『福島の歴史物語」

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2014.10.01
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カテゴリ: 戒石銘


 奥州は農業生産力が低く、連年続く不作に悩まされていた。その中でも特に被害の大きかったのは享保の大飢饉であった。これらの不作は、多くの一揆を誘発していたが、享保以後に限っても次のように多発していた。

  享保五 (1720)年 白河 南会津
         指導者 小栗山喜四郎 打ち首獄門 六人。
         処罰者 三五〇人。

  享保十三(1728)年 二本松藩
         大雨、一万八千石もの損耗高を数えた。

  享保十四(1729)年 信達幕領(信夫郡、伊達郡)
    (立子山)指導者    立子山小左衛門。
     (大森)指導者    佐原太郎右衛門。
         死罪獄門   小左衛門、忠次郎。
         遠  島   九名。
         所  払   五名。
         田畑家財取上 検断一名、組頭一名を含む五名。
         田畑取上   五名。
         役儀取上   七十日戸〆皷岡村名主一名、
                 その他、組頭九名の十名。
         過  料   七十日戸〆     一名。
         七十日戸〆           十一名。
         五十日戸〆            三名。
         叱   り            一名。

  享保十七(1732)年        享保の大飢饉。

  元文元 (1736)年 三春藩    一揆側の勝利。


  元文三 (1738)年 平 藩    死罪   九人。
                     処罰者 十九人。

  元文四 (1739)年 白河藩    百姓打ち壊し。

              三春分領   訴訟。

  延享元 (1744)年 福島藩    渡利村の百姓が減免を
                     願い、江戸表に訴。

 しかしこれらの一揆の多くは三春藩を例外とし、生活をかけた百姓たちの血で償わされられるという一揆側の敗北となって終わっていた。

 本格的な二本松藩の治世は、丹羽光重が入部してからのこととなる。織田信長の家老格であった父の丹羽長秀は安土城の普請を担当するなど築城術に長け、その流れで丹羽家には、家臣にも技術を持ったものが多かったとされる。そのためか棚倉、白河と新城普請を命じられ、完成すると転封という処遇を受けている。二本松に入部した丹羽光重に対し幕府は、二本松城の修築を強いた。丹羽氏は二本松に入ったときから、既に財政難に陥っていた。

 寛延元(1748)年、この年の春先は天気が良く良作が期待されたが、七月からは長雨が続き気温も低く、すでに凶作の様相を見せていた。五穀は稔らず公租は高く、農家は飢饉の心配と人足割付で心まで冷たくしていた。このような事情の中で、年貢をどのようにして上納すべきか、農民たちは諸所に集まり声を潜めて憂えていた。納付方法は、作柄にかかわらず平均に固定された定免法を取り入れていた。そのため藩側としては収入の安定が見込まれたが、百姓にとっては不作時の負担が大きくなっていた。藩全体としては、四割の減収になるのではないかと噂されていた。村々から愁訴が出され、藩主丹羽高寛(たかひろ)の上聞にも達して不作検地の実施が命じられたが、それは決して救済にはならなかった。何故なら、郷方役人は当座の利得に心を寄せ、百姓の難儀を救おうとはせず、そのため検地された場所はわずかに九千石分のみであって、残り九万石以上の農地への年貢率はさらに増加し、検地を受けても何の甲斐もなかったという不満が高まっていた。百姓たちは、「何だかんだと理屈をつけて、ただ年貢を召し上げるだけではないか」と藩への不信を増幅させていた。

 寛延二(1749)年の春先には日照りが続き、七月上旬から秋の終わりまでは連日雨降りで片時の晴れ間もなかった。ここ数年引き続いて起きていた不作に二本松藩全体の作毛が平年の四割となり、特にここ山根地方(阿武隈川の東)は収穫皆無の状態となって年貢米はもちろんのこと種籾の確保すら困難な状況となっていた。このような状況の中で、上太田村の正木善右衛門はただ一人で庄屋の屋敷に向かった。

 庭に土下座し頭を下げていた善右衛門は、縁側に座って苦い顔をしている庄屋の顔を見上げた。そして「お願いしますだ」とか細い声で言うと、もう一度頭を下げた。庄屋の微かに震える手には、善右衛門が持ってきた訴状が握られていた。何年か前から続く天候不順が領内の不作を招いていたことを、庄屋といえども知らぬ訳ではなかった。この年も初夏が近づいているにも拘わらず気温が上がらず、ようやくの思いで取り置いた種籾の作付けもならず、すでに凶作の様相を呈していた。これは全国に広がっていた飢饉の一環であり、願いを受けているこの庄屋に限らず藩もその対応に苦しんでいた。しかし上太田村の庄屋とすれば、他村から訴状が提出された後ならともかく、自分の村が最初であることに不安を感じていた。場合によっては百姓共の監督不行届きということで、叱責または処罰もあるかも知れぬと考えていたからである。

 ──領外で騒動が起きているがまだ領内では起きていない。この訴状、なんとか他村から出た後にすることはできないものか。
 その時間稼ぎの思いが、次の言葉となった。

「善右衛門、この文中、藩の対応についても言及しているが、これでは如何にも不穏当。これを外して、お前たちの願いという形をとった方が、穏便に行くと思うが・・・」
「外してでございますか?」
「うむ、藩に対してこのような批判がましいことを申し上げては、丸く治まるべきものも治まらぬかも知れぬ」
「しかし庄屋様、私どもはすでに食べるに米無く、このままでは村から餓死者が出るかも知れません。何とか早急に手を打って頂きたく、言葉がきつくなったのは申し訳ありませんでしたが、何とか事情を藩にお知らせするのが目的でございます。決して他意はございません」

 善右衛門は深々と頭を下げてそう言った。
「それについてはよく分かっている。しかし言葉というものは使い方次第、使いようによっては丸いものでも角が立つ。だから恐ろしいのだ。そこの所をよくわきまえて、書き直せ。悪いことは言わん」
「・・・」
「とにかくこの訴状は預かっておく。皆でよく考えて書き直して来い。分かったな?」

 この庄屋の返事の内容では、凶作から村を守ることができないと考えた善右衛門は、田沢村の宗右衛門、東新殿村の寿右衛門に相談を持ちかけた。この天候で晩稲は全滅、野菜も、栗も不作となった。米は一升銭三百になり、富者は飢え、貧者は先に死んだ。翌春になってからでは、たとえ千金を用いても五穀を買うことが出来ないと思われた。それを見て、庄屋は糠、松皮、葛根、野草の食べ方までを教えていた。(常慶寺発行パンフレットより)。 




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最終更新日  2014.10.01 10:24:25
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