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昨日、昼食後になにげなくテレビを見たら、某民放局の長寿インタビュー番組が、特別企画のチャリティー・コンサートをやっていた。スタジオ録音ではなく、お客さんを入れてどこかのホールからの放送だった。 途中から見たので、出演者をあげることはできない。おそらくチャリティーということだからだろう、歌手達は自分の持ち歌ではない曲をうたっていた。めずらしかったので私はしばらく見つづけていた。 と、ある有名なソプラノ歌手があでやかに登場して歌いはじめた。歌の中頃から私は、「オヤッ?」と思いはじめた。音程がくるっているのである。高音が上がりきらないといったらよいだろうか。 私はその方の美しいのびやかな歌声を知っていたので、とても奇異な感じがしたが、おりあしく風邪でも引かれたかとも思った。そうだとしたら気の毒なことだ。私はちかくにいた母に、「Sさんの歌がなんだかおかしいねー。音が微妙にくるっているなー」といった。 歌いおわったところで司会者のKさんが登場した。そして声をつまらせながら、そのソプラノ歌手がこのステージを最後に引退することを発表したのである。「こんなことを私が御報告しなければならないなんて、私の長い経験のなかで一度もありませんでした」と。 「からだはこの通り元気なんですが、引退いたします」とSさんはいった。 そうか、そういうことだったか、と私は得心した。 得心すると、かえってSさんの引き際をみごとだと思った。一線で活躍してきたあでやかさのある歌手が、ステージからしりぞくという決断はなみたいていなことではあるまい。いつまでもその歌声を聞いていたいというファンの要望もあるはずだ。それを振り切っての決断であろうから。 なんだかとんでもないものを聞き、見てしまったような気がした。そして、こころのなかで惜しみない拍手を贈った。
Jan 31, 2008
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ブログを通して知り合いになった釈迦楽さんの今日のページに、「プッチーナ」という珍しい野菜を食されたと書かれていた。私はまだ食べたことがない。したがってどのように料理するかも知らない。と、書きはじめてみたのは、実際、新しい野菜や果物が近年ますます店頭をにぎわしているからだ。思い返してみると、1980年代に、まず種々の中国野菜がスーパーマーケットでも入手できるようになったのではなかったか。 私は自分で料理するし、博物学的な関心もあって、ときにはまったく未知なものに大胆に手を出してみる。一方で、自分の知識が追いつかないと溜息をつくこともある。輸入品かと思えば、日本産と知り、国内の農業生産品が大きく変化していることに気付かされる。広く一般家庭に浸透しているとまでは言えないだろうが、ともかく日本人の食材の幅が大変ひろがっていることは間違いなかろう。 中国野菜といえば、たしか農林水産省が統一名称を発表したのが80年代の初めであった。私はそれを記録している。少しばかり列記してみよう。()内は統一前の呼称。 パクチョイ(白軸パクチョイ) チンゲンサイ(青軸パクチョイ) ニガウリ(ツルレイシ) マコモ(マコモダケ) ハナニラ(テンダーポール、グリーンポール、ニラバラ) エンサイ(アサガオナ、クウシンサイ) タアサイ(キサラギナ、ユキナ、ヒサゴナ) コウサイ(香菜、コリアンダー、シャンサイ、コエンドロ) カイラン(芥藍、カイランサイ) コールラビ(球形甘藍) トウミョウ(豆苗) サイシン(油菜、菜台、菜心、トウナ) 黄ニラ(韮黄、黄金ニラ) キンサイ(芹菜) これらの中国野菜は、いまや一般家庭の料理のなかに取り入れられているにちがいない。キンサイはセロリの一種だが、イカと炒めたりするとおいしい。サイシンは焼そばの青みにすると良くあう。 ついでだから、いわゆる西洋野菜をあげてみる。輸入されて30年以上になり、すっかり日本型改良をくわえられたものもある。チエリールバーブは明治時代の初期にすでに輸入されたことがあるようだ。まずその代表的なところから。 ●マーシュ ●トレビッツ ●キングベル ●クインベル ●チレネグロ ●ウィットロフ・アンディープ(チコリ) ●葉付きミニキャロット ●マスタードグリーン ●ズッキーニ ●花ズッキーニ ●フェンネル(ウイキョウ) ●ビーツ ●チェリールバーブ(ルバーブ) ●ターバン・スクワッシュ ●リーキ ●ルビーオニオン ●パールオニオン ●ホワイトオニオン ●オニオンブランシュ ●エシャロット ●バイトレアン ●サンゴショウ ●エイコンスクワッシュ ●バターナッツスクワッシュ ●セロリアク ●シブレット ●アーティチョーク さらに果物を。 ●ライム ●パパイア ●パッションフルーツ ●青ヤシ ●チェリモヤ ●ドリアン ●アボカド ●タマリロ ●ペピーノ ●ペリカンマンゴー ●ピターヤ ●シュガーアップル ●グァバ ●ランプータン ●ライチ ●マンゴスチン ●フィサリス ●グラナダ 記憶をたどれば、いまやごく普通の果物になってしまったキウイ・フルーツも、私が子供の頃といわず学生時代にも見かけなかった。初めて口にしたのがいつであったか忘れたが、グスベリのような味だと思ったものだ。いまではグスベリのほうが探すのが困難だ。いやいや、メロンは病気見舞いのものだったし、バナナは子供時代の最上のオヤツだった。メロン以前は、マクワウリと言っていたなー。 輸入された直後はなかなか日本人の味覚に合わず、敬遠されたものもあるという。フェンネルなどもその一つらしいが、今では粉末瓶詰ならどこのスーパーマーケットのスパイス売場にもならんでいる。私は魚介料理によく使う。 そういえば昔パリのレストランで笹筍のようなものが出てきたので、これは何だと聞くと、たしか「椰子の芽」と言ったように覚えている。ちがうかしら? 日本でお目にかかっていないのだが、どこかに売っているのだろうか。 さて皆様は、ここに挙げた野菜や果物を全部おためしになりましたろうか。
Jan 29, 2008
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ここ数日、ブログの更新がとだえた。じつは、書きはじめたものの長文になりそうなので、あらためてシンプル・テキストで下書することにした。それがまだ仕上らない。調べなおすことも出てきたからだが、まあ、そのうちアップしてお読みいただくことにしよう。 と言いながら、日曜日のきょう、なんとなんとテレビを8時間も見つづけていたのだから、われながらあきれる。NHK・HVで特集『世界の名建築100選』という番組を放映した。私の建築好きは、すでにこのブログで告白している。日曜日でもあるし、何も仕事をしないと腹をくくって、メモ用紙片手にテレビの前に陣取ったのだ。 番組は、必ずしも私を満足させなかったが、100の建築を紹介するとすれば、駆け足のおざなりになるのも仕方がなかろう。とはいえ、いつものことながら、どうでもよさそうなゲスト出演者をむかえて、どうでもよいおしゃべりをして、NHKだからこそ取材可能な所へも入り込んでいるのに、碌な映像も撮れていないていたらく。NHKばかりではなく、民放もそうなのだが、このような番組作りにおいて、芸能人などをレポーターにしたり、くだらぬクイズをはさんだりする方法を、もうそろそろやめては如何か。私のこのブログをNHKはときどき見にきてくれているようだし、多くのケーブルTV局や民放局も見てくれているようなので、あえて、苦言を述べておく。なんでもかんでも万人向けにすることなど、どだい不可能なのだ。薄い番組があり高度な番組もありで良いのではないか。薄いから見ない、ということだってあるでしょう? ところで32番目の〈会津さざえ堂〉が紹介されたのは嬉しかった。そのキャッチ・コピーが「堂々めぐり」とあった。私も2005年8月23日に〈会津さざえ堂〉について書いているが、2005年10月19日には「塔塔(堂々)巡り」というタイトルで塔建築についてのあれこれを書いている。考えることは誰でも同じなのか。 ついでだから『世界の名建築100選』に選定された建築を列記しておこう。1)桂離宮 2)タージマハール(インド) 3)モン・サン・ミシェル(フランス) 4)故宮(中国・北京) 5)ケルン大聖堂(ドイツ) 6)カッパドキアの地下都市(トルコ) 7)法隆寺西院伽藍 8)厳島神社 9)クフ王のピラミッド(エジプト) 10)清水寺11)パンテオン(イラク) 12)アヤソフィア 13)承啓楼(1712年:中国・福建省) 14)ウエストミンスター宮殿 15)サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 16)ピサの斜塔 17)エッフェル塔 18)コロッセオ 19)ペトラのエル・ハズネ 20)シェーンブルン宮殿21)シュバルの理想宮 22)アルペロペッロのトゥルッリ(円錐型屋根)(17世紀~現在:南イタリア) 23)アメン大神殿 24)パルテノン神殿 25)マチュピチュ 26)エル・カスティーリョ 27)マハーボーディ寺院 28)シューエージーゴン・パゴダ 29)ワット・アルン 30)ポロブドール寺院31)薬師寺東塔 32)会津さざえ堂 33)三佛寺投入堂 34)浄土寺浄土堂 35)平等院鳳凰堂 36)エローラ石窟寺院 37)メスキータ 38)バイヨン寺院 39)スルタン・アフメット・モスク 40)イマーム41)泥のモスク(マリ共和国) 42)サン・マルコ大聖堂 43)サント・マドレーヌ聖堂 44)アミアン大聖堂 45)サン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂 46)シャルトル大聖堂 47)サン・ミシェル・デュギュイ礼拝堂 48)ル・トロネ修道院 49)ロンシャン礼拝堂 50)ラリベラの岩窟教会群51)モルドバ地方の教会群 52)リラ修道院 53)ホルグニド修道院 54)スウェデン・ストックホルムの森の墓地(1940年:エリック・グンナール設計) 55)日光東照宮 56)天壇(1420年:中国) 57)万里長城(永楽帝年間:中国) 58)ローマ帝国の水道橋(アウグストス帝ローマ時代) 59)ヴェルサイユ宮殿(17世紀後半ルイ14世時代) 60)アルハンブラ宮殿(スペイン・グラナダ)61)二条城ニの丸御殿(1603年) 62)ノイシュバンシュタイン城(1869年着工:ルートヴィッヒ2世:ドイツ) 63)松本城(安土桃山時代) 64)姫路城(1618年) 65)聖ワシリー聖堂(ロシア・モスクワ) 66)エルミタージュ宮殿(1762年:ロシア) 67)メーリニコフ自邸(1929年:コンスタンティン・メーリニコフ設計:ロシア・モスクワ) 68)モスクワ大学(ロシア) 69)シバームの高層住宅(イエメン・シバーム) 70)伊勢神宮71)慈照寺東求堂 72)西本願寺書院 73)三渓園臨春閣(1649年:横浜) 74)妙喜庵待庵(1582年:千利休:京都・山崎) 75)大徳寺孤篷庵忘筌(1643年:小堀遠州) 76)鹿苑寺金閣(1397年創建、1955年再建) 77)臥龍山荘(1907年:愛媛県大洲市) 78)東大寺南大門(1199年) 79)正福寺地蔵堂(1407年:東京・東村山市) 80)根来寺大塔(1547年頃:和歌山県岩出)81)羽黒山三神合祭殿(1818年:山形県鶴岡) 82)大瀧神社(1843年:福井県越前) 83)閑谷学校(1701年:岡山県備前) 84)屏山(ビョンサン)書院(1613年:韓国) 85)代々木体育館(1964年:丹下健三設計:東京) 86)河回(ハフェ)村の民家(韓国・洛東江〈ナクトンガン〉) 87)フランス旧国会図書館・ラブルーストの閲覧室(1859~1867年:アンリ・ラブルースト設計:パリ) 88)ムニエのチョコレート工場(1872年:フランス・ノソジェル) 89)ウィーン郵便局(1906年:オットー・ワーグナー設計:オーストリア・ウィーン) 90)富岡製糸工場(1872年:群馬県富岡)91)オルタ邸(1901年:ウィクトール・オルタ設計:ベルギー・ブリュッセル) 92)ヒルハウス(1910年:チャールズ・レニー・マッキントッシュ設計:イギリス・グラスゴー) 93)シュレーダー邸(1929年:ヘリット・リートフェルト設計:オランダ・ユトレヒト) 94)サヴォワ邸(1931年:ル・コルビュジェ設計:フランス・ポワシー) 95)ファンズワース邸(1951年:ミース・ファンデルローエ設計:アメリカ・イリノイ州) 96)落水荘(1936年:フランク・ロイド・ライト設計:アメリカ・ペンシルベニア州) 97)クライスラービル(1930年:ヴァン・アレン設計:ニューヨーク) 98)サグラダ・ファミリア聖堂(1882年着工~現在:アントニオ・ガウディ設計:スペイン・バルセロナ) 99)岩のドーム(691年:エルサレム旧市街) 100)白川郷合掌造り(岐阜県白川) いずれもまさに有名建築。独特の美しさと、何よりも人間の叡智の結晶という気がする。
Jan 27, 2008
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東京西南部、早朝から降り出した雪が午前9時を過ぎても小止みない。積るほどではないが、庭木はすっかり薄化粧した。先日シンビジュウムへほどこした早手回しの雪除けが役にたった。 猫たちが伸び上がって窓からながめていたが、サチはこらえきれなくなって、自分で開けられないガラス戸をリコに開けてもらって、ベランダへとびだしていった。ふたたび家のなかに飛込んで帰ってくると、なにやらしきりに私に話しかける。雪に興奮しているのである。「雪だ雪だ、寒い寒い」と私は応える。新聞を取りにゆく私の後をついてきて、ドアを開けるや足許を擦り抜けて庭に出て行った。マリも濡れ縁に背をまるめてちぢこまりながら、降りしきる雪をながめる。我家の猫たちは炬燵でまるくなるどころか、まるで犬のように庭をかけまわっている。雪見兎という言葉があるけれど、我家の猫たちは「雪見猫」である。
Jan 23, 2008
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職人さんと一口にいっても、その分野はひろい。また、誰それさんの作品と名指しできない、というより地域特産のようにその一帯で製作されるものがすばらしいこともある。たとえば私が愛用している広島県府中のタンスはその一例であろう。ここで生産される家具は一度使ってみると、以後、他に目が移らなくなってしまう。 そのような日用工芸品で、私が惚れてしまったもの、美しく、しかも手ごろな価格で購入できる2,3をあげてみよう。 ●北浜澄子氏(香川県)の一閑張くず篭。 「一閑張」はおよそ500年前に明国から渡来した塗師・一閑が伝えた技法といわれ、竹で編んだ骨組に和紙を重ね張りし、渋柿の汁にひたして乾かすことを何度も何度もくりかえしたもの。じょうぶで、深く美しい飴色になる。北浜氏のくず篭は、形体にデザイン的な技巧があるわけではない。むしろ素朴。しかし、そのおおらかな存在感たるや並のものではない。現在では室内にくず篭を置く生活形態ではなくなったかもしれないが、キッチンの片隅にレジ袋を置いてすましていると、一閑張くず篭はまさに美術的オブジェに見えてくる。 北浜澄子作 《一閑張くず篭》 口の部分を示す ●柴田慶信氏(秋田県)の大館曲げ輪っぱの傘立。 大館の曲げ輪っぱは説明するまでもなかろう。秋田杉の柾目の剥板(へぎいた:薄く剥いだ板)を曲げ、合わせ目を桜の木の皮で綴じてつくる器である。折敷(おしき:角盆)や弁当箱などが一般的で、白木のままのものや柾目の美しさが透けてみえるように絽漆をかけたものがある。柴田氏の傘立は、おおような美しい曲線をえがく楕円形の輪っぱを三段重ねにして、それらを貫いて縦四方に剥板を入れ、水平の合わせ目および上下を幅広の帯状の輪っぱで繋ぎ、渋い飴色の絽漆でふいている。まことに雄々しい、古武士のような風格がある。しかしモダンでもある。すばらしい造形感覚である。 柴田慶信作 《傘立》 ●江藤啓治氏(宮崎県)の竹長椅子。 これはまた何と言ったらよいだろう。割竹をならべて丸竹で押さえた、きわめて直線的なベンチである。一見、技巧なき技巧といった印象なのだが、その毅然とした風格がすがすがしい。よく見ると、じつは繊細な技巧がほどこされている。背もたれ部分に薄く削いだ割竹をならべているのだが、一本一本の中ほどをくびれのように削ってそこで並列につなぐようになっていて、帯状の装飾効果を発揮している。しかもそれは直線的帯ではなく、微妙にゆるゆると曲っている。そのゆるゆるとしたファジーな感覚はその帯の下の部分で一層強調されている。すなわち竹一本づつの両側が、まるで削り方を失敗したかのように抉られていて、それぞれ形も位置もばらばらなのだ。それらを並べることによって、大小さまざまな歪んだ菱形の細い隙間ができることになる。その隙間から光がさしこみ、背もたれに、まるで波間に踊る光の帯のような模様がうかびあがるのである。そっけない四角四面の竹のベンチが、俄然モダンで粋なオブジェになる。見事に計算しつくされているのである。 江藤啓治作 《竹長椅子》 きょうは私が瞠目する3人のすばらしい職人さんの作品を紹介するにとどめるが、いずれも日本のいわゆる伝統工芸をルーツとし、しかし独自の感性で日用品のなかに美をつくりだしている。消費者を欺くことに意をかたむける愚かな経営者たちは、この方々の爪の垢でも煎じて呑ませていただくがよかろう。
Jan 21, 2008
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テレビのチャンネルをあちこち変えていたら、某局のビジネス番組の映像に釘付けになった。宮師(御宮大工)の仕事を紹介していたのである。その宮師は、埼玉県岩槻市で3代つづく宮宏御宮製作所の宮崎宏(2代目)・元夫(3代目)親子。 まず、宮師の仕事というのもお目にかかる機会がなかったが、テレビ映像からさえその仕事振りのすばらしさが見てとれた。お宮制作は、寺社建築のように大規模ではないにしろ、和建築の最高度の技術の結実であることは言うをまたない。神社の形式がいろいろあるように、お宮も種々の様式があるそうだが、寺社建築より小規模だけに、仕上りが細部まで一目瞭然になる。お二人の美しい仕事は工芸美といってよいだろう。「ほれぼれする」と、私は嘆息した。 なにしろ私は建築好きであるうえに、ミニチュア模型それも手作りのものが大好き。めまいのするような陶然とした感覚におそわれる。 4,5歳のころ、隣家の高校生のお兄さんがすべてを手作りした帆船模型を見て、卒倒しそうになった。後ろ髪をむんずと掴まれて空中にのけぞるような感覚。ほとんどエロティックといってもよいその感覚は、小人国リリパットに迷いこんだガリバーのように、世界を一望のもとにとらえたいという意志に重なった。細部へのこだわり、美の神は細部にやどることを、私はそのとき、めまいの感覚のなかで自覚したのだった。 宮崎親子の仕事ぶりは、まさに神のやどる仕事だった。 私の視線は、信仰心とはなんの関係もない。 私はふと、国立博物館はこの宮師に、伝統的和建築の代表的数々の精巧な模型を依頼すべきではないか、とさえ思った。 国立博物館は収集はするけれども、技術をヴィジュアル的に解説し、未来へむけて拓く姿勢がないのではないか、と私は常々思ってきた。展示は担当者の表現でもあろうに、観客へのアプローチに迫力が感じられない。私はそこに、ある種の無能、尊大な無能を感じてきた。海外の博物館を訪れると感じるあの文化的豊かさは、どこからくるのだろう、とも。 つまるところ企画力の欠如だろう。内部システムが風通しが悪いのかもしれない。いずれにしろ、それでもっとも損失をこうむっているのは国民なのだ。博物館はカビ臭い物品の倉庫ではなく、対外的にも日本文化の発信基地といってもよいのだから。 私は御宮を収集展示せよと言っているのではない。和建築の高度な伝統技術をもっている宮師のような職人に、建築史を一望できるような模型、しかも工芸美をそなえた建築模型の製作を依頼して、同時に技術の保存に役立ててはどうか、と提案しているのだ。もちろんそれは展示方法についての単に一つの例にすぎないのだけれども。 昨年、国立博物館は『レオナルド・ダ・ヴィンチ ― 天才の実像』展を開催した。この展覧会はわが国立博物館のオリジナル企画ではなく、イタリアのフィレンツェ科学史博物館が監修しウフィッツ美術館で開催された同名の展覧会を、ほとんどそのまま借用したものであった。それはそれで結構であるが、しかしまた何と言うていたらく。私はその展覧会の構成力、ヴィジュアル化した解説の迫力に感嘆しながら、わが国立博物館のいたらなさをあらためて実感することにもなったのだった。同展覧会が良質な模型によって成立していたことを思えば、上にのべたような私の提案もあながちバカ気たものでもあるまい。 先日、技能五輪にふれ、そのすばらしい若き技術者の存在に感動したことを書いた。きょうもまた、宮崎宏・元夫親子の仕事を見ながら、心ふるえる感動の仕事にであったのである。 宮宏御宮製作所にはホームページがある。技術的解説も映像もテレビ映像のようにはゆかないけれど、興味のあるかたはアクセスしてみてください。
Jan 20, 2008
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好天気とはいえないまでも、日射しもあるので、午後みんなで老母を車にのせて買いものがてらの散歩に連れ出した。 ことし89歳をむかえる老母は、昨年来めっきり衰えて、とくに筋肉の衰えはただ悪循環をくりかえすだけである。自らを叱咤し、気力を奮い立たせて身体を動かす努力をしない老人は、どんどん駄目になってゆくばかりだ。家族のスポイル(至れりつくせりの甘やかし)は老人の無努力をうむことにもなりかねないので、こういう兼合いはじつにむずかしい。どこが痛い、ここが痛いという訴えが、甘えからの場合もあろうし、ほんとうに痛んでいる場合もあろう。そういう見分けが困難なのである。その判断は、家族のみならず看護・介護の専門家にもむずかしいことで、率直に言うと、そういう専門家がもっとも不適切なことをして気がつかないことも少なくはない。 老化や死は、受け入れなければならないこととして、私は早くから言わず語らずに示唆してきた。酷なようだが、「じたばたするな」ということだ。「もうすこしで90歳なんだから、どうせなら頑張ってみたら?」とも言うのだけれど。 じたばたしないことと、頑張って生きることは、相反することではあるまい。 「不思議だねー。兄姉はみな死んでしまったし、親戚関係も私と同年以上の人はもう誰も残っていない。学校時代の同級生も誰一人として残っていない。私がたった一人生きつづけている・・・」と、母は言う。 母の実母、つまり私にとっては祖母もまた、いまの母のように、知人友人がみな亡くなっていった後に、ただ一人90歳まで生きた。私が最後に祖母に会ったのは、死の3年前のことで、そのとき祖母は、「私はあと3年きりしか生きられないから、タダミさんと会うのはこれが最後でしょう。たっしゃで暮らしなさいよ」と言った。そして、みごとに、その通りに生涯をとじた。 「あなたの母親のように死になさい」と、私は母に言いたいのだ。 さて、今夜、東京は雨になるという。明日の朝は雪が降るとの予想もでている。 地植のシンビジウムに雪除けを掛けたほうがよいかもしれない。 この2株のシンビジウムは、もともと鉢植えだったが、5年ほど以前のこと、亡くなる前の父が何を思ったのか、それとも勘違いからか、鉢から掘り起こして庭に地植してしまったのだ。「あらー!?」と母は驚いていたが、家人たちは何も言わずにそのままにした。 父が庭いじりをすることなど見たことがなかったので、これまで内心にやりたかったことを死を目前にしてやったのかもしれない、と私は思った。 それから2年ほどして父は亡くなったわけだが、地植したシンビジウムは生き延びて、毎年、花を咲かせている。隣家の夫人が、「よく地植ができましたね」と感心していた。実際、ほとんど何も手をかけず、まるで野生の蘭のように、他の植栽のあいだに埋もれるようにして生きている。いま、この時季も、濃い緑の葉を長々とのばしているのである。 さあ、これから一仕事、雪除けをかけてこよう。
Jan 20, 2008
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2册の古書がただいま郵送されてきた。 昨年11月、愛知教育大学図書館が除籍本を処分する旨の広報を出した。私は同大学のO教授から連絡を頂戴して、さっそくそのかなり厖大なリストを詳細にわたって見たところ、ほしい本が29册あった。O教授の助言もあって、さっそく希望書籍のリストを図書館宛に送った。 希望者をどのように選定するか不明だったが、O教授から入った途中経過によると、千数百名の希望者があるということだった。どうやら応募を締め切ってから抽選をするらしかった。 そうして結果を待つこと2ヶ月。さきほど本が届いたのだ。ただし希望した29册のうち、当選したのはわずか2册。まことに淋しいかぎりだった。 もちろん当初から、全部が入手できるとも思っていなかったが、私には本命があった。それを取り逃がしてしまったのだ。これで昨年から2度、古書の取り逃がしをしている。他のひとつは東京薬科大学で宮沢賢治全集をポカしてしまったこと。それにつづく今回も、20巻の叢書である。 この叢書は、標題は伏せるが、一般的な読書にはとても見合うものではないので、いずれ研究者の手にわたったのであろう。「再婚」相手として納まるところに納まったと思えば、同慶のいたりである。 とはいえ、私は長年調べていることがあったので、その作業をはかどらせるために手元においておきたかったのだ。ウーン、外出時には必ず携行している調査用の手帖は、また途中から空白のまま時だけが過ぎ去ることになるか! 「未練なのねー」 「そうよ、ちったぁそっとで、諦めきれねーのよ」 「呑んで、もう一杯」 「ありがとうよ」 「でも、なんだか焼けるわ、その本に」 「ばかなことを言うんじゃねぇよ」 「わかってるわよ。ねえ、あたしにも一杯ついでおくれ」 って、バカなことを書いてんじゃないよ。
Jan 17, 2008
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きょうの東京は快晴、風があるせいだろう空気が澄みきって、我家の近辺から、遥か彼方に富士山が美しくのぞめる。真白き富士の嶺である。 毎年、正月前後は東京も車の混雑がないためであろうか、晴れていれば午前中は富士山がみえることが多い。といっても大抵は午後になると幻のように消えてしまうのだが・・・。 きょうはすでに午後1時をまわったが、まだ陽の光をあびてはっきり見えている。周囲の山並は青みをおびて書割りのように平板だけれど、富士のみは、山頂にまで幾筋にものびる切り立った小峰さえ見えるのである。いかにも颯爽とした富士を見て、なんとなく嬉しくなってしまった。 みな来んよ晴れて富士見ゆ弓始め 維史
Jan 17, 2008
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レオナルド・ダ・ヴィンチ作『モナリザ』のモデルが誰かという長い間の論争が決着しそうだ。14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館が、所蔵図書の余白に確かな証拠となるメモを発見した、と発表した(朝日新聞、ベルリン発、金井和之氏記)。 それによれば、同図書館職員が蔵書整理中に、15世紀にフィレンツェの役人が書き付けていた日記の余白に、「ダ・ヴィンチがフィレンツェ商人の妻リザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中だ」という意味の記載があり、1503年10月の日付があるという。新聞はその部分の写真を掲載している。 1503年10月というのは、ちょうどレオナルドが『モナリザ』を制作していた時期にあたり、同図書館は、モデルを特定する重要な証拠となるという。 美術作品においてモデルが誰であるかは、純粋美術の見地からはさほど重要な問題ではない。つまり、モデル如何によって作品の美的な価値がかわるわけではないからだ。一方、その芸術家の履歴やモチーフに対する芸術的モチベーションを研究するとき、あるいはその時代の風俗やさまざまな社会的背景を研究するときに、モデルが誰であるかということを無視するわけにはゆかない場合もある。たとえば宮廷画家としてのゴヤとカルロス4世との関係、レンブラントと妻サスキア、あるいはゴッホとパリの浮世絵商タンギー爺さん、あるいはベルギー象徴派の画家フェルナン・クノップフとその理想的女性であった妹マグリット、あるいはアンドリュー・ワイエスとヘルガ、等々。 『モナリザ』のモデル論争は、レオナルドがこの作品を終生手放さず、1516年にフランソワ1世に招かれてフランスに渡ったときも携えてゆき、同地で筆を入れつづけていた事実と無関係ではない(1519年5月2日死亡)。完成まで15,6年もの長きにわたって手をいれつづけていたのだ。そしてこの小さな作品は、彼の理想的女性としてのイメージであるばかりでなく、その微笑みが意味するものの正体が何であるか、500年間人々を呪縛しつづけている。いまやその「謎」を世界中が知らぬ人とてない。レオナルドがフランスで亡くなり、遺されたこの肖像画をフランソワ1世が買い取った。かくて人類の至宝としてルーヴル美術館に所蔵されているわけだ。 『モナリザ』のモデルがリザ・デル・ジョコンドであることは、碓たる証拠もないまますでに推定されてきた。『モナリザ(モナ・リザ)』という画題はレオナルドが名付けたのではない。『ラ・ジョコンド』という名称も一般的である。いずれも、今回ハイデルベルク図書館の発見によって追認されたようなものだ。 私は、いまとなれば、そのかつての推定にいたる探索技術に学問の成果をみる。といってもお分かりいただけないかもしれない。たとえばエドワルド・ムンクは20世紀の画家であるが、彼の精神的履歴に踏み込むような詳細な伝記はじつのところ著わされてはいないといってよい。伝記的探索技術が非常に発達した今日でも、彼の場合、彼を知る人が口をとざしてしまうところがあるらしいのだ。ひとりの人間の全体像を再構成することは無論きわめて困難ではあるが、しかし人を納得させるにたる証拠資料はあつまるものである。親しい交際をしていた人にとっても謎というのは、なんらかの表現活動をしていた人物となれば一層、きわめてめずらしいのである。現代情報社会のジャーナリズムの発達をみればそのことは良くわかるであろう。 私が「探索技術に学問の成果をみる」と述べたのは、情報が多ければ混乱と誤解も生じる道理で、それらを捨取選択するには広い分野にかかわる専門的知識と論理学が不可欠だからである。 そのことに照らし合わせて『モナリザ』のモデル論争がおもしろいのは、諸説のひとつに、「レオナルド自身の変身的肖像ではないか」という意味の説がある。彼がホモセクシャルであったことから、女性としての自分自身を描いたにちがいない、という穿った考えである。この考えを一笑に伏すこともできないのは、20世紀のピエール・モリニエのように男根をそなえた女性としての自画像を繰り返し繰り替えし作品にしている例もあるからである。肖像画といえども必ずしも現実の姿を写し取っているとは限らない。幻想の肖像画というものもあるのである。現代美術において、とくに写真家がそのような作品を発表している。写真というものが、「真」を「写す」という一般化された概念、いいかえれば在るものを在るがままに記録したものが写真であるという固定概念を打破することを一つの目的にしているのだ。 レオナルドの自画像としての『モナリザ』説は、そういう意味では心理学的な議論であった。しかしその議論は謎が謎をうむだけで、モデル論争を決着することにはならないことは初めから分っていた。むしろ美術作品に対するあまりにも現代芸術的な観点といってよいかもしれない。 肖像画とそのモデルとの関係はなかなかおもしろく、私の話もあちこちに拡がってゆきそうになる。ともあれ、今回のメモの発見が500年の論争に幕をおろすことになるのかどうか。この発見に対抗する説がまた一つ二つと出てくるのか。まあ、いずれにしろこういう話題は、高みの見物をしていても誰の害にもならないのである。
Jan 16, 2008
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中国・甘粛省の馬蹄寺石窟の13世紀後半に描かれた壁画のなかに、印刷した紙を貼付けたものがあることが判明したという記事が、15日、朝日新聞の文化面に載った(宮代栄一氏記)。 2003年から開始された敦煌研究院による「甘粛省内小石窟調査」で発見されたものという。現存する9基の石窟のうち、北寺第3窟の天井近くに、一枚の紙が30×40センチほどの大きさで、五方仏という密教の仏が印刷によって描かれ、すきまなく貼られていた。 石窟の壁画は岩面に下塗りをしてから顔料で直接描かれているのが普通で、この馬蹄寺石窟より早期に成立している敦煌の莫高窟のなかには「紙本壁画」といわれる紙に絵を描いて貼付けたものがすでに知られている。しかし、印刷画というのは、初めての発見である。敦煌研究院の劉所長は「少なくとも中国では初めて」と言っているらしいが、あるいは世界的にみても類例がないのではあるまいか。ことなる五方仏像の同じ部分に同じ墨のかすれがあることから、木版などによる印刷であろうと判断された。天井附近の高いところは肉筆で描きづらいので、作業の手間をはぶく簡便な方法として用いられたのであろうという。 また、この調査では、他の敦煌石窟のなかに、筆ではなく葦などのペンを使って描かれた「ペン描き壁画」が存在することも明らかになった。 古い時代の絵画材料の研究はなかなか興味深いものである。石窟の壁画に紙を貼っているということは、気候風土とも密接な関係があるわけで、さらにはどのような接着材を使用したかも問題になってくるだろう。すくなくとも宗教的建造物における荘厳(しょうごん:装飾)は、永続的であることを希求しているので、材料学的な見地からは一層興味深い。また、印刷ということになれば、版画史の一面もあらたにひらくことになろう。 私にとってこの発見が衝撃的だったのは、信仰の心とその表現の問題をさぐっていて、それこそ少なくとも日本では近代以前には、寺社建築をふくめて宗教的造形に「簡便法」はないと見ていたからだ。まったき信仰心のあらわれとしての造形の仕事に、合理主義的な簡便法は、事の初めから思いうかぶことはなかったのではないか、というのが私の研究結果だった(註)。 その研究結果を、もういちど今度は逆方向から、「もしかするとどこかに簡便方法が採られているかもしれない」という思いをいだきながら検証しなおさなければならないのではないか? ふと、心おだやかでないものがよぎったのである。(註) 日本の近代以前の古い寺社建築は、地面そのものから、人と仏、人と神とを明確に区別する結構造りがはじまっている。つまり建物は、地面に乗せた「上物(うわもの)」ではないのである。 エチオピアのラリベラ岩窟教会群は、巨大岩盤を丸彫りして教会をつくっている。階段にしろ、窓枠にしろ、内部の装飾や聖人像にしろ、すべてが建物と同じ一枚岩から彫り出しているのである。別に造って付け足している部分は一切ないのだ。この驚くべき仕事を成し遂げたのは、民衆の信仰心以外のなにものでもあるまい。私が言う「まったき信仰心」とは、そういうことを指している。 中国の岩窟寺院もまたそのような信仰心のあらわれであることは疑念の余地がないが、それだけに印刷壁画の発見は興味深いといえよう。
Jan 15, 2008
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いやー素晴らしい! NHK・TVで〈スーパー職人大集合 技能五輪に挑んだ若者たち〉を見ての率直な感想である。 技能五輪。昨年11月15日から18日まで静岡県で開催された国際大会で、正式名称を『2007年ユニバ-サル技能五輪国際大会』(International Skills Festival for All, Japan 2007)といい、「第39回技能五輪国際大会」と「第7回国際アビリンピック」の総称である。世界のトップ・クラスの技術を有する、いわゆる職人さんの国際競技だ。 この大会に日本の20才前後の若者が出場し、なんと16個もの金メダルを獲得しているという。番組はその若者たちをスタジオに招いて、プロフィールと挑戦への道のりを紹介したのであった。 そもそも技能五輪とはいかなるものか。静岡県庁のウェブサイトによれば、7つのジャンル、35の職種、加えて今大会に初めて登場した看護・介護職によるA・B・C・D4つのルールに別れた、まさに国際五輪というにふさわしい熾烈な競技である。 以下に概略を記してみる。【】内はジャンル、●印が職種。【電子技術系】 ●メカトロニクス●電子機器組立●電工●工場電気設備【建築・建設系】 ●タイル張り●配管●石工●広告美術●家具●建具●建築大工●造園●れんが積み●冷凍技術(冷凍庫やエアコン等に使われる冷媒配管設備の加工)【機械系】 ●機械製図CAD●自動車工●製造チームチャレンジ【金属系】 ●溶接●自動車板金●車体塗装●金属屋根葺【サービス・ファッション系】 ●貴金属装身具●ビューティセラピー●美容/理容●フラワー装飾●西洋料理●レストランサービス●印刷●洋菓子製造●洋裁【情報通信系】 ●ITPCネットワークサポート●グラフィックデザイン●情報技術●情報ネットワーク施工●ウェブデザイン【その他】 ●看護●介護 これらが次の4つの部門にわかれる。(A) 4日間通じて1つの課題を作成する。(B) 4日間通じて複数の課題を作成し、最終的に1つの課題を作成する。 (C) 日ごとに課題を作成する。(D) その他。 どのような競技がおこなわれるかというと、 たとえば(A)部門の〈精密機器組立〉の場合、「製造、組立て、保守、および制御工学の領域における競技課題に基づく実作業」である。この部門の金メダルは日本の若者だったが、彼の旋盤技術は1000分の1ミリを削り出すという。旋盤機械の目盛りは100分の1までしかないそうで、1000分の1というのはまったく彼の肉体的感覚によるのだというから驚嘆する。 (B)部門だと、〈工事電気設備〉の場合、「現場想定の制御装置作成(メイン課題)の他、プログラミング等4つの課題を4日間22時間で完成させる。 (C)部門の〈西洋料理〉は、1日目・コースメニュー作りと仕込み、2日目・冷たい料理とデザート(計4品)、3日目・コースメニュー4品の料理、4日目・コースメニュー3品の料理。 「すぐれて高度な技術の獲得は人格の陶冶をもたらす」というのが私の人間観察なのだが、この技能五輪に挑戦して優秀な成績をおさめた青年諸君は、その道ではいまだベテランというには遠いのだけれど、すでに技術研鑽の過程でかくじつにある哲学的真実に到達していると思えた。私はそこに感動し、ふいに涙あふれたのだった。すばらしい青年たちがいるのだ!と。 私は職人わざがことのほか好きである。昔、私の作品の実物をたまたま見た人が、その場にいた私が作者だと知って、譲ってほしいと言ってきた。新潟から上京していた職人さんだという。私の細部の仕上げ方に、職人としての魂がゆさぶられるのだ、と。嬉しいことばだった。私は一般の読者や観客に御会いする機会はめったにないし、その声を直接ぶつけられることは一層少ない。 「技術的には職人芸をめざしているとも言えるんです。職人さんを尊敬しておりますので」と私は言った。 それは事実であった。私の油彩技法は最終的表層の下に何層もの仕組みがあるからだ。 作品を譲ることはできなかったが、このような人に自分の作品が所有されたら、作品も幸せであろうと思った。 私の蔵書にも、職人噺は多い。すこしだけ書名を挙げてみようか。●斎藤隆介『職人昔ばなし』(文春文庫)●師岡幸夫『神田鶴八鮨ばなし』(草思社)●初代彫清凡天太郎『肌絵 ― 日本の刺青』(立風書房)●青山茂編『正倉院の匠たち』(草思社)●西岡常一・青山茂『斑鳩の匠』(徳間書店)●西岡常一『木に学べ』(小学館)●バーナード・ルドフスキー『驚異の工匠たち』(鹿島出版会)●藤本康雄『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』(鹿島出版会) 小説だと、このブログで書いた100円古本のなかにもある。●佐江衆一『江戸職人奇譚』(新潮社)●佐江衆一『自鳴琴からくり人形 江戸職人奇譚』(新潮社)●辻邦生『江戸切絵図貼交屏風』(文藝春秋)●杉本章子『東京新大橋雨中図』(新人物往来社)●飯嶋和一『始祖鳥記』(小学館) まあ、このくらいにしておこう。 きょうは成人の日。NHKのテレビ番組はそれにちなむところもあったかもしれない。成人になったというと、酒だタバコだと応じるやからも少なくないが、世界に冠たる技術を身にそなえた若者の存在を知って、未来の日本をつくるのは愚かで無能な政治家どもや省庁の腐敗した官僚どもではなく、これらの青年たちなのだと嬉しくなったのだった。
Jan 14, 2008
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正月行事としての「どんど焼き」は、いったいどのような由来なのだろう。民間信仰にただ一つのルーツをもとめるのは困難なものだが、「どんど焼き」の祭神は道祖神である。これにさまざまな神が習合していて、「どんど焼き」そのものも意味が複合しているようだ。 道祖神は村の入口や辻などに祀られている神である。そこから疫霊や悪鬼が入りこまないように、境界を守ると考えられている。境(サカイ)を守るので「塞の神(サイノカミ、あるいはサエノカミ。境の神・歳の神とも書く)」ともいわれ、また「道陸神(ドウロクジン)」ともいう。祠をそなえているものは少なく、その御神体は自然石だけ、あるいはそれに塞の神・歳の神と刻んだもの、あるいは単身像、また男女ニ体像、さらにそこから発展して男女の性器をかたどった像などがある。 道祖神はもとは古代中国で信仰されていた旅の安全を祈願する神、すなわち行路神のことである。しかしこの神が日本に移入する以前、日本でもすでに別の行路神があり、それらは今日でもヒダル神とか柴神、あるいは行き違い神と称される神々のルーツであったと考えられている。 また船戸の神(フナドノカミ。あるいは岐の神とも書く)は『日本書紀』にも登場する神であるが、やはり行路神としての性格をそなえており、男女の性器を刻んだニ体の神像として祀られている。フナドというのは道の辻を意味しており、この辻から悪霊が入り込まないように、防御の神が必要であったのだろう。性器には災いを除去する呪力があると信じられていて(天の岩戸の前でアメノウズメノミコトは性器を出して踊ったといわれる)、船戸の神の御神体ともなっている。考えてみれば、人間の性器のある場所は二股にわかれる「辻」なのだ。古代のイメージは直接的なまことにおおらかなものであったといえる。 これら日本生粋の行路神・防疫神が中国伝来の行路神である道祖神と習合したと思われる。道祖神信仰には、旅の安全を祈願するほかに、良縁を願う信仰もあり、そのため男根をかたどった石像や木像を奉納する風習もかつては珍しくはなかった。 性器信仰の側面は、安産や子育ての信仰もはぐくみ、道祖神は出産に立ち合う神だともいわれる。道祖神は子供のすがたをしているという考えもひろくあり、これが仏教の地蔵信仰と結びつくことになる。お地蔵さんもまた道筋に祀られていることが多い。イタコで有名な青森県下北の恐山は、「あの世」と「この世」との境としてのサイノカワラ(塞の河原)の概念を具体化したような光景がくりひろがるが、地蔵信仰と深くむすびついている。しかも、イタコが唱えるサイノカワラ(この世との長の別れのイメージを歌にしたもの)は、まさに塞の神と地蔵信仰とが結びついていることを示している。 ところで道祖神にはさらにもう一神が習合していると考えられている。それは愛宕神(アタゴカミ。あるいは愛宕様)である。この神の本社は京都市嵯峨の愛宕神社である。祭神は諸説あるものの、那邪那美命(イザナミノミコト)が生んだ軻遇突知神(カグツチノカミ)であるといわれている。この神は火の神である。 愛宕神社がある愛宕山は、そもそもが神気ただよう霊場だったようで天台宗・真言宗の修験場にもなっていた。そのためここでも神仏習合がおこっている。祭神に諸説あるのはそのためであるが、信仰の根幹は火防といって差し支えなかろう。いわゆる火伏せの神である。また京都市嵯峨は都の西北にあたり、古来、疫病や悪霊の侵入を防ぐための神が祀られていたといわれる。愛宕神が平安京の守護神であったのはそのような理由によるが、われわれにとって注目すべきはこの愛宕神の塞の神としての側面である。現在では目にすることはほとんどないといってよいだろうが、昔は、村の入口などに愛宕様が祀られていて竹の先を割ってお札を挟んで飾っていた。このささやかな奉納品は、疫霊悪鬼が村に入り込まないように祈願したものである。 さて、長々と道祖神に習合している神々を紹介してきたが、これでようやく道祖神の火祭りとしての「どんど焼き」の性格がわかる。「どんど焼き」の火に、「繭玉」という米の粉でつくった団子や小さくまるめた餅を竹の先につきさして焼いて食べるが、あるいは愛宕様の竹のお札が形をかえているのかもしれない。また、「どんど焼き」が若者組や子供が取り仕切る行事であることの意味も、道祖神が子供の姿をとることがあるというので納得できる。立川市の第九小学校の校長先生が子供たちのために、子供たちがおこなう「どんど焼き」を企画したというのも、とても神意にかなったことにちがいない。校長先生は、繭玉をつくって、子供たちに焼いて食べさせることにしているのだそうだ。
Jan 13, 2008
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先日、正月の松飾りをあつめて御焚き上げする「どんど焼き(左義長)」にふれた。私は44年間、東京に住んでいるが、その行事を見聞したことがない、と。 12日の朝日新聞に次のような見出しの記事が載っていた(須藤龍也氏記)。〈「どんど焼き」体験を 風習なかった立川市砂川地区〉 それによると、どうやら立川市北部の砂川地区にはこの風習がなかったらしい。同市第九小学校の兒嶋校長が、児童に「どんど焼き」の話をしたところ、ほとんどの児童がしらなかったそうである。 そこで兒嶋校長は、正月をしめくくる伝統行事とされる「どんど焼き」を、学区を超えて経験させたいと考え、ひろく呼びかけて、今日13日午後3時(間もなくである)に立川市上砂川町2丁目の同小学校校庭で、「最初で最後」のどんど焼きがおこなわれることになったという。 ちなみに、同記事によると、立川市南部には「塞の神」の名でおこなわれていた記録があるそうだ。北部ではまったく行われなかったと断定することはできないが、さほど広くない地域で節季行事の風習に違いがあるのは興味深い。
Jan 13, 2008
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午後7時から9時半まで町内自治会役員の月例会議。今年度の役員が、あと残すところ2ヶ月余で任期が終了するので、ここにきて長期の準備をした事業がパタパタと完了している。また、年末には次期役員選出のための住民選挙があったので、その開票作業が今夜おこなわれた。町内自治会とはいえ、投票総数は1800票になるので、なかなかしんどい仕事である。 私は会議に出席する前に、19年度事業報告書作製のための衛生担当としての報告文案を書いてのぞんだが、時間に余裕があるときにやっておかないと、私自身の本業のスケジュールや家庭のスケジュールに影響してくる。ほかの役員の仕事ぶりを見ていると、みな本当によくやっていると感心するやら気の毒になるやら。私たち今年度の役員は、従来の事業を無反省に受け継ぐことをやめ、高齢者が多くなってゆくコミュニティーのなかで仕事を簡素化することに努めてきた。これは財政緊縮の問題とも大きくかかわっていること。しかし、やはり一町内自治会としては、たいへんな活動量である。来月は月例会議だけでは足りず、もう1回分をふやすことになっている。 ・・・そんなわけで、今夜はドッと疲れましたワイ。
Jan 12, 2008
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仕事場にとじこもって執筆。すこしづつ細部描写にむかっている。といっても、それはごく一部分のことで、大部分は、工程(この言葉がぴったりなのだ)としては中期の段階である。 私の油彩技法は、ほどよい乾燥を待ちながら次ぎに進まなければならないので、創作意欲や内的緊張感を持続させるのが、たいへんといえば大変である。場合によっては4,5日間、じっと耐えて待つ。 おなじ油彩画でも、ピカソは日記を書くように作品をつくった。その作品は、ほとんどが製作年月日が明確らしい。しかも1日1作というペースが、めずらしくもなんともない。たいしたものだ。「たいしたもの」という意味はふたつあり、ひとつは長い生涯を毎日のように1作描いたということ。ふたつには、そのような早いペースで描いた油彩画が、物質的にガッシリとしてゆるぎなく、芸術的感興の美のみならず物質美に輝いているということだ。 絵画における物質美の側面については、あまり語られることはないが、絵具というものはそれぞれ1色1色、固有の美しさがある。たとえばコバルトブルーは、コバルトという金属の美しさであるし、シルバーホワイトは、いわゆる鉛白であり、鉛という金属の美しさである。ピーチブラックの透明感のある黒の美しさは、桃の木を焼いて炭化した、その炭化物特有の美なのである。油彩技法とは、それら物質美を十全に発揮せしめるように工夫されたものだ。したがって物質を統御する知性が要求される技法なのである。 ピカソやゴッホが、すばやい製作においてその物質の統御をおこなっていたというのは、じつは驚くべきことと言ってよいのだ。とはいえ、画家それぞれにはそれぞれの技法的な秘密がある、ということを述べればここは足りよう。 ピカソといえば、昨日の夕刊によれば、例のサンパウロ美術館盗難事件の二人の容疑者が逮捕されたそうだ。ピカソの作品もポルチナリの作品も無傷で発見されたという。ずいぶん早い解決だったのは喜ばしいが、それにしても美術館の正面玄関を破って侵入したというのだから、不可解な事件という印象は私の気持から消えていない。
Jan 10, 2008
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3時間ほど執筆したあと、正月中のなまった身体に活をいれようと、例によって自転車でアップ・ダウンのつづく道を10キロばかり走った。 途中2箇所にある寺院は、まだ初詣のための装いを解いてはいない。結構人の出入りもあり、境内には露店も立ち並ぶ。 東京近辺では七日までが松の内、関西では15日までと聞く。それ以後を松過ぎという。15日に、取り除いた門松や注連縄をよせあつめて焚く。どんど焼きとか左義長と称する行事だが、東京では地区行事としてはもう行われていないのではあるまいか。どこか寺社での御焚上げはやっているのかもしれぬが、私は東京に住んで44年になるけれど、かつて見たことも聞いたこともない。 どんど焼きで思い出すのは、昔も昔、昭和26,7年ごろ、私は7歳、私ども家族が長野県川上村にいたときのことだ。父が甲武信鉱山に赴任した年、村の青年たちが中心となって行うどんど焼きを初めて見にいった。キヨタダ君の家の前山の中腹あたりではなかったかと思う。広場になっていて、その中央に、村中の家からあつめられた松飾りなどをうずたかく積み上げて、火が放たれた。大きな火焔が夜の空へかけのぼっていった。取り巻く村びとたちの顔が赤々と照り返った。 ・・・その光景だけが、遠い霞の彼方からうかびあがってくる。私が体験したどんど焼き行事は、それがただ一度だけ。青年たちの歓声が、いま、くぐもりのように聞こえてくるのである。 私はこのブログでときどき日本の伝統行事や風習について書いている。我家は昔ながらの年中行事をいまもなお、簡略的ながら比較的おこなっているほうかもしれない。しかし、それらの行事は、まったくといってよいほど土着性がないのである。私はいろいろな土地に住んできた。が、我家の行事は、それらの土地のいずれの色彩にも染められてはいない。抽象的な「日本文化」といってもよいだろう。私の心象においては特にそうである。私は自らのアイデンティティを考えるとき、これは重要なことだと思っている。 奇妙な喩えかもしれぬが、「柱の傷はおととしの・・・」という、その傷を刻んだ柱が私にはない。私は自らの精神に、年ごとの傷を刻みつけてきた。私のアイデンティティは私の精神以外にはないのだ、と思いつつ。 美輪明宏氏は、これからの日本を良くするためにはどうすべきかという問いに対して、「そんなのは簡単、第2次大戦以前の日本の文化にもどせばいいのよ」というが、アホらしい。聞くほうも聞くほうだが、すくなくとも私には、アホらしくてお話にも何にもなりません。戦争終結3ヶ月前に生を受け、戦後育ちの私にとっては、美輪氏のような言い分は自己否定にほかならないからだ。自己否定をしながら描きつづける画家なんて、いるはずがない!
Jan 9, 2008
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一月七日。朝食は七草粥。〈せり・なづな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ、これや七種〉とテンポ良く口ずさむ春の七草。昔は野にでかけて摘んだものだが、いまでは小籠に盛られて八百屋やスーパーマーケットで売っている。「七草粥」と書いたが、元来は「七種(ななぐさ)粥」。奈良時代からつづく正月七日の祝い事である。 起源をただせば、古代中国の揚子江沿岸から華南にかけて、気候温暖な地方で、一月七日に野草を摘む習慣があったらしい。この風習は失われて久しいが、5,60年前頃までは湖北省や広東省あたりにわずかにその面影が残っていたともいわれる。 ついでながら西暦500年代の中国で著わされた『荊楚歳時記(けいそさいじき)』によれば、一月七日は「人日」と称していた。 これは占いを指していて、一日は鶏、二日は狗(いぬ)、三日は羊、四日は猪(豚)、五日は牛、六日は馬、七日には人、八日には穀をそれぞれ占った。その日の気候が清らかに晴て温暖であれば繁殖安泰、しかし、陽が翳り寒さがことのほか厳しければ疾病衰耗とした。「人日」には七種(ななぐさ)を炊き込んだ羹(あつもの;熱い汁)を食し、美しい布や金銀の箔を人の形に切り抜いて屏風に貼り、婦人たちは髪に花などを飾り、首飾りなどもして美しく装った。またこの日ばかりは刑の執行もなかった。 日本における「七種摘み」は、中国伝来のものながら、初めは上巳(じょうし;陰暦三月初めの巳の日。のちに三月三日)の日に七草を摘み、天皇に献上していたらしい。いつの頃からか一月七日の行事になった。昔の和歌などに「若菜摘む」とあるのは七草摘みのこと。「若菜」は七草の総称である。 「七種粥」を「薺(なずな)粥」ともいう。一月七日に「薺打ち」ということをした。この日、唐土(もろこし;中国)から鬼車鳥という悪鳥が日本に渡って来て災いをもたらすという伝説があり、「ななぐさなずな唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に」と歌い囃しながら薺をトントンと刻んで、その音で災いを祓ったのである。「七草打ち」とか「七草囃し」ともいった。 ・・・古代中国の春を迎え豊饒を祈願する明るいアッケラカンとした起源にくらべると、日本のこの伝承には、ナニヤラ陰険なものを感じる。敵をつくらずには自尊心がたもてない人はいるものだが、災いは他からやってくるというよりも自らの内深く住むのかもしれない。「獅子身中の虫」のたとえがある。 七草や拡ごるままにうちたたき 光王 七草打ちをしている。まな板のうえに打たれた七草がひろがってゆく。ひろがればひろがるだけ打ちたたくのである。
Jan 7, 2008
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きょうは2008年の描き初め。元気に毎日の執筆ができますように。 長いあいだ迷っていたところから開始。40年も描いてきてまだ一作一作迷いながら描いている腑甲斐無さ。いつまでも迷っていたってどうにもならない。踏ん切りをつけるために、その部分から手をいれた。 やってみると、俄然、画面が呼吸しはじめた。なんだか脈拍が早くなって、執筆のためのエネルギーがふつふつと湧いて来る。手をいれた部分が、次にやるべきことを呼び込んでいる。 今年は小品もつくっていこう。もう頭のなかや胸のうちにしまっておいても仕方がない。醗酵をまってはいられない。時間がないのだ。
Jan 5, 2008
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新年早々に画集『現代の絵画 Vol.13』が刊行された。 私の掲載作品は、すでにこの遊卵画廊に掲載しているけれども、《アダムの肖像》である。50号(W91cm×H117cm)の油彩・アルミ箔・鏡による作品。 アルミ箔の部分は油彩線刻に箔を埋め込むという、私が開発した独自の技法。鏡は、アクリル製。中央の目として大小二重にして埋め込んである。 目に鏡を使用するというアイデアは、チベット仏教の第三の目(智恵とエロス)をヒントにしている。観客自身の顔がそこに映る仕掛け。アダムの肖像は、絵としての平面にあるのではなく、観客自身であると想像していただければ幸いである。林檎はもちろん智恵の実。アダムはすでに満身創痍。いまや人間は生まれながらにして、満身創痍なのだ。私は旧約聖書のようにアダムとイヴを否定的に考えてはいない。楽園を出て、おのれの智恵と労働で生きて、死ぬ、・・・そういう、人間としてのアダムとイヴを、かれらの遠い末として誇らしく讃えるのである。山田維史 《アダムの肖像》 油彩・アルミ箔・鏡 2007年作
Jan 3, 2008
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