『福島の歴史物語」

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2024.05.10
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カテゴリ: 鉄道のものがたり
9 鉄道事故

 ところで、鉄道の事故は、決して少なかったわけではありません。ただそれらの全部を載せることは難しいので、いくつかを取り上げてみたいと思います。
 明治四十二年六月十二日、奥羽線赤岩信号所、いまの福島市大笹生字赤岩から発車した列車が、急勾配の第十三号トンネル内において、蒸気機関車の動輪が空転を頻発していました。その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し、昏倒してしまったのです。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたのですがブレーキが効かず後退し、そのまま列車は赤岩信号所構内に入って脱線転覆したのです。木造の客貨車は粉砕され、乗客一人が死亡し、二十七人が負傷、職員は三人が死亡し三人が負傷しました。後に、米沢駅構内に、この事件の慰霊碑が建立されています。

 昭和十年十月二十七日、磐越東線の川前駅と江田信号所間において、豪雨のため土砂が崩壊し、これに乗り上げた列車が転覆して落下しました。翌々日の二十九日付『常磐新聞』に、記事が記載されています。『磐越東線・開通以来の大椿事・汽車川前渓谷に転覆・死傷者数拾名を出す』『廿七日午後六時廿二分平驛着豫定の磐越東線より二〇旅客列車が約三十分遅れ川前驛を發車五時五十分ころ小川郷驛間夏井川第一鐵橋を通過して間もなく折柄の豪雨で線路が浮いている處へ爆進して来た為め機關車、郵便小荷物緩急車、二三等混合列車、三等車の四輛が脱線し折り重なって数十尺下の闇の河中へ墜落し、乗客死傷者数十名を出し小川郷驛に一先ず収容した。小野新町よりは醫師、看護婦、在郷軍人、青年團員等を乗せた救援車を出し、一方川前驛前永山徳一氏所有の別荘に死傷者を収容、應急手当を加えている。死傷者は左の如くである。(以下略)』

 昭和24年7月5日に下山事件が、そして同じ月の15日に三鷹事件が、翌月の17日には松川・金谷川事件が立て続けに発生しました。この三つの事件は、国鉄三大ミステリー事件とされて、いまだにこれらの事件の真相は明らかにされていないのです。この最初に起きた下山事件は、行方不明になっていた国鉄総裁下山定則氏が常磐線綾瀬駅付近で 轢死(れきし)体となって発見されたもので、当時のGHQの指示により、下山総裁が国鉄職員の大量整理案を発表したことで、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中の事件でした。この事件は、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えたのですが、事件の真相は不明のまま捜査が打ち切りとなっています。

 次に起きたのが三鷹事件で、国鉄の中央本線三鷹駅構内で起きたもので、無人列車が暴走、脱線転覆して六人が死亡した事件です。この事件で単独犯として死刑判決が確定した運転士の竹内景助元死刑囚は、その後に無実を訴えて再審請求をしたのですが、予備審査中に病死してしまいました。遺族が申し立てた第二次再審請求で、東京高裁は令和元年七月にどの請求を退けました。弁護団は異議を申し立てたのですが棄却され、令和五年三月、最高裁に特別抗告をしている事件です。

 そしてその年の八月十七日、東北本線の松川駅と金谷川駅の間で、青森発上野行列車の機関車と客車五
両が脱線した列車往来妨害事件は、いわゆる松川・金屋川事件といわれるものです。現場はカーブの入口の場所で、当時は単線でした。ここで、先頭の蒸気機関車が脱線して転覆したのち、後続の荷物車二両、郵便車一両、客車二両も脱線しました。この事故により、機関車の乗務員三人が死亡しています。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認され、さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ二十五メートル、重さ九百二十五キロのレール一本が外されており、ほとんどまっすぐなまま十三メートルも移動されていました。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ一本ずつ発見されたのです。明らかに人為的な事件です。この事件は、下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件の翌日には、当時の増田甲子七内閣官房長官が「三鷹事件などと思想底流において、同じものである」との談話を発表し、政治的事件であることを示唆しています。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場、いまの北芝電機の労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行ったのです。事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川・金谷川事件についての取り調べを受けました。少年は逮捕後9日目に松川・金谷川事件の犯行を自供し、その自供に基き、9月22日、国鉄労働組合構成員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国鉄労働組合構成員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたのですが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことがのちに判明、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪が確定し、事件そのものは闇に葬られてしまいました。なお昭和25年9月、現場近くに『殉難之碑』の除幕式が行われ、そのかたわらに、三春町の石材業・鈴木宗兵衛が地蔵尊を建立しています。

 他にも当時の国鉄では松川事件と類似した列車脱線事件が発生しています。

 『国鉄三大ミステリー事件』とされた事件の一年前の昭和二十三年四月二十七日、いまの福島市町庭坂の奥羽線赤岩〜庭坂間で、脱線転覆事件が起き、三名の死者が出ました。脱線現場付近の線路継目板が二枚、犬釘六本、ボルト四本が抜き取られていました。犯人は分からないまま、庭坂事件と言われました。

 そして、『国鉄三大ミステリー事件』の起きた二カ月前の昭和二十四年五月九日の予讃線事件は、愛媛県難波村の、予讃線の浅海(あさみ)駅と伊予北条(ほうじょう)駅間で起きた列車転覆事件で、機関助士一名が即死、機関士二名と乗客三名が負傷しました。この年に発生した松川・金谷川事件と同様の手口であり、なんらかの意図を持って行われた鉄道テロであると言われていたのですが、これらの事件の真相は明らかにされぬまま、これまた未解決の事件となっています。


 昭和二十六年五月十七日に発生した『まりも号脱線事件』は、根室本線の新得駅と落合駅間を走行中の急行列車『まりも号』が、北海道上川郡新得町郊外で脱線させられた未解決の事件です。何者かがレールを故意にずらし、脱線転覆を図った列車往来危険事件であることは間違いのない事件でした。これには専門的な知識や技術が要求される犯行であるため、当初は内部犯行の容疑が掛けられ、約六百人の国鉄および労働組合関係者が捜査対象となったのですが、これも未解決に終わっています。

 このような事件が続発しながらも未解決に終わったことについては、当時の世界の情勢を見てみなければならないと思います。昭和二十四年、中国大陸においての国共内戦で、中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも三十八度線を境に親英米政権と共産政権が一触即発の緊張下で対峙していたのです。このような国際情勢の中、戦後の日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換したのです。いわゆる逆コースです。いまも多くの識者の間では、これらの事件が日本の共産主義者を壊滅させるため、占領軍の関係者の陰謀による一連の事件と考えられているのです。

 平成二十三年三月十一日、宮城県牡鹿半島の東南東百三十キロメートル付近を震源とする大地震が発生しました。マグニチュードは、昭和二十七年のカムチャッカ地震と同じ九・0で、日本国内観測史上最大の規模でした。しかも直後に襲った大津波、加えて東京電力福島第一原子力発電所事故による、放射能拡散の大災害が発生したのです。これにより、東北を結ぶ常磐線は、大津波に加えて放射線による大きな被害を受け、広範囲で不通となりました。しかも富岡〜浪江間は長期間にわたって帰還困難区域を含んでいたため、運転再開には至りませんでしたが、富岡町、大熊町、双葉町の一部のエリアで避難指示が解除され、令和二年三月十四日には、富岡駅〜浪江駅間が再開して全線の運転が再開されました。九年の時を経て、ようやく全線が開通したのです。しかし被害を受けた駅周辺の避難指示は解除されたものの、周辺一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままです。

 一方の東北新幹線は、福島駅と白石蔵王駅の間を走行していた十七両編成の『やまびこ223号』が脱線、この十七両編成のうち十三号車以外の十六両が脱線してレールから外れたのです。また、一部の車両がレールから大幅にずれて傾くなどの被害が確認されたほか、電柱や架線、高架橋の橋脚など約千百ヶ所が損傷しました。それでも三月十五日には東京駅と那須塩原駅間が再開、同二十二日には盛岡駅と新青森駅間が再開、四月七日には一ノ関駅と盛岡駅間が再開、四月十二日に那須塩原駅と福島駅間が再開して『なすの』が郡山駅まで延伸、山形新幹線も東京までの直通運転を再開しています。また東北本線も、これに合わせるように復旧し、四月二十九日には上野駅から本宮駅間が再開、五月五日には福島駅まで、十日には仙台駅までの運転が再開されました。これなどは、やむを得ない鉄道の事故であったのかもしれませんが、これに対応したJRおよびその社員、そして大きな被害を受けた私鉄の関係者の皆さんの努力には、頭の下がる思いがあります。






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最終更新日  2024.05.10 07:00:14
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