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10月31日の日記だが、書いている今は、すでに明けて11月1日である。年賀状が本日から発売されるとのこと。常の感慨ながら、まったく、時の過ぎ去る早さよ。みなさんはいつ頃から、つまり何歳頃から、過ぎる年を惻々と思われたか。私は30歳を境だったように覚えている。そのころから、追い立てられるように実感し、なんとない悲しみが胸の奥にたまるようになった。しかしまた一方で、世の中がおもしろく感じるようになったのもその頃からだ。おもしろく感じるからこそ、それのたっぷり詰まった時間を惜しむようになったのかもしれない。 私はかくべつ長生き志向ではない。が、サヴァイヴァル志向はおおいにあって、ギリギリのところで踏み止まってやるという意識が強い。したがって子供達が、...追い詰められた挙句ではあったろうが、・・・自ら命を断ってしまう事件は歯噛みするほど口惜しい。また親や保護者が、生まれて間もない、いや、生んで間もない子に数カ月も食事を与えずに餓死させるという、この非道。どのような顔をして死にゆく幼子をながめていたのであろう。その地獄絵図に慄然とする。これは特殊な事件なのであろう。日本の1億2千万人のなかで起った特異例なのであろう。だが、ほんとうに特異例なのだろうか? なにかとんでもないところで人間精神の野蛮性がはびこっているのではあるまいか。無感覚性がはびこり、社会性を蝕んでいるのではあるまいか。私はこのような事件が、表層的なこととは思えないのである。個人個人の人間形成の問題というより、もっと深刻なところで進んでいる反人間性の問題であるように思えてならない。しかし、それを提言し、解きほごすには私の手元に資料となる証拠があつまっていない。ただ、そのような仮定のもとに事態を見直してゆくことは必要かもしれない。 私は「新アダムとイヴの誕生」をシリーズで制作している。このテーマは、あらかじめ傷付けられ痛めつけられて生まれて来る人間、ということである。私のこころに、無惨な子供たちの虚空にむかって叫ぶ声なき声が聞こえ、それらの顔々が闇のなかに青白く浮んでいるのである。私はその弱々しい生命に、私の強い生命力を与えることができたらと、願わずにはいられないのだ。
Oct 31, 2006
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50号(117×91cm)の新作の下絵をキャンヴァスにトレース。非常に込み入った絵柄なので、トレースに3日ほどかかりそうだ。11月いっぱいでこれを完成させようと思う。 会津若松の清水先生から葉書あり。先生が顧問となっている「童劇プーポ」が、来年、創立50周年を迎える。その記念誌の表紙絵とデザインを引き受けることを、昨年40年ぶりに先生に会いに行ったときにお約束した。葉書はその件の確認である。 私はかつてこの劇団に所属し、舞台に立っていた。初舞台が、ちょうど10周年記念として上演された木下順二作『おんにょろ盛衰記』。考えてみれば、私はその出演を第一歩として、その後、しだいに芸術へ、そして絵画への道を模索してきたことになる。 葉書を受け取ってすぐに、劇団の現在の会長である関氏に電話をした。関氏は中学・高校の後輩である。高校時代は、一人暮らしの私のアパートに友人をひきつれてしばしば遊びに来てくれていた。私が会津を去るとき、彼は、「山田さんの演出で、演(や)ってみたかった」と言ったものだ。昨年は深夜の街を彼の案内で飲みまわった。「山田さんは、ちっとも変んねーなー」といっていたが、なんのなんの、高校3年生の私ではない。60歳の年寄りである。 関氏は電話の向こうで朗らかに笑いながら、私の述べる清水先生の葉書の内容を確認した。 さて、どんな絵を描いてさしあげようか。楽しみながら考えることにしよう。 船に乗れば陸情けあり暮れの秋 高浜虚子
Oct 30, 2006
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故淀川長治氏の著書に、かつて朝日新聞に連載され、のちに『映画のおしゃべり箱』(中央公論社刊)として上梓された一冊がある。400字詰め原稿用紙2枚の短いエッセイ122篇を収録している。タイトルどおりの気楽なおしゃべりだ。 とはいえ、そこは淀川氏の映画話、どの一篇をとっても「ヘーッ!」と思わざるものはない。また、淀川氏の目の鋭さに、私などはどれほど多くのことを学んだか。たとえば『カサノバの顔つくり』と題して、フェリーニ監督『カサノバ』のドナルド・サザーランドのメイキャップについて、「あたかも陶器人形のごとき顔のつくり、そしてこの映画に登場するどの俳優もが十八世紀の顔をしている」と指摘している。あるいは、『生活のにおい』では、ヴィスコンティ監督の『山猫』について、こう述べる。「とにかくこの『山猫』の大広間の大舞踏会はけんらん豪華、もはやこれだけの豪華シーンは二度と生まれないと思うばかり。ところがこの映画はそれだけでは終わらず、大舞踏会を見せながらカメラは場面一転、別の人影もないひっそりした部屋をのぞき、静かに移動する。すると部屋のすみの奥の方に何十個とも思える陶器の土色をした壷があった。(略)これらの壷は、ひょっとすると紳士淑女のこりゃ便器ではあるまいか」と。 表現のすべてを映像に託す映画は、すべてのカットが生きているのだということを、淀川長治氏ほど楽しみながら語った人はいないような気がする。そしてまた、この方の目は、画面全体を一様に眺め、記憶したようだ。そういう視覚に、私はいささかならず親近感を覚えてきた。 さて、きょうのブログに、私は、『淀川長治氏への遅すぎた質問状』とタイトルした。新聞連載時における初見で、「おやッ?」と思ったことがあった。単行本にするときに加筆されるかとおもったが、『映画のおしゃべり箱』では初出のまま、後に文庫化されたときも元のままだった。それで私はいよいよ文中の一事が疑問となって記憶することになった。 事は淀川長治氏のもっとも早い映画的記憶に関わっている。そのことについては、上記の著作のみならず、ご自身の思い出を語った他の著作においても述べられている。大正8年、淀川氏が10歳のときに見たオムニバス映画『ウーマン』についてである。『映画のおしゃべり箱』のなかでは『女のこわさ』という題で語られていた。「そもそも女はこわいと教えこまれたのは大正八年封切り『ウーマン』だった。女、女、女、女、女と数編にわかれているこのオムニバス映画は、『アダムとイヴ』でイヴがアダムを悪に誘い、『南北戦争』では、若い娘が、逃亡の若き兵隊をかくまってやったのに、追ってきた敵兵将校が懐中時計を目の前にぶらつかせたがため、その誘惑の時計に負け、若き兵のかくれ場所を教えてしまい、その兵は射殺される。 『あざらし』は、月夜の海岸に数百頭のアザラシがはい上がり、美女に変じて踊り狂う。岩かげからこれを見た若き漁夫が、思わずその一頭が砂上に脱いだ皮をかくした。夜明け前、美女たちは再び脱ぎすてた皮をまといアザラシに戻って海へ去る。ひとりの女がわが身の皮をさがす。そこへ、くだんの若者があらわれ、巧みに慰め、わが家に連れかえる。かくて五年。その女は彼の妻となり、二人の子をもうけたが、ある日ふと見つけたわが身の忘れえぬ皮。妻は置き手紙を残し、夫と二人の子を捨て、夫がわが家に帰る前、海へと去ってゆく。 かわいそうだが、これみんな女が悪いと思った。十歳の私は、このあと母なる人の顔をじーっと見つめ、罪なる者、そは女なりきと思ったものだ。」 原稿用紙2枚の文章のその半分以上を引用してしまった。というのも、淀川氏のアイデンティティを決定したような口ぶりのこの一節だが、『南北戦争』にはじつは原作小説がある。そのことを淀川氏が御存知ないとはとうてい思えないのだ。原作は、メリメの有名な傑作短篇、『マテオファルコーネ』である。ただしそこに書かれているのは、女ではない。男(少年)である。タイトルになっているマテオファルコーネは、男の子の父親の名前。なぜ父親の名前がタイトルにされているかというと、信義に悖(もと)る裏切りをした息子を、父は射殺するからである。舞台は南北戦争のアメリカではない。イタリアはシチリーである。それ以外は、淀川氏が説明する映画のとおり。 映画の脚本家もずいぶん罪な改変をしたものだ。少年を娘に変えたばかりに、いたいけな10歳の淀川少年に「女はこわい」という観念を植え付けてしまったなんて。しかも原作では、少年だからこそ将校のさしだす時計の誘惑が生きていた。娘に時計では、少なくとも私はピンとこないのだが、如何であろう。シチリアンの信義を重んじるという原作の主題は完全に閑却され、それだからこそだろう、女の心根の卑しさが言挙げされることになった。この脚本家、女性に対してずいぶん意地が悪い。 淀川氏は、『カルメン』の原作者メリメについて、良く御存知のはずである。私が疑問に思うのはそこだ。『マテオファルコーネ』を知らないとおっしゃるのだろうか。そんなことはあるまい。忖度すれば、10歳のときに植え付けられた観念を思い出として「美しく」維持しようとすれば、後年知った原作のことなど書かないほうがよいのである。そんなことは、どうせ映画そのものとは関わり無い、付け足しの知識だからである。 それにしても、このことだけは真相をお聞きしたかった。こっそり耳打ちでよいから。 さて、原作について述べたので、同じく『あざらし』についても述べておこう。この原作を淀川氏は御存知だったかどうか。 ヘルマン・ヘッセをして「ドイツにおける最良の童話作家」と言わしめたリーザ・テーツナー、その人があつめた各国の民話のなかから、アイスランドに伝わる『アザラシ』という一篇、これが原作である。日本の『狐葛の葉』のような異種異類婚と『天の羽衣』とをあわせたような物語は、淀川氏の説明している映画のとおり、おそらくまったく改変していない。 上記『南北戦争』の脚本を罪な改変と私は言ったが、『あざらし』については、これまた映画脚本家のお手並みに驚かされる。原作は、なんと、たった320語。あんまり短いので、私、酔狂にもついつい字数を数えてしまったほどだ。こんな短い物語から、みごとに映画をつくりだしてしまったのだから、その想像力というか創造力というか、映画ファンとしては自分の手柄のように嬉しくなってしまう。たとえ淀川氏には御気の毒な結果を残したにせよ・・・ ついでだから、その原作を原文のまま掲載しておく。Das Seehundsfell(アザラシ)Lisa Tetzner Ein Mann aus Myrdal ging einmal eines Morgens in der Fruhe an einem Felsen vorbei und kam zu einer Hohle horte er tanzen und larmen:draussen aber lag eine Menge Seehundsfelle. Er hob eines davon auf und nahm es mit nach Hause. Hier verschloss er es in seiner Truehe. Als er am Abend wieder zu der Hohle kam, sah er ein wunderschoes, nacktes Madchen dort sitzen. Es weinte bitterlich. Das war der Seehund, dessen Fell der Mann in seiner Truhe eingeschlossen hatte. Er trostete das Madchen, gab ihm Kleider und nahm es mit sich in sein Haus. Da sie einander sehr lieb gewannen, nahm er sie zur Frau. Sie lebten gut miteinander und hatten viele Kinder. Aber manche Stunde sass sie am Ufer und schaute uber die See hinaus. Den Schlussel der Truhe trug der Mann immer bei sich. Einmal aber, nach vielen Jahren, ruderte er hinaus, um Fische zu fangen. Da vergass er den Schlussel zu hause unter seinem Kopfkissen. Als er am Abend heimkam, war die Truhe offen, und die Frau war mit dem Fell verschwunden. Sie hatte den Schlussel gefunden, aus Neugier die Truhe geoffnet, darin herumgestobert und dabei ihr Seehundsfell gefunden. Da hielt sie es nicht langer aus, sagte ihren Kindern Lebewohl, fuhr in das Fell und verschwand in der See. Bevor die Frau in die See sprang, sagte sie: 《Mir ist so froh und ist so weh, hab sieben Kinder in der See, und sieben auf dem Lande.》 Der Bauer war sehr trauring daruber. Wenn er zum Angeln hinausruderte, dann schwamm ein Seehund oft um sein Boot herum, und es war, als liefen dicke Tranen aus seinen Augen. Seit dieser Zeit hatte er immer Gluck beim Fischfang und in allen Dingen. Wenn die Kinder an den Strand singen, begleitete sie der Seehund und warf ohnen bunte Fische und hubsche Muscheln hinauf. Aber die Mutter niemal wieder zu ihnen.
Oct 29, 2006
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私は中学生時代をふくめて、多くの分野にわたって才能豊かな人々にお目にかかってきた。そのうちの幾人かについてはすでにこのブログでお話しした。その方々はいわば著名人である。しかし、人生における出会いというのはむしろ著名であるよりはごく普通の方々のほうが断然多いわけである。とはいえ、そういう方々が長く忘れることができない印象を残すかといえば、これはまた話がちがってくる。 私は奇妙なことを記憶の頭陀袋にいれている人間で、会ったとは決して言えない、ただ誰ともしらぬ人をすれ違うように街頭で見かけただけなのに、40年も50年も忘れずにいることもある。まざまざとその影像が蘇ってくるのだから我ながら不思議だ。なんでそんなことを記憶しているのだろうと。 ところでこれから書こうとしていることは、そういうたまたまの出会いのひとつである。この人がどんな人物であるかは読んでいただくことにして、それは昭和38年の夏、私が高校3年のときだったが、この出会いについては当時の日記にそっくり記録しておいた。ブログを書くにあたってその日記を昔の資料箱のなかに探したところ、うまい具合に探し当てることができた。一応目を通してみると、誤字を訂正する以外は、まったく書き直さない方がよさそうに思った。それで昔の日記をそっくり書き写して、その人物を紹介することにした。ただし長文なので、ページをわけなければならない。興味をもたれたお客様は、そのまま下へスクロールしてください。---------------------------------------- 私がその男に出会ったのは昭和38年、高校3年の夏休みだった。会津若松に居た私は、札幌の両親のもとへ行くために飛行機を使うことにした。列車は、特急も普通急行も、すべて満席だったからである。そのような手段で帰郷するのは初めてのことだったが、仙台からでは時間的に都合が悪く、私は会津若松から一旦、東京に出なければならなかった。 会津若松駅を出発した上野行き急行列車はたいへん空いていた。尤もそれは1等座席指定で、同じ列車の他の客室は大変な混雑だった。 列車が猪苗代に停車すると、乗客は一層立て込んだ。みな夏の休暇を利用して猪苗代湖畔や磐梯山を巡る観光旅行客や避暑滞在客だった。 私の隣の座席にも青年がやってきた。一度は2等車に乗ったけれど、あまりの混雑に、チケットを切換えたらしい。 青年は赤い腕章の客室乗務員としばらく小声で話していた。女の連れがあり、その人は左足を怪我していた。見るからに痛々しく、雑踏のなかで立ちつづけるのは困難であろうことは、誰の目にもあきらかだった。 新たなチケットを受け取って、青年は私の隣に坐った。女は通路を挟んで青年の隣である。 青年は、「大丈夫か?」というようことを尋ね、女は黙って頷いた。二人はしばらく話していたが、やがて青年は向き直り煙草を喫った。 そして、それも喫いおわる頃になって、青年は私に話しかけてきた。そのとき、私は、初めてまともに彼の顔を見たのである。 彼は深く座席に埋まって、こころもち頭をうしろに引いていた。どこといって特徴のある容貌ではないが、鼻筋の通った整った顔であった。「どちらまで?」 と、彼は言った。私にとっては殆ど不意の問いかけだった。「東京です」「旅行していたんですか?」「いえ」 私は笑った。「学校が夏休みに入ったので、それで家に帰るんです」「どちら? 学校は、東京じゃないのかな?」「ええ、会津若松の高校です」 青年は不審の表情をした。それも当然であったが、私は自分のことを話すのが好きではなかったし、面倒くさかった。尋ねられると話さないでもないが、見知らぬこの青年に話しかけられたことは少しばかり迷惑だった。しかし、結局、かいつまんだ事情を話さないわけにもゆかないなと、私は内心に思った。「両親は札幌にいるんですけど・・・・」「札幌?」「ええ」「じゃあ、おたくは独りで・・・・下宿?」「アパートで自炊です」「それは大変。ぼくも東京でアパートを借りているんだけど。・・・・失礼だけど、どのくらいですか、1ヵ月」「ぼくの居るのは、6畳・3畳に炊事場とトイレ付きで、3千円ですね」「3千円?」 青年は驚いたふうに言った。あまり安かったので驚いたのであろう。たしかに滅多にない、めぐまれた安さだった。3畳の部屋は間取りの関係で窓がなく利用しにくいが、私ひとりの住居としては充分すぎた。住宅事情が悪いこんにち(昭和38年当時)、誰でもとびつきたくなることだったと思う。「本当・・・・」 彼は、ホーントというような大袈裟な抑揚で言った。けれども、けっして大袈裟ではなかったのだろう。「安いなァ。ぼくも会津に住もうかしら」 と、冗談めかして、それから隣の連れの女に、「ねえっ」と相槌を求めた。「ぼくは、1ヵ月、10万はかかるな」 私は、それは少し掛り過ぎるな、と思った。しかし基準が分らないので、「そうですか」と応えた。 青年は25,6歳、おそらく27にはなっていない。それで1ヵ月10万円の家賃の生活をしているのであるから、いったい何者だろうか、と私は思った。自分のことを話すのと引き換えに、彼について知りたい気持になっていた。「学校は面白い?」 彼は話を転じて聞いた。「ええ、少なくとも家にとじこもっているよりは」「ぼくなんか、経験なくて分らないけどさ。やっぱり楽しいでしょうね」 私は頷いてみせた。「だけど本当に大変だな、夏休みなんかじゃないと帰れないでしょ、遠いから」「でも、それも、旅行がわりと思えば・・・・」「そうだね。・・・・札幌かァ」 と、また女を突いて、「これから札幌に行こうか。足が駄目だろうなァ。だけどさ、行きたいね」 女は無言で頷いた。怪我のため億劫なのだろう、あまり喋りたがらない様子である。 青年は退屈して、また私に話しかける。「東京に行くのは?」「飛行機にしようと思っています」「飛行機か。何時間くらいですかね、あれは、2時間ぐらいかな?」「そうですね。ジェット機は1時間でしょうか」「ますます行きたいな。料金は?」「ええ、1万2千円」「おい、行こうか」 彼はまた女に声をかけた。が、応えを待たずに、すぐ向き直って、「おたく、ホテルを経営していない?」 唐突な問いだった。「いいえ」「そう。知っているところでもあったら、紹介してほしいと思ったんだけどさ。まァ、いまはもう金もほとんど無いからな。ぼくらネ、東北一周してきたんですよ。わりにいいですね」「猪苗代ですか? きのうは」「三日いた。こいつが足怪我しちゃってね」 と、彼は女の足を指差した。「ガラスで・・・・。着いた日は檜原湖で、・・・・あれは見てられなかったな。泳いでいて、やっぱりガラスでやったんだろうな。瓶か何か、そんなものだろうけれども、そいつで、男が怪我して運ばれて来たけど、本当、すごかった。骨が見えてるんだものな。それが、あすこは医者がいないんですね。どうしようもない。手のつけようもない。可哀想だった。・・・・そしたら、次の日、こいつが今度やっちゃってさ。たいしたことなかったけど」 女は微笑した。白い繃帯が踝のうえまで包んでいた。「歩けないって言うんだから困っちゃった」「だって・・・・」 と、彼女は、はじめて私にも聞き取れる声で言った。「痛いのよォッ」 青年は彼女の足を眺めてから、「夕べなんか退屈しちゃって、ダンスに行こうと言っても行けないし。なっ? ほっぽり出しちゃってさ。ぼく一人で踊りに行っちゃって」「でも、まだ私はよかったわ。あの人、血の気もなくなっちゃって、可哀想っていうより他に言えないものね」「医者がいないってのは困りますね。特に、ああいう山の観光地には、せめて診療所のようなものでもあるといいですね」 と、私は言った。「前日に怪我したのを見ているから、それもひどい怪我だったんで、こいつがやったときは胆冷やした」「それで、私をおいてダンスに行ったの、さっさと行っちゃって」「ハハハ」 青年は笑って、「それとは別」「なにがよ」 女は睨むまねをした。 私はその時になって、ようやく、この二人が夫婦であるのかどうかを思った。というのは、いままで私は彼等を夫婦なのだと見ていたのだが、夫婦にしては二人の間になにか乱暴な雰囲気があった。それは25,6という青年の年齢のせいとも思えなかった。確かに若いためもあろうが、「乱暴」という思いが執拗に私の胸にのぼってきた。一方で、彼等よりずっと若い自分のそんな観察が、生意気で、滑稽に思えた。(つづく:このまま下へスクロールしてください)
Oct 28, 2006
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「東北はどこがよかったですか」「そうね。陸中海岸はよかったな」「陸中海岸というと釜石とか宮古のあたりですね」「ウミネコがいてね。・・・・飛行機から見ると、きっと海岸線が綺麗だろうなァ。豪壮な、という感じですよ」「猪苗代に三日滞在して、東北を一周というと、1ヵ月ぐらいですか?」「いや、2週間、ぼくたちは」「いいなあ」 と、私は自分にいうように言った。「でもさ、金がもうなくなっちゃった。なッ?」 彼は女に言った。「北海道に行こうだなんて」 彼女は笑いながら、「もう、ないのよ」「まァ、いいさ」 そして、話はとぎれた。 青年は座席に頭を押しつけ、目をつぶった。 私は窓に映る疎林をながめやった。ディーゼルの振動音が急に身体中につたわってきた。「おいっ、マッチあるか?」 私は自分に呼びかけられたと思い、振り返った。しかし青年は気づかない様子で、空のマッチ箱を掌でもてあそんでいた。女は黒革の薄型のハンドバッグを探った。「ないのか?」「うん、ちょっと待って、あるわよ」 男は靴で床をタンタンと叩いた。「あったわ」 女は、その一本を擦って火をさしだした。男は目を細めて、銜えた煙草に火を受けた。女は赤い小さなマッチ箱を男に手渡した。男は天井に向けて煙を吐いた。それは輪になって窓から射し込む陽のなかに物憂気にゆるゆると消えた。 青年が目を細めると、眉間に深い皺がひとつ現われる。整った顔だちに似合わないような、黒い、深い皺だった。 彼は天井に目を向けたまま、唐突に私に言った。それは意外なことばだったので、私は、一瞬、彼が何を言ったのかと疑い、戸惑った。「会津若松には不良がいる?」 と、彼は聞いたのである。「え?」「おたくなんか、関係ないか。・・・・会津若松には不良がいる?」「不良?」「知らない? そんなこと」「・・・・さあ、ぼくは・・・・」「学校なんかにさ」「さあ・・・・」 私はしらずしらずのうちに警戒していた。平静を装って、「さあ」と言ったけれども、彼がいったい何を考え、私から何を聞き出そうとしているのかを内心に質していた。私はこの青年と隣り合ったことを悔んだ。少なくともこの指定席車輌は、空席が目立っているのだったから。しかしまた、私のこころの奥に、ある熱意が生まれているのを自覚した。私は青年を注視した。 彼は一度二度、煙草の灰を落した。私はその手元を見つめていた。深く黒い皺が眉間に走るのを見つめていた。「そんなことはどうでもいいさなッ」 青年はひとりごちた。私に言ったのではなかった。 そして彼は話題を変えた。「大学は、どういう方面に進むのですか?」「法律を・・・・」「へえ、法律か」 彼は笑うように、「じゃ、不良なんて関係ないやな」 私は曖昧に微笑した。「弁護士か、検事なんだな」 それに私は応えない。具体的目的がなかったのだ。いや、法律を学ぶことと司法家になることとを截然と分けたい気持だった。分けて、何故法律を学ぶのか、と問われても答えられなかっただろう。私は芸術を夢想していた。芸術だけが他を圧倒して眼前に迫っていた。しかしそれはまた単なる夢想であり、憧憬に過ぎなかった。夢想であったことが、とりあえず法律を学ぶということを認めた。私は狡猾にふるまおうとしていたのである。「弁護士は、学校を卒業して、試験に受かっても、すぐにはなれないでしょう? つまり、何と言うのかな、医者で言うとさ、インターンみたいに誰かに付いて、ある程度年季がね」「そうですね、・・・・よく知らないんですが、ぼくは」「権威ある弁護士のもとで研究して。そりゃそうだろうな、じゃないと、ぼくだって信用しないもの。安心していられないだろう?」「ええ」「なるんなら、弁護士のほうがいいですよ。検事よりはね」「検事はいけませんか」「どうもね、検事ってのはね」 彼は、「ハハハ」と笑った。 隣席の女は、うつらうつらしていたのか、笑い声に驚いて青年を上目に見た。が、すぐに視線を窓外にやった。なんの変哲もない風景が、だらだらとつづいている。「いろいろ世話になった」 青年は言った。「は?」 私は聞き返した。 女がこっちを向いた。 わずかな沈黙があった。 私は不思議な感覚に落込んでゆくのが分かった。暑さのせいだったかも知れない。なんだか自分の周囲が白々としていた。ぎらぎら輝く白い日溜まりのなかに、一人ぼんやり立ち尽くしているようだった。それでいて私は、列車の内部を、白いカバーを掛けた座席の列を、青年を、女を、じっと見つめていたのだ。見ているだけで、私は青年の気持も、言っている意味も汲み取ることができないでいた。それは焦燥感だったのだろうか。いやそうではない。私たちは互の気持に関連のない話をしているのである。 女は退屈そうだった。その様子は、私のぼんやり加減とはまったく異なったぼんやり加減なのであった。彼女は青年の口許を見ていた。青年の次のことばを待っているかのように。「人間は真面目にやらないと駄目だな」 彼はぶっきらぼうに言った。 私は遠い目で、女といっしょになって彼の口許を見た。すると青年の口は、まるで油を注がれた機械のように、あるいは弛まぬ収縮運動をつづける人工心臓のように動きはじめたのである。「ぼくはね、故郷(くに)は群馬の前橋なんです。親父は質屋をやっていて、かなり店は大きい。親父はぼくに継がせようと考えていたらしい。だけどさ、ぼくは中学をおわると家を出ちゃった。中学だって満足におわったんじゃない。ぼくは憧れていたんですよ、ヤクザの世界に。矛盾ってものがないと考えていたんです。少なくとも一般の社会にはない、ビシッとした締まりがあって、不平等がね、ないだろうと。で、家を出た。親父から勘当喰らっちゃった。ところが、ヤクザの社会なんて矛盾だらけですよ。それは、初めのうちは何にも思わなかったけどさ。いま、つくづく矛盾だらけだと思うな。しかし気がついたからって、ぼくとしては、もう親父のところには帰れない。親父はさ、息子がどんな人間になったって、口でぶつぶつ言っても、喜んで迎えてくれると思うけどさ。そういうものらしいよ、ぼくは知らないが。そういうものだろうな。だがね、ぼくは帰れないよ。素直に帰りゃいいんだろうけど、帰れないんだ。初めて帰りたいと思った時に、帰りゃよかったんだ。 ・・・・ぼくは、他人様を殺(あや)めてしまった。5年間、ブチ込まれていた。ぼくは今年25になるけど、5年間入っていて、この5月に出て来たばかりです。まだ3ヵ月にもならない。そのうち、周りはすっかり変っちゃっていたしさ。ぼくの5年間は、考えると人間の一番大切でさ、必要な5年間じゃないか。そうだろう? もう、どうしようもないよ。ぼくみたいになった奴は、出て来たところで社会が受け入れてくれない。それが分かっちゃうとさ、就職口だってないからな。ぼくがやったことは、5年間のうちに許されて、そういうことになっているが、白い目で見られる。前科者、前科者だろう。それは仕方ないさ。殺(や)ったという事実が消えるわけでもないが、出て来たところで居場所がない。食わなきゃならないものな、また元に戻っちゃうしかない。ヤクザが嫌だといって、ヤクザに戻らないわけにはいかないんだな。ぼくは近頃、そういうことを考える。だが、滑稽だろう? ぼくが考えることじゃないからな。ぼくが考えたって仕方ないよな。第一、ぼくの話なんか聞いてくれる人ないよ。 おたくが今こうして、ぼくの話に耳を傾けていてくれるが、もしかしたらぼくを胡散臭く思い、ムショ帰りだと分りャ、何をされるか分らん、つまらん話を聞かされると、軽蔑しているかも知れない。 失礼なことを言いましたね。だけど、そういう他人の気持は、たいてい見当がつく。いや、あてずっぽう言ったって、そう言えば、当っているんですよ。 ぼくは5年間に、ぼくなりにいろいろ考えた。5月に出て来て、3ヵ月ばかりの間にまた考えた。ぼくは今、ただ無闇に喋りたいだけかも知れない。誰も話を聞いてくれないし、ヤクザの社会でそんな話しないよ。大学ノートに書いてあるんです。もう数冊になった。喋りたいことはみんな書いちゃう。読む人はいないかも知れないが、それでも止められなくなっちゃったな。 おたくは文学や音楽や美術が好きですか? ・・・・好きですか。ぼくも好きです。永井荷風がいい。あの雰囲気が忘れられなくなりますね。いま、荷風の全集が出版されてますね。あれを買うことにした。それから、名前を覚えていないが、『重き流れの中に』。え? 椎名麟三ですか? 『重き流れの中に』・・・・おたくはお読みになった?・・・・是非お読みになったらいいですよ。ぼくは感動したなあ。荷風とその1册。 しかし時々、そういうものを読まなければよかった、と思いますね。何も知らないで、無茶苦茶やっていたほうが、ぼくの気持と折り合いがついたかも知れない。文学のなかに浸り切っている時は楽しいよ、それはね。が、それだけなんだ。つまり、そこから現実の生活のなかに何ものかを引出してくることはできない。だって、ぼくの立場では通用しないですからね。ぼくの内部で、ぼく自身がふたつの方向に分離して行く。こういう言い方は嫌だなあ。こんなことは、ぼくだけの問題で、しかも問題にしなければならないぼくは、どうでもいい存在だからな。他人様を殺(あや)めてしまったあの日から、ぼくは、あらゆる人、あらゆる事柄と無関係な人間になってしまった。だって、そうでしょう? ぼくに、発展なんてないのだから・・・・」 青年と女は、小山で列車を降りていった。 これから何処へ行こうとしているのか。 私は車窓の向うに去って行くふたりの姿を見やった。
Oct 28, 2006
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昨日の午後は、お客様をお迎えしての会食だった。楽しく有益な時間。私のために御越しくださったA氏に御礼申しあげた。 そんなわけでブログは休筆したが、きょうは終日、新作の下絵つくりをして過した。気長な、体力勝負の作品になりそうだ。 閑話休題。 25日付け朝日新聞の天声人語は、次のような一節で始まっていた。 〈「維民所止」は「維(こ)れ民(たみ)の止(とど)まる所(ところ)」と読む。紀元前に編まれた中国最古の詩集『詩経』の一節だ。はるかに下った清の時代、科挙の予備試験にこの題を出した査嗣庭(さしてい)という人が、罪に問われた〉 私の名前の一字(維)が目に入って来たので、じっくり読むことになった。この文字を目にする機会は、おそらく「明治維新」というのが一番多いのではあるまいか。ほかには、日本史に親しんでいる方なら、平安末期の三人の武将を思い出すかもしれない。すなわち、その優れた勇気ゆえに平致頼・源頼信・藤原保昌とともに四天王と称された平維衡(たいらのこれひら)、陸奥の豪族藤原師種を打ち余五将軍と称された平維茂(たいらのこれもち)、清盛の孫でその姿が美しかったので桜梅少将と呼ばれた平維盛(たいらのこれもり)である。 さて、査嗣庭(さしてい)の蒙った罪とは何だったのか? 天声人語は、陳舜臣『中国の歴史』(平凡社刊)を引用して、こうつづける。 〈当時の皇帝は雍正(ようせい)帝だった。「維」の字は「雍」の字の首をはね、「止」は「正」の首をはねたとされた。〉 査嗣庭は一族もろともに投獄され、獄死する。天声人語子は、筆禍の一例としてこれを述べていた。 私の名前は始めから首を刎ねた状態というわけだ。 私が生まれたのは昭和20年の5月。3ヵ月後には終戦を迎えることになる。私が生まれたとき、祖父は、「宇久須(うぐす)」と命名しようとしたそうだ。まるで万葉時代人のような名前だが、なんのことはない、その当時、一家が伊豆の宇久須に住んでいたからである。いまになれば私はその名でも良かったと思わないでもない。しかし父も母もあきれてしまった。そこで父は、まもなく日本が敗戦を迎えることになることを予測し、歴史が維(ただ)されることを願って「維史」と名付けた。 ちなみに、この「維新」に通じる名前だが、「維新」という言葉も『詩経』に出典をもとめることができる。 ついでなので私のことを話したが、そんなことはどうでもよい。 「維民所止」にまつわる故事を知って、連想するのは、「国家安康」「君臣豊楽」をめぐる徳川家康の豊臣家討伐の一件である。 京都・方広寺に、豊臣将軍家によって、慶長19年(1614)、梵鐘が奉納された。その銘文のなかにこの「国家安康」と「君臣豊楽」という字句が含まれていた。ひそかに豊臣家滅亡の機会をねらっていた徳川家康は、絶好の機会到来とばかりにこの銘文に噛み付いた。家康を二つに胴切りにし、豊臣の安楽を祈願するものだ、と。 1614年の大阪冬の陣。つづく15年の夏の陣。家康の狙いは思惑どおりに行った。 ところで前述した清国の雍正帝の、名に似合わぬ身勝手で凶暴な処罰事件は、徳川家康の「国家安康」事件からほぼ百年後のことである。私は、雍正帝は隣国日本の徳川家康が「国家安康」事件をきっかけに、徳川将軍家の永代安寧への堅牢な基礎を築いた事実を聞き知っていたのではあるまいかと、ふと思った。これは無論空想にすぎない。 「維民所止」とは、旧弊が改まれば国民は安んじてそこに止まる、という意味である。つまり雍正帝の逆鱗に触れたのは、旧弊とは帝自身のことを指していると看做したからだ。自分の首を刎ねれば、国民が安んじるというのか? それならば、国民より我身が大切。役人の登用予備試験にそのような革新的意識をもとめるような出題をする者など、反逆者として殺してしまえ!・・・これは絶対王制における常態的な政治精神といってよい。 旧弊を自らあらためることができなかった清国(1616-1912)は、辛亥革命によって滅びた。そして、同族会社のような体制で国政を牛耳った徳川幕府も、自らの安寧のためにひたすら蝸牛のように閉じこもったあげく、ついに滅びた。それは滅びなければならなかったのだ。それを歴史は、「維新」と言う。新しく改めるという意味である。
Oct 26, 2006
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きょうは新作のイメージをまとめた。A4程度のおおきさなので、これをもとに、50号大(117×91cm)に拡大した下絵をつくることになる。他に25号の作品のイメージもまとめた。こちらはしかし、部分的なデッサンが必要。ほかに6号大の正方形の作品も、おおよそのイメージはできあがっている。これも部分部分のデッサンが必要。 この遊卵画廊のフリーページに老母の書道展示室を設けた。 母は山田芝恵という筆名(雅号)で、金子鴎亭氏が主宰する創玄会に拠り、書道をしていた。10年ほど前に失明寸前の暗い視界になってしまったので、途中で断念した。アマチュアなので、私は面と向って批評はしなかったが、言うとなると手厳しい。親も子もあったものではない。良いものは良いが、悪いものは悪い。徹底的に痛めつけてしまうらしい。「らしい」というのは、私としては親切心。駄目なものを、いつまでもグチャグチャやっていたって人生の無駄遣いだろう。もう生い先短いのだから、時間をもっと楽しく使ったほうがよかろう。 とは言うものの、山田芝恵の書は、それほど悪いというのでもないと思っていた。もっと勉強すれば見られるものになるかも知れないと。・・・これみよがしのケレンがない。素直だ。60歳半ばから始めたことだが、女の書く文字というよりかなり男っぽい強さがある。 しかし、そんな感想はやはり息子のものにちがいない。ブログで画廊を称しているのに、少しも展示してくれないとイジケテいるので、展示室を設けてお客様にご覧いただくことにした。 どうぞ、我が愚母の書を見てやってください。
Oct 24, 2006
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さる方をお招きして、会食しようと思っている。さて何処にしようかと迷い、竹葉亭本店で鰻はどうだろうと考えている。 ここ数日来、仕事中のコーヒー・ブレイクには、片手に阿川弘之『食味風々録』を離せない。わずかづつ読みすすめるのは、それはそれで楽しい読書の仕方だ。「鰻」と題した章を繰ってみると、竹葉亭のことはもちろん話題にされているのだが、じつは今日のブログはそのことではない。 「まむし紀行」と題された関西風鰻料理について述べているところを読んでいると、「鰻文」という文字が目に飛び込んで来たので、「えっ?」となった。初めて聞く言葉である。鰻文とは何ぞや。 ねばねばして長ったらしい、掴みどころのない文章のこと? いや、そうではない。ここは阿川氏の要領のよい記述を引用させていただこう。 〈・・・鰻の文章、縮めて「鰻文」は国語学の方の用語であって、食堂へ入った客が「僕は鰻だ」と言っても、それは「吾輩は猫である」と意味がちがふといふ助詞「は」の用例提示の一つで、・・・〉 つまり、事は、鰻のことではなく、国語文法の助詞「は」の用例。「僕は鰻だ」は、「僕は天丼だ」でも同じなのだが、そこは別の用例「吾輩は猫である」の「猫」に合わせている。 この格助詞「は」は、主語「僕」あるいは「吾輩」と、「鰻・天丼」あるいは「猫」とをイコールで結び付けるものではない。英語のbe動詞やフランス語のetre動詞とはまったく意味が異なる。 「僕は鰻だ」という文章は、じつは述部が、目的語を明示する格助詞「を」を省略し、さらに動詞が省略されていると考えられる。それらを補えば、「僕は鰻だ」は、「僕は鰻を食べるのだ」もしくは「僕は鰻を注文するのだ」等々となろう。これをイコールとみなして英語のbe動詞で表わすと、「I am an eel」ということになって、怪奇小説のような事態となる。 一方、「吾輩は猫である」は、夏目漱石の小説に添うならば、「吾輩」は擬人化された猫なのだから、この格助詞「は」は存在のイコールを意味し、英語で「I am a cat」と云ってさしつかえない。 このような助詞「は」の用例を、国語学では「鰻文」と云うらしい。これは知らなかった。 この用例に類することを、私は、8月18日のブログ『幻想についての私見』において述べている。私はこんなふうに書いた。 〈言葉にはおのずと論理を求める磁力があるので、論理のすきまから立ちあらわれるかのように幻想を紡ぎだすのは、非論理的な人にはできない芸当なのである。 「言葉の論理のすきま」とはどういうことか。ちょっと簡単な例を示してみよう。 アミューズメント・パークで鳥の着ぐるみを着ているのを見た幼児が、「あっ、鳥だ」という。するとお母さんが、「あの鳥は人間なのよ」とこたえる。----ここに言葉の文法上の破綻はない。しかし何か妙だ。 あの鳥が、人間だって? あの鳥は人間なの? ----このとき幼児の頭のなかに、「鳥は人間だ」という奇怪なイメージが生まれなかったとは否定できまい。幻想小説の構造的な秘密はこれである。この要素を巧妙に積み重ねて、読者のイメージをがんじ搦みにしてしまうのである。〉 私が例示した「あの鳥は人間なのよ」は、「吾輩は猫である」の主語がひっくり返ったような文章である。しかし「吾輩・・・」の場合は先に見たように「擬人化」ということが、この文章の成立を許しているのだった。「あの鳥は・・・」も、「吾輩・・・」も、ともに英語で書き直すことができる。私は、むしろ、「あの鳥は人間なのよ」という例文を「The bird is a man」として考え、その文法的論理性と現実との齟齬の消息に、幻想が立ちのぼる機縁を見たわけだ。 「鰻文」のような文法的な例が英語や他の言語にあるのかどうか、私は残念ながら詳らかにしない。もしあるなら、そのような用例を示す慣用句ないし学術語があるのだろうか。御存知の方があれば是非お教えいただきたいものである。 ところで、私の住まいの隣町、府中市四谷は多摩川岸の町であるが、この一帯に父祖の昔から住んでいる方々は決して鰻を食べないと聞いた。江戸時代、弘化3年に多摩川の大洪水があったとき、鰻が住民を救ったという伝説がある。鰻が祭神として祀られている。救い主を食べるわけにはゆかないのだ。 ちなみに、この弘化3年の大洪水で、現在の日野市の石田にあった土方歳三の生家も流されてしまい、新井という所に移った。石田は村ごと押し流され、全村が移転したと、現・国立市の石田神社の碑にあった。その神社の境内を、私はサイクリングの折返し地点にしていたのである。
Oct 23, 2006
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午前中に新しい液晶テレビがとどき、設定もすんだ。画面がおおきいせいもあるが、やはり一段と鮮明な画像で迫力も十分。ことにDVDの映画を見てみると、ブラウン管では再現されなかった細部が蘇った。黒みがブラウン管とは断然ちがう。老母にせっつかれて購入したようなものだが、私のためにも溜め込んだDVDを見る楽しみができた。 さて、話を変えよう。 先日、古書店で購入した阿川弘之『食味風々録』と村井弦斎『食道楽』。ぼちぼちと読んでいるのだが、驚いたことに『食味風々録』の「牛の尾のシチュー」と題された章に、『食道楽』のことが述べられていたのである。その本が阿川氏の奥さんの嫁入り道具だったのだという。現在も所持されているとのことだが、春夏秋冬の巻4册、もちろん原本(明治38年刊、第34版)。阿川氏宅では戦後しばらく、この『食道楽』を実用料理書として奥様が腕を振るわれたのだと。 こんな両書の関連を知らずに、私は、著者名が「あいうえお」順に区分され、それぞれ別の書棚にあったのを、たまたま同時にみつけて購入した。おもしろいことだ。 村井弦斎『食道楽』については、先日、簡単に述べた。小説なのだが、和洋中の料理がみな詳しいレシピ付きで記述されている。阿川氏は次のように解説している。 〈表向きは文学作品、小説「食道楽」で、健啖家の文学士大原満君と、その友人の妹、料理上手な中川お登和嬢を主人公に仕立てた長い物語だが、あちこち拾ひ読みする度、 「此のへんのところ、お前よく勉強しといてくれよ」 女房に言ったのは、これを私が実用書と見做してゐたからで、「小説」と銘打った著者弦斎も、内心、厨房の役に立ててもらひたい気が充分あっただらう。〉 阿川氏が『食道楽』のなかにいったい幾つの料理がでてくるかを数えてみたところ、デザートを含めておよそ790種類だったそうだ。まさに奇書に類するといってもよかろう。 阿川氏はご自分で料理をなさらないのか。奥さん委せかもしれない。私は料理をするので、今後、読んでいるだけでは済まなくなり、弦斎の『食道楽』のなかのレシピを再現してみないとも限らない。 ところで阿川氏は「ひじきの二度めし」で、私はちょうど前日の夕食に「ひじきと人参と油揚の煮物」を食べていたのだが、その後におこったある事について、解答を下していた。これもまた偶然というか何というか・・・ ちょいと尾籠な話なのでお許しいただきたい。 私が「ひじき」を食べた後、ウンコに、消化されないままの「ひじき」が、そのまま排出されることに気がついた。これはどうしたことだろうと、私は自分の腹の具合を疑っていたのである。 阿川氏の話は、故向田邦子氏と対談した思い出なのだが、対談のテーマは「美味について」だったそうだ。互いに世に美食といわれているものの知識を競いあっていると、向田氏が、「ぢゃあ、これ御存知?」と持出したのが「ひじきの二度めし」。 「こちらの話は、もう少しお品が下るんですよ」と言って、向田氏が説明したのは、次のようなものである。阿川氏の文章をそのまま引用しよう。 「ひじきがやはり、食べても殆ど消化されずに、ちょっとふくらんだかたちで体外へ出て来ます。それを集めて、洗ってもう一度煮たのが『ひじきの二度めし』、本当かどうか知りませんけど、最高に美味しいんですって。昔、海べで暮してゐる貧しい人たちにとって、ひじきは大事な食べ物だったんでしょ。ただで手に入るし、おなかは充分くちくなるし、而も二度使へて、二度目の方が味が良いっていふんですから」 美食の話というのは、このあたりまで来ないとつまらない。こんにちの日本は、猫も杓子もグルメ、グルメ、と騒いでいるが、私には一向に興味がない。そんじょそこらの輩がグルメを気取ってみても、向田邦子氏の話には辟易してしまうのが落ちではあるまいか。しかし究極の美食とはこの話のようなものであろう。 とはいえ、私は「ひじき」が未消化のまま排泄されることをこの年まで知らなかった。腹の具合を疑っていたのだから、幼稚なものだ。とてもとても「ひじきの二度めし」に思いいたるはずはない。降参である。
Oct 21, 2006
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一昨日のこと、母が「テレビが消えてしまった」という。リモコンを受け取ってスイッチを入れてみると、なるほど一旦電源が入るが、すぐに内部でカチッと音がして、待機電気のランプが点灯したまま画面はまったく現われない。手動で試みるが、結果は同じ。執拗に何度か繰り返す。が、画面は明るくならなかった。 「だめだね、これは」 私は、言い残して仕事場に去った。背後で母がぶつくさ何かを言っていた。 ところが夕食後にもういちどリモコンを操作してみると、まったく何事もなくテレビは映った。 「あれ? なんでもない。ほら、映った」 「あら、ほんとうだ。よかった、よかった」 そして昨日。朝方、母は楽しみににしている番組があるようで、テレビのスイッチを入れた。またもやウンともスンともいわなくなっていたのである。 前日は、あるいは何処かから妨害電波が飛んできたのかもしれないと思ったりもしたが、どうやら寿命なのだろう。数えてみればもう14,5年は使用している。こうなるまではクリアな映像だったので、寿命のことなど念頭になかった。地上デジタル放送に全面切り替えになっても、変換器をとりつければ良いだろうぐらいに考えていた。 「熱心に見ているわけでもないのに、やっぱりテレビがないと寂しいわねー」と、母は言う。その口調には、新しく買ったらどうだというニュアンスがある。早く、早くと急き立てているかのようだ。 そんなわけで、今日の午後、テレビを買うために出かけた。途中でATMでおおよその金を引出して・・・。 店内のディスプレイをひととうり見たのち、液晶テレビを購入した。即金で支払ったのでかなりサーヴィスしてくれた。自分で持ち帰ってもよかったが、旧来のテレビを処分してもらうため、明日午前中に配送してもらうことにした。 じつは電気店に行く前に、現在使用している録画再生DVD機がひきつづき液晶テレビに接続可能かどうかをメーカーに尋ねておいた。DVDも取り替えなければならないとすると、なかなかの出費になる。しかもこのDVD機はまだ1年半ほど使っただけだ。捨てるのは勿体ない。しかし、メーカーの担当者は、接続可能であると応えた。 帰宅して、新しいテレビを買ったむねを母に伝えると、「よかった!」と喜んだ。しばらくは新しい機能を覚えるのにおおわらわになることだろう。
Oct 20, 2006
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昼食は北海道の知人から贈られたジャガイモを茹でてバターを添え、フランクフルト・ソーセージも茹でたのち少し焼いてマスタードを塗り、白菜の漬け物を添えた。それにコーヒー1杯。秋になると、我家の昼食は、たまにこんなメニューになる。家人と顔を見合わせて「おいしいねー」などと言い合って、笑みをこぼしているのだ。 今年はじめての灯油販売の車がオルゴールを鳴らしながら通って行った。やはりそんな時期かと思う一方、随分気が早いとも思う。きょうは気持良い晴天で、私は暑ささえ感じる。しかし老母は寒いと言う。風邪をひいたのかもしれないと、体温計をもちだして検温していた。昨日、母は弟の車に乗せられ、早々とインフルエンザの予防注射を受けてきたばかりだというのに。 午後、しばらくぶりで近くの大型古書店に行った。おもしろそうな本を3册みつけた。 阿川弘之『食味風々録』 目次を見ると、〈米の味・カレーの味〉〈ひじきの二度めし〉〈船の食事〉〈土筆づくし〉〈福沢諭吉よ鰹節〉〈蟹狂乱〉等々と28篇のエッセーがならぶ。 こういうエッセーは読んでみるとスカスカというものがないわけではない。新潮社のPR誌『波』に連載したものらしいが、そこは阿川氏、立ち読みでアトランダムに選んだ1篇に目を通したかぎりでも、キッチリ、ギッシリ、話が詰まっている。 村井弦斎著・村井米子編訳『食道楽』 これはちょっと珍しい本。原本は明治36年に報知新聞(初め郵便報知といい、後に改称された)に連載された小説。大きな反響を呼び、大隈重信が自身の料理人を著者村井弦斎宅に貸出し、また当時のアメリカ大使のシェフも著者宅で実際に西洋料理をつくり、それらを毎回試食したうえで小説を執筆したといわれる。著者村井弦斎は『釣道楽』『女道楽』『酒道楽』と著わした後にこの『食道楽』にとりかかった。構想では百道楽を執筆するつもりだったようだ。 料理のメニューがつぎつぎに登場し、またそのレシピも事細かに記述されているが、恋愛小説なのである。珍しい本と述べたゆえんである。 原本を現代語に訳したのは著者の娘さんである。村井米子氏は私が世田谷に住んでいたころ比較的近いところにお住まいだった。 じつはこの本の刊行を担当した編集者は新人物往来社の故椎野八束氏で、氏は私とも一緒に仕事をしている。同社の『季刊AZ』誌に8本の論文を執筆するように勧めてくれたのは椎野氏であった。論文はこの遊卵画廊の論文室に掲載してある。『食道楽』の刊行は、私が椎野氏と知り合うずっと以前の同氏の仕事だが、知り合ってからこの本のこととと村井米子氏について聞かせてもらっていたのだった。ちょっと面白い話もあるのだが、残念ながらここに書くには時期が早すぎる。 川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』 現役の外科医であり江戸川乱歩賞を受賞したミステリー作家の小説。帯に記されている文言によれば、「メスもない江戸で検屍に必要なものは何か。医学推理+捕物帳!」ということだ。私は、検屍に関する書物というのは、数えれば10册は下らないほど読んでいる。しかし江戸時代となると、『蘭学事始』こそ所持しているけれど、検屍がどのように行なわれていたかはまったく知らない。そういう意味でも、興味深い小説である。 以上3冊を購入。なんと全部で315円でした。 夕食は寄せ鍋(真鱈、牡蠣、焼き豆腐、大根、白菜、椎茸、長葱)。箸休めに蕗のキンピラと御新香。味噌汁。
Oct 19, 2006
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吉永小百合の初主演で彼女の代表作といってよい『キューポラのある街』(1962)は、浦山桐郎の監督第一作でもある。児童文学者・早船ちよの原作を浦山と今村昌平が脚色した。 昭和30年代の半ばころまで、鋳物の街として盛名を馳せた埼玉県川口市を舞台にし、地場産業としての鋳物工業が職人の熟練した手から機械生産へと変ってゆく過程で、時代の変化から取り残され貧困にあえぐ人々の姿をリアリズムで描いている。吉永は解雇された鋳物職人の娘を演じている。彼女はこの演技により、ブルーリボン主演女優賞を史上最年少女優として受賞した。 この映画のなかで、サブ・ストーリーとして、当時、日本政府が推進していた在日朝鮮人の帰国という問題が描かれている。 映画が製作された1962年というのは、私が高校2年当時である。私はこの映画を見て、いかに自分がうかつであったかを思い知ることになったのだ。 私の写真アルバムに、1961年4月、会津高校に入学したばかりのクラスメート48人が、担任の早川俊一先生とともに、正面玄関を斜にして撮った一枚がある。私は前列左に蹲踞(そんきょ)している。W君が中列右寄りに中腰になって、明るい笑顔をしている。皆が笑っているのだ。 入学したばかりであるから、各地のいろいろな中学を卒業して来ているので、まだ互の名前さえ覚束ない。私は、撮影時には、W君の名前を知らなかったと思う。 ある日、早川先生が教室の扉を開けて入って来た。後ろにW君を従えている。 「突然のことだが、W君が学校を去ることになった。これから一緒に学んでゆくところだったが、それができない事情ができたようだ。みんなに挨拶だけはしたいそうだ」 W君は、しかし無言で私たちクラスメートに一礼しただけだった。 それから数日後だった。夕方の銭湯で私はバッタリW君に会ったのである。 すでに何度も書いて来たが、私は家族から離れて弟と弟の友人一人を世話しながらアパート住まいしていた。弟もその友人もまもなく家族のもとに帰り、その後は私はただひとりで自炊生活をすることになるのだが、それはともかく、銭湯でW君に出会ったときは弟達を連れていたのだった。W君も2,3人の友人と一緒だった。 私たちはお互いにそんな場所で出会うとは思っていなかったので、いささか面くらって、「ヤア!」と言い合った。照れくさくもあったのだ。私たちは離ればなれになってそそくさと湯に浸かった。私はこころのなかで、「W君の家はこの近くなのだろうか? 高校を去った理由は何なのだろう?」と考えていた。 答をおしえてくれたのはS君だった。彼は事情通で、私の知らない噂などもよく知っていた。 「W君は、北朝鮮に帰ったんだ。Wという日本名は本名じゃなかったと思う。別れの挨拶に来たとき、靴下に穴があいていたな・・・」 「ヘンナとこを見ているんだな、君は」 「あいつ、苦労するんじゃないかな・・・」 「・・・・」 W君のその後の消息は知らない。 『キューポラのある街』が公開されたのは翌年である。私はこの映画によって初めてW君のおかれていた情況がおぼろげながら想像された。そして同時に、かつて戦時下で、祖父や父がことあるごとに朝鮮人の面倒をみていたという話が、点と線のように思いあわさった。 いまではW君の名を忘れてしまったけれど、昨今、しきりに彼の消息が気になるのである。銭湯での出会いが、影像としてまざまざと蘇ってくる。彼も61歳になったのだ。元気でいるのだろうか。元気でいてほしいものだ。
Oct 18, 2006
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午後2時、東京創元社の古市女史と会う。14日に完成していた『密室と奇蹟』の表紙原画を渡した。このたびは私は絵を描くだけだったので、今後、デザイナーによってタイトルが入れられることになる。用紙はもう決めてあるらしい。色校が出て来るのが楽しみである。これでJ・D・カーの誕生日に合わせての刊行が、予定どおりにゆくだろう。 石油が高騰しているため、外国産の用紙がなかなか使えないほど値上がりしているのだそうだ。用紙が値上がりしているからといって、書籍の値段を上げるのは容易ではない。現状ではほとんど不可能である。制作コストを押さえて良いデザインの本をつくるのは、ひとえに装丁家やブック・デザイナーの知恵である。私たちの仕事というのは、自分のイメージが素晴らしければ良いというのでは全然ない。制作コストの範囲内で入手できる資材で、それにまるで魔法の粉を振りかけるようにして、数倍の効果を出さなければならないのである。このことは見方を変えれば、書籍の価格は以前と同じなのだから、資材が高騰したために安価な物で代用しようとも、商品価値としては値段に見合うできばえでなければ、とうてい購入者を納得させることはできないということである。 これが私たちの仕事の現実だ。しかし私たちのアンテナは、常に新しい紙や印刷技術を探索している。印刷技術は日々進歩しているといっても過言ではない。新しい印刷インクの発明もある。このような技術や商品の革新は、国内のことには限らず、いまやアンテナは世界各地に向けていなければならない。それは技術の開発者にとっても同じであろう。その新技術を使用してくれる人をみつけなければならない。私のもとにもアメリカの製紙会社から新しく開発した紙の見本が送られてくる。私は紙の個性である手触りやインクの乗りなどをそういう見本から判断し、重要な資料として自分の感覚のなかに蓄積するのである。 このようなことは1日2日の勉強で修得できることではない。また学校などで手取り足取り教えてくれることでもない。見よう見まねで出来ることではなかなかない。開けた情報交換の場があるわけでもない。すべては個人個人のプロフェッショナルな鋭敏な意識の問題なのである。そういうところに、現実の「創造」のポイントがある。仕事のおもしろさである。
Oct 17, 2006
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ファッション・イラストレーションの草分的な大家でセツ・モードセミナーの創設者・長澤節氏をめぐるほんのわずかな思い出がある。長澤節氏は私の母校・会津高校の先輩である。氏は1917年のお生まれだから、先輩といっても旧制会津中学時代になる。しかし長澤氏が在校していた頃の校舎は、私が在校していた時代とまったく同じものであった。 私が長澤節という名前を耳にしたのは中学2年のときだった。その頃、私は会津若松市のお城の近くにあった父の会社の子弟のための学生寮にいた。ある日、会津女子高生だったYさんが、少し興奮気味に、「会津若松駅で長澤節さんに出会った」と言った。その人はピンク色の長い毛足のモヘアのセーターを着ていて、とても素敵だった、と。私はその長澤節さんとやらはてっきり女性だと思ったのだが、「男のひと、会津高校の先輩よ」と、私の無知をたしなめるようにYさんは言った。私はそのとき初めて、長澤節というスタイル画(当時はそういう言葉だった)の大家の存在を知った。 それから4年後。私は会津高校の3年。ある放課後、なんの用事だったか憶えていないが、誰もいない美術教室に行ったときのこと。 私は選択科目で美術をとっていたけれど、私の作品は指導教師にまるで理解されなかった。それはそうかもしれない、校外写生で提出する私の作品は、石の表面を画面いっぱいに描写した、まるで抽象画のような絵だったのだから。私は美術を選択したことを「失敗」だと思っていた。授業はまったく興味がもてなかった。 そんなわけで、美術教室に行ったのも美術に関係がなかったにちがいない。教室に附属して、画板や簡易イーゼルなどが置いてある小部屋があった。棚に学生の描いた古い作品がひとまとめに放置されてあった。私はさして興味があったのでもないが、それらを引き出し、いかにも高校生が描いたつまらない水彩画を一枚一枚めくってみた。何かが私をひきつけたのだろうか、ある一枚の風景画の裏をひっくりかえして署名を見たのだ。「長澤節」と記されていた。 「ナガサワセツ?」・・・どこかで聞いたことのある名前である。しばらくして、それが、Yさんの言っていたスタイル画の大家であることに思い至った。それにしても、その大家は、旧制中学時代の卒業生のはずである。戦争を跨いで、画用紙に描かれた水彩画が、こうして美術教室の棚に残っているなどということがあるだろうか? 私は信じられない気持だった。しかしその風景画にはたしかに長澤節と署名してある。 私はその作品を持出そうかと思った。おそらく20年以上放置されてきた絵である。埃をかぶって、捨てられたも同然に。持出しても誰も気には留めないだろう。・・・・私は絵の束をもとどおりに棚に放りこんだ。長澤節と署名がある風景画も。 私は後に、その作品を持出すべきだったと悔んだ。というのは、その年の12月に校舎は大火災にみまわれてしまったのだから。もちろん長澤節氏の中学生時代の水彩画も失われてしまったわけである。 さて、私は大学生になり、東京に住むようになった。地下鉄丸の内線・四谷三丁目駅のプラットフォームに立つと、線路の向い側の壁に「セツ・モードセミナー」の大きな広告が目にはいった。長澤氏が創設したファッションとアートのスクールである。1960年代は、たとえば『平凡パンチ』等において長澤節がおおいに活躍した時代であり、70年代にはいるとセツ・モードセミナー出身のイラストレーターたちの活躍も目立った。私の目にも当然、クロッキー風な早描きの長澤節画が入ってきた。68,9年頃には私自身がイラストレーターになろうかと考えるようになっていたので、デッサンとかクロッキーを勉強するようになると、長澤節のクロッキーが気になりだしたのだった。 とはいえ、長澤節の世界と私の内的なイメージとは、まったく接点がなかった。セツ・モードセミナーの広告を見ていながら、それがどこにあるのかも全く知らなかったし関心がなかった。 たしか78年か79年だったはずだが、舞踏家の田中泯氏に関心をもってひんぱんにその公演を見ていたころ、氏がブレイクするきっかけとなったプロジェクトのなかにセツ・モードセミナーにおける公演があった。私はそのとき初めてセミナーの建物に入った。坂の上とも窪地とも受け取れる地形に建てられたその建物は、長澤氏の自宅も兼ねていたらしいが、不思議といえばいえなくもない内部構成だった。おそらく田中泯氏はそこが気にいったのかもしれない。あるいは氏の踊りを挑発するようなところがあったかもしれない。泯さん(私はそう呼んでいる)は、踊りを始める前、階段のそばの椅子にひとり腰掛け、するどい目で観客となるはずのセミナーの生徒達の動きや建物の構造を観察していた。そういうとき私は泯さんに話しかけない。私は、泯さんがどのようにこれからの即興的踊りをプランニングするか、その現場でのふるまいを観察するのを常とした。しかしきょうは田中泯氏についての話ではない。私は長澤節というひとの自宅兼仕事場兼スクールを泯さんとともに見渡した。 こうして私は長澤節氏をめぐって随分遠くから消息を受け取っていたわけだ。それがとうとう御本人にお目にかかる機会をえることになった。 デザイン界の重鎮、早川良雄氏の紫綬褒章受賞のパーティー会場であったろうか。そのあたり記憶が確かでないが、何かのパーティーではあった。長澤節氏はスリムなカジュアル・スラックスにシャツ、キャップをかぶり、ショルダー・バッグを肩にしていた。当時、70歳を越えていたと思うが、その若々しいスタイルが、その日のパーティーの趣旨とはそぐわないにもかかわらず、一層目立って、逆におもしろい雰囲気を醸していた。出席者は400人もいただろうか。いささか混雑気味の会場で、思いがけず長澤氏と私が隣あった。氏はなんだか手持ちぶさたのようだった。で、私は挨拶をした。氏は話し相手ができたとでもいうように、私たちは立ち話を始めた。私の話は当然ながら、あの会津高校の美術教室にあった水彩画のことだった。 「まだ、そんな絵があったのですか」と、長澤氏は言われた。私は戦前の大先輩の作品が棚に放置してあったことが信じられないのですが、と言うと、「いや、それは私の絵にまちがいないですねー」と。 しばらくして氏は会場を去って行った。ほとんど私と話しただけであったにちがいない。 私は、そのパーティーから数年後、たぶん長澤氏がお亡くなりになる2年くらい前のことだったのではないかと思う。銀座の地下鉄のホームでひとりぽつねんと立っている長澤氏を見かけた。人ごみもなく、たまさかの閑寂のときだった。私と氏とは20メートルくらい離れていた。例のキャップにシャツとスリムなスラックス姿。私が氏に気がついたとき、氏もまた私のほうを見た。私の名前は忘れていたであろうが、もしかすると顔は憶えていたかもしれない。私のほうをちらちら窺いながら気にしているようだった。私もまた、ちかづいて挨拶しようかどうしようかと、ふと、一瞬の迷いがあったかもしれない。電車が入ってきて、私たちは別れ別れになった。それが長澤節氏を見かけた最後だった。氏は1999年に亡くなった。 イラストレーターとしての先輩というより、母校の先輩として短い立ち話をしたというだけではあるが、その人はまぎれもなくファッション・イラストレーター界の先達であった。
Oct 16, 2006
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さあ、終わった終わった。15日〆切の三つの異なる仕事すべての制作が終了した。文庫『盲目の理髪師』の表紙絵はすでに入稿した。画集用の作品も入稿した。そして四六判『密室と奇蹟』の表紙絵を、さきほど12時30分(AM)に完成した。予定どおりにいった。終わった瞬間に、もはや何事でもなくなった。あした1日休息して、また次の制作にとりかかる。
Oct 14, 2006
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午後、東京創元社の古市女史からのメールを受信。表紙用紙等の資材がそろい、制作進行は順調とのこと。私の描画も着々と完成に向っている。しかし今日になって下絵にはなかったアイデアを付け加えた。やはり描いているうちに、イメージは育つのだ。付け加えたアイデアは描写的なもの。そのため急遽、仕事場に実物のモデルを組み立てた。これによっていよいよ時間との闘いになってきた。いま午前2時半までそのモデルを見ながら描いていた。一気には描きあげられない、・・・つまり乾燥をまちながら筆を加えてゆかなければならないのだが、いろいろ工夫しながらできるかぎり描き込んだ。もうこれ以上はどうしても続けられないと言うところまでやった。そこまでやって、筆を置き、眺めてみると、やはり新しくアイデアを付け加えてよかったようだ。 このアンソロジーのための表紙絵は最初のアイデアを全部捨てて、まったく新しいアイデアで始めたのだったが、それというのも、依頼された段階では書名が決定していなかった。10月5日になってそれが決定したと通知があった。それで私はアイデアを変更することを決心した。もっと冒険ができると思ったのである。冒険はいつでも楽しい。私の意欲を掻き立てる。 ところでその書名。『密室と奇蹟』である。副題が「J・D・カー生誕百周年記念アンソロジー」となる。
Oct 13, 2006
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午後2時過ぎにスタジオに到着。撮影済みのポジを点検。すぐに作品を車に積み込み、帰路につく。なんとも慌ただしい。 暑い日であった。車のエア・コンディショナーの調子が悪い。冷房にならないのだ。ガス交換をしなければならないようだ。仕方がないので窓を開けての走行となった。 銀座通りの信号待ちのあいだ、何気なく人々の往来をながめていたのだが、最近の傾向なのか女性たちのファッションに華麗さが感じられない。ふらりと家から出て来たような、普段着の感じだ。チープ・カジュアルとでも言えばよいか。渋谷のような若者の街というのでもないが、昔のように若者が近づきにくい街という雰囲気はまったくなくなっている。たぶん高級店にも、なんのこだわりもなく普段着で入ってゆける「おおらかさ」が若者の精神に育まれているのであろう。それとも「ちぐはぐ」に対して無感覚になっているのだろうか。ニューヨークのティファニーで、アメリカの若者が、普段着で店内をうろうろしているのを見たことがない。いずれにしろ物に対する欲望についての云々なのだから、どちらが良いというのでもない。ただどの街も同じ顔になってしまうのは、味気ないものだ。 チープ・カジュアル・ファッションについては、根に景気や経済格差の問題を含んだその表徴なのかもしれない。政府は今日、神武景気を凌ぐ高景気と位置付ける発表をした。ほとんどの国民がまったく実感のない発表ではある。 ・・・そんなことを思いながら車の中から通りを眺めた。 4時前に帰宅。ひと休みして雑務を片付ける。夕食後から執筆。
Oct 12, 2006
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新橋に行く予定を明日(12日)に変更した。カメラマンは今日中に撮影して、明日の午前中までに仕上げてくれるという。予定変更は絵の乾燥時間との兼合いで、今日中に執筆しておいたほうが都合がよいと判断した。 相変わらず執筆、執筆である。細密な作業をしている。もう少しでそれが一段落するところまで漕ぎ着けたので、コーヒーをいれてひと休みした。 これまでのところ、鉛筆によるアイデア・スケッチよりはずっと良くなっている。勿論そうでなくてはいけない。しかし、結局は、アイデアが油絵具でうまく定着しているということだ。奇抜だけれども、それなりの美しさもあるのではないかと、自画自賛。「今のうちだけさ」という声はいつも聞こえているが、それは聞いて聞かぬふりをしていないと身がもたない。制作中は図々しくなるのもキツイ時間をのりきるための術(て)なのである。 寄せられたコメントにお応えしていないのが心苦しい。御寛恕のほど。 このところ知人の方々から地物の秋の作物が送られてくる。それらが毎日の食卓を彩っている。ありがたいことだ。なんだかそうした贈物によって英気を養っているようだ。 さて、また仕事にもどることにしよう。
Oct 11, 2006
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予定どおりいつもの新橋の写真スタジオに作品を運び込む。今回の作品も画面に凹凸があり、しかもアルミ箔や純金箔を多用している。技法的に言えば、アルミ箔を使うのは、銀箔は年月とともに黒色化するので、それを嫌うためだ。箔を多用している画面の撮影は照明その他、撮影技術に経験が必要である。とりあえず撮影はカメラマンに一任。 私は午後3時にスタジオを離れ、その足で東京創元社にむかった。『盲目の理髪師』の原画を入稿するためである。家を出る前に担当編集者・宮澤氏からメール連絡があり、明日午後に面会する予定であった。しかし、ついでなのでスタジオからの帰りに私が訪ねることにしてアポイントメントを取り直しておいた。 宮澤氏は迎えにでてくれていた。初対面の挨拶もそこそこに、さっそく原画を手渡す。 氏はこのブログ日記を読んでくれていたようで、私が新しい試みをしようとしていることは承知していた。私はあらためてシリーズとしての作画コンセプトを説明し、宮澤氏も了解してくれた。対購読者の私たちの目的は完全に一致している。刊行は12月に決定したとのこと。そのスケジュールにそって色校正等のスケジュールは宮澤氏のダイレクションに合わせることを確認した。 次に私は、アンソロジー担当の古市女史に面会。彼女とも初対面。今朝、就寝前にアイデア・スケッチを添えた彼女宛のメールを送信。起床してすぐに、描きかけの原画の一部分をスキャンしてそれも送信しておいた。古市女史も作画コンセプトを納得してくれた。これで安心して筆を走らせることができる。 お二人としばらくミステリーの中の「色」についておしゃべりをしてから、私は帰路についた。 明日も写真スタジオに行くので、これからまた執筆をしておくことにする。少し眠い。シャワーに頭を打たせながら、顳かみと後頭部をマッサージした。
Oct 10, 2006
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ただいま10日の午前3時20分をまわった。たったいままでアンソロジーの表紙絵を執筆していた。昨日の午前10時半に始めたので、14,5時間つづけていたことになる。もうこれで就寝するが、午前10時には外出のスケジュールが入っている。作品のスタジオ撮影が二日間の予定で行なわれるのだ。10時間くらいそれで潰れるので、その分の長時間の執筆である。時間に追われているのに、最初の案を捨てた。別案は少し手間がかかる。持ち札でやっていてもおもしろくない。冒険をしたくなった。担当編集者の古市女史から出来上りを心配して、途中経過を知らせてほしいとメールがきている。明日出社したら一番で読んでもらうため、アイデア・スケッチを添付したメールをこれから送信することにする。本当は、編集者が一番最初の観客なので、私としては制作途中のものなど見せたくないのだ。しかし、まあ、しかたがあるまい。
Oct 9, 2006
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「秋晴れ」とはよく言ったものだ。春晴れとも夏晴れとも言わない。きのう今日と、カラリとした気持良い青空がひろがった。やわらかい日射しが猫たちを喜ばせる。6匹の猫たちはそれぞれ好きな場所で、のうのうと寝そべっている。 私はといえば、高い青空を仕事場の窓越しにながめている。仕事以外の出来事は耳から入ってくるだけだ。 どこかで火事があったらしい。遠くサイレンが疾駆してゆく。今日1日で4回も聞こえた。きれぎれに何か子供のイベントの楽しそうな声も聞こえてきた。禍々しさと安穏が併存しているのである。空は晴れてもなかなか「日々是好」とはゆかないようだ。 秋天の下に浪あり墳墓あり 虚子 すごいものだ、高浜虚子という人は。何も禍福を言っているわけではない。海辺の墓地の光景、ただそれだけと言えばいえる。しかし、それだけでもなさそうだと思わせる。そこに芸術の奥義がある。
Oct 8, 2006
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10月7日は「ミステリーの日」。エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)が1849年のこの日に亡くなったことに因んでいる。享年40。ポーはミステリーばかり書いたわけではないが、『モルグ街の殺人事件』がいわゆる探偵小説の嚆矢とされているかららしい。 私は『モルグ街の殺人事件』も『黒猫』も少年文学全集で読んでいたけれど、いま書庫にあるのは40年くらい前に東京創元社が刊行した3巻から成る分厚い全集である。ポーの作品を上等の翻訳ですべて読破しようと思えばこの東京創元社版によるのが一番よい。装丁は故真鍋博氏。簡素だが優れたデザインである。 私は、自分がまだイラストレーターになる前、勉強中のころに、ある方の紹介と勧めで真鍋氏の仕事場にうかがったことがある。氏がアシスタントを探していたのである。つまり私に真鍋氏に会いにゆくように勧めた人は、アシスタントとしての面接を受けろということだったらしい。らしいというのは、私は25,6だったにもかかわらず世間知らずで、日本を代表するイラストレーターのアシスタントになるということについて、何の自覚もなかったのだ。 私は描き溜めた作品を持参した。真鍋氏はそれを見ながら、「あなたは私がかつて止めてしまったことをやろうとしている。私はもう戻れない。あなたは私のアシスタントにならないほうがいいです。」と言った。 「先生の昔の絵を拝見したことがあります。私は先生のように果敢に過去を切り離すことができないと思います。」 「昔のような作品世界を描きたいと思うことがありますが、今の私は戻れないのですよ。あなたが少し羨ましい。」 面接は30分ほどだったと思う。応接室兼書庫のようなその部屋の一隅に真鍋氏の装丁本が並んでいた。そのなかに東京創元社版の『ポー全集』があった。 「先生のポー全集を持っています。」と私は言った。 それから数年が経って、ある日、銀座のカメラ屋でばったり真鍋氏に遭った。私はその頃すでにイラストレーターとして仕事をしていた。作品が秀作として年鑑に採録されていた。私は氏に挨拶した。「あっ、作品を見ています。」と氏はおっしゃった。しかし私がかつてアシスタントの面接に伺った者であることは気がついておられないようだった。 そのことを言うと、真鍋氏はまじまじと私を見た。 じつは、真鍋氏の御尊父と私の父とは住友金属のいわば同僚だった。真鍋氏は四国だったから、父親同士が顔をあわせていたかどうかは分らない。ただ父は八総鉱山から四国の四坂島製錬所に出張することがあり、後年、真鍋博氏の話をしたところ、「そういえば、四国に真鍋さんというかたがいた」と言っていた。 私がその話をすると驚いた顔をされた。そして少し気をゆるされたのか、「いま早川書房のアガサ・クリスティーの装丁をやっているのですが、じつはあなたの作品を見て、一度お聞きしたいと思っていることがあります。今日は時間がないので、後日、電話をしたいのですが、よろしいですか。」 「どうぞ。私がお答えできますかどうか・・・」 後日の電話は、駆け出しの私を心から驚かせた。真鍋氏はアガサ・クリスティーの装丁のために新しい試みをしようとしているとのこと。その技法を実現させるために材料学的知識が不足していて、なかなかうまくゆかない。私が同様のことをやっているので、その知識をわけてほしいと言うのだった。 私が驚いたのは、その率直さと、完璧を期すために年下の駆け出しに礼をつくして教えを請う態度だった。私はこのときの電話から、かえって多くのことを学んだ。それは、あの装丁の名作といってもよい早川書房版アガサ・クリスティー・シリーズの完成に、少しは貢献できたかもしれない秘かな喜びとともに、私の胸に刻まれてある。 その後も、2度ばかり真鍋氏は電話をしてきた。そして亡くなるまで年賀状のやりとりがつづいた。じつに几帳面な文字がしたためられた賀状であった。 さて、ポー全集の話からついついその装丁をされた真鍋博氏の思い出を語ってしまった。 ポーと言えば、やはり私がイラストレーターになる前、ポーを題材にしたポスター・デザインをして展覧会に出品し、それによって故平賀敬氏という画家に思いもかけなかったアドヴァイスを頂戴した。この話は以前、このブログ日記に書いたことがある。 1979年の6月に私は『カラスウリの静物』という小さな作品を描いた。これは現在、弟が所蔵している。画業に就いてから描いた最初の静物画である。そして翌7月に10号の『E・A・ポーの肖像のある静物』を描いた。この作品は早川書房から依頼されたイギリス・ミステリ傑作選シーリーズの第1回目、75年版『ポートワインを一杯』の表紙に使用している。このシリーズはジョージ・ハーディングの編集で毎年クリスマス・シーズンにいわばミステリー・ファンへの贈物としてイギリスで刊行されてきたものである。早川書房版は1974年版から88年版まで刊行された。最初2,3巻は年度順に発行されたのではなく、75年版の『ポートワインを一杯』が一番最初だった。この表紙絵として、そのために描いたわけではない『E・A・ポーの肖像のある静物』を使用することにしたのは、ミステリー小説の鼻祖としてのポーへの私なりのオマージュからだった。傑作選シリーズを始めるために相応しいと思ったのである。シリーズ15册はこの遊卵画廊に展示してある。 なんだか三題噺のようだが、私はポーの影が揺曳するなかで二人の優れた才能に出会った。ポーの命日、「ミステリーの日」に思い出したことである。山田維史『E・A・ポーの肖像のある静物』 油彩 1979年 花輪莞爾夫妻蔵
Oct 7, 2006
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降りしきる雨のなか、よんどころない用事があって外出した。 会津フェアという催しをやっているのに出会った。会津の特産品を地元の商店が直接販売しているのである。急いでいたので見てまわることはできなかったが、最も手近な場所に奥会津只見町のヤマサ商店が出店していて、ふと目をやると「ゆべし」がある。胡桃餅である。私はこれが好物。家人たちも大好きなのだ。通り過ぎることができず、十五夜の月見団子のかわりにちょうどよかろうと一棹もとめた。 会津若松市の老舗で伊勢屋という和菓子店がある。ここの名物が「椿餅」という商品名で売っている胡桃餅。昨年、同市を40年ぶりに訪ね、帰京する間際に伊勢屋に立ち寄った。昔と同じ場所で、昔と同じ「椿餅」を売っていた。店の造作は昔ながらとはゆかなかったが、こじんまりした店構えは昔をしのばせなくもなかった。ちょうど今日のように雨が降っていて、私は伊勢屋の手前のファンシー・ショップで傘を買った。そして化粧箱に入った「椿餅」を二つ買った。これが会津から東京に持ち帰った唯一のお土産だった。 ヤマサ商店の社長さんだというので、私は、自分は会津高校を出たのだと言った。社長のかたわらにいた壮年の男が、「大先輩ですな」と言った。「オっと」私は思わず言葉をのみこんで笑った。大先輩と言われるようになってしまったか。女性店員がアルミのカップに炊きたての御飯に何か味噌をのせて、試食をすすめるのを、急いでいるからと謝絶して店を離れた。 しばらくしてから、あゝそうだ生亀先生を御存知かどうか尋ねてみるのだった、と思った。昭和30年に八総鉱山小学校が開校して最初に赴任した先生たちのお一人で、私の担任だった。この先生に私は柔道とピアノを習った。随分極端な取り合わせのようだが、先生は柔道で私を副主将に指名した。2年後に只見町の小学校に転任された。しかし八総での暮しが懐かしかったのか、一度私の家を訪ねてきて一泊していかれたことがある。 あの社長さんがお幾つかは知らぬが、あるいは只見町に赴任した生亀先生を御存知だったかもしれない。 ・・・あわただしい時間のなかでの思いがけない出会いをした会津フェアとやらであった。
Oct 6, 2006
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5日の日記だが、もうとうに6日にかわって、きょうは十五夜である。しかし東京はかなり激しい雨が降っている。とても月見どころではなさそうだ。名月が雨のために見られないことを「雨月」と言う。今夜はまさに雨月。 ふりかねてこよひになりぬ雨の月 尚白 近所に丈高いススキを二株ばかり玄関脇に植えているお宅がある。その銀色の穂が和室の窓障子のほうに傾いて、私は前を通るたびに、小津安二郎の『晩春』の有名な1シーンを連想する。笠智衆の父親と原節子の娘が宿の一室で床を並べてやすむシーンである。画面奥の障子に月明かりで庭の竹笹かなにかの影が映っている。タイトルは『晩春』であるし、ススキなど出て来はしないのだが、私はそのお宅の前でなぜか小津映画を思いだすのだ。そして、奇妙なことに、そのとき私は家の中にいて障子に映るススキの影を想いうかべているのである。 黒澤明の監督第一作『姿三四郎』はススキが原での決闘が名シーンとして記憶にある。1943年の作品だから、私が観たのはずっと後年のこと。猛烈な風が吹きすさび、ススキの穂が激しく揺れて白くきらめいた。もう少し詳しく述べると、姿三四郎(藤田進)とその仇敵檜垣源之助(月形龍之介)が右京ヶ原で決闘するこの映画のクライマックス。月光が玲瓏とふりそそぐ小高い丘。一面のススキである。激しい風に、天空の雲は千切れて物凄い速度で飛んでゆく。その空の下で、姿三四郎は朗々と詩吟をうたいながら檜垣源之助が現れるのを待っている・・・。 同監督の『乱』にも美しいススキの光景が登場している。 ついでながら映画のなかでススキの穂を銀色にきらめかせるのは、そう簡単なことではないのだそうだ。カメラを回せば映るというものではない。逆光にしなければ映らないのだという。しかも黒澤作品の中のススキは、じつは自生しているものではなく、美術スタッフによって植え込まれたものであるらしい。 多摩川堤のサイクリング・ロードを走っていて、2,3人の男たちがせっせとススキを刈っているのに出会ったことがある。私はとっさに映画のスタッフではあるまいかと思った。日活撮影所がすぐ近くにあったからだ。しかし堤の下を見やると、停めてある小型ワゴン車にナントカ生花店とあった。それで十五夜の月見の宴用に料亭あたりからの注文であろうと納得した。古備前か古信楽の大甕にあふれるばかりに投入れたらさぞかし素晴らしかろう。 穂芒の解けんばかりのするどさよ 立子 雨戸をたたいて雨はいよいよ激しい。
Oct 5, 2006
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昨夜完成したはずの50号の新作を眺めているうちに、またぞろ少し手をいれたくなった。即座に決断ができずに、もし手直ししたなら全体の印象はどうなるだろうと、頭のなかに二つの画面を並べてしばらくグズグズしていた。完成したはずの作品に加筆するというのは、勇気、・・・まあ、勇気と言っておくけれど、そんなものが要るのだ。失敗することだってある。拭きとってしまえば済む程度ならいいが、元に戻らないこともある。 しかし、私はやはり手をいれることにした。3カ所直した。そのうち1カ所はまったく新しいものを付け加えた。 結果は・・・、加筆して良くなったと思っている。より一層絵が強くなった。 私は次々とまったく異なるイメージを描いている。構図を少し変化させてだけで同じ絵を生涯描きつづける画家がいるけれど、そのような方針は私の性(しょう)に合わない。きっと退屈してしまうだろう。私は自分の頭にうかぶイメージを絵として定着して、自分で驚いてそれを眺めているのだ。「ハーッ、こんなものが俺の頭のなかに渦巻いていたのか!」と。 そんなわけで、私の「新作」は私自身にとっていつも実験的である。イラストレーションはあまり実験的なことはできないが、いわゆる絵画としての作品は、近年、特にそういう傾向にある。実験的というのは絵柄や構図だけのことではなく、技法的にもかつて経験したことがない、それゆえ多分に試行錯誤をしながら制作しているのである。とはいえ、そこは長い経験と修練があるので、そこから演繹的に対処しているのではあるが。 今回の新作も、『アダムとイヴの婚姻』あるいはその前の『花と礫のなかのアダム』などで試みてきた技法を、踏襲・発展させている。画面のなかに数種の技法を混在させているのだ。次作がすでに下塗りの一部ができているのだが、この作品のなかでは、今回までの技法をさらに複雑に発展させてみようと考えている。頭のなかに出来上りのイメージがあって、しかしそういう画面を作る方法が見つかっていない。手順をシミュレーションしてみるのだが、随分複雑で、頭のなかではまだ手がついていけないのである。 お客様方は、いったい何をやっているのかとお思いかもしれない。 絵というのは、私のような例にかぎらず、描くというより、実際のところ作るものなのだ。 このところ、仕事場のなかだけで過しているので、このブログ日記もまったく代わりばえしない。それでも毎日お客様がお訪ねくださっている。まことに申しわけないです。本当にありがとうございます。
Oct 4, 2006
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予定どおり、午後、最後の筆をいれて『盲目の理髪師』が完成した。あとは乾燥を待って入稿するだけ。つづいて画集に収載するための50号(91×117cm)の新作に手を加えた。ただいま4日の午前2時。作品にサインを入れた。これで完成。2,3日、このまま眺めることにする。 残るはアンソロジー用の表紙絵。これは執筆に時間がかかりそうだ。 このブログ日記を読んでくださる皆さんは、あるいは絵描きの日常とは何とつまらないことかと思われるかもしれない。実際、食事の時と寝るとき以外は仕事場に閉じこもっているだけである。14,5時間は仕事をしているだろうか。それを生涯のおわりまでつづけようとしているのだ。 もちろん画家にもいろいろのタイプがあるので、誰もがこんな生活をしているわけはなかろうが、しかし私が知っている範囲でも、みな実に勤勉である。他の分野の芸術家も同様に勤勉だ。 つまり、作品というのは、いつかできるというようなものではないらしい。作品をつくるという習慣を身につけなければ、生まれてこないのだ。不思議なものである。作品が作家の生活を次第に支配し、生涯を支配するのである。いや、そうであるらしい。 ともかく、今日のつづきを明日もやれますように!
Oct 3, 2006
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3日の午前2時。どうやら『盲目の理髪師』が98%あたりまで出来上った。ここで一旦筆をおき、指触乾燥をまって、明日の午後に最後の筆をいれればそれで終わりだ。 前もって頭のなかにイメージを描いてとりかかっている。長い経験から、実際の出来上がりも、ほぼ頭のなかの絵に限り無く近い。しかし微妙なところに差異がでてくるのは当然で、たとえば色価のバランスなどにそれが出て来る。ある部分を明るくしてみたり、逆に沈ませたりすることになる。今回も二カ所、色価の印象を変えた。 私としては、今まで目にしたことがない感覚の表紙絵になったのではないかと思っている。少なくともミステリーの表紙としては・・・。はたして担当編集者・宮澤氏の意表を衝くことができるかどうか。 このアイデアは、以前からやってみたいと秘かに考えていた。特にJ・D・カーを意識したわけではなかったが、好機到来と思って描きはじめたのだった。 さて、こんどは別の作品の方に力を注がなければならない。 気持を切り替えるために、しばらく音楽でも聞こう。何にしようか。・・・今までの考えを追い払うために、鬼太鼓座の演奏にしようか。それとも、ミケランジェリのピアノで、静かなドビュッシーの『前奏曲集』としようか。
Oct 2, 2006
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仕事場に閉じこもりきりで執筆している。このブログ日記を書く時間もない。ただいま2日の午前3時半、いささか疲れたので、今日はこれまでと筆をおいたところ。腹がすいたので、キッチンに行き冷蔵庫を覗くとプリンがあった。それと蜜柑を一個持ってコンピューターの前に坐った。 大阪のシルフさんが東京へ単身赴任だそうだ。1日の午後には到着するそうだから、いまごろは新居で雨の音を聞きながら荷物の整理をしているか、それとも明日の勤務にそなえて膝小僧を抱えて寝んでいるか。彼の最近のブログは、女房と子供を残して住み慣れた大阪を離れることでやたらに悲愴感がただよっていた。ハハハ、まったくセンチメンタルなんだ。私などは過去にたくさんのものを切り捨ててきたので、センチメントなんてどこを突いてもでてこない。そんな私のドライなコメントを彼の日記に書き込むものだから、きっと鼻白んでいるにちがいない。 私は日本各地に居住してきたけれど、東京が一番長い。東京が好きなのだ。雑踏が好きなのだ。 ナーニ、シルフさんもすぐに東京の水になじむでしょう。住めば都。それとも来週の土日に大阪へ帰ったりして・・・。住まなくとも都ですよ、シルフさん。
Oct 1, 2006
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