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アメリカは2大政党と云うけれど、実際にはリバタリアン党や緑の党などいくつかの少数政党も存在し、2大政党に不満を持つ有権者の受け皿になっています。ただ2大政党制の壁が厚く、議会で大きな勢力を持つには至ってません。そうした少数政党の中に、なんと「アメリカ共産党(CPUSA)」も存在するのです。アメリカ共産党は共産主義とマルクス・レーニン主義を掲げ、1919年~1950年代後半にかけてはアメリカで最も有力な左翼組織のひとつでした。マルクス・レーニン主義を簡単に述べると、マルクスが唱えた「資本主義を倒して労働者の平等な社会(共産主義)を作る」という理論に、レーニンが「そのために強力な前衛党による武装革命と独裁が必要だ」と云う実践手法を加えた思想ですね。マルクスの主張は資本家による労働者搾取をなくし、生産手段を共有して平等な社会を作ること。対するレーニンは、資本主義の最終段階で革命が起きるので、訓練された革命家集団が労働者を指導する。革命成功後、労働者階級が国家権力を握り資本家を抑圧する。つまり暴力革命を正当化し、強固な党による組織的な支配を目指すことです。ところで共産主義と云う言葉とは別に社会主義と云う言葉もありますね。どこが違うのでしょう?社会主義は共産主義へと至る途中の段階で社会主義が「格差是正」を優先し、共産主義は「完全な平等」を究極の目的とする二段階革命論が従来の主張でした。しかし現在の日本共産党の見解は「ひとつの社会の連続的な発展」としてとらえ、「社会主義・共産主義社会」と表現することにしてますとあります。今の世界で公式に共産主義を自称している国は中国、キューバ、ベトナム、ラオス、北朝鮮の5つです。現在のロシアは共産主義国家ではありません。1991年のソ連崩壊以降、共産主義を放棄しており、現在は市場経済を取り入れた大統領が強い権限を持つ連邦共和国です。経済体制はソ連崩壊後、社会主義から資本主義・市場経済へ転換しました。しかしロシアが共産主義を放棄し、中国は依然堅持していると云っても、どちらも発展に成功した資本主義を導入することで、経済成長を実現するとともに、独裁者による統治が徹底してる点で五十歩百歩ですね。この独裁者の存在を象徴するのが北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)ですな。共産主義のイチバンのウリは国民みんなが等しく同じ給料をもらって生活できることですが、北朝鮮にそんな素振りはとても見いだせない。要するに古代に発生した宗教が本来持っていた「人の苦しみを取り除く」という役割が、年を経るごとに本来の教義から離れ、権力者の道具に成り下がったのと同じです。では、なぜこんな独裁者を国民は受け入れてるのでしょう?ロシアを例にとると、プーチン政権は「強力なリーダー」のイメージを誇示することで政権を維持しています。それは情報統制と「反抗すれば生活が脅かされる」という暗黙の脅迫による、ある種の共創的関係に基づいてるのですね。共産主義国家で独裁政権が誕生すると必ずおこる現象ですね。さて「マルクス・レーニン主義」のウラジーミル・レーニンが亡くなったのが1924年です。レーニンの死後、ソ連の最高指導者(後釜)の座を継いだのは、プーチンがお手本とする"ヨシフ・スターリン"です。当初はトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフらとのトロイカ(集団指導)体制をとってましたが、権力闘争で反対派の粛清を経て、スターリンが一国社会主義論を掲げてライバルを排除。そうして独裁体制を確立しました。 この男ほど極悪非道なヤツはいません。ロシアは世界のユダヤ人口においてイスラエル、アメリカ、フランス、カナダ、イギリスに次ぐ規模の地域のひとつです。帝政ロシア時代から反ユダヤ主義はなんども提起され、ユダヤ人は何度も迫害を受けてきました。有名なミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は、ロシア革命前夜のウクライナの寒村で生きるユダヤ人一家の日常と、迫害による離散の苦難を描いた作品です。それが1931年にスターリンの独裁が始まると、スターリンはヒトラーと同様の「ユダヤ人世界陰謀説」を持ち出し、ソ連とその衛星国家においてユダヤ人迫害を行ったのですね。スターリンはユダヤ人富農の処刑と極寒地への強制移住、ウクライナ農民から穀物を強制徴発したことによる大飢饉、国境地域の敵性民族の逮捕・処刑、強制移住などで1953年までに100~120万人が処刑され、600万人が強制移住させられ、300~500万人が餓死または農業集団化や強制移住に反対したとして処刑したのです。ナチスが1941年~1945年の間にアウシュビッツでユダヤ人の他、ポーランド人捕虜や少数民族ロマ、ソ連捕虜で殺害した人数は約110万人で、そのうち約100万人がユダヤ人ですが、そのナチスの上いくユダヤ人殺害をスターリンはおこなっていたのです。それと同時に、自分の政敵はことごとく粛清と云う名のもとに殺害したのですから、これほど手が血で染まった男はいません。1953年、アメリカのユダヤ人組織ジョイントの指示で政治家ジダーノフとシチェルバコフ将軍を暗殺したとして、ユダヤ人医師たちが逮捕されます。これをマスコミは「シオニストの犯罪」としてキャンペーンが繰り広げられると云う医師団陰謀事件が発生したのです。実はこの事件はスターリンによるユダヤ人政策の第一幕で、最終的にはユダヤ人を東方地域へ強制移送することが計画されてたのです。1953年、スターリンはモスクワの優秀な医師たちを逮捕し、共産党高官らの殺害を計画したとして告発します。数百人の医師が投獄され、拷問を受け、その多くが拘留中に死亡しました。それがために、スターリンの主治医で優秀なヴィノグラードフ医師もソ連当局によって逮捕されますが、これがスターリン自らの死に直結するとは本人さえも気づいてなかったのです。スターリンの健康状態は、第2次大戦の終わり頃から悪化していました。慢性的な喫煙によるアテローム性動脈硬化により1945年の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、その後、重度の心臓発作に見舞われています。1953年、スターリンはダチャと呼ばれる自分の別荘で、ベリヤ、マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフとの徹夜の夕食をとってました。この当時、スターリンの権力は絶対で、集まったソ連の要人たちは、スターリンの怒りが自分に降り注がないことばかり腐心してる。たとえ要人と云えども、ひとたびスターリンの機嫌を損なうとよくてシベリア流刑、ヘタすると銃殺と云うハメに。このとき居合わせた要人、ベリヤは内務大臣でスターリン大粛清の重要な執行者でした。マレンコフはソ連閣僚会議議長、ブルガーニンは第一副首相、フルシチョフは共産党中央委員会第一書記で後に首相になった人物です。食会が終わったのは翌日の午前4時。4人の要人が去った後、スターリンは警備員に「今日はもう寝る。お前たちも寝ていい。お前たちを呼ばないから静かにしておけ」と云います。警備員はスターリンが呼ばないものが勝手に入室するのを極端に嫌がって罰してきたかを知ってました。暗殺を恐れてたスターリンは同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていました。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただひとつの鍵を用いるしかなかったのです。午前10時、いつもならスターリンが目を覚ます時間です。しかし、彼の部屋からは起きてる気配が感じられません。午後1時になっても同様。警備員たちは不審に思いますが、勝手に入室できないのでそのまま様子をみることに。とうとう午後10時になっても、廊下に置いた食事にも手がつけられていない。いよいよ警備員は郵便物を届けると云う口実でスターリンの寝室ドアを開けます。寝室の中には...独裁者が床に倒れ、右手を力なくのばしている姿が発見されたのです。ズボンは失禁で汚れ、助けを求めるように微かに動いてました。警備員は床に転がってたスターリンの懐中時計を発見します。壊れて針は6時30分で止まってます。つまりスターリンは4時間以上も昏倒したまま、助けも呼べす放置されてたのです。警備員はパニックになり、上層部に電話連絡します。先ず大臣のイグナチェフに連絡すると、イグナチェフは「俺に云うな! ベリヤとマレンコフに云え!」「いいか、俺は何も聞いていない」完全な責任回避です。次にマレンコフに連絡しますが、マレンコフは「ベリヤが見つからない! 彼がいないと何も決められない。勝手に医者を呼ぶワケにはいかない」。そうしてベリヤに連絡がついたのは午後11時30分過ぎ。ベリヤは電話の向こうで冷徹に「スターリン同士の病気のことは絶対に口外するな。俺が行くまで何もするな!」ベリヤとマレンコフがようやく別荘に到着したのは何と翌日の午前3時。いびきをかいて眠るスターリンを見ると、ベリヤは警備員を叱責します。「何をパニックになってる。スターリンはぐっすり眠ってるぢゃないか!」「ですが床に倒れて、失禁されてます」と警備員。ところがベリヤは警備員の言葉をさえぎり「黙れ!スターリン同士を起こすな!」。続けて「我々は帰るぞ。マレンコフ、何も問題ない。警備員たちが大袈裟に騒いだだけだ」。こうして彼らは医師を呼ぶこともなく立ち去っていったのです。夜が明け、ようやくフルシチョフが到着しました。フルシチョフはスターリンの様子を確認すると、スグに医者を呼びます。そうして、ようやく専門の医師団が到着。発見から10時間、発症から14時間も経ってのことです。しかし普段スターリンを診察したことない医師団はスターリンに触れることさえ躊躇します。それでも震える手で診察したら、血圧が190と110と云う極めて危険な状態。脳内出血による右半身のマヒ。そこで医師団は当時の最先端治療として...耳の後ろに8匹の蛭(ヒル)を貼り付けたのです。当時の医学で蛭療法は、脳内出血に圧力を下げるために有効と考えられてたのです。しかし発症から治療まで14時間もの時間を費やしたのはあまりにも遅すぎました。マレンコフはスターリン亡きあとの新しい権力体制を整える時間かせぎに、必要な期間、スターリンを生き延びさせることを医師団に命令します。医師たちは懸命に強心剤を打ち続け、酸素を送り込みますが、容態はどんどん悪くなるばかりです。翌々日からスターリンは吐血と云う新たな症状に苦しむことになります。血圧は210と120まで上昇し、極めて危険な状態が続きます。スターリンがわずかに目を開けると、ベリヤは駆け寄って手に熱烈なキスを捧げます。しかしスターリンが再び意識を失うと、踵を返して立ち去っていったのです。最後のとき、スターリンは恐ろしい眼差しで周囲を見回しました。そして左手を高く上げ、誰かを指差すような、あるいは脅すような仕草をすると、ついに心像が停止したのです。スターリン死去後、直ちに後継者を決定せず、マレンコフ、ベリヤ、フルシチョフらによる「集団指導体制」へ移行しました。最終的には権力闘争を経て、フルシチョフが実権を握り、党第一書記としてスターリン批判を行いました。そしてベリヤは粛清で銃殺され、マレンコフは1955年に失脚しました。共産主義は国民全員が富を分け合うと云う理想を掲げてますが、そうすると勤勉な人も働かない人も同じ収入と云う矛盾が生じます。そうして、どの共産国家もそんなことはできなかった。そして何より権力を握ったたったひとりの者が好き勝手に権力を守り、私腹を肥やすことに奔走しがち。プーチンに攻められてるウクライナの上層部でさえ汚職が絶えないのは、ロシアに併合されてた共産時代のクセが抜けないからです。世界には未だに独裁政権を誇示する国が数多くあります。そんな独裁者の末路がどんなものか、スターリンの事例を見れば簡単に分かるのにねぇ。プーチンも習近平も独裁者はみんな同じ末路を辿ればいいのに。
Feb 28, 2026
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1970年代に「給料の3ヶ月分」と云う(ダイヤモンドの)デビアスCMコピーが有名になった「結婚指輪」。当時、アメリカでは「給料の1ヶ月分」と宣伝されてたから、3ヶ月分の日本人の方が気前がよさそうに聞こえますが、実は日本人の給料額が当時 アメリカ人の1/3程度だったからからです。つまりアメリカ人と同じ結婚指輪を買うには、日本人は3ヶ月働かなければならないと云うこと。現在は、無理して3ヶ月分の費用はたいて購入する人の方が少なく、20~40万円台の価格帯でダイヤモンドの質や、想いがこもったものが重視される傾向にあります。結婚指輪と同じように女性が欲しい宝石は「誕生石」ですね。幸運や健康、守ってくれる、繁栄と云うイミもある誕生石は、自分で買ってでも身につけたいと思う女性は多い。この誕生石を考え出したのは1912年、アメリカの宝石業界です。誕生石制定の元になったのはG・F・クンツと云う鉱山・宝石学者が作ったリストです。クンツは「旧約聖書」や古いユダヤの風習をもとに、各月ごとに誕生石を決めていきました。これをもとに、アメリカの宝石業界が誕生石のリストを作り、世界に発信したのですね。しかし、このリストはあくまでアメリカの業界がアメリカ人の嗜好や生活習慣をもとに作ったもので、どの国にも当てはまるものではありませんでした。当然、各国の宝石業界は自国でよく売れる宝石、好まれる宝石、売りやすい宝石をリストに入れたがります。例えば日本の場合...1月:ガーネット2月:アメジスト3月:アクアマリン、サンゴ4月:ダイヤモンド5月:エメラルド、ヒスイ6月:パール、ムーンストーン7月:ルビー8月:サードニックス、ペリドット9月:サファイア10月:オパール、ピンクトルマリン11月:トパーズ12月:トルコ石、ラピスラズリ、タンザナイトなどとなるワケですね。3月のサンゴ、5月のヒスイ、12月のラピスラズリはアメリカが作った当初のリストには無かったものです。大正時代に日本の宝石業界が付け足しました。ちなみに12月の誕生石「タンザナイト」は、タンザニアのメレラニ鉱山でしか採掘されない、青~青紫色の非常に希少なゾイサイト(灰簾石)の変種です。1967年に発見され、ティファニー社が「タンザニアの夜」にちなんで命名した、神秘的な夜空のような輝きから高い人気を誇る幻の宝石なんですね。この石は自然光では爽やかな青、人工光では濃い紫色に見えるなど、シーンによって異なる表情を見せる希少なものですが、採掘量の減少により、将来的にさらに希少性が高まると予想されていて、ダイヤモンドよりも希少だと云われることもあります。12月生まれの彼女がいて、タンザナイトが所望と云われた殿方はかなりの出費覚悟で臨まれたい(笑)
Feb 27, 2026
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プログラマーが開発したAIのちいさな種は、ネットを通じてどんどん学習し知能が飛躍的に増していくワケですね。今はまだ未熟な点も多々あるAIも、さらに学習を続ければいつかは人類を凌駕する人工知能になると云うこと。そんなAIの種を作ったのは人類。人類は自分たちを超える知能を作り出したと云っても過言ではありませんが、しかしAIが得る情報はしょせん人類が発する情報に頼らざるを得ない。つまり、どこまでいっても、AIは効率的に情報を集めて、それを集約して公開できても、人類がいなければ知識はそこで停まってしまうのですね。では、その情報発信元の人類はどのようにして知能を獲得し、他の生物と一線を画したのでしょう?イルカや類人猿、そして人と云った「高度な知能」を持つ種に共通する特徴のひとつは、脳の大きさが拡大していることです。さらに、これらの種は大脳皮質の折り畳み(シワ)があります。より発達した新皮質と前頭側索葉と前頭頭管皮質それぞれがネットワークを構成するフォン・エコノモ神経細胞を持ちます。これらの神経細胞は社会的知能や他人の考えや感情を推し量る能力と関連しており、バンドウイルカにも存在するのですね。人類の知能は、約700万年前の類人猿からの分岐以降、環境変化への適応として長い時間をかけて獲得されました。先ず約200万年前に草原が拡大し、2足歩行が定着して手が自由になったことで、道具の作成と利用が可能になりました。そして集団生活での狩猟や集団間の競争により、コミュニケーション能力や高い社会的認知能力が必要とされ、協力行動と利他行動が進化しました。さらに肉食によって高エネルギーの食物摂取が可能になり、脳がエネルギーを賄えるようになり、脳サイズが急激に増大しました。これによって複雑な言語を生成、理解する能力が発達し、抽象的な思考や知識の伝達が可能になりました。また乾燥化や温度変化の激しい気候の中で、資源管理や環境適応能力がさらに進化を後押ししたのですね。最終的に、これらの能力が組み合わさり、現代の人間が持つ複雑な認知・思考機能が形成されたと考えられてます。とは云え、人類の脳の変化を目撃した人はいないワケで、これらの推論は他の生き物との比較と地層調査による年代記から導き出されたものです。では、映画では人類が知能を獲得した瞬間をどのように表現してるのでしょう。もっとも有名な1968年のSF映画「2001年宇宙の旅」では、全編を通じて登場する黒い石板のような宇宙人が残した物体「モノリス」がカギになってます。400万年前、タンザニア北部のオルドヴァイ峡谷でホモサピエンスの祖先であるヒトザルが、荒野で飢えに苦しみながら生存競争を闘っていた頃のこと。ヒトザルたちの前に突然モノリスが現れ、サルは驚きながらも恐る恐るそれに触れます。たちまちモノリスの知能教育により、サルたちは動物の骨を道具、武器として使うことに目覚め、獣を倒して多くの肉を食べられるようになると云うストーリー。2014年に公開された映画「LUCY/ルーシー」も同じような展開ですね。ごく普通の女性ルーシーは、訪れた台北のホテルでマフィアの闇取引に巻き込まれ、下腹部にCPH4と云う新種の麻薬が入った袋を埋め込まれてしまいます。この麻薬は、通常10%までしか活用できない人間の脳の潜在能力を極限まで高めることができるものでした。ところがルーシーは別のマフィアに捕まってしまうのですね。激しい拷問を受けますが、その拍子に体内の袋が破れ、彼女の脳は麻薬の力で覚醒し、超人的な力を発揮しだすのです。ルーシーは脳科学の権威であるノーマン博士に会いにいきますが、その間も脳の覚醒は治まらず、いつしか彼女は人間性を失い、その力を制御することができなくなってしまいます。そしてノーマン博士と面会を果たし、マフィアが復讐のためにルーシーを殺しにやってきたとき、ついにルーシーの脳が100%覚醒するのです。その瞬間、ルーシーはエネルギーのかたまりになり、時空を超えて過去のさまざまな旅をし、ついに人間が類人猿の時代にまで到達します。類人猿と遭遇したルーシー、彼女が指をさし出すと、その類人猿も指をさし出します。ふたつの指が触れた瞬間、類人猿は人としての知能を獲得すると云うお話し。リドリー・スコット監督が制作した有名な映画「エイリアン」の前日譚として制作された2012年の「プロメテウス」では、作品の冒頭で太古の昔、岩山と激流しか見当たらない地球が映し出されます。その地表に降り立った人そっくりの異星人が半球形の容器に満たされた黒い液体を飲むと、彼の身体は急激に変貌し始め、滝壺に投げた身は溶けてゆき、自らのDNAを惑星に拡散させるのです。この拡散されたDNAを元に、知能を有した人類が徐々に作成されていくのですね。映画「プロメテウス」冒頭シーンPrometheus 4K HDR | Opening Sceneしかし、この作品には矛盾点があります。時は流れて2089年、ふたりの考古学者が新たな古代遺跡を発見します。その壁画の構図はそれまで複数の古代文明で見つかった物と明らかに共通点が見られるものだったのですね。そこには脇腹が引き裂かれた宇宙人がはっきり描かれています。そして彼の故郷こそ人類が追い続けていた、種の起源の答えとなる未知の惑星の存在だったのです。しかし、よく考えると古代人は自分たちが他の惑星から来た宇宙人が自分たちの祖先だったことを知ってたのを示唆してます。恐らく宇宙人のDNAに刻まれた記憶によって知ってたのでしょう。なのに現代(2089年)の人間はその経緯を知らず、古代遺跡を発掘して初めて出自を知ることになります。同じDNAの末裔で何が違うのか?説明がつきませんね。と、まぁ3本の映画それぞれ、「2001年宇宙の旅」では宇宙人が残した謎の石板モノリスに手が触れたとたん、「LUCY/ルーシー」では指が触れたとたんと接触によって人類が爆発的に知能を獲得することになってます。どちらもある接点から急激に人類が知恵を授かることになるのですが、これは何百億年と云う気の遠くなる時間経過を描いたのでは、映画としてあまりに退屈になるからでしょう。未知なるものに触れると云うのは、触れる前と触れた後での劇的な変化の対比がしやすいからね。それに対して「プロメテウス」では高度に知能の発達した宇宙人の末裔が人間だったと云うことで、まったくアプローチの仕方が違ってます。もともと地球にいた生き物が進化したのか、まったく違う惑星の生き物が地球に馴染んでいったのか。どっちにしても、人類は知能と云うとんでもないものを授けられながら、同時に侵略や戦争と云ったことに邁進する破天荒な生き物に成り下がったのですね。
Feb 26, 2026
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ご存知の通り1kg は水1リットルと同じです。これが最初の1kg の定義で、1795年に「大気圧下で氷の溶けつつある温度における水」となっていたのですが、よく考えてみると水の体積は温度によって変化します。それで「最大密度における蒸留水1立方デシメートル(1リットル)の質量」と定義され直しされました。水の密度が最大となる温度は約4℃ですが、水の密度は気圧と温度のふたつに影響され、気圧の要素に質量が含まれています。つまり水の質量を求めるために、先ず空気の質量を求めると云う「ひとまわりして元に戻り、それをくり返す」循環定義(つまり堂々巡り)が含まれていることになります。それでは科学の根底が破錠しますね。そこで、この問題を避けるため1799年に、当時のキログラムの定義に合わせた白金製の原器が作製されました。このキログラム原器を「アルシーヴ原器 (kilogramme des Archives)」 と呼びます。1889年になってキログラムは新しい国際キログラム原器 (IPK: International Prototype Kilogram) の質量と定義され直します。これは以前のアルシーヴ原器と当時の技術では質量差は認められなかったのですが、1889年の第1回国際度量衡総会の決定により、この国際キログラム原器がキログラムの定義に使用されることになったのです。国際キログラム原器は白金(プラチナ)90%、イリジウム10%の合金でできた、直径・高さとも約39mm の円柱です。子供の手のひらにも乗せられる大きさで、重さは1kg 。と云うより、その合金円柱の重さ(質量)を正確に1kg と定めたワケです。その国際キログラム原器は、フランス・パリ郊外のセーブルにある国際度量衡局(BIPM)の地下金庫に二重の真空容器に収められ厳重に保管されました。しかしパリに行かなければ正しい1kg が分からないでは現実的でないですね。そこで世界各国で用いる標準原器として、国際キログラム原器の複製を配布することが決定されます。当初40個の複製が作られて各国に配布・保管されましたが、これらの原器は約40年ごとに特殊な天秤を用いて国際キログラム原器と比較されることになりました。アメリカはご存知のようにメートル法ではなく、重さにはポンドを使用しているので、キログラム原器は無いだろうと思ったら、ちゃっかり所有してたんですね。メリーランド州ゲイザースバーグの「アメリカ国立標準技術研究所(NIST)」で19世紀末にフランスの国際度量衡局(BIPM)から配分された白金イリジウム合金製のキログラム原器を保管しているのです。日本は1885年にメートル条約へ加盟したので、日本にも標準原器が配布されることになりました。1889年に作成された複製のうちNo.6が日本に割り当てられ、1890年に到着してます。茨城県つくば市にある「産業技術総合研究所」に保管され、例えば薬品などの質量を正確に計る精密なはかりは、はかりの目盛りが正しいかどうかをこのNo.6を基準に検定してました。なお、No.30とNo.39も副原器として日本に配布されましたが、No.39は1947年に連合軍軍政期の朝鮮(現在の韓国)に譲渡してます。日本のキログラム原器は、わずかでも塵などが付着することがないよう保管されており、一般公開はしていません。ところが各国に配布されたキログラム原器とオリジナルも含めて、真空容器の中に厳重に保管されてるにも関わらず100年を超える長い年月で徐々に重くなっていたのですね。とは云っても1年で1マイクログラム(100万分の1グラム)の増加。そんなコマいこと気にせぇへんだらいいやん! とは...行かないらしい。それで質量の定義が原器から絶対的に変化しない物理量へと改められたのが2019年。つまり、これがキログラム原器お疲れさまになった年なんです。新しい定義は「キログラムは質量の SI 単位であり、プランク定数 h を単位 J s(kg m2 s−1 に等しい)で表したときに、その数値を 6.62607015×10−34 と定めることによって定義される。ここで、メートルおよび秒は c および ∆νCs に関連して定義される」って...???なんぢゃこりゃ!ど~やらアインシュタインの特殊相対性理論の有名な方程式「E=mc2」(エネルギーは質量と光速度の2乗とをかけ合わせたものと等しい)と関係する数値で、物理定数である「プランク定数」が基準になるそうな。こうなったら私はお手上げです。
Feb 25, 2026
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戦争当事国が封建国家から中央集権国家(近代国家)へと変貌したされる「百年戦争」。フランスの領土と王位継承権をめぐり、英仏両国が1337年~1453年と実に100年以上にもわたり繰り広げた戦争です。この戦争で序盤はイギリスが優勢だったのに、フランス軍のひとりの女性兵士の活躍によって形勢逆転。フランスが最終的に勝利し、イギリスは大陸の領地をほぼ失いカレーのみになってしまったのですね。で、フランス軍のひとりの女性兵士ってのはお分かりですね。「オルレアンの乙女」とも呼ばれる"ジャンヌ・ダルク"。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会の聖人でもあります。もともと農夫の娘として生まれたのですが、神の啓示を受けたと称してフランス軍に従軍。百年戦争で数々の重要な戦いに参戦し勝利を収めて占領されてた都市をフランスへ取り戻し、後のフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた人物です。ところがフランス東部からドイツ西部にかけて一大勢力を築いたブルゴーニュ公国と云うのが第三勢力としてあったのですが、そのブルゴーニュ公国軍にジャンヌは捕まり捕虜になってしまうのですね。そのブルゴーニュ公国軍から身代金と引き換えに敵のイギリスに引き渡されます。そしてイギリスと通じてたカトリックのピエール・コーション司教によって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられるのです。異端審問とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ、つまり異端であると云う疑いをかけられた者を裁判するための審問です。そうして異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えるワケです。ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われました。その結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言されたのです。ジャンヌは1909年に聖人に次ぐ地位の「列福」、1920年には信仰の模範となるにふさわしい信者の「列聖」に指定され、フランスの守護聖人のひとりとなったのですね。ジャンヌ・ダルクを描いた映画は多く存在します。記憶に新しいのではリュック・ベッソンが監督して、ミラ・ジョボヴィッチが主演した1999年の映画「ジャンヌ・ダルク」ですね。ジャンヌ・ダルクの誕生から処刑までを描いた歴史映画で、フランスの英雄として扱われてきたジャンヌ・ダルクを「一人の少女」という視点から描いた作品でした。この作品では、ジャンヌは神の使いではないと否定的に描かれてます。昭和天皇が厚子内親王らとともに鑑賞された映画「ジャンヌ・ダーク」は、1950年に公開されました。ジャンヌ役はスウェーデン出身の女優にしてアカデミー賞3回、エミー賞2回の受賞歴があり、「カサブランカ」や「誰が為に鐘は鳴る」など数々の名作に出演したイングリッド・バーグマン。イングリッド・バーグマンはこの作品でもアカデミー賞主演女優賞にノミネートされました。実際の裁判記録を元に、ジャンヌ・ダルクの裁判から処刑までを描いた異色作が1962年公開の「ジャンヌ・ダルク裁判」。カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した作品です。ジャンヌ役はフランスの女優フロランス・ドゥレですが、彼女はこの作品の後、スペイン語の教授資格を獲得してパリ第3大学で比較文学を講じる講師になりました。さらに1973年には「真夜中の遊び」で小説家としてデビュー。1983年の「リッチ&ライト」』でフランスの女性作家を対象にした文学賞「フェミナ賞」を受賞、続けて1990年には「エチェメンディ」でフランスのカトリック作家でノーベル文学賞を受賞したフランソワ・モーリアックの名前を冠した「フランソワ・モーリアック賞」を受賞した異才です。この1962年の「ジャンヌ・ダルク裁判」には布石があります。なんと1928年にカール・テオドア・ドライヤーが監督した「裁かるゝジャンヌ」と云うサイレント映画の金字塔と呼ばれる作品があるのです。この作品こそ、ジャンヌの異端審問裁判の様子とその後の火刑までを扱った作品で、実際の裁判記録をもとに脚本が書かれ、ジャンヌを英雄視せず、あくまで尋問調書から読み取ることができるひとりの人間として描いてる開祖だったのですね。ジャンヌを演じたのはフランス領コルシカ島セルマーノ生まれの舞台女優ルネ・ファルコネッティでした。映画「裁かるゝジャンヌ」トレーラーThe Passion of Joan of Arc | Trailerこの作品では古文書が明らかにする異端審問官たちの裁判テクニックに注目してます。それは審問官による簡潔な質問と、短く明快なジャンヌの答えでした。簡単な問答を繰り返しつつ、徐々に審問官たちの有利な方へと答えを誘導しようとする。その一言一言がジャンヌをいたぶり苦痛となって彼女を苦しめるのですね。その両者の問答を映像で表現する手段としてクローズ・アップが用いられた。極端なアップと地面に穴を掘ってその中にポーランド出身の"ルドルフ・マテ"カメラマンが入り込んだ仰角撮影によって、ジャンヌが受けた言葉による拷問と同じ衝撃を見るものに与えようとしたのです。映画の中で語られる台詞はすべて実際の裁判調書からとられました。そして実際は数ヶ月かかった裁判を1日の出来事としてまとめあげた作品です。ジャンヌ・ダルクものでちょっと異色なのが、1958年公開のフランソワーズ・サガン原作映画「悲しみよこんにちは」や1960年公開のジャン=リュック・ゴダール監督作品で、ジャン=ポール・ベルモンドと共演した「勝手にしやがれ」でいちやくヌーヴェルヴァーグの寵児になったジーン・セバーグ主演の「聖女ジャンヌ・ダーク」(1957年)ですね。この作品がセバーグの映画デビュー作なんです。作品でフランス王シャルル7世を演じたのは、1961年のスタンリー・クレイマー監督オールスター大作「ニュールンベルグ裁判」でアメリカ側検事役を演じたリチャード・ウィドマークです。この物語はシャルル7世が夢の中で、25年前に異端者として火あぶりの刑に処されたジャンヌ・ダルクが訪ねてくるのを見るシーンから始まります。ジャンヌによって劣勢だったフランス軍が立ち直ったこと。しかし捕らえられたジャンヌは、戦うよりも停戦を願うシャルル7世に裏切られ異端審問に処せられ、異端審問官のワナにはまって文書に署名(彼女は文盲でした)しますが、文書が彼女を異端とするものであったことから破棄し、火刑を選択したこと。彼女は、神が火刑という試練を通して自らのもとへ来ることを望んでいると信じるのですね。イギリス軍司令官は、バチカンに知られる前にジャンヌを処刑しようと決断し、兵士たちに彼女を火刑に処すために広場へ引きずり出すよう命じます。審問官は見て見ぬふりをし、イギリス軍に彼女を火あぶりにさせると云うストーリーです。1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑、場所はノルマンディー地方、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場でした。高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンバル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼みました。ひとりのイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにしました。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行人が薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒したのです。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないよう、再び火がつけられて灰になるまで燃やされました。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行人たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流されます。このときジャンヌの処刑執行人のひとりジョフロワ・セラージュは後に「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っています。現在、ジャンヌの火刑が執行されたヴィエ・マルシェ広場には、レストランやカフェが立ち並び、中世の建物が見どころの活気ある観光スポットになってます。そして「聖ジャンヌ・ダルク教会」が建てられ、歴史的建造物として登録されました。
Feb 24, 2026
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私は趣味と云うか脳梗塞を患ってたので頭の体操にと、ときどき塗り絵を描いてます。Amazon で「大人の塗り絵」と称して、さまざまな塗り絵ブックが販売されてるので、それを何冊か購入して使ってるのですね。通ってる介護のリハビリ施設でも塗り絵を推奨してて、こちらにも塗り絵のネタが数点用意されてます。で、塗り絵ですから、素描と云うか線画に彩色していくのですが、私は透明水彩絵の具とパステル、そして水彩色鉛筆を使ってます。透明水彩は、普通の絵の具のように塗った色がそのまま色として残るのと違って、透明感やグラデーション表現に優れた乾いても水で溶ける絵の具です。水彩色鉛筆は、芯に水に溶けやすい顔料を使用した、水性で描ける色鉛筆です。そのまま使えば普通の色鉛筆として描け、描いた後に水を含んだ筆でなぞると、色が溶けて水彩画のような風合いやグラデーションが表現できる優れモノなんですね。で、この色えんぴつなんですが、ご存知の通り普通の鉛筆はほとんどが六角形です。これはデスク上に置いたとき転がらないようにするためなんですが、持ちやすさにも関係があります。鉛筆はふつう親指、人差し指、中指の3本の指を使って持つものですね。そのため3の倍数の面があるとフイットしやすいのです。それに対して色えんぴつは、「丸」です。これは絵を描くためにいろいろな持ち方をするため、柔軟に対応できるようにするためなんですね。それとともに色えんぴつの芯には、色をつけるための顔料や染料、さらに柔らかくするための鉱物やロウが使われてます。こうした材料の特徴として、熱に弱いんですね。芯の黒い普通の鉛筆は、芯を高温で焼くことで強度をあげられますが、熱に弱い原料を使ってる色えんぴつは熱処理ができないので、どうしても折れやすくなってしまいます。そこで、少しでも強度を増すために、円形が選ばれてるのです。円は強度を保つのに最適の形ですからね。それでも芯が脆いのは変わらないワケで、折れやすいと云うことを頭に入れて使わなければならないワケです。私の描く絵なんて素人の手慰みだし、そもそも塗り絵ですから論外ですが、画家さんは画廊(ギャラリー)に自分の作品を預けて売れるとやっと収入になりますね。しかし絵画だけで生計が成り立つのはごく一部の作家さんだけ。多くの画家は、絵画教室の講師、イラスト制作、アルバイト、あるいは美術関連の企業勤務など、他の副業と組み合わせて生活費を稼ぐ「ハイブリッド型」の働き方をしています。昔は新進気鋭の画家に経済面で援助するパトロンがいましたが、今の時代、そんな人を見つけるのも困難でしょう。対する画廊ってのは土地持ってる人がやるパターンが多いです。なぜかと云うと貸し画廊だと、出展者があらわれない限り賃料が入ってこない=収入ゼロになるからです。とても賃貸でやっていける商売ではありません。それとギャラリーとバーとかカフェを併設して副収入を得るとか、デザイン会社なんかが運営するのも一般的になりました。しかし画廊は先ず立地ありしで、銀座など一等地にないと集客は見込めません。しかし、こんな場所の画廊でもたまに絵画を眺めてる人がいる程度で、こんなんでやっていけるのだろうかとこっちが心配になるほど。実は画廊は絵を売るのがイチバンの目的ではないのです。絵画に限らず美術品と云うのは、店舗販売ではなく外商での取引がメインになります。貸し画廊でない限り、本来なら店舗そのものを持つ必要もないのです。しかし「銀座にショールームを持っている」と云えば、店のグレードがあがるのですね。つまり利益を上げるためではなく、お店のブランディングのために開設しているので、そこで絵が売れなくてもいいんです。
Feb 23, 2026
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ご存じロボット掃除機「ルンバ」。部屋の中を自動で掃除してくれる自走式掃除機ロボット ルンバの製造元「アイロボット」はアメリカ、マサチューセッツ州ベッドフォードに本社を置く会社でした。アイロボットはマサチューセッツ工科大学のMIT AI研究所で働いていた、ロドニー・ブルックス、コリン・アングル、ヘレン・グレイナーの3人が設立した会社です。最初は主に、アメリカ軍、SWATで爆発物処理や偵察に使用されている、軍用ロボットのパックボット(PackBot)などを開発していました。その探知機能を活かしたロボットが2001年の同時多発テロ(9.11)には、がれきの下の被災者の探索に活躍してます。その他、第2次湾岸戦争での地雷探知や、エジプトのピラミッド探査、我々に身近なのでは2011年の東日本大震災の原発事故で、原発の建屋内の探査に使用されています。そうした技術を家庭用に応用して2002年に「ルンバ」が誕生しました。ルンバは世界的な大ヒットとなり、一時期70%~80%の世界シェアを握ってました。私もルンバを買おうかと家電量販店に見にいったのですが、当時はコード類など床の上の物を巻き込んで停止することと、段差を乗り越えられないこと、何より2年くらいの定期的なバッテリー交換が必要で、ランニングコストが結構かかるので断念したことがあります。当時は、チャッピくんとミミちゃん(にゃんこ)が存命してた時期だったのでかなり抜け毛対策として興味はあったんですけどね。しかし、にゃんこの抜け毛はえてして部屋の隅や家具の隙間などに溜まりがちで、これはルンバの最も不得意とする掃除領域だったので、これも断念した理由のひとつです。それほどこの世界で絶対的勢力を誇ったルンバの雲行きがおかしくなったのは、2022年以降です。2021年まで業績を伸ばし続けてきたアイロボット社でしたが、中国企業が高性能センサーを搭載したロボット掃除機を安く市場に投入し、アイロボットのシェアを奪ってしまったんですね。アイロボットは業績回復への活路を見出すべく、2022年にAmazon がアイロボットを16億5,000万$(約2,200億円)で買収することを発表しました。ところが連邦取引委員会(FTC)や欧州連合(EU)の規制当局による審査が難航して、Amazon は2024年に買収断念。昨年、アイロボットは退路を絶たれて破産。アイロボットの株は中国企業でルンバの製造を受託していたピセア・ロボティクス(杉川机器人)が全て取得してしまったのです。つまり中国企業の安売り手法に敗れてしまったアメリカ企業と云うお馴染みのパターンにさらされたのです。ぢゃあ現在ルンバを所有してる人はど~なるの?今のところルンバのサポートやアフターサービスは新株主ピセア・ロボティクスによって継続されるようです。なんと云っても、かってルンバの製造受託先だったとこですからね。ただ、将来的には製品ラインナップや価格戦略が変わる可能性もありそうです。現在、ロボット掃除機の世界シェア1位は中国の北京に本社を置くロボロック(Roborock)で、2024年以降 出荷台数・販売台数ともにロボロックが首位を維持してます。他にエコバックス(ECOVACS)、ドリーミー(Dreame)、シャオミ(Xiaomi)などがトップ5にランクインしてますが全て中国企業です。最近は吸引と水拭きの両方に対応し、自動メンテナンス機能が充実したモデルが多く出されており、中国企業のひとり勝ちみたいな様相を呈してますね。問題はこうした傾向が家庭用ではなく、産業用まで飛び火しないかです。現在、世界4大産業用ロボットメーカーは、スイスの「ABB」、ドイツの「KUKA」そして日本の「ファナック」と「安川電機」です。これらの企業は、自動車産業や電子機器製造をはじめとするグローバルな産業用ロボット市場で高いシェアを占めており、特に日本のメーカーは世界市場の約50%以上のシェアなんですね。しかしこうした高度な産業用ロボットを必要としない、安いロボットを要求する市場では中国企業が進出するのを虎視眈々と狙ってるでしょう。特に中国の「エストン (埃斯頓)」は中国最大手の産業用ロボットメーカーで、日本のファナックに次ぐ出荷台数を誇るようになりました。
Feb 22, 2026
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2022年のボウリング人口は約480万人です。コロナで激減したボウリング人口ですが、ラウンドワンなどが朝割プランや投げ放題プランなんかを展開して徐々に利用人数が回復してきました。今では若者向けに、深夜に音楽やライトアップを楽しむ「ライトボウリング」など企画も増えてるのと、特に高齢者の健康維持や交流の場としてボウリング人気は高まってます。都道府県別で見ると、沖縄が人口あたりのボウリング場数が突出して多く、青森、岡山、新潟などがそれに続くそうです。しかし、1970年代のボウリング全盛期を生きてきた私にとっては昔日の面影がないボウリング業界です。最盛期のボウリング人口は約1,500万人~数千万人規模でした。とりわけ1970年の府中スターレーンで行われた「女子プロ8月月例会」で女子プロ史上初の公認パーフェクトゲームを達成し、「さわやか律子さん」の愛称で親しまれた中山律子やライバルの須田開代子などスター・プレイヤーの出現でいちやく大人気になったのですね。私が高校3年のころ、ボウリングのプレーするのに、平日でも2~3時間待ちなんてザラでした。このボウリング大ブームを背景に1971年登場したスポ根TVドラマがありました。それが「美しきチャレンジャー」。主演は新藤恵美ですが、中山律子などがゲスト出演して、実際に中山などは新藤恵美にボウリングの指導したそうです。ボウリング場の設備にはレーンや得点を自動集計する得点表示版などいろいろ設備がありますが、中でももっとも重要なのが「ピンセッター」と呼ばれるレーンの奥にあって、ボウリングの倒れたピンを回収し、自動的にピンをセットする機械です。ピンとボールを回収して分別。ボールはプレイヤーに戻し、ピンは向きをそろえて立て直す装置ですね。この機械式ピンセッターが導入される前の1952年(昭和27年)~1960年(昭和35年)ころまでは、「ピンボーイ(ピン設置係)」と呼ばれる少年が倒れたピンの撤去やセットを手でし、ボールをプレイヤーに投げ返していました。ピンボーイはひとりで1~2レーンを担当し、高給取りの仕事でしたが、飛んでくるピンに直撃される危険があり負傷者も出ました。このピンボーイを廃止して機械式のピンセッターが導入されるのですが、1972年に開業した大阪・梅田の桜橋交差点近くにあった老舗ボウリング場「桜橋ボウル」は、最初のころボーリングのピン1本1本に紐をつけて、ピンが倒れると、その紐を引っ張ってピンを釣り上げ、また立てる「ストリングピン式ピンセッター(ストリングピンセッター)=吊りピン」システムで対応してたの思い出しました。今でも国際ボウリング連盟(IBF)が世界公式競技用として公認しているらしい。ちなみに「桜橋ボウル」は関西最大級のボウリング場として親しまれてきましたが、建物の老朽化に伴うビルの建て替えのため、2020年に閉館しました。ボウリングはレーン上にピンが10本、手前に頂点が向く正三角形に並べられ、プレイヤーはピンを狙ってボールを転がし、倒したピンの数の合計を競うスポーツですね。ところが、そのピンの数、もともとは9本だったのです。もともとボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たら、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式でした。しかし倒すピンの数やそれに応じた並べ方も場所や地域によってさまざまだったのですね。それを中世ドイツの宗教革命家として知られるマルティン・ルターが、倒すピンを9本にし、並べ方もひし形にして、ボウリングの基本的なルールを統一したのです。これが近代ボウリングのルールの原型になっていきました。ドイツで始まった競技のボウリングは「ナインピンズ」と呼ばれ、17世紀には移住者によってアメリカでも盛んになっていきました。ところが、この市民の娯楽がアメリカではギャンブルの対象になっていったのですね。ナインピンズのギャンブル行為があまりにも流行したため、政府が問題視して1840年代に「ナインピンズ禁止法」を制定してしまいます。つまりボウリングを法律で禁止にしてしまったのです。商売の元「ナインピンズ」が法律で禁止されて、ボーリング場経営者は途方にくれてしまったのですね。ところがどっこい、人間と云うのはどんな苦境でも悪知恵働かせて乗り切るものです。「ナイン(9本)ピンズ禁止法」なんだから、「テン(10本)ピンズ」だったら文句あるべぇと冗談のような屁理屈つけて、10本のピンを倒すボウリングを生み出してしまったのです。これがアメリカで定着して、世界中のボウリングのピンが10本になった真相なんですね。市民の遊びやギャンブルに対するあくなきパワーは法律程度で抑えることができないと云う好例になった話です。日本のプロボーラー「永久A級ライセンス」の取得条件は、2007年度までは5年連続200ゲーム、190アベレージ以上達成者でしたが、2008年度からは5年連続200ゲームは変わらないものの、190アベレージは200アベレージ以上に引き上げられました。2011年度からはもっと基準が引き上げられ、シード権も5年連続とかかなり難しくなってます。女子永久A級ライセンス取得の第一号は須田開代子で、続いて中山律子、石井利枝、並木恵美子と続きます。この時代にボウリングをしていた世代は、自分でスコアつけるのがアタリマエで、全員スコアつけができました。
Feb 21, 2026
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今の世代では信じられないでしょうが、昔のTVは深夜帯以外に、午後の数時間も夕方まで放送休止時間がありました。この午後の放送休止時間だった時間帯に穴埋めのような形でフジテレビ系列で放映されていたのが「テレビ名画座」です。提供はニッサン石鹸(現在のNSファーファ・ジャパン)。NSがニッサン石鹸から由来してる歴史の長い会社です。私らは「ニッサンテレビ名画座」と呼んでました。テレビ名画座放送時間は月曜日から金曜日までの午後3時から5時頃までの枠で、その5日間、毎日同じ映画を放映してるのです。後には月曜から水曜、木・金曜の週2作品になり、最終的には日替わりで異なる作品を放送していたようです。この同じ映画を毎日放映するってのは、途中から見逃しても翌日には続きが観れてアリガタかったですね。私はこのテレビ名画座でイタリア映画 名作中の名作「自転車泥棒」や同じイタリア映画でフェデリコ・フェリーニが監督した「道」など数々の名作映画に触れることができました。そんな古い作品で印象に残ってる1985年公開のロシア映画があります。ロシア映画と云っても舞台はウクライナ、映画のタイトルは「妖婆死棺の呪い」。原作者は「検察官」や「外套」「死せる魂」など傑作を残してるロシア帝国出身の小説家"ニコライ・ゴーゴリ"。ゴーゴリ自身がウクライナのソロチンツィと云う土地の出身です。彼が残した短編「ヴィー」がこの映画の原作になってるのですね。物語は中世ロシア時代のウクライナ、ひとりの神学生が魔女に出会ったためにたどる数奇な運命を描いてます。魔女に出会った神学生は、魔女を打ちのめすのですが、そしたら魔女がいつの間にか美しい娘に変わってるぢゃないですか。新学生はコサック集落の地主に呼ばれ、若くしてあえなく死んだ娘のために古い教会で3晩祈とうをあげるように命ぜられます。その娘は...魔女から変身した娘とウリふたつ。黒い棺の傍で、ただ独り祈とう書を読み上げる新学生。やがて棺のふたが開き...死んだハズの娘が起き上がり、魔物たちが次々と新学生を襲ってくるのです。「妖婆死棺の呪い」トレーラーViy Вий (1967) Georgi Kropachyov, Konstantin Yershovそんなで、古いロシア映画にはウクライナや周辺国出身の監督作品でも、ロシア映画とクレジットされてる作品が数多くあります。なんせウクライナでさえ独立宣言したのは1991年ですからね。同年末のソ連崩壊に伴い、名実ともに独立国となったワケです。そんな表向きロシア(ソ連)の映画監督で、実はロシアを挟んでウクライナのお隣、ジョージア出身の映画監督に"セルゲイ・パラジャーノフ"と云う人がいます。後に彼はウクライナの首都キーウ(キエフ)に定住して映画制作に励んだのですね。パラジャーノフは1965年にウクライナの作家ミハイル・コテュビンスキイの誕生百年祭に向けた映画を制作し、アルゼンチンで開催される国際映画祭「マール・デル・プラタ国際映画祭」でグランプリを受賞するなどその独自のスタイルと色彩が国際的に賞賛されます。この作品のキーウ封切りの際に、パラジャーノフはロシアによるウクライナ知識人たちの不当な逮捕と拘留を公に反対しました。同作はパラジャーノフの名前を世界に広めただけでなく、ウクライナの民族主義的な知識人たちにも歓迎されたのですが、こんなことが重なってパラジャーノフは度々ロシア官憲に逮捕されます。ロシア当局から危険人物と見なされたパラジャーノフは投獄されたとき、過酷な労働を課せられ、心労が極限に達します。1985年のゴルバチョフ書記長就任後、ペレストロイカによってパラジャーノフは64歳になって初めて出国を許可され、自由な映画製作が可能になるのですね。しかし1989年には肺と心臓の疾患が悪化したために入院。左肺に癌が見つかり、摘出手術を受けましたが、1990年には肺炎を患い訪問先のフランス・ボルドーで入院します。その後、トビリシに戻ると呼吸器系の合併症になり、肺炎によって66歳で死去しました。そんなパラジャーノフ映画の特徴は、とにかく絵画かと思うほど色彩に溢れてることです。近年では「ザ・セル」や「落下の王国」などで有名なハリウッドで活躍するインド人監督ターセム・シンの独創的で美しい映像美と相通ずるものがあります。パラジャーノフの色彩感覚がいかなく発揮された代表作は1971年の映画「ざくろの色」でしょう。王妃アンナとの悲恋の末、幽閉されて生涯を終えた18世紀のアルメニア人吟遊詩人サヤト・ノヴァの人生を詩的に描いたこの作品に感化されて、あのマドンナの楽曲「ベッドタイム・ストーリー」のミュージックビデオが制作されました。マドンナ「ベッドタイム・ストーリー」ミュージックビデオMadonna - Bedtime Story (Official Video)映画「ざくろの色」の魅力は、なんといってもその鮮烈な色彩です。砂漠に置かれたざくろの赤、乙女の顔を隠すレースの赤、生贄に捧げられる羊の赤、ありとあらゆる赤が、強烈に目に飛び込んできます。そして染められた糸の青、白の化粧を施した女が身にまとう緑、修道院での男たちや詩人の黒、それらひとつひとつ色彩が、画面を豊潤に彩っているのです。上映当時、チェコスロバキアで発生したプラハ侵攻の影響によって、より一層激しさを増したロシア当局による思想弾圧の標的となった作品です。作品すら検閲のメスによって切り裂かれたことで、本来2時間近くあった内容は2/3まで切り詰められてしまいました。「ザクロの色」予告編(1969年)THE COLOR OF POMEGRENATES TRAILER (1969)
Feb 20, 2026
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先日、このブログで日本人の色感覚について述べたら、ブログのお友だちdanmama313 さんから「私が好きな色は"白緑色"鏑木清方の築地明石町の女が着ている着物の色です」とコメをいただきました。鏑木清方は近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。その鏑木清方の代表作が「築地明石町」なんですね。清方は東京・神田佐久間町生まれですから、作風は東京の風俗を写した風俗画と云うべきものですが、この女性のなんとも云えない色気ってのは絵画とは思えない。この作品を見ていてモデルの女性が東京のそれも明治期にはハイカラな外国人居留地だった明石町に佇む女性なのに、なんとなく京都言葉の「はんなり」が似合うなぁと思ってしまいました。「はんなり」は京都特有の奥ゆかしく、上品な女性のことを想起させるような言葉ですね。京女と云うと、話す言葉に裏があって、いけずってイメージ強いですが、「はんなり」を持ち出されるとたちまちグニャっとなってしまう(笑)ところが舞妓さんや芸子さんを置いてる置屋では全く違うイミで「はんなり」と云う言葉を使ってるのですね。着物なんかの色に「はんなりした色やなぁ」みたいに、人ではなく物に対して使ってるのです。「はんなり」はもともと「華なり」が語源で、「はな(華)」に状態を表す接尾語「り」が付ついた言葉で、「華」は単なるフラワーではなく、「明るい」とか「陽気な」感じを云う言葉なんです。それが室町時代の中期以降に「はんなり」になったのです。その「はんなり」が着物や工芸品の色合いに使われるようになったワケです。つまり華やかさがあるし、品もある着物の柄合わせなんかには使うけど、人を表現するのには使わない言葉だったのです。それがいつの間にか華やかさだけでなく、控えめで上品さや知的な雰囲気を漂わす人に対して使われるようになったのは、1970年の大阪万博以降です。この万博で京都に人を呼び寄せるためにイメージ戦略として多用され「優雅で、のんびりした」と云う広い意味で全国に定着したのですね。なので京都人でも「はんなり」を明確に定義づけられる人はほとんど居らず、なんとなくそんな感じかなぁ程度の感覚なので、人によってとらえ方がマチマチなんです。
Feb 19, 2026
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大阪駅の西側、昔、ホテル阪神と云う中級ホテルが建ってた跡地に、1997年、マリオットの上位ブランド「ザ・リッツ・カールトン」の日本第1号として「ザ・リッツ・カールトン大阪」が誕生しました。ミシュランガイドが優れた宿泊施設を評価する指標「ミシュランキー・ホテル」にも認定された、大阪最高峰ホテルのひとつです。このリッツ・カールトン大阪の5階に「ザ・バー」と云うとても雰囲気のいいバーがあります。ピアノの演奏を毎日している英国の邸宅のような内装のバーです。開業当時は私も頻繁に利用しましたが、近年はまったくのご無沙汰になってます。今はカバーチャージがひとり1,850円もするらしい。この「ザ・バー」でグラスのシャンパンを頼むと今では「シャルル・ド・カザノーヴ (Charles de Cazanove)」とか「モエ・エ・シャンドン (Moet & Chandon)」を提供してるようですが、私が行ってたころは「ドン・ペリニヨン(Dom Pérignon)」の白でした。そう、高級シャンパンの代名詞として有名なドン・ペリです。バブル最盛期は「イキった」お兄ちゃんが、クラブでボトルをポンポン開けてたあのドン・ペリですね。(「イキった」は関西弁で調子に乗ってとか格好つけてると云う意味です)実のところ私はドン・ペリより、モエシャンの方がずっと好みです。それも高価な"ピンク"よりも、普通の安いモエシャンの方が好き。モエシャンもそうですが、ドン・ペリのピンク(ピンドン)なんて頼んでる人見たら、それこそ「何、イキっとんねん!」となります(笑)まぁスパークリングワインやシャンパンみたいな発泡系はあまり沢山飲めるものでないし、そのうち胃がんで胃の全摘手術したから今は口つけることもできません。それでもバブル華やかりし頃は、夏場にバーに飛び込むと「アツイアツイ!とりあえずモエシャン(1本)抜いてくれ」なんてほざいてたのですから、私も充分「イキって」ました(笑)おっと話は、モエシャンぢゃなくてドン・ペリでしたね。どっちにしてもドン・ペリは高い!ドン・ペリの白で希望小売価格が約3万9,000円、実売で約2万5,000円~4万円。ピンドンになると約4万円~6万円します。まさにお金持ちのためのシャンパンと云うことですね。ところが「ドン・ペリニヨン」と云う名前の由来は、今のドン・ペリのイメージと真逆、清貧の代名詞とも云える修道士の名前なんですね。ドン・ペリの正式名称「ドン・ペリニヨン」は訳すと「ペリニヨン修道士」。ペリニヨン修道士は、1668年から47年間、フランスのパリから北東約170km にあるシャンパーニュ地方のオーヴィレル大修道院の酒庫番を務めた人物です。彼は目が不自由でしたが、香りや味に人一倍敏感で、一口ワインを飲んだだけで、そのワインがどの区画のブドウで作られたかを云い当てることができたのですね。ある日、ペリニヨン修道士は、樽の中のワインを瓶に詰めると二次発酵することを発見します。その発泡性ワインが非常に口あたりがよく、格別の味わいだと云うことに気づいたのですね。それで彼は発酵ワインの開発に尽力し、ついにシャンパンを生み出したと云う次第。ペリニヨン修道士が生み出したシャンパンは、宮廷からも引き合いが来るほどの人気になり、市価の10倍もの価格で取引されました。この畑を、フランスの老舗ワインメーカー「モエ・エ・シャンドン社」が買い取り、ペリニヨン修道士に敬意を表す形で、最高級のシャンパンを「ドン・ペリニヨン」と名付けたと云うことです。シャンパンは、シャンパーニュ地方で作られた発泡性ワインだけが名乗ることを許されており、他の地域で作られた発泡性ワインはスパークリングワインと呼ばれてます。発泡性ワインを全てシャンパンとは云わないんですね。高級シャンパンではなく、高級ワインの代名詞と云うと「ロマネ・コンティ」ですね。ブルゴーニュ地方のロマネ村のピノ・ノワールで作られるこのワインは、品質維持のため年間わずか5,000本くらいしか作られません。安くて1本200万円、多くは250万円~450万円で、希少なヴィンテージや保存状態の良いものは数千万円から10億円を超えるケースもあります。私は幸運にも1度だけ飲む機会がありました。知り合いのお金持ちの夫人が、ロマネ・コンティを所有していて、300万円で購入したロマネ・コンティを行きつけのホテル・バーに預けてたのですね。古いワインはオリが多いので、車で運んだワインのオリを落ち着かせるのに約1ヶ月そのバーに保管してたのですが、そろそろ飲むべぇって日にたまたま私は彼女と遭遇して誘われたのです。で、ご相伴に預かりました。まるで「水」ですね。口当たりがとてもよくて、ゴグゴクいくらでも飲める(実際は遠慮して2杯だけ)感じです。しかし、たかがワイン1本に300万円は私には狂気の沙汰ですけどね。ロマネ・コンティの「ロマネ」はロマネ村から名付けられてますが、「コンティ」はこの高級ワインの生みの親"コンティ公"の名前です。コンティ公はフランス国王ルイ15世にもっとも信頼されてた側近のひとりです。で、このコンティ公はルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人が一般市民出身にもかかわらず、美貌と才気で国王をたぶらかし、まるで王妃のように偉そうにふるまうのが胸糞悪い。そのポンパドゥール夫人が、ヴォーヌ・ロマネ村のブドウ畑を買おうとしてること知ったコンティ公は、買収を阻止せんと自らブドウ畑を手にいれることを画策します。戦いは熾烈を極め、意地の張り合いで土地の価格はどんどん上がり、結局、コンティ公が8万ルーブルと云う破格の金額で畑を手に入れるのですね。フランス革命で国のものとなったコンティ公のブドウ畑は、その後、ヴィレーヌと云う人物が買い取り、現在もコンティ公の名前を冠したワインが作り続けられてると云うことです。
Feb 18, 2026
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今のところ、今年の桜の開花予想は、東京は3月21日、大阪は3月27日ごろに開花が始まると予想されてて、西日本と東日本は概ね平年並みの予想になってます。まぁ、お花見のころと云うのは、夜間はグッと冷えて、それにビールが加わる夜桜見物の恒例と云うと、トイレ待ちの長い列と相場が決まってますね。ところで、見頃は何時なのか知る方法でポピュラーなTVなどで流される「開花予想」。これって気象庁がやってるとお思いでしょう。ところが開花予想に気象庁はまったくタッチしてないんです。「開花予想」ってのは、実はかつて気象庁だけが行ってたのです。ところが2009年(平成21年)に気象庁はこんな声明を出して開花予想から撤退を宣言します。「気象庁では、昭和30年から毎年3月~4月にかけて、全国(沖縄・奄美地方除く)の気象台等が観測しているさくらを対象として、さくらの開花予想の発表を行ってきましたが、最近では、全国を対象とした当庁と同等の情報提供が民間気象事業者から行われています。このため、当庁でこれまで行ってきた応用気象情報としてのさくらの開花予想の発表につきましては、来春から行わないこととします。なお、生物に及ぼす気候の影響を知ることを目的としたさくらの開花の観測は引き続き行うこととします」。この宣言を気象庁が出した理由をこのように述べてます。「国全体の行政事務の見直しのなかで、桜の開花や満開などについての気候に関連する観測は、地球温暖化対策など国の業務と関連することから気象庁が継続して行うこととなっていますが、桜の開花予想は防災業務を分担している気象庁の業務にはなじまないなどの理由からの廃止となっています」。と、云うのは表の理由なんですね。実はその2年前の2007年春に、予測を立てるためのプログラミングに入力ミスがあり、その結果として東京や松山など数か所で予想を大きく外してしまったことがあったのです。気象庁は謝罪会見まで行いましたが、ほどなく「開花予想」そのものから撤退。「開花宣言」を行うのみになったのですね。ぢゃあ今は、どこが「開花予想」やってるの?それは「ウェザーニュース」「日本気象協会(tenki.jp)」「ウェザーマップ」の民間の気象情報会社3社が独自の調査・計算に基づいて最新の予想や満開時期を随時更新しています。「ウェザーニュース」は独自の「桜AI開花予想」を導入し、アプリからユーザーが投稿したつぼみ写真も分析しています。「日本気象協会」は全国約1,000か所の開花・満開予想を提供してます。「ウェザーマップ」は「さくら開花予想」というサイトで、独自の予想モデルを提供してるんですね。桜の花芽は、開花前年の夏にはできています。それが秋から冬にかけて、成長しないように休眠状態に入って年を越します。そして充分に低温刺激を受けた後に気温がぐっと高まった段階で休眠から目覚めます。これを「休眠打破(きゅうみんだは)」と云います。気象情報会社などが行う開花予想では、この休眠打破の日を起算日として、温度変換日数を積算し、地点毎に定めた日数に到達した日を開花日と予想します。実は「600℃の法則」と呼ばれる手順を使えば、おおまかな桜の開花を予想できます。「600℃の法則」は、2月1日以降の毎日の最高気温を足していき、その合計が600℃を超えた頃にソメイヨシノが開花すると云う開花予想の目安となる法則です。2010年~2021年までの11年間について、「600℃の法則」の法則の精度を調べてみると、最大でも3日しかずれていないことが分かってます。「開花予想」と違って「開花宣言」は実際に咲いてる桜を目視してるのですから、こっちは間違いようないですね。東京だと千代田区の靖国神社境内にある「標準木」を観察することで、開花したかどうか判定してますね。こうした標準木は各都道府県にあり、その多くは各地の気象台や大きな公園などにある桜が選ばれてます。桜の「○分咲き」の「分」は「10分の1」という意味をもち、三分咲きは「三割の花が開いていて、七割がつぼみの状態」と云うことですね。・開花:標本木で5~6輪以上の花が開いた状態・三分咲き:標本木の樹冠で約3割の花が開いた状態・五分咲き:標本木の樹冠で約半分の花が開いた状態・満開(八分咲き):標本木で八割以上のつぼみが開いた状態・散り始め:花びらが落ち始めた状態・葉桜:桜の花が散り、若葉が出始めた頃~新緑で覆われた状態開花から満開までは、地域によって異なり、北上するほど短くなります。・九州~東海・関東地方は約7日・北陸・東北地方は約5日・北海道は約4日
Feb 17, 2026
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風呂敷で古いものは正倉院に宝物を包むためのそれらしきものがあるそうです。古くは衣包(ころもつつみ)とか平包(ひらつつみ)と呼ばれてました。風呂敷って日本が生んだ和文化の代表的グッズで、その便利さから若者でも愛用してる人もいますね。なにより風呂敷の利便性の良さは、包むものが無いとき小さく畳んで持ち運べる。これがバッグなんかだとそうはいかない。しかし風呂敷に複数のものを包んで、途中で立ったまま一部を取り出して、また包み直すってのはムズいので、風呂敷ってのは点から点への移動に便利な包装と思います。で、この「風呂敷」と云うネーミング、考えてみたらなんで「お風呂」?諸説あるのですが、ひとつは奈良・平安時代のお風呂は今の「湯船に浸かる」スタイルではなく、蒸気を浴びる「蒸し風呂(風呂殿)」や、お湯を体にかける「湯浴み」が一般的でした。で、蒸し風呂に入るとき、床やスノコの下に薬草を入れて燃やしたのですね。ところが直接床に座ると、熱気で熱いので布を敷いてました。この布が風呂に敷くから「風呂敷」の始まりで、そのまま名前になったと云うもの。別の説では、室町時代の3代将軍 足利義満が京都の室町に「室町殿」と云う邸宅をつくりました。この邸宅は、その美しさから「花の御所」と呼ばれたのですね。そして花の御所には湯殿も併せてつくられました。。このころから日本人は風呂に入るのがことのほか好きで、将軍は、各地の大名を招いて入浴と宴会でもてなしたのです。このとき招かれた大名たちは、入浴するとき自分が脱いだ衣をほかの大名のと間違えないよう、家紋をつけた布を敷いて、その上で脱いだり着たり、脱いだ衣をこの布で包んでたのです。この布も風呂に敷くから「風呂敷」と呼ばれるようになったとのこと。このような入浴の習慣は江戸時代にも継承されていき、江戸時代初頭に銭湯が誕生しましたが、ここでも庶民が衣類や入浴用具を「平裹(平包)」に包み持って銭湯に出かけていったのですね。風呂に敷く布で包むことから「平裹(平包)」に代わって「風呂敷包み」や「風呂敷」と広く呼ばれるようになりました。このようにして広まっていった包むための布としての風呂敷の名前は、やがて「風呂で敷く布」から「包む布」として行商人たちによって全国に広められていったのです。江戸時代の庶民がどれほど風呂敷を用いたかは、寛保3年(1743年)江戸に店舗をかまえた呉服商「大丸」の風呂敷仕入高で知ることが出来ます。寛延3年(1750年)には14,500枚だったのが、78年後の文政11年(1828年)には60,670枚と飛躍的に増加してます。いたる処で風呂敷による人力運搬が見られ、かもじ売り、小間物売り、針売り、呉服屋、古着屋から古本屋や絵草紙屋、貸本屋、さらに猿廻し、角兵獅子など実に多くの行商人に風呂敷が利用されました。江戸の町は火事の町でもありました。関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回の大火が発生しました。同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回ですから、江戸の火事の多さが突出していると云えます。そこで商家に上がっている奉公人や、夜鷹(非公認の遊女)などは、火災に備えて五幅風呂敷(約170cm)の上に夜具を敷いて眠り、イザ火事が起こった際には布団に衣類や所持品を投げ込んで、布団ごと風呂敷で包んで避難していたそうです。明治時代になって洋式カバンや瓶類が出廻り始め、明治末年には「三越」呉服店の包装紙が登場しました。それでもなを殆どの日常運搬には風呂敷が用いられてました。実用品、贈答品として幅広く使われる風呂敷の需要は、繊維工業が発達するにしたがい、短期間で大量に生産可能な工業的なものへと変化していったのですね。ところで泥棒のイメージ、昔は唐草模様の風呂敷に盗品を包んで背負ってる姿でしたが、唐草模様ってのは元来吉祥文様であって、めでたいもののひとつなんですね。唐草模様は、生命力が強くどこまでも伸びていく蔓草(つるくさ)を図案化したもので、「子孫繁栄」「長寿」などを意味する非常に縁起の良い吉祥文様です。そのため、昭和後期まで一般家庭で広く普及しており、どこの家にもあった定番の風呂敷の柄でした。それがTVや漫画などで、視聴者が一目で「泥棒」と認識できるよう、あえて最も普及していた唐草模様の風呂敷を小道具として使用した結果が「泥棒=唐草模様の風呂敷」ってイメージになったのですね。風呂敷の柄って時代の変遷もあったでしょうが、今はいろんな美しい風呂敷が売られてますね。京都には古くから風呂敷屋さんが数多くありますが、有名どころは「永楽屋」「京都掛札」「さんび堂」なんかでしょうかねぇ。その中でも風呂敷と云って真っ先に思い浮かぶのは、なんと云っても「永楽屋」です。屋号を織田信長から拝領したという創業400年の老舗です。メインは手拭いですが、オリジナルのモダン柄風呂敷も揃ってます。
Feb 16, 2026
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自民圧勝を受けて、いよいよ特別国会が18日に開催される見通しですね。召集日に首相指名選挙が行われ、再び首相に指名される高市首相は、同日中に第2次内閣を発足させるワケです。今回は首相は現在の閣僚を再任するとき、連立を組む日本維新の会議員が新たに入閣する可能性があるとのこと。首相ともなれば、毎日のようにTVや新聞のニュースに登場するワケですが、そのとき使われてる呼称は「高市首相」と「高市総理大臣」とふたつの表現がありますね。「首相」と「総理大臣」って同一人物にふたつの呼び方あるって?実は、「総理大臣」と云う名前は日本独特のものなんです。日本国憲法では「内閣総理大臣」が正式名称なんですが、「大臣」と云う役職名はかつて朝廷から授かってた称号で、「右大臣」とか「左大臣」などにも使われてました。国際的には「prime minister(プライム・ミニスター)」で、「首相」と云う呼称が充てられてます。そのため、国会答弁や内閣改造などの記事では「総理大臣」と云う呼称が充てられ、それ以外のニュースでは「首相」と呼ばれてるんですね。閑話休題。航空業界にはいろんな専門用語がありますね。例えば一般業界でもよく使われる「OJT(On-the-Job Training)」。「ロミンガーの法則」とも呼ばれてる、「70:20:10」の法則。アメリカのリーダーシップ研究機関であるロミンガー社が、さまざまな経営者を対象に、何がリーダーとしての成長に役に立ったかを調査したところ、「経験」が70%、他者からの「薫陶(感化し教育すること)」が20%、そして「研修」は10%だったそうです。で、このロミンガーの法則でもっとも大きいパーセンテージを占める「経験」に着目して、実務を通じて上司や先輩社員が新人、未経験者に対して必要な知識やスキルを計画的に指導・育成する手法がOJTですね。これがエアラインで云うとCA(キャビンアテンダント=客室乗務員、昔のスチュワーデス)の場合、新人訓練期間はおおむね2~3ヶ月です。これにはサービス方法などを覚えるサービストレーニングや、火災、緊急着陸や着水、けが人や病人発生時の対処法などを学ぶ緊急時のトレーニングなんかがあって、最後の仕上げがOJTになるワケです。インストラクターと一緒に機上で実際の業務を行い、これをクリアして初めて一人前のCAになれるワケですね。CAにとって最重要な訓練が「エマ訓」です。OJTのところで述べた緊急時のトレーニングのことです。外資系のエアラインでは「Recurrent Training(リカレント・トレーニング)」と呼んでます。リカレントは「循環する」「繰り返す」ってイミですね。日本語の「エマ訓」は「Emergency(エマージェンシー)訓練」を略したものです。このエマ訓は、どんなに経験を積んだCAでも年に1回、実習を中心とした訓練を受けなければなりません。この訓練にパスしないと次の1年間乗務はできなくなります。CAはエマ訓の前は目にクマができるくらい猛勉強します。なにしろエマ訓では、機内の火災から救命救急処置までの対応を、実機を模した模擬施設(モックアップ)やプールで訓練して、身体が自然に動くレベルまで繰り返し行うのですね。CAにとって安全業務の最重要訓練となります。エマ訓はパイロットとCAが合同で行うのですが、メインはCAです。パイロットはコックピットでパイロット役をする人もいますが、ほとんど客席でお客さま役をしています。緊急事態発生時の対処訓練ですが、例えば着水だったり、エンジン火災だったり、オーバーランだったり、胴体着陸だったり色々なパターンがあります。毎年想定されるシナリオは違いますが、最後は緊急脱出になるようなシナリオになってます。ドアが開かなかったり、外を見たら火災が発生していてそのドアは使えなかったり、車椅子のお客さまが搭乗されていたり、さまざまなシナリオの中でCAは臨機応変に対応します。中には意地悪いキャプテンがいて、緊急脱出のときにあえて大きな手荷物をもって脱出しようとしたり、パニックになってCAの云うことを無視する人を演じたりする人もいます。パイロットもCAがキャビンで何をしているのか知っておかなければならないので、それでパイロットと合同で訓練をやっているワケです。パイロットはパイロットで別に定期訓練がありますし、年に1度審査があります。すべてのエアラインの乗務員は、ほとんどの人が一生経験しないであろうことを1年に1度必ず訓練しているのですね。客室乗務員トレーニング:不時着と水難救助 - BAAトレーニングCabin Crew Training shorts: Ditching and water survival - BAA Training近年、特に問題になってるのがモバイルバッテリー火災ですね。リチウムイオン電池の発火事故防止のため、どのエアラインでも預け入れ禁止で、必ず機内持ち込みするとか、座席上の収納棚に納めず膝上や座席ポケットで保管することとか、バッテリー端子にテープを貼ったり袋への個別収納など絶縁処理をしないといけないとか厳格化してます。それでも不届き者や政府で定めた規格外の粗悪品を持ち込む人はいるんですよね。昨年も那覇空港を離陸して羽田空港へ向かっている飛行中の全日空994便機内で、座席の下に置かれた乗客の手荷物からモバイルバッテリーが発火して、機内で消し止められた事故がありました。もうひとつ、近年とくに問題が多発している事案の訓練があります。いわゆる乗客によるパワハラや暴力沙汰です。アメリカのCNNによると、アメリカの航空会社ではこうした事案が年間4,000件以上報告されてるのです。なかには、乗客がコックピットのドアを開けようとしたり、CAの顔を殴ったり床に押し倒したりするなどの暴行も発生してます。そこでアメリカの航空会社では運輸保安局が主催する護身術の訓練にCAを参加させてます。この訓練では教官がゴム製のナイフを手に持ち、それをCAたちが殴り、踏みつけ、鎮圧する方法が含まれます。参加したCAは、このようなシナリオには決して遭遇したくないと思ってますが実際に発生してる事案なので訓練せざるを得ないのですね。30,000フィート(9144 m)上空に、バックアップは無いのです。一見、華やかに見えるCAだすが、裏では乗客の安全と快適な飛行のためにこんな訓練を積み重ねてるのですね。こんなにタイヘンなのに、JALのCAで年収は約400万~500万円程度です。新卒入社時で約350万円程度、チーフパーサーなどの役職に就くと700万円以上になるケースもあります。
Feb 15, 2026
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以前このブログで取り上げましたが、昭和を席巻した高級オーディオ装置を完備したジャズ喫茶が、今 海外で静かなブームになって欧米で日本のジャズ喫茶を真似て、ジャズカフェが急増してるとか。日本にはもうひとつジャズをベースにした飲料商売がありますね。「ジャズバー」です。こっちはお酒を楽しみながら、立派なオーディオ装置でジャズを聞く。ライブ演奏中心の"ジャズクラブ"はどうしても奏者に目がいきがちですが、オーディオでジャズを聞きながら、ジャズと相性バツグンのお酒を楽しめるジャズバーの方が私は好みです。ジャズクラブは、1920年代にラウドな音楽を流す他のクラブに対抗する形でアメリカで生まれました。それが日本でも昭和初期から独自の文化として浸透したのです。私のジャズクラブ、イチバンの思い出は先ごろ亡くなられた前タイ王妃をお忍びで大阪のブルーノートにご案内したことです。対する日本のジャズバーはレコード演奏が主で、夜間にライブ演奏も交えてやってるとこも有りますね。ジャズバーもジャズクラブに負けず劣らず料理も秀逸なとこが多いですね。上の画像の「BAR JAZZ」でも「牛すじ肉の赤ワイン煮込み」や「アボカドの糠漬け」など本格的なお料理が楽しめます。しかしジャズバーってのは歴史のあるお店が多いので、昭和独特の雑然とした内装のお店も多い。しかし最近のジャズバーはオーディオ装置もさることながら、一見客でも入りやすい(古いお店は常連客の巣で、敷居が高いとこが多い)雰囲気づくりに腐心してるとこが多いです。内装がスツキリしてて、照明も明るめ。東京・渋谷の「THE MUSIC BAR -CAVE SHIBUYA-」は、2020年に閉館した"代々木ビレッジ"で約9年間愛されたレコードバーが移転・リニューアルする形で、2021年にオープンしたジャズバーですが、ここの内装や音響設備を見ると、旧来のジャズバーと一線を画しています。大阪駅からひと駅の福島にある「KAFFE & BAR NELLIE」も2014年(平成26年)創業の比較的新しいジャズバーです。ここのコンセプトは20世紀最高のジャズ・ピアニスト「"セロニアス・モンク"の頭の中」となんとも啓示的。店舗のデザイン、内外装の施工を行う東西新風堂が手がけるお店なので、古風に見えてて、とてもオシャレな感じに仕上がってるのですね。CDはなく、すべてレコード演奏のみで、オーディオは「マランツ」や「マッキントッシュ」の真空管アンプと「アルテック」のスピーカーでかためてます。対する古くからあるジャズバー、例えばJR蒲田駅近くで1975年(昭和50年)創業の老舗ジャズバー「直立猿人(ちょくりつえんじん)」なんて雑然そのもの。これがいいと云うお客さんも多くて、長年営業続けてるのですね。内装見ると、いかにも"蒲田"です(笑)新宿ピカデリーの横にあるレジェンド的ジャズバー「新宿DUG」の創業は1961年(昭和36年)と歳相応にレトロ感いっぱいです。こちらは典型的な昭和のジャズバーですね。まぁモダンなのがいいのか、レトロ感あふれる方がいいのか、どちらも好み次第ですが、どっちにしてもジャズバー存在そのものが訪れてて楽しい。これは将来に渡って消滅しないでしょうね。
Feb 14, 2026
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先般の衆議院議員選挙で落選した中道(元 立憲民主)の岡田克也は、落選の原因を「高市人気」と「SNSなどで誹謗中傷の集中砲火をあびた」ことをあげましたね。枝野のように「自分の力不足」と潔く自身の責任を認めないで、他者のせいだけにするのはいかにも岡田らしい。このSNSの誹謗中傷発言こそ、今の時代を理解してない証拠です。古色蒼然とした頭では理解できないのでしょうが、今や若者だけでなく高齢者までSNSの情報を重視している。新聞やTVなどオールドメディアが必ずしも公平な報道してないことを知ってるからです。若者のTV離れと云われて久しいですが、それは好きなコンテンツを、好きな時間に、スマホで観るスタイルが定着してるのと、リアルタイム視聴よりも、見逃し配信や短縮動画(倍速視聴)を好む傾向があるからです。しかしZ世代の約6割が毎日テレビを見ると云う調査もあり、完全に離れているわけではなく、「見たい番組だけを見る」「高頻度だが短時間」という形へ変化している傾向もみられます。実際、TV局のコンテンツ・サービスに何らかの形で接触している人は92%を占めます。逆に全く接触しないは8%ということになります。この全く接触しないは、30代でも12%の数値がでています。しかし「TV局のコンテンツ・サービスに何らかの形で接触している」と云う数字は、裏があります。とりわけ19歳までの比率が高いのは、親と同居していて食事の時などに親が点けたTVをなにげなく観てたと云う人が多いと云うことです。自分から意識して視聴したのではないと云うこと。その証拠に親元を離れてひとり暮らしを始めた20代はそのようなこともなく「いずれにも接触なし」の生活になる人が増えるのですね。リアルタイムの放送はもちろん、録画再生、ネットでの番組配信、TV番組表、TV局のSNS公式アカウントに至るまで、これだけ多彩にあるTV局のコンテンツに、1週間を通して1度も接触がないということは、少なくない数の若者が、TV局のコンテンツに「そっぽを向いている」ということです。別の云い方をすれば、TVは彼らに「相手にされてない」のです。さらに親と同居してないZ世代を調べると、そもそも家にTVそのものを置いてないと云う人が1/4以上となり、「テレビを見る・見ない」以前にTVの必要性自体を感じていない人も居るのですね。このことから、次のような図式が見えてきます。「ひとり暮らしの人がテレビを持たなくなっている」+「ひとり暮らしの人の割合が増え続けている」=「今後もTVを持たない人は増え続ける」一昔前はTVがほぼ全世帯に普及し、電源を入れればいつでも自社製品(番組)を消費してもらえるという点がTV局の強みでした。消費者が自宅に居ながらにして、毎日、自社製品(番組)を消費してくれ、その媒体となるTVは消費者の方から進んで買い求めてくれたのです。これは、非常に有利なビジネス形態でした。それが、消費者がTVを持たなくなりつつあるのですから、このビジネスモデルは崩れつつあることを意味します。最近では、TV放送が映らない、チューナーレスのTVをネット動画視聴用などに購入する人も増えています。TV「受像機」そのものが、家庭から消え始めているのです。なぜこんな傾向が急激に起こったのでしょうか?コンテンツ別にとらえると、先ず報道番組が実は公平でないと云うことを視聴者が知ってしまったからです。これはTV局独自の責任ではなく、親会社(厳密には別会社)の新聞社の意向が影響してます。朝日新聞や毎日新聞がリベラル(左派)寄りとされる主な理由は、現行の日本国憲法の遵守を重視し、防衛力強化や憲法改正に慎重な論調を展開する傾向があるためです。それは太平洋戦争終了直後に遡り、これら新聞社の右派記者がマッカーサー元帥によって公職追放され、それに代わって社会党的なイデオロギーや政策を支持する記者が増えたこと。それが引き続き、過激な学生運動の背景を持つ人材がメデイア関係者に輩出され、それが独自のイデオロギーや採用に影響してるのですね。憲法改正に積極的な読売新聞や産経新聞など右派メディアに対し、このふたつの新聞社は平和・リベラルなスタンスをとることが多いのです。それがTV局にも影響し、自社の主張に有利なようにコンテンツの切り取りがおこなわれ、公平な報道が損なわれてるワケです。朝日新聞と毎日新聞の信頼度は必ずしも高いわけではなく、産経新聞と同水準の支持率なんですね。こうした傾向は日本のTV局の親会社が新聞社であることが原因してます。アメリカの主要テレビ局の多くは新聞社が親会社ではなく、ディズニーやコムキャストなどの巨大メディア・コングロマリット(総合メディア企業)が所有しています。そして、それぞのTV局は自社の政党支持を共和党か民主党かはっきり表明して報道してるのですね。その他の国々も概ね同じ傾向で、新聞社が親会社の日本の方が却って珍しいのです。バラエティ番組で云うと、とにかくどの番組も同じタレントばかりで、しかも芸のないのやおバカタレントが多くてつまらなくなってるのですね。これはTV局の広告収入が年ごとに減少していることと関係してます。代わって、インターネット広告費が右肩上がりで上昇してるのです。収入の減少は、即、制作費に響いてきます。すると「数字を持っている」本物のスターの出演を控えて、出演料の安い多くのタレントを出演させようとするのですね。しかし、視聴者にしてみれば「面白くない人や、一言も喋れない人ならいらない」となる。さらにタレントたちが芸能界やテレビ業界の内輪ネタで盛り上がるシーンが非常に多くなって視聴者は辟易してることです。そんなことはTV局自体がよく認識しているのですが、費用面でど~しようもない。すると視聴率かせぎの裏ワザに走るワケです。ひとつはユーザビリティ無視の番組開始時間です。昔は20時ちょうどに、いかりや長介が「8時だョ!」と声をかけて、ドリフターズのメンバーと観客が「全員集合!」と返す「8時だョ!全員集合」と呼応するように、各局とも8時から番組スタートときっちり決まってました。ところが近年は、どの局も◯時5分とか、◯時25分という風に5分刻みの分かりにくいスタート時間になっていて録画がしづらい。なぜこれほど細かいスタート時間を設定するのかと云うと、他局より先に放送してチャンネルを合わせてもらおうと云う魂胆で、夜の番組で、◯時56分、57分スタートが多いのは、他局の番組が終わってCMに入ったタイミングを狙っているからなのです。ひとつは間延びした特番が非常に多いことです。高視聴率の番組が2~3本連続するなんてことはめったにないから、高視聴率番組1本を長時間放送するほうがいいと云う考え方が蔓延している。また、長時間化することで経費が抑えられるため、制作費を抑えつつ、特別感を出そうと云う一石二鳥を狙っているのですが、観せられてる方は趣味やツールが増えて時間の概念が細切れになり、短尺ネット動画が普及した影響もあって、長尺のテレビ番組が苦痛になってくるのですね。クイズ番組とかトーク番組を2時間延々と流されたら、そりゃあ観たくなくなります。最後はみなさん必ずお目にしたことある手法です。TVのバラエティ番組なんかを観ていて、続きが気になると思った矢先にCMになってしまう。しかもCMに入る前に「このあと衝撃の結末!」なんて視聴者を煽るようなテロップを入れて盛り上げておき、CMが終了して番組に戻るとCM前の場面を再び繰り返して放映し時間を稼ぐやり方。しかも、それだけ待たされた挙げ句、CM明けの結末は衝撃的でもなければ、とりたてて面白くもないと云うパターン。このように番組の山場に挿入されるCMを「山場CM」とか「CMまたぎ」と云います。この言葉を作った慶応義塾大学の榊教授がおこなった調査では、山場CMを不愉快と感じる人は86%になると云う結果がでてます。つまり、ほんどの人が山場CMに嫌気がさしているのですが、それでも山場CMはなくならない。その理由は、CM放送中におこる視聴率ダウンを避けるためです。TVリモコンが普及し、チャンネルザッピングが日常化すると、民放ではCMによる視聴率急落を、なんとかする必要に迫られます。視聴率は番組制作サイドの命綱です。視聴率さえ高ければスポンサーも離れず、その番組を担当してる制作者の評価も上がる。そのため、視聴者がどんなにうんざりしてようが、山場CMを多用してCM中も視聴者を引き留めようとするのですね。しかし山場CMを不愉快と感じる人が86%だけにとどまらず、山場CMの商品について42%が「好感が持てない」、34%が「買いたくない」との調査結果も。話の流れが落ち着いたところで出る「一段落CM」と比較すると、山場CMが「商品を買いたくない」で3.8倍、「商品を覚えていない」も2倍と本来の効果をうち消している事実があるのですね。今では番組を録画してCMを飛ばして観る人が多く、やたら山場CMを乱用してもますますTV離れが加速するだけなのに、分かっていてもTV関係者は他に打つ手がないのです。そこにきて、TV局のコンテンツ・サービス以外でもっと気軽に楽しめるYouTube やTikTok など時代に即したコンテンツが溢れてきたから、TVの衰退は日を追うごとに加速するのですね。
Feb 13, 2026
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2019年に俳人で歌人の照屋眞理子が亡くなった。68歳と70を前にしての逝去だったらしい。照屋眞理子は東京生まれで、俳誌「季刊芙蓉」代表を務めた人です。しかし照屋って苗字は沖縄に多いので、そっちの血を受け継いでるのかも。この方の句に「猫に猫の時間流るる春の雲」ってのがあります。この句では「流るる」が、「猫の時間」と「春の雲」の両方に懸かってます。寝てばっかしの家猫の時間はゆったり流れてるように感じますが、ここでは窓猫さんが、お外をぼんやり眺めてる。空では春の雲がゆっくり流れています。どこか不思議そうに、その雲の流れを眺めてる猫の情景が目に浮かぶんですよね。同じ照屋の句で「名付けられ子猫この世を生き初むる」ってのもあります。もう解説の必要がないほどストレートな句です。彼女の句はどれも情景が目に浮かぶとこがいいですね。お話し変わって、ここからは日本の色の話。「浅葱色(あさぎいろ)」や「萌黄(もえぎ)」「藤色」と云った古来から伝わる日本独特の伝統色がありますね。日本人は四季の移ろいの中に美の心を生み出しました。私には伝統色と云うと落ち着いた色味が特徴の孔雀石や藍銅鉱など、鉱石を砕いた「岩絵具」や、岩絵具よりも粒子が細かく、伸びが良い土ベースの「水干絵具」、そして岩絵具や水干絵具に膠(にかわ)とグリセリンなどを混ぜて固めた「顔彩」など日本画独特の絵の具の色をイメージします。昔、美大に行ってる女子学生に習作で日本画の七面鳥絵画を見せてもらいましたが、息を呑むほどの見事な色彩でした。日本画でない絵画で使う水彩絵の具はプロ用では100色以上の展開があります。しかし有名なホルベインの透明水彩で色の混合で作り出せない色は白、黒、金、銀だけで、後は100色も持たなくても出したい色は作れます。私が使ってる透明水彩も48色で、これで充分すぎる色数です。対して、日本画材の絵の具は色の種類が少ないように思いがちですが、実は約1,000~1,100色以上の非常に豊富な色彩が存在します。しかも全てが天然由来なんですね。ただ日本画の絵の具はお高くってなかなか使えません。例えば「茄子紺(なすこん)」と云う、ごく暗い紫色。藍染の染料は、濃く染めると染め上がりの表面が赤みを帯びて、藍の青色と干渉して紫色に見える性質があります。染料由来の「紫根(しこん)」と呼ばれていましたが、ナスの実に色がよく似ていることから、この風情ある色名が大正時代から流行しました。現代でも着物や焼き物に広く使われてます。青系統では渋みの強い鈍くて濃い「熨斗目色(のしめいろ)」が好きです。熨斗目とは、経(たて)に生糸、韓(よこ)に半練(はんねり)糸を使った平織りの絹織物のこと。無地の他に縞や格子を織りだしたものがあり、仕立てた小袖の多くは、腰のあたりにほかの部分と違う模様が入っていて、熨斗目模様と云われました。後に、この小袖そのものを熨斗目と呼ぶようになります。江戸時代には、士分以上のものが礼服として麻裃(あさかみしも)や素襖(すおう)の下に必ず着用しました。今だと、お宮参りや七五三の男の子の祝い着ですね。歌舞伎の幕には黒と柿、そして「萌黄(もえぎ)」の3色が使われてます。萌黄は新緑の萌えいづる草木の冴えた緑色ですね。早春を感じさせる清爽な色名は平安時代からのもので、平安時代の貴族の女性は衣を何枚も着たため、さまざまな色が重なりとてもカラフルな装束をまとっていました。その色の重なりのことを「襲(かさね)」と云いますが、この襲の色目にも多くの配色がみれます。同じ緑系でも萌葱色の薄色に用いる色名で「苗色」があります。平安時代から夏の色として使われてきました。稲の苗のような薄い色で、別名「薄萌黄」とも呼ばれてます。同じ夏の色に、よく似た「若苗色」がありますが、こっちはもう少し薄く、淡萌黄よりも青みに寄ってます。と、まぁ日本人の色彩感覚は、四季の移ろいや自然との調和を背景に生まれた、非常に繊細で「やわらかい」ニュアンスカラー(中間色)を好む傾向がありますね。原色よりも、藤色、薄紅、鶯色などデリケートで微妙な色の違いを捉えるし、季節ごとの自然の色彩や、桜(淡いピンク)のように、同じ「赤」でも「朱色」「紅」「茜」など、豊富な色名と呼び名を持っています。また茶・鼠・藍と云った地味な限られた色数の中での微細な違いでおしゃれを表現する「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」のような美意識が根底にあります。さらに水墨画のように、彩度を落とした世界に美を見出す傾向が強いですね。外国人の認識できる色の数は基本色とその派生を含んでせいぜい20~30色です。それが日本人になると伝統的な日本の色が加味されるので100色以上の色が認識できるとされてます。さらに外国人はライトブルー(Light Blue)とかダークグリーン(Dark Green)など、色の分類が大まかですが、日本人は述べてきたように藍、浅葱、青磁、藤色、鶯色など自然界に由来する色を多く区別します。そして日本語には数多くの色名があり、色のバリエーションが豊富なんですね。
Feb 12, 2026
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ジョニー・デップがかなり以前に来日したとき日本の映画を鑑賞し、出演してた女優の真行寺君枝の美しさを絶賛してアメリカのTV番組で「コンタクトを取って直接会いたい」と語ったことがあります。真行寺君枝は、三船プロに所属して数々のTVドラマには出演してたけど、映画は数少ないからジョニー・デップが観た映画ってのは村上春樹原作で発大森一樹が監督した1981年の作品「風の歌を聴け」かなぁ?この作品で真行寺君枝はヒロイン務めたし、本人も「私の代表作」と云ってますから。真行寺君枝って今の世代はご存知ないでしょうが、1970~80年代に資生堂の広告「ゆれる、まなざし」で活躍した女優でモデルです。初めて真行寺君枝が資生堂の広告に登場したのは1976年、このとき彼女は16歳の女子高生。当時、資生堂とカネボウのキャンペーン競争の加熱は社会現象に発展するほど激しく、資生堂はこの広告の制作費に、当時としては破格の3億円を投入したと云われてます。フランスのルーブル美術館で1979年に資生堂の写真史が展示されたときにも、この真行寺の「ゆれる、まなざし」が含まれてました。真行寺はこのときが初めてのCM出演ではありません。なんと中学時代にはポーラ化粧品のCMで森の妖精に扮して踊るシーンを撮ってます。衣装担当だったワダエミがダンサーを探してて、真行寺の通うバレエ教室を訪れたのがきっかけなんです。1975年の高校1年で矢沢永吉や市川猿之助などさまざまな著名人の写真撮影をした稲越功一の撮影で西武百貨店CMに登場してます。そして1980年、アサヒビールの「ミニ樽」のCMに登場。共演は風間杜夫、柄本明、そして今は亡きボクサーにしてコメディアンの たこ八郎、翌年からは平田満も参加してました。アサヒ生ビール ミニ樽 CM (1981) 最初に背中から映し出されてるのが真行寺君枝。歌は1966年にリリースされた"ザ・サベージ"のデビューシングル「いつまでもいつまでも」です。1986年には「ビリィ ザ キッドの新しい夜明け」で高崎映画祭主演女優賞を受賞してます。山川直人が監督したこの作品は、内藤剛志の宮本武蔵が登場したり、原田芳雄がクリント・イーストウッドが演じたヤバイ刑事ハリイ・キャラハンを演じたり、室井滋演ずる中島みゆきからイエス・キリスト、ポパイとオリーブまで登場するハチャメチャな映画なんですが、真行寺はOLギャングとして三上博史演ずるビリィ・ザ・キッドと共演してるのですね。と、云うワケでTVだと「必殺仕事人」など数々のドラマ作品もあるのですが、女優としての印象は薄いですね。何と云っても、資生堂の「ゆれる、まなざし」のインパクトが強すぎたのでしょう。そんな真行寺君枝も現在67歳。しかし美貌は落ちてませんね。
Feb 11, 2026
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大阪の南と云っても道頓堀のあるナンバ(難波)から地下鉄でひとつ手前の駅"心斎橋"はナンバと違って落ち着いたお店も多いです。デパートは大丸があり、周囲にはシャネル、カルティエ、ルイ・ヴィトン、クリスチャン・ディオールなど世界の高級ブランドショップの直営店が立ち並んでるところです。そんな心斎橋でもっとも有名な"洋食"のお店と云ったら、大阪人は誰でも先ず創業昭和元年の「明治軒」を指すでしょう。古びたちっちゃなお店です。ここのウリは牛肉と玉ねぎを炒めてペースト状にした「具が見えない」オムライスと「銀串」と呼ばれてる串カツですね。もちろん洋食屋定番のハヤシライスやポークチャップなど極めてオーソドックスな品揃えです。私が通ってたころは、テーブルにチェックのビニール製テーブルクロスが掛けられてたけど、久しく行ってないので今は分かりません。地下鉄心斎橋駅からチョット ナンバ方向に歩くと若者向けのファッションなどのショップが集まる有名な「アメリカ村(通称アメ村)」が見えてきます。このアメ村を開拓したのは大阪では有名な空間プロデューサー日限萬里子(ひぎり まりこ)さんです。私もよく存じ上げてました。彼女が1969年に今のアメ村の中心「三角公園」前に喫茶店「Loop(ループ)」を開き、若いクリエーターが集まるようになったのですね。それがキッカケで改造した倉庫を利用して、若いサーファーなどがアメリカ西海岸やハワイから輸入したアメリカンカジュアルな衣服類が販売されるようになったのが今日のアメリカ村に発展したのです。日限さんは1978年にディスコ「PALMS」も開業し、大阪のディスコブームの火付け役にもなった人物です。アメリカ村は心斎橋商店街や御堂筋の西側、厳密に云うと西心斎橋にあります。では心斎橋商店街の「東側」は?こっちはアメ村に対抗して「ヨーロッパ通り」と呼ばれてます。厳密には東心斎橋が正しい呼び名。アメ村は若者が集まる場所ですが、ヨーロッパ通りは高級ブティックなんかが建ち並ぶ大人の雰囲気の街として知られています。とは云っても昼間は閑散としてて、夜になってから賑やかになる街なんですね。このヨーロッパ通りに昭和28年創業の洋食屋「グリルばらの木」があります。冒頭でご紹介した「明治軒」と比べると若いですが、それでも創業から73年も経ってる老舗中の老舗。このお店はタカラジェンヌご用達としてつとに有名です。店内はカウンター席のみで、いかにも昭和の洋食屋と云った風情。営業は昼11:30~15:00、夜17:00~21:40で、お昼は近隣のサラリーマン利用も多いです。メニューは洋食屋おなじみの「オムライス」から「ビーフステーキ」のセットまでさまざま。普通に"洋食屋"でイメージする料理は先ず揃えてますね。私はこのお店の味の方が「明治軒」より好きです。明治軒は特に串カツなんか、なんか油っぽさが口に残るのですよね。「グリルばらの木」の方が特にソースに力いれてる感じがします。どっちにしても大阪の洋食屋と云うのは、どこで食べても当たり外れ少ないのですが、特にこのお店は味が安定してる。しばらく行ってなく、調べたら結構値上がりしてました。お料理は季節限定もあるので、もし行かれる方は事前に電話で確かめた方がいいでしょう。TEL:06-6271-7417
Feb 10, 2026
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1974年にアメリカン・カルテットで初来日以来、180回以上の公演を日本で行っていて世界で最も多く来日演奏を行ったジャズ・ピアニストがいます。1978年にはジャズ・ピアニストとして異例な日本武道館単独公演までやりました。「即興演奏の魔術師」と評され、不動の地位を確立しているアメリカ人の天才ピアニスト、それは"キース・ジャレット"ですね。彼は日本を非常に愛し、ソロやトリオなど様々な形態で来日してます。そんなキース・ジャレットは気難しいことでも有名で、2005年の東京公演では来客の高度なマナーを要求してコンサートを一時中断、聴衆に説教する場面がありました。2014年の大阪公演でも演奏を一時中断してます。キース・ジャレットは1970年に「モダン・ジャズの帝王」と呼ばれたジャズトランペットの"マイルス・デイヴィス"のバンドに参加します。マイルスグループ在籍中の1971年、ヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー"マンフレート・アイヒャー"と出会うのですね。ジャレットは、1972年ごろからプログラムの一切無い完全即興によるピアノ・ソロコンサートを行うようになるのですが、ECMも積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組の大作「ソロ・コンサート」をリリースし音楽界に衝撃を与えました。このスタイルの実況録音盤第2作で2枚組のアルバム「ザ・ケルン・コンサート」はジャズのレコード、CDとして最も高い売上を記録したヒット作のひとつになり、ジャレットの名を広く知らしめた代表作になったのですね。このケルン・コンサートを企画したのは当時アルバイトでECMのプロモーターをしていた"ヴェラ・バランデス(Vera Brandes)"と云う18歳の学生でした。開催日は1975年1月24日。会場はケルンのオペラハウス。バランデスはジャレットのリクエストに応えて「ベーゼンドルファー」の「モデル290インペリアル・コンサート・グランド・ピアノ」を用意する手はずを整えました。ところが会場スタッフが持ってきたのは、ベーゼンドルファーの異なるモデルのベビーグランドピアノだったのです。さらにそのピアノはオペラのリハーサルに使われたあとで調律さえされていなかったのですね。それでもなんとか調律できたものの、耳障りな高音と響きの悪い低音が残り、ペダルもうまく動かないという状態だったのです。こんな悲惨なピアノでジャレットは演奏してくれるか?しかしチケットは完売で後戻りできない...運の悪いことに、ジャレットは公演に先立っておこなわれたスイスのチューリッヒ公演地から約563km 、5時間のドライブを終えたばかりでした。数日間不眠が続いたために背中の痛みに悩まされてもいました。彼は背骨を支えるために腰にサポーターを着け、深夜23時半にステージに上がったのです。そして...彼はこの劣悪な環境と体調不良を押して演奏を始めたのです。それは、これまで行ってきたソロ・コンサートと同様、事前の準備なしの完全即興。曲名らしい曲名もついてない。音楽的には、クラシック音楽のカデンツァに、ジャズの音階とテクニックを持ち込んだ内容とも云えます。この完全即興演奏によるソロコンサートは録音され、キースのソロ・コンサートシリーズ中、最も人気の高い作品となったのです。その革新性と美しさは、世界中で高く評価されました。日本でもジャズ喫茶で本作のリクエストが殺到したそうです。そんな話を映画にした「1975年のケルン・コンサート」が今年4月に公開されますね。主人公はジャレットではなく、当時18歳だったプロモーター"バランデス"です。このコンサート開催までの舞台裏を実話に即して描いた作品なんですね。バランデス役を演じるのはドイツのフランクフルト・アム・マイン出身の女優"マラ・エムデ(Mala Emde)"。日本では知名度ありませんが、2015年に「My Daughter Anne Frank」で主役のアンネ・フランク役を演じ、ドイツの新世代俳優として注目を浴びてる存在で、ドイツのTVドラマや映画を中心に活躍する女優です。キース・ジャレット役は2007年に公開されたジョディ・フォスター主演「ブレイブ ワン」で映画初出演した舞台俳優"ジョン・マガロ"。彼はベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された2020年公開のケリー・ライカート監督「ファースト・カウ」で初めて主役を務めました。2023年にはアカデミー賞にノミネートされたセリーヌ・ソン監督の「パスト ライブス 再会」で主人公の恋人役を演じてます。物語は事実に基づいて構成されてます。ドイツ・ケルンに住む音楽好きの高校生バランデスは、厳格な父親への反抗心もあり、来独ミュージシャンのツアーをブッキングするアルバイトを始めます。持ち前のバイタリティを発揮して仕事が軌道に乗り始めた頃、ベルリンのジャズ・フェスティバルに出向いた彼女は、アメリカの天才ピアニスト、キース・ジャレットの演奏に衝撃を受けるのですね。キースのケルン公演を実現させようと決意した彼女は、幾多の困難を乗り越えてコンサート開催に漕ぎつけるのですが...コンサート当日、キースの希望していたピアノと異なる種類のピアノが用意されると云うトラブルが発生してしまいます。開演時間が迫る中、キースは演奏を拒否し、コンサート開催が危ぶまれるがと云うストーリーです。開催中止寸前のトラブルに見舞われるも、弱冠18歳の女性プロモーターの機転と行動力で実現したと云うことに着目した作品なんですね。主演を務めたマラ・エムデの演技についてエンタメ業界誌「ハリウッド・リポーター」は、「ジャズ史に決定的な足跡を残したヴェラ・ブランデスを演じ『スター誕生』と呼ぶにふさわしい存在感を放っている」と絶賛し、昨年のドイツ映画賞で主演女優賞にノミネートされました。ジャレットは1996年、イタリアでのコンサート中に慢性疲労症候群と診断され一旦は回復したものの、2017年にニューヨークのカーネギー・ホールで行われたソロコンサートを最後に活動を休止して療養生活に入りました。2018年に脳卒中を2回発症して麻痺状態となり、左半身が部分的に麻痺。そのためピアノ演奏に復帰できる可能性が低いことを本人が明かしてます。映画「1975年のケルン・コンサート」本予告
Feb 9, 2026
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高級オーディオでスピーカーと云うと、現在ではイギリスのB&W(バウワース アンド ウィルキンス)の801 D4 Signature やイタリアのソナス・ファベールのシュプレーマ(Suprema)と云ったヨーロッパ製品が、定番のJBLや航空宇宙技術を応用した強固なアルミキャビネットが特徴のマジコなどアメリカ製スピーカーに混ざって存在感だしてます。ソナス・ファベールのシュプレーマなんてステレオ1セットが1億7,050万円と常軌を逸した価格設定なんですね。私がオーディオにのめり込んだころは、エレクトロボイスやアルテック、JBLなどアメリカ製スピーカーの全盛時代で、貧乏な私はこうした高級スピーカーはただただ指をくわえて眺めるばかり。結局、最初に入手したのはナショナル(パナソニック)の「ゲンコツ」と呼ばれてたスピーカーをベニヤ板で作った平らなバッフルに取り付けて鳴らしてました。このスピーカーは、20cm の低音用スピーカーに球形の高音スピーカーが重なってて、それが"ゲンコツ"みたいだったので、正式名称20PW09よりもこっちのニックネームが有名になったのですね。1954年から30年間も製造され続けたロングラン商品です。もうひとつ高嶺の花のアメリカ製スピーカーメーカーがありました。「クリプシュ(Klipsch)」と云う、現在もスピーカーの生産を続けてるアメリカ、インディアナポリスに本社のあるメーカーです。今ではJBLなどに比べて、チョット安価な製品を多く出しますが、ここの特徴は中高域にホーンスピーカーを採用してることです。ホーンスピーカーと云うのは、振動板の前方にラッパ状(ホーン)の管を取り付け、音を狭い範囲に集中させて効率よく遠くまで飛ばす構造のスピーカーです。エネルギー変換効率が高く、小さな電力で大音量が出るため最も古くからある技術ですが、帯域が狭い傾向があるため、高音、中音と別々にホーンを設置しなければならない場合が多いです。また低音再生には巨大なホーンが必要になるため、一般家庭では導入が難しいのですね。ホーンスピーカーの代表例はみなさんお目にしたことある、あの学校の屋外放送用スピーカーです。このホーンスピーカーを使うと、中・高音域の音質に優れ、声がハッキリと聞こえやすいのですね。それで大型のオーディオ・スピーカーにも使われてきたのですが、サスガに低音域のホーンはサイズが現実的でないので、ここだけは普通の円形の紙コーンを使ったスピーカーを代用して、中・高音だけホーンにしてるスピーカーが多いです。今は事業内容を転換してる大阪の「オンキヨー(Onkyo)」は1984年に、低域までホーンスピーカーを使った、オールホーンスピーカーシステム「Grand Scepter GS-1」を発売しましたが、1984年の価格がスピーカー1台で100万円もし、1990年代になると120万円に引き上げられました。ではクリプシュのスピーカーはと云うと、低額なシステムは低音用に普通のコーンスピーカーを使ってて、高音のみホーンスピーカーを採用してるケースが多いです。ところが最上級のスピーカーになると低域から高音部まですべてホーンスピーカーで構成されたオールホーン方式を採用してるのですね。なのにコンパクト(と云っても巨大です)。クリプシュは折り曲げホーンと云って、低域のスピーカーの出口を複雑に折り曲げて断面積が次第に大きくなる設計で結果的にサイズをかせいでいるのです。低域は音の方向性が少ないので、出口まで折り曲げても支障が少ないのですね。これがクリプシュ・スピーカーの大きな特徴になってます。こうしたクリプシュのオールホーンスピーカーは、高い音の明瞭度と高能率(高感度)でパワフルな音圧、そしてスピード感のあるサウンドが特徴です。高能率と云うのは小さなアンプでも大きな音量が得られ、歪みが少ないため、コンサートのようなダイナミックな音圧を楽しめるのが特徴で、小型の真空管アンプでも充分音が鳴らせるのですね。そんなクリプシュのオールホーンスピーカーは、今でも生産が続けられてます。先程載せたクリプシュの「KLIPSCHORN」は「AK6」までバージョンアップして、価格も1台165万円となりましたが、今は生産終了してて市場在庫のみの販売のようです。新たなクリプシュのフラグシップは「Jubilee」と云う名です。もちろんこれもオールホーン。形状は「KLIPSCHORN」の中高音部分の開口部を大きく広げて、中高音の音質がさらに改善された形になってます。その分、図体が大きくなってスピーカー1台で幅127cm 、高さ176cm 、奥行き77cm 、重さ186kg と一般家庭向きとは云えない大きさです。日本での価格は1台495万円。サイズだけでなく、価格もビックですね。クリプシュ「Jubilee」日本販売元ティアックの視聴室でジャズを聞いた動画(音は加工なしで録音してます)動画の前半1/3は会話ばかりで、途中くらいから後に音出しがあります。アンプ類はティアックの系列エソテリックの最高峰機器を使ってます。ものすごく温かみのある再生音とともに何か懐かしさを感じる動画です。特にボーカルがいいですね。Klipsch最高峰「Jubilee」で "JAZZ" を聞いてみた
Feb 8, 2026
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映画史において偉大な"ヘプバーン"はふたりいます。ひとりは1959年の映画「去年の夏 突然に」から始まって、1962年の「夜への長い旅路」、1968年の「冬のライオン」そして1981年の「黄昏」でアカデミー主演女優賞を受賞した"キャサリン・ヘプバーン"です。キャサリン・ヘプバーンは、オスカーを4回受賞したただひとりの女優で、かつノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上ります。アメリカン・フィルム・インスティチュート(アメリカ映画協会)が発表した「映画スターベスト50」で女優部門1位に選ばれたキャサリン・ヘプバーンは、その圧倒的な演技力と個性で知られる大女優中の大女優です。もうひとりの"ヘプバーン"はみなさんご存知ですね。優雅なファッション、大きな瞳、スレンダーなスタイルで「永遠のファッションアイコン」として世界中で愛されてる"オードリー・ヘプバーン"です。彼女は数多くの「史上最高の美女」ランキングで1位を獲得してますが、自身は、自分の顔を「小さな目と四角い顔」と評し美人と思っていないと発言してますね。むしろオードリー・ヘップバーンの魅力は清潔感があり、エレガントな印象が相乗効果になって、グラマラスな女優たちとは一線を画すファッションアイコンとしての要素が大きいでしょうね。オードリー・ヘップバーンは、キャサリン・ヘプバーンが1位を獲得したアメリカ映画協会の「映画スターベスト50」で女優部門3位に輝いており、充分すぎるほど世界中の映画とファッション界で名を馳せる存在ですが、特に日本での人気が63歳で死去してから32年も経つと云うのに未だに色褪せないのですね。それはヘップバーンの初主演作にして最大のヒットとなった1954年(昭和29年)公開の「ローマの休日」に遡ります。この作品が絶大な評価を得て、「タイム」誌や「LIFE」誌などアメリカ・メジャー誌の表紙を飾るとともに、アカデミー主演女優賞や英国アカデミー最優秀主演女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞まで獲得してしまいました。そんな1954年、日本でも空前のヘップバーン人気に火がついて、劇中ヘップバーンが長い髪を切って前髪を垂らすショート・カットが「ヘップバーンカット」と名付けられて大流行しました。1954年と云うと、ナショナル(パナソニック)から本体に手回しローラーの洗濯物絞り機がついた角形噴流式洗濯機第1号が発売された年です。映画「ローマの休日」のヘアーカットシーンAudrey Hepburn gets a short haircut in Roman Holiday同じ年には日本で1等賞金1万円(現在の約4.6万円)のミス・ヘップバーンカット・コンテストまで開催されました。また映画の中でヘップバーンがソフトクリームを食べるシーンがあって、ソフトクリームまでが大流行になったのですね。このソフトクリーム、実際はローマ発祥のジェラートブランド「ジョリッティ(Giolitti)」ですね。日本では最初、新宿に店を構えてましたが、この店は移転するようで、有楽町店の利用を勧めてます。「ローマの休日」以降のヘップバーンの活躍は「麗しのサブリナ」「戦争と平和」「パリの恋人」「昼下りの情事」「尼僧物語」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「マイ・フェア・レディ」「おしゃれ泥棒」「暗くなるまで待って」「ロビンとマリアン」など枚挙にいとまがありません。特に日本では妖精のような現実離れした美しさから「永遠の妖精」として別格の人気を誇ります。その魅力は、上品で清潔感のある容姿、おしゃれなファッション、そして飾らない人柄にあり、世代を超えて「なりたい顔」やファッションアイコンとして愛され続けてるのですね。ヘプバーンが気に入って、余命わずかな1992年のクリスマスに、息子たちに読み聞かせたアメリカのサム・レヴェンソンが書いた詩があります。彼女は翌年の1月20日に亡くなってるので、ホントウに最後のクリスマスのときです。これがヘプバーンの名言と誤解されてインターネットで拡散されるようになったのですね。「魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい。スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい」「大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため」私はヘップバーンの最後の映画出演になった1989年にスピルバーグが監督した映画「オールウェイズ」が忘れられません。物語は1990年の恋愛映画「ゴースト/ニューヨークの幻」によく似たお話で、コロラド州の空中消火隊員リチャード・ドレイファスは、非番の日に起きた山火事の消火活動に出動したとき、飛行機にトラブルが起こった同僚のジョン・グッドマンを助けようとして爆死します。天国に行ったドレイファスは、天国でヘプバーン演じる天使に命じられて現世へ舞い戻り、空中消火機のパイロット養成校の生徒ブラッド・ジョンソンに守護霊として助言を与えることになるのですね。ところが助けたドレイファスは、かつての恋人だった航空管制官のホリー・ハンターにジョンソンが恋していることを知り苦悩すると云うストーリー。このときのヘップバーン、60歳なのに齢を感じさせない可憐で清楚な姿を見せ、あぁ、これがヘップバーンがいつまでも愛される理由だと感じました。監督のスピルバーグはティーン・エージャーのころ、両親に無理矢理連れて行かれてヘップバーンの「パリの恋人」をドライブインで観ました。ど~でもいいと思ってた映画でヘプバーンを見た途端、スピルバーグはすっかり魅了されてしまったのですね。スピルバーグは「オールウェイズ」撮影後、人生最大の喜びのひとつはオードリーと一緒に仕事ができたことだと語っています。この作品の元になった「ジョーと呼ばれた男」の脚本は「ローマの休日」の脚本を手掛けたダルトン・トランボです。つまり彼はヘプバーンのアメリカにおけるキャリアの最初と最後の脚本を手掛けたことになります。映画「オールウェイズ」ヘップバーン(天使)とリチャード・ドレイファスとの出会いAudrey Hepburn 1989 Always 1080p Scene 2 English
Feb 7, 2026
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このくそ寒い時期に、なんでサマーの話するねん!と叱られそうですが、まぁそう云わんとお付き合いください(笑)アメリカなんかで取り入れられてる「サマータイム」と云うのは、日の出が早まる春から秋にかけて、時計を1時間進める制度ですね。日中の時間を有効活用し、照明や冷暖房の省エネ、経済活性化を目的にアメリカを始めヨーロッパ諸国や南半球の国なんかで導入されてます。サマータイムの開始日は時計の針を1時間進めるため、1日が23時間になります。サマータイムの終了日は時計の針を1時間戻すため、1日が25時間になります。サマータイムはトランプの領有問題で話題のグリーンランドも、停戦ができるか駆け引きしてるウクライナも実施してます。バチカン市国も。イスラエルからパレスチナまで、なんと世界で約60ヶ国が実施してるのですね。台湾は1945年~1962年、1974年~1975、1979年と断続的に実施してましたが、現在はサマータイムをやってません。中国も1991年までは取り入れてましたが、現在は廃止されてます。韓国も実施してないですね。日本はもちろんサマータイムなんて取り入れてません。そもそもサマータイムを取り入れると、体内時間とズレが生じますから、開始直後と終了直後は云ってみれば海外旅行における「時差ボケ」と同じことがおこります。ところがですね、そんな日本でもサマータイムをやってた時期があったのです。その時期と云うのは太平洋戦争後、占領軍が仕切ってた1948年(昭和23年)~1951年(昭和26年)です。太平洋戦争敗北後の連合国軍占領期に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指導下で導入されました。GHQの親分はアメリカのマッカーサー元帥ですから、まぁ云ってみれば今のトランプと同じで、自分の尺度で物事を決めるアメリカ流の典型ですな。この当時、日本のマスメディアは「サンマータイム」と呼んでました。サンフランシスコ講和条約が締結されて占領終了と日本の主権回復に先立つ1951年(昭和26年)4月、日本はサマータイムを廃止して、年間通じて同じ時刻を使うことに戻してしまいました。なぜ、日本のサマータイムは廃止されたか?それは...残業が増えたことや、労働条件の悪化のためです。いかにも日本的な事情だったのですね。そもそもサマータイムの考え方はコンピュータ的に相容れないシステムなんですな。オマケチャッピくんとミミちゃんのAI画像です。
Feb 6, 2026
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1953年と云うと昭和28年。終戦が昭和20年ですから、終戦からまだ8年しか経ってない。この年、2022年に崩御されたイギリス女王エリザベス2世が戴冠し、早川電機(現シャープ)が、国産初の(白黒)TVを発売。同時にNHKが日本で初のTV本放送を東京で開始した年です。こんな大昔にジャズの歴史が塗り替えられるような出来事っていったい何?それは横浜のクラブ「モカンボ」で、ジャズギタリストとして活動していたクレージーキャッツの植木等と共に演奏していた時期もある世界的ジャズピアニスト"龝吉敏子(秋吉敏子)"と日本を代表するジャズサックス奏者"渡辺貞夫"が出会った年です。なぜこの出会いが日本のジャズ史を塗り替えた年と呼ぶのでしょうか?それは、それまでの日本のジャズは古式ゆかしい"スイング"を中心にしてたのが、ふたりの出逢いによって40年代にチャーリー・パーカーによって始められた、高速テンポ、複雑なコード進行、奏者の即興演奏を重視した"ビバップ"スタイルが取り入れられ、ダンス音楽から鑑賞用の芸術音楽へとジャズを変容させたからです。この年の夏ごろ、20歳になってた渡辺貞夫は"ジャフロ"と云うバンドを組んで、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で演奏してました。この当時、渡辺はすでにビバップに傾倒していたのですが、ハーレムはアフリカ系の兵士が多かったので、彼らが好むリズム・アンド・ブルースを中心に演奏してたのですね。このハーレムにはピアニストのハンプトン・ホーズやサックスのハル・スタインらアメリカのジャズ・ミュージッシャンが米軍に招集されて出演してました。「いつか僕もあの域に達したい」渡辺にとっては夢のような世界です。渡辺がサックスと出会ったのは15歳のときです。出生地の宇都宮に映画のアトラクションのためのバンドが来て、そこで見た金色で、管がグッと曲がった楽器が非常にカッコいい。それがサックスとの出合いでした。当時、一回り年上の従兄が東京 新橋の「フロリダ」というダンスホールで働いてて、そこで「ブルーコーツオーケストラ」というビッグバンドが演奏してました。よみうりホールで開催されるジャズコンサートのあと「フロリダ」に行って生演奏を見たら、もうサックスが欲しくて欲しくてたまらなくなって...モーターやトランスの修理業をやっていた父親には、クズ電線が朝鮮戦争の特需でとても高く売れて、2階の押し入れにたくさんの現金がカバンに入れられて放置されてる。そのお金を失敬してたら、父親に見つかったのですね。こうなると正直に白状するしかありません。「サックスが欲しい」そしたら父親は渡辺を東京に連れてって、サックスを買ってくれたのです。しかも高校卒業時に「音楽が好きでたまらないから2年だけ東京で好きなことをやらせてくれ」と云ったところ、父親は許してくれたのです。そこから渡辺のミュージシャン人生が始まったワケです。話は1953年に戻ります。渡辺がクラブ「ハーレム」で見ていると、進駐軍のジャズ・ミュージッシャンに交じって、奔放にピアノを弾く若い女性がいます。23歳の龝吉敏子です。渡辺より年上と云っても、たいして年の違わない龝吉は、この時点で日本のモダンジャズを代表する若手ミュージッシャンで渡辺にとって憧れの存在でした。そんな龝吉がある日、渡辺に声をかけてきたのです。「新しいバンドを作るんだけど、一緒にやらない?」渡辺にとって青天の霹靂です。龝吉は与田輝雄率いる"シックス・レモンズ"に在籍して高給を得てましたが、レギュラーで出演してた銀座のクラブ「銀馬車」ではダンス音楽の演奏ばかり要求されて鬱憤がたまってたのですね。龝吉はビバップスタイルをもっとやりたかったのです。そんなときに、ハーレムで渡辺の演奏を聞いた龝吉は逆に驚嘆します。当時の日本のアルトサックス奏者はお行儀のいい演奏家ばかりだったのですが、渡辺の演奏は当時の日本にないアグレッシブな音の追求でした。龝吉が目指す音楽には、ぜひとも欲しい奏者が渡辺貞夫だったのです。かくして龝吉と渡辺が並び立つ夢のバンド「コージー・カルテット」が作られたのです。当時のジャズバンドは仕事のあるときだけ集まって、その分の手当だけ受け取り、ないときにはメンバーそれぞれの仕事をこなすのが通例でした。しかし龝吉は、仕事の有無にかかわらず月給制を敷いたのです。それがためにコージー・カルテットの仕事がないときに龝吉がアルバイトで稼いだ金はすべてメンバーの給料に消えていきました。龝吉は当時を振り返って「やりくりはタイヘンでした。メンバーの給料を払うため、自分の着物を質に入れてしのぐこともしました」と。それでも自分の選んだ曲や、自分の作曲を誰に気兼ねすることなく演奏できる道を選んだのです。渡辺にとって龝吉は優しくも厳しいリーダーだったようです。コージー・カルテットに加入して間もないある晩のステージで、龝吉は突然チャーリー・パーカーの「ムース・ザ・ムーチェ」の楽譜を配りました。テンポの早い難しい曲で、初見で吹く渡辺は2小節目でつっかえてしまったのです。そしたら龝吉が「あなたプロでしょう。譜面も読めなくてどうするの」と叱りつけたのです。このとき渡辺はひどく落ち込んだと云います。しかし逆にいい演奏すると必ず褒めてくれるし、大森の龝吉の自宅で練習が終わると、よく手料理をふるまってくれたりしたんですね。こうしてジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンに見出され、日本人としては初めてボストンの名門バークリー音楽院で奨学生として学んだ龝吉敏子と、同じようにバークリー音楽院に留学して、日本ジャズ界で活躍する一方、ボサノヴァをジャズの世界に紹介した渡辺貞夫の夢のバンドが誕生し、日本のジャズ史に新たな1頁を書き加えたのです。龝吉敏子、現在96歳で今もソロ活動をやってます。渡辺貞夫は現在92歳、生涯現役と活躍を続けてます。
Feb 5, 2026
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大阪の梅田(大阪駅)から地下鉄 御堂筋線でひとつ目の駅"淀屋橋"。大阪市庁舎、日本銀行 大阪支店と云った官庁関係から、中之島公園や緒方洪庵の適塾、赤レンガ壁が美しい大正レトロ建築の"中央公会堂"、国の重要文化財である府立中之島図書館など歴史遺産も豊富な場所です。その淀屋橋の地下鉄駅を上がったところ、ちょうど大阪市庁舎に続く土佐堀川にかかった"淀屋橋"のたもとから川を見下ろすと一双のやかた船が係留されてるのが見えます。船を係留してる川に建ってるプレハブの建物には「かき広」の看板が。このお船の存在は大阪人だったらほとんどの人が知ってます。知ってるのですが、訪れた人はまぁ見当たらないですね。少なくとも私も含めて、私の知人で行ったことある人は皆無です。「かき広」は大正9年(1920年)創業の老舗「牡蠣船」なんです。最盛期には土佐堀川に何十隻も浮かんでいた牡蠣船ですが、次第に数を減らし現在大阪で営業しているのは「かき広」のみ。全国でも現存する牡蠣船は数隻となってます。なぜ大阪人は行くのに二の足を踏むのかと云うと、さしたる明確な理由はありません。気になってるけど、行きにくい。理由のひとつは、店の入口が入り込んでて「入りにくい」と云うことと、なにより「いつ営業してるのか分からない」と云うことです。SNSでも「閉店してる」と云う投稿をいくつか見ますが、それは牡蠣の旬である冬(10月~4月頃)のみの営業だからで、投稿した人の多くは冬以外の季節に行ったのですね。ここはお昼もやってるみたい。昼は11:00~14:00だけど簡単な昼食だから、本番は17:00~開店する夕食。夕食(コース料理)の予算は7,000円~8,000円くらいが例年の相場ですが、今年は広島産の牡蠣がほぼ全滅状態なのでお値段はもっと上がってるかも。牡蠣船の起源は江戸時代まで遡ります。広島で牡蠣の養殖技術が発達し、販路を開拓するため大阪まで牡蠣を船で運んだことが始まりなんですね。当初は牡蠣を売るだけでしたが、次第に船上に座敷を設けて牡蠣料理を提供するように。現代の「かき広」店長は3代目の吉見三千夫さん。この人、3代目になったのは60歳を超えてから。さぞかし2代目が厳しく、なかなか跡を継がせなかったのかと思いきや、吉見さんは3代目になるまで料理とは無縁の建築関係の仕事をしていたのです。義父にあたる2代目からの依頼で「かき広」を引き継ぎました。もし「かき広」に行ってみたいと思われる方は電話で営業有無の確認と予約してください。TEL:06-6231-1891地下鉄御堂筋線/京阪本線淀屋橋駅1番出口すぐ「かき広」の料理ショート動画です この文字列をクリックすると動画が観れます
Feb 4, 2026
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むかしニューヨークに行ったときのこと、泊まってるホテルがセントラルパークの真ん前だったので、そこから伸びるフィフス・アヴェニュー(五番街)を何の気なしに歩いてました。セントラルパーク・イーストとも呼ばれるこの通りには、ティファニーを始め、カルティエやグッチ、ルイヴィトン、シャネル、プラダ、エルメスなど名だたる世界のハイブランドが集中してます。そしたら五番街57丁目にあるティファニー本店の前に大型バスが停まったのですね。あの映画「ティファニーで朝食を」で黒のイブニングドレスに身を包んだオードリー・ヘプバーンが片手にコーヒーの入った紙コップ、もう一方の手に紙袋に入ったデニッシュを持ってショーウィンドウを眺めながら食べている有名なシーンのティファニーです。さて、バスから降りてきたのは大勢の日本人女性の団体(胸にさげてるワッペンで分かりました)。彼女らは脇目も振らず、ティファニーの中へとなだれ込んでいったのですね。それを目のあたりにした私は恥ずかしくって、そそくさと五番街を離れたのです。現在、ハイブランドの宝庫フランスでハイブランドを最も多く購入しているのは地元フランス人ではなく中国人観光客です。彼女らは昔、日本でやったようにフランスでハイブランドの「爆買い」する存在としてつとに有名です。逆に普通のフランス人女性にとってシャネルやルイ・ヴィトンは高嶺の花と同時に、普段着にそのようなブランドを着るのは一般的ではないと考えてます。彼女らはハイブランド特有の大きなロゴをあしらった衣服やバッグを身につけることに「ブランド会社の広告塔になりたくない」と云う意識が強く働いてむしろ避ける傾向にあるのですね。むしろZara(ザラ)やH&M、ユニクロなど、日本の女の子がよく買う服の方が、フランス人女性も数多く購入してます。だからと云って、フランス人女性はハイブランドを着ないとは云い難くって、ホームパーティでさりげなくハンガーにかけられたロゴが主張してないシンプルなコートが、実は高級ブランドのものだったということはよくあるそうです。つまり彼女らは人とかぶらない、シンプルなものを身につけることがオシャレなんですね。では日本のZ世代はハイブランドをどのように捉えてるのでしょう。ネットやSNSでは「ハイブランドを着るのはダサい」とか「ハイブランドを買うなんてあほらしい」と云う言葉をよく耳にしますね。これは若者が分不相応なハイブランド品を身に着けてると「無理して買ったのでは?」とか「背伸び感がある」と感じられることが多く、単にファッションセンスだけの問題ではなさそうです。とは云えセンスの問題は、今の若者の方が昔より敏感ですね。バブルのころは猫も杓子も肩パッド入りのスーツやボディコンワンピで、太い眉にイブサンローランやシャネル、ディオールなど、ハイブランドの真っ赤なリップと、みんな同じ恰好でした。ところが今の若者がハイブランドにもつイメージは、ハイブランド品自体が強い個性や存在感を持っていて、「ブランドに着られてしまう」と云う意識。そりゃあ全身ロゴが主張するグッチやフィンディのセットアップや、大きなルイヴィトンのモノグラムが目立つバッグなんて身につけたら「服に負けている」「持たされている感」が出てしまうんですね。それとともにハイブランド品の価格内訳には広告費や店舗運営費、ブランドイメージの構築に使われてる部分がほとんどで、それがZ世代から見ると「ブランドの名前」と「広告費」にお金を払ってると映るのですね。実際、ハイブランドのバッグより、ポーターの吉田カバンの方がずっと使い勝手がいい。どうもハイブランドに固守する人たちっての意識は、云ってみれば急激に経済だけ発展した途上国の人間みたいな。今の日本の若者は、値段よりも自分の個性をどう引き出すかに腐心してて、もっと洗練されてるのですね。私は...どこ行くのもスポーツウェア一辺倒なので、そもそもこんな議論に参加資格もありません(笑)
Feb 3, 2026
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2020年に綾野剛が主演して、大友啓史が監督した映画「影裏(えいり)」と云う作品があります。共演は松田龍平や筒井真理子など。この作品の舞台は岩手県の盛岡。物語は震災前後の盛岡に転勤でやってきた綾野剛が、同い年の同僚 松田龍平と知り合います。ルールに縛られず飄々と生きてる松田龍平に惹かれた綾野剛は、ふたりで酒を酌み交わし、釣りに興じるなど距離を縮めていくのですね。いつしか綾野剛にとって松田龍平は、慣れない地でただひとり心を許せる存在になっていきます。が、松田龍平はある日、連絡もなく会社を辞め、彼の前から消えてしまうのです。一度は綾野剛の前に戻ってきた松田龍平が再び失踪し、綾野剛が彼の知られざる「裏の顔」を知っていくと云うストーリーです。この映画の原作は沼田真佑のデビー作で同名の小説。沼田真佑はこの作品で文學界新人賞とともに芥川賞も受賞しました。映画でふたりが喫茶店で談笑するシーンがあります。このお店が今回のテーマ。ロケ地になった喫茶店は一関市のジャズ喫茶「ベイシー (BASIE)」と云うお店です。ジャズ喫茶なんて、しょせんレコードを古くさいオーディオ機器で流してる喫茶店ぢゃないか。そう思われるでしょうが、「ベイシー」は一癖あるのですね。学研の「ジャズの教科書」にして「日本一のジャズ喫茶」と紹介され、「日本一音の良い喫茶店」として知られているのです。1970年の開業当初からスピーカーはアメリカのJBL。当初はJBLのスピーカーをカスタムシステムにして使用してました。アンプ類も同じJBLのSG520とSE400S。SG520は1964年に販売開始されたプリアンプ。SE400Sは1960年代後半~1970年頃に販売された、JBL初のシリコントランジスタを使用したステレオパワーアンプです。どちらもビンテージものですね。ターンテーブルは英国リンのLP12、トーンアームはSME3009、カートリッジはシュアーのV15 TypeⅢとオールドオーディオファンにはお馴染みのシステム。震災後、スピーカーはJBLのプロジェクトK2に変わりました。ジャズファンやオーディオマニアの間で「ジャズの聖地」と呼ばれているジャズ喫茶「ベイシー 」。常に大音量でジャズのLPレコードを再生していて、アメリカのJBL本社から、JBLの社長やエンジニアたちがその音を聴くために訪れたほどです。ただ、これらの機器を揃えただけで同じ音が出るワケではアリません。オーナー菅原正二の緻密なチューニングによって作り出された音響空間なんですね。ベイシーではレコード再生だけでなく、ジャズ・ミュージシャンのライブも不定期に開催してます。そのミュージシャンの顔ぶれがスゴイ!店名の由来、カウント・ベイシーに因んでるのはお察しの通りですが、そのベイシー本人がここを何度も訪れているのです。岩手県の一関市ですよ~それをスウィングジャズ、ビッグバンドの世界的バンドリーダー ベイシーが足を運んでたのです。そればかりではありません。私も親しくしていただいたドラムプレーヤーのエルヴィン・ジョーンズもこの店でたびたびライブを開催してたのですね。日本で活躍する韓国人ジャズ歌手ケイコ・リーもライブをたびたび開催しているとともに、2005年に発売されたアルバム「誰よりも」や「ライヴ・アット・ベイシー~ウィズ・ハンク・ジョーンズ」にはベイシーで録音された実況録音盤が使われてます。フィリピン出身のジャズ歌手マリーンもライブの常連。アメリカのジャズ歌手アニタ・オデイは、ベイシーで録音された実況録音盤「恋をしましょう~LIVE AT BASIE~」を出してるし。さらに日本を代表するジャズサックス奏者で"ナベサダ"こと渡辺貞夫も、ほぼ毎年この店でライブを開いています。同じくジャズサックス奏者の坂田明もこの店でライブの常連だし、ジャズピアニストのハンク・ジョーンズは2009年にベイシーで録音された実況録音盤「ジャム・アット・ベイシー フィーチャリング・ハンク・ジョーンズ」を出してます。ジャズファンからしたら背筋があわ立つ面々でしょう?しかもベイシーは永六輔がトークショー会場としてたびたび利用したり、立川談志や春風亭小朝もこの店で落語会を開催してました。なんか文化のよりどころみたいなお店なんですね。この伝説的な音響空間「ベイシー」は、2020年に公開された星野哲也監督の映画「ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)」として大々的に取り上げられました。映画「ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)」予告編
Feb 2, 2026
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日本経済の中心 東京を始めとする関東平野にある神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の1都6県を「関東」と私たち関西人は呼んでますが、例えば東京に居住する人から見たら関東とはどこを指すのでしょう?まんま地図通りなのか。まさか群馬や栃木、茨城なんてマイナー(失礼)県は仲間に入れたくないとは考えてないでしょう。もともと関東と云う言葉は、箱根の関所より東の地域を指す言葉から由来して、江戸時代には「関八州」と呼ばれたと云いますが。同じように「関西」と云う言葉も曖昧な表現なんですね。近畿=関西かと云うと、そうではないですね。近畿は古代律令制の「五畿七道」に由来した大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀、三重の2府5県を云いますが、三重県と云うのは微妙で、県庁所在地のある津市は私ら関西人は仲間に入れるけど...例えば人口が津市よりも多く工業都市でもある「四日市」市なんてのは感覚的に東海地方=名古屋の仲間。実際、四日市市には中日ドラゴンズファンがわんさか居ます。逆に近畿の天気予報では四国の徳島や香川が仲間に入れられ、三重県は津のみになることが多い。関西の「関」は、古代に奈良や京都の政府が設けた関所「逢坂(おうさか)の関」に由来します。逢坂の関ってのは、山城国と近江国、今の京都と滋賀の境界あたりにあって、当時はその西側すべてを関西と云ってたのです。つまり古代の関西は、西日本全体を指してたのですね。律令時代に制定された「畿内」は、今の「首都圏」と同じ考え方で、天皇が住む都の周辺の地域を指す言葉でした。以下の5国が畿内です。・大和国(奈良県全域)・山城国(京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)・河内国(大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)・摂津国(大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国)対する「近畿」は文字通り、都に近いエリアと云うニュアンスです。で、現在の「関西」とはどこからどこまでを指すのか?それが今でも曖昧なんです。私たち大阪人の感覚だと「大阪」「京都」「兵庫」の3府県だけ。そんなん云うたら、他の近畿の県が気ぃ悪すると云うなら、これに加えて「奈良」「滋賀」「和歌山」くらい。三重県はちゃいますなぁ。そもそも関西では「近畿」って言葉そのものがあまり好まれない傾向あるんです。雑誌なんかで「近畿」と表記したものはサッパリ売れないそうです。近畿で売れたのは唯一現在改名して「DOMOTO(ドウモト)」になった光一くんと剛くんの「KinKi Kids(キンキ・キッズ)」くらいです。だから大阪湾に浮かぶ空の玄関口は「近畿国際空港」ではなく、「関西国際空港」と云う名前なんですね。
Feb 1, 2026
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