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寒い日がつづいている。日陰には、先日降った雪が、掻いた後の山となっていたのが次第に溶けてはいるけれど、まだほんの少し消えずに残っている。 ところで、小庭の二本の茱萸(グミ)の木に、例年にないちょっとした異変が生じている。落葉樹なので秋の暮には黄に変色してすっかり葉を落としてしまうのだが、今年は二本ともになぜか4,5枚の緑の葉をつけているのだ。枯枝にその緑が目立つこと。 どういうんでしょうねェ。寒風が吹くたびに枝にしがみつくかのように揺れているのを、このところ私はじっと見ているのですよ。
Jan 31, 2013
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29日の朝日新聞と毎日新聞が、大変興味深い考古学上の発見記事を掲載していた。エチオピアのコンソ遺跡で、日本・エチオピア合同調査隊が175万年前の世界最古の「握り斧」などの加工された石器を発見したというもの。 同じ遺跡の約100万年にわたる地層から多数の石器が発見され、いわば各地層の年代毎にどのように技術が発展してきたかを証す貴重な発見という。 今回見つかった約350点の石器のうち約50点は、175万年前のホモ・ハビリスからホモ・エレクトスに移行する初期原人が登場した時期につくられたもので、もっとも新しいものはそれより約100万年後の地層から出土。すなわち175万年前から85万年前にいたる各年代の石器というわけである。 残年ながらここに写真を掲載できないが、175万年前の石器の加工は粗いが、85万年前のものはより綿密に計算されて薄く左右対象になるよう作られている。石を欠く技術が目にも明らかに次第に進歩しているのである。東京大学総合研究所博物館の諏訪教授は、初期原人からより進んだ認知能力の獲得へつながっていったと考えられる、と述べている。 ところで私が関心をひかれたのは、石の粗い加工から一層緻密な加工技術を獲得するまで、100万年かかっているという事に対してである。 100万年! にわかには信じられない年月だ。無からひとつの発見、・・・道具を使うという発見をするまで、おそらく気の遠くなるような時間を要したであろうことは、まァ、想像できる。その道具を、つまり自然石を、割り欠いて新たな段階に進むまでにも甚大な時間が必要であっただろうことも想像できる。いや、できるとしよう。しかし、石を割り欠くと一層利便性が増すと認識した知能が、次の段階に技術を発展させるために100万年という時間が必要だろうか? はしなくも映画『2001年宇宙への旅』の冒頭シーンを想いだす。猿人が他の動物の骨を道具として使いだす、あの印象的なシーンである。この猿人たちがホモ・エレクトス(立原人)に生物的進化をとげるまでに何万年も何十万年もかかったであろうことは理解しよう。そして、私はここでひとつの実例を思い出す。道具を使う野生の猿がいるという報告だ。TVドキュメンタリーで実際に撮影された映像がしばしば流されている。杖を使って川を渡る猿。あるいは石を使って固い木の実を割って食べる猿。その振り上げて落とす石の選択性と、台が何度も使用されてきたために摩滅してうまい具合の受け皿になっていることも指摘しなければならない。さらに親猿のその技術を、子猿がじっと見て、何度も失敗を繰り返したあげく、ついに石で木の実を割る技術を獲得するということ。どうやら群のなかでその技術は親から子へと、継承されているのである。 われら近・現代人は、技術革新の時代を生きている。その革新のスピードはもの狂おしいほどだ。 航空機の歴史は、レオナルド・ダ・ヴィンチのパリ手稿に実現へのプロセスの第一歩がうかがえる。人間はおそらく大昔から鳥のように空を飛ぶ夢を見てきたにちがいない。男性なら経験あろうが、睡眠中の性夢にはしばしば飛行がともなう。男性能力が空中を自在に飛行するというイメージに転化するのであろう。レオナルドは、鳥人間を夢想したり、コウモリの羽を模した布製の翼を考案した。いまならさしずめオートジャイロと言うべき飛行船の図を描き、人力飛行機の設計図を描いた。パリ手稿は1490年前後から1500頃までのノートである。 フランスのフェリックス・デュ・タンブル(1823-1890)が航空機の設計で特許をとったのが1857年。人類史上最初といわれる単葉機による動力飛行が1874年。ドイツのオットー・リリエンタール(1848-1896)が『飛行技術の基礎としての鳥の飛翔』を著したのが1889年。ベルリン近郊の丘で飛行実験を開始したのが1891年。実験飛行中に墜落して死亡したのは1896年。 アメリカのウィルバー(1867-1912)とオーヴィル(1871-1948)のライト兄弟は、1900年から1901年にかけてグライダーを設計するも揚力を得られずに失敗。そして2年後の1903年12月17日、ノースカロライナ州のキティホークはキルビルヒルズで世界初の有人飛行に成功した。1回目の飛行が12秒間、120フィート(約4m)、4回目が59秒間、852フィート(約27m)。 レオナルド・ダ・ヴィンチの夢想からこの時まで400年が経っている。そしてライト兄弟の初フライトから今年の12月でちょうど110年である。この時間を長いとみるか短いとみるか。 時まさに今、航空機はステルスだオスプレイだ、はたまたボーイング787と問題は次々出ているが、技術的な発展のめざましさに否やを言う人はいないだろう。 かくして私はもういちど初期原人の石器加工の技術の進捗にもどるけれど、粗い加工から綿密な計算のもとに作られたことを伺わせる薄い刃の石斧にいたるまで100万年を要した、という考古学者の意見には、まだストーンと胸に落ちてくる得心がないのである。【関連報道】朝日新聞 世界最古175万年前の「握りおの」 エチオピアで発見 2013年1月30日2時31分神戸新聞 最古級、原人の石おの発見 エチオピアで175万年前 2013/1/29 05:00
Jan 30, 2013
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小説家の安岡章太郎氏が26日に老衰のため亡くなったという。享年92。1953年、『陰気な愉しみ』『悪い仲間』で芥川賞を受賞、「第三の新人」と称され日本文学に一時代を画された。1992年、朝日賞。2001年、文化功労賞。 私にとっての安岡章太郎は、『海辺の光景』(1960)である。その最後の1行は、小説の長い旅がまさにその一点に収斂して、終生忘れられないイメージをありありと現出する。言葉を超越した光景、イメージでしかない光景。しかし、それはまさしく言葉によって喚起されるのであって、文学の醍醐味としか言いようがない。「決まった!」と言う、1行だ。 この追悼を書くにあたって、書影を掲載するつもりでしばし蔵書の山をほじくってみたが、何しろ昔の本だ、残念ながら出てこなかった。 私は安岡章太郎氏の作物を次々に追いかける読者ではなかった。芥川賞作品全集(50年も前に刊行されたもので、たしか全巻刊行は成らなかった)に掲載された『陰気な愉しみ』も『悪い仲間』も読んでいる。しかし、私には『海辺の光景』一冊で安岡文学は「決まり!」なのである。 安岡章太郎氏の御冥福を祈ります。
Jan 29, 2013
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毎日新聞が、平家物語に登場し、後白川法皇の側近として平氏打倒の陰謀事件(鹿ヶ谷事件)に加わったとして流罪となった俊寛僧都の自筆書状を、東京大学史料編纂所の尾上陽介准教授(古記録学)が発見したと報じている。 俊寛の鬼界島流罪は、能や歌舞伎に脚色され、現代でも演じられる人気演目。さきごろ亡くなられた中村勘三郎さんの代表的な外題だった。 また井上靖の小説『後白河院』もある。しかし実在した俊寛の自筆書簡がみつかったのは初めてとのこと。 「先に読みたる巻物を、また引き開き同じ跡を、繰り返し繰り返し、見れども見れども、ただ成経康頼(なりつね・やすより)と、書きたるその名ばかりなり、もしも礼紙(らいし)にやあるらんと、巻き返して見れども、僧都とも俊寛とも、書ける文字はさらになし、こは夢かさても夢ならば、覚めよ覚めよと現なき、俊寛が有様を、見るこそあはれなりけれ・・・」 謡曲『俊寛』から、鬼界が島に都よりもたらされた赦免状に、自分の名前がないことを知る俊寛の驚愕の場面である。 このたび発見された手紙は1168~69年のものとほぼ断定できるようだ。「鹿ヶ谷事件」とは別ながら、まさか844年後に、自筆の署名が世に出ようとは想いもしなかったであろう。 中村勘三郎さんがこのことを知ったなら興奮したのじゃないかしら。毎日新聞 俊寛:自筆書状を初確認 デジタル化で署名「読めた」 2013年01月26日 15時00分(最終更新 01月26日 15時39分)
Jan 26, 2013
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きのうの日記で述べた会津若松の藩校「日新館」の天文台跡の昭和33年当時の写真をご覧ください。私が中学1年生のときに、自分のカメラで撮影したものです。桜が咲いていますので、4月頃、たぶん入学直後に撮影したのでしょう。学校の正門がまさにこの手前にあり、正門あたりから撮ったのだと思います。現在は、桜も松もみな引き抜かれて、石垣だけになっています。 ちなみに江戸時代末期において、天文台が存在した藩はごく少数でした。たしか三、四。会津藩は子弟教育に非常に力を入れていたのですが、戊辰戦争において官軍から見ていわば賊軍となって敗れ、領地を没収されて無一物となった士分および領民は悲惨な境遇に置かれました。そこから這い上がるために、「学問」への志向は一層めざましいものとなり、その気風は現在に受け継がれています。『八重の桜』の主人公、山本八重、後の新島襄の夫人新島八重もそういう気風のなかにあった女性だったと言えます。
Jan 23, 2013
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NHKの大河ドラマ『八重の桜』が始まった。一昨日が第3回だった。TVドラマをまったく観ない私だが、『八重の桜』は舞台が私の少年・青春時代6年間を過ごした会津若松ということもあって、一種の郷土愛で観ている。なにしろ藩校「日新館」があった場所に住んでいたのだから。 現在の会津若松市民でも若い人は、日新館の水練場(日本で最初のスイミングプールと言われている)が、昭和40年頃までは、ある家の池として名残をとどめて存在したことを知らないのではあるまいか。私が中学1年生の頃は、その名残は道路をまたいで若松商業高等学校の正門横にまで葦原湿地としてひろがっていた。そこはまもなく整地されて、まったく面影すらとどめなくなった。 私は某家の家の池すなわち水練場跡のほとりに住んでいた。自室の窓から釣り糸を垂らして某家の主人の大目玉を喰ったことがある。ちなみに、先年、40数年ぶりに会津若松を訪ね、中学時代の清水和彦先生(一昨年亡くなられた)のお宅におじゃましたとき、この水練場のことなどを話すと、先生は意外なことをおっしゃった。明治初年に会津若松城(鶴ヶ城)が取り壊され、国有になったときに、その某家の先祖が私財をはたいて買い戻し、若松市に寄付したのだ、と。「山田君の言う某家というのは、たしかその家のはずだ』 事実だとすると、私は初めて知った。 先生宅を訪問する前に私は水練場の名残の跡を訪ね、そこがすっかり埋立てられてアパートが建ち、皮肉なことにスイミング教室の室内プールの建物が建っているのを見ていたのだった。 『八重の桜』第3回のエピローグに現在の会津若松や周辺の様子が紹介され、日新館の「天文台」跡の映像が出た。この天文台跡は、私の中学校の正門の真ん前。市街地の大改変により、その市立第三中学校の校舎は壊され、その場所に謹教小学校が移り、三中は四中があった場所にまるで玉突きのように移転させられた。私は中学校の面影もなくなってしまった場所に呆然とたちつくしたのだった。謹教小学校の跡地は、私が訪れた時点では市役所職員の駐車場としてパラパラと車がならんでいた。なんだか腹立たしかった。愚劣な玉突き遊び、と私は昔の会津若松の風情を思い出しながら思ったものだ。 ・・・それはともかく、天文台跡はさすがにそのまま残っている。と言っても、私の少年時代の様子とは異なり、松や苔が醸し出していた風情は、松を引っこ抜きまるでノッペラポーの石積み遺跡になっていた。もはや住人でない私がとやかく言うことはないが、・・・いやいやこれ以上申すまい。 『八重の桜』は今後、終盤に戊辰戦争による会津の悲劇が描かれるのであろう。白虎隊・士中二番隊の19人の少年たちが自刃した飯盛山には、戸ノ口が原の戦場から少年達が退却してきた水をたたえた洞門がある。中学生時代、級友のなかには夏休み中に水遊びにでも行ったのであろう、水中で昔の銃弾の薬莢を発見して得意げに見せてくれたことを思い出す。それが戊辰戦争のときのものだとすると、ゲーベル銃のものではないから、おそらく官軍の銃弾のものであろう。今では調べようもないが、まだそんなものがみつかっていたのだ。そして、私にはなんとうらやましかったことか。 いやいや、私だって、先に述べた水練場跡の水中から割れた寛永通宝を発見している。静かに汚泥の中をさぐったら、片割れもみつけ、私は接着剤でつなぎ、・・・じつは今でも所持しているのだ。 会津藩の子弟教育の骨子である「ならぬことは、ならぬ」は、『八重の桜』をめぐる番組のなかで繰り返し紹介されている。私は、自分に想いいたしてみて、なんだか私のなかにもその会津精神が生きているような気がときどきするのだ。 ともあれ、みなさん『八重の桜』、観てくなんしょない。なかなか、おもっせからなっし。会津若松にもお出かけになってくなんしょ。みーんな、親切で優しい人ばっかだからなっし。頑固なとこもあんだけんじょもよ、戊辰戦争以後はそうでもしねば、会津の人は生きてこれなかったんだべなっし。悲惨だったからなっし。わかってやってくなんしょない。 「八重の桜』、観っぺし、みっぺし!
Jan 22, 2013
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子供達のたまり場になっている近所の文房具と駄菓子を置いている小さな商店の店先に、武者絵凧がならんでいた。多摩川の河原など、凧揚げができる場所は我が家の近辺にないわけではない。しかし、少なくとも私は子供達が凧を揚げている光景を見たことはない。商店の店先に凧がならべられているのを、めずらしいことと目に留めた。店の前に小さなベンチが置いてあり、子供達が身体を寄せあってひそひそ話しをしている。手には何やら菓子袋を持って・・・ 耳打ちの子等を睨むか凧の武者 青穹 よろめいて互いに詫びる雪の道 寒灯や病む人ありと伝え聞く
Jan 21, 2013
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Lain snow is too heavyTo endure such a long hard griefWill they bud and leaf? 雪重し耐えて生え出る芽はありやA half moon, dimly lightIt is reflected in the icy roadwhich is like mirror white 半月の影薄くして氷面鏡Buddhist old small stone statueleans its body on a country roadsidein the blanket of snow 石仏傾いてあり雪の道It is a heavy snowIt's a half foot at the mostbut yet a half foot 大雪やたかが三寸されど三寸
Jan 20, 2013
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半月の影薄くして氷面鏡(ひもかがみ)千両や雪に埋もれて尚赤し雪重し耐えて生え出る芽はありや
Jan 19, 2013
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石仏(いしぼとけ)傾いてあり雪の道 青穹白菜は鱈ちりにせう月寒し老人の行方知れずや息白し 市の広報が老人が行方不明になっていると、捜索の協力を市民にもとめている。日暮れて寒さが身にしみてきた。まだ発見の報せはないので、心配なことだ。 ときどきこのような事が起る。しかし今までのところ大事に至ったという話しは聞かない。市民の協力で無事に発見されてきた。きょうの行方不明者も無事にみつかることを願う。
Jan 18, 2013
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映画監督大島渚氏が昨日午後亡くなられた。脳溢血で倒れられて以後のリハビリの様子などをTVで拝見していたが、とうとう亡くなってしまったかという想いである。 私はその全映画29作品をすべて見ているわけではないが、VTRやDVDを含めると、15作品を見ている。監督第2作目の『愛と希望の街』(1959)を初めとし、次作の『青春残酷物語』(1960)、『日本の夜と霧』(1960)、『飼育』(1961)と、この追悼文を書こうと調べて、たてつづけに見ていたことに気づいた。『飼育』は、公開当時、街に立てかけられていた横長の巨大ポスターを、今でもそれが在った場所もポスターそのものも記憶に甦って来る。会津若松市の昔の若松女子高等学校の前の通りと神明通りへとつづく通りの交差点、斎藤米穀店の前にそれは立てかけられていた。映画作家大島渚がはっきり私の意識のなかに形作られたのは、そのときであった。いや、『青春残酷物語』だって、あの全篇のなかに一カ所不思議なカットつなぎがあることに意を留めていたのだった。 1964年に私は東京に出て法学部の学生となった。『日本春歌考』と『絞死刑』が1968年。『新宿泥棒日記』が1969年。・・・新宿のATG(アート・シアター・ギルド)も〈ナジャ〉も、〈どん底〉も〈凮月堂〉も・・・まさに私の時代だった。懐かしいなど言うまい。気分は違っても、大島渚がつっかかっていった日本は、さして変ってはいないのだから。 新藤兼人が逝き、若松孝二が亡くなり、そして今度は大島渚が逝ってしまった。日本映画の気骨がどんどん失われてゆく。何か、どっと空虚感が私の胸に迫って来る。 大島渚監督、残念です!
Jan 16, 2013
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教師による体罰と称しての残虐な暴力事件(報道によれば30発から40発殴り、さらに、常習的に生徒を殴打していたようだ)に関して、毎日新聞が次のように文部科学省の意向を伝えている。引用しておく。 【大阪市立桜宮高校でバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、文部科学省の義家弘介(よしいえ・ひろゆき)政務官(41)が15日、同市役所を訪れ、永井哲郎教育長らと今後の対応を協議。義家政務官は記者団に「今回の事案は日常的に行われた暴力だ」と述べた。一方、「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」とも述べ、体罰を一部容認するとも受け取れる発言をした。】 私見によれば、そもそもの問題はこのような教育関係機関および関係者の思想にある。一般社会で、他人に対する危害は、いかなるものでも犯罪として処罰の対象になる。しかるに、学校教育においてそれが容認され、のみならず犯罪者をかばい(熱血教師などと称して)匿うかのようなありかたは、犯罪の温床を形成する犯罪同盟としか言いようがない。 簡単に言ってしまおう。義家政務官よ、あなたが他人から殴られてみるがよろしい。私は貴方の言動は「罰するに値する」と思うからだが、如何に? 理不尽だと思うでしょう? 教師の一方的な視点で、子供の反論や反抗を禁じて・・・つまり教育において権力の制度的ヒエラルキーを設けて、暴力によって服従・矯正しようというのは、サディズム以外のなにものでもない。暴力というのは、一度発動すると、心の箍(たが)がはずれて暴力を振るうことに無頓着になってゆくものだ。そこに「教育」という名目を冠するとそれが隠れ蓑となって、もはや暴力はとどまることがなくなってゆく。このたび生徒を自殺に追い込んだ教師の暴力事件と尼崎の連続殺人にまで発展した事件とは、発動した暴力が、その者の精神を鈍摩させ、行為がエスカレートしている点ではまったく同じだ。 我国においては、かつての日本軍隊内部における日常的な上官による暴力について(それはほとんどシステマタイズされていたと考えられるのだが)、社会学、精神医学・精神病理学、教育学、その他において検証し研究することを怠って来た。ドイツのハバロック・エリスのような研究さえ無い。日本の軍隊は、その意味で当時の世界でも最も非現代的な軍隊であったわけだが、そのような暴力システムは「伝統的」に学校教育のなかに、なかんずくスポーツ活動のなかに残りつづけてきた。教育効果があるという幻想が、人格否定という人間の根源的な悪を凌駕して、だ。このたびの高校バスケットボール部主将の自殺事件に、それははしなくも露呈した。 「体罰」と「暴力」とを弁別する一線など引けるはずはない。なぜなら物質的な判別ではなく、人間ひとりひとりの心の問題に関わってくるからだ。明文化できないのだ。「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引き(義家政務官)」を規則として文章化したとしても、その裁量は現場教師の恣意になるであろう。 しかも、児童・生徒・学生に対する・・・総じて学内における教師の「体罰」は、殴る蹴るばかりではなく、およそ常軌を逸した様々な行為がなされている。 かつて体育館の二階回廊から飛び降りを強制した教師がいた。夏のさなかに水を与えず運動場を熱中症に倒れるまで走ることを命じた教師もいた。生徒の死とすれすれのことが現実におこなわれているのである。教壇からチョークを投げつける教師はどこにでもいるだろう。いったい何を教えようというのか、教室にあるまじき野蛮で下品なふるまいだ。 昔、私が小学3年生のときの担任教師は、薪ストーヴ用の直径5cmほどの薪を授業中にひとりの子供にナイフで表皮を削らせ、それで子供を殴っていた。それを大勢の級友とともに見ていた幼い私の心の痛みと憎悪を想像していただきたい。私はその教師の名前も顔も服装さえ、あれから60年になんなんとする現在でも記憶している。この教師が特異であろうとも、現実に性格破綻者はいるのであり、人間として矯正されなければならないのは、むしろこうした教師たちだ。 暴力を振るうことに快楽を感じるサディストの教師がいたなら、その快楽装置を外部から誰が見抜けるだろうか。事件は起り、起ってからあたふたとするのがオチであろう。そしてその時には、暴力を振るわれた生徒は一生拭いきれない心の傷を負っているか、肉体に障害をかかえるか、場合によっては復讐心を育むか、そしてあるいは死んでいるかなのだ。 もういちど言おう。義家文部政務官よ、あなたは誰ぞに30発40発殴られてみるがよろしい。「体罰を一部容認する」と報道が理解しているように、貴方のその思想の根底にあるものは、貴方もまた、「体罰」というイクスキューズ(弁解)を付した暴力にとらわれていることを示しているのですよ。ひとたび暴力が(貴方の言う体罰)が振るわれてしまうと、「犯罪者」として処罰する以外には被害生徒に対して責任などとりようがないのです。教育というのは実に容易ではないのですが、「体罰」は教育者の無能な逃げだということに想い致すべきでしょう。【関連記事】毎日新聞 大阪・高2自殺:文科政務官「体罰、線引き必要」毎日新聞 大阪・高2自殺:練習試合の度、体罰か 顧問「発奮させるため」読売新聞 激しい体罰「顔が腫れあがっていた」と目撃生徒 2013,1,11読売新聞 5年生男子に膝蹴り、出血させた50歳代担任 : YOMIURI ONLINE)朝日新聞 「体罰受けうつ状態に」元野球部員が提訴 大産大付高 2013年1月18日15:09読売新聞 体罰で肋骨折る…市立中教諭、減給10分の1 2013年1月19日10時05分朝日新聞 塩酸を水で薄め生徒に飲ませる 愛知、中学教諭が「罰」 2013年1月19日20時18分朝日新聞 教諭2人、十数回たたくなど体罰 大阪・聴覚支援学校 2013年1月21日16時51分読売新聞 空手道部で女子部員に平手打ち、指導者解雇へ 2013年1月22日12時47分朝日新聞 担任教諭、自閉症の小4の手を縛る 愛知の特別支援学級 2013年1月23日12時30分朝日新聞 空手部の講師、男子5人にも平手打ち 島根の私立校 2013年1月23日12時35分読売新聞 女子柔道強豪校で体罰受け重傷、元部員が提訴 2013年1月23日12時51分読売新聞 女性教諭を海に投げ入れろと生徒に指示した顧問 2013年1月25日14時19分朝日新聞 豊川工高陸上部監督が繰り返し体罰 学校ぐるみで隠す 2013年1月26日19時36分読売新聞 京都のバスケ部で体罰、顧問が複数部員に続ける 2013年1月28日13時56分朝日新聞 体罰した教員、処分者以外に52人 愛知、県立高など 2013年1月29日5時40分読売新聞 桜宮高校、1割が「体罰受けた」…普通科でも 2013年1月30日09時05分 YOMIURI ONLINE読売新聞 強豪高相撲部顧問が体罰、暴行容疑で書類送検へ 2013年1月30日11時32分読売新聞 教諭が体罰、生徒2人の鼓膜に傷…三重の高校 2013年1月30日20時54分読売新聞 口答えにキレた女性担任、小3の頬つねりアザに 2013年1月31日11時54分毎日新聞 体罰:汎愛高の柔道顧問が授業中に平手打ち…大阪 2013年02月01日 12時35分朝日新聞 バスケ部顧問、平手打ち10回 都内の区立中、4人けが 2013年2月2日11時39分読売新聞 「ばかたれ」暴言の小学教諭、児童2人に体罰も 2013年2月2日16時00分朝日新聞 富士学苑高の野球部監督が体罰 少なくとも6件 山梨 2013年2月3日16時53分読売新聞 京都・網野高 レスリング部顧問の体罰7件 2013年2月4日 読売新聞読売新聞 生徒の膝裏蹴るのは「指導の意味だ」と体罰教諭 2013年2月5日12時14分朝日新聞 運動部顧問2人、部員らを平手打ち 神戸市立中で体罰 2013年2月5日12時0分朝日新聞 野球部顧問、複数の部員ら殴る 兵庫・芦屋の中学 2013年2月5日13時15分朝日新聞 教諭、男子生徒の腹蹴る 名古屋市立中、体育の授業中 2013年2月6日12時20分朝日新聞 サッカー部顧問が体罰 部員けが 東京・江戸川区立中 2013年2月6日21時57分読売新聞 都立の強豪・雪谷高野球部などで監督らが体罰 2013年2月8日21時32分日テレNEWS24 東京都の公立2高校で体罰、甲子園出場校も 2013年02月09日04時03分 livedoorニュース朝日新聞 教職員72人が「体罰」 大阪府立校を調査、計115件 2013年2月15日11時51分読売新聞 顧問が部員の顔たたく体罰、国分中央高女子柔道部 2013年2月15日読売新聞 陸上強豪・洛南高で部顧問、部員の耳の鼓膜破る 2013年2月15日13時06分
Jan 15, 2013
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成人を祝えば戦に行かせまじ 青穹大雪や雪崩なだれて国の峰安倍川の石原は雪凍りけん冬桜嗜虐教師の贄(にえ)の園
Jan 15, 2013
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冠雪に額づきたるか庭の木々 青穹冠雪を撥ね返す木は頼もしき大雪やたかが三寸されど三寸サイレンの音おちこちに雪の街宿六も寝てはいられず雪を掻く初雪や風流すてて背をまるむ
Jan 14, 2013
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東京に初雪。我が多摩地区は朝9時半ごろから雨が雪にかわった。チラリホラリがたちまち本格的な降りとなり、1時間後には3cmほどに積もった。所用があって車を出し、いましがた(11時40分)帰宅した。山をのぼって来ると、前を行くバンがスリップしている。タイヤがスタッドでないらしい。そして曲がり角でとうとう動かなくなってしまった。何度も後退・前進を繰り返しているが埒があかない。 私と家人はしばらく後方で様子を見ていたが、このままではこちらが雪に埋もれると判断した。バックしてハンンドルを切り返し、来た道を引き返して本通りに出、数百メートル先の別の道から帰って来た。 街では警察のパトロールカーが雪をかぶったまま警戒のため巡回していた。昨夜のTVでは、積もらないだろう、と言っていた予報士もあったが、さてどうだろう。 仕事場の窓に、雪片がヒタヒタと張り付いては消えている。
Jan 14, 2013
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成人式の明日、日本列島の天候は大荒れの予報が出ている。東京は雨のようだが、我が多摩地区はあるいは雪になるかもしれない。 -30℃を記録している北海道の陸別町などにくらべると東京の雪などお笑いぐさだろうが、雪に備えのない交通機関はたちまち混乱してしまう。 我が家は山の上。先年、自転車で下って行き氷雪に車輪をとられて転倒、私は文字通り宙に舞い、3mほど吹っ飛んだ。上方で商店のおやじさんがそれを呆然として見ていた。幸い落下のしかたが良かったのか、私の身体は何事もなかった。車の往来があったなら、あるいはお陀仏になっていたかもしれない。そう思ってゾッとしたものだ。 ・・・もうすぐ零時になる。山の下からサイレンの音が聞えている。何事かかは知らないが、みなさんくれぐれも御注意を。
Jan 13, 2013
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裏山にのぼり、しばらくぶりに展望台から多摩地区を一望した。枯木透き丹沢山系遠く見ゆ 青穹
Jan 13, 2013
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枯れ鉢の土ゾックリと霜柱 青穹山路踏む足下に鳴るは霜柱汽缶車に児ら変身の息白し 実際に汽缶車を見たことがない子供達も、吐く息の白さからの連想、遊びながらたちまち変身。寒さもなんのその、土曜の朝のひとときのにぎわい。
Jan 12, 2013
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冬ざれの痩せたる土地や痩せ南天 青穹冬ざるる筆のかすれや返文(かえしぶみ)
Jan 10, 2013
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悴(かじか)める心に教師の平手打ち 青穹悴みて生きる希望も失せぬらん悴みて若き命は自死すらん芽は折れて三途の道の霜柱 猫でさえ、そっと頬に触れてくるのに・・・頬に触れ猫もぐり来る綿蒲団履かぬまま亡母遺せる足袋白き
Jan 9, 2013
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きのう詠んだ一日遅れの一句。人日や耳を澄ませば星の音 青穹【註】人日(じんじつ); 正月7日のこと。正月の元日から八日までをそれぞれ鶏・狗(いぬ)・豕(ぶた)・羊・牛・馬・人・穀にあてた古代中国伝来の思想。
Jan 8, 2013
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きのう、ウォーキングしながら目にとめた光景を俳句に詠んだ。ことし最初の句である。白鷺や弧影は白き冴えかえり 青穹多摩川に鴨降りたちて寒の水多摩川の岸の草がれ霜しろき初詣ちょうずの鉢の薄ごおりおろがめる老の手に落つ霜雫【註】おろがむ : 手をこすりあわせて拝む。
Jan 7, 2013
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きょう6日、日野七福神めぐりウォーキングに参加し、13kmを歩いてきた。ゴールが高幡不動尊の薬王院金剛寺に祀られている弁財天。それなら私もなじみだと、朝、出発地の日野市平山城址公園駅に向かった。受付で地図をもらい、9時出発。 最初はすぐ近くの宗印寺境内にある布袋尊。 隣あった御堂には平安時代から鎌倉時代初期にかけて現在の日野市平山を領した平山季重(すえしげ)の像が祀られている。平山季重は一ノ谷合戦、屋島ノ戦い、壇ノ浦合戦で勇名を馳せた。像は寄せ木造りの小振りの木彫。江戸時代初期の作らしいが、出来はきわめて優れている。日野市指定文化財。 ちなみに日野の七福神は、すべて仏教寺院に付属する御堂に祀られている。仏教と、日本古来の俗信と中国伝来の福神信仰がまざりあった民間神とが習合しているかのようにみえるが、宗教的に厳密な意味での習合ではなく、歴史的な背景はわからないが何時のころからか寺の境内に社が建立されて各々の民間神が勧請されたようだ。いかにも日本的と言えば言えないこともない信仰のあいまいさ・・・良く言えば、なんでも受け入れる寛容さがうかがえる。そこが面白いところかもしれない。 次は善生寺の大黒天。 三番目は延命寺の寿老尊。 この延命寺にも興味深い文化財がある。文明2年(1470) の年記がある秩父緑泥片岩に刻まれた板碑である。発見されたときはバラバラに割れていたそうだが、つなぎ合わせて周囲をコンクリートの枠で補強し、ほぼ完全に復元された。上部は二等辺三角形、種子(しゅじ;象徴する文字)は阿弥陀三尊で、中央部に阿弥陀如来のキリークを梵字で刻み、周囲を丸く光明真言で囲む。さらに天蓋と三具足(燭台、香炉、華瓶)を描いている。銘に「文明二年九月廿三日逆修善根一結衆等敬白」とある。・・・一結衆とは、講(こう)のことで、おそらく阿弥陀信仰の信者による講が結ばれていたのであろう。このような板碑が残っているのは珍しく、日野市ではこの延命寺のものが唯一とのこと。 四番目、安養寺の毘沙門天。 五番目、石田寺の福禄寿。 石田寺は土方歳三の菩提寺。近くに土方歳三資料館もあり、歩きながら目に入る家々の表札はどこもかしこも土方姓。 土方歳三は戊辰戦争のときに会津若松で戦闘に加わっている。新撰組は京都御所警護のために会津藩が組織したからだ。会津若松市の中心街である大町には土方が投宿した清水屋があったのだが、現在ではその場所を示す案内板が立っている。・・・会津若松は私が中・高校生時代を過ごした地。土方の菩提寺を訪ねるのも土地の縁だろう(そう想うことにした)。 さて、次の真照寺の恵比寿天までは距離が長かった。 しかし、この寺も私には比較的なじみである。というのはこの近くにその昔(平安ー鎌倉時代)に真慈悲寺という大伽藍があったとされ、その遺跡発掘調査がおこなわれている。3,4年前にその説明会を兼ねた発掘現場見学会があり、私も参加した。そのことは確かこのブログに書いた。 真照寺の門前の板書にもあったが、奈良時代から平安時代、さらに鎌倉時代にかけて、このあたりに一大集落が存在したらしい。あるいは、真照寺・真慈悲寺・高幡山金剛寺と一直線に並んで存在するところを見ると、一大霊場だったとも推測できる。鎌倉時代にはこのあたりは直接鎌倉と武蔵とを結ぶ重要地であったことは確かで、それは山を登って真慈悲寺のあったとおぼしき場所に行けば地形的に納得理解できるのである。 それはともかく、真照寺は明治時代には寺子屋として近隣の子弟の教育をしていたが、大正時代に不慮の火災で楼門と御堂一宇を残して焼け落ち、廃寺になったという。現在、復興して、楼門・御堂は江戸時代の姿のままに善男善女を迎え入れている。 私はこの境内のベンチに腰をおろして一休み。持参した水を初めて飲み、ヨックモックのシガールひとつを食べた。 最後の七番目はおなじみ高幡不動、薬王院金剛寺にある弁財天。12時20分、ゴール。13kmを3時間20分で歩いたわけだ。疲れはしないが、さすがに長歩きだった。両側の大腿骨の骨盤との付け根、転子部が痛んだ。過日、多摩丘陵縦断ウォーキングに参加したときは9kmだった。いまのところ私には13kmくらいが限界か。・・・3月にはまた観梅ウォーキングが企画されているらしいので、それが何キロのものか・・・三たび参加してみよう。 境内は初詣客でおおにぎわい。100を越す露天が並び、香煙がくゆる。私は弁財天を詣でてから、露天のひとつで足を止め、「信州おやき」を二つ買った。茄子味噌と野沢菜が餡になったもの。これが昼食。おいしかった。
Jan 6, 2013
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ことしは巳年である。すなわち蛇の年。・・・そこで、絵画にあらわれた蛇を見てみることにする。ヨーロッパ美術史には、蛇に関する主題がいくつかある。大雑把ながら次に実例をあげてゆこう。『旧訳聖書』に〈青銅の蛇〉が登場する。モーゼに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、途中で苦しみに耐えかねて不満を爆発させる。すると神は炎の蛇を投げ込み、蛇は民に噛み付き多くの死者が出る。モーゼが祈ると神は「青銅の蛇をつくり旗竿に掲げよ。噛まれた者は、その青銅の蛇を仰げば生き返る」と仰せられた。モーゼはそのとうりにし、民は死から救われた。 以後「青銅の蛇」はユダヤ王国で崇敬されたが、ヒゼキヤ王(紀元前715-同687)の時代に破壊されたとされる。ミケランジェロ(1475-1564, イタリア)『青銅の蛇;システイナ礼拝堂天井画』1511年。ヴァチカン。 しかし蛇はキリスト教のなかに生き残り、癒しと贖罪の象徴としてイエスの象徴(予型)となり、また脱皮を繰り返すことから復活の象徴となった。この蛇の象徴はキリスト教正教会の主教の杖(権杖)に具現している。アンドレ・ブルトン(1896-1966, フランス)『教会の卵(蛇)』フォト・モンタジュー、1932年。 中央奥に司祭帽をかぶった顔、その前に女が挑発的な姿態を誇示して、あたかも捧げ物のごとく横たわっている。女がよりかかっているのは主教の権杖である。 「純潔な魂を持った処女は、キリストの婚約者となることができる」と言ったのは、4世紀の聖メトディクス。この言葉を支えているのは、女性は色欲の誘惑によって悪徳を具現し、信仰否認の手先として悪魔に近い存在である、という信念だ。教会にとって女性は「魔女の卵」だった。 ブルトンは、LE SERPENT(蛇)と副題を書いている。蛇は誘惑者であるが、このフランス語は悪魔と同義だ。彼はこの作品で、エロティシズムとは、禁止と侵犯との親密な関係により保証されていることを示す。そして先述のように蛇は主教の権杖に再象徴化されている。 衆知のように蛇はアダムとイブの堕落の象徴。アダムとイヴが人間として「死ぬべき運命」を背負ったため、蛇は死の腐敗の象徴ともなっている。「死ぬべき運命」の対極に「イエスの復活」がある。これがキリスト教の構図。 蛇が男根象徴でもあることは言うまでもなかろう。アルブレヒト・デューラー(1471-1528, ドイツ)『堕落』 木版、1511年。マサッチオ(1401-1428, イタリア)『誘惑』 フレスコ、1426-27年。 サンタ・マリア・デル・カルミネ、ブランカッチ教会。フローレンス。 アダムとイヴを描いた15,16世紀の絵画では、人頭の蛇として描かれているものが多い。作者不明『罪により此の世に死が来る』 上記のようにアダムとイヴが「死すべき運命」であることを表わす、新約聖書ロマ書第5章12節の記述に依拠した図。作者不詳『最後の審判』モザイク壁画、12~13世紀。サンタ・アッサンタ大聖堂。イタリア。 煉獄の火で焼かれている場面。右下には蛇に食い荒らされる頭蓋骨。ツヴォルのラムとして知られる版画家の作『生の無常のアレゴリー』銅版画に手彩色、1480-90年頃。 墓の中で腐敗してゆく肉体。屍体の口に蛇がもぐりこんでいる。ゴシック様式のアーチの中に、十戒を記した銘板を持つモーゼ。 こうして蛇は、キリスト教において清濁あわせもつ象徴となっているが、それとは別に古代ヘレニズム文化圏では、自らの尾を呑み込む蛇ウロボロスが、自己完結と世界の完全性の象徴となり、それを基盤としてやがてヘルメス学・プラトン主義の発展とともに中世以後は、錬金術の象徴学のなかで「宇宙」の象徴ともなってゆく。錬金術の哲学である「相反するものの一致」として、あらゆる対立概念の解消がウロボロスによって象徴的に表現されるのである。死と再生、破壊と想像、男と女、陰と陽、永劫回帰、不老不死、宇宙の根源・・・等々。『ウロボロス』図『蛇がまきついた宇宙卵』 "OVHIS et OVUM, MUNDANUM" の插絵。 さて一方で、蛇にまつわる主題として「クレオパトラの死」がある。クレオパトラは蛇に乳房を咬ませて自殺したとされる。画家たちがこの主題に関心を示すのは、歴史的な関心からではない。エロティックな想像がはたらくからだ。ドメニコ・ブルサソルチ(1516-1567, イタリア)ギド・レニ(1575-1642, イタリア) 最後に謎の肖像画を掲げよう。イタリア、ルネッサンス時代の実在した女性の肖像である。シモネッタ・ヴェスプッチ(1453頃-1476)は、「麗しのシモネッタ」と呼ばれていた。ジェノア出身で、フロレンスのマルコ・ヴェスプッチの妻だった。夫のマルコは探検家にして地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの遠従兄である。 彼女はたいへんな美人で、ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』は彼女の面影を写しているとボッティチェリ自身が(まことしやかに)主張している。それはともかく、ここに掲げる肖像画に、作者のコジモはどういうわけか彼女の首に蛇をまきつけて描いている。シモネッタが死んだとき画家はまだ14,5歳。実際に彼女をみかけたことがあるかどうか。その頃彼女はフィレンツェの宮廷でジュリアーノとロレンツォのメディチ兄弟の胸を焦がし、結果、ジュリアーノの愛人になったと言われる。後の大画家コジモも、足許に寄れる状況ではなかったはず。だとすると、この肖像は・・・ 謎はみなさんでお解きいただくことにいたしましょう。ピエロ・ディ・コジモ(1462-1521, イタリア)『シモネッタ・ヴェスプッチの肖像』 パネルに油彩、1480年頃作。
Jan 3, 2013
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2013年が明けた。我が家はまことに静かに、何事も、何事もなく、新年を迎えた。そして今日2日、墓参に行ってきた。 喪中の当主にとって、「服喪」というのは13ヶ月なのだそうだ。なるほど、1年と1ヶ月。合理性と情との兼ね合いをみはからっての日本の民俗的慣習と言えそうである。本来なら喪服を着て過ごす期間なのだが、どうやらその慣習は廃れてしまったようだ。それとも私だけがそうしないだけなのか。他家はどうか知らないが、13ヶ月間喪服を着つづけるというのは、現代生活にはそぐはなかろう。 老母の死は、いわば突然死ではなかったので、私たち家族は早くから心の準備ができていたと言ってもよいかもしれない。デス・エデュケーションというのはどちらかというと自分の死を受け入れるための準備なのだが、親族の心の準備も必要かもしれない。と言っても死にゆく当人より後手にまわるのは致し方が無かろう。 私の場合は、4年間の在宅医療看護によって、いやでも母の身体状況がいかなるものか日々見てきた。そしてその状況が、手厚い手当と反比例するように、老衰が駆け足をしているのを感じていた。 眠るように死ぬという表現があるが、母の場合はまさにそれだった。いや、正確に言えば、母は眠ったまま一切の苦しみもなく呼吸が止まり、心臓が止まった。それは生命という精妙な機能がすっかり役目を果たして、たとえば歯車やポンプが静かに停止するのに似ていた。 いま思い出してみると、私は一度も泣いていないのだ。悲しい? それは悲しくないことはないけれど、泣いてすむような悲しみではない。人の命の終焉をはっきり見たという、そういう悲しみだ。母は息子の私に・・・私もそろそろ老境に入ってきているが・・・最後の役目としてそれを見せて逝った。 「ありがとう、人間が老いて生命が自然に終焉するのを、はっきり見させてもらったよ」 私はそのように思っているのである。 「あとは私の絵だね、あなたの死をどのように作品のなかに昇華してゆくか。しかも個から普遍へ転化してゆくように、ね。わかっています、まっていてください。ずっと考えつづけていますから」
Jan 2, 2013
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