉ヒカリモは黄金色に輝く珍しい藻類です。その輝きによって、金運に効く縁起物の泉が出現します。(四月末から十二月)この日は三月下旬で黄金には見えなかった。駐車場脇には竹林もあり、桜が2本植樹され説明板が立っていた。左に「鬱金桜(うこん桜)」、右に「御衣黄桜 (ぎょいこう桜)」。鬱金桜 (うこん桜)淡い黄緑色の優雅な花が珍しい品種です。黄金色の花により金運の桜としても尊ばれております。四月中旬開花します。御衣黄桜 (ぎょいこう桜)花弁が赤くなり緑色の花が咲く大変貴重な品種です。四月中旬開花します。近年はソメイヨシノは病気に弱いので他の品種が植樹されていると。駐車場脇に公衆トイレがあったが使用時間は「8:00~16:30」と。15:25自動販売機も設置されていた。わずか30分程の参拝であったが、当神社では「骨董蚕の市 毎月第5日曜日」が開催されているので再度参拝したいものだ。はだの桜みち県道62号線の西大竹交差点から県道706号線の新橋交差点までの区間に、約6.2kmにわたって桜並木が続いている。この桜並木は神奈川県で一番の長さを誇り、毎年春になると、美しい桜のアーチが人々の目を楽しませてくれると。西大竹交差点から南下、東名高速の秦野中井ICがあったが一般道の県道71号線(秦野二宮線)を利用、西湘バイパスへと走った。途中、中井電話局前交差点のガソリンスタンドのレギュラーの値段は、164円/ℓ。16:15西湘二宮ICから西湘バイパスを走り、国道134号の”道の駅湘南ちがさき”交差点を左折。自宅へは16時半に到着した。この日の走行距離は60キロで歩行数は8,400歩。3月下旬の「伊勢原三嶋神社の枝垂れ桜 他」を楽しんだドライブであった。 END
2026.04.27
コメント(0)

出雲大社相模分祠、西光寺周辺を散策後、帰路についた。3月22日(日) 14:55セブンイレブンから県道62号線(はだの桜みち)を帰路につく。途中信号標識が「白笹稲荷入口」と。まだ時間が早かったので急遽立ち寄ることにし左折。15:00はだの桜みちの白笹稲荷入口交差点を左折して数百メートルに位置していた。ここから小田急秦野駅までは1.6キロ歩いて22分と。白笹(しらささ)稲荷神社所在地:神奈川県秦野市今泉1089朱色の鮮やかな鳥居が建っており、大鳥居の奥が広い駐車場になっている。当社は「食」を守り「生きるチカラ」を再生する関東三大稲荷の一つとのこと。社号標石に「白笹稲荷神社」と。大鳥居鳥居の柱に「月次祭 令和八年毎月一日 午前十時 斎行」。赤い幟旗には「正一位 白笹稲荷大明神」と。鳥居の奥に広い駐車場があったが参拝者の車は少なかった。大鳥居の扁額「白笹稲荷神社」。掲示板のポスターには「白笹稲荷 骨董蚕の市 毎月第5日曜日開催!!」と。関東三大稲荷 白笹稲荷神社境内絵図境内が広いので本殿回りをズームアップ。胸像の台座に「栗原秦堂翁」と。胸像をズームアップ。”栗原秦堂翁”の「秦堂」は書家の号である。栗原宣太郎翁栗原宣太郎は、白笹稲荷神社宮司元廣と津満の長男として、元治元年に生まれる。後に第三代白笹稲荷神社宮司となる。幼少より学問に優れ、日本大学で政治、経済を学び、秦野で初めての学士となり後に権田直助や小笠原東陽に師事する。第三代南秦野村長、神奈川県議会議長、衆議院議員を三期歴任し、明治四十一年五月に政界を引退する。その後は、白笹稲荷神社の御神威発揚に努め、崇敬者の講組織等を始め、神社の振興に尽力された。又、書家で号を秦堂と称し、後に帝展(日展)の審査員となる。多岐分野での功績により、勲四等旭日章を受賞する。 昭和十八年十二月八日 逝去 享年七十九歳第2駐車場脇に咲くソメイヨシノが3分咲きになっていた。県道62号線(はだの桜みち)の桜並木はこれほど咲いていなかったが。参集殿傍に咲いていたこのピンクの花は桃であったか。駐車場から緩い坂を下ると白笹稲荷神社の鳥居が建っていた。関東三大稲荷 白笹稲荷神社境内絵図本殿の裏側にも多くの境内社がある。鳥居の手前に二基の石碑が立っていた。左の石碑には「奉納 白笹稲荷神社」、右には「境内整備の碑」と。境内整備の碑栗原家は代々白笹稲荷神社の社家として神明に奉仕してきた・前宮司栗原元彦は更に境内を神域にふさわしいものに整備・・ご神威の高揚を図ることを祈念し百年の大計を志したその志を継承して崇敬者の浄財を仰ぎ平成十五年九月に・・・した 赤誠をもって尽力し同十七年七月完成したここにこの意義ある事業の完遂を感謝して後世に伝える・・めに記す 平成十七年十月吉日 宮司代務者 責任役員 金子元重 高瀬 □ 梅原□□ 栗原□□ 小泉□□白笹稲荷神社の鳥居。右側を下ると「白笹の杜広場」がある。竹で作られた手水場。白笹稲荷神社の湧水を利用して手水としている。手水場の後方に狛犬、狐。白笹稲荷神社の由来創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。鳥居の扁額「白笹稲荷神社」。鳥居下の右側に衣裳をまとった子守り母狐。左側にも同じような子守り母狐。子守り母狐お稲荷様と御縁の深いお狐さんのなかでも、子供を慈(いつく)しみ育て日々お守りしている子守り母狐です。お子様の健やかな成長の御利益が授けられます。境内へ上がり社殿を見る。境内に置かれていた、「祝 参拝記念 関東三大稲荷 白笹稲荷神社」。銅板葺きの社殿御祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 大宮売命(おおみやのめのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)拝殿右側の木鼻。左側の木鼻。拝殿の唐破風彫物は狐が稲穂をくわえていた。白笹稲荷神社の紋「白笹」と。拝殿の扁額、「正一位 白笹稲荷神社 相模國高座郡 長後□」。拝殿、幣殿を見る。拝殿内の扁額「白笹社」。拝殿内には奉納された一升瓶が多く供えられていた。拝殿に上がれば天井絵が見れたのだが下調べ不足であった。拝殿天井絵日本の歌舞伎絵の第一人者である後藤芳世画伯(院展特待)が、七年の歳月をかけて描き上げた天井絵。 格天井150枚の龍神様、風水四神や宝尽くしの図は神々しい赤誠の作です。天井絵は、本殿が開いている午前9時から午後4時まで自由に見ることができる。問合せは同神社社務所【電話】0463-81-0256 までと。(写真はネットから)15:10拝殿前から境内を見下ろす。右側の建物は「社務所・授与所」。 ー 続く ー
2026.04.26
コメント(0)

西光寺の参拝後、Googleマップで事前に調べていた周辺の寺社史蹟を訪ねた。3月22日(日) 13:45ひときわ目立つ西光寺のイトヒバである。西光寺周辺の寺社史蹟この後、赤丸内を訪れたが歩いて行ける範囲内であったが車で移動した。最後は星のマークのセブンイレブンへ。西光寺の駐車場から次に訪れたのは「三協町の双体道祖神」へ。道が狭いので歩いて散策するべきであった。三協町の双体道祖神所在地:神奈川県秦野市平沢1573-7室川に架かる向開戸橋の袂に四基の双体道祖神が並んでいた。年代等はわからないが、僧形、男女共に合掌型で、苔むした感じが何とも良い。この坂を登ると震生湖へたどり着く。この後は車で移動したので目的地への道を間違い右往左往したので整理してアップ。区画整理されていない狭い道は歩いてスマホの案内で進むべきであった。御嶽神社所在地:神奈川県秦野市渋沢1574静かな所に鎮座する神社で近くに民家があるので騒がないでくださいと。鳥居の扁額「御嶽神社」。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。神社横には畑があり民家の方が農作業中であった。拝殿の扁額「御嶽神社」。狭い敷地の中に鎮座していたが手水鉢もあり地元の方々の崇敬を集めているのであろうか。ここからも東の方向に弘法山が見えていた。弘法山の権現山展望台をズームアップ。車がすれ違い出来ない狭い道であった。大神宮所在地:神奈川県秦野市平沢1566古民家の住宅街の中にある神社で車の中からは分かりづらかった。駐車場がないので近くの空き地に車を停めさせていただき参拝した。小径の反対側から振り返る。由緒等の説明板もなく詳細は不明。内陣を覗き見る。狭い境内だが石燈籠、手水鉢が奉納されていた。新しい賽銭箱も。地元集落の方に崇敬されているのであろう。藤繁稲荷所在地:神奈川県秦野市平沢1560-3新しい住宅地の中にあった。入口に「プリマ ヴェーラ Prima Vera」と。二階建ての賃貸アパートで、小田急小田原線渋沢駅からバスにて5分 土橋下車徒歩5分の距離にあります。2014年6月に完工し、建物の構造は木造ですと。賃貸アパートの一角にある稲荷である。アパート新築時に整備されたのであろう。祠の扁額「藤繁稲荷」。説明板はなかったが扁額に「寛政12年(1800年)建之」と。賃貸アパートからの出口。南側の渋沢丘陵を望む。次に向かったのは北側にある「土橋跡」。その途中のティー字路にあった石碑。石碑に字が刻まれていたが・・・。石碑前から南方向の来た道を振り返る。土橋跡所在地:神奈川県秦野市平沢1555秦野駅から土橋経由渋沢行きのバスに乗り、土橋で下車。バス停から南下、小田急線の踏み切りをわたり進むと、土橋跡のこの石碑がある。土橋跡 土橋由来記明治のはじめここに樹令数百年の欅の大樹が5本ありました。この木の根の下を小さな流れがありましたが、大水のたびに流れは次第に深くなり杣道に橋が出来た様になりました。人々はその上を渡っていつしか土橋と呼んでなれ親しんできました。そしてこの付近一帯の地を「土橋」と呼ぶ様にもなりました。その後、たびたびの大水で大樹が倒れたりしましたので、大正15年にコンクリート橋となり、昭和63年の道路改良工事に伴ない暗渠になったのです。東方向のこの道は、昭和63年の道路改良工事に伴ない暗渠になったと。石碑前から西方向を見る。西光寺周辺の散策を終え、東へ進み”県道62号線(はだの桜みち)”へ。県道62号線の三協町交差点。はだの桜みちの桜並木であるがまだ開花前であった。セブン-イレブン 秦野出雲大社入口店所在地:神奈川県秦野市平沢1281-2県道62号線(はだの桜みち)を走り出雲大社入口交差点角にあるセブンイレブンへ駐車。セブンイレブンの先に今日最後の目的地「神社」があったので歩いて向かった。桜が咲いておれば最高であったのだが。歩道の左手に神社。神社所在地:神奈川県秦野市平沢1314-4祠、鳥居は新しくなっていたが説明板等はなかった。Googleマップに載っているのだが詳細は不詳。古い石燈籠、手水鉢も置かれていた。東側に回り込む。近年に整備されたようだ。”名もなき神社”から駐車しているセブンイレブンへ戻る。道路脇に大きな看板「関東のいずもさん 出雲大社 相模分祠 ↱ 20m先右折 P130台」と。出雲大社相模分祠の杜を望む。14:50セブンイレブン前の出雲大社入口交差点。 ー 続く ー
2026.04.25
コメント(0)

御嶽神社、八坂神社の散策後、Googleマップで事前に調べていた近郊の寺社史蹟を訪ねた。3月22日(日) 13:15出雲大社相模分祠の駐車場から、御嶽道を南下して県道62号線(はだの桜みち)へ出て右折。”はだの桜みち”を百メートルほど走り左折してここ”道祖神”前へ。”くさやま矯正歯科&小児歯科”の敷地の一角にあった。西光寺への途中にあった、朱色の祠と道祖神である。道祖神前から戻り、走って来た県道62号線(はだの桜みち)を振り返る。百メートルほど先に出雲大社入口交差点がある。桜みちであるがまだ開花前であった。文字道祖神、五輪塔等が並べられていた。井光山 西光寺所在地:神奈川県秦野市平沢1631出雲大社相模分祠から一番近い寺院である。門前に立つ幟旗に「南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。駐車場から”はだの桜みち”から南下して来た道を振り返る。駐車場脇に新旧の双体道祖神。台座が新しいので移設整備されたのであろう。駐車場脇の苔むした石碑に「□□碑」と。下に碑文が刻まれていたが苔むして確認できなかった。新しい玉垣傍に石祠が二基。台座に「辨才天」、「水天」とあった。この日は春分の時期で参拝者が多かった。左には石碑が立ち、北側には大山が聳えていた。道路脇に石碑が立っていた。苔生した石碑には「天社神」と。天台宗西光寺寺院の由緒等の説明板はなかったが、天文年間(1530年)中興と言われていると。明治以前は旧平沢村総鎮守御嶽、八坂神社別当を歴代務めた。境内には市指定保存樹木のイトヒバが聳えている。寺号標石「天台宗 西光寺」。宗祖伝教大師「天台法華宗年分学生式」ニ曰ク 照千一隅 山則國寶 平成十七年三月吉日参道脇に六地蔵が立っていた。山 門左側に「當山大施餓鬼會 執行五月廿四日 午後二時より」と。 山門の扁額「井光山」。本 堂山門と本堂の間に梵字が書かれ仏塔が立っている。また背の高い石燈籠が一対立っていた。本堂の扁額「西光寺」。本尊:阿弥陀三尊。貼り紙に、「毘沙門天スタンプ ➩➩➩ お願い 一、スタンプを押す際、必ず消毒をしてください。 一、朱肉の蓋を閉めてください。 一、左記の御眞言を唱えながらスタンプを押して頂くと各々の心願が近づきます。 御眞言 オン・ペイシラマナヤ・ソワカ」と。本堂前から奇麗に整備された境内を見下ろす。本堂前左側に赤い幟が立ち「奉納 南無毘沙門天王」と。社の中に陶器製の”毘沙門天”が鎮座していた。本堂の左側から見上げる。山門の右側に茅葺屋根の鐘楼が建っていた。墓地の入口には新旧の地蔵が立っていた。赤の幟旗には「南無水子地蔵尊」と。こちらの青色の幟旗には「南無観世音菩薩」と。観世音菩薩、水子地蔵尊が立っている。鐘楼横から本堂を見る。境内は近年に整備されたようで新旧の石像等が立っていた。境内に聳えるイトヒバ (別名:ヒヨクヒバ)。イトヒバとは樹高5m〜20m程になるヒノキ科の常緑針葉高木。日本では4月〜5月頃に開花する。イトヒバの幹は直立して、樹形は円錐形になり樹皮は赤褐色で、縦に裂けて薄く長く剥がれ、細枝は垂れ下がって糸状になる。次に訪れたのは近くにある「大六天神社」。近くにあるので西光寺の駐車場に車を置きスマホの案内で東方面へ進んだ。道路脇に、ちょこんと建っており住宅に挟まれてるので、車だと見過ごす神社であった大六天神社所在地:神奈川県秦野市平沢1668Googleマップには「第六天神社」となっていたが。社殿の扁額「大六天神社」。内陣には小さな祠が納められていた。住宅街の小径から東の方向に弘法山が見えていた。弘法山の権現山展望台をズームアップ。かつて妻と鳥撮りで良く訪れた山である。13:45大六天神社前から西方向の西光寺のイトヒバを望む。この辺りは新しい住宅地に。 ー 続く ー
2026.04.24
コメント(0)

出雲大社相模分祠の境内を散策後、隣接する御嶽神社、小坂神社へ参拝。3月22日(日) 12:55県道62号線の出雲大社入口交差点からの御嶽道から御嶽神社の巨木を見上げる。突き当りを右折すると出雲大社相模分祠の参道入口へ。玉垣に奉納された多くの提灯が吊るされていた。秦野市マンホール蓋丹沢の美しい自然と澄んだ空気をいつまでも大切に守り、次代へと引き継ぎ快適な市民生活環境の保全を願い定めた市の花「なでしこ」を幾何学的に13箇所、そして中央に市章を配置したものを図案化している。御嶽神社所在地:神奈川県秦野市平沢1223出雲大社相模分祠の杜の南西部にある神社である。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。両部鳥居の扁額「御嶽神社」。石碑には「御輿奉献寄附者芳名碑」と。奉納金額と氏名が刻まれていた。昭和五十九年四月七日建立。境内の正面に「御嶽神社」、左奥に「八坂神社」が鎮座。左側には御神木の”千年の大けやき”が聳える。鳥居の右側に「御神輿殿」が建っていた。御神輿殿の扁額「御神輿殿」と。畳一枚小の小さな「手水舎」。御嶽神社と八坂神社の説明板御嶽神社祭 神 倭建之命、大己貴命、少名彦命、櫛真知命境内社 金毘羅八幡社、山王稲荷天神山之神合祀社由緒沿革 創立年歴は不詳でが、建久三年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し、(その先を 北条と言う。大化班田条里の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。境内には樹齢八百年 余りの大欅二本(秦野市文化財指定木)があり、明徳三年(1392)四六貫五百文の当社家領 が寄進されている。慶長十三年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿 の改修を命じた。翌慶長十四年改修、棟札に「奉修御嶽権現社檀事本願神主草山兵庫守、 寺家分草山藤左ヱ門慶長十四年酉年十一月吉日・・・」とある。 現在の本殿はその時のもので神職は白川家の配下であった。宝永八年(1711)二月十三日 宗源宜旨により正一位御嶽蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治六年七月三日上地し、御 嶽神社と改称、昭和九年幣帛料供進指定神社となる。昭和五十一年五月三日本殿を除き全 社殿を新築木造銅板葺とした。 神社庁指定結婚式場は、明治十三年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠 宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。 この式殿は、貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引継がれ智義翁は、片岡 の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤に その遺志を引き継がせた。昭和四十七年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和五十四年八 月幣殿、拝殿、参集殿を同時起工昭和五十五年四月一日、神楽殿、神殿の遷宮式並びに幣 殿、拝殿、参集殿の竣工式を執行、後結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現在に至る。宮 司 草山清和連絡先 出雲大社相模分祠 秦野市平沢1221 ☎ 0463-81-1122八坂神社祭 神 須佐之男命、大国主之命境内社 道祖神社由緒沿革 創立年歴は不詳であるが、別名金毘羅宮と称し、境内には樹齢八百年を越える大欅 二本があり市の指定木である。昭和八年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あ った。寛政元年(1459)酉年四月の社号額「金毘羅大権現」は神祇宮資延王謹書と あり、文政二年(1819)作の手水鉢及び同年の石灯籠一対がある。神輿は寛政二年 (1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。明治二年西開戸鎮座 牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治六年西光寺持八坂社を合祀し八坂神社と改称し て独立したが氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。昭和五十一年 御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。宮 司 草山清和連絡先 出雲大社相模分祠 秦野市平沢1221 ☎ 0463-81-1122境内の東側に境内社の”金毘羅八幡社”であろうか。扁額がなかったので?である。隙間より内陣を覗き見る。厄除けえびす陶器製のえびす像であった。厄除けえびす平成二十三年九月二十一日関東地方に襲来した戦後最大級の台風十五号は神奈川県に大きな災害をもたらしました。御嶽神社に於いても南側に立つ樹齢三百年の欅が倒され神輿殿・拝殿・えびす様を直撃し多大な被害を受けました。しかし不思議なことに木をどかすとえびす様の姿は何処にもありません。皆で周囲を探すと五メートル先の御嶽神社の横でいつもと変わらぬ笑顔で座っておられました。石碑には「令和 御大典記念」と。御嶽神社両部鳥居改修事業奉賛募金名碑此の両部鳥居は天保十四年(西暦1843年)神主・草山和泉の代に建立されました。大正十二年の関東大震災で甚大な被害を受けましたが、昭和御大典記念として台石等基礎を改め元の座に復しました。此の度、平沢氏子中八百二十九名より奉賛を賜り、令和御大典記念として柱・貫等を改める事としました。笠木・島木と神額は天保十四年建立当時の物を用いています。 令和二年四月吉日下には、奉賛金・氏名が刻まれていた。境内の樹々を見上げる。ソメイヨシノも咲き始めていた。御嶽神社の拝殿石燈籠には倒壊防止対策の補強が施工されていた。拝殿の扁額「御嶽神社」。御嶽神社(みたけじんじゃ) 通称 御嶽さん(おみたけさん)御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 櫛真智命(くしまちのみこと)創立年歴は不詳であるが、建久三年(1192)頃より神社前の参道を御嶽道と称し、平沢村の鎮守神として記録されている。慶長十三年(1608)踊宮鈴張の地に将軍徳川家康公が鷹狩りに来た際に、当社に参拝、社殿の改修を命じ、翌年に極彩色の彫刻を備えた桧皮葺きの御本殿を改修した。昭和五十一年に本殿を覆う形で木造銅板葺の御社殿を修造し、現在の形となった。奥に鎮座する本殿は慶長年間に改修された当時の姿である。境内には、神輿蔵・金毘羅宮・神楽殿・石碑等、数多く祀られている。大正十二年、神木が倒木したが、年輪が980もあった。内陣の拝殿・幣殿・本殿を見る。内陣にも扁額「御嶽神社」。本殿をズームアップ。大けやきの下に神楽殿。注連縄を巻かれた御神木のけやき。保存樹木(指定第1号)ケヤキ(にれ科) 目通り周囲 4.8M 指定 昭和49年9月30日 樹木を大切にしましょう。 秦野市八坂神社(やさかじんじゃ) 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと) 八坂神社の創立年月日は不詳。 当社の社殿は昭和四十二年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、 昭和六十年、屋根は銅版葺きとした。 疫病よけの御利益をもつとされる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御神木 千年の大けやき 御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢千年余と五百年余の御 神木の大けやきが二本ある。 千年の大けやきの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神 木のコブを引っ張ると伊勢原の大山より恵の雨が降るとの伝承がある。 平成になり老朽の為、取り除かれた。神楽殿前から御嶽神社を望む。神楽殿の左側に道祖神群があった。神楽殿前から、樹齢千年余と五百年余の御神木の大けやきを望む。御嶽神社の左側(西側)に鎮座する八坂神社。社号標石に「八坂神社」と。石鳥居の扁額「八坂神社」。八坂神社社殿社殿は昭和五十一年に隣の御嶽神社の社殿を移築改造したものである。氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。拝殿前の彫り物。内陣を見る。平沢御嶽・八坂神社例大祭 令和八年四月五日 (日)◎大祭式 神輿発輿 【午前八時○○分 ~ 午前九時○○分】◎神輿御渡 【午前九時○○分 ~ 午後五時○○分】 ※本神輿は車載・人力で巡業します◎神社宮入 皆様こぞって勇壮な宮入をご見学下さい 【午後五時○○分 ~ 午後五時三○分】◎氏子福引大会 【午前十時○○分 ~ 午後三時○○分】 豪華景品が当たります! 先着350名まで・空くじなしNHK 小さな旅「水まもる里 ー神奈川秦野ー」 放送日【総合】4月19日(日) 午前8時~ 4月24日(金) 午前11時5分~八坂神社前から境内を見下ろす。樹齢千年余のけやきの根元も朽ちて養生。左側には「文政二年(1819)作の手水鉢」が無造作に置かれていた。両部鳥居、御神輿殿が建つ境内南側。八坂神社の東側に鎮座する御嶽神社。本殿の銅板葺き屋根。八坂神社を望む。右側に鎮座する御嶽神社の間を抜け第三駐車場へ。神社の裏側に樹齢五百年余のけやきが聳える。八坂神社の裏に「御大典紀年」と刻まれた石碑。石碑には「御嶽神社 玉垣石垣造営寄附名碑」と。奉賛金額と多くの氏名が刻まれていた。御神木の大けやき二本のうちの一本で樹齢五百年余のけやきである。白い木柱には「秦野市保存樹木 昭和49年9月30日指定 第1号」と。13:10御嶽神社と八坂神社の裏に聳える”やぶつばき”。やぶつばき平成二十二年五月、県立秦野戸川公園で斎行された第六十一回全国植樹祭も式典行事で、皇后陛下は当社のヤブツバキより採取した種をお手捲きになられた。江戸時代より生育している古木で樹高も高く大変珍しい椿の原木である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ⇧ 直進 約30m ◇御嶽神社 ◇八坂神社 ◇千年の大けやき ⇦ 左へ 約50m ◇出雲大社相模分祠 ◇出雲記念館 ◇千年の杜(せんねんのもり) ◇全国名水百選遊水地 ー 続く ー
2026.04.23
コメント(0)

引き続き出雲大社相模分祠の境内を散策。3月22日(日) 12:25右側の石に「千年乃杜」と刻まれていた。また幟旗には「~秦野で福集め~ 南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。千年の杜入口から入ると社の中に「ダイコク様」が鎮座。陶磁器製のダイコク様であった。南はだの村七福神と鶴亀めぐりかつての南秦野村を通る寺社仏閣を巡りつつ、地元の人々ともに福を磨き、福を集め、古きよき南秦野村の伝統を語り継いで行きたいという思いから始められた七福神巡りです。七福神と鶴亀スポットを巡り、十個全ての御朱印を集めると完歩賞がもらえます。千年の杜の入口に【ダイコク様】、御嶽神社に【エビス様】が鎮座しております。 ※朱印ケースの暗証番号は設定されておりません。そのままレバーを引いてから開けて 下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・○大黒天【ダイコク様】 「五穀豊穣」「商売繁盛」の神様で、幸せをもたらす打ち出の小槌を持っています。 大陸より伝わった七福神信仰と日本に伝わる出雲の大国【ダイコク】様の信仰が習合 したものとも考えられます。○恵比寿【エビス様】 「商売繁盛」の神様で、七福神の中で唯一の日本出身の神様。ダイコク様と並んでお 祀りされる事が多いですが、実は親子の関係にあたる神様です。日本名を事代主命 【ことしろぬしのみこと】と称します。”千年の杜”は、平成十九年に植樹祭が斎行され、この森には照葉樹を中心に約12,000本60種の日本古来の樹木が混植・密植されている。森の中には湧水があり、メダカやドジョウ・ホタル等が生育していると。千年の杜の奥に鎮座する「龍蛇神の社」。ゆずりの水この湧水は地下51メートルより汲み上げられた清らかな「ゆずりの水」として朝夕多くの参拝者がお水取りに訪れると。龍蛇神の社千年の杜内には、杜の守り神として「龍蛇神」をお祀りしています。龍蛇神とは大国主大神さまの御使神で、「縁結びの神」「幸福を授ける神」として慕われている神様である。右側の看板には、「H27年度環境省主催『名水百選』選抜総選挙『おいしさ』部門全国一位 秦野の名水 『千年の杜』お水とり用ペットボトルは授与所へ 天然水」と。龍蛇神の社 (りゅうじゃしんのやしろ)出雲地方に古来より伝わる龍蛇神様を千年の杜の守り神としてお祀りする。古くより、出雲の地では旧暦十月十日に全国の神々が参集し、縁結びの会議がなされるといわれる。古来より十月を神無月と呼ぶ所以でもあり、出雲地方では神在月(かみありつき)、お忌みさん(おいみさん)とも称し特別な信仰がある。神々が集う出雲の地に全国の神々をご案内・先導する神様が龍蛇神様である。縁結び・金運の御利益があるとされる。社殿正面の湧水は全国名水百選の丹沢秦野湧水群の一つに数えられ、一年を通じ一定の温度で保たれ、夏は冷たく冬は温かみのある自然の天然水である。地下五十一㍍より汲み上げられるこの湧水は、自然の力によって秦野盆地の地下で長い年月をかけて丁寧に濾過され、ミネラルも豊富で飲料水としても親しまれている。 祭典日(龍蛇神様の特別拝観実施) ○正月三が日残念ながらペットボトルを持参していなかったので・・・。ネットに、お水取りは無料です。お持ち帰りの際には、ご自身でボトルを持参するか、お持ち帰り用のペットボトル(150円)・名水ボトル(1200円)をお受け下さい。お持ち帰りになりましたお水は冷蔵庫で保管してお早めにお召し上がりくださいと。千年の杜の守り神”龍蛇神の社”。猛暑の夏場は暑さをしのぐための憩いの場になるのではと。夏にはホタルも舞う。千年の杜入口 (南側)このモニュメントは、近代金物造形アート 三つ足鳥居『記憶としての構造』。「秦野千年の杜」この杜は、秦野を「世界で一番美しい森の盆地のまち」にすることを目指し、さまざまな生命を育む森や緑豊かな地球を大切にしようとの願いが込められています。「ふるさとの木による ふるさとの森づくり」を提唱する宮脇昭・横浜国立大学名誉教授が植樹を指導し、毎日新聞創刊135年記念事業・あすを植える「My Mai Tree」キャンペーンと連携し、植樹祭が開催されました。 平成19年6月 「秦野千年の杜植樹祭~出雲大社相模から」 主催 千年の森をつくる会 共催 毎日新聞社、出雲大社相模分祠 後援・協力団体 秦野市、秦野市教育委員会、秦野市農業協同組合、秦野商工会議所、(他諸略) 千年の杜の入口左側にダイコク様。右側には双体道祖神と「龍蛇神の社」と。出雲大社相模分祠 本殿並びに拝殿島根県出雲大社より正式に御分霊を賜わった出雲大社教の分祠。出雲大社の御祭神「大国主大神」様をお祀りする。明治二十一年(1888年)に、出雲大社第八十代国造・千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり報徳家であった草山貞胤翁が大国主大神の御神徳を関東地方に広める為この地に鎮祭申し上げた。そのほか近隣の秦野・伊勢原・平塚に鎮座する累代の神社二十三社二十八柱の御祭神を合祀している。社殿は大社造りと権現造りを組み合わせた独自の様式で翼幣殿と呼ばれる長い幣殿が特徴的である。◎お宮参り・七五三詣・家内安全・縁結び・厄除け・交通安全・八方除等 各種御祈願を斎行。◎祭典日 月次祭 (つきなみさい) 毎月一日午前十時三十分出雲記念館にトイレがあったので引き返すことに。出雲記念館ロビーの隅に神輿が展示されていた。館内にはいろんなお土産物が販売されていた。左には、「島根県出雲特産 しょうが湯 5袋 600円」と。大相撲百周年記念 左手形:第七十四代横綱 豊昇龍 右手形:第七十五代横綱 大の里節分の日には伊勢ヶ浜部屋の関取達が参加して盛大に行われる。出雲記念館前から社殿を見る。良縁桜のソメイヨシノは一分咲き。杜の豆腐工房 三河屋境内の隅で豆腐関係の品物を販売しておられた。水を汲みに来てお土産に美味しい豆腐、湯葉、豆腐ジェラートを買う人が多いと。今だ「謹賀新年 豆腐ジェラード ¥500」。訪れた時多くの人が食しておられた。昼時でお腹が空いたので肉まんを一個購入。いろんな種類の豆腐を販売、350~500円。石像が集められていた。12:50出雲大社相模分祠を後にし、隣接する「御嶽神社、小坂神社」へ。 ー 続く ー
2026.04.22
コメント(0)

引き続き出雲大社相模分祠の境内を散策。3月22日(日) 12:10拝 殿御祭神 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 事代主大神(ことしろぬしのおおかみ) 合祀祭神28柱(兼務神社23社のご祭神)沿 革 出雲大社相模分祠は、明治21年(1888)に、島根県御鎮座の「出雲大社」第80代国造・ 千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、「秦野煙草の祖」と仰がれる草山貞胤 翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方 に広めるための要処としたのを創まりとする。拝殿前に「旧【大しめ縄】展示(期間限定)。昨秋、大しめ縄の掛け替えを執り行いました。ここに旧【大しめ縄】を展示致します。ぜひとも直接じかに触れて大神様のお力を頂いて下さい。拝殿には新しく掛け替えられたしめ縄が吊るされていた。拝礼作法 二礼四拍手一礼 神語【祈りの言葉】~三回唱える~ 幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)守給(まもりたまい)幸給(さきはえたまえ)参拝の作法 賽銭を入れ、 まず 二礼 深いお辞儀を二度します 次に 四拍手 おわりに 一礼 深いお辞儀を一度します 軽くお辞儀をして、さがります御祭神の恵比寿さま拝殿前から南側の境内を見る。ソメイヨシノの良縁桜が聳える。出雲記念館から良縁桜を見上げる。右:桜 春ロケーションフォト 予約受付中 🌸成人式前撮り・後撮り 🌸卒業・卒園 🌸ランドセル撮影(入学) 🌸結婚式左:美保岐餅(みほぎもち) 6個入 1,100円(8%税込) ◎天皇家の弥栄を祈り奉献した【美保岐玉】にちなんでつくられた、縁起の良い 三色のお餅です。 ◎出雲大社の祭事の際にもお使いいただいております。授与所の祈祷受付 令和八年厄年表 年齢は数え年によります 男 二十五歳 平成十四年生 女 十九歳 平成二十年生 四十二歳 昭和六十年生 三十三歳 平成六年生 六十一歳 昭和四十一年生 三十七歳 平成二年生いろんな種類のおみくじが販売されていた。鳥居の右側には”おみくじ掛け”が設けられていた。祖霊社相模分祠では昭和60年(1985)に境内に祖霊社を建立し祖霊祭祀に勤め、平成28年に納骨堂を開設し、祖先祭祀の振興を図って参りました。祖霊社(それいしゃ)大国主大神様は幽冥(死後の世界)を主宰する幽冥主宰大神とも称えられ祖霊社の御祭神として奉られている。その御神格に基づき、出雲大社相模分祠では信徒会が組織され、各家のご先祖様を崇敬し先祖供養をお仕えする御社殿でもある。通夜・神葬祭・ご葬儀の出張奉仕も承り、五十日祭・一年祭・三年祭などの式年祭や水子供養等も斎行される。 祖霊参りの期間 春分の日 新暦お盆 旧暦お盆 秋分の日 正月三が日 等◇毎月第一日曜日午後三時よりみたままつり(月次祭)を斎行。予約不要でご参列できます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【鎮魂の祈り】 幽冥神語 三回唱える 幽世大神(かくりよのおおかみ) 憐給恵給(あわれみたまいめぐみたまえ) 幸魂奇魂(さきみたまくしみたま) 守給幸給(まもりたまいさきはえたまえ) 拝礼作法 二礼四拍手一礼祖霊社前から境内を見る。祖霊社の左側(西側)に銅像、石碑が立っていた。 歴代分祠長(宮司)の記念碑歴代分祠長 (宮司) の記念碑草山貞胤(くさやまさだたね)翁【文政六年(1823)~明治二十六年(1895)】 煙草作りの祖とも仰がれ「神奈川県の100人」にも選定される。 ほか草山文之助・草山智義・草山貞胤。二基の像と石碑が立っていた。右側に一基の石碑があった。中央の石碑に「かながわの100人」と。草山貞胤翁顕彰碑 草山貞胤ハ文政六年当所氏神ノ社家草山和泉ノ世継ノ彦トシテ生レ安政五年 拾九社ノ神社ヲ兼務シ、嘉永五年ヨリ煙草栽培ヲ研究シ、温床ノ開発、育苗、 早期収穫、密植多収、木枯等各種乾燥法、水車機械刻ミ等技術革新ヲ進メ、 全国ヨリ耕作指導ヲ依頼サレ之ニ耐エ切レズ、耕作指導員ヲ多数養成シ全国 ニ派遣シ、日本ノ煙草栽培技術革新ニ大キク貢献サレタ、明治廿一年出雲大 社相模分院ヲ創立シ、後ニ報徳二宮神社創立発起人トシテ努力シ初代神職ト ナル、大日本農会頭彰仁親王殿下ヨリ緑白綬有功章ヲ、賞勲局ヨリ緑綬褒章 ヲ下賜サレ、昭和五四年かながわノ歴史上ノ人物百人ノ一人ニ選定サレタ、 郷土ノ偉人デアル。 平成三年十一月吉日 出雲大社相模分祠長 草山貞胤敬白草山貞胤(くさやまさだたね)翁一番奥に立っていた石碑。草山智義翁顕彰碑 大教正草山智義翁ハ社家十九代目亥之助ノ世継トシ明治十五年五月六日生レ、秦野西・南・ 曽屋小学校等二十七□教育ニ精励□後十数社ノ宮司ヲ奉仕傍ヲ新園芸技術ヲ導入シ村々家 ヲ起シ村議ヲ□ノルモ教育ノ心止シ難ク、妻大輔教めすト平塚市ニ十陶□裁縫学校ヲ創設 婦喜久ト子女ノ教育ニ当ル、又神奈川ノ百人祖父貞胤ノ勧請サレタ 出雲大社相模分院ノ 再建ヲ念願シ布教ニ献身努メ昭和三十一年長男貞胤ニ遺言シ神殿及参集殿□表等ヲ建立相 模分院ヲ再興セシメラレタ 昭和五十八年六月五日 出雲大社相模分院長草山貞胤拝書 草山智義翁説明板がなかったので???。境内の西側にはテントが数張りあったが桜まつり用であろう。手水舎、石鳥居を振り返る。境内の隅に石碑、奉献 手水舎 小巻家 第十代 小巻義男 第十一代 小巻公平 昭和六十二年九月二十三日 出雲大社相模分祠 御祭神 大国主之大神(大国さま)、事代主之大神(恵比寿さま)、兼務神社二十柱の神々 教徒祖霊 霊神 御神徳(萬結び福を招く神) 一、大国様は国土を治める神で大床主の神といわれ地鎮祭の神政治の神 農業の神 一、因幡の白兎を助けられたように病気や災害を除く方法を教えられた医薬や厄除の神 一、多くの試練にくじけない成功の神 学問の神 一、結びの神男女の結び縁結び家族の結び家内安全御子結び子宝安産の神客結び金結び 等商売繁盛の神、票結び選挙の神等高い御神徳を慕い福の神として深く信仰されて いる大國の名水(環境庁名水百選) この手水舎の水は慶長十四年以来池や井戸から湧出した名水で四百年来長寿の水酒造等と 尊重され出雲の大神の威霊によって変若水(わかがへりの水)の信仰が・・・ 茶道用長寿の聖水として県内外より求めに来る人も多く、環境庁より選ばれた全国名水百 選の一つである。出雲大社相模分祠本殿の手前左側に天神社と筑紫社、祓社と三社並んでおります。小さいですが本殿と同じ作りで立派ですと。右奥から天神社、筑紫社、祓社と並ぶ。天神社 祭神 神産巣日神 少名毘古那神 筑紫社 祭神 多紀理比売命 田寸津比売命 市杵島比売命祓 社 祭神 瀬織津比咩神 速開都比咩神 気吹戸主神 速佐須良比咩神 三社を正面から。同じような造りである。三 社◇天神社 神産巣日神 (かみむすびのかみ) 少名毘古那神 (すくなひこなのかみ)◇筑紫社 (つくしのやしろ) 多紀理比売命 (たぎりひめのみこと) 田寸津比売命 (たぎつひめのみこと) 市杵島比売命 (いちきしまひめのみこと)◇祓社 (はらえのやしろ) 瀬織津比咩神 (せおりつひめのかみ) 速開都比咩神 (はやあきつひめのかみ) 気吹戸主神 (いぶきどぬしのかみ) 速佐須良比咩神 (はやさすらひめのかみ)手水舎の横に聳える良縁桜。満開時には見応えがあるのであろう。12:25幟旗に、「南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」、「秦野の名水」、『名水百選』選抜総選挙『おいしさ』部門全国一位 と。千年の杜(せんねんのもり)「ふるさとの木によるふるさとの森」を再興させようと横浜国立大学宮脇昭名誉教授の指導のもと平成十九年に植樹祭が斎行され、この森には照葉樹を中心に約一万二千本六十種の日本古来の樹木が混植・密植されています。森の中には湧水があり、メダカやドジョウ・ホタル等が生育しています。この水源は全国名水百選にも選定され、平成二十七年に環境省が行った、~名水百選三十周年記念~「名水百選」選抜総選挙の「おいしさがすばらしい名水部門」で全国一位にもなった秦野盆地湧水群のひとつでもあります。わけても当社の水源は地下五十一メートルより汲み上げ、長い時間かけて自然の力によって濾過されたミネラルの豊富なおいしい地下水です。一年を通じ同じ温度で保たれ、夏は冷たく冬は温かみのある湧水です。当社の「ゆずりの水」は多くの参拝者がお水取りに訪れる憩いの場となっております。 (飲料可・保健所の水質調査を毎年実施) ー 続く ー
2026.04.21
コメント(0)

秦野市へ入り、「出雲大社相模分祠」の参拝をし併せて周辺の寺社史蹟巡りを行った。3月22日(日) 11:50出雲大社相模分祠所在地:神奈川県秦野市平沢1221出雲大社相模分祠の西側にある第三駐車場へ駐車(無料)。第三駐車場から東側へ進む。秦野千年の杜入口。「秦野千年の杜」この杜は、秦野を「世界で一番美しい森の盆地のまち」にすることを目指し、さまざまな生命を育む森や緑豊かな地球を大切にしようとの願いが込められています。「ふるさとの木による ふるさとの森づくり」を提唱する宮脇昭・横浜国立大学名誉教授が植樹を指導し、毎日新聞創刊135年記念事業・あすを植える「My Mai Tree」キャンペーンと連携し、植樹祭が開催されました。 平成19年6月 「秦野千年の杜植樹祭~出雲大社相模から」 主催 千年の森をつくる会 共催 毎日新聞社、出雲大社相模分祠 後援・協力団体 秦野市、秦野市教育委員会、秦野市農業協同組合、秦野商工会議所、(他諸略) 境内では"桜まつり"が開催されているようでテントが張られていた。右側には「古札納所」があり古い札が積まれていた。南はだの村 桜まつり令和8年3月21日~4月12日 高さ20mのソメイヨシノ 良縁桜 秦野名水仕込みの 甘酒 (毎日10:00~16:00) 桜・提灯ライトアップ (期間中毎日21:00終了) ストリートピアノ (期間中 毎日10:00~16:00) 花手水・つるし雛・限定御朱印・露店 など 神奈川で一番長い桜並木道 はだの桜みち まで徒歩100m よさこいご縁まつり よさこい奉納・コンテスト開催 よさこい奉納演舞 4月11日(土) 10時ー18時 50チーム以上 約1000人 4月12日(日) 10時-19時 踊り子参加! キッチンカー・露店出店境内には多くの参拝者が。南側の参道入口へ廻り、第二駐車場から境内を見る。参道入口右側に立つ社号標石「出雲大社相模分祠」。向かい側の左手の石碑には「出雲大社相模分院」と。参道脇に「出雲大社 相模分祠 絵地図」。北側の境内。南側の「はだの桜みち」。年間行事 1月1日 歳旦祭 4月上旬 桜の花見 1月3日 福迎祭 6月下旬 夏越の大祓(茅の輪くぐり) 2月3日 節分祭 7月上旬 ほおずき市・朝顔市 2月4日~下旬 梅祭り 9月9日 例祭 2月11日 紀元祭 9月秋分の日 秋季祖霊大祭 2月17日 祈年祭 12月23日 天長祭・新嘗祭 3月春分の日 春季祖霊大祭 12月下旬 年越の大祓 ※毎月1日午前10時30分より 月次祭 ※毎月第一日曜日午後3時より みたままつり(祖霊社)参道の左側には「斎館」その先に「御車祓所」がある。「斎館」入口。桜まつりで土産物店も出店。幟旗に「秦野名水 良い水 良い豆 良いとうふ 杜のとうふ工房三河屋」。看板には「豆腐ジェラート ¥500(税込)」。石碑には、草山貞胤翁帰幽三年記念事業 平成七年九月九日施工 出雲大社相模分祠参道清美寄付者芳名 奉納金額と氏名が刻まれていた。掲示板に、小田急線秦野駅に副駅名がつきました「出雲大社相模分祠 最寄駅」と。水質検査成績書(一般項目)。石鳥居鳥居の扁額「出雲大社」。大きな絵馬に、「開運招福 福の神 ダイフク様 秦野七福神と鶴亀めぐり 関東のいづもさん 出雲大社相模分祠」と。鳥居の下右側に「石像 午」と。鳥居の下左側に「石像の卯」。鳥居の右側奥に建つ「出雲記念館」。出雲大社内にある売店や打ち合わせ、結婚式の準備等を行う場所である。 相撲に縁があるので色々なグッズや手形もあったりする。鳥居を潜ると参道の両側に臨時の手水場が設置されていた。臨時の手水場を過ぎると右側に藤棚があり、おみくじ掛けがあった。また藤棚の下には十二支の石像があった。桜の木の下に手水舎、絵馬掛け。桜は、良縁桜のソメイヨシノで高さが20mある。境内の中央に聳える良縁桜で咲き初めであった。手水舎お宮参りの女の子であったか家族で参拝しておられた。桜まつり期間中で赤提灯が吊るされていた。絵馬掛けにはいろんな願いごとが書かれた絵馬があった。手前には「良縁桜」と書かれた立札。良縁桜を見上げる。手水舎の手水鉢が花手水で飾られていた。龍の口の横には七福神。ズームアップ。花は供えられた花の一部であろうか。本殿・拝殿手前左側には、授与所、右側には出雲記念館が建っている。左側には「祈祷受付」「御朱印受付」と。おみくじ・おまもり・御朱印 8:40~17:00祈祷受付 8:40~16:30【桜まつり】限定御朱印 3月21日~4月12日まで頒布出雲記念館入口右側にストリートピアノが置かれていた。結婚式場 出雲記念館参集殿として昭和五十四年に竣工し、平成六年に改装し名称を「出雲記念館」としました。結婚披露宴を始め、衣裳・美容・写真室があり、結婚式・お宮参り・結納・七五三・成人式・金婚式のお手伝いをしております。そのほか、忘年会、歓送迎会、同窓会などの会合やパーティーの会場としてご利用いただけます。館内にて当分祠特製の和菓子や島根のお菓子などを販売しております。併せて、神輿や縁の品々の展示見学やご参拝の休憩所としてもご利用できます。 ー 続く ー
2026.04.20
コメント(0)

引き続き三嶋神社の満開の枝垂れ桜を楽しんだ。3月22日(日) 10:55二年越しの三嶋神社の枝垂れ桜を楽しんだが、できれば快晴の日が良かったが。三嶋神社を後にすることに。境内社が建っていた。木製の鳥居に「諏訪社」とあったが由緒等の説明板はなかった。枝垂れ桜越しに神楽殿枝垂れ桜であったか。ズームアップ。ソメイヨシノであったか。スイセンも満開に。拝殿の神紋をバックに。スイセンを見上げる。三嶋神社を後にし坂道を下る。三嶋神社を振り返る。11:10国道246号沿いの駐車場へ戻る。駐車場は広く無料であったがトイレ施設はなかった。この後、秦野市にある「出雲大社相模分祠」へ行くことに。カーナビを「出雲大社相模分祠」にセットして国道246号を秦野方面へ。道路脇に、「関東のいずもさん 出雲大社相模分祠 約5km ⇧」と。車道にはサイクリスト、歩道にはジョギングをするランナー。国道246号の左側の標識に「新善波隧道」と。ここを左折すると善波峠で、糟屋宿(現在の伊勢原市)と曽屋宿(現在の秦野市)の間にある峠。トンネル入口に「善波隧道」と。トンネルの中が伊勢原市と秦野市の境になっている。秦野市に入り天気が良ければ富士山が見えたのであろう。カーナビで「浅間神社」があったので立ち寄ることに、この先を右折し小径へ。浅間神社 (名古木)所在地:神奈川県秦野市名古木1471カーナビに従って走り浅間神社下へ、この先は国道246号。斜面に白い花が咲いていた。白いハナニラの群生地。春に星形をした白や薄紫色の花を咲かせる。葉に傷をつけるとニラのような香りがする。食用のニラとは別種で毒性があるので注意と。星形のハナニラ。道路脇に車を停め参拝。山の傾斜地の狭い敷地の一角に鎮座する浅間神社。拝殿の扁額「浅間神社」。内陣を見る。簡易な祭壇には神鏡が置かれていた。右側の壁には奉納者の名が書かれていた。拝殿前から鳥居を見る。眼下には国道246号が走る。国道246号、秦野市街地を望む。入ってきた北西方向の狭い道。境内の木の間から西方向に富士山が見えていた。境内から南西方向の秦野市街地を望む。後方には、右に金時山、中央に箱根の二子山が見えていた。神社前の道路脇に可憐なスミレが咲いていた。この後目的地の「出雲大社相模分祠」へ。国道246号を秦野市へ。道路標識には、右折「県道70号線 ヤビツ峠」と。国道246号名古木(Naganuki)交差点。セルフガソリンスタンドの値段は「レギュラー 164」と。国道246号新町交差点を左折し小田急小田原線の踏切。11:40この先の左側が、目的地の出雲大社相模分祠の駐車場。 ー 続く ー
2026.04.19
コメント(0)

三嶋神社の満開の枝垂れ桜を楽しむ。3月22日(日) 10:30三嶋神社境内下の広場に咲く枝垂れ桜。枝垂れ桜をズームアップ。三嶋神社拝殿拝殿の彫り物拝殿の扁額「三嶋神社」内陣を覗き見る。内陣の鴨居には、明治天皇の肖像画、例祭の写真、表彰状が掲示されていた。拝殿から東側の境内を見下ろす。満開の枝垂れ桜が聳える。撮影が昼前で曇り空であったため青空がないのが残念。この枝垂れ桜を求めてくる人がチラホラと。境内までは国道246号から坂道を登り5分ほどで来れる。この木の下にベンチ、テーブルが置かれており数組の方が団欒していた。社殿を左から。境内の東側に聳える枝垂れ桜である。樹齢はまだ数十年であろうか。この枝垂れ桜は伊勢原市登録になっている、「地域景観資源 三嶋神社のしだれ桜 市景観条例に基づき登録された景観上重要な資源です 令和2年度登録」と。国道246号の南側からの脇参道入口に新しい石柱が立っていた。中央に「太郎重氏」、右に「竹美姫」、左に「六太兵衛」。三柱建立由緒文治元年(1185)に善波太郎重氏が没した際、阿夫利山におわした石尊大権現のお告げにより、重氏を以て八幡神とし、竹美姫(重氏の妻)を御嶽権現とし、六太兵衛(竹美姫の父)を明神として、善波のそれぞれの地に祠を建立して祀り、武門興隆及び地域鎮護の守護神としました。慶安四年(1651)に、当時善波の領主であった渡邊綱貞の御嶽山に八幡神、御嶽権現、明神の三社を合祀しましたが、強風により社殿が倒壊したため、寛文七年(1667)に現在地の大松山に遷座しました。ここに三嶋神社創建の由緒を誌すと共に、後世まで伝承されることを願い、三柱を建立致しました。 平成二十七年三月吉日 太郎の郷づくり協議会南側から境内を見る。社殿裏側(西側)の山地の下草が奇麗に刈り取られ整備されていたので入った。その山中に新旧の石祠が置かれていた。社殿の裏側から境内を見下ろす。枝垂れ桜をズームアップ。スギ林の中に石祠があったがこの時期は寒く嫌なものが出没しないので入りやすい。再度、枝垂れ桜を見下ろす。下草を刈り取っているので花も咲いていた。スマホで撮影・検索すると「ツルニチニチソウ」とでたが。裏山から社殿北側を見下ろす。左奥の建物は神楽殿。枝垂れ桜を見下ろす。境内裏側の山林、氏子さん達の手で奇麗に整備されていたので歩けた。神楽殿の横から枝垂れ桜を見上げる。満開の枝垂れ桜両部鳥居を見下ろす。枝垂れ桜越しに拝殿を見る。拝殿とのコラボ。ズームアップ。再度、鳥居を見下ろす。社殿の左側に石碑群があった。先程この裏山を歩いた。石碑の前に、石祠が三基。右には「廿六夜待資金寄附名標」と。表面には寄附金額、氏名があったが彫りが浅く確認できなかった。中央の石碑には「本社改築寄附」と。この石碑にも寄附金額、多くの方々の氏名が彫られていた。設置年代は「維時明治三十二年九月榖旦」とあった。裏山が奇麗に整備されている。左側には、「三島神社 御造営寄附芳名碑」と。この石碑にも寄附金額、多くの方々の氏名が彫られていた。10:55二年越しの枝垂れ桜を楽しんだ。 ー 続く ー
2026.04.18
コメント(0)

昨年参拝した時、枝垂れ桜の見頃が過ぎていた。その時地元の方から「春分の頃が見頃です」と聞いていたので、曇っていたがこの日に訪れた。3月22日(日) 10:05カーナビを「伊勢原の三嶋神社」にセットして9時半前に自宅を出発し、走り慣れた県道を走り国道246号を秦野方面へと走った。この辺りの国道246号はいつも渋滞しているのでこの大きな看板が目に入る。上は東名高速道路の高架橋。この辺りは国道246号で伊勢原市の西エリアにあたる。国道沿いにはソメイヨシノが植えられているがまだ開花前であった。国道246号の北側は昨年「伊勢原市の寺社史蹟巡り」で訪れている。南側の寺社史蹟については未制覇場所が多いのでこれからの訪問になる。目的地が近くなり国道沿いに気になる表示板があり駐車。案内板に「⇐ 太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」と。国道246号を秦野へ向けて走ると反対車線側に「三嶋神社 しだれ桜 ➩」の看板。10:10 道路脇にスクラップ置場があり、右側手前に駐車場があった。新しい看板が立っていた。右側の看板が倒れていたので立て直したが「左土手(国道)側に駐車してください」とあった。既に一台の車が駐車していた。三嶋神社へはこの坂を登り徒歩3分と。この辺りはクマの出没がないが熊除け鈴をつけリュックを背負って上った。神奈川県も丹沢山中に出没するようだがこの辺りには・・・。遊歩道下には若木が植えられていたが防獣除けのネットが張られていた。ズームアップ。シカ、サル、イノシシ対策であろうか。突き当りに看板が立っていた。看板に、「注 意 ・ここは野猿の出没区域です ・決してエサを与えない。 ・お弁当等の残りは、必ず持ち帰る。 みんなでマナーを守ってサルからの農作物被害を減らしましょう! JAいせはら農政対策委員会」。「注意」の傍に立つ案内板に「太郎の郷さんぽ 三嶋神社 ⇨」と。右側が上ってきた坂道。左上が三嶋神社境内になる。前回は、東側の正面へ上ってきたので回り込むことに。境内の枝垂れ桜が満開であった。昨年はこの狭い道を上ってきて途中の広場に車を停め参拝した。伊勢原、平塚方面を見下ろすが残念ながら曇り空で見晴らしが悪かった。東側からの上り坂で、この道が三嶋神社への参道であると。三嶋神社所在地:神奈川県伊勢原市善波714善波の鎮守。三嶋神社の入口には十数本の枝垂れ桜があり春の盛りには見事な花を咲かせる。昨年は2025年4月6日(日)に訪れており、その時のブログ「三嶋神社の枝垂れ桜」を 👈をクリック願います。木製の両部鳥居。三嶋神社御祭神 大山砥之命、倭健之命、誉田別之命由 緒 大治元年九月創建 東鑑に善波太郎特に尊崇高く当善波の郷内三嶋社御嶽社八幡社 の三社あり、慶安四年一社に合併し寛文七年現地善波太郎重氏の居蹟に移し、天正 十一年北條氏より社領二貫文、天正十九年御朱印を賜う。昭和四十一年現社殿を新 築、善波の総鎮守である。 結婚式、地鎮祭、命名、方位、厄除等神事相談承ります。連絡所 秦野市平沢1221 出雲大社相模分院参集殿 宮司 草山清和 電話(81)1122鳥居の扁額「三嶋神社」。鳥居下から参道を見下ろす。参道の両側にはみかん畑が広がっていた。ソメイヨシノが咲き始めていた。ソメイヨシノの開花状況は2~3分咲きであったか。昨年来た時は満開であった。歴代の善波氏一一五〇頃 善波左衛門善氏 太郎重氏の父 善波太郎重氏 相模国善波邑八幡社縁起、源太入道和讃に記あり 文治元年(一一八五)重氏没す 重氏を以て八幡と称し、竹美姫(重氏の妻)を御嶽権現とし、六太兵衛(竹美姫の父) を明神と称し之を崇むる建長六年 (一二五四) 善波又次郎 北条氏より鎌倉幕府小侍所衆に召し加えらる 以後将軍を警固す正安三年 (一三〇一) 善波四郎行綱 田、屋敷の売買につき鎌倉幕府よりの下知状観応元年 (一三五〇) 善波太郎有胤 関東管領足利基氏に御供し上杉憲顕と共に飯山寺、日向山の諸戦で活躍、その恩賞 により基氏より小袖を賜る応安元年 (一三六八) 善波十郎左衛門尉胤久 足利氏満が野心を有する武蔵平一揆討伐のために江戸牛島、足利、宇都宮まで遠征 するに際し御供せしめる 永徳元年(一三八一)氏満に叛した小山義政討伐に従い武蔵・下野戦で忠節を尽くす応永三三年 (一四ニ六) 善波藤太郎憲有 足利持氏の近臣一色持家を大将とする武田八郎信長討伐の戦に従い諸所の御陣を警 固す天正一一年 (一五八三) 善波禰宜 北条氏忠より三島社に宮免二貫文安堵の朱印状 天正一九年 (一五九一) 社領一石の朱印状 慶安四年 (一六五一) 御嶽山に八幡、御嶽権現、三島明神の三社を合祀す 寛文七年 (一六六七) 社頭破損につき大松山に遷す (古記録、古文書より) 平成九年三月 太郎の郷づくり協議会三嶋神社社殿石碑に「善波一族館阯」。鳥居を見下ろす。斜面にはスイセン、ソメイヨシノが咲きテーブル席が用意されていた。境内の北側へ入り枝垂れ桜を見る。案内板に「⇐ 太郎の郷さんぽ 勝興寺」と。勝興寺は北側の谷戸にあり昨年4月6日(日)に参拝している。枝垂れ桜を見上げる。地元の方が言われたように春分の日が満開であった。枝垂れ桜は高木であったが。石燈籠に奉納年度があったが。境内の東側、斜面に枝垂れ桜が植えられている。枝垂れ桜の下に、「伊勢原市登録 地域景観資源 三嶋神社のしだれ桜 市景観条例に基づき登録された景観上重要な資源です 令和2年度登録」と。この他には説明板もなく枝垂れ桜の種類等は不明。枝垂れ桜の下にはテーブル席があり神社の氏子さんであったか談笑しておられた。ビール持参で楽しんでおられた。黄色のスイセンが奇麗に咲いていた。10:30樹の幹には防獣対策のネットが巻かれていた。枝垂れ桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.17
コメント(0)

熱海港を散策。2月18日(水) 13:35熱海後楽園ホテル所在地:静岡県熱海市和田浜南町10−1熱海港の桟橋から「熱海後楽園ホテル」を望む。かつて野球の読売ジャイアンツが納会を開催しているホテルである。数年前に伊豆の国市の”順天堂大学医学部附属静岡病院”へ入院した時、同部屋の方がこのホテルで料理長をやっていたと。函南町在住と聞いていたが・・・。熱海港は、背後に全国屈指の温泉都市をひかえた伊豆半島の玄関口に位置しており、大島航路や初島航路等の離島間航路が運航され、年間の船舶乗降人員は25万人以上に達していると。ホテルの前にはヤシの木並木。アタミロープウェイ山麓駅(後楽園駅)アタミロープウェイは熱海ベイリゾート後楽園の隣にあり、「山麓駅」と、「山頂駅」とを結んでおり、全長約273メートルのロープウェイとなっている。アタミロープウェイはちなみに日本一短いロープウェイであると。温泉街に程近い熱海港近くから、八幡山山頂まで一気に昇るアタミロープウェイである。レトロなゴンドラに揺られて3分間のショートトリップで「あいじょう岬展望台」に到着。そこは、目の前に輝く海と大空が広がる魅惑の展望台となっていると。熱海後楽園ホテルには一度は宿泊してみたいホテルであるが。熱海港の東側には”熱海観光港芝生広場”があったが今回はスルーした。北西方向に熱海ヨットハーバー・スパ・マリーナのレインボーデッキを望む。初島行き14:00はまだ乗船前であった。海面にはカモメであったか多くの水鳥が。船体に「金波銀波 KIMPA GIMPA」と。やはり新造船ではなくリニューアルしたようで、補修痕が見受けられた。金波銀波とは、日の光や月の光に照らされて金色や銀色に輝く波の様子を表す四字熟語。高速ジェット船「セブンアイランド結」の出航を見て見たかったが時間が?サンレモ公園フェリーターミナル近くにある公園で、トイレと水飲み場と遊具がある。イタリアのサンレモ市との友好で名付けられた公園であると。石碑に、愛(まごころ)あなたのランプの灯を もう少し高く掲げてください!見えない人々の行く手を 照らすために! ー ヘレンケラー ー 2008年3月23日 熱海ライオンズクラブ 創立50周年記念公園の一角に桜が咲いていた。あたみ桜であったか。既に葉桜になっていた。公園の一角に石碑石碑には、「熱海市歌 坪内逍遥 作 真冬を知らざる常春熱海 真夏も涼しき秋の海辺に 千歳を湧き湧くくすしきいで湯 病めるも怠り憂いも忘る ああこの楽土は我が住む町 (以降略) サンレモ公園にはヤシの木も聳え、藤棚もあった。熱海港船客待合所入口には、「第71回 伊豆大島 椿まつり 2月1日(日)~3月22日(日)」の横断幕。バス停であったか、「静岡県熱海港船客待合所 富士急マリンリゾート 東海汽船」と。向かい側に「ウオミサキホテル」があった。13:50タイムズ熱海市営臨港滞在時間25分で駐車料金は110円であった。先輩が早めに帰りたいとのことでカーナビを自宅にセット。熱海港から国道135号をひたすら走り、JR真鶴駅手前を左折して裏道の県道740号線(小田原湯河原線)を走り根府川駅へと。14:30白糸川橋梁撮影場所は、県道740号線(小田原湯河原線)の根府川駅手前。近くに豆相人車鉄道根府川駅跡があり、相模湾側に白糸川に架かる橋が目に入る。白糸川に架かる東海道本線と、東海道新幹線の2本の橋。東海道本線の赤い鉄橋「白糸川橋梁」。白糸川橋梁をズームアップ。強風時には東海道本線も運転停止となることがあり、現役時代「強風のため小田原・熱海間が運転停止」とよくあったものだ。白糸川橋梁の歴史初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受けた。現在の橋は、被災の翌年に新たな橋に架け替えられた二代目である。3連トラスは初代の橋の図面がほぼそのまま使われ、被災前とほぼ同じ形態で再建された。トラスは赤く塗装されており、全長 199.34m、高さ 24.5mである。鉄道撮影スポットになっており、東海道新幹線も過密ダイヤだけに数分ごとに通過する。関東大震災で壊滅したが初代の図面により初代のまゝに再建されたと。この辺りは「おかめ桜」であったが、開花し初めであった。先輩が先を急ぐとのことでスルー。おかめ桜まつりは例年2月末から開催されている。先輩を自宅に送りとどけ、昼食をとっていなかったのでいつもの「かつや」へ。15:40かつや大磯店所在地:神奈川県中郡大磯町国府本郷439旅をするといつも利用する全国チェーンの「かつや」である。国道1号の国府本郷交差点にある「とんかつ かつや」。ロースカツ定食 ¥913最近のオーダーはタブレットからになっているが店によってシステムが異なっている。遅い昼食後、近くの大磯西インタから西湘バイパスへ入る。この時間帯は渋滞もなく順調に走れる。15:50西湘バイパス大磯出口先輩の忘れ物自宅に帰り、助手席を見ると先輩の忘れ物が。先輩に電話、この夜茅ヶ崎の居酒屋で手渡し御馳走になったのである。この日の歩行数は7,500歩、走行距離は約100キロで、累計は166キロであった。 END
2026.04.16
コメント(0)

十国峠から、県道20号線(熱海箱根峠線)を走り熱海市街地へ。2月18日(水) 13:00梅園の結び葉所在地:静岡県熱海市福道町8熱海梅園と來宮神社の間にある展望台である。今年1月27日(火)に「熱海市内の花を愛でに」で訪れた時この展望台へ上っている。ステージ入口に、「梅園の結び葉 展望デッキ 10:00 ~ 16:30 <最大定員 20名様迄> 安全を考慮し 身長130cm以下のお子様のご利用はご遠慮いただいております。 17時 ~ 翌朝9時まで展望デッキのご利用はできません」と。ウッドデッキからの熱海温泉街を見下ろす光景はビュースポットになっている。眼下は東海道新幹線、東海道本線、伊東線が走る交通の要衝地である。右側の高層ビルは熱海後楽園ホテルで、山には熱海城、沖合には初島が見える。東海道新幹線の新丹那トンネル入口。東海道新幹線の上りが疾走。手前の線路は保線区の路線。県道20号線(熱海箱根峠線)のこの辺りは急坂になっている。向かい側の建物に像が立っていた。ズームアップ。カーナビを「熱海港」にセットして出発。来宮駅前を走り旅友のKさんがJRの車内に忘れ物をして引き取りに来たという熱海警察署。今年1月に熱海桜を見に来た時、ここ国道135号の熱海渚橋から上流へと歩いた。13:25タイムズ熱海市営臨港所在地:静岡県熱海市和田浜南町6熱海港の乗船口の直ぐ隣の立地で、初島に行くには便利であると。駐車料金もリーズナブルな価格である。駐車場営業時間 24時間営業最大料金:駐車後16時間 1,760円基本料金:最初の16時間まで/30分 110円、16時間以降/60分 110円熱海港待合室前静岡県熱海港船客待合所待合室内は混雑していた。11 大島行 7⃣・8⃣ 番口はそとの桟橋内にあります12 初島行は 5⃣・6⃣番 ゲートです 初島航路ご案内、次便は「14:00」と。初島のお土産コーナー初島往復乗船券発券機初島航路 料金表 ■往復乗船料金 (熱海⇦➩初島) 大人(中学生以上) 2,900円大島への発券場は奥にあった。大島・神津島行 乗船券売場 東海汽船 伊豆大島行き 9:10、14:10 入港地は岡田港伊豆大島 2月2日~28日 時刻 変則になっているので要注意 熱海~大島 料金 (2月) (片道) 大人 5,840円館 山 2月7日~3月22日 時刻 熱海~館山 料金 (片道) 大人 8,830円大島便は「乗船名簿記入台」と。伊豆大島へは半世紀以上前に江ノ島から船で渡った。待合室には大きな荷物を持った多くの人が、異国旅情感を漂わせていた。熱海港船客待合所から桟橋へ。桟橋には海上自衛隊色の船が停泊していた。今年1月27日(火)に熱海へ来た時、熱海港を出港するこの船を見ていた。その時のブログでは、船は新船「金波銀波 (きんぱぎんぱ)」で2025年7月12日就航で熱海港~初島港を結ぶ「初島リゾートライン」を約30分で運航する高速船であると。船体に「金波銀波」と。船体を見るとなんとなく補修したような感が、また「金波銀波」の左に「シ」の字が。港関係の方に「新造船」かと聞くと「リニューアルし船名も変更した」と。熱海ヨットハーバー・スパ・マリーナのレインボーデッキを望む。いつもは反対側から見ているのだが。初島へは、イルドバカンスプレミア、金波銀波の2種類の定期船が運航している。こちらの船には「東海汽船 セブンアイラアンド 結」とあった。高速ジェット船「セブンアイランド結」東京竹芝~大島・利島・新島・式根島・神津島航路に就航する「セブンアイランド結」東京・熱海〜大島・利島・式根・神津島航路を運航します。ジェット船初のバリアフリーシップとしてバリアフリー席、多目的トイレ、船内階段用の昇降式チェアーを搭載している。全長約27.36m、総トン数176t。旅客定員数は241名。ジェットフォイルの建造は国内では1995年以来となり、25年ぶりの新造船として登場した。航路:熱海~伊豆大島、神津島。14時出航の初島行き「金波銀波」。⑥ 初島行 乗船改札口 ⑤金波銀波の仕様 ・最大速カ:18.6ノット (時速約33.5キロ) ・旅客定員:626名 ・全 長:44メートル ・全 幅:8.2メートル ・総トン数:292トン の高速船である。船体に「熱海 ⇔ 初島」と。約30分で運航している。出港準備が終わり待機する係員。後方に回り込む。13:35船体の溶接線が奇麗でなかったが日本の製造?かと。 ー 続く ー
2026.04.15
コメント(0)

引き続き半世紀ぶりに訪れた十国峠頂上(日金山)からの眺望を楽しむ。2月18日(水) 11:45ウッドデッキの西側にハンモックが設置されていた。ハンモックに愛犬と寝そべりながら風景を楽しんでおられた。この後先輩がチュロスの破片をワンちゃんに与えると美味しそうに食べていた。北側のモニュメント前へ。富士山の頂上にはまだ雲がかかっていた。愛犬をモニュメントの上に座らせて撮影する人も。なかなか飼い主の方を見てくれない。シャッターチャンスを待つには順番待ちの人もいるので諦める必要がある。スマホで撮影こちらの方は自撮り用台にスマホを載せて撮影。団体客であったか多くの人が来られた。徐々に富士山の全景が見られるようになってきた。函南の丘陵地にある函南ゴルフ俱楽部のコース。山頂駅12:15発のケーブルカーで下山することに。十国峠頂上(日金山)から約1時間の眺望を楽しんだ。もう少し天気が良ければと思うが。中間点ですれ違う。上る時とは違う車両に乗車したようだ。車両を繋ぐロープが左側にある。ケーブルカーとは、山岳の急斜面などを、鋼索(ケーブル)が繋がれた車両をウインチ等で巻き上げて運転する鉄道である。鋼索鉄道ともいう。車両に動力を積まないため推進効率に優れており、近年では山岳地帯のみならず都市や空港等での輸送にも用いられている。ズームアップ。山麓駅森の駅 箱根十国峠1階には土産売店、喫茶コーナー、そば処(58席)等があり、休憩の拠点になっている。広さ420平方mの土産売場は、箱根や伊豆の名産品・民芸品を豊富に取り揃えている。富士宮やきそばを販売。富士宮焼きそば缶詰 660円と新しい製品が。店の広さに比べ客数が少ない感がした、やはり団体客が来ないと。海産物も販売昼食時で蕎麦でも食べたかったが、先輩が少食で食べないとのことでスルー。十国峠・食事処塩ラーメン 1000円海老天そば・うどん 1400円 かき揚げそば・うどん 1000円ちからうどん 1000円 ざるそば・うどん 800円大揚げきつねそば・うどん 900円 とろろそば・うどん 900円エビフライ定食 1500円 とんかつ定食 1400円 他昨夜飲んだ冷酒の”箱根山”が美味しかったので1本購入した。観光案内所でもらったパンフレット。伊豆函南 伊豆の玄関「かんなみ」の新名所かんなみの桜まつり 令和8年2月14日(土)~3月15日(日) 見頃:2月下旬~3月中旬(例年) 十国峠パノラマケーブルカー乗り場入口富士山が奇麗に見えていた。十国峠頂上からは奇麗に見えているのであろう。県道20号線を挟んだ西側の展望台へ移動。高い場所がないのでベンチの上に上がり撮影。富士山の麓とには自衛隊の演習場がある。広い駐車場を振り返る。この後県道20号線(熱海箱根峠線)を下り熱海へと向かうことに。西熱海ゴルフコース所在地:静岡県熱海市熱海1800熱海梅園横を下る予定であったがカーナビは別のルートを案内。既に私はゴルフは卒業しているが、このゴルフ場は距離はないが、幅の狭いコース、打ち上げや打ち下げのコースもあり難易度は高い。グリーンも片傾斜だったり、海に向かって順目だったりと難しい面白いコースであると。ゴルフ場のコースは山の傾斜地にあり眺望は良いがプレーヤーにとっては厳しいのでは。ここでのプレー経験はない。12:50この日は平日であったが多くの車が駐車していた。 ー 続く ー
2026.04.14
コメント(0)

十国峠頂上(日金山)に半世紀ぶりに訪れ、頂上からの眺望を楽しむ。2月18日(水) 11:25お願い地蔵の後方から十国峠展望台を望む。展望台の右側に富士山が見えていた。南側の案内板に「⇦ 熱海日金山霊園」と。天空のドッグランの方向からハイカーのグループが上って来られた。この辺りはクマの心配もないので、機会があれば天気のよいときに歩いてみたものだ。ドッグランの南側には「源実朝の歌碑」がある。望遠鏡があり、東側のテラスに「安房国 AWA ⇨ 」と。頂上からは晴れた日には富士山をはじめ、相模湾や駿河湾、伊豆半島、遠くは南アルプスまで見渡せ、その名の通り十の国を一望できる壮大なパノラマが広がりますと。東側の眼下には、湯河原の温泉街、真鶴半島が見えていた。天気が良ければ三浦半島、房総半島も見えるのであろう。真鶴半島をズームアップ。北側のテラスに移動、手前に「上総国 KAZUSA ⇨ 」、奥に「相模国 SAGAMI ⇨ 」と。遠く北側には箱根の駒ヶ岳も見えていた。北側のテラスに移動、左側に「⇦ 信濃国 SHINANO 」、右側に「⇦ 甲斐国 KAI 」と。テラスの奥に二つの石碑が立っていた。手前は「江戸時代の1783年8月に、熱海の里長が建てた石碑」であると。石碑には漢文であったか、「伊豆國賀茂郡日金山頂 所観望者十國五島 自子至卯相模國武蔵國 安房國上總國下總國 自辰至申其國所隷之 南面 五箇島及遠江國 自酉至亥駿河國信濃國甲斐國 天明三年八月東都林居 士諸島出雲光英源清候 等應熱海里長渡邉房求 之需建之」と。十国峠十国五島を俯瞰できることから、この峠の名ができました。天明3年、当時の熱海里長が建てた古い「いしぶみ」です。熱海をこよなく愛した高山樗牛は有名な『わが袖の記』の中で十国峠に登る遊びはことのほか壮快で、北は足柄、南は大島、東は江ノ島、西は田子の浦まで壮大な眺めたぐふべきものなし・・・と記しています。頂上にこのような2枚の説明板があったが少々疲れていたのでそろそろ更新時期か。テラスの北側へ回り込む。十国峠頂上の北東辺りに立つ石碑。石碑には「小堀春樹君 偉功記念碑」と。右側の石碑には記念碑の碑文が刻まれていた。記念碑の碑文は苔むして判読しづらかったが、「この記念碑は、故小堀春樹氏を・・・」。ネットで調べると故小堀春樹氏は、夜間航空の安全を企図し、1932年11月28日の十国峠山頂をはじめ他8箇所に航空灯台を建設し、政府に貢献した偉功を称え1939年11月に中腹に建てられた記念碑。灯台の達磨山への移設もあり、1968年3月にここ山頂へ移されたと。テラス北側に、十国峠の文字が入ったモニュメントが設けられていた。モニュメントの右側に、「登録記念物 十国峠(日金山) 平成28年3月1日登録 この記念物は重要な文化財です 文化庁」と。このモニュメントに対する「登録記念物」ではなかった。富士の頂上に雲がかかっていたが、頂上付近は風が強いようで刻々と光景が変わっていた。手前には自撮り用のカメラ台もあった。この日はインバウンド客も見当たらず順調に撮影していたが、富士が雲にかかりシャッターチャンスにならず。雲がかかった富士山頂上。テラスの西側に案内板が立っていた。 動く大地を眺める ー「十の国」と「4つのプレート」ーここ十国峠からは、伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・安房・上総・下総・武蔵・信濃の十国を見渡すことができますが、それだけでなく、地球の表面を覆う「プレート」のうち4つのプレートや、火山が長い時間をかけて作り出した地形を一望できます。眼下に見える駿河湾は、伊豆半島を含むフィリピン海プレートが、本州の下に沈み込んでいる場所で、この湾の向こう側はユーラシアプレートです。晴れた日には、伊豆と本州の衝突に伴って隆起した南アルプスの山々を遠くに望むこともできます。十国峠からの景色は、伊豆と本州の衝突という大事件を私たちに物語っているのです。南から来た火山の贈りもの本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ魅力的な半島が形作られています。手前から、愛鷹火山、富士山、南アルプスの山並み。函南町眺望地点 十国峠展望台【十国峠展望台・レストハウス】函南町の地形は、箱根連山から狩野川周辺まで、山間部、丘陵地、平坦地が連続し、それぞれの地形特性に応じて少しずつ穏やかに変化しながら、町全域が連続的かつ一体的にまとまりのある景観を形成しています。それぞれの地域から様々な表情を見せる町の景観をお楽しみいただけます。ここ十国峠は、伊豆と本州の衝突以降にできた湯河原火山という古い火山の一部です。伊豆・相模など昔の十国を見渡せることが名前の由来です。展望台からは田方平野から駿河湾や丹沢山地に至るまで、富士山を含めた大パノラマ景観が得られます。 令和4年10月3日指定 函南町役場建設経済部都市計画課展望台の西側から函南町の田方平野を見下ろす。眼下には「森の駅箱根十国峠」「函南ゴルフ俱楽部」「愛鷹山」が見える。二人の若者が食べていた「チュロス」。ネットにも載っている「十国峠の峠チュロスで是非食べて下さい」と。話をすると、岡山大学の学生で二人で旅していると、出身地を聞くと広島県福山市近田とのことで自分の故郷と近かったのでビックリ。山頂駅右側の富士山の周りは雲が多かった。テラスから南方向を見る。中高年のハイカー集団が来ておられた。足元に「遠江国 TOTOUMI ⇨ 」チュロスを食べるために、十国峠展望台の中へ、TENGOKU CAFE(天国カフェ)インバウンド客がおられなかったので待つこともなく購入できたが、オーダー・支払いは機械操作で高齢者には操作しづらかった。メニューも新しいもので親しみがなかった。右側に目的の「TOGE CHURROS 峠チュロス ¥550 雲上で味わう、甘い幸せ」と。チュロスの形が峠の文字をあしらっている。チュロとはスペイン・ポルトガル・モロッコおよびキューバなどのラテンアメリカ各国で広く食べられている揚げ菓子である。日本ではチュロおよび複数形のチュロスとして定着していると。チュロスは揚げたてで熱かった。自分は初めて食べるものであったが中に餅が入っており甘みもあり美味しかった。展望台の西側にテーブル席があり、休憩しながら駿河湾が見渡せる。TENGOKU CAFE(天国カフェ)テンゴク神社展望台の中に入ると入口(東側)に、絵馬で飾られた「テンゴク神社」が祀られていた。左側には機械式の「十国峠 開雲おみくじ」が置かれていた。テンゴク神社インスタ映えのパネルも。若者用の鏡であろうがおじさんには使い方も分からずスルー。展望台の中に鎮座するテンゴク神社。11:15TENGOKU CAFE(天国カフェ)の前にはお客さんが、人気のチュロスであろうか。 ー 続く ー
2026.04.13
コメント(0)

芦ノ湖畔から国道1号へ上がり、箱根峠から県道20号線(熱海箱根峠線)の稜線を南下。2月18日(水) 10:55森の駅 箱根十国峠所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20十国峠ケーブルカーの登り口駅に併設されている「箱根・十国峠レストハウス」は、お土産品やそば処が入った便利な施設。1階そば処では「桜えびのかきあげそば」や伊豆産本わさびが丸ごと1本付いた「本わさびざるそば」がいただける。また屋外テラス席もありペット同伴での利用も可能。天気の良い日は富士山も見え絶景スポットである。十国峠パノラマケーブルカー田方郡函南町桑原の十国峠山麓駅から十国峠山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカー路線。概ね15分ごとに運行しており、移動にかかる所用時間は3分。山麓駅には沼津産のアジや由比港の桜えびを使ったグルメを提供するテイクアウトショップを、山頂駅には360度のパノラマを楽しめる展望テラスやカフェを併設している。十国峠山頂駅をズームアップ。県道20号線(熱海箱根峠線)沿いに立つ観光案内板。「森の駅 箱根十国峠」「パノラマケーブルカー 絶景展望テラスまで3分」と。県道20号線を挟んだ西側に展望台があり移動。雲の流れが速かったが富士の姿が見えていた。ズームアップ。富士山の宝永火口をズームアップ。先輩は椅子に上がり撮影、富士山の方向ではなかったが。土足で椅子へ上がられたのでこの後拭かれたか。県道20号線を挟んだ”森の駅箱根十国峠駐車場”を振り返る。この日は平日であったが多くの車が駐車していた。森の駅 箱根十国峠の左側に”十国峠パノラマケーブルカー”乗り場がある。窓ガラスに”十国峠パノラマケーブルカー”と。富士山の顔が見えていたので十国峠山頂へ行くかと思案。十国峠パノラマケーブルカーの路線をズームアップ。両駅からケーブルカーが動く。十国峠山麓駅から山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカーで標高差は101メートル。標高766mの日金山の山頂に到達する。思い出せば十国峠山頂へは半世紀以上前に一度上ったことがある。しばし童心に戻り動きを追った。2階にある十国峠山麓駅のTICKET売り場。次の発車は「11:15」と。先輩に話をして上ることにしチケットを購入。往復乗車券 おとな 730円時刻表 始 発 9:00 この間15分に1本運行 下り最終 17:00料金表 普通運賃 おとな往復 730円、片道 370円 片道はハイキング専用です。 山頂から山麓に直接歩いて戻る道はありません。十国峠山麓駅の改札口横にケーブルカーの運転席か。モニターに山麓駅、頂上駅の状況が映し出されていた。山麓駅ホーム出発前に記念写真。車体には愛称の「十国峠」のネームプレート。車体に「日金」と。車体は昭和30年(1955)に日立製作所が製造している。最前部から頂上駅を見上げる。白い貼り紙に、「このケーブルカーの制動装置はテオドルベル式で、自動・足踏・過速・手動の四種を併 せて装備しています。」と。ホームに「十国峠山麓」。車両の銘板に、 1号 日金号 自重 7.05t 定員 96人後部座席から山麓駅を見下ろす。ケーブル路線の中間部で下り車両とすれ違う。かつては車体塗装はライオンズカラーであったと。天気が良ければ三島市街地、駿河湾が見えるのであろうが残念ながら・・・。森の駅箱根十国峠の建屋、駐車場を見下ろす。頂上駅に到着。山頂駅のホームに降り、右側に愛鷹山連山が見えていた。愛鷹山連山は見えたが富士山は残念ながら雲に隠れていた。ホームに「十国峠山頂」と。山頂駅のホームは傾斜がきつく足がすくんだ。十国峠山頂から南側にある”天空のドッグラン”を望む。頂上のテラスに「伊豆国 IZU ⇨ 」と。天空のドッグラン所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20ここへは姫野沢公園手前の峠の駐車場に駐車して、グランピング施設を抜けて徒歩で来れる。山頂の一角に新しい地蔵が立っていた。十国峠「お願い地蔵」建立のご案内十国峠は、昭和初期より伊豆や熱海と箱根を結び、また、日本の交通の要所として大きな役割を果たしてきています。昭和7年、熱海峠と箱根峠を結ぶ「自動車専用道路」が開通するとともに、山頂に日本初の「夜間航空灯台」が設置されました。さらに昭和32年、日本初の「カーブミラー」が自動車専用道路に設置されました。平成18年「十国峠ケーブルカー開業50周年」を記念し、また、この地を訪れた皆さまの「旅の安全と交通災害ゼロ」を祈願しまして平成19年この「お願い地蔵」を建立しました。お願い地蔵お願い地蔵の後方から十国峠展望台を望む。右側奥に富士山が見えていた。展望台の前にステージがあり撮影スポットになっているようで人が絶えない。富士山をズームアップ。11:25東側の眼下には真鶴半島が見えるのだが。 ー 続く ー
2026.04.12
コメント(0)

この旅二日目は、前日と違って晴れていたので芦ノ湖、十国峠へ向かうことに。2月18日(水) 7:30朝食配膳かつてはバイキングであったがこの日は客数が少ないためか配膳されていた。チェックアウトは10時であったが9時半に出発した。Kさんの同期のメンバーも9時半ごろには出発帰路についていた。改修工事に莫大な費用がかかるとのことだが、健康保険組合だけに任すのではなく会社側からの援助で継続してほしいものだが。今年8月末の閉館までに何度利用するか、次回は「4月15日(水)」を予約済である。絶景日帰り温泉 龍宮殿本館所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根139途中、大涌谷等の観光地もあったがスルーし、芦ノ湖畔にある”龍宮殿本館”前へ。今まで宿泊ホテルと思っていたが開放的な食事処、サウナ、温泉、絶景が楽しめる日帰り温泉施設であると。営業時間は8:00~20:00で、一般料金は2,300円。箱根芦ノ湖畔に佇む「龍宮殿本館」。2017年にリニューアルし、心と体を癒す極上の絶景日帰り温泉がオープンしました。雄大な芦ノ湖の自然と一体となるようなダイナミックな景色と、富士山も同時に望むロケーションの素晴らしさが特徴ですと。一度のんびりと訪れてみたいものだが。駒ヶ岳ロープウェーが運行していたのでロープウェー乗り場へ。広い駐車場があった。箱根駒ヶ岳ロープウェー箱根園駅をズームアップ。箱根園 雪・そり遊び広場駐車場に隣接してある芦ノ湖畔のプレジャーランドに冬季限定で出現する、雪遊びやそり遊びが楽しめるゲレンデである。雪遊びスペースは公園の砂場くらいと狭いが、ソリは無料で貸し出してくれる。 ソリを楽しむ家族をズームアップ。箱根駒ヶ岳ロープウェー箱根園駅一時駐車場がなくロータリー脇に車を停めて撮影。箱根駒ヶ岳ロープウェーは、芦ノ湖畔と箱根で2番目に標高が高い駒ヶ岳を結ぶ。約7分の空中散歩でたどり着く山頂からは、芦ノ湖や箱根外輪山はもとより、富士山、 相模湾、駿河湾、そして遠くは横浜ランドマークタワーや東京スカイツリーまで望むことができる360度絶景のパノラマスポットである。標高1,356mの駒ケ岳を見上げる。箱根の絶景が楽しめる山頂展望広場は2025年4月25日に「箱根駒ヶ岳 芦ノソラ」としてリニューアルオープンした。駒ヶ岳の山頂にはかつてはスケートリンクがあった。乗り場まで行って値段表等を確認したかったのだが。ネットからの情報では、運行時間9:00~16:50、往復運賃2,200円。夜はイルミネーションになるのであろう。P9 箱根町支所下駐車場箱根海賊船元箱根港の南側にある駐車場で国道1号(旧東海道)から芦ノ湖畔へ下りる。駒ヶ岳の全景が奇麗に見えていた。富士山は雲に隠れ見えなかったが右側に箱根神社の”平和の鳥居”。平和の鳥居箱根神社前の道路を挟んで芦ノ湖・元箱根湾に建つのが平和の鳥居。昭和27年にサンフランシスコ平和条約締結を記念して建てられた。扁額には吉田茂元首相が記した「平和」の文字があるが、湖側を向いているので陸側から見ることはできませんと。右側の箱根海賊船元箱根港に海賊船が停泊。海賊船をズームアップ。富士山の周りの雲の流れが速くしばし待つと頂上が見えた。海賊船が入港。ズームアップ。船名は「ビクトリー」と。箱根海賊船元箱根港の桟橋には多くの人が乗船待ち。元箱根港には二隻の海賊船。富士山の周りは徐々に天気が回復しているのか富士山が見えてきた。箱根駅伝ミュージアム所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根167箱根駅伝の歴史と魅力を伝えるミュージアム。歴代の大会の概要、優勝校、優勝校や誕生したスター選手などが紹介されている。入場料は大人750円で入館はスルー。東京箱根間往復大学駅伝競走 往路ゴール・復路スタート碑選手はこの先の国道1号の箱根関所南交差点を右折して復路ゴール点へ入って来る。往路ゴール富士山の頂上が見える。路面に、「東京箱根間往復大学駅伝競走 箱根町2024.1.2」と。復路スタート箱根町園地からの富士山。箱根海賊船 箱根町港所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根161箱根町港桟橋箱根海賊船 ご案内◆ 航路図 1⃣ 箱根町港 現在地 ② 元箱根港 ③ 桃源台港◆ 運賃表 片道 所要時間 約40分 箱根町港 ⇨ 元箱根港 ⇨ 桃源台港 おとな 1700 箱根町港 ⇨ 元箱根港 おとな 600 往復 所要時間 約70分 箱根町港 ⇨ 元箱根港 ⇨ 桃源台港 ⇨ 箱根町港 おとな 3000 チケット売り場に、特別船室 特別船室券 数量限定で販売中! A:普通船室(BACK) B:特別船室(FRONT) 箱根フリーパス 船・ロープウェイ乗り放題パス+¥700 片道 普通乗船券 +¥800 片道◆ 時刻表 12月1日~ 次の便は10:30で、➡ で指されていた。元箱根港 経由 桃源台港 行 12月1日~3月19日桟橋には 10:30 出航の海賊船が着岸していた。海賊船の後方に富士山が見えていた。出航も間近で乗船開始していた。後方に富士山。船主の女神船名は「QUEEN ASHINOKO」と。元箱根港に向けて出港。芦ノ湖には三隻の船が航行していた。雲の流れが速く富士山は隠れていた。ズームアップ。箱根関所周辺散策図10:35箱根町港レンタカーで来たインバウンド客を多く見かけた。 ー 続く ー
2026.04.11
コメント(0)

箱根へは二人とも何度も来ているので見るところもなく早めに目的地の宿泊所へ。2月17日(火) 14:55仙石高原ビラ所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1285-417ビラは箱根の仙石原にある温泉保養施設として、昭和30年代から運営を続けてきており、現在のビラは平成7年(1995)8月に建て替えられて、今日に至っている。今までに何度も利用していたが今年8月に閉館するとのことで今回の旅を計画した。大きな表札には、「住友重機械健康保険組合 仙石高原ビラ」 もともとは浦賀船渠(うらがせんきょ)の健康保険組合が所有していたが、昭和44年(19 69)に住友機械と合併して住友重機械健康保険組合の管轄となった。この急坂を登り突き当りを左折すると「ポーラ美術館」がある。左側は急な坂道になっており700~800メートル下ると、国道138号の小塚入口バス停がある。旅の目的のもう一つは”旅友の同期グループが宿泊する”とのこともあった。1階:エントランス、1階から3階はエレベーターを設置。2階:フロント、ロビー、食堂、娯楽室(カラオケ、麻雀等)、管理室。 ただし、カラオケ室はコロナ以来使用禁止になっていると。3階:客室、大浴場建て替え後30年が経過し施設の老朽化が進み、今後とも安全に施設を運営し続けるためには大規模な修繕工事が必要となるなどから今年8月に閉館することになったと。外観は奇麗だが温泉だけに水回り等に大規模な改修工事が必要に。1階:エントランスエレベーターor 階段を利用して2階へ。2階:ロビー、フロント、お土産品コーナー チェックインは15時からで我々が一番乗りに。部屋にあった”お知らせ” 2025年8月 住友重機械健康保険組合 理事長 白石 和利 仙石高原ビラの閉館について掲記の件、長らくご愛顧頂いてきた健康保険組合の直営保養施設である仙石高原ビラ(以下、ビラと言う)を、来年(2026年)8月末をもって閉館することを、7月に開催した組合会で決議し、ビラの運営を委託している東京ケータリング㈱殿とも閉館に向けた協議が整いましたのでお知らせ致します。ビラは箱根の仙石原にある温泉保養施設として、昭和30年代から運営を続けてきており、現在のビラは1995年8月に建て替えられて、今日に至っています。これまで多くの利用者を受け入れてきたビラですが、建て替え後30年が経過し施設の老朽化が進み、今後とも安全に施設を運営し続けるためには大規模な修繕工事が必要となり、莫大な費用を要することから、今般、ビラの今後を種々検討した結果、冒頭申し上げたように「閉館」と言う結論に至りました。ご案内から来年8月末の閉館までに、1年の期間を置かせて頂きました。限られた期間とはなりますが、この間にビラを再訪頂いたり、これを機にビラを訪れて頂くなど、最後までビラをご活用頂きますよう、お願い申し上げます。 以上 注記: 本通知は、健康保険組合のホームページや、健康づくりサポートアプリのPep Up なども通じて、ご案内しております。洋室は布団の上げ下げがないのでいつも利用。山側であるのでカーテンをひいても樹林。ベッドは2台だが定員3名の洋室。トイレ洗面所廊下から大涌谷がある南側を見る。3階の廊下の両側に客室。北方向の奥に男女別の大浴場がある。西側に特別室・和室があり、東側の斜面側に洋室がある。特別室<5人部屋・1室>和 室<定員5名・5室>洋 室<定員3名・4室> 和室に比べ部屋代が安い。3階から吹き抜きの2階ロビーを見下ろす。旅友の同期グループに電話、バス停まで迎えに行くことに。3階から2階への階段。壁面には健康組合員が描いた絵が掲示されている。15:25急な坂を下り国道138号の小塚入口バス停へ。道路標識には「冬用タイヤ装着 チェーン携行」、また「只今の気温 0℃」と。バス停をズームアップ。新旧の案内板には、「箱根リハビリテーション病院 老健施設デンマークイン箱根」と。バス到着時間まで時間があったので周辺を散策したが0℃のため寒かった。橋は早川に架かる小塚橋で、下ってきた坂を振り返る。かつて来た時この坂道を登ったことがあるが、きつかったことを思い出す。橋の袂に石碑が2基立っていた。後方の山が白かったのでズームアップ。山頂であるので気温は氷点下で樹氷であろうか。早川の上流側。橋の親柱に「早川」、石碑の後方には「小塚山」と。石碑には字が刻まれていたが「□□□ 小塚山□」。もう1基の石碑にも字が刻まれていたが・・・。裏面には「七転八起」の字であったか絵が刻まれていた。下流側の親柱に「小塚橋」と。小塚橋上から早川の下流側の渓谷を見下ろす。これからは新緑に。早川の上流側渓谷。小塚入口バス停バスはJR小田原駅からで、行き先は「桃源台方面行」、「御殿場プレミアム・アウトレット方面行」。愛車はバス停の先の広いスペースに駐車して待った。小塚橋の全景が見えなかったがアーチ橋であったか。後方の中腹には、箱根リハビリテーション病院当院は、国内有数の保養地・箱根仙石原に位置し、正面に箱根外輪山の金時山を眺め、眼下には早川の流れを見下ろすという、たいへん恵まれた自然環境に囲まれています。また、交通の便もよく、都心からも短時間でお越しいただけます。当院は、リハビリテーション病院として、理学療法、作業療法、言語聴覚療法のリハビリはもちろんのこと、温泉を利用したリハビリ用プールも完備し、在宅復帰から長期療養まで、多様なニーズに対応できる医療の提供を目指していますと。そろそろ到着時間になり、桃源台行のバスが到着。気温は1℃になっていた。車中の通路を開けるために多くの人が下車していた。同宿の彼らに聞くと「小田原駅前から満席で立ちっぱなしの客もいた」と。バス停から4人を乗せ仙石高原ビラへ。旅友のKさんは参加しなかったが、同期の人が9名参加していると。他の5名の方は別の方の車が迎えに来ていたようだ。冬場は樹々の葉が散り見通しが良いが春からは青々とした新緑に囲まれる。15:50夕食時間が18時からのため風呂へ入ることに。脱衣場この日の宿泊者は女性がいなかったためか、いつもの女性風呂が使用されていた。まだ入浴者がいなかったので撮影。かつてはサウナもあったが。温泉は大涌谷からひかれており白濁している。泉 質:酸性-カルシウム-硫酸塩・塩化物温泉。適応症:関節リウマチ・変形型関節症・腰痛症・神経痛等。浴室には湯気が立ち込めレンズが曇った。男性風呂からは富士の頂上部分が見えたが。廊下から大涌谷方面の山を望む。18時から夕食追加料理で「サザエのつぼ焼き」をオーダーしたが先輩は嫌いだと。我々二人の他にはKさんの同期9名であった。お酒は各自ビールの中ジョッキ、冷酒を1本飲んだ。お品書きには「如月の仙石路」と。21:40夕食後、9名の中に元職場での同僚がいたので誘われ昔のことを思い出しながら談笑した。アルコール類、つまみは彼らが持ち込み。遠くは名古屋から参加。この日の歩行数は、6,600歩、車での走行距離は67キロメートルであった。 ー 続く ー
2026.04.10
コメント(0)

新松田駅を後にし、今夜の宿泊地箱根の仙石原へ向かう。雪が心配だが”はこね金太郎ライン”を走ることに。2月17日(火) 13:25ロマンス通りに面した新松田駅近くの駐車場へ。この祠は既に廃祠であるとあったが今だ奇麗に管理されていた。カーナビの目的地を「仙石高原ビラ」にして出発した。カーナビの案内で県道78号線(御殿場大井線)を狩川に沿って西へ進んだ。道路脇の標柱に「矢倉沢里山さんぽコース」と。道路脇に「足柄道」の標識、説明立札があった。ここから県道を外れ左下の小径へ入った。矢倉沢関所と周辺東海道の脇街道として賑わった矢倉沢往還には徳川幕府により「入り鉄砲と出女」を取り締まるため、ここ矢倉沢の地に関所を置き旅人を厳しく取り締まりました。関所は季節に関わらず午前六時から午後六時までの間しか通行が出来ませんでしたので関所周辺には旅籠等が立ち並び、関所を通過する旅人で大変賑わったそうです。現在も「立花屋」「釜成屋」「大和屋」「江戸屋」「常陸屋」「車屋」等、当時の屋号が各家に伝わっています。県道78号線から旧道に入り、しばらく走ると説明板を発見。一段高い場所に説明板のみが立っていた。矢倉沢関所跡(末光家)江戸時代に入り、東海道の最重要である箱根関所が整備されましたが、それに伴い、矢倉沢にも箱根の脇関所として矢倉沢関所が設置されました。ここは定番人屋敷、蔵、番所である矢倉沢裏関所で構成され、通行人の取り締まりを行いました。周りは七十間(約126m)を超える柵や竹垣、生垣、茨垣といった防御施設も備えその後施設の拡張も行われました。関所は小田原藩によって管理され、時期によって変化があるものの、番士二名、定番士三名(うち一名は裏関所番)、足軽、中間等若干名が配置されました。矢倉沢関所は明治になって廃止されましたが、末光家には、門柱の礎石、数枚の通行手形などが所蔵されています。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会矢倉沢関所跡の西側の家の石垣。大きな玉石で石垣が造られていた。先輩が道路脇で変な行動を・・・・・。小径から広い道へ上がると道路脇に石碑が立っていた。足柄古道は、足柄古道は、足柄道、足柄路と呼ば、律令時代から奈良時代には、既に官道として整備されていました。箱根古道は乙女峠と明神岳という標高1000m前後の二つの難所を越えるのに対し、足柄古道は横走(御殿場)から足柄峠(759m)を越え直接坂本(関本)、小田原方面に出ることができる便利な道だったのです。足柄古道は物資の輸送や富士講の人々で引き続き賑わったといわれています。大小の苔むした石碑があったが字が確認できなかった。箱根方面の山並みには雲がかかっており雪の積雪が心配になる。県道78号線(御殿場大井線)の坂道を上ると道路脇に「足柄古道」の道標。橋があり「関場橋」の銘板を確認。前方に「はこね金太郎ライン入り口」。はこね金太郎ライン入り口に広場があり駐車。左折すると県道731号線(はこね金太郎ライン)経由で仙石原へ通じる。広場に「周辺観光案内」があった。この周辺にも「夕日の滝」等があったが天気が気になりスルーした。古と今をつなぐ、足柄古道名 称:足柄古道足柄古道は、古代から東西を結ぶ街道として整備されました。万葉集にもこの地で詠まれた歌が多く残されていることからこの道が古くから人々の往来に深く関わってきたことが分かります。古道の一部は今でもハイキングコースとして整備され、史跡を巡りながら歩くことができます。矢倉沢往還(江戸 ~ 駿河)江戸と駿河を結ぶ矢倉沢往還のルートとしても使われました。上ってきた県道78号線(御殿場大井線)を振り返る。バスのりばがあった「足柄古道入口」。行き先は「地蔵堂」で、平日/9:28、16:29 土・日・祝日/8:24、9:19、15:14 足柄古道入口に立つ石柱。彫られているのは登山者の姿であったか。パーキングを見下ろす。右側の標識に「足柄古道入口」と。パーキングから”はこね金太郎ライン”へ入ると道路脇に除雪された雪があった。昨日の雪で積もったようだ。はこね金太郎ラインは、南足柄市矢倉沢から箱根町仙石原に新設された県道731号線で全長10.9kmある。金太郎ラインを上るに連れ木の枝の雪が白くなってきた。警備員が立ち一瞬交通規制かと思ったが、工事中の警備員であった。タイヤがノーマルタイヤであったので積雪を恐れたが。金時見晴パーキング所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢ここのパーキングにはトイレ、売店なしで即登山口になる。休日は登山者で満車になると。パーキングの標高は853メートルで、後方の右方向は金時山に至る。南足柄市 金時見晴パーキング。トンネルは”金時隧道”、道路標識に「芦ノ湖 9km、仙石原 3km」と。南足柄市 金時見晴パーキングパーキングからの登山口方向。パーキングから東方向を見下ろすが曇っていた。木の枝には昨日からの雪が積もっていた。ズームアップ。パーキングにトイレがないので、「金時見晴パーキング付近の公衆トイレのご案内」 ① 金時公園内(約5分) ② ラーメン屋「蔵一」駐車場内(約7分) ③ 箱根仙石原観光案内所(約7分) ※ カッコ内は金時見晴パーキングから車での所要時間いずれも箱根仙石原方面にあるが、南足柄市は予算がないのか・・・。金時山・明神ヶ岳方面ハイキングコース入口ハイキングコース入口には注意書きのいろんな看板が立っていた。中にはクマの絵も見えた。クマ出没注意熊に出会ったら・・・ ・大声出さない ・走って逃げない ・冷静に立ち去る 連絡先:箱根町環境課 ☎ 0460-85-9565クマの出没は現実的にいつあったのか表示してほしいものだが。金時・明神コース案内図金時山 45分、明神ヶ岳 100分。腐れかかった木柱に「ブナの植樹千本記念」と。金時見晴パーキングを見上げる。後方の稜線を上ると標高1,212mの金時山へ。この時の気温は5℃であったか。見るところもなく早々に引き上げ仙石原へ。金時隧道を抜け箱根側に入ると樹々に雪が積もっていたが、道路の雪は溶けていたので運転には問題なく下ることができた。ヒノキに積もった雪。14:35交通量も少なく道路脇に駐車して撮影。 ー 続く ー
2026.04.09
コメント(0)

”モンタナ”はお笑いタレントで俳優の飯尾和樹が「ずん喫茶」の番組で訪れた喫茶店で、追っかけの私は茅ヶ崎、藤沢に次いで4店目である(’25/8/3に放映)。2月17日(火) 12:35カフェ・喫茶 モンタナ所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1216 松屋ビル2階先輩が1階の店舗を覗き見「店は閉まっている」と。目的のモンタナは2階であったのだが。珈琲好きな飯尾和樹が番組「ずん喫茶」でアポなしで訪れている。モンタナのコーヒーはオリジナルブレンドの豆を挽き、布フィルターで抽出する「ネルドリップ」であると。モンタナ MENU2階に上がると昼時でほぼ満席状態であった。これもテレビ放映された効果か。壁面には大きな絵が吊るされていた。写真はお客さんが帰られた後に撮影。窓際の席に座り大きなガラス窓から新松田駅前を見下ろす。小田急新松田駅舎&ロータリーこの辺りは、小田急線とJR御殿場線が交差する交通の要衝地になっている。また、小田急線は右手の東側から御殿場線へ乗り入れている(Googleマップより)。店主の西村知子さん(72歳)。テレビで放映されて以来有名人になり本人に断って撮影。カウンターには洗い物が多かった。店名は「義理の父が米国へ旅行した時、モンタナが気に入り名付けた」と。入店した時は在席しておられたので帰られた後に撮影。ふたりともナポリタンをオーダーサラダ付きナポリタンで900円であった。かつて東京へ上京したころ、土曜日のランチで東京駅八重洲口のイタ飯屋さんでナポリタン、イタスパをよく食べたものだ。タバスコの家庭用は60mlだけに、瓶の大きさにビックリ(350ml)。タバスコが最初に日本に入ってきたのは、第二次世界大戦後の1940年代といわれ、その後、喫茶店やレストランなどに置かれるようになり、一般にも認知された。プロレスのアントニオ猪木が経営していたアントントレーディング社が、1970年代に代理店契約を結び、日本人にその味を定着させたと。以下3枚の写真は、TV画面から、飯尾和樹と店主の西村さんがトーク。一人でやっているのでお客さんが手伝ってくれカップの引き下げ洗いまでもやってくれると。我々が訪れた時はスタッフが一人おられたが。ずん飯尾のオーダー絞めて2,000円ぐらいであったか。ハンバーグライス、しょうが焼き。食事後、飯尾が残したサイン入りカップはカウンター隅に無造作に置かれていた。店主から「どうぞ撮影してください」と言われテーブル席に移動して撮影。反対側には、「手づくり銀座! しょうが焼きハンバーグ アメリカンジャンボカップ 最高に旨い めざせ! 幻の『めんどくさい』カツカレー」と。飯尾が店主との会話で「カツカレーのオーダーはめんどうくさい」と言う言葉から。店から出て小田急新松田駅を見る。飯尾和樹はこの後、近くの「cafe asahi」も訪れた。新松田駅から北側の路地を入りJR松田駅南口へ。この店を訪れたと思ったが違っていた。駅周辺にはカフェ・喫茶が多かった。第27回まつだ 桜まつり2026年2/7(土) ➤ 3/8(日) 西平畑公園公園内に駐車場がないので臨時駐車場からシャトルバスで会場へ。JR松田駅南口JR東海 松田駅御殿場線の運行は1時間に1~2本であるので人の往来が少ない。運行掲示板、運行が少ない。御殿場線時刻表小田急線の特急ふじさん号が1日3本運行している。この時間帯は販売所は有人であった。交通系ICカードでは、「TOICAエリアからSuicaエリア等へまたがってはご利用いただけません」と。よって事前にきっぷをご購入ください近距離きっぷ運賃表まつだのおすいマンホール蓋松田町無形重要文化財である「松田大名行列」のデザインが入ったマンホール蓋。JR松田駅南口から小田急新松田駅を見る。13:20飯尾和樹が訪れた店はこの右側にあった。以下5枚の写真は、TV画面から、次に訪れたのは「cafe asahi」。もともとは食堂であったが2006年に”cafe asahi”として創業したと。飯尾から「昔の写真はありませんか」との問いに写真を取り出していた。現在の店主は4代目の大石直子さん(56歳)で、右は3代目の義母で親子で営業していると。開業した当時は食堂であったと (写真は昭和2年ごろ)。先程のモンタナで食事をしたので4代目の娘が作るチーズケーキを食べていた。飯尾和樹のサイン入りコーヒーカップ。 ー 続く ー
2026.04.08
コメント(0)

曽我富士見の里の枝垂れ梅を楽しむ。2月17日(火) 11:50曽我富士見の里から西を望む。天気が良ければ梅の花と富士山が望める絶景の場所であると。その絶景の写真をネットから。富士山の手前には右に矢倉岳、右に金時山が見えるのだ。まだ若木だが紅白の枝垂れ梅。10年後には立派な梅の木になるのであろうが。この日は平日で訪れている人は我々二人だけであったが。富士山はその存在感を象徴させる一コマになるのであろう。荒れた田んぼも5月には田園風景が広がる空間になるのであろう。紅梅をズームアップ。白梅の下に巣箱がふたつあった。若木の白梅の傍には「発酵鶏ふん 採卵鶏」の肥料袋が置かれていた。一本の木に二袋も与えるのであろうか。ロウバイの花と種子。この光景を目に残し後にすることに。また別の季節に訪れたいと。この広場のシンボルツリーになるのであろう。御殿場線の梅林踏切へ戻る。遮断機が下り「チンチン」であったか「カーンカーン」と鳴っていたかしばし待機。下り線が来た、橋は水路橋。ズームアップ。線路脇の枯れ草が生い茂る、かつては車内からのたばこポイ捨てで火災が発生。これも人手不足で放置状態になっているのであろうか。ここはJR東海の管理内だが予算不足か。沼津行き普通電車のワンマンカー。下り、御殿場・沼津方面。先輩も線路脇で電車を追っかけていた。線路沿いは管理してほしいものだが。水路橋をズームアップ。瑞雲寺横を流れていた沢の水路橋であったか。同踏切から、”曽我富士見の里”方向を望む。県道72号線(松田国府津線)のカルバートから振り返る。緩い坂道を登り瑞雲寺の駐車場へ戻る。曽我丘陵からの沢であるが川の名は?。旧道脇の公園から中河原配水池を見上げる。配水池の下に紅白の梅であったか。更にズームアップ。瑞雲寺の入口へ戻る。お寺の梅林が奇麗に咲いていた。境内の梅林には紅白の枝垂れ梅が聳えていた。枝垂れ梅の実は食べるのであろうか。それとも観賞用に特化しているのか。12:10瑞雲寺の駐車場を後にし、次の目的地”小田急の新松田駅”へ向かうことに。この周辺の梅林を見るために駐車したが無料であった。県道711号線を北上、正面の丘陵地には「西平畑公園」の河津桜会場がある。文久橋神奈川の橋100選の内の一つ、川音川が酒匂川注ぐ最下流の橋で、昭和62年(1987)に完成した橋長108mの連続鋼鈑桁橋。橋名は、かつてこの位置にあった船の渡り賃として文久銭1銭を要したことに由来している。すぐ上流には御殿場線の橋梁が架かっている。県道脇に看板があり、「⇧ まつだ桜まつり 臨時駐車場」と。新松田駅周辺は狭く駐車場へ。新松田駅前のロマンス通りを振り返る。駐車場脇に祠があった。Googleマップには載っているが「祠」と。祠の傍にナギの樹が聳えている。祠の扉に貼り紙があり、「ご協力への感謝のことば 『大いに多忙のところ、このお知らせ文を読み上げいただきましてありがとうございます。 2024(令和6)年廃祠(とは云っても、これのことを示す語が見あたらないか又は無い) 廃祠からその後、本年は令和5年から一年目。そしてこれは、おいなりさんの御霊抜き済 みの「廃祠」であります』。 しかし、丁寧に扱って、当地はもちろんのこと、この敷地周辺共々清浄でありつづける ようにみなさま方の主体的ご理解とご協力とをいただき、日々の清掃と管理に務め、 守っていきます。 そしてまた、このナギの樹がみなさま方と共に、活力と地力をを高めていけるように、 おだやかにあたたかい心で見守っていただけることに感謝申し上げます。 これからも、当地そしてまた駅前周辺、地域全体が、みなさま方の心のささえの場、やす らぎの場として各々めいめい主体的に情報共有し、明るい未来へと目的を定めて発展して いきますように、どうぞよろしく。 2024(令和6)年1月8日(日) 記傍のフェンスにも長文が、「その気になって気がつけば、天気がいい日は富士山がくっきりとよく見える。やっぱり ふじさん」きれい。今ここに、この高い山は見た目もそうですが内側から光輝くさまに、 造れない美しさがあるようだ。・・・後略。小田急、新松田駅前ロータリーへ。目的地の「COFFEE GRILL モンタナ」を発見。お笑いタレントで俳優の飯尾和樹が番組の「ずん喫茶」で訪れた喫茶店である。新松田駅の駅舎に。小田急新松田駅(北口)改札口。12:35かつて箱根方面でゴルフをやった時迎えに来た駅である。 ー 続く ー
2026.04.07
コメント(0)

瑞雲寺の裏山の墓地へ廻る。2月17日(火) 11:15墓地への斜面にあった祠を見上げる。案内板。皇大神宮祠への足場が悪いので下から見上げ説明板を撮影。自修学校創立者瑞雲寺二十一世大井龍跳先生を師と仰ぎここに学びし者、昭和十五年卒業自修学校二十九回生一同が、木工技術を修めた匠に頼み、精魂を打込み仕上げた皇大神宮を母校に贈った。斯れより五十年の歳月を経て、平成十二年寺の物置の改築の折り斯の皇大神宮が発見され、瑞雲寺住職道範師のご協力により、ここに御堂を建設して、皇大神宮を修めて永久に御祭りする事とした。 平成十三年二月十一日 自修学校二十九回 卒業生一同岩場の登り口に「曽我兄弟ゆかりの 西行法師開眼 力不動尊」とあった。皇大神宮を見る。傾斜地に祠が2社建っており、手前に「力不動尊」、奥の下に「皇大神宮」。力不動尊・(不動根)この瑞雲寺に伝わる錬金伝説この場所は隆起型の活断層である相模トラフ(神縄・国府津ー松田断層帯)の突起場所です。この断層の構造は世界有数のプレート(太平洋プレート・フィリピンプレート・北アメリカプレート・ユーラシアプレート)から造られています。4つのプレートから造られている場所は世界的にも2か所しかなく、その活断層の集合地点がまさしくこの地であります。この断層上でもあり、当寺瑞雲寺の鬼門にある須賀神社の祭神は荒神(荒ぶる神)とは地震(活断層)の神様であります。宗我神社は曽我氏が氏神です。曽我・須賀・蘇我、断層と錬金術この力不動尊の力とは、マグマの集約地点地球・宇宙の生命の黄金の力(パワースポット)です。曽我兄弟が念願成就のため祈願した石造であり、智力・体力・財力等にすべて正しく生きようとする方に無限な強い力をかして下さいます。狭く足場が悪いので手前で引き上げた。瑞雲寺のモッコク近寄れないのでモッコクの根元をズームアップ。多くのモッコクが単幹であるが、この木は株立状であると。瑞雲寺のモッコク 小田原市指定天然記念物(昭和六三年一一月一日指定) (所在地) 小田原市上曽我九○ニクスノキの分布は、本州南岸(南関東以西)、九州の近海地方に育成する暖地性樹木です。しかし、その植栽分布は関東北部、北陸地方の日本海側、東北地方(秋田・宮城・福島)に及んでいます。この木は、瑞雲寺庫裏の東側、寺林内の中腹に生育し、本市内では最大級の古木です。多くのモッコクが単幹であるのに、この木は株立状です。瑞雲寺の寺林は、寺の東北側に隣接する、須賀神社の社叢に続いている自然林的な要素を備えています。この木の近くには、クスノキの大木や、イロハカエデの古木があり、また、ヒサカキやアオキなどの低木も多く生えています。このことから、この木は自生樹と考えられます。 小田原市教育委員会モッコクの全景。墓地から中河原配水池への道を下り駐車場へ戻る。右側の沢沿いに早咲き桜の河津桜?が植えられていた。左側には瑞雲寺の梅林が広がっていた。中河原公民館の屋上に大きな拡声器が設置されていた。門前へ下り立つ。右は中河原公民館で、隣接して山車庫もあった。山門には梅まつりに訪れたグループ。この後、瑞雲寺の南側に「曽我富士見の里」があるので歩いて行くことに。沢沿いに立つ六角柱の六面に地蔵立像が彫られていた。奥には「馬頭観世音」の碑も。瑞雲寺入口に立つ看板に、「曹洞宗 龍珠山 瑞雲寺」と。旧道の花見橋の袂に、「曽我 富士見の里 梅まつり 開催中 ⇦」の案内板。案内板の横に「冨士見の里ふれあいまつり周辺案内図」。また、標識も立っていた、「国府津・曽我丘陵 曽我の里 ウォーキングコース散策コース」。沢の安全柵にミモザが植えられ咲き始めていた。春先を彩る黄色のミモザである。旧道の国府津方面。小さな公園があり遊具が設けられていた。公園内に石碑があった。3基の石碑があったが説明板がなく詳細は不明。後ろ側の道が旧道で右折すると瑞雲寺へ。”富士見の里”への案内板があり坂を下る。民家の入口に「1998 SABOTEN サボテン工房」と。また、黒板には「焼芋あります 一本350円」。富士見の里ふれあい周辺案内図民家の庭先に咲くミモザを見上げる。坂を下ると三差路に白梅が咲いていた。後方を県道72号線(松田国府津線)が横切る。梅林の中に「⇦ 富士見梅園」の案内板。県道72号線(松田国府津線)の下を通り抜けJR御殿場線の踏切へ。梅林踏切上り国府津方面を望む。下り御殿場・沼津方面を望む。かつての御殿場線は複線であったので敷地が広い。曽我富士見の里所在地:神奈川県小田原市上曽我2590敷地内に柏真館があり個人のふる里フォトギャラリーであると。梅と富士山との撮影には最適の場所であると。農地の一角に梅林があり、”曽我 富士見の里”の看板が立っていた。他にも「梅まつり会場」の看板「梅まつり」の幟旗。西側に回り込む。看板には「富士山が望める絶景です 曽我 富士見の里」と。「入場無料 お気軽にお立ち寄りください」と。まだ木は若いが枝垂れ梅が10本ほど植えられていた。曇り空で残念であった。紅白の枝垂れ梅が満開に近かった。右側に回り込む11:50ズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.06
コメント(0)

当寺は昨年の2025年9月23日(火)に訪れて以来2度目の参拝である。曽我梅まつりの中河原会場になっており駐車場は無料。2月17日(火) 10:55龍珠山 瑞雲寺所在地:神奈川県小田原市上曽我902瑞雲寺は花の寺として知られている。後方に梅林が広がっていた。昨年のブログは「下曽我の寺社」👈をクリック願います。右側の建物は「中河原公民館」。寺号標石に「曹洞宗 龍珠山 瑞雲寺」。瑞雲寺(ずいうんじ)曽我梅林の中にある寺として知られるこの寺は、龍珠山瑞雲寺と号し、曹洞宗で津久井の大井山功雲寺の末寺であり、相州黒岩城主本多豊前守が、日頃帰依していた功雲寺の5世仁忠継儀和尚を招請して、明応元年(1492)に建立した名刹である。創建当初は、現在地より東方200メートルの丘上に建立されたと伝えるが、江戸時代の後期に現在地に移されたと言う。寺には、18世観源大器和尚の「へえずり石」や、縁結びと子宝を授かると伝える「洗心池とめん玉弁天」があり、また曽我兄弟が父の仇を討つために願文を納めて、「十人力」を授けられたという「力不動尊」が安置されている。この不動尊は大山不動尊の前不動で、曽我剣沢の地にあったものを江戸時代後期に当寺内に移されたものである。なお寺内入口左側の梅林は、21世住職によって創設された当時足柄平野唯一の私学「自修学校校舎」の跡地である。同校は明治43年7月に開設され、大正15年8月、校舎拡張のため東方丘陵に移転。のち湘北中学校、湘北高校、向上高校と校名を変更した。龍珠山 瑞雲寺案内図石碑には「曽我の春」の歌詞が刻まれていた。 作 詞 峯 としはる 作 曲 佐々木忠孝 唄 八汐亜矢子山門の右に「龍珠山」、左に「瑞雲寺」と。後方の丘陵地には巨大な3基の貯水タンクがある”中河原配水池”。瑞雲寺の梅林に紅白の枝垂れ梅が咲いていた。ちょうど11時で鐘楼の鐘が撞かれ始めた。参道の一段高い場所に石碑が立っていた。石碑に「自修学校発祥之地」。木柱に「曽我自修学校発祥の地」と。自修学校発祥の地明治時代、小学校の制度は全国的に普及したものの、それより上級の進学は不可能に近い状況が多かった。瑞雲寺二十一代大井龍跳和尚は、この不備を救うため寺の本堂でこの地域の青年を教導し、やがて明治四十三年、ここに校舎を建設した。教科は修身・国語・漢文・英語・数学(代数・幾何)珠算など、後の旧制中学校三~四年程度を教えたという。大正十二年、関東大震災により校舎は倒壊したが、大正十五年、規模を拡大するため東方の台地上に移転した。後に校名は湘北中学校・湘北高等学校となる。更に学園は伊勢原市に移り向上高等学校と改名される。その後、自修館中等教育学校を併設した。明治・大正・昭和・平成にわたり、この私学の果たした地域への貢献はまことに大きかった。平成二十二年七月、学校法人向上学園は、創立百周年を迎えることとなった。 平成二十一年三月 小田原市教育委員会顕彰碑〈復刻〉湘北高等学校長大井龍跳(りゅうちょう)先生逝いて早くも三回忌を迎え温容高風追慕の情転切々たるを覚ゆる瑞雲寺住職として信を一身に聚むるも宣なるかな弱冠にして学舎を寺隅に興してより自修学校を経て自修学園の今日に到るまで風を望み薫化の恵みに浴するもの七千に及ぶ自修創立四十周年を記念して学園卒業生等議のここに先生の墓碑を建立し遺徳を偲ぶ 昭和二十五年十月十四日 自修学園湘北高等学校長 田代信二識 昭和二十五年十月十四日 自修学校卒業生 自修学園卒業生 教職員 生徒 建立境内にはいろんな石仏が立っていた。石仏群境内の一角に集められた石仏群。苔生した石仏群瑞雲寺と石仏群龍珠山瑞雲寺は曹洞宗の寺で、寺伝では明応元年(1492)の創立という。寺号は小田原北条氏家臣の本多豊前守信親(法名瑞雲院龍珠宗洞)に由る。山内には石造物群が多い。 ・六観音石龕。坐像と立像の二型が現存し、この地方の六観音信仰の遺物として珍しい。 ・六地蔵石龕 ・石造阿弥陀如来坐像 ・石造観音菩薩立像 二躯 ・石造地蔵菩薩立像 二躯 ・石造閻魔王坐像 ・万霊供養塔 ・唯念名号碑 ・自然石石塔(観音・馬頭観音)二基 小田原市教育委員会石仏群をサルスベリの古木が覆う。本 堂本堂の天水桶後方には梅林が広がっていた。天水桶への導水管。本堂の扁額「龍珠山」。本堂前には土足で入れる土間があった。本堂への引き戸の前に「脚下照顧(きゃっかしょう)」と。脚下照顧の意味は、他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見ろ。自己反省を促す意で用いられると。本堂入口に「瑞雲寺」と。土間から境内を見る。本堂の西側に梅林があった。鐘楼には人影はなかったが11時の鐘が撞かれていた。鐘楼に取り付けられたタイマー。鐘楼の周りに「自動作動中」の立札があったか。撞き棒は鎖で吊るされていた。人がいなくても自動で鐘が作動し大きな音を出すとビックリするのではと。熱心にスケッチをする先輩、いつまでたっても設計屋さんである。作動中を見たかったが。昨年9月23日(火)に訪れた時は樹々が青々としていた。顔出しパネルを真似て彫られたのであろう曇り空で梅の花は映えなかったが。白梅はまだ満開ではなかったようだ。本堂前裏山の墓地への途中本堂を振り返る、客殿前の梅が満開であった。観梅用の梅の花をズームアップ。満開であった。11:15裏山の墓地への斜面に祠が2社。 ー 続く ー
2026.04.05
コメント(0)

時間が過ぎましたが、今年8月末に閉館する「仙石高原ビラ」を利用して箱根への一泊旅行を計画した。二宮に在住の先輩を誘い、梅を見ながらの旅行であった。前日天気が悪く箱根では雪が積もったのではと思いながら自宅を愛車のノートで出かけた。2月17日(火) 9:50国道1号を走り二宮の先輩宅へ向かったが西の空は曇っていた。二宮の富士見が丘団地へ入り、東海道新幹線の高架。珍しく先輩は家の外で待機しておられた。国道1号に戻り目的地を曽我梅林にして西へ走る。この「のんき亭」は国府津駅手前の国道沿いにあり何度か利用したが数年前から休業状態に。昇珠園(しょうじゅえん)所在地:神奈川県小田原市曽我別所93国府津駅の先から県道72号線(松田国府津線)を北上、県道沿いにある梅干し専門店。近くに小田原牧場アイス工房がある。神奈川を代表する「十郎梅」をはじめ、「白加賀梅」「杉田梅」「南高梅」「小梅」の主に5種類の梅を栽培しています。当園自慢の梅を使った「完熟梅干」は、完熟になるまで樹の上で育てた梅のみを使用し、昔ながらの味を大切に、ひとつひとつ丁寧に心を込めて作り上げていますと。県道を走っていて右手車窓にこの枝垂れ梅を見て急遽立ち寄った。県道沿いの民家の庭にも枝垂れ梅が咲いており皆さん競って栽培されている感がある。近くにも枝垂れ梅が咲いていたので昇珠園の駐車場に車を停め散策。民家の庭先に咲く紅白の枝垂れ梅が満開状態になっていた。2週間前の2月4日(水)に国府津駅から下曽我駅まで歩いたがその時はまだであったが。かんざしの飾りの如くに咲く枝垂れ梅である。ズームアップ枝の中をメジロが忙しく動き回っていた。メジロをズームアップ。小径から紅白の枝垂れ梅を見上げる。先輩が他人の敷地内へ入って撮影していたので注意するが。最近は撮影マナー問題が多々発生している。望遠レンズでズームアップ。ピンクのカーテンのような枝垂れ梅である。枝垂れ梅の枝が並ぶと私には暖簾の如くに見えるが。次に向かったのは、昨年9月23日(火)に麓の瑞雲寺から見上げた「中河原配水池」。カーナビの案内で瑞雲寺横を通り抜け丘陵地へ上った。中河原配水池所在地:神奈川県小田原市上曽我930小田原市高田にある高田浄水場にて処理された水は、ほぼ全てこの配水池に送られている。丘陵地には3つのプールがあり、総容量は26,000立方メートル。標高73.9mにあるこちらから小田原市内の約7割の家庭へ水を送っていると。また、ここからの眺望は富士山、箱根連山、足柄平野を見渡せ、桜の名所であると。門扉に「中河原配水池」。説明板が見当たらなかったがプールの直径は10メートル以上はあったか。先輩も高級スマホで撮影。中河原配水池は急斜面を登った丘陵地にある。足柄平野を見下ろす。富士山、箱根連山が見えるのだがこの日は厚い雲に覆われ見えなかった。この後、山越えで箱根仙石原へ向かうが雪雲が心配であった。南西方向の丘陵地には煙が上がっており小田原市の施設であろうか。小田原市街地方向を望む。こちらも生憎の曇り空で真鶴半島、伊豆半島は見えなかった。小田原市街地をズームアップ。更にズームアップするがビルの影になり小田原城は見えなかった。先輩は設計者だけに搬送車の構造をスケッチしていた。この辺りの丘陵地ではみかんの栽培をしていたのでモノレール式搬送車であろう。中河原配水池から下山し、瑞雲寺へ向かう。10:55中河原梅林(曽我梅まつり中河原会場)である瑞雲寺の駐車場へ下りる。当寺は昨年9月23日(火)に訪れて以来2度目の参拝である。先程上った中河原配水池を見上げる。駐車場に咲いていた河津桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.04
コメント(0)

愛車のリンちゃんのバッテリー残量が少ない中、浄見寺、成就院へ立ち寄った。3月24日(火)13:25浄見寺の入口にいつも芝桜が植えられており撮影スポットに。博物館の遊水地にも植えたらどうかと思うが、後の管理が大変で実現には?。浄土宗浄見寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤4317浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠政が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611)に建立した浄土宗の寺院。江戸時代の名奉行として有名な、大岡越前守忠相を出した大岡家代々の菩提寺である。山門右前に「大岡越前守菩提所」と刻まれた標柱が立っている。山門の扁額「窓月山」。茅ヶ崎市では市の四大祭りのひとつである「第71回大岡越前祭」を、4月18(土)、19日(日)の両日開催する。山門から境内を見る。大岡家と浄見寺大岡家の始祖の地は三河国(現・愛知県)で、家系図には左大臣藤原教実の子孫とあります。鎌足を祖とする藤原氏の一族です。教実は京の九條に屋敷を構えたことから姓を九條と改め、後にその子孫が三河国の大岡に居を移して大岡を名乗りました。現在に続く大岡家の初代忠勝は、徳川家康の祖父にあたる松平清康ならびに父広忠に仕えて武勲を上げ、広忠より「忠」の一字を賜り、それまでの名を改めて忠右衛門忠勝としました。二代忠政は、天正十九年(1591)五月三日に家康より相模国高座郡堤村を賜りました。その後、慶長十六年(1611)に、三代忠世が父兄の冥福を祈るために窓月山浄見寺を建立しました。寺山号は初代忠勝の法名である「大綱院殿忠誉窓月浄見居士」に由来しています。以来、今日まで大岡家代々の菩提寺となっています。「大岡裁き」で有名な五代忠相は、享保二年(1717)二月三日に町奉行に就任し、官職名を越前守に改めました。町火消しの結成、小石川養生所の設置、物価政策などに尽力する一方で、多くの人材を登用しました。後に、寺社奉行に就任し奏者番を兼ね、加増によって一万石の大名となり、三河国西大平に陣屋を構えました。大岡家との縁により、西大平藩のあった愛知県岡崎市と浄見寺のある茅ヶ崎市は、昭和五十八年に「ゆかりのまち提携」を結び、現在においても様々な交流を続けています。 大岡奉賛会歴代当主の系統図本 堂境内には「若き法然像」等多くの像があったが既にアップしているので省略。本堂の扁額「浄見寺」。本堂前から山門を振り返る。正面の階段を上ると「大岡家の墓地」がある。覆い屋の中に「六地蔵」が鎮座。六地蔵の左側に「絵馬奉納場所」。絵馬奉納所の中に位牌(レプリカ?)、忠相の法名「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士靈位 寶暦元年 十二月十六日」と。大岡家の墓地浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、十三代まで一族累代の墓碑五十八基が整然と並んでいる。それぞれの墓石の前に「・代 ・・」と、奥の玉垣の中が五代目忠相の墓地であろう。閉ざされた墓地前から北側を望む。浄見寺のオハッキイチョウ 昭和三十六年三月十四日 神奈川県天然記念物指定 葉にギンナンが結実するイチョウの変種。昭和六十三年に行った年輪幅の調査から樹 齢はニ百年前後と推定されていますが、並んでいるナギとともに、浄見寺の創建時に 稙えられたとも伝えられています。浄見寺の寺林 昭和四十ニ年七月ニ十一日 神奈川県天然記念物指定 相模野の自然樹林が少なくなっている中で、昔の樹林の様子を残す寺林として貴重で す。スダジイ、タブノキなどの照葉樹か多く見られます浄見寺の大岡家一旋墓所 昭和三十六年ニ月十四日 茅ヶ畸市史跡指定 浄見寺は越前守忠相で有名な大岡家代々の善提寺で、初代忠勝をはじめとする墓など が立ち並んています。天正十九年(1591) ニ代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与 えられ、その後慶長十六年(1611)に浄見寺を建立しました。 茅ヶ崎市教育委員会墓地前から境内を見下ろす。境内では大岡祭のための準備がされていた。高木の枝おろしでクレーン車を使用しての伐採作業中であった。墓地から下り、山門へ向かう。浄見寺前に、「民俗資料館 旧和田家」が建ち、ソメイヨシノの古木がある。枝先を見上げる、まだ三分咲きであったか。旧和田家の見学へ見学は無料である。民俗資料館 旧和田家 昭和五十七年七月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内萩園の旧家で、江戸時代には村役人をつとめていた和田家の住宅を、昭和六十年に移築復元したものです。この民家の特徴は、幕末の大型民家であること、良質の材料を用いていること、改造が少ないこと、記録が残されていて建設の経過がわかることてす。「安政ニ乙卯年(1855)三月吉日/御棟札/富家十一代和田清右衛門盛久」と書かれた棟札もあり、棟上げした時期がわかります。また、建築に関わる記録から、用材などを買い始めたのは嘉永四年(1851)、地ならしなどを始めたのは嘉永七年(1854)であることや、用材の購入先、関わった職人の職種や数などもわかります。 茅ヶ崎市教育委員会頂いたパンフレットから、江戸時代を感じる家、旧和田家みんなでワイワイ建てました 旧和田家を建てたのは、大工・木挽・石屋・左官・屋根屋・畳屋・建具屋といった職人 だけではありません。村人も木材を運んだり屋根を葺いたりと、さまざまな助け合いを 行ったそうです。しかも、萩園村だけでなく近隣の村の人々までも駆けつけたとのこと。 その数はのべ1,000人を超えたそうです。豪華な間取です 江戸時代末期の民家は、4つの部屋からなる四間取がスタンダードでしたが、旧和田家 は六間取。つまり、6つも部屋があるということ。しかも、通常の入口に加えて身分の 高い来客専用の入口(シキダイ)までもあるというから、これはかなりの格式の高さです。 さすが、村の役人というだけありますね。細かいところも見てほしい 家のあちこちには細かなデザインがちりばめられています。室内の壁が漆喰だったり、 床柱は白檀の木、菱形模様の欄間などなど。見学するときは、そういった・・・。地の利を活かして適材適所 もともと旧和田家が建っていた萩園村の西側には、相模川が流れていました。このこと が、立派な家づくりに大いに役立ちました。家の柱や床などそれぞれに適した木材や板 などに加工された木材を、水運を利用していろんな土地から取り寄せことが・・・。ドマへ入る。建屋内は奇麗に清掃されていた。ドマの屋根は吹き抜けになっており、屋根裏には大きな木材が使用されていた。茅葺屋根も近年に葺き替えされたのか奇麗であった。江戸時代末期の民家は、4つの部屋からなる四間取がスタンダードだが、旧和田家は六間取。6つもの部屋つながっている。東側にナガト、ナカノマ、オクノマとつながっている。チャノマ (茶の間)家族が団らんする場所。囲炉裏があり、食事時、和田家では男性がダイドコロを向いて座っていた。※ 女性のうち、祖母と母親はダイドコロとチャノマの間に座り、食事の世話をした。囲炉裏には蓋がしてあった。ドマの隅にカマドがあったが大きいものであった。カマドにある羽釜も大きく大所帯の感がある。西側からダイドコロ、チャノマ、ナガトを見る。チャノマ、ナガトをズームアップ。黒光りの床である。西側からの旧和田家。茅ヶ崎市景観重要建造物 第1号 平成29年4月7日 指定民俗資料館 旧和田家和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄です。旧和田家は、同家11代和田清右衛門によって建てられたもので、幕末の民家の特徴を備え、良質の材料を使い、また改造も少ないことから建築当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です。移築復元のため、解体作業中に「安政2(1855)年三月吉日」の年号のある棟礼が発見され、建てられた年代が明確になりました。また、「居宅普請財木買入帳」などの建築に係わる記録も残っており、建築準備が始まったのが嘉永4(1851)年であることや、建築資材の購入先、普請に関わっ人々のことが詳細に分かりました。 開館時間:午前9時 ~ 午後4時 休 館 日 :月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日 ~ 翌年1月4日)浄見寺、旧和田家を後にし帰路についた。帰路のルートはスリーハンドレッドクラブのコース間を抜いて帰ることに。13:50高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ケ崎市甘沼473成就院は花の寺として知られており茅ヶ崎の北部へ行ったときよく立ち寄るお寺である。いつも綺麗に咲いているホウキモモは咲き初めであった。ホウキモモをズームアップ。ホウキモモは色鮮やかに咲くので好きな木である。数日後には満開になるのであろう。境内の花はまだ咲いていなかったのでこの日は門前で引き返した。毎年行われている「花まつり」が4月8日(水)に開催されるとの看板。釈迦の誕生を祝い、仏像に甘茶をかけ、健康や子どもの健やかな成長を願う伝統行事である。春の風物詩として地域住民らに愛されている。ホウキモモを見上げる。成就院前の畑に植えられているチューリップで、毎年この時期に咲いている。背丈の低いチューリップである。10分ほどの滞在で成就院を後にした。14:10帰宅時の愛車のリンちゃんのバッテリー残量は5%で走行可能距離は4kmであった。バッテリー残量が少なくなり途中で電源を切っての走行であった。また、歩行数は6,900歩であった。 END
2026.04.03
コメント(0)

妙伝寺の枝垂れ桜を訪れた後、その帰路久しぶりに博物館を訪れた。3月24日(火)12:30茅ヶ崎市博物館所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3786-1当館は令和4年(2022)7月30日(土) 市内堤に『茅ヶ崎市博物館』としてオープンした。以降何度も訪れブログアップしている。エントランスへのステージから北側を望む。博物館の窓ガラスに桜の”プリンス雅”が映り込んでいた。エントランス入口。博物館の南側には駒寄川が流れ上流側(東側)には駐車場がある。受付の右側に「5地形に応じたサマリー展示」、「基本展示室」「企画展示室」があり、基本展示室は定期的に展示品を入れ替えている。エントランスホールに「5地形に応じたサマリー展示」。展示室の左側に「基本展示室」があったが今回はスルーし「企画展示室」へ入ることに。企画展示室の入口に、「知っているようで知らない、えぼし岩の自然 茅ヶ崎市博物館 企画展 えぼし岩調査隊! ~ どんな生きものがすんでいるのか? ~ 観覧無料 2026.1.21(水) ~ 6.28(日) 開館時間 9:00 ~ 17:00(最終入館16:30) 休館日 月曜日(休日の場合は開館、翌平日休) 臨時休館日 2/17、3/17、4/21、5/19、6/16」と。企画展示室の壁面に、ごあいさつえぼし岩の調査岩礁の生きものの大都会岩礁は生きものの大都会茅ヶ崎の沖合に鎮座するえぼし岩、昔、公家や武士、神官がかぶった帽子の一種「烏帽子」に形が似ていることから、「えぼし岩」という呼び名で親しまれています。えぼし岩のほかにも、姥ケ島、尾根島、筆岩など様々な呼び方もされていました。そんなえぼし岩のまわりには、ゴツゴツとした岩でできた「岩礁」の環境が広がっています。岩のすきまや生い茂る海藻には、いろんな生きものが集まります。また、潮が引いたときにだけ現れるタイドプールは、波の影響が少ない穏やかな環境です。「小さな魚の隠れる場所」「えさのある場所」「子どもが育つ場所」など、岩礁は多くの生きものにとってくらしやすいにぎやかな環境になっています。そして、それぞれの生きものが互いに関わりあって、岩礁という世界を作っています。生きものたちが「なにを食べるか」「どう隠れるか」「どうやって身を守るか」など、えぼし岩で生きる工夫を見ながら、えぼし岩での水中のくらしをお楽しみください。数百万年前から見つめてます「烏帽子(えぼし)」は、平安時代~江戸時代の貴族や武士が被った帽子のこと。姥島は、その形に似ていることから「えぼし岩」という名前で親しまれています。えぼし岩の地層はおよそ1,000~800万年に、深海の砂や泥が海流や風によって運ばれ、積み重なってできた地層の一部とされています。茅ヶ崎にヒトがくらしはじめるずっと昔から、静かにこの地に存在し続けています。えぼし岩湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。正式名称は「姥島(うばじま)」で、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。企画展示室ショーケースの中にはパネル、標本が展示されていた。姥島の生きもの姥島の生きものえぼし岩がある姥島群島は複数の岩礁群により成り立っており、海中の岩礁域や、潮の満ち引きに合わせ形成されるタイドプール(潮だまり)など、多様な磯の環境が創出され、多くの生物が生息しています。海中の岩礁域にはウツボやメジナ、イシダイなどの岩場に生息する魚類がみられます。干潮時に現れるタイドプールにはカエルウオやソラスズメダイなどの魚類、ウメボシイソギンチャクやウミウシの仲間、貝類、イソガニやイワガニなどの甲殻類を観察することができます。潮の満ち引きに合わせ水中から水上に環境が変化する潮間帯では、潮間帯に生育するアナアオサやヒジキなどの海藻がみられます。冬季には冬鳥のウミウがねぐらとして利用し、その糞により岩肌が白くなる様子がみられます。地質の成り立ち姥島群島をつくる地層は、約1000~800万年前に堆積した深海の砂や泥からなります。この地層は、海洋プレート(フィリピン海プレート)が大陸プレート(北米プレート)の下に沈み込むかつてのプレート境界で、堆積物が大陸プレート側にこそぎ取られてできた「付加体」と考えられています。えぼし岩に鳥(とり)つかれてカモメ、ウミウなどの標本が展示されていた。えぼし岩に鳥つかれてえぼし岩でみられる生きものは、水中だけにはとどまりません。空を飛ぶ鳥の仲間も、岩礁の環境をうまく使ってくらしています。では、どんな鳥が、なぜえぼし岩に訪れるのでしょうか。えぼし岩は、水中の生きものでにぎわう場所です。鳥たちは、魚やカニなどの食べ物を探しにえぼし岩へ訪れます。また、相模湾にポツンと浮かぶえぼし岩は、天敵となる動物が少なく人も立ち入りにくい、安全な環境であることも、鳥たちにとって魅力です。水中にくらす生きものと同じように、鳥たちにとっても「食べる場所」「休む場所」としてえぼし岩は機能しています。このパートでは、えぼし岩で観察される鳥たちをテーマにしています。水中でのくらしを磨いた魚たちと、空から海を読む鳥たち。同じ岩礁を舞台にしても、見方を変えれば生きもののくらしも大きく変わります。それぞれのくらしを比べながら、生きもの同士のつながりを覗いてみましょう。トビピーヒョロロロ・・・という悠長な鳴き声とは裏腹に、彼らは優れたハンターです。えぼし岩の上空で風に乗りながら、釣り人の皆様の頭上から虎視眈々と獲物を狙っています。 所蔵:日本大学生物資源学部博物館ハシボソガラス茅ヶ崎市の街中でもよく見かける黒色の鳥です。植物の種から動物の死骸まで、いろいろなものを食べます。ちょっと目を離した隙に、調査で捕まえた魚を取られてしまうことも。えぼし岩の高さは、およそ14.615メートル。サカナのカラダのヒ・ミ・ツいろんな魚の標本があり学芸員の方が説明をしておられた。上段:ヒメジ、ミシマオコゼ下段:カナガシラ、ホウボウ、カレイ目の仲間基本展示室基本展示室の一角に、「明治に生まれたおばあさんの話」。かつての懐かしい生活用品も展示されていた。明治に生まれたおばあさんの話 茅ばあさんの一生展示品を見て外へ、昼食時を過ぎていたので受付で確認し、コンビニで購入したおにぎりを食べ休憩。ステージの北側にピンクの桜が映り込み癒しの空間であった。コミュニティバスが通過。バス停そばに駐輪場があり、レンタル自転車もあった。曇り空で富士は見えなかったが、民家の住宅が邪魔しているか。休憩後、博物館の東側にある駐車場へ廻る。その駐車場の一角に3つの展示品が整備されていた。この円柱はかつての「茅ヶ崎市文化資料館」前にあったものである。以前ブログアップした「ヒロ散歩」👈をクリック願います。円柱の前には説明板がなかったのだが。後日、4日後の28日(日)に訪れた時はこの説明板が設置されていた。馬入川の鉄橋に使われていたレンガ積み橋脚 (部分)馬入川の鉄橋に使われていたレンガ積み橋脚 (部分)このレンガ積みブロックは、馬入川鉄橋に使われていたレンガ積みの橋脚の一部です。平成27年(2015)に行われた現在の鉄橋の耐震補強工事で、橋脚の基礎を掘り下げた際に発見されました。イギリス式といわれる、明治時代に伝えられたレンガの積み方を見ることができます。馬入川の鉄橋は、明治5年(1872)に新橋~横浜間にて開通した東海道線が、明治20年(1887)に横浜~国府津間が延伸して開通することにあわせて、長さ約648mの鉄橋として架橋されました。その後、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊しました。なお、当時の鉄橋の一部は、今でも相模川河川敷や流路に遺されています。写真左:開通当初の馬入川鉄橋写真右:関東大震災で倒壊した馬入川鉄橋西行の歌碑「芝まとふ 葛・・・ 砥上ヶ原・・・」と。鶴岡八幡宮の一ノ鳥居(西行の歌碑)鶴岡八幡宮の一ノ鳥居として江戸時代から大正時代まであったものの一部です。大正12年(1923)に発生した関東大震災で鳥居は倒壊してしまいました。その後、国道134号沿いの現・茅ヶ崎公園野球場駐車場にあったバスロータリーに西行の歌碑が彫られ、設置されていました。戦後、国道の道路改修に際し折損し、当館の前身である文化資料館(1971~2022)に移設され門柱となっていました。 芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くなりこの歌から、当時の茅ヶ崎周辺の様子がうかがえます。西行(元永元年・1118~文治6年・1190)は平安時代末期の歌人で、朝廷に仕える武士でしたが、23歳の時、妻子も官位も捨てて出家し真言宗の僧となり、全国を旅しつつ自然と仏道に心を寄せ、多くの歌を残しました。『新古今和歌集』の代表的歌人で、歌集『山家集』があります。写真上:倒壊前の鶴岡八幡宮の一ノ鳥居(大正時代)写真下:国道134号沿いバスロータリー(1960年代)円柱の右から二本目・三本目・四本目には、「昭和三十四年三月鶴嶺八幡宮鳥居の古材にて 建之」、「建設 茅ヶ崎市 企画 郷土研究会」、「西行の歌碑」が刻まれていた。こちらの礎石には説明板があった。上記左側の石の上部に、「第十七号 測点 地理寮」と。下寺尾廃寺(七堂伽藍)の礎石ここに置かれている大きな石は、市内下寺尾に所在した古代寺院(七堂伽藍)跡から出土したものの一部で、当時のお寺の建物の柱を支えた礎石と考えられています。石質は凝灰質閃緑岩と鑑定されており、柱を据える部分を加工したものも見られます。このような礎石の多くは、古くから土地所有者の方が掘り出されていたようで、現在では下寺尾周辺で約三十個が庭石等として保存されていることが確認されています。下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)と呼ばれているこの寺院は今から約千三百年前に創建されたと考えられており、海老名にある国分寺より古い時期に建てられた、相模国における初期寺院として注目されています。七堂伽藍跡からは古墳時代後期および奈良・平安時代の古代土器などに混じって瓦も出土しており、これらの礎石の存在から、このお寺には礎石建ちで瓦葺きのりっぱな建物があったことがわかります。 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎丸ごとふるさと発見博物館 (平成ニ八年三月)コミュニティバス乗り場「浄見寺入口」。駐車場から大岡越前通り戻り博物館周りを一周。コミュニティバス予定時刻表「31 浄見寺入口」。北部循環市立病院線で運行は1時間に1本と少ない。近い将来には前日試乗した自動運転バスが運行するのであろう。浄見寺入口の交差点脇に赤い花が咲いていた。見上げると寒緋桜であったか。ズームアップ。桜の下から茅ヶ崎市博物館を見る。博物館の西側から。遊歩道には「岡崎市から贈られたマンホールふた」。岡崎市(愛知県)のデザインマンホールふた令和5年(2023)、岡崎市が下水道事業着手から100周年の節目を迎えたことを記念し、本市を含む5つの親善都市・ゆかりのまちとデザインマンオールふたを交換しました。交換した蓋は、大岡家の菩提寺である浄見寺がある堤の地に設置しました。蓋のデザインは、世界中に広がる日本独自の「Kawaii」文化の原型を作った岡崎市出身のアーティスト、内藤ルネ氏によるものです。名奉行で知られる大岡越前守忠相の曽祖父が、徳川家康から堤村(市内堤)を与えられ、大岡家本家は代々地頭でした。また、忠相は晩年、西大平藩(岡崎市)の藩主となりました。この縁により、昭和58年(1983)7月から両市はゆかりのまちを提携しています。なお、本市の蓋は、愛知県岡崎市西大平町にある大岡越前守陣屋跡に設置されています。 令和5年12月 茅ヶ崎市岡崎市から贈られたマンホール蓋以下3枚の写真は岡崎市在住の旅友から、茅ヶ崎からのふたは「愛知県岡崎市西大平町にある大岡越前守陣屋跡」に設置された。因みに、この地は東海道53次を歩いた令和元年(2019)10月15日(火)に訪れている。この時のブログは「御油宿~岡崎宿」👈をクリック願います。岡崎市に設置されている説明板、大岡越前守忠相西大平藩陣屋西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋がおかれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宜が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした左の地図は「三河国額田郡大平村地図」(安藤平久氏所有)博物館入口への遊歩道。駒寄川も整備され、これからはこのエリアに桜等の植栽か。市民への桜植栽の寄付金もよいのでは、一本1,000~2,000円/名なら多くの人が参加するのでは。博物館の後方にはメタセコイアが聳える。13:25駒寄川に架かる橋から博物館を見る。案内板には「旧和田家住宅・旧三橋家住宅」と。浄見寺の案内がなかった。 ー 続く ー
2026.04.02
コメント(0)

今日から令和8年(2026)の新年度になり、桜前線も東北地方へ。この日は、市立病院のリハビリセンターで「妙伝寺の枝垂れ桜が奇麗」と聞き急遽訪れた。3月24日(火)11:45日蓮宗歓照山 妙伝寺(みょうでんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤1032山門の両脇にそびえるイチョウの木。奥に目的の枝垂れ桜が聳えていた。山門の手前右手に立つ、天保九年(1838)銘の萬霊塔。側面に「歓照山 妙傳寺」。 階段を上り山門へ。山門の扁額「妙傳寺」。山門を入ると正面に西向きの本堂。右手に手水舎、左手に鐘楼が建っている。本堂には相州小出七福神巡りの”毘沙門天”が祀られている。右手上の墓地の一角に目的の枝垂れ桜が聳えていた。本 堂文禄元年(1592年)に、日安上人を開山として草創されたといわれている。本堂前に「日蓮聖人像」が立っている。本堂の扁額「歓照山」。本堂前から墓地への入口。墓地入口に建つ句碑には「長閑さや 群盲の象を 評しける」と刻まれている。昭和31年(1956)に建立された村井湖月庵の句碑である。本堂裏の駐車場へ。目的の枝垂れ桜を東側から見る。南側へ回り込む。由緒等がなく詳細は不明であるが樹齢は?。満開の枝垂れ桜をズームアップ。花弁数の多い桜は兼六園菊桜で300~350枚あると。知り合いの墓地へ回り込み。手前にはイチョウの木があり奇麗に剪定されていた。枝垂れ桜をズームアップ。丸く刈られた木は?。檀家さんが多いお寺はどこも樹々が奇麗に管理されている。お彼岸でどこの墓地にも綺麗な花が供えられていた。墓地には枯れたススキも。西側から見上げる。ズームアップ。新しいお堂の「慈照殿」。堂の扁額「慈照殿」。2つの堂が並んでいる。お題目塔に「南無妙法蓮華経」と。水子地蔵堂手前の標柱には「妙法水子地蔵菩薩」と。堂内には「水子地蔵菩薩像」が立ち、台座に「普明照世間」と。枝垂れ桜を振り返る。山門から本堂を振り返る。12:05大岡越前通り側に聳える古木は楷(かい)の木。楷(かい)の木は「学問の木」として有名であると。妙伝寺から大岡越前通りを西へ走り、久しぶりに茅ヶ崎市博物館へ向かった。この時期この通りを走るとピンクの桜が咲いているが品種が分からずいつも「?」と。民家の表札には桜系の「吉野」と。道路脇に自転車を止め民家の桜を撮影。ちょうど住民の方がおられ尋ねると「雅(みやび)(プリンセス雅)」だと。ネットから埼玉県鳩ヶ谷市・埼玉植物園から当初、プリンセス雅として売り出された品種。埼玉県内の苗木生産者がヤマザクラとして栽培している中から発見・選抜したといわれ、カンヒザクラと他種(染井吉野?)との雑種と推定されると。まだ若木であったが雅子様ご成婚を記念して新種のサクラに「プリンセス雅」と名付けら、現在は「雅桜」と呼ばれている。雅の枝先をズームアップ。道路沿いにも同じような色の桜が咲いていたが「ヨウコウ(陽光桜)と横浜緋桜」だと。咲き初めの横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)。赤い蕾の寒緋桜系の横浜緋桜。こちらも寒緋桜系のヨウコウ(陽光桜)。大岡越前通りをさらに西へ走ると、茅ヶ崎市博物館前のバス停へ。若木の桜が満開であった。先程の住民の方が自分が植えたという「プリンセス雅」。満開の雅桜であった。ズームアップ。走って来た大岡越前通りを振り返る。12:30市立博物館前にある、コミュニティバス乗り場「浄見寺入口」。 ー 続く ー
2026.04.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1