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旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、大将の周囲を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地、およびその支配機構は知行所と呼ばれ、旗本が領有する領地には管理のための陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、宝永年間(1704年〜1710年)には総数22・569家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。これら五千石以上の旗本で知行地を与えられていたのは2354家で、五千石未満は2247家でした。五千石以上の旗本は107家で、約4、5%でした。 1633年の寛永軍役(ぐんやく)令によりますと、千石の旗本は持ち槍二本、弓一張、鉄砲一挺とあるだけで細かな記載はないのですが、供の侍5〜6名程度、主人の用をたす者と小荷駄運びが必要とされました。ちなみに、1648年頃の慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で102名あり、一隊をなす程度になっていました。 いまの茨城県笠間市宍戸にあった、宍戸五万石の秋田俊季が、五万五千石をもって三春へ加増の上転封となったのは、正保二年(1645年)のことでした。俊季が大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 秋田季久の収入となる五千石領は、大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、粠田(すくもだ)村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、かろうじて付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしていたのです。 秋田季久より七代目となる秋田季穀(すえつぐ)は文化四年(1807年)に駿府城加番となりました。加番とは、城番を加勢して城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。天保二年(1831年)、季穀は浦賀奉行に任じられています。もっとも百姓からは年貢を取り立てるだけで、領地内のインフラ整備などということを心配しなくともよかったと言ってもいいこの時代、それでもこれらの村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに江戸において100名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。 ところで江戸時代は、身分制度にやかましいというイメージがあるのですが、実はカネ次第で百姓や商人も武士になることができました。御家人株が公然と売買されていたのです。しかし旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますから、旗本総数に与えられる平均値は、それぞれ約170石に過ぎないことになります。戊辰戦争の後、従来の臣下を扶持することができなくなった徳川家は人員整理を敢行せざるを得なり、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、一旗本当たりの平均値は、たったの31石になります。なお一石は一年間に一人が食べる米の量とされていましたから、家族も含めて31人しか生活できないことになります。その上で徳川家は旗本に対し、以下のようなお達しを出しました。 1:新政府の職員となるか、 2:農商に帰するか、 このように旗本は、幕末の時点で失業状態となりました 受ける俸禄もやがては有名無実となり 困窮の極みにあった旗本に明治政府から与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、自己に生存のための責任を押し付けられた上で、あっさりと解雇されてしまったのです。ところが間もなく、これらの経済的諸問題が、新たに発足した明治政府にすべてが移管されたことで、徳川家としては自由裁量を手に入れたことになります。その明治政府は、一定年限分の収入を金禄公債で保障するという秩禄処分を行いました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売をはじめたが失敗する者も少なくありませんでした。いわゆる武士の商法です。そして北海道へ行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部を政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。戊辰戦争で立役者となった薩長土肥以外の藩の旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 江戸末期に幕府側として活躍した旗本の勝海舟を出した勝家は、たった四十石取りの旗本で、父親の小吉は、無頼者と交わって生活していたと言われます。ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家の三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。江戸でのアダムスは帰国を願い出たのですが、叶うことはなく、代わりに家康は米や俸給を与え上で旗本として慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりしていました。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われています。そしてその子の、二代目の三浦按針となったジョセフ・アダムズもまた旗本に任じられていました。なお按針とは、水先案内人という意味です。
2023.11.20
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慶應四年七月十七日、江戸は東京と名を変えました。そして会津落城の前々日の九月二十日、天皇は京都を出発、十月十三日東京へ着き、徳川家の居城であった江戸城に入りました。供奉する者。3000人と言われます。なお慶応四年は、九月八日より明治に改元しています。 仙台藩が新政府軍に降伏したのは、明治と改元した直後の九月十五日でしたが、翌十六日の午後十一時頃、芝にあった仙台藩の空き屋敷が焼失しました。この時点では、未だ会津は落城しておりません。この火事の失火原因も、消火活動などの詳細も、一切が伝えられておりません。 幕府が消滅して大名が引き払った後のすべての旧江戸屋敷の跡地は、国や東京府の管理に移されました。しかし国や東京府は、その予算の資金獲得のため、これらの広い土地を農地などにでも転用させようとして、民間に払い下げることにしたのですが、その引き渡しの条件として、四ヶ月以内に作付けをしない場合は無効としたのです。これらの地価は、麹町、虎ノ門、桜田辺りは坪25銭、飯田町や番町辺りは20銭、市ヶ谷、四谷、青山の辺りは10銭で売りに出されたのですが買い手がつかず、建っていた屋敷を「タダでやる」と言っても売れなかったというのです。それでも風呂屋が燃料の薪として、それこそタダ同然で若干の建物を引き取っていったというのです。地方でも、各藩が所有していた城や藩の所有地が一般に売りに出されました。当時の福島県の地価、これは現在のように需要と供給から決められたものではなく、新政府が徴税をするために決めた公定の価格なのですが、これによりますと、高い順に三春が坪2円、福島が1円、須賀川が86銭、郡山が66銭、本宮が60銭、二本松が57銭でした。この地価に伴う高額の税金に根をあげた三春では地価の減額運動が起こり、1円40銭、1円20銭と二度にわたって地価が引き下げられましたが、それでも福島の町よりも高かったのです。それにしてもこれらの地価を東京と比較すると、東京の安値が際立ちます。 明治になって間もなく、すべての旧江戸屋敷跡は、明治政府の所有地とされました。そして明治二年十二月二十七日の深夜、元数寄屋町、いまの中央区銀座五丁目で起こった火災により、『旧脇坂藩、旧仙台藩の元屋敷あたりまで数か所焼失する』と当時の新聞に掲載されました。前年の九月に燃えたのは旧仙台藩の屋敷でしたが、まだ建物が残っていたのでしょうか。それとも別の建物だったのでしょうか。消火の様子やどのような被害があったのかは、判然としていません。 明治五年三月二十六日、今の皇居前広場のうちにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、いまの丸の内、有楽町、八重洲にあった多くの旧江戸屋敷、それに日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となってしまいました。江戸屋敷のすべてが引き払われたと同時に、大名火消しがいなくなったことも、大火となった理由の一つであったのかも知れません。ともあれ多くの家が燃えてしまったために、江戸城周辺は寂しい場所となってしまったのです。今の文京区小石川三丁目にあった伝通院の近所では、夜になると狐火が出たというのです。狸や狐も出るようになったのですが、それはまだいい方で、今の東京駅や丸の内では、「幽霊も恐がって出ない」と言われるほどの寂れようであったと伝えられています。七月中旬から九月上旬にかけて30夜以上にわたって踊られることで有名な、郡上踊りの(岐阜県の)郡上八幡藩の藩主は青山氏でしたが、この屋敷跡も買い手がなく、ついに墓地にされてしまいました。ここは青山氏の屋敷跡でしたから、青山墓地という名になったのです。このように土地の処置に困った明治政府は、後の三菱の総帥・岩崎弥太郎にむりやり頼んで、丸の内地区の10万坪ほどの広大な土地を買ってもらいました。それを聞いた知人が驚いて、「なんで、あんな不便な所を買ったのか?」と聞いたところ、「仕方がない。竹でも植えて虎でも飼うさ」とうそぶいたと言われます。日本橋地区の町家にも遠く、皇居までの間となる丸の内界隈は、このように淋しい場所であったのです。後に三菱地所はここに煉瓦のビル街を建て、一丁ロンドンと言われる貸事務所を作って、日本一の大地主になったのです。 当時はそのような状況でしたから、国や軍、東京府や鉄道などの多くの土地を使う施設は、江戸屋敷跡地の有効活用の方法の一つでした。例えば明治七年、市ヶ谷には参謀本部と陸軍士官学校が作られ、そこから現在の日比谷公園や国会議事堂をはじめ政府の多くの官庁のある広大な土地は、陸軍の練兵場となっていました。現在、市ヶ谷には、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が置かれています。 現在、これらの江戸屋敷の跡が、都内各所に残されています。ちょっとその名を列挙してみます。 六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。元禄時代に大老格として幕政を主導した柳澤吉保自らの設計と言われます。その他にも有名なものとして、 後楽園は、東京ドームや後楽園遊園地を含む水戸藩の上屋敷でした。 東京大学本郷キャンパスは、加賀藩上屋敷でした。その他にも、 信州高遠藩屋敷跡の新宿御苑。 徳川綱吉家の小石川植物園。 和歌山藩の赤坂御苑。 甲府徳川家の旧浜離宮恩賜公園、などが有名な屋敷跡です。そして地名として残されたものがあります。まず銀座です。銀座といえば東京の銀座が知られていますが、これは当時の主な流通貨幣のうちの銀貨の鋳造が行われたこと、この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより『銀の屋敷・銀座』の名が付けられたと考えられています。これは徳川家康により、駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、慶長十七年(1612年)に江戸に移されて以来、地名として定着したものです。そして金座です。金座とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。金座のあった所は、江戸通町(とおりちょう)、いまの中央区日本橋本石町の日本銀行本店のある所です。江戸時代に金吹所(かなふきしょ)、つまり製造工場、そして金局(きんきょく)、つまり事務所のあった場所であり、世襲の御金改役である後藤庄三郎光次(みつつぐ)の役宅でした。しかし、後藤庄三郎は金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師などと呼ばれる職人たちが行っていました。当初この場所の周辺は、両替町と呼ばれていましたが、金座のある場所は、本両替町と呼ばれていました。 約200年間続いた仙台藩の上屋敷跡地は、文明開化の象徴ともいえる新橋ステーションの建設地となりました。この新橋ステーションおよび線路敷の中には、会津藩中屋敷の跡地も含まれていました。三月二十五日には測量が始まり、四月十二日には地ならし工事が始まりました。ところが、東京側の停車場建設には兵部省が反対したのですが、太政官の決裁によって汐留の地とされ、横浜側の停留所は野毛浦海岸の埋立地とされました。ところで今で言う『駅』は、正式には『停車場』とされたのですが、「ステーション」、または『すてんしょ』と呼ばれていました。駅という名が一般化したのは、電車が出現してからでした。鉄道開業当時の停留所は、新橋、品川、川崎、鶴見、神奈川、横浜の六ヶ所であり、この線路敷きには、仙台、会津藩の屋敷跡の他にも、赤穂、新見(岡山県)小田原、二本松、和歌山、鯖江(福井県)など、多くの藩の江戸屋敷の跡地が利用されています。大正三年になって、旅客ターミナル駅の機能が新設された東京駅に移ったことで、電車線の駅であった烏森駅が新橋駅と改称しています。そしてその後になっても、江戸屋敷の跡地の多くが、山手線、中央線などの線路敷や駅舎などの建設に利用されたのです。 現在の港区西新橋は、江戸時代、芝田村町と称されていました。これは一関藩の田村家の屋敷があったことに因み、田村小路と呼ばれていた屋敷地に田村町が成立したのです。明治十一年には東京府芝区となり、明治二十二年の東京市成立に伴い、東京市芝区となりました。しかし、昭和七年にこの地域の町名が変更され、昭和四十年と四十七年には住居表示実施による町名変更があって、現在使われている西新橋が成立したのです。実は、ここには赤穂藩の浅野内匠頭の切腹の場となった、田村家の上屋敷があったのです。私はこの話を、我が家の婿殿に話をしたのです。当時東京で勤めていた婿殿は、そこに建立されていた『田村屋敷跡』の碑の写真を撮り、そこで営業していた『御菓子司・新正堂』の和菓子を土産に帰って来たのです。そして開口一番、「これ『切腹最中』と言うのですが、どんなものと思います?」と聞いてきたのです。すかさず私は、『切腹最中』と言う位だから、アンコがはみ出るくらい詰まっているのだろう」と言うと、「ピンポ〜ん。それはそうなんですが、実はですね、買おうと思ったら客が並んでいるんですよ。変に思って聞いてみました」「ふ〜ん」「そうしたら、『許してもらえそうもない、どうしようというとき、最後の手段としてこの切腹最中を持参する』というのです」「それは面白いアイデアだな」「並んでいる客に、あなたも何か謝らなければならないことがあったのですか? と聞いたら笑っていましたが、多い日は、なんと7000個以上も売れるそうです」 そう言って婿殿は包みを開けました。そこには思った通り、大きな口を開けた最中が入っていました。大笑いになりましたが、美味しかったです。どうぞ皆さんも折りがありましたら、ご賞味あれ。それにしても、商魂逞しい話でした。
2023.11.10
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元禄五年(1692年)、相馬藩は、幕府より、「各江戸屋敷で畠を荒らす猪を追い払うので、もし屋敷内に逃げ込んだら追い出すように」との主旨が伝達されました。しかしこのような動物退治は、日を決めて一斉にやらないと効果がありません。どこかの屋敷が一軒でやっても別の屋敷に逃げ込むし、別の屋敷でやると、今度は元の屋敷に逃げ込んでしまうからです。この時に、幕府が耕作を妨げる動物として挙げたのは、猪の他に、鹿と狼がありました。この江戸屋敷の広い庭の中には、森や畑などもありましたから、狸や狐、それに猪や人間に捨てられた野犬も隠れ住んでいたようです。ですから、これらの動物が広い屋敷の敷地内に巣を作ったとしても、不思議ではなかったのです。本郷にあった加賀屋敷をはじめ、いくつかの屋敷に、狐や化け猫の怪談などが残されているのも、このためかも知れません。しかしこんな牧歌的作業も、中止せざるを得なくなります。いわゆる、『生類憐みの令』が公布されたのです。 この『生類憐みの令』は、かつては跡継ぎがないことを憂いた五代将軍・徳川綱吉が、母の桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めにより発布したという説が知られています。綱吉には娘はいたものの、後継ぎとなる息子がいなかったのです。当時、儒学を重んじていた綱吉は、「親を大事にせよ」という教えを信奉していたため、母親が薦めた隆光僧正の言葉を鵜呑みにしてしまったというのです。つまり、「あなたは前世で動物を殺してしまったので、子どもが生まれないのだ。あなたは戌年生まれであるから、犬を大事にしなさい」と言われたというのです。これを真に受けた綱吉によって、「生類憐みの令」が出されたというのです。綱吉が、犬公方というあだ名で呼ばれたのは、特に犬を過度に大切にさせたことに対する世人の批判によるものと言われます。しかしこれは、「生類を憐れむ」ことを主旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称であって、一本の成文法ではなく、すべての生きものを憐れむことを趣旨とした諸法令の総体なのです。 一連の『生類憐みの令』政策がいつ始まったかについては議論があります。それに少数ではありますが、四代将軍・徳川家綱時代から生類憐れみ政策が行われていたという見解も存在するのです。初代の徳川家康は鷹狩を好んだのですが、鷹狩もこの政策により禁止され、また鷹狩で獲った獲物などの贈答なども禁じられました。地方においても『生類憐みの令』の政策の影響は及びました。馬の保護に関する法令については、老中が各藩に対して通達を行いましたが、運用はそれほど厳重ではなかった地域もあると言われます。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、『生類憐みの令』はなかなか徹底しなかったとみられています。長崎町年寄が、『長崎では『生類憐みの令』が徹底していないので、今後は下々の者に至るまで遵守せよ』、という内容の通達を出していますが、その通達の中でも、長崎にいる中国人とオランダ人については例外とし、豚や鶏などを食べることを認めていました。なお江戸城では、貞享二年(1685年)から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じていたのですが、京に住む公卿に対する料理として使うことは認めています。これは『生類憐みの令』の政策より、儀礼を重視したためとみられています。この『生類憐みの令』では、特に犬を保護したとされることが多く、綱吉が『犬公方』と呼ばれる一因ともなりました。犬については、『御犬囲』が作られ、中でも中野の御犬囲は非常に大きな規模で、敷地内は五つの御囲があり、『壱之御囲』が34、538坪、『弐之御囲』、『参之御囲』、『四之御囲』がそれぞれ五万坪、『五之御囲』が57、178坪と広大なものを作って収容しました。野犬か飼犬かを問わず、『御犬囲』に収容したことで幕府が管理する犬となり、将軍の権威を帯びた『御犬』となったのです。 三春藩分家の五千石旗本である秋田淡路守季久は、いまの江東区平野に屋敷を持っていました。ここの家老が、屋敷内で自分の子どもと遊んでいて、飛んできた燕を間違えて、弓矢で打ち落としてしまったのです。この弓矢で射られた燕が自分の屋敷内に落ちれば、悲劇は避けられたのかも知れないのですが、この射られた燕の落ちた所は運悪く、隣にあった幕府の御用人の喜多見若狭守の屋敷であったのです。驚いた若狭守は、幕府に事の次第を報告したのです。もっとも若狭守としても報告を怠り、燕の死骸が自分の屋敷内で見つかれば、自分の責任が問われるのです。そのため、秋田淡路守としては、どうにも手の打ちようがありませんでした。結局この家老は見せしめとして、五歳の息子もろとも浅草で磔の刑に処せられ、これを見ていた家来は、八丈島へ流罪となってしまったのです。この冷厳な『生類憐みの令』の施行は、江戸の町を震撼させました。 この事件の経過を目にした秋田淡路守季久は恐怖に憑かれたようになり、家中の子供たちに、例え屋敷内であってもくれぐれも殺傷をしないようにと諭し、親たちに対しても厳しく申し渡したのです。各大名たちも、家臣の親たちに対して、この旨を厳しく申し渡さざるを得なかったのです。もはや「まちがえてのことだから」とか、「子どもがやったことだから」と言い訳をしても、幕府は決して容赦はしてくれないことを知り、それぞれの屋敷内での周知徹底を計ったのです。 元禄十二年(1699年)、守山藩の下屋敷に幕府御徒目付の三宅権七が訪れ、「もし首輪が付いていながら飼い主のいない犬が通りかかったら、縄を解いて飼育し飼い主を捜し、結果をお目付まで申し上げるように」と申し渡し、その旨の承諾書を差し出すようにと言って帰って行きました。江戸家老であった有馬三太夫は早速承諾書を認(したた)め、辻番に持たせて権七方へ届けました。何の落ち度もない筈だったのですが、翌日、三宅権七から、公儀へ差し上げる承諾書を粗末な紙に認め、しかも辻番のような軽輩に持参させたのが不調法だというイチャモンがついたのです。守山藩は戦慄しました。当時、藩主は大塚の上屋敷にいて、三太夫の不調法な振る舞いについて少しも承知していなかったことと、三太夫には必ず叱り付けることを、使者をもって権七に伝え、合わせて陳謝の口上を申し延べさせてようやく落着したというのです。 ところで綱吉本人は、生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられています。 生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられてい
2023.11.01
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