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先に我が愛車アルファロメオ156にエンジンの不調を知らせる警告灯が点いた話を書きましたが、ようやく暇を見つけてディーラーに持ち込んだんです。すると、案の定、エンジンの排気系に問題があることが判明した。 どうもエンジンから排出された排ガスが触媒を通過する手前のところで、排気管がひび割れしていて、そこから外気を吸いこんでしまうらしいんですな。で、そこに仕込まれたセンサーが「ん? なんかおかしい・・・」と判断したと。また排ガスが妙に薄いことにエンジン管理システムが反応し、少し濃いめの燃料噴射をしているらしく、燃費も若干悪くなっているとのこと。 しかし、排気管がひび割れって・・・。日本車じゃ考えられんなあ。 ま、私、アルファロメオの走り自体にはいたく感銘を受けておりまして、「セレスピード」と呼ばれるセミ・オートマチックを駆使して加速していく時の爽快感にはたまらないものがあるのですが、しかし、こう故障が多いとねえ・・・。やはりある種の外車は、素人が手を出しちゃいけないジャンルだったのかと、少し後悔しているところもあり。 で、ディーラーの担当メカニックさんに聞いてみましたよ。仮に、仮にですよ。仮に今、アルファを手放して、例えばフランスP社の「○×7」辺りに替えてみたりすると、どんなもんですか? と。 すると、メカニック氏曰く、「個人的な印象ですが、○×7は案外故障しますよ。○×6は良かったのですが・・・」とのこと。 ほ、ほう、そうなんだ。じゃ、同じフランスのR社とか、ドイツのA社とかV社のクルマは? と畳みかけると、やはりそれぞれ異なった理由で手が掛かるそうで。要するに、外車っつーのは一般に故障するらしいんですな。このメカニック氏によれば、このディーラーが扱っているクルマの中で、ほとんど故障しないのは、スウェーデンのボルボと韓国のヒュンダイだけなのだとか。 なるほど。しかし、今のところ、両方とも私にとっては食指が動かないメーカーなんだよな~。となると、要するに私が買いたいと思う外車は、すべて故障するものばっかりなんだ・・・。 だけど、不思議なんですよね。「外車」と言ったって、その外車の生まれ故郷じゃ「国産車」でしょ? じゃ、イタリアに住んでいるイタリア人のアルファロメオ・ユーザーは、自分のクルマが故障することに腹を立てないのか? フランスに住んでいるフランス人のフランス車オーナーは、当該メーカーがしょっちゅう故障するクルマを作り続けていることについて、一体どう思っているんだ?? いくらそれらの国の人々が、クルマの故障に対して寛容だとはいえ、実際問題として故障を直すためにはお金が掛かるわけでありまして、いくらなんでも、そういう無駄な支出についてまで寛容な人なんていないだろうと思うのですが。 大体、インターネットなどで色々な外車の故障状況を調べると、「あのクルマはミッション系が弱い」とか、「電気系統の故障、特にスピードメーターが動かなくなるのは、このクルマの常」とか、「このクルマは、ドア回りのゴム・シールドが弱いので、雨が降ると必ずドアの内側に染みができる」とか、そんなことが当たり前のように書かれていますが、そんな「定番の故障個所」が存在するクルマが、それでもそのまま生産され続けるって、一体どうなっとるんですかね。企業倫理として、どうなんだ? その辺がね、ワタクシとしてはまったく納得がいかないんだよなあ。 ならば日本車を買え、と言われそうですが、これがなかなかねえ。デザインの点で、あるいは乗り味の点で、ワタクシの心にピンとくるクルマがない。あれば、もちろんそれを買いますよ。別に見栄で外車に乗っているわけではなし。 というわけで、アルファに乗り続けるのも地獄、別な外車に乗り換えるのも地獄という、なかなか困難な状況に陥っているワタクシなのでありました、とさ。とりあえず、排気管のひび割れは直しますけどね~。
October 31, 2009
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日本の皆さんが今、思っていることを代弁いたしましょう。どうでもいいから、早く「あ奴」の顔を見せてくれ! さて、それはともかく、2004年のフランス映画『ルパン』を見てしまいました。先日衛星放送でやっていたのをビデオに撮っておいたのでね。 で、その評価はと言いますと・・・ 微妙! ってか、評価するだけのレベルまで達しているんですかね・・・? この映画、複数のルパン小説をミックスしてあるんですけど、それだけに逆に焦点が定まらず、というところがある。またルパンと言えば、とりあえずは華麗に盗んでほしいわけですが、なんだかこの映画では、単に「掏りの名人」程度にしか見えないんですよね。 でまた肝心のルパン役を演じているのが、フランスの若手有望俳優だというのですが、なんかこう私が持っているルパンのイメージとはちょっと合わないんだなあ。体格の割に頭がでかく、顔つきにちょっと下卑たところもあり、ヘンな青いサングラスをかけたところなんて、やけにインチキ臭いペテン師みたい。ま、ルパンもいわばペテン師ではあるのですが、それにしてもねえ、ちょっと安っぽすぎる。 ということで、ちょっと評判になった映画ではありますが、私としては「評価の対象にならず」ということにしておきましょうか。ま、ルパンものというのは、映画化は難しいんじゃないかな。その点、日本のアニメ『ルパン三世』(もちろん、第一シリーズだけのことですが)は、良くできていると思いますよ。「三世」の話にすることで原作のしがらみから抜け出しつつ、かつ、ルパンの雰囲気だけはそれなりに抽出していますからね。 ところで、先ほど述べたルパン俳優(ロマン・デュリス)ですが、この俳優、どこかプリンスにイメージが似ているようなところがありまして。体型もそうですが、ハンサムなのか下卑ているのかインチキくさいのか良く分らん、という辺りがね。 で、そう思いながら見続けていると、あれれ、なんだかさらに既視感が。この映画の中でルパンが対決する「ジョゼフィーヌ」ことカリオストロ侯爵夫人役の女優さんの顔にも、なんだか見覚えがあるんだよな・・・。 で、映画の途中でハタと気が付いたのですが、ジョゼフィーヌ役のクリスティン・スコット・トーマスという女優さん、かつてプリンスが主演した映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』で、プリンス演じるジゴロ、クリストファーの恋人のマリー役だった人じゃん! と、そんなこともありまして、プリンスっぽいロマン・デュリスとクリスティン・スコット・トーマスが絡むたびに、なんだか『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』の再現を見ているようで、私は二つの駄作映画を同時に見ているような気になってしまったのでした。『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』もトンでもない駄作だったからなあ! あれは世界中のプリンス・ファンの間でも「武士の情けで見なかったことにしよう」と、暗黙の協定が出来上がっている作品なんですけどね。 ということで、よほど暇な方、いらっしゃいましたら、『ルパン』と『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』、この二つの映画を見比べて、軽く笑ってみるのも一興ですぞ!
October 30, 2009
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警察庁が17年ぶりに規制速度を見直し、条件が揃えば一般道でも時速80キロまで出せるようになる、とのこと。 そりゃ、そうだよね! 大体、現状の速度規制って、現実味ないんですもん。見通しが良くて、歩道もガードレールでがっちり仕切られている片側2車線道路に、「50キロ」なんて速度制限がなされていたりする。ところが実際のクルマの流れは80キロくらいなので、仮に50キロで走っているクルマがいると、誰もがそれを追い越そうとするわけですよ。となるとレーンチェンジやら何やらで事故の可能性が余計に増える。そういうナンセンスな速度規制があまりにも多すぎると、ワタクシは思いますなあ。 その点、アメリカの速度規制はいいですよ。現実味があるんですよね。 ま、ドライバーによっても若干の違いはあるかもしれませんが、例えば私のようなベテラン・ドライバーが、「この位のスピードで走るとちょうどいいな」と思いながら走っている時、ふと速度標識を見ると、まさに今自分が走っている速度であることが非常に多い。一般道、田舎道、山道、みんなそうです。ドライバーの安全感覚と速度規制の表示がうまい具合に一致しているんですよね。だからこそ、「今のスピードよりも速く走ってはいけない」と標識に言われても、非常に納得できる。 ところが日本の速度規制といったら、ドライバーの安全感覚よりもはるかに低いので、速度規制に従って走るとストレスのたまること、たまること。このストレスが、むしろ危険を呼ぶと、私は思います。 大体、80キロくらいで気持ち良く走れる、そして実際にほとんどのクルマがそのスピードで走っている道路に50キロ規制がかかっているということは、そこで警察に捕まった場合、一発免停でしょ? そんな規制なんてあり得ないですよ。 多分、日本の従来の速度規制って、大昔のクルマの基準で作ってあると思うんですよね。当時と比べて今のクルマは、ブレーキ性能、タイヤの性能など、はるかにアップしているという厳然たる事実をまるで踏まえていない。 ついでに言えば、例えば下肢に障害のある方の特別車両、あれ、現在の規制では総重量が1.5トンに制限されているってご存知? 単体重量ではなく、総重量が1.5トンとなると、せいぜい1.5リッタークラスのクルマしか(特別な手続きと試験を経なければ)乗れないということです。こういう不自由も、大昔のクルマを基準にして作った時代遅れの制度が生き続けているからです。 そういうナンセンスな規制は、どんどん取っ払ってもらいたいと思うんですよね。もっと現実を見てほしい。「現状追認」というと、なんだか厭な響きがあるけれど、しかし現実に合わない法律なんて、悪法ですよ。そんなの、どんどん改正してほしい。 ということで、今回の警察庁のお達しは、遅きに過ぎたとはいえ、前進であると認めましょう。願わくばこの調子で、ドライバーの安全感覚に合うスピード規制をしてほしい。少なくとも、東名高速で小雨の時に出る「50キロ」の速度規制はやめてもらいたい。そんな時だって、みんな100キロで走っているんですから!
October 29, 2009
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今日はうちの大学で「卒論中間発表会」という恒例行事がありまして、4年生がそれぞれ現時点までの卒論の進行状況を、10分ほどのわずかな時間ですが、プレゼンテーションする、というのがありました。 で、これはいわば、それぞれのゼミの間での他流試合みたいなものですから、指導教授としても若干緊張します。つまり、他のゼミの学生たちと比べて、私のゼミ生たちはどうなのか、というのがはっきりするわけで、そうなると、それを指導している私の手腕までも明らかになるわけですからね。そこはやはり気になるわけですよ。 で、その結果はと言いますと・・・ 釈迦楽ゼミ圧勝! 私のゼミ生たちそれぞれの個性的かつ意外なテーマ設定の妙もさることながら、練りに練った資料を十全に使いながら、自分の研究の動機、研究の目標、各章の構成、現時点での発見、今後の課題などなど、要領よくプレゼンし、与えられた10分間をきっちり使ってそつなく発表を終える手際の良さ。しかも一人二人がいいというのではなく、全員が揃って完璧な仕事をこなす粒ぞろい感。実に気持ちがいい! それに比べて、言っちゃ悪いですけど、他のゼミの学生たち・・・。もうちょいしっかりしろよっていう感じでしたなあ。いい加減に作ったと思しき資料。与えられた10分に満たなかったり大幅にオーバーしたりするアバウトなプレゼン態度。凡庸な、あるいは手に余るであろうテーマ設定などなど・・・。まったく「なってない」感じで、我が釈迦楽ゼミの一糸乱れぬきっちり感とは比べるべくもない、というところ。 いやあ、さすが私の弟子たちは、今年も見事でございました。こう手放しに褒めちゃ親ばか丸出しですけど、やっぱり他流試合に勝てば嬉しいですよ。わっはっは! ま、誰かさんの指導がいいからねえ・・・。 というわけで、今日は実に気分のいいワタクシなのであります。さて、我がゼミ生諸君! この調子で最後までいい論文を書いてくれよ!
October 28, 2009
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今日の出来事で印象的だったのは、何といっても「すかいらーく閉店」のニュースですなあ。結構、感慨深いところがありますね。 昔々のその昔、すかいらーくをはじめとして、デニーズだのロイヤルホストだのといった、いわゆるファミレスが続々と登場した頃、ファミレスに行くのって楽しみでしたよね。ゆったりとした座席、手ごろな値段で洋食・和食・中華のすべてが食べられること、クルマでのアクセスのし易さ、夜遅くまでの営業などなど、それまでにないレストランの形態として新鮮だったし。 実際、我が家も頻繁にファミレスに行っていた時期がありましたよ。今日はちょっと夕食を作るのが面倒、なんて時に、誰からともなく「じゃ、ファミレスでも行くか」なんて話になったりしてね。 それからバブルの頃だったか、どのファミレスが一番旨いか、なんてことが話題になったこともありましたっけ。確か、当時はロイホ人気が沸騰していたように記憶してますが、そんなことも懐かしい・・・。今、ファミレスの味を云々する人なんていないでしょう? 大体、よく考えてみると、ファミレスで食べるのって、案外お金がかかるんですよね。一品一品は安いように見えても、スープ付けて、コーヒーつけて、最後にちょっとデザートもつけて、なーんてやっていると、あっという間に一人1500円、なんてことになってしまう。で、そのくらい出すのだったら何もファミレスじゃなくてもいいか、ということになるわけですよ。そのくらいの値段で、もっと味にこだわりのある店はいくらでもありますからね。 結局、そんな感じで、日本中の家庭がファミレスを卒業しつつあるんじゃないですかね。となると、残されたファミレスは、とにかく価格を下げることで生き残りをかけるしかない。日本全国のすかいらーくが、より値段の安いガスト系に統合されてしまったのも当然でありましょう。 でも、初代ファミレスたる「すかいらーく」の看板が無くなるのは、ちょっと寂しい気もしますね。ま、それが時代の流れというものなんでしょうけれども。 ところで・・・。 「ファミリーレストラン」を「ファミレス」と短く呼ぶようになったのは誰が最初なんでしょうか? この点について、定説はあるのでしょうか? もしないのであれば、多分、ワタクシだな。 いやあ、実はですね。ファミレスなんて言葉がまだない頃、ワタクシ、自発的に「ファミレス」という言葉を使っていたんです。「ファ、ミ、レ、ス」は途中まで「ファ、ミ、レ、ド」の音階だよな、などと思いつつ。で、そのうち、ふと気が付くと日本中に「ファミレス」という言葉が定着していた、と。 ま、言葉に特許があるわけでもなし、言っても詮方ないことなんですけどネ! というわけで、ファミレスという言葉の創始者、かもしれないワタクシとしては、日本最初のファミレスたるすかいらーくの終焉を見届けて、物思いにふけっているのでございます。
October 27, 2009
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なんだか最近、物足りないなあと思っていたら、そうだ、最近、映画館にぜんっぜん足を運んでないことに気が付いたのでした。 ということは、つまり、面白そうな洋画が上映されてないっつーことですね。ワタクシは邦画を映画館まで行ってお金を払って観る習慣がまったくないもので。 ま、かろうじて『パイレーツ・ロック』がどうなのかな、というくらいですが、後はほとんど全滅。洋画界、というか、とりわけハリウッドは一体どうなっちゃってるんですかね? そういえば、映画だけでなく、ポップ・ミュージックの方面でもさほど影響力のある人がいるわけでもなし、文学だってそうパッとしているわけではない。アメリカの文化力自体が低迷してますよね・・・。もちろん、それで世界が困ることになるわけではありませんが。 でも、それを言えば日本も同じか・・・。 今読んでいる『平凡パンチの三島由紀夫』によれば、三島が活躍した時代の日本って、学生運動なんかの華やかりし頃で、日本中がわっさわっさしていた感じがする。それに比べると、今の日本って落ち着いちゃってますもんね。 アメリカにしろ、日本にしろ、無風状態な時ってのは、面白いことも生まれないのかしら。わっさわっさいていて面白いのと、落ち着いていて面白くないのと、どっちがいいかって言われると、困りますけどね。 ま、こればっかりは人頼みってとこがありますけど、なんかね、こう「その手があったか!」的な面白さのあるモノが出てきてくれないかしらと思うワタクシなのであります。
October 26, 2009
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故障しそうなアルファを駆って、東京から戻ってまいりました。疲れた~! だけど、帰宅してみたら嬉しい便りが届いておりまして。 先日、秋田での学会の時に同業者のY先生と話していて、私がこの8月に出版した「卒論の書き方指南本」のことをチラッと話したら、「見本、送ってよ」と言われたので、送っておいたところ、留守宅にその礼状が届いていたんです。 で、それだけなら別に驚きもしないのですが、この礼状の内容が実に嬉しいものだった。 というのも、Y先生、拙著を全部読んだ上で、気に入ったからご自身の勤務校における「アメリカ文化史概説」の授業で早速使うと言って下さり、しかもすでに大学生協の書店に30部を注文した、というのです。ひゃー、マジですか! 嬉しいなあ! 我々同業者間では、本を書けば、親しい者同士、献本しあうのが習わしであるとはいうものの、たいていの場合はそれが形式的な習わしに堕してしまって、実際には本をもらってもよほど興味がない限り読まないことも多いんです。だから、献本した本についてほんとに読んだ上で感想などを送ってくれるだけでも珍しいことであり、とても嬉しいのですが、Y先生の場合はそれだけでなく、授業用に本を注文したというのですから、これ以上の賛辞はありません。 だもので、Y先生からのお便りを読んで、私は小躍りしましたよ。疲れも吹き飛んじゃった! やっぱね、人間、他人から評価されたいんですよね~。自分の仕事に対して、それを認めてほしいわけ。実際には、なかなか認めてもらうことはないんですけどね。 ということで、文字通りの意味で「ありがたい」お便りをいただき、深夜に舞い上がっているワタクシなのでありました。Y先生、ありがとね~!
October 25, 2009
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今日はさる学会に参加してきました。 今日の学会のテーマはずばり「翻訳」でありまして、シンポジウムでは「英語を日本語に訳すプロ」「日本語を英語に訳すプロ」などが講師として登壇し、色々ためになるお話をして下さったのですが、もう一人「言語学的に翻訳を考える」という側面でお話をして下さった先生がおられまして、これが結構面白かった。 その講師の先生は東大名誉教授で今は昭和女子大で教えていらっしゃる池上嘉彦先生という大先生。言語学の大家ですな。 でね、池上先生は言語学者ですから、日本語と英語の特徴を言語学的にとらえていらっしゃるわけですが、その要点をかいつまんでいいますと、日本語というのは非常に主観的な言語で、常に自分の目で見た情景を云々するというのです。対するに、英語は客観的な言語で、もちろん発話の主体は自分なんですが、もう一人、自分自身を客観的に眺めているもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分の立場からものを言うと。まあ、そういうことらしい。 難しいことを言っているようですが、例を出すと簡単に理解できます。 例えばね、「(誰かに頼まれて)ある部屋の様子を見に行った」ことを想定しましょう。で、その部屋には誰もいなかったとする。その時、日本人ならなんと言うか? 多分「部屋には誰もいませんでした」と言うでしょう。これを英語に直すと「Nobody is here.」ということになる。 ところが本当はそんなはずはないわけですよね。だってその部屋には、部屋を見に行ったその当人がいるわけだから、「誰もいない」なんてはずはない。だから「Nobody is here.」という英語はないわけでして、英語ではこういう場合、「Nobody is here except me.」(私以外は、誰もいない)と言わなきゃいけない。つまり、「誰もいない部屋にいる自分」を、自分自身で客観的に見つめている感覚で状況をとらえているわけですよ。 同じことは、道に迷った場合の表現にも見られます。英語で「ここはどこだ?」というのは「Where am I?」と言いますが、まさに迷っている自分を見ている上から眺めているような物言いですな。一方、同じ状況にある日本人が、英語で迷っていることを表現しようとすると、「What place is this place?」になるのですって。つまり、道に迷った人が、今現在戸惑っている人としての目線で物を言うとすると、必然的にこうならざるを得ないわけ。見たことのない場所を目の前に見ながら、これは一体どういう場所なんだ? と思っている感覚ですね。逆に日本語で「私はどこにいるの?」と人に尋ねたとしたら、「『私はどこにいるの』って、現にあなたはそこにいるじゃないの」とあきれられるのがオチ。だから、日本人には「Where am I?」という英語の表現がなかなか出てこない。 自分が渦中の人間として物を見るか、それとも渦中の人間を上から客観的に見るような感覚で物を見るか。日本語と英語には、この点で全然違うと。 で、違うとどうなるか? 例えば「海は広いな、大きいな、月が昇るし、日が沈む」という歌を考えると、この歌、日本語としてはとてもいい歌に感じられますよね。しかし、それは自分自身が海辺へ出て、海を見た時の実感と重ね合わせて、この歌を味わっているから、そう思うのですな。で、これを英語に直し、「海は広い、海は大きい、そこから月が昇り、そこに日が沈む」という文にしてイギリス人・アメリカ人に聞かせると、「So what?」という感想を言う人が多いのだそうです。海が大きくて広いのは当たり前だ、と。そんなこと言われなくても知っている。だからこの歌の歌詞には何の意味もない、と、そういう風に感じるというのです。それは、やはり自分が海を見ている気になっていないからそうなのであって、英語をしゃべる国民にこの歌の良さを分からせるのは非常に難しい・・・。 だから、翻訳ってのは、難しいんですよ、と。ま、言語学的に分析すると、そういうことになるのだそうで。 ・・・なるほどね! ま、そんな感じで一分の隙もなく言語学的に分析されちゃうと、文学者としてグーの音も出ないわけでありまして、賢い言語学者に「翻訳」というきわめて人間的なというか、職人的なというか、そういうジャンルに攻めて来られると、ちょっと我々として立つ瀬がないなという感じを、私なんぞは受けたのでございます。 しかし、池上先生、最近この手のご講演をされることが多いらしく、今日のお話も、今年の春、同志社大学でなさったご講演をそのまま持って来られたようでしたけど、ということは、既に「翻訳を言語学する」ことにかなり真剣に取り組まれているのでしょう。先日、最近言語学も行き詰っているらしい、という噂話をしましたけど、どうも、最近の言語学は矛先をこの辺に向けているようですな・・・。 とまあ、そんなこんなで、今後「翻訳論」はこうした言語学的な側面も加えつつ、さらに多様な展開をしていくのかしら、などと考えさせられた今日の学会だったのでありました、とさ。
October 24, 2009
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大学での入試業務が多忙を極める中、ギリギリのやりくりをしながら、某学会に参加するため、東京の実家に戻っております。アメリカから戻ってきたと思ったら、秋田へ出張があったり、東京に出てきたりと、やたら忙しいものでございます。 しかし、ただでさえ色々ギリギリのところでやりくりしてるっつーのに、我が愛車アルファロメオが故障しやがって! 空気読めよ! っていうか、故障の警告が出た、ということなんですけどね。 夕方、東京へ向かって走り出し、東名に乗ってさあ行くぞ!とアクセルに力を込めた途端、ダッシュボード上のディスプレイに「Motor System Failure. Go to Dealer」の警告が出たんです。要するに、エンジンにトラブルがある、ということですな。 なにしろ6月には大通りのど真ん中でギアが入らなくなり、立ち往生した前科者ですからねえ。今度はエンジンか・・・。しかし、何しろ私は高速道路をかっ飛ばしている最中なんですから、ここでエンジンが止まったら、ちょっと楽しいことになりそうですよ・・・。 で、たまたま近くにあったサービス・エリアに飛び込み、車を止めて取扱説明書を読むと、この警告が出たまま長距離を走ると、エンジンまたは触媒系に深刻なダメージが生ずる可能性あり、とのこと。しかし、私は東京出張のために荷物満載で東名上にいるわけでして、しかも東京までまだ300キロもあるよ・・・。300キロって、もちろん「長距離」の範疇に入るよなあ・・・。どうすんだよ・・・。 で、ディーラーに電話かけて聞いてみたら、アルファの場合、ごくマイナーなトラブルでも警告ランプがつくことがあるので、もし水温・油音が安定しているなら、何とか走れるのではないかとのこと。 ということで、私も腹をくくりましたよ。えーい、高速道路上で止まるなら止まれ! もうわしゃ、知らん! で、そのまま東京へ向かって再び走り出したと。 しかし、もし本当にエンジンが止まったらかなりヤバいですから、私の定位置である追い越し車線をあきらめ、一番左側の車線をゆっくりゆっくり、100キロ以下で走りましたよ。まるで亀にでもなった気分。「100キロ以下のアルファロメオ」って何なんだよ! 「熱々のアイスクリーム」と言っているようなもんじゃん。言葉として矛盾してるよ。 で、予定より1時間遅れで実家に到着。無事走り切ったけど、疲れたな・・・。 はあ~・・・。どうなんだろう、この状況。アルファ、いい車なんだけど、ここまで信頼性がないとなると、この先、厳しいなあ・・・。 ということで、本当にこの車に命懸けていいのかどうか、いささか考えモノの私なのでありました、とさ。
October 23, 2009
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今日は教育実習生の研究授業を参観するため、県内の某小学校に出張に行ってきました。 しかし、同じ実習授業参観でも、中学・高校での参観と小学校での参観って随分感じが違います。やっぱり小学校って、生徒が幼い分、可愛いんですよね。今日も私が教室に入っていくと、ちっこい連中がわらわらっと集まってきて、中でも一番勇敢らしき女の子が私の目をまっすぐ見つめながら「あの~、○○先生(←実習生のこと)の先生ですか?」なんて聞くんですもん。「そうだよ」と答えると、ふーんと納得した様子でしたが、このおチビちゃんたちに「先生の先生というのは、どんな偉い人なんだろう?」と思われたかと思うと、なんだかこそばゆい気がします。 ところで、今日は4年生の国語を参観したのですけど、子供たちが読んでいた物語は「世界で一番美しいぼくの村」とかいう話で、なんとアフガニスタンの話なんですな。父親と息子が市場に農作物を売りに行く話なんですが、この一家にはもう一人、兄が居て、今戦争に行っている。父親も弟も、来年の春になったら兄が帰ってこられるのではないかと心待ちにしていると。ところが、物語の一番最後の行で、「この村は戦争で破壊されました」というようなことが書いてあって、この一家に悲惨な運命が降りかかったことがほのめかされると。そういうような話です。 ま、一般的にはいい話というか、感動的な話ということになっているようで、戦争の悲惨さを考える上でいい教材ということになっているらしい。 しかし・・・。 どうなんですかね・・・。私の目から見ると、どうもね。こう、物語としてヒネリがないというか、層がないというか。要するに豊かさがないんですよね・・・。ま、これは私の個人的な感想ですけど。 例えば、同じく4年生くらいで習うはずの「ごんぎつね」。あれは、物語としてすごくいいと思うんです。ごんぎつねも、兵十も、互いに悪意を抱いているわけでもなく、むしろごんぎつねとしては、自分のいたずらが招いたことを反省した後は、兵十に対して献身的なことをする。しかし、そうしたことは理解されず、兵十に射殺されるという悲惨な結果が待っているわけですよね。つまり、悪意がなくても人は互いに傷つけあうこともあるし、善意が誤解されることもある。誤解が解けたとしても、時すでに遅し、ということもある。そういう悲しいながら、ものすごくリアルな現実が、美しい物語の中で語られるわけですよ。 こういう物語はね、教えるに足るという気がする。しかし、「世界で一番美しいぼくの村」が、「ごんぎつね」レベルに達しているかというと、私にはとてもそうは思えないですね。特に最後の一行で、物語全部をひっくり返すなんて手法は、劇的であるように見えて、むしろ「あざとい」。 結局、現代には、いい児童文学作家がいない、っちゅーことなんじゃないだろうか。現代日本に、一人の新美南吉もいなければ、一人の坪田譲二もいない。鈴木三重吉もいなければ、芥川龍之介もいない。一歩下がって椋鳩十クラスさえいない。この層の薄さが、問題なのではないかと。 底の浅い物語で子供たちに国語を教えるってことに、今の日本の教育界は何も思うところはないのだろうか? これから先生になろうという教育実習生の必死の授業を参観しながら、その上に立つ教育行政にこそもっとしっかりしてもらいたいもんだという感慨を、またも抱いていた私なのでありました、とさ。
October 22, 2009
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どのくらい前だったか、認知症を患う南田洋子さんを、夫の長門裕之さんが介護する、その姿を映したドキュメンタリーが話題になったことがありました。あれ、私も見ていたのですが、若い時あれほど聡明なお顔をしていた南田さんの、その表情の激変にショックを受けたものです。認知症とは、これほど人を変えるものかと・・・。 その南田さん、ついにお亡くなりになったということで、お悔やみ申し上げます。傍から見れば、仕方ないんじゃなかったのかなのと思いますが、献身的な介護をなさっていた長門さんとしては、どんなになっても生きていてほしかったのでしょうね。 ところで、つい先日も大学の同僚の間で、南田さんがらみで認知症の話題が出まして。 要するに、私も含めての話ですが、皆一様に「自分もああなったらどうしよう」という不安を抱いているんですな。というか、「既にもうなりかけているのではないか」という不安を抱いている。 特に、記憶力の低下。大学の先生なんて、とりあえず自分の脳みそにはプライドを持っている人たちばかりなので、それがある程度年を取って人の名前がとっさに出てこなくなったりすると、多かれ少なかれ愕然とするわけですよ。そしてその愕然とした先に、「まさか、俺、認知症が発症しつつあるのでは・・・」という恐れが出てくるのは当然です。 聞くところによると、最近、認知症をいち早く発見する画期的なシステムが新たに開発されたそうですが、それもどうなんでしょうね・・・。いち早く「あなた、認知症です」と言われるのもねえ。ちょっと嫌じゃない? 早期治療が重要とはいえ、ねえ・・・。 あと、もう一つ、私を含めた同僚の間で共通する不安は「鬱」ですね。 先日、加藤和彦さんが62歳という若さで自決された背景にもこれがあったそうですが、自分が罹らないという保証はどこにもないですからね。 ま、家内に言わせると、私ほど鬱から遠い人間はいないそうですが・・・。厭なことがあった場合、それを2週間以上くよくよ考えるようなら、すでにその気があるらしいですけど、ま、確かに私の場合、そこまでいつまでもくよくよすることはないか・・・、な。 でも、認知症にせよ、鬱にせよ、この歳になると不安なものが色々ありますなあ。歳取っていいことなんて、なーんもないね。
October 21, 2009
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このところ、なんだか本を買う量がガクンと減ったような気がするんですよね。昔はアマゾンからお歳暮もらうほど買っていたのに。 特に買わなくなったのが文庫本と新書。結局、文庫本とか新書本って、「教養」とか「雑学」を得るためのものじゃないですか。ところが最近では日々の暮らしが忙し過ぎて、仕事と直接関係のない教養だとか雑学とかを吸収する暇もなければ、そういう心の余裕がない。そう、時間がないというより、余裕がないんだよなあ、心の余裕が・・・。 だから、今、どんな文庫本が出ているのか、どんな新書の新刊が出ているのか、その新刊情報にさっぱり追いつかなくなってしまいました。昔は暇さえあれば本屋さんをぶらついていたので、文庫だろうと新書だろうと、面白そうな新刊が出ればすぐに「お!」と目についたのに。 で、今日はたまたま、大学からの帰り道、とある方面の専門書を探しに書店に入ったのですが、とりあえず目的の本を見つけた余勢を駆って、久しぶりに文庫本・新書の棚を覗いて来たんです。すると、あるわ、あるわ。こんな本、出てたんだ、というような本ばかり。ちょっと新鮮な驚きでしたね。 ということで、今日は久しぶりに文庫本と新書を買ってみました。 一つは澁澤龍彦夫人・澁澤龍子さんの書いた『澁澤龍彦との日々』(白水社Uブックス)。もう一つは椎根和著『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮文庫)。両方ともある種の評伝というか、澁澤龍彦や三島由紀夫を身近に、直に知っていた人による回想ですね。そう、私はこの種の本に弱いのでありまーす。 で、家に帰ってから、これらの本の最初の方をぱらぱらとめくって読んでみたのですけど、どちらも割と面白そうです。やっぱりね、評論家があれこれ論じた評伝よりも、直に対象と接していた人間が、「あの人は、こういうシチュエーションでこういうことを言った」とか、そういう風な記述をしてある本の方がよほど面白いですよ。そういう意味では、今日の買い物は成功だったかな? 問題は、今日買ったこれらの本を、この先じっくり読む暇があるか、っつーことなんですけどね。昔だったら、こんなの買った日に読み終えていたのに。もうそういう読書の馬力が無くなってしまいました・・・。 それでも、久々に文庫本と新書を買ったのは、なんだか新鮮で楽しいです。いつ読み終わるかわかりませんが、楽しみにして少しずつでも読むことにいたしましょう。これこれ! ↓澁澤龍彦との日々平凡パンチの三島由紀夫
October 20, 2009
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今日の午後、研究室で仕事をしていると、誰やらノックする音。さては来年、私のゼミに入りたいと思っている3年生が、入ゼミの打診に来たのかと思ってドアを開けると・・・ あらま、誰かと思ったら「風の男」じゃん! 「風の男」というのは、今から12年(13年?)ほど前に私のゼミ生だったM君のことで、彼は卒業以来、二年か三年に一度くらいの割合で、何の前触れもなくふら~っと研究室に遊びに来てくれるんです。でまたその出現の仕方が、まったく予期しない時に突然現れ、しばらく話をしてからさっと帰ってしまうというスタイルなもので、私が「風の男」という名前を進呈してやった、そういう男なんです。 で、その風の男が今日もまた一陣の風のごとく突然現れたという次第。しかし今日のM君は「チビ風」連れでありまして、2歳になる可愛い坊やを連れて来てくれたのでした。 仮にこの坊やを「航ちゃん」と呼んでおきますが、これがまた大人しくて可愛い、いい子でね。私とM君が話をしている間、ずっと静かにしているんです。だけど、どういうわけか音には敏感で、どんなに遠くで小さな音がしても耳ざとく聞きつけると、お父さんのM君に向かって「今の、何の音?」と尋ねるわけ。で、その度にM君が「今のはクルマがエンジンをかける音だよ」とか、「ヘリコプターが飛ぶ音だよ」とか、「学生さんが廊下を通る音だよ」などと優しく説明してあげるんですけど、そのやりとりが面白くて、M君もいいお父さんになったなあと感心してしまいました。 で、大人の話ばかりで航ちゃんが退屈するのではないかと思い、たまたま私の机の上にあった玩具のクレーン車とトラック(確か、お菓子の付録か何か)を航ちゃんにあげると、実に嬉しそうな顔をしてその2台のクルマで遊び始めたのですけど、静かに熱中して遊んでいる子供ってのは、ほんとに可愛いもんですね。ちなみに、私が「はい、クレーン車とトラックだよ」と言ってその玩具を渡したら、「これ、トラックじゃなくて、ダンプだよ」と航ちゃんに訂正されてしまいました。いやはや、2歳児といって侮るなかれ。良くわかっとるわ。 というわけで、今日はまたしても風のごとく現れたM君と、今回初対面となる航ちゃんのおかげで、楽しい午後のひと時を過ごすことができたのでした。おい、風の男よ、またそのうち何の前触れもなく遊びに来てくれよ!
October 19, 2009
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今週末は珍しくどこにも出かけなかったので、少しは外の空気でも吸ってこようと、夕食後、近くのスターバックスにコーヒーを飲みに行ってきました。 で、私は馬鹿のひとつ覚えで「スターバックス・ラテ」を注文したのですが、ガラスケースの中に「バナナ・シブースト」があったので、これも一つ注文して家内と半分ずつ食べることに。というのも、実は今、ワタクシの中で「シブースト・ブーム」というのが来ていて、シブーストを見ると、どうしても食べたくなってしまうのでありまーす。 で、スターバックスの「バナナ・シブースト」のお味はと言いますと・・・ んーー、ワタクシ的には65点かな! ちょっと甘すぎるし、バナナの風味が少しくどい感じがしますね。もうちょっと頑張ってもらわないと合格点は出せまへん。 ちなみに私、もともとシブーストというお菓子があまり好きではなかったんです。それがどうしてシブースト・ブームに突入したかといいますと、一年ほど前に名古屋郊外・東山線の「一社」駅近くにある「ミロアール」というケーキ屋さんでたまたま食べたシブーストがやたらにおいしくて、今まで私が抱いていたシブーストへの偏見を一挙に吹き飛ばしてしまったからであります。以来、ケーキ屋さんでケーキを選ぶ時には、まずシブーストがあるかどうかを見るほどになってしまったのですが、やっぱりミロアールのシブーストに敵うものはありませんなあ。 ということで、ミロアールのシブースト、教授の熱烈おすすめ! です。 さて、今日の私ですが、今日は随分長い間、パソコンの前に座ってネットサーフを繰り返しておりました。英語の授業で使ういい教材はないかと思って、色々探していたんです。ある程度の長さがある英文で、しかも興味深い内容で、できればネイティヴによる音声も付いていたらベスト。そんな感じの英文が沢山あるサイトはないものかと思いましてね。 で、ようやく一つ見つけました。ひょっとすると知っている人は既に知っているのかも知れませんが、「this i believe」というサイトがそれ。これこれ! ↓this i believe また、このサイトを運営している「npr」のサイトも、英語学習にはピッタリかも。今、インターネット上の英語サイトなんて山ほどありますが、案外、使い難かったりするものも多いのも事実。そんな中でこのサイトは割と使えるんじゃないかと。 ということで、今日の私の収穫はこのサイトと出会ったことということにして、安らかに眠りに就きたいと思います。それでは皆さま、お休みなさーい!
October 18, 2009
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私、実は船旅というものに多少の憧れがありまして。もっとも、自分で運転しないものについてはたまに酔うことがあるので、ましてや船ともなるときっと酔うのだろうなと思い、今までトライしたことはないのですが。 しかし、今日、我が家に遊びに来た家内の友人の一人が、この夏、ご主人と北海道周遊の自動車旅行に行ってきたそうで、その際利用したフェリーの話を聞いているうちに、またちょっと興味がわいてきました。 彼女によると、北海道旅行の帰路、北海道から名古屋までフェリーに乗ってきたそうなのですが、これが40時間もかかる、というんですな。40時間というと、いかにも退屈しそうではないですか。 ところが、実際にはそうでもないらしいんです。というのも、フェリーの中にはゲームセンターあり、映画館あり、温泉ありで、そんなものに興じているうちに目的地についてしまうので、案外時間の長さを感じないというのです。なるほど、そういうのなら結構面白そうです。 しかし、2等客室は要するに大広間で雑魚寝なので、となると40時間プライバシーがない、ということになるわけだなあ。それは、どうなのか・・・。 超大型フェリーで、揺れもほとんどなくて、豪華娯楽設備がいろいろあって、しかも個室。そういう条件なら、ちょっと乗ってみてもいいような気がしますけどね。でも、そうなるとチケットが馬鹿高になっちゃうのかしら。 360度水平線、という状況を体験したことのない私ですが、死ぬまでに一度くらい、そういうのを体験したい気がしますなあ。どんな気持ちがするんだろう? 心細いのか、それとも爽快なのか? ということで、もしある程度の大型フェリーに乗ったことのある方、いらっしゃいましたら、それがどんな調子のものなのか、ぜひ教えてください。特に乗り物酔いをするのかどうか、というあたりを詳しく、ね!
October 17, 2009
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今、「科学研究費」申請の締切りが迫っておりまして、うちの大学でも学長・副学長のレベルでさかんに「まだ申請してない人は申請して下さい!」という呼びかけがなされております。こういう学外からの研究資金確保は、国立大の独法化以来、非常に切実になってきておりますからね。 で、そんな中でちょいと耳に挟んだのですけど、今、科研費の申請が一番少ない学問ジャンルって何だと思います? 答え:「哲学」です。 なるほどね。言われてみれば、何となくわかりますね。最近の学生たちを見ていると、そんなものに関心がある奴なんていなさそうだもんな・・・。こういう状況下では、哲学を研究している先生方の気合も、薄れてしまうのではないでしょうか。 しかし、それを言ったら我が英米文学・言語学方面も同じようなものでありまして・・・。 こちら方面で特に低調なのは、多分、言語学じゃないかしら。私は別に詳しいわけではありませんが、言語学をやっている同僚の先生方によりますと、学会なんかも低調だそうですな。新たな発見とか、そういうのに沸き立つという状況ではなく、以前だったら論文の注に「こんな変わった文例もあります」と載せる程度の話題を、今では論文の本体で詳しく論じるようになってしまうほど、まあネタに困っている面があるのだそうで。確かに一生に一度出会うかどうか、というような特殊な文例をメインで論じるようになったんじゃ、もはやタコ壺的に行き詰ったという感がありますわなあ。言語学関係の学術書にしても、最近ではせいぜいこれまでに得られた知見を分かりやすくまとめた本がちらほら出る程度なのだとか。N君、そうなのかい? ちなみに国語学方面で最近ちょいとマスコミ的な意味で人気なのは、日本語の誤用の分析なのだそうで、例えば「役不足」なんて言葉が今では本来の意味とは逆な意味で用いられている、なんてことを面白く紹介する本がよく出ているようですが、これも今は人気だけど、あんまり学術的に意味があるとも思えませんねえ。 で、私の専門のアメリカ文学となりますと、さて、どうでしょう。 ま、全国的な規模で見ますと、いわゆる大物作家、マーク・トウェインだとか、フォークナーだとか、そういう連中のことを真正面から論じるような学術書が結構出され、しかもそれを若い研究者が書いていたりしているところを見ると、まあ、さほど低調を嘆くほどではないのかな、と。それに今年はエドガー・アラン・ポーの生誕200年、没後160年という記念の年でありまして、ポー関連のイベントも結構ありますしね。 ただ、もう少し目を身近なところに向けると、ちょっと怪しいところもある。 実はある事情から、中部地区の若手アメリカ文学研究者たちの論文を2、3読んでいるのですけど、正直、あんまり芳しくないですなあ。ま、内容自体も刺激に乏しいのですけど、それ以前の問題としてそもそも日本語がなってないんですよね。日本語どころか、字もやたら間違っている。 例えば「死体累々」なんて書かれると、「えっ?」と思うわけですよ。それを言うなら「死屍累々」でしょう? 「跳ねつける」(→「撥ねつける」)とかね。「死者をともらう」(→「死者を弔う」)とか。「喪に伏す」(→「喪に服す」)とか。もう間違いを挙げていったらキリがないんですけど、これがプロの研究者の書く文章なんだからなあ・・・。レベルが下がっているとしかいいようがない。 ま、地盤沈下はあちこちで見られますよ。 でも、そこを突破していかないとね。 このことについて同僚の先生方とも話をしていた時も、それぞれの先生方が、いかにこの低調な時代にいい業績を出すか、知恵を絞っておりました。私も、負けずに頑張らないとね! がんばろうっと。
October 16, 2009
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いやあ! びっくりした! 今日の今日までものすごい誤解をしていました! トワ・エ・モアの『ある日突然』という歌がありますよね。あの歌の真意を完全に誤解していました。いや、誤解どころの騒ぎではなくて、まったく逆に考えていました。『ある日突然』トワ・エ・モアある日突然、二人黙るのあんなにおしゃべりしていたけれどいつかこんな時が来ると私には分かっていたの 有名な歌なので、ある程度の年齢以上の方であれば、ご自分でも歌えるでしょう。 ・・・で、私はこの歌のことをてっきり「失恋の歌」だと思い込んでいた、と。 つまり、あんなに楽しくおしゃべりしていた恋人同士だったのに、いつしかお互いに話すことも無くなってしまい、二人でデートしていても会話が途切れがちになるようになってしまった。うすうす感づいてはいたけれど、もう二人の関係はダメになってしまったのだ。もう別れの時が来たのだろう・・・。 そういう歌なんだと、今日の今日までずっと思っていたんです。ところが、ところが・・・ 全然、逆ですな。 単なる友人同士とか、そういう時代はもう過ぎ去った。我々はもう次のステップへ、つまり「恋人同士」というステップへ移行しようとしているのだ。そういう予感はしていたけど、いよいよ確信に変わった。もう、言葉を通じたコミュニケーションなんて必要なくなったのだ・・・ ・・・と、そういう歌だったんですね! そのことはこの歌の2番以降の歌詞を見れば明らかです。(2番)ある日じっと見つめ合うのよ二人はたがいの瞳の奥をそこに何があるか急に知りたくておたがいを見る(3番)ある日そっと近寄る二人二人をへだてた壁をこえるのそして二人すぐに知るのさがしてた愛があるのよ(4番)ある日突然愛し合うのよただの友だちがその時かわるいつか知らず胸の中で育ってた二人の愛 ね? だけどこの歌に関しては1番の歌詞が何といっても有名ですし、またそのメロディーがややアンニュイな感じのものなので、そればっかりを繰り返して想起していた私は、てっきりこれは別れの歌なんだと思い込んでしまった。いやあ、無知というのは恐ろしいものでございます。 しかし、考えてみりゃ、そうですよね。トワ・エ・モアなんだもん。札幌オリンピックだもん。基本、前向きな歌を歌う人たちですよ。それが、暗い失恋の歌なんかそう歌うはずないですわな。 だけど、逆に考えると、この歌、むしろ失恋の歌としてそのまま2番・3番・4番と書き進めた方が良かったんじゃないかな、なんて、ちょっと思ったりして。 そんなことも含めつつ、一つの歌が全く別な意味のものとして誤解され、しかもその誤解した人間の心の中ではその意味のまま「素晴らしい歌」と認識されてきたとすると、そのこと自体、かなり面白い現象である、とは言えるでしょうね。 ま、それはさておき、今日は何十年来の大誤解を発見して、びっくり仰天のワタクシなのであります。ところで、この歌を失恋の歌だと誤解していた人、私の他にはいらっしゃらないでしょうか? もしいらっしゃいましたら、ぜひ名乗り出て下さい。ご一緒に恥を分かち合いましょう!
October 15, 2009
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何だか最近、朝起きるのが楽になったような気がしまして。 土曜日・日曜日など、遅くまで寝ていてもいいような時ですら、7時とかにパッチリ目が覚めてしまうんです。これってひょっとして、老化現象の顕れでしょうか? ついに私も朝4時とかに目を覚まし、レレレのおじさんみたいにご近所を箒で掃いたりする歳になったのでしょうか?? 今日、そのことを同僚たちとの雑談の中で報告すると、皆さんから「やあ、釈迦楽さんもついに老けたってことさ!」「ようこそ、老人倶楽部へ!」などと口々に歓迎されたり、あるいは「それでも釈迦楽さんは頑張った方だよ。ここまで超夜型でやってきたなんて、大したもんだ!」などと変な慰められ方をされたりしたのでした。 で、家に帰って家内にそのことを言うと、「なーに言ってるの! 朝早く起きちゃうのは、前の晩に夕食を食べた後、『疲れた~、死ぬ~』とか言って2時間も3時間も居眠りするからでしょ!」と言われてしまったという・・・。なーんだ、そうか。老人にはなりたくないけれど、私にとっては未知の世界である「朝型人間」には、ちょっとなってみたかったのにぃ・・・。 さてさて、それはさておきまして、今日は8年ほど前に卒業していったかつてのゼミ生のSさんが、この6月に生まれた赤ちゃんを連れて、遊びに来てくれました。 で、今日遊びに来ることは分かっていたので、はて生後4か月の赤ん坊とはどんなものだったか、姪や甥の小さかった時のことを思い出していたのですが、私の研究室にやってきた赤ちゃんは、もうすっかり首も据わり、一人前の赤ん坊になっておりましたね。 ちなみにこの赤ちゃん、女の子なんですけど、まだ生まれる前にSさんに会った際、どんな名前にするの? という話になり、その時Sさんの中で最有力候補に挙がっていた「T子」という名前が、音の響きといい、字といい、とてもいい名前だと思ったので、私も「それがいいのではないの?」と言っておいたんです。で、結局、生まれた赤ちゃんにはこの名前が付けられたので、なんだか私も間接的に「ゴッドファーザー」になったような気がしておるのでございます。 で、そのT子ちゃんですけど、これがまた可愛らしい、いい子でね~! よく笑う子で、まったくぐずったりしない。Sさんに聞いてみると、家でもまったく手のかからない子なのだそうで、おなかがいっぱいになればぐっすり眠り、夜泣きなどもほとんどないとのこと。Sさんが持って来てくれたクッキーを私がもぐもぐ食べていると、私の口元をじっと見て、一緒に口をもぐもぐさせるんですよ! まだ固形物なんか食べられないのに! 可愛い~! で、ちょっとだけ私もT子ちゃんを抱っこさせてもらったのですけど、その暖かくて柔らかい感触は、なかなかいいものでしたよ。私が抱っこした赤ん坊は、必ず頭が良くなるというジンクスがありますので、T子ちゃんも、きっと聡明なお嬢さんに育つことでございましょう。 ということで、今日は久々に実家に戻ってきた娘と孫娘に対面したような、面映ゆい一日だったのでございます。T子ちゃん、遊びに来てくれてありがとうね~! Sさんも、またいつでも話をしに来てください。何しろ私はゴッドファーザーなのですから!
October 14, 2009
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ロスから南に50マイルほど走ったところに「ラグナビーチ」というところがありまして、美しい海浜と様々なギャラリーが軒を連ねる芸術家村なんですが、ここに「Latitude 33」という面白い本屋がある。そんなに大きな本屋ではないのですが、あちこちに店員さんたちの手書きの推薦文がポップとして本に添えてあって、それを参考にしながら本選びをするのも楽しい。ま、そんなちょっとこだわりのある本屋さんです。 で、そこに立ち寄ってぶらぶら本を見ていた時、Peter Abrahams というサスペンス作家の『Nerve Damage』という本に店員の誰かさんの熱烈なポップが添えられていて、「読み始めたらyou can’t stop!」的なことが書いてあったので、どんなものかと思って買ってみたんですな。で、それを読み終えたので、ちょいと感想を一言(以下、ネタばれ注意)。 この話の主人公は Roy Valois(多分、「ロイ・ヴァロワ」と発音するのではないかと・・・)という売れっ子オブジェ・アーティスト。自動車のラジエーターのスクラップなどを溶接してくっつけて巨大なオブジェを作ってしまうようなタイプのアーティストです。年齢は46歳、十数年前に最愛の妻Delia(多分、「ディーリア」と発音するのではないかと・・・)を亡くし、今はJen というガールフレンドと付き合ってはいるのですが、ディーリアへの思いが強すぎて再婚までは決意できない、という状態。 ところでロイはアイス・ホッケーのアマチュア・チームに所属するほどの体育会系ではあるのですが、このところ妙に咳が出る。で、ちょっと不安になって医者に診てもらったんですが、なんとなんと、意外なことに肺に特殊な癌が見つかり、余命4か月とのこと。 かくして突然自らの死を強く意識せざるを得ないことになったロイは、ふとした出気心からニューヨーク・タイムズのアーカイブにハッキングし、自分が死んだ時、どのような死亡記事が出るのかを見てしまうわけ。ロイのようにある程度名を成したアーティストですと、死んだ時にすぐ死亡記事が出せるよう、大新聞などではあらかじめある程度、死亡記事を準備しているんですな。で、ロイはそれを読んでみた、と。 すると、自分の死亡記事自体はなかなかいい記事になっていて、それは満足したのですけれど、一箇所、死んだ妻のディーリアについての記述に間違いがあった。経済学者であった彼女は「ホッブズ・インスティテュート」というシンク・タンクに雇われており、ヴェネズエラの農業の活性化のため、パイナップル栽培を推進させようというプロジェクトに参加して活動していたのですが、現地視察をしていた際、ヘリコプターの墜落事故に巻き込まれて亡くなっていたんですな。ところがロイの死亡記事の中では、ディーリアは国連に勤務していたことになっていた、と。ん? 国連?? そこでロイはその死亡記事を書いた記者に電話して間違いを指摘するのですが、その記者がまた変なことを言い出すわけ。曰く、ディーリアの国連勤務の件はちゃんとしたソースからの情報で、信憑性には自信がある。一応、調べ直してみるけれど、ロイの言う「ホッブズ・インスティテュート」とやらの方がおかしいのではないか、と。 で、ロイとしてはびっくりするわけですよ。自分の妻が生前どこに勤めていたか、自分より他人の方が詳しい、なんてことがあるのか? ところが、もっとびっくりすることが生じます。ディーリアの勤務先のことを調べ直していた先ほどの記者が何者かに襲われ、殺されてしまうのです。 かくして何かがおかしいと感づいたロイは、自分でもホッブズ・インスティテュートのことを調べ始めるのですが、かつて妻が勤め、自分でも何度か訪れたことのあるインスティテュートの建物を訪れると、もうそこはギリシャ大使館になっていて、大使館の人に聞いても以前からこの建物はギリシャ大使館だった、と言うばかり。さらにかつて妻の上司であり、ロイとも旧知の間柄であったトム・パリッシュなる人物を探し出して声をかけても、自分はトムという名ではないし、ホッブズ・インスティテュートなど聞いたこともないと答え、取り付く島もない。 しかし、それだけでは終らなかったんですな。妻の死後、十数年の時を経て妻の生前の行動や、その死の詳細を調べ始めたロイの身辺に、次々とおかしなことが起り始めるんです。彼の家はひそかに荒され、ホッブズ・インスティテュートに関するありとあらゆるものが取り上げられてしまったばかりでなく、ある事情から彼の家に一種の居候をしていた少年スキッピーまでこの騒ぎに巻き込まれ、行方不明になってしまう、と。 果たしてホッブズ・インスティテュートとは本当に実在したのか? 実在したとして、それは本当はどのような組織だったのか? そしてそこに勤めていたはずの彼の妻は、本当は何をやっていたのか? と言うか・・・そもそも本当に彼の妻ディーリアは十数年前に死んだのか?? 真相を探るロイは余命幾ばくもない身。果たしてロイは、残りわずかな時間の中で、最愛の妻の秘密を知ることができるのだろうか!!?? ・・・というようなハナシです。ま、一番近しい(と思っていた)人が、実は一番謎めいた人だった、というのはゴシック・ロマンスの定番ストーリーでありまして、その系統を汲む王道サスペンスと言えますな。 とまあ、ストーリーの展開自体はすごくサスペンスフルなんですけど、それがまた妙に牧歌的なノンビリした調子で語られるという、ある種アンバランスなところがあって、そこが何とも不思議な味がする。最初から最後までドキドキしっぱなしのジェフリー・ディーヴァーの作風とは随分趣が異なるサスペンスではあります。 しかし・・・。(以下、くれぐれもネタばれ注意!)さらに読み進めていくと、実はこのことの背景には政治的なものがあった、という話になりまして、アメリカにとって最悪のテロリストみたいな奴をひそかに葬ってしまおうという極秘作戦があり、これが失敗してしまったことが、ディーリアをめぐる謎の背景にある、というような風になっていくんですけど、この辺まで話が進んでくると、ワタクシのようなヒネた読者としては「あーあ、またそういう話?」ということになって、すっかり熱が冷めてしまうんですけどね・・・。 というわけで、全部読んでしまうと、「なーんだ」ということになってしまうわけですが、こういう話の展開に素直について行ける方には、それなりに面白いサスペンスなのかも知れません。ので、「教授のおすすめ!」とは言いませんが、興味のある方にはどうぞ、と言っておきましょう。ラティテュード33の店員のどなかたは、この本を熱烈に勧めているのですから、はまる人にははまる小説なのかも知れませんよ~。
October 13, 2009
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ひゃー、秋田から戻って参りました~。 学会が日曜日に終わった後、もう一日休みがあるということで、日曜の夕方からちょっと足を延ばし、駆け足で男鹿半島を観光してきたんですけど、これが想像していた以上に良かったんです。秋田から男鹿半島までレンタカーでわずか1時間半ほどの距離ですけど、このこじんまりとした半島、どこをとっても魅力的なんですわ。 例えば半島の付け根にある寒風山。山のふもとに「世界三大景観」なんて宣伝しているので、「あとの二つは万里の長城とギザのピラミッドか?」なんて意地悪にせせら笑っていたんですけど、実際に寒風山の展望台から見渡した景色は文句なしの美しさで、確かにこれは大したもんだと、私の中で評価軸が一気に真剣モードに変わったという・・・。また風景の美しさという意味では、男鹿半島の突端にある「入道崎」の光景たるや、まさに息を呑むというところがあります。私はラッキーにもここで夕日が日本海に沈むところを見ましたけど、何度カメラのシャッターを押しても足りないような感動的な見ものでありました。これこれ! ↓ それから男鹿は「なまはげ」の行事で有名ですが、「男鹿真山伝承館」で見たなまはげの実演の素晴らしいこと! 親のいいつけを守らない子はいないか、親の面倒見の悪い嫁はいないかと激しく問いつめていくなまはげに対し、応対する家長が、「うちの子はいい子ばかり、嫁もいい嫁だ」と懸命に宥めるんですが、なまはげのド迫力と、なまはげから家族を守る家長との間のユーモラスな掛け合いは、一度見てみないと分からない種類のものであります。ある面では鬼のようでありながら、実は人々の暮らしを守る神でもあるというなまはげの二重性の面白さもまた、実際に見るとつくづく腑に落ちるものでありまして、秋田の児童が全国の学力テストでもトップであるのは、実になまはげが各戸を回って子供の躾を見守っているからではないかとすら思えてきます。 それからなまはげに関してはもう一つ、「なまはげ郷神楽」のことも特記しておかなければなりますまい。この「なまはげ郷神楽」というのは、地元の青年7~8名のメンバーから成る和太鼓の演奏グループなんですが、彼らの太鼓の演奏というのが、これがまたものすごく迫力がありまして。 秋田県は人口が110万人ほどなのだそうですが、地元産業が少ないことからこのところ若者の地元離れに拍車がかかり、この10年で10万人ほど人口が減ったそうで、人口減少・少子高齢化の顕著な県なのだとか。そういう状況の中で郷神楽のメンバーは地元に留まり、普段は地元の会社などに勤めながら仕事の後に集まって練習をし、主に週末に男鹿温泉を訪れる観光客に太鼓の演奏を聴かせる、ということをやっているんですな。最初のうちはそれこそ砂利敷きの駐車場などを借りて演奏していたようですが、次第に評判を呼び、ついには県を動かして専用のホールまで作ってもらったというのですから、本当に草の根的なところからのものなんです。 だからある意味、地元青年団の鑑的ないい子たちなんですが、そこはそれ、郷神楽のメンバーたちも今時の若者たちですから、格好から髪型から今風のところもある。 で、地元と、地元の伝統を引き継ぎつつ、その一方で現代的なノリもある若い連中が、時にロックの要素も取り入れた彼らなりのやり方で和太鼓に若いエネルギーを激しく叩きつける、その圧倒的な迫力は、男鹿の温泉客という老若男女入り乱れた200人ほどの雑多な観客を完全に引き込んで、場内を興奮のるつぼと化してしまった。演奏者と観客がまさに一体となって太鼓が奏でる怒涛のリズムに身を任せるその一体感たるや、演奏を聴く前には想像もつかなかったほどのものでしたよ。これこれ! ↓なまはげの面の下はこんな若者たち ↓ いやあ。これを見たらね、日本の若者たちも捨てたもんじゃないな、と思いますわ。ほんと、素晴らしかった! というわけで、学会自体も有意義でしたが、その後、男鹿半島の自然の美しさと伝統、そしてその中で頑張る若者たちの姿を見ることができ、今回の秋田行きは大成功であったと、つくづく感じている私なのであります。 これをお読みの皆さん! 秋田・男鹿半島は、一度は訪れて損のないところです。まだ行ったことのない方、ぜひ一度旅してみてください。そしてもしチャンスがありましたら、「なまはげ郷神楽」の和太鼓演奏を聴いてみてください。教授の熱烈おすすめ!です。
October 12, 2009
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今日一日、台風関連のニュースを見ていて思ったのですが、NHKのアナウンサー&レポーターがこぞって「暴風雨が吹いています」と言うんですよね・・・。この言い方は正しいのかしら? ワタクシの感覚だと、「暴風雨」というのは「暴風を伴う雨」という意味なので、「吹く」のではなく「降る」のではないかと思うのですが。だから「暴風雨が降っています」か、あるいは「暴風雨となっています」ならいいんですけど、「暴風雨が吹いています」って言われると、どうもなんだかしっくりこないような。ま、大した問題ではありませんが、どうなのかな、と。 それはさておき、台風の影響で勤務先大学は今日は臨時休講となってしまいまして、風邪気味の私としてはいい骨休めになりました。というのも、明日は学会に参加するため秋田大学まで行かなければならないからです。名古屋から秋田というと、移動だけでまあざっと7時間はかかるわけでして、なかなか大変なんです。 しかし、学会が今日じゃなくて良かった! 今日だったら、とてもたどり着けなかったでしょうな。 もっとも、大きな学会の全国大会が開かれる時には、その前後に子学会が開かれることも多く、今日中に秋田入りしていないといけない学会員も多いはず。そういう人たちにとっては、大変な一日になったことでございましょう。 とにかく、私も明日は朝から新幹線に飛び乗って秋田を目指します。あまり自由な時間はありませんが、一回くらい「しょっつる鍋」とか、何か秋田っぽいものでも食べられるといいな! それでは、明日に備えて今日は早めに休むことにいたしましょう。それでは皆さま、一足先にお休みなさーい!
October 8, 2009
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名古屋地方としては、かの伊勢湾台風以来の強烈な台風が直撃してくるのではないかということで、戦々恐々、この時間、大分風も強まってきているようです。洪水・高潮・土砂崩れ、農作物への被害など、なるべくそういうことが起きないことを祈っております。 しかし、こう、大自然の脅威を前に、老いも若きも、富める者も貧しい者も、誰もが息をひそめてそれが通り過ぎるのをじっと待っているというこの運命共同体的な一体感。それ自体は決して嫌いではないという・・・。そんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが。昔、『台風クラブ』という映画があったように記憶していますが、あの気持ちの高まりは分からないでもないですね。 ま、とにかく、これから未明にかけてすごい奴がやってくる。ワタクシも息をひそめて、それに備えることにいたしましょう。皆様のお住まいのところにも、被害がありませんように。
October 7, 2009
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昨日、大学からの帰り道、いつものように愛車を飛ばしていたんですけど、あるところに差し掛かった時、自分でも気づかないうちに急にブレーキを踏んでしまったんです。で、「アレ? 信号もないのに、何でブレーキ踏んじゃったんだろう?」と思った瞬間、目の前に二匹の猫がバッと道を横切った。 ブレーキを踏んでから猫が横切るまでほんの1秒くらいの間の出来事。もしブレーキを踏んでいなかったら確実に轢いてましたね。 それにしても、いったい何でブレーキを踏んだんだろう? 自分でも分かりませんけど、予知しちゃったんですかね・・・。 で、そんなオカルトっぽい不思議なことがあった翌日の今日、大学で同僚からこれまた変な話を聞いてしまいまして。 その同僚の先生の奥様は、非常に霊感の強い方なんですが、最近急逝された某氏の報道を見ていて、彼(の霊魂)はまだ自分が死んだことに気づいていなくて、まだ普段通りこの世で生活している、ということを直感した、というのです。 ひゃー、映画『シックス・センス』の世界だよ~。 オカルト的なものに特に惹かれるというほどではないですが、超自然の事柄を全否定するほど啓蒙されていないワタクシ、前日のこともあったりして、「自分が死んだことに気づいていない」というハナシに、ちょっとぞっとしてしまったのでした。 ちなみに、ワタクシ、たまに自分でも幽体離脱的なリアルな夢を見るんですよね。 一種の夢なんですが、眠っている時に自分の体から魂が抜ける感覚があるんです。もちろん、意識は抜けた魂の方にあるんですが。 でね、これでもし自分自身のうつ伏せの体を上から見てしまったら、その時は死ぬな、という強い感覚がある。これがものすごい恐怖感でありましてね。だから必死で抜け殻になった自分の体を見ないようにするんですが、そこでバッと目が覚めるわけ。大抵、恐怖にわめきながら。 ま、とりとめのない話で申し訳ないですけど、こういう話はとりとめのないまま置いておきましょうかね・・・。
October 6, 2009
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アメリカから戻って、ひしひしとアメリカのテレビが日本で見れたらな、と痛感するようになりました。特にトークショーとドラマね。そういうのずっと見てたら、楽しみながらリスニング力も自ずと強化されるんじゃなかろうかと。 スカパーとか、やっぱり導入しちゃおうかしら・・・。 だけど、スカパーとかの「英語パック」的なのって、CNNとかBBCとかの24時間ニュース・チャンネルばっかりでしょ? でも、別に24時間、英語のニュースを聞きたいわけじゃないんだよな~。むしろ、CBSの「Late Show with David Letterman」的なトークショーとかね、あるいは普通にドラマとか、そういうのが見たいわけ。 それから、番組だけじゃなくてCMも一緒に見たいんですよね。もちろん、日本でアメリカのCMを見たって、広告されている品を買えるわけじゃないけど、それでもアメリカの今が感じられますから。 というわけで、もしこれをお読みの方で、スカパーに加入されている方、私の望みがかなうような選択がスカパーにあるのかどうか、ご存知でしたらご教示下さーい。
October 5, 2009
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今日は中川昭一さんの急死というショッキングなニュースに驚かされましたが、一旦歯車が狂いだすと、善からぬ方へどんどん持って行かれてしまうもんですなあ。人の噂も七十五日、そのうち誰も酩酊会見のことなど思い出さなくなるでしょうに。 そう、「人の噂も七十五日」ってのは偉大な格言で、何か失敗してめげている時など、私もよく拳拳服膺します。中川さんもこの言葉を胸に、捲土重来を期せばよかったのになあ。 ま、しかし、渦中にあると、なかなか、ね。 レベルの違う話で恐縮ですが、私も今、風邪で非常に体調が悪くて、やるべき仕事は山積みなのに、何もやる気が起こらない。そうなると、明日からの授業、ちゃんとできるのか? とか、来週末の秋田出張には行けるのか? とか、色々考えてしまって気がふさぐこと、ふさぐこと。 たかが風邪程度で人間は気がふさぐんですからね。ましてや国政の中枢から、ただの人になった方の胸中となれば推して知るべし、でしょう。ご冥福をお祈りいたします。 ところで、風邪をひくとすぐにのどが痛くなり、そこから発熱へと発展していくワタクシの風邪パターンからしますと、のどの痛みを抑えることが結構重要な風邪対策ということになります。しかし、これまで色々なのど飴などを試してきた挙句、画期的にのどの痛みに効くものなどないのではないかと、いささか諦めておった。 ところがですね。いいのを見つけましたよ。その名も「浅田飴 アズレンのどスプレー」。これ、ノズルから薬液をのどに直接散布する薬なんですけど、これがね、結構効くんだ。しかも即効性があって、シュッと一吹きすると、その瞬間から(しばらくの間は)のどの痛みがとりあえず消える。こいつのおかげで、のどの痛みに関しては非常に助かっております。 ということで、これからの風邪シーズンを前に「浅田飴 アズレンのどスプレー」、教授のおすすめ!です。 これこれ! ↓ 浅田飴 アズレンのどスプレー 30ml【第3類医薬品】
October 4, 2009
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某化粧品メーカーのCMソングにSMAPの歌が使われておりますね。で、聴くともなく聴いてしまうのですが、 Welcome ようこそ、日本へ、 君が今ここに居ること とびきりの運命に 心からありがとう という歌詞、ワタクシにはどうもよく分らなくて。 こういうタイプの歌詞、最近多いなと思うのですが、結局、すべて概念を云々しているわけですよね。そこがね。どうなのかと。 昔の名曲の歌詞って、もっと行動とかね、具体的な描写あったような気がするんですわ。 母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を上るたび いつもため息をついた (さだまさし「無縁坂」) 悲しいことがあると 開く皮の表紙 卒業写真のあの人は やさしい目をしてる (荒井由実「卒業写真」) 電車はいつもすし詰め 延びる線路が拍車をかける 満員、今日も満員 床に倒れた老婆が笑う (井上陽水「東へ西へ」) ね? ちゃんと状況・動作・行動が描写されているでしょう? やっぱりね、歌ってのは一種の物語なのだから、状況・動作・行動を描写しないといかんのではないかと。いや、べつにいかんことはないですが、その方がよくはないかと。 若い人で、自分で作詞・作曲なんかする人もいると思うのですが、ちょっとその辺のことを考えて、概念ではなく状況・動作・行動を描写する歌を作ってみたら、概念だらけ歌がはびこる昨今の状況の中で、頭一つ抜け出せるのではないかと思うのですが、いかが?
October 3, 2009
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2016年のオリンピック、結局リオに決まったようですね。何と言っても南米初というのが強烈なアピールですからね。日本、アメリカ、スペインともに既にオリンピック開催を経験しているのですから、まだやってないところにやらせよう、というのは当然で、ある意味出来レースだったのでは? それにしても、現行のオリンピック開催地選びの方法ってのは、なんだかどうもよろしくないですなあ。それを決める委員たちは、候補地各国でありとあらゆる歓待を受けたはずで、何だか衆目の中、大っぴらにそういうことをされるとねえ・・・。 さて、今日のワタクシですが、ロスで気を張って生活していた疲れが溜っていたところへ持ってきて、帰国後いきなり3コマの授業なんかやったせいか、ちょっと風邪気味でダウン中。この週末はちょいと低空飛行になりそうです。ま、休め、ということなんでしょうかね。 ということで、今日はちょっと短めですが、この辺で。お休みなさーい!
October 2, 2009
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一昨日ロスから東京へ、そして昨日東京から名古屋へと戻って参りました。 まあ、昨今誰でも気軽に海外旅行する時代ですから、何も私が云々するほどのことでもありませんが、海外旅行ってのは、何と言いますか、こう、日本に戻った瞬間に何かを意味するってところがありますね。 例えばロスから東京に戻るでしょう。ロスでは毎日夏の青い空、カラッとした空気、赤茶けた大地と常緑の木々。そこを昼間出て、午後6時に成田に着く。すると今にも降り出しそうな湿った空気をたたえた曇天で、まだ6時なのに真っ暗。そして一晩明けると、早くも紅葉し始めた木々もちらほらの初秋の世界。 ああ、これが日本なんだって思いますね。 それだけではありません。成田からのリムジン・バスから眺める日本の街は、飲食店街のにぎわいや、企業ビルのネオンによる多色の明かりがまばゆく、その代り道行く人々は暗い色調の服を着ている人ばかり。ロスでは逆に街の明かりが単調で、道行く人間の方が明るくまばゆかったのに・・・。 一方、日本の方がよっぽどいいな、と思うこともあります。ロスでは一般にメキシコ系の女性店員さんの態度がものすごく悪いことが多く、ぶっきらぼうでまるでやる気がないのに対し、日本ではどんな店に入っても、どんな種類の受付であっても、担当者がにこにこしていて、礼儀正しくて、親切で。 ああ、これが日本なんだ、って思いますよね。 いろんなことについて、ああ、これが日本なんだ、って分かることが、海外旅行のいいところなんでしょうな。 で、今日、早速授業を三コマをやって、勉強しに来てるんだか何なんだかよくわからないような学生たちを前に、「ああ、これが日本なんだ」って思いましたわ~。なんだか、悲しい・・・。 さて、それはともかく、帰って参りました。今日からまた名古屋初のブログ再開です。当面、ちょいちょいアメリカ・ネタが混じるかも知れませんが、その辺のことも含めてこうご期待でございます。それでは、また明日のこころだ~。
October 1, 2009
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