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このノンフィクションは、2004年の第57回福島県文学賞に入選し、2007年、福島民報社出版部より出版されたものです。
飯 豊 和 気 神 社
私の名は橋本捨五郎(すてごろう)である。子供の頃からこの名にまつわる嫌な思い出が少なくない。母でさえ小さな私に面と向かって「捨五郎と呼ぶと、まるでお爺さんに話しかけているようだ」などと言っていたのであるから推して知るべしである。では何故こんな名前になったのか? つまり襲名である。
いまから約六十年前の昭和二十年八月、父が亡くなった。母と祖父の捨五郎は、戦後の混乱の中で配給所となってしまっていた店の再建と生活に、必死であった。そして二年後、祖父が亡くなった。そこで私は祖父より先に亡くなった父に代わり、捨五郎を襲名させられたのである。ただし私に相談はなかった。
そんなこともあってか、私は一人遊びが好きであった。特にメカニックな蒸気機関車には異常なほどの執心を見せていた。小学校では映画教室が盛んであった。『鐘の鳴る丘』『山びこ学校』エトセトラ……。そして戦後の経済が大きく変わる中で、一人で頑張ってきた母が私の大学進学に異を唱えなかったのは、女手ひとつで育てた一人息子への過剰なほどの期待があったからかも知れない。
昭和三十年、東京に出た私は、間借りで自炊をしていた。今と違って、すべてが不便な時代であった。そこで時折、栄養補給を言い訳にしながら三鷹市の親戚の家に遊びに行っていた。その家には、母方の祖父の弟である当主のお爺ちゃんと福島県郡山の医院から嫁いだお婆ちゃん(愛称・バベチャン)、その娘夫婦に孫娘が三人いて七人家族であったのであるが、遊びに行っていたのには、もう一つの隠れた理由があった。何故かそこには、後に名を成す錚々(そうそう)たるたるメンバーが下宿したり、遊びに来たりしていたのである。
あの『山びこ学校』の無着成恭先生をはじめ、後の津田塾大教授の藤村瞬一氏、東海大教授の前田利光氏、指揮者の小沢征爾氏が下宿し、さらにはエール大教授になるこの家の末娘の安芸晶子(しょうこ)さん、そのほかにも歯科医、画家、ピアニストなどの卵がたむろしていたのであるから、若い私には魅力であった。そして私が無事四年を経て卒業する頃、小沢征爾氏がフランスへ、安芸晶子さんはアメリカへと旅立って行った。私は一人、祖母と母の待っている故郷の我が家に戻ったのである。この東京での生活は、私にとってカルチャーショック以外の何ものでもなかった。
家に戻った私は家業に精を出していた。商売上の厳しさは、私から完全にいわゆる文化や芸術から足を遠のかせていた。それでもやがて歴史に興味を持つようになったのは、この襲名した古臭い名前にも原因があったのかも知れない。
それから約二十年後の昭和五十四年頃、私が最初に手がけたのは、郡山と三春の間を走っていた三春馬車鉄道の客車の復元であった。これはまた子供の頃の蒸気機関車に対してのノスタルジーもあったのかも知れない。
この三春馬車鉄道が走っていた当時のことを調べてみると、東京をはじめとした国内はもちろんのこと、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、チューリッヒ、ザルツブルクなど、世界の華のような大都市で馬車鉄道が走っていたのを知ったのであるから、もう止まらなかった。その頃津田塾大からドイツに留学していた藤村瞬一氏に連絡をとり、ヨーロッパでの資料などの収集に大変ご協力して頂いたこともあった。そして地元では地方史の権威の田中正能先生を訪ね、資料やご教示を頂いて復元を終え、その客車を郡山歴史資料館に寄付することができたのは昭和五十七年のことであった。その時、田中先生に次のことを聞いたのである。
「幕末に郡山の中町に住んでいた医者の熊田文儀が、下守屋村で種痘を行った。その彼の顕彰碑が妙見山にある飯豊和気神社に建立されている」
熊田文儀の名を聞き、その居住地跡の場所を聞いたときに、私はそれが、あの三鷹市のバベちゃんの実家であったことに驚いた。しかし勿論、田中先生はそのことを知らない。私は早速、三穂田町下守屋の妙見山に登ってみた。
ローギアのままの軽四輪のエンジン音は、悲鳴にも近い唸り声を立てていた。すでに山道に入り道幅は狭く急になっていた。車が交差できる程度に小さく膨らんだ部分から、もう、しばらくの距離を走っていた。私はこの妙見山の頂上の飯豊和気神社にあるという熊田文儀の顕彰碑を、見ようとしていた。
──どうもこの道の具合では先が心配だ。次に広い所が見つかったら、そこに車を置いて歩いて登ってみよう。
そう胸の中で言いながら登っては来たのであるが、なかなか、その広い所が見つからず、またバックするには遠くなりすぎ、心ならずも前進していた。大雨が降った時にでも土砂が流れたのであろう、道が斜めに深くえぐられていた。そんな所を、すでに何回も通っていた。
──それにしても、小さい車で来てよかったな。
そう思った。
すると急に明るい所へ出た。道は相変わらず狭かったが、そこは両側が急峻な崖になっている尾根の道であった。そのために光が差し込んでいたのである。
ようやく道幅の広い所に辿りついたのは、それからしばらくしてからであった。しかしそこは今までにあった道幅の倍くらいではなく、広場のような行き止まりの場所であった。ハンドルの切り替えをしなくても充分に方向転換が可能なことを確認すると、私は車を降りた。今までの心配がなくなったことで妙に安心していた。その広場の先へ歩いて行くと、丸太で作られた、それでいて大分古くなった鳥居が見えてきた。
──これが飯豊和気神社の鳥居だな。
そう思って先を見ると、今までより急で、しかも所どころに木で作られた土留めのような何段かの階段が見えていた。
──どっちにしても、これ以上車で登るのは無理だ。
そう思うと私は鳥居をくぐった。その先もまた急な山道であった。息を切らしながら登る道は、意外に遠かった。しかもつづら折れのその道は、今度かと思えばまた戻るかのように曲がり、今度は? と思えば、また曲がって登っていた。途中で息を荒げては休み、元気をつけては登った。
(飯豊和気神社の鳥居・郡山市三穂田町 妙見山々頂)