『福島の歴史物語」

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2015.02.11
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カテゴリ: 戒石銘


 これが自主的に出されたものか、藩側の工作によるものかは傍証が無く不明であるが、少なくとも一揆参加者を出した村では、厳罰を免れるために半免辞退を申し出ざるを得ない状況が醸成されていたと考えられる。苗代田村が十二月二十五日に出した次の願書は、それを物語っている。

       乍恐以書付奉願候
  一 御領内一同半免に成し下され恐れ入り存じ奉り候。当村百姓共の儀、
    半免念願の筋申し上げ候所存にて御座なく候得共、安積より大勢押し
    かけかれこれと脅かし申し候につき、驚き入り、是非なく一揆にまか
    り出で申し候。右御用捨のところお除き下されたく願い奉り候。恐れ
    ながら御上様御立ち遊ばされ候上、村方にも別して貧窮の者共取続ま
    かりなり兼ね候はば、何分にもお慈悲を以て相立ち候様お救い下され
    たき旨、御百姓共願い奉り候につき、恐れながら右の趣書き付けを以
    て申し上げ候。                   以上
                    苗代田村名主 伊藤長左衛門
       吉田兵右衛門様

 こうした動きが軌道に乗り、藩は自信を持ったと思われる。ただし本宮組と同様の願いが、他のすべての組から出された訳ではないらしい。例えば小浜組の上長折村惣百姓が翌寛延三年一月に出した願書には、『この度半免御用捨成し下し置かれ、有り難く存じ奉り候。何分にも惣百姓共相立候様に仰せつけられ下し置かれ候はば、有り難く存じ奉り候』と記しながら、半免御用捨辞退については一言も触れていない。こうした村には弾圧の脅しがかけられたのであろう。

 第一の結末にあたる山根地方に対する処分は、このように過酷なものであった。こうまで過酷な処分に至った理由として、藩の都合により新検地を実施したこと、実施した村に対して行われた年貢増徴、そしてそれよる不公平の是正という極めて経済的色合いが強かったということが上げられるのではあるまいか。さらに付け加えるならば、戒石銘の曲解というこれまた情緒的な、しかしながら政治的な、一揆側としては決して見逃すことのできない問題を取り上げたことにあったのかも知れない。封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を祀ることができなかった。宝暦四(1754)年建立された供養塔の碑面には三十三所供養塔とあるが、実際には善右衛門の供養塔であるという。そして250年目の正木善右衛門の供養祭が、ようやく平成十二(2000)年十一月になって行われたのである。だがいずれ、一揆の結末は悲しいものだということは百姓たちの心に深く浸透していくことになる。

 第二の結末は、大槻組の五箇郷に対する処分と冬室彦兵衛についてである。まず五箇郷に対する処分は三人が村替えになっただけであり、山根地方とは大きく異なったことが上げられる。これは冬室彦兵衛が大槻組の一揆総代を説得、帰村解散させた後二本松藩に出頭、穏便な処置を願い出て許されたことに関係があるのであろう。彦兵衛は商人とは記録されているが何をどのように商っていたかは不明である。しかし一市井人である彦兵衛がこのような大役を受けたについては、城出入りの商人であったことが考えられる。そして彼の取扱商品の一部が、藁工品など農家の作る物であったと考えれば、五箇郷での百姓の動きをいち早く察知、藩に報告したと想像できる。少なくとも安積の動きが、山根地方より二〜三ヶ月早かったということが、このことを示唆しているのではあるまいか。つまり藩としての重要な情報源であったということである。彦兵衛はこの功績により名字帯刀が許され、冬室彦兵衛保秋を名乗るようになるのである。この五箇郷の軽い処分と彦兵衛への過大とも思える温情、そして針道組に対する過酷とも言える処分との差には、際だったものが感じられる。なお彼の顕彰碑が本宮市仁井田の坂道の途中にあり、大要次の文が記されている。

     積達騒動鎮定之遺跡
『寛延二年の稲作は、平均四分作という不作にもかかわらず、年貢割付は例年通りのため、農民たちは作況を調査して、年貢を軽減する旨の嘆願をしました。
藩では役人を派遣して調査にあたりましたが、わずかの軽減にすぎず、毎年の不作続きに餓死者も出ていることから、不穏の形勢がつのり、安達東部や北部で一揆が起まました。
このような状勢の中で、安積一揆は大槻から始まり、約一万八千の群集がこの地(仁井田下の原)に結集し気勢をあげました。
この碑には、これらの騒動に際し、流血することなく鎮定し、藩と交渉して農民の願いを実現するに至るまで中心となって活躍した 冬室彦兵衛 の名が刻まれ、当時の世情をしのぶことができます。』
                 昭和六十三年七月 本宮町教育委員会

 第三の結末は岩井田昨非である。

 一揆は昨非の説得もあって鎮圧されたが、反昨非派の批判は高まる一方であった。ついに昨非も病と称して出仕遠慮の意志を固めたが、宝暦三(1753)年に罷免された。またこのとき責任者であったとして、勘定奉行諸田兵四郎が閉門追放された。これにより藩政改革は失敗のうちに終了したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなったのである。以後、昨非は詩作の生活を送り、宝暦八(1758)年三月十四日病没した。二本松市竹田台運寺の高台に、臨終のとき詠んだ一編の漢詩を刻んだ墓石の下に眠っている。享年、六十歳であった。

    天生異人 (天生人と異なり)
    名曰希夷 (名に曰く希なる夷と)
    有濟世才 (濟世の才有り)
    不得其時 (其の時を得ず)
    唐虞忽焉 (唐虞忽焉)
    沈淪所宜 (沈淪宜しき所)
    死葬此山 (死して此の山に葬るべし)
    月冷風悲 (月は冷たく風は悲しむ)

  天生(テンセイ)=生まれつき、生まれつき身についていること。天賦。
  希(キ)    =まれ
  夷(エビス)  =未開人
  濟世(サイセイ)=世を救う。世の弊害を除き人民の困難を救うこと。
  唐虞(トウグ) =中国古伝説上の尭・舜の二帝をいう。尭の姓を陶唐氏
           といい、舜の姓は有虞氏という。
  忽焉(コツエン)=たちまち。突然。
  沈淪(チンリン)=深く沈む。零落する。落ちぶれる。
          (以下、郡山歴史資料館・柳田春子さん解釈)
(世が世であれば天下を治めたであろう自分も、その時勢に巡り合えずむなしくこの山に葬られるのである、 悲しいことよ。 筆者訳・「希夷」は昨非のこと)。

 なお昨非の名は、【昨非今是】からとったものであろう。『大辞泉』には、次のようにある。

  〔補説〕 陶潜の帰去来辞「実迷 レ途其未レ遠、覚 二今是而昨非 一」による。
  昨日誤りだと思ったことを今日は正しいと思うこと。是非判断が相対的なものであることをいう。今是昨非。

 ついに昨非は、故郷の土を踏むことは出来なかった。不調に終わった改革が、その理由の一つであったのかも知れない。この漢詩に、故郷へ戻ることが叶わなかった昨非の望郷の念が感じられる。



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最終更新日  2015.02.11 10:10:22
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