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I氏が帰国してから、Y夫妻やアニ~などと遊んだりしていたが、ナンド一家も、相変わらず行き来していた。ある夜、ナンドから電話が掛かって来て、「これから、母の親戚(叔母)の見舞いに行くのでお前も行かないか」との事であった。時間を見ると、夜の十二時近くなのである。私は眠いので,断ると、ナンドたちは「父も母も,行っているし、ホセも行くので、お前も行こうよ」と言うのである。私は断りきれずに、行く事にしたが、何で、こんな時間に四時間近くかかる田舎に行かなければならないのだと思いながらも、誘いに乗ったのである。こちらの人は,遊びなどを、断ったりすると「お前は友達じゃない」と言い出すのである。自分の、都合のいい時に「友達」と言う、それが曲者である。私は説得されて、眠い目を、擦りながらナンドとナンドの兄、土産屋のホセ、ナンドの友達のホセと私の五人でワゴン車に乗り、出発した。運転は土産屋のホセがしていった、夜道なので飛ばす事、甚だしい三時間半くらいで着いてしまった。私たちは車の中で親戚の人達が起きるのを待つため、それぞれが車の中で寝た。朝七時に、親戚の人達が起きてきて、私たちは朝食の買出しに借り出された。買ったのは、生きた鶏である、それを家に持ち帰り、首をしめて血を抜き、料理するのである。内臓から鶏冠、足まで料理する、また、血も料理の中に入れるのである。私たちは料理が出きるまで、川に行って泳ぐ事にした。ところが、川を見た途端に、私は泳ぐ事を諦めた。ゴミは浮いているし、濁った茶色っぽい水なのである。こんな所で泳いだら、病気になってしまう状態の所である。そんなところでも、みんなは泳ぐである、そして潜り川海老を取ったりするのである。私は前にも土産屋のホセに田舎に行って、汚い川は経験しているが、ここはそれ以上である。私は泳ぐことはしなかった、足を浸かる程度に川に入っていただけである。
2013.08.31
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私は結婚をしたが、相手は亡くなった彼女を知っている人であり私の男友達の彼女であった人である。私の若い頃は、結婚出来ない男は信用が無く出世も出来ない風潮があった。仕事に逃げていた、私はガムシャラに仕事をした。仕事では信用もあって出世も早かったと思う。だが、そこには死んだ彼女の影が、私から消え去る事がなった。最初の奥さんは死んだ彼女を知っていて、私と一緒になったので私の好きな様に仕事をさせてくれたし、理解していたのであろう。私が死んだ彼女の思い出を大学ノート2冊に書き記していた事も位牌を持っている事も分かっていたが、尽くしてくれた。 結婚も彼女から言い出したのであり、男友達の彼女であった。彼女が友達と別れて私が、相談に乗っていた時に言われたのである。「私と付き合って」と彼女が言った時、私は断ったのだが、「女に恥をかかせるの」と言われて一緒になった。だが、私の中から死んだ彼女は消えなった。 それでも奥さんは理解して私に尽くしてくれた。人間としては、奥さんは大きな人だと思う。だが、最終的に私は仕事に逃げて、離婚してしまった。それは死んだ彼女を、自分の中から消す事が出来なかった。それだけ私は女々しい男なのである。最初の離婚から再婚したが、さらに離婚してしまったが私の中から死んだ彼女の姿は消える事がなかった。結果的に女々しい男の結末なのかもしれない。 私は思うが男ほど、女々しい動物は居ないような気がする。私はその後、何人かと付き合ったが、意外とあっさり別れる。だが、死んだ彼女だけは忘れない。母も忘れないのは同じであるが、母の場合は私を生んでくれた人であり、それは当り前の事であろう。 何故に「女々しい」と書くのか、「男々しい」と書くべきでないのか男社会の、名残りであろう。また、私は3度ほど死にそこなっているが、最初は前に書いた急行列車からの飛び降り、2回目はドミニカ共和国で盲腸に成り急性腸膜炎で1か月の入院でげっそり痩せて、皆が死ぬのでは無いかと言われた事があり、次は大腸がん、自分で癌と分かって居ながら段々痩せて行き、それでも病院に行かずに我慢して倒れて病院で手術を受け、転移していなかったので生き延びた。これも亡き母と死んだ彼女が助けてくれたのかもしれない。 父も癌で亡くなったが、最後に面倒を見たのは私であった。嫌、最初の奥さんが面倒見てくれたのである。
2013.08.31
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三年目の終わりに近くなり、鉢合わせ事件以外は、大きな問題も無く、過ぎようとしていた。そんなことで終わるドミニカではなかった、今度は電気料金の問題である。一年目、二年目は一般的に言って、ドミニカ料金で電気代が係っていたが、この四ヶ月あまりで、今までの四倍から五倍の料金請求が来るのである、悪く言えば、日本でも、こんな料金払った事が無いような請求である。こちらの電気料金の基本設定は、クーラが幾つあって、洗濯機、テレビ、温水器などが幾つあるかで基本料金を勝手に決めて行くのだそうだ。基本料金は住んでいる住宅の、良い悪いで決め、後はメーターの使用料で決めるとあるがこれもあてにはならない、便宜上見ては行くが、検針などはしていないのである。所得がありそうな、所から料金を取る、文句を言うと一時的に下がるが、また直ぐ高い料金が請求されるのである。また、停電も多く、電気が流れていない時間が多い日がかなりある。私のマンションは自家発電があるので、冷蔵庫などの中の物は、大丈夫であったが、毎日の電気の使用量は、昼間居ないので係る量は少ないはずが、1500ペソ近辺で請求が来るのである。(1ペソが日本円で9円)二年目は300ペソくらいであった、これは、不当だと言って文句を言うと500ペソに下がってくるが、言わないと、そのままなのである。こちらの、電気事情は電力不足で各家庭に供給できるだけの量が無いのであり、また、盗電が多く、料金収入がなく、赤字状態なのである。それを、高級住宅街に住んでいる外国人を狙って、高額な請求を出し、埋めようとしているから私たちは、たまったものではないのである。私は派遣先で、日本人の受け入れ担当のLYBIS(リビス)と言う女性職員の、夫が電気会社の職員であったので、その事を相談すると「夫に言っておく」との返事であった。その事があって、多少は下がったが、前の三倍近い金額が請求されていた。どうも、あまり効果は無かったようである、私も面倒なので、それ以上は追及しなかった。電気事情は、住宅街によって,停電の頻度が違う、政府高官の住んでいる近辺は、ほとんど停電が無い、でも、旧市街地などは一日のうち、4時間くらい電気が来ればいい方なのである。旧市街地は盗電も多く、殆どの人が電気代など払わないのである。日本政府は発電関係でも援助しているが、一向に良くならないのである。
2013.08.30
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医者から「親族を呼んでください」と最後通告を言い渡されたのである。言い渡された私は彼女の兄弟に電話を掛けた。その時の私は無力感しかなく、涙も出て来なかった。自分の無能さと、彼女の死を見たくない気持ちだけであり自分も彼女の後を追いたい気持ちだけである。あの日記に書かれていた彼女の気持ちに答えられなかった自分は只の無能な男に思えた。 私はどの様な姿でも、彼女に生きていてほしかった。だがそれも空しく消えた、10月25日午前4時30分に彼女は去って行った。私の心は空しさしかなく、涙も出て来なかった。私の中では「何故に愛する人を二度まで私から取り上げるのか、神様は居ないのか」と思っていた。 彼女の死で病院側から「彼女を解剖させてくれ」と言われた時には私は半狂乱的に、大きな声で叫んでいた。「これ以上彼女を傷つけないでくれ」と、私の中では彼女が実験台にされるのが、耐えられなかったのである。48年以上前の脳腫瘍は医学的にも難しい病気であったから病院側は研究したかったのであろう。若い私には、彼女の手術中の頭に巻かれた包帯を見ていて彼女を助けられない自分自身を責めても居たし、これ以上の彼女のみじめな姿を見たくなかった。自分が変われるなら、変わりたい気持であったのだ。 その後、葬儀となったが、私は自分の頭を上げる事が出来なかった。私が彼女を殺した様な気持ちで、親族の前では頭を下げていた。そして彼女の位牌を貰った、 私は彼女の後追いたくて、海岸を歩いて居たが、若い私には莫大な借金が残っていた。病院代、葬儀代を仕事先から借りて払って居たのでその返済が残された。働いて返すしかない、そのためにガムシャラに働いた。 いや、彼女の死から逃げていたのかも知れない。彼女の死を忘れたい為に、自分自身を追い詰めていたのであろう。 私は彼女と結婚したいと思っていたが、彼女の国籍は北朝鮮であったから、結婚は出来なかったかもしれない。国交が無かったので帰化も出来なかったであろうから、一般的な結婚と言う儀式は出来ないであろうが、一生彼女と連れ添って、行こうと私は決めていた。だがそれも消え去った。 彼女の死から私は変わったと思う。仕事に没頭した、彼女の死の思い出から逃げたのである。彼女の死を忘れようとしていたのである。
2013.08.30
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さて、アニ~とのデートの回数が増えると、ベルキーとの踊りの回数が減るのである。ベルキーからは、毎日のように電話が来ていたが、踊りに行く回数は少なかった。それがベルキーにとっては、不満であったのだろう。私の部屋に来て、文句を言う事が多かった、私は新しい恋人が出来たから付き合えない事を言い出す、きっかけを伺っていたが、なかなか、切り出せないでいた。アニ~には、何回か踊りに行ったが、どうもアニ~はドミニカ人にしては、踊りが下手であったし、互いに踊っても楽しさを感じなかったので、アニ~とは1~2回しかディスコには行かなかった。もっぱら、夜にデートは野外コンサートや食事などであり、そのあとは、彼女の家の近くに送って終わる事が多かった。アニ~と肉体関係を持ったのは、付き合って一ヶ月以上経ってからであった。海岸道路を、ドライブをしていて、モーテルが立ち並ぶ所に差しかかったときに、私が車をモーテルの中に入れたのである、後は暗黙の了解であった。それからは、アニ~も私の部屋に来るようになった、今までは私の職場で待っていてからのデートであったが、アニ~が、仕事が終わるまで待たなくてすむようになった、今は、私の部屋で待っていれば、彼女が来るようになったのである。 さて、そこで、事件が起きたのである、アニ~と関係が出来て、私はベルキーに言ったのである、「新しい恋人が出来たから、二人の関係は止めよう」とベルキーはそれなら踊りだけでもと、納得したと思ったのである。だが、それからベルキーは数回、私の部屋を訪問する事があった。私もベルキーとは、踊りには行っていたが、関係を持つ事は避けていた、でも訪問されるとドア前で帰すわけには行かないので、部屋の中で話をして帰したり、一緒にディスコへ行ったりしていた、アニ~も毎日は来ないだいたい週末に来るのである。だから、私は、週末は踊りには行かなかった。その日は、ベルキーが私の部屋へ来たのは、平日でディスコに行くには、早い時間なので寄ったのである、ベルキーとは踊り友達で居たかったので、関係を持つ事を避けていたのであるが、ベルキーは、その日は積極的に言い寄ってきたのである。さて、事が終わったとたんに、部屋のチャイムが鳴ったのである。私は誰が来たかを、のぞき穴から見ると、そこにはアニ~が立っているではないか、今日は平日で来るはずの無いのに、ドアの前にいるのである、私は慌てふためいた。鉢合わせである、彼女達は合った事も無いのであるから、説明が付かないのである。私は、大きな声で「着替えるから待って」と言って、私の部屋に戻り、ベルキーに下着を持たせ、入口に、近い部屋に彼女を押し込んだ。その部屋はベットがあり、洋服棚やクーラが取り付けられている部屋である。私のところは部屋が三つあり、入り口からリビング、ダイニング、六畳・六畳・十畳の部屋がある。その最初の部屋にベルキーを入れ、ドアを閉めて、アニ~を私の使っている、一番奥の部屋に入れ、「飲み物を持って来る」と言ってドア―を閉め、ベルキーの入る部屋へ行きタクシー代を渡して部屋から出て行かせた、処理に掛かった時間は三分ぐらいであろう。私はジュースを、アニ~の所に持っていって、何食わぬ顔をして話をしていた。それからは、ベルキーは来なくなった、私も二度と同じ事が起こらない様にと思っていた。鉢合わせ事件が終わって、私も仕事で機種選定なども終わり、システムの立ち上げなどで、忙しくなり、踊りもアニ~とのデートも回数が少なくなったのである。
2013.08.29
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病院では幾つかの科を検査したが、中々彼女の病名が分からなかった。最後に脳外科で脳腫瘍と分かったが、その時医者に宣告された。「上手く手術が成功しても、彼女は植物人間として生きる事しか出来ない」と言われたのである。私は彼女が、生きていてさえくれればいいと思っていた。生きていてさえ居れば、私が彼女を支えて行こうと思っていたのである。 手術を明日にしかえて、彼女の下着や私の着替えなどを取りに部屋に戻った。その頃、私は日記を付けていた。その日記を彼女が頭痛を訴えた時から、書き忘れていたので日記を開いた時に、彼女の字で書かれていた文字があった。「私は竜ちゃんが大好きだよ、私は竜ちゃんの為になら何でもするよ外国へ行って勉強したいなら、外国へ行ってもいいよ、私が邪魔なら私は竜ちゃんの邪魔はしないから、好きにして良いよ、本当に竜ちゃん大好きだよ、大好きだよ」と大きめの文字で2ページに渡り書かれていたのである。私はそれを見た時に大粒の涙が出て来て泣いた。それも彼女が右半身マヒになった、前の日に書かれていたのである。私は彼女の書いた日記を見て、彼女を助けなきゃと強く思った。病院に戻った私は彼女の手を握りながら、今までの思い出を話しかけていた。 次の日に彼女の手術が始まった。手術は8時間にも及んだ。だが手術は全部取りきれなかったので、明日も手術すると言われた。私は一度部屋に戻り、あの日記を開いて彼女の名前を叫びながら大声で泣いた。自分の無能さと何も出来ない悔しさが、自分に対して責めていた。若い自分には何も出来ない、自分が変わってやりたいそれも出来ない自分は、ただの不甲斐ない男に思えた。だから彼女の名前を大声で叫んでいたのである。「何故だ、何故に彼女がこうなるのだ、X子、X子生きてくれ」と叫んでいたのである。 次の日の手術は1時間で終わった。医者は危険個所で、「これ以上は無理です」と言われた。私は医者に「彼女は、生きていたられるのですよね?」と問うたが返事が返ってこなかった。私は彼女が生きていてくれるだけで満足であった。だが、それも空しく消え去る事になったのである。
2013.08.29
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ある日、アニ~の結婚の話になり、「なぜ、離婚したの」と聞くと、夫は働かず遊んでばかりで、子供が出来ておなじなので、別れたと言うのである。ドミニカの男性は、遊んで働かず、女性に対してはマメなのである、不思議と、そんな男性が女性にモテル感じがする。真面目な人ほど、モテナイのである、ナンドの兄もそうである。確かに、私から見ても、面白みがない、遊ぶには、真面目過ぎてつまらないであろう。なんか、今思うと、昔の私を見ているようだ仕事だけの真面目人間であった様な気がする、よく、こんな私について来たなと、別れた妻達の事を思っても見るが、遅かりしである。 それで、アニ~は別れたと言うのである、でも、子供には、会いに来るそうだ。こちらの、人は別れても友達付き合いをする人が、ほとんどである、ここがまた不思議なのだ、日本では別れると、会いたくないという人が、殆どであり、私も二回目の人とは、それっきりであるが、一回目の人とは友達付き合いである、それを言うと「変だ」と多くの人は日本では言うが、こちらは、その逆で会わないほうが変だと言う。文化の違いなのか、習慣の違いか分からないが、私はこちら向きなのかもしれない。さて、こちらの離婚は大変である、日本は紙一枚で離婚成立するが、こちらは違っていた、正式に結婚したカップルが(教会で式を挙げ、役所に届を出したもの)、離婚した場合は弁護士に、誰と別れ、今後その人とは関係ないことを証明してもらい、それを公共機関の紙面に載せて、みんなに公開するのである。それを、しない限りは法律上では離婚した事にはならないのである。たしかに、カトリックの国であるから、離婚は御法度なのであるが、ドミニカは、離婚は認めているが、ここまで、しなければ離婚できないようだ、その費用も5000ペソ掛かるのである。期間も二ヶ月近く掛かるそうだ。平均月収が2000ペソ位であるから、一般では多額の金額で、おいそれと支払いが出来ない。前に書いた、同棲はこのためであり、正式に結婚した人が離婚して、再婚しようと思っても、この費用と期間がかかるのであるから、同棲して夫婦であるという人が多いのである。アニ~は正式に結婚していたので、別居夫婦なのである。アニ~の元夫には、別の女性と住んでいるのである。これでは、私のように二回も離婚した人には、大変な事である、日本での離婚でよかったと思った。アニ~はウエディングドレスを着た写真を見せてくれた、それはアニ~、一人が写っていたが相手の写真は無かった。見せたくなかったのであろう。また、こちらの女性とのデートは、ドミニカ時間であり、待たされるのが当たり前、それと女性はお洒落には時間とお金を掛ける。今まで付き合った女性(友達も含め)、デートする時は美容院に行く、また、食べなくても洋服を買うそうである、これは日本人も同じであったが、アニ~は毎回デートごとに美容院に通うのである、挙句の果てはデート中に美容院行きである。それは、Y夫妻宅へ招待された時、迎えに行ったら「美容院へ」が第一声であった。私はセットが終わるまで、車の中で待たされるのである。これが、招待されるごとであるから、週に三回なら三回美容院に行くのである。たしかに、今まで付き合った子はデートとなると、待たされる事一~二時間は当たり前であった。日本だと、私は帰ってしまうであろう、腹が立って、でも、こちらは当たり前なのであるから腹を立てて帰ったのでは、何事も成立しないのである。これは、デートに限ったことではなく、仕事でも生活でも、同じなのである、慣れるしかないのである。私もドミニカに来た、最初の頃は腹が立って、怒りもしたが、怒っても同じなので、現在は諦めるしかないのである、それだけ私がドミニカ化したのであろう。
2013.08.28
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話は逸れたが、彼女と付き合って行く内に、彼女の明るさと可愛らしさに自分は惹かれて行ったのである。 彼女と付き合って1年目くらいの時に、彼女の母親が亡くなった。彼女の落ち込みは激しく、私はどの様に彼女を労わればよいか分からなかった。自分も早くに母を亡くしているので、彼女の気持ちは、よく分かるのであるが、掛ける言葉が出て来ないほど、彼女は落ち込んでいた。母親思いの子であったから、なおさらショックが大きかった。 彼女は1か月くらいで、明るさを取り戻し、笑顔も戻って来た。そんな彼女を男として、守りたい気持ちに成ると同時に、私も男としての独占欲が出て来る。 そんな気持ちが強くなり、彼女と結ばれて同棲を始めた。その頃、流行った「神田川」の歌のような光景で銭湯に行ったりリンゴの木箱が卓袱台で食事をしたり、若い二人に楽しい生活であった。 だが、それも長くは続かなかった。ある日、彼女が頭痛を訴えるのである。彼女は頭痛を訴える事が時々あったので、何時もの頭痛かと思って市販薬を与えたが、仕事を休まない彼女が仕事に行けない状態であり私は彼女の食事を作り、仕事に出かけた。帰宅すると彼女の頭痛は激しさを増していて、食事も手を付けていなく私は彼女を夜間の救急病院に連れて行ったが、医者は「風邪」であると言って薬を出してくれた。 次の日に私が帰宅すると、彼女の頭痛が酷く右半身が麻痺状態に成っていたのである。私は彼女を背負って大学病院に駆け込んだ。彼女は私の背負われている時に「竜、ごめんね」と、かぼそい声で何度も言っていた。 彼女は病院に行った時は意識不明に成っていた。その時の私のショックは口には表せないほどであり、私は彼女の名前を呼び続けた。彼女は意識が無かったが、私が彼女の名前を呼び続けると微かであるが、私が彼女の手を握っている手を、かすかに握り返してきた。私は彼女には私の声が分かるのだと希望を持っていた。私は一睡もしないで彼女のベットの傍で、彼女の手を握り続けて居た。その時は彼女との思い出が、走馬灯のように走り抜けて行った。彼女と正月に神社にお参りに行こうと私が行った時に彼女が「身内が前年に死んだ時、お参りすると、迎えに来るのよ」と言っていた。私は「迷信だよ」と言って、彼女の手を強引に引っ張ってお参りしたのを思い出していた。彼女が、このようになったのは彼女の母親が亡くなって1年目だったからなのだ。
2013.08.28
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彼女には、すでに父親は居なかった。母親が3兄妹を、飲食店をやりながら育てていたのでありそんな母を思いやる気持ちの強い女性であった。彼女は休みに成ると必ず実家に帰って行き、母の手助けをしていた。そんな彼女を見ていて、私は羨ましい部分もあった。私は自分の母に、それが出来なかったのである。それを出来る彼女に応援したい気持ちになっていたので彼女が帰る時には何かしら、お土産を持たせていたのである。彼女の母を見た事はなかったが、自分の母親のつもりでその様な行動をしていた。 彼女は美人とは言えないが、気持ちの優しい明るい子であった。周りの女友達からも好かれていたし、彼女が居れば周りも明るくなっていた。私との付き合いの告白も、彼女の女友達から嗾けられて彼女が告白したのである。私は彼女からの告白前に「彼女があなたを好きだよ」と彼女の友達から言われて居たのであるが、私は相手にしていなかった。それほど彼女は友達と仲良くしていたし、好かれていたのである。 彼女も国籍が北朝鮮であり、その事で兄妹たちがイジメにあった事は、後で聞いたのであるが、私の時代では、そのような事は当たり前に行われていたもので、誰しも、そのイジメの激しさは分かるがそれを前面に出さいない彼女は好かれていた。彼女がイジメにあって居たとは思えない程、明るい子であった。彼女もイジメの中から多くを学んでいたのであろう。 ただ、私としては彼女の焼き持ち焼きな所が、いささか面倒であった。私が他の女性と話をしていると、チェックが入り、それで口論に成る事が多かった。だが今考えて見ると、それだけ自分を愛してくれていたのだと思える部分もあったが、若い私には重い部分を感じていた。 あの頃の付き合いはプラトニックであり、私は特に奥手なのか早くに母を亡くしたので、女性に対する対応が上手く出来ない事が多かったし、今の彼女と付き合う前も、女性とは付き合ったのであるが手も握った事も無かったし、17歳頃まで女性に生理がある事を分からなかったのである。生理が分かったのは、前の彼女が「私、あれなの」と言うので「あれって何?」と聞き返して、初めて女性の生理がある事を分かったのであるから、如何に奥手なのか分かるであろう。
2013.08.26
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I氏が帰国して2ヶ月位たった時に、マイアミで別れたNさんとYさん夫婦が赴任して来た。三年ぶりの再会となったのである、Nさん、Yさん達はホンジュラスで一年間の派遣期間を終えて、再度、ドミニカ共和国に派遣さられたのである。Nさんは映像関係で大学に、Yさんは金融関係で、私と同じ所にである。二人の方達とは日本にいる時から、研修や語学などで一緒にやった仲間なので、I氏の居なくなった今、会えたことは嬉しかった。だが、それだけ私は、ここに長く居たのだとも、感じたのである。二人は、今回が二回目であり、NさんとYさんは、前回は同じ国で、配属先も同じであった。私は、Yさん夫婦とは特に親しくしていたので、こちらで生活するための買い物などに、付き合ったりしていた。Yさん夫婦は、買い物で私が値切ると、驚いたような表情をしていた。私はデパートでも値切りまくっていたので、Yさんは「ここでも、値切るの」と怪訝な顔をしていた。私は、自分の買い物でないので、気楽に値切っていたのである。それからというもの、Yさんは、買い物に行く時は「同行してくれ」と頼む様になった。Yさん夫婦はプロテスタントの信者で、温厚な人柄であった。その、温厚さが顔に出ていて、優しさが、にじみ出ている感じである。私が帰国するまで、Yさん夫婦とは親交があった。 私はドミニカでは、日本人との親交は、大使館の三等書記官とか女子の秘書官となどと、親しくしていた、他は日本事務所の職員とであり、この時ばかりは日本語を、思い切って喋れる時で、ストレスを発散していたのである。私の派遣先は、全員がドミニカ人でスペイン語だけであったが、これからはYさんが来たので部署は違うが日本語で話が出来るので、私は喜んでいた。 アニ~との昼食デートは続いていた、そこにYさんと奥さんが加わることになり、楽しい昼食会の雰囲気であった。Yさん夫婦もアニ~を気に入って、良く話をしていたし、家へ招待をしてくれて、食事を御馳走になったりした。私とアニ~は、夜のデートの数も多くなって来た、家族公認なので子供は兄弟や母親が見てくれ、私とのデートに協力してくれているようである。アニ~も彼女の友達を紹介してくれたりして、親交が深まったし、私も日本人の友達にアニ~を紹介したりしていた。そうすると、私は不器用なのでベルキーとの踊りの時間が作れなくなった。どうも、両方の女性と付き合う事が出来ない、仕事に関しては器用なのであるが(自称)女性に関しては、一方通行の道路のように、進むのは一つという感じなのである。私は単純なのか、顔に出るようである、離婚した妻達も言っていた、「あなたの嘘は、顔を見れば分かる」と、でも、この不器用さが後ほど事件を起こす。
2013.08.26
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ドミニカは私の感じでは、体形は三種類に別れるようだ、一つは黒人系、インディオ系と西欧系である。平均して黒人系の人達が多いが、あの体形には、圧倒されてしまうが、黒人系は年齢が行くとドラム缶系の体形になるようである。(特にご婦人はである、こんなこと書いた事が分かったら袋たたきに遭いそうであるが)私とアニ~と、これで正式に付き合うことになったのである。前にも言ったが、こちらでは家族に紹介されると、付き合いを認めたと言う事であるが、私は数人に家族を紹介されているのであるが、、本当に付き合っているのは、三人程度であるでも、これはドミニカ化した自分がいるのかも?現在はアニ~とベルキー、それにコンピュータの女史であるが、ベルキーが一番若く二十一歳で、次がコンピュータ女史で二十八歳、アニ~が二十九歳である。その中でアニ~が、一番、若く、見えるのである、三人と付き合っていたが、友達気分であり、肉体関係は、その中の、一人としかなかったから、ドミニカ化したとは、言えないかもしれない。私は器用さがないのか、女性と付き合っても、友達としてなら、数人と付き合うのであるが、肉体関係を持つ人は一人だけが多い、起用に使い分ける事が出来ないのである。(この文章は私個人の事なので、その点は理解して下さい、相手は何ら関係有りません)だから、ドミニカ人の男性が複数の女性と肉体関係を持つもが、私には理解出来ない事であった。愛情があって肉体関係を持つのは分かるのであるが、動物的に関係を持つことには抵抗がある。でも、ドミニカ人が継続して付き合うと言うことは、愛が有るとも考えられる。あるドミニカ人が言っていた、複数の女性と付き合うのは、女性は生理があって、一週間SEXが出来ない、そのために、別の女性をキープするのだと、これは女性が聞いたら怒るであろう、でも、そのドミニカ人は、自分の女性が他の男性と付き合うと怒るのである。矛盾している部分がある、悪く言えば自分勝手なのであろう。こちらの男性は、意外と焼もちやきである、それに、執念深い感じもする。だから、男女関係のトラブルで、男性が事件を起こすことが多い、被害者は女性であり、私も色々な人から聞いたことがある。また、不倫も多いようだ、庶務のボスのホセも職場の結婚している女性と不倫をしている。職場内では、皆が知っていることであるが、周りは気にしてない。アニ~とは毎日のように昼食デートが続いたが、ベルキーとも、毎夜、踊っていた、コンピュータの女史とは、たまに国立劇場などで音楽鑑賞に行ったりしていたが、私はどうも背の高い女性は苦手であり、自分としては積極的ではなかった。三人の中でもベルキーは美人では無かったが、小柄で私に対して積極的であった、また、一番貧しかったかもしれないが、相性は一番良かったかもしれない。コンピュータ女史は背が高く、(百七十センチ以上あったかも)美人であり、理性がある顔立ちで肌も白人系であった、モデルにしても、いい女性であったが、私が積極的でなかったのある。アニ~は肌の色は一番黒かったが、小柄で美人であった、顔立ちも整っていたし、あれで身長があれば、モデルにでもと思うような感じである。私もこの三年で数人(十数人かも)の女性と付き合ったが、ここにきて落ち着き、この三人と付き合って行く事になった。
2013.08.23
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最初は友達として、たまに二人で出かけたりしていたがある時、私が事務所に呼ばれ事務の人に「あの子と付き合うのは止めた方がいいよ」と言われたのである。私は何故なのか分からなかったので、「何故ですか?」と問いかけた。そうすると相手から「彼女は朝鮮人だからね、それと彼女はここで働くのは、母親がここから借金をしているので、彼女が働いて返しているから、付き合わない方がいいと思う」との事であった。 50年前の日本は朝鮮系の人達を蔑む傾向が強かった。私の生まれた北海道ではアイヌの人達にも、偏見の目が向けられていた時代であった。偏見は人間として避けては通れない事なのであろう。 だがその時に自分は思った。同じ人間で何故に差別をしなければならないのか国が違ったからと言って偏見を持つ事自体に、私は疑問を感じた。これは私が施設で育ったからなのかも知れない。「施設の子」と言う偏見の目に晒されてきた自分が居たから彼女の通って来た偏見と言う道筋が分かる事が出来たからであろう。 私は、その言葉を聞いた時に彼女を守りたいと言う気持ちに成っていた。だから私は彼女と付き合う事は止めなかった。 彼女は日本人の母親と北朝鮮人の父親から生まれて国籍が北朝鮮となり、外国人手帳を持っていたのである。私の子供の頃、夕張に住んで居た時も朝鮮人の人達が炭鉱で働いて居た。戦争で強制連行され過酷な労働をさせられたが、戦後母国に帰る事が出来ない人達が働いて居たので、子供たちが「朝鮮、朝鮮、馬鹿言うな」と囃し立てて差別をしていたのを幾度も見た。私の場合は亡くなった母がカトリックだったので、そのような行動を私たち兄妹に戒めていた。だが、一般の人達の中では差別が当たり前だった。だから彼女も子供の頃は差別でイジメにあって居たのであろう。
2013.08.23
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最初のデートは海岸での話で、時間が過ぎて終わってしまった。そのデートから、しばらくは昼食デートが続いた、そんなある日、彼女が私に「今日私の家まで送ってくれる」と言うのである。これは家族に合わせると言うことである、私は「いいよ」と返事をした。そして、仕事が終わり、彼女が私の職場に来て、彼女の家に行った。彼女の家は市内から、北の方角に向かった職場から四十分位の所ににあった。旧市街の雑踏を通り、乗合タクシーやモトコンチョ(50CCのバイク)などの、終点があり、屋台などが建ち並んでいて、人が溢れかえっている処で、庶民の匂いがし、私の住んでいる処とは、逆の感じがする所である。車も、これが車なのと思うボロ車が走り、私のような綺麗な車で走る時は、側によってほしくない車ばかりが走っているのである。私はこんな、雑踏の中を何回か走ったことがあるが、あまりこのような所は走りたくないと何時も思うのである。そこを過ぎ、いくつかの路地を通り抜けた所に彼女の家があった。彼女の父親は家具の飾り職人で、家の隣が仕事場であり、そこには木を削ったりする機械などが置いてあった。私が行った時は父親が居て、私を見ても普通に接してくれ、あまり、驚いた様子は無かった。今までの幾つかの家族は私を見ると、中国人がと怪訝な顔をするのである。 確かにドミニカに住んでいる中国人は、他民族と結婚や恋愛など、しないようである。私が住んでいた期間に、中国人が他の国の人と結婚したカップルは、一組だけしか知らない。それも、相手は日本人であった、ドミニカ人との結婚は聞いたことも見たことも無い。日本人は多くのドミニカ人と結婚しているが中国人は同国人と結婚するようである。また、中国人は二世,三世も中国語を流暢に話す、スペイン語も同じように話すのである。家庭内では中国語、家庭外ではスペイン語と使い分けているのであろう。また、民族意識が高いのか、中国人の交わりは強いようである。ドミニカ人は、東洋人を全部といってよいくらい、中国人と見ている、ある時少年に聞いたことがある、「日本は何処に在るか分かるか」と、そうしたら「中国の中にある」と答えが返ってきたのである。高等教育の受けている人は分かっているのであろうが、大部分のドミニカ人は、この程度である。これでは、日本がいくら援助しても、知らないに国が勝手にしているので、私たちには関係が無いとしか思わないであろう。現実はこれが真実である、私がやろうとしている事も何処まで認めてもらえるのかは分からないであろう。 話は脱線してしまったが、彼女の父親と挨拶を交わし、母親が仕事から戻ってくるまで、彼女の部屋で待つことになった、彼女の子供は女の子で、彼女と母親が仕事に行っている間は彼女の近所に住んでいる姉が見ているそうである。また、彼女の父親は酒が好きで、今は景気も悪く仕事が無いので酒びたりの生活が続いて身体を壊しているそうだ。家計は母親と彼女が助けているそうである。ここに、ドミニカの女性の強さを見ることが出来る、今まで見てきた家庭は母親が家庭を支えてきているか、女性が支えているかであった、女性の強さだけが目立つのが多かった。特に貧しい家庭はそうである、女性が働いたのでは、自から収入も限度がある。その為に貧しさから脱皮することは、難しいのである、それが現状であろう。でも、こちらの女性はよく働く、感心する。色々と話しているうちに、母親が帰って来てありきたりの挨拶を交わしてコーヒーを飲んでいると、母親が私の住んでいる処が見たいと言い出したのである。彼女の家からだと一時間くらいかかるであろうが、私は「いいですよ」と答えて行く事にした。彼女と母親と子供を乗せて、私はマンションへ戻ることにした、途中、お腹が空いたのでマクドナルドにより、ハンバーガーなどを買い、父親や姉家族のお土産などを持たせた。マンションについて、家の中を見て歩いた母親は、安心したのか、機嫌良く、色々話かけてきていた、私も気に入ってくれたので安心した。母親が帰るというので、送っていこうかと思い「送って行きます」と言うと、彼女が「夜は危険だから、タクシーで帰る」と言ったので、私はあの雑踏と暗い道を運転するのは嫌なので、タクシー代をアニーに渡した。彼女の名はアニーという、正式の名前はアナ・ロサ・マ、ズーロ・ハスミンである。最初の名前が自分ので、次が父親の、その次が母親の名前である。アナ、ロサは薔薇で、マ、ズーロは柔らかい、ハスミンはジャスミンとなる、花の名前である。通称はアニーで呼ばれているのである。父親はカリブの小さな島の出身で、母親はドミニカ出身である、確かに母親は黒人の体形でボーリュムがあるが、父親はこちらのインディオ系なのか日本人に似た体形である、アニーも、父親似で体形はスリムである。
2013.08.22
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次の女性は、私が10代後半の時に結婚まで考えた人である。その女性とは職場(アルバイト先)で、相手から交際を求められた女性であったが、私は自分の将来の為に勉強したかったので断ったのである。私たちの10代の頃で、女性から交際を求める事は珍しかった。彼女から公園で「付き合って」と言われた時、私は「自分は勉強したいので付き合えない」と答えたのである。そうすると彼女の目から大粒の涙が出て来て、私は戸惑ってしまい「友達としてなら」と答えていたのである。はっきり言って、私は母を早く亡くしているので、女性に対する対応が下手なのである。嫌、分からないのである。 私は中学の時も同じ施設の歳下の女の子から、付き合ってくれて言われた事があって、付き合った事があるが、その頃は中学生で話をするくらいで、プラトニックな付き合いである。自分が好きな子が居ても、自分から付き合って下さいとは言えない臆病な所があった。女性と付き合っても、何故か別な女の子が出て来て横恋慕され破局に成るパターンが殆どである。だが、横恋慕される女性は、私好みでなく、付き合っている女性の友達が多かった。(それほど持てては居なかったが) またある時は、私の男友達との仲を取り持とうとして、私が男友達の好きな女性に「友達と付き合ってやってくれ」と幾度か頼みに行って、その彼女に「あなたとなら付き合ってもいいよ」と言われ,男友達と気まずくなった事があったが、その彼女と付き合ったのであるが彼女の女友達から横恋慕が入り破局と言う事もあった。前にも書いたが、自分の好きなタイプには好かれない傾向があった。 今回の子は中学校を卒業して働き出した子で、幼さも残っており私と4歳くらい離れていたのである。その時の私は彼女から、好かれた事に喜びを感じていたのである。私は自分の容姿に自信も無かったので、なおさら喜びはあった。だが別な部分で勉強して自分の将来を切り開きたかったので女性と付き合う余裕が自分にはなかった。
2013.08.22
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何回目だか忘れたが、彼女と仕事が終わってからデートする事を約束した。その日は金曜日であったと思った。私は普通の日は三時半頃には、職場を去り日本事務所に寄ってから、自宅に戻るのが日課であったが、その日は彼女が、仕事が終わるまで、職場にいて時間をつぶした。私はワクワクしながら、時間の経つのを待っていた。職場の連中は、今日に限って何で私が残っているのか、訝しげに思ったであろう。職場の連中には、今日のデートは内緒であったから。私は時間つぶしに、庶務部門に言って話をしていた、ここは私が気晴らしに良く来る所で、例の執務室事件で一週間に親類を五人も殺した男がボスであった。また、例の問題の車を売った相手でもある。あの事件以来、私は彼と親しくなった、名前はホセである。ラテンではホセと言う名は、非常に多い、土産店の店長もそうだし、ナンドの友達も、ここのボスもである。そのホセは人がいいのである、私と良く話をする、また時々銀行などに行くときに、社会勉強だと言って、私を色んなところに連れて行ってくれる。銀行に行くときは、ホセは必ずピストルを腰のベルトに、無造作に差し込んで行く。他の所に行くときも車のダッシュボードにピストルを入れているのである。あるときホセが「お前もピストルを持ったほうがいいぞ」と言われた事がある。そのときホセは、口径の小さいのと、別にもう一丁ピストルを持っていたので、口径の小さいのを、私に安く売ってやると言うのである。私は断った、一度、派遣先の副局長とピストルを撃ちに行ったことがあるが、口径の大きいのから、小さいのまで色々撃ってみたが自分には合わないと思ったのである。それは、もし事件か何かで、私がピストルを取り出したら、恐怖心で簡単に引き金を引いてしまいそうだからである。こちらの人は、ピストルを持ち慣れているので、最後の最後まで我慢して撃つことが出来るであろうが、私は出来ないと思ったからである。ピストルに関しては、ドミニカで二回、突きつけられている、でもその時は、恐怖心はなかった。むしろ落ち着いていた、でも、今考えると、もし発射されていたら、この世には居ないであろう、あれだけの至近距離では助からなかったであろう。ピストル事件は二年目と三年目であった、一度目は前に書いたが、二度目は軍人であった。私のマンションの最上階に住んでいる軍人で私はその下の階の真下に部屋があった。あるとき上から、物が投げられて、窓ガラスが割れたのである、私は文句を言いに行ってドアをノックしたときに、ドアが開いて、そこには、マグナムの自動拳銃が構えられていたのである。私は「謝れ」と相手に言ったが、相手は何も言わないのである。そこへ、私と親しくしているマンションの警備の彼が来て、階段の下のほうで「やめろ、危険だから戻れ」としきりに言うのである。私は彼の忠告を聞き、引き下がったのである。後から聞いたのであるが、その彼は麻薬で逮捕されたそうである、もし、しつこく居たらどうなっていたであろう。その時も私は恐怖心が無かった、どうも鈍感なのか、いざというと度胸が座るのか、あまり恐怖を感じなかったのである。 さて、ピストル事件はさておき、彼女との最初のデートであるが(昼食デートは数回あるが)車で海岸に出て眺めのよい所に、車を止めて色々話したのである。私は疑問に思っていた結婚について聞いてみた、彼女の答えは「結婚していた」である、今は別れている、そして子供も居るとの事である。また、驚いたのは彼女の年齢である、どう見ても十八歳から二十二歳くらいであるが、「二十九歳なの」と言うのである。それと、子供もいるし、母親が看護婦やっているので、家事をしなければならないので、家に帰らなければ、ならないのだと言うので私は納得した。それと、私とデートするなんてことは、家族には言っていないだろうし、ましては東洋人と、付き合っているなんて言えないであろう。子供は、今日は姉に預けて来たそうだ。此方では、家族に合わせて、始めて交際を認めることに成るのである。今まで付き合った女性は、必ず家族に私を合わせた、それと写真をくれるのである。これには何か意味があるのか、聞いた事は無いが、いつでも貴方の側に居るよとゆう事と私は解釈している。それはいつでも写真を肌身離さず、持っていてよという意味と思ったからである。
2013.08.21
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私は鑑別所に審判が下りるまで入れられた。家庭裁判所で審判が決まる時に、私自ら「施設でも少年院でも入れてくれ」と言っていた。それは母を殺した父の傍に居たくないと言う気持ちが言い出したのである。そこには父の暴力から解放されたいと思う、気持ちが強かった。結果的に私は、一番低い判決で養護施設に入る事になった。養護施設は私のような悪と親の都合で施設に入る子が半々であった。だが、子供間の中で、それなりのグループ化され、どうしても力関係で悪グループが台頭する事になるが、私は一線を画していたので悪グループの標的にされた事が幾度もあったが、それには屈しなかった。 施設に入った私は、 父から解放された安堵感からか、学校の成績もトップクラスにいた。私の通っていた中学校はクラスと学年全体でも、成績が貼り出されていたので、成績が分かるので、その中に必ずトップクラスの中に居た。施設は一般の中学校に通う、私は学校でも施設でも優等生であったと思う。学校でも学級委員を3年間選挙で選ばれ、施設でも会長をやって居たので町内会の幾つかの子供会の集まりの会長をやるほどであったが、「施設の子」と言うレッテルは剥がされなかった。学級委員も成績が良かったからであり、他の施設の子のようであれば学級委員にも成れなかっただろうし、施設からの子供で初めての学級委員であった。町内会の子供会総合の会長になった時も、周りから「施設の子」と囁かれたが、私と同じクラスの子も他の町内子供会の委員だったので、その子が「クラスでも信頼があるから」と言ってくれて、大人たちも納得して会長と成ったのであるが、中学校を卒業するまで「施設の子」のレッテルは剥がされる事はなかった。成績が優秀でも一般の人達から見ると「施設の子」と言う偏見はある。これは如何しようも無い事である。ただ、その偏見が私の人生の中で、人を見る場合、偏見と言うものは消え去る事が出来た部分が大きかった。
2013.08.21
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その日は職場の、みんなと昼食を取り、明日彼女と昼食を取る約束をした。私は、どのような事を話したら良いのかOndoriたちに聞いた。みんなは「好きなこと話てればいいのだよ」との答えしか返ってこなかった。私は日本に居た時から、好きな女性の前に行くと、あがってしまい、何を話してよいか分からなくなるのである。それで、幾度か気持ちを相手に伝えられなくて、失敗した事があった。ただ、ここはドミニカである、おまけにスペイン語ときたものだ、恋の告白をラテン調でやりたいものであるが、如何せんスペイン語も最近なれて会話が出来る状態になったばかりである。後は度胸のみで、ぶつかるしかないと決めて彼女を誘った。彼女は小柄で綺麗な顔立ちをしていた、見た目十八歳と言っても判らないくらいであった。私たちも二十二歳くらいと、思っていたのである。ドミニカでは年齢差は、関係なく恋愛する、日本のように年齢が離れていると「犯罪だ」なんて騒いだりしない。最近の日本は、あまり言わなくなったが、それでも、年齢層の高い人は、そう感じるようだ。ドミニカは、五十歳の男性が、十六歳の女性と恋愛しても「そうなの」で終わってしまう。だから、男性は複数の恋人を持っていても年齢が幅広く、自分の子供と同じくらいの恋人も普通である。さて昼食の件であるが、私はいつも行くレストランは避けて、海岸通りのみんなが行かないレストランを選んだ。このレストランは海岸に面していて、品数も豊富で少々高いがドミニカ人に人気のあるレストランでであった。店は店内以外に道路に面したオープンテーブルもあり、なかなか洒落たレストランである。私たちは道路に面したテーブルに決め、食事を決めに調理カウンターに行った。此方のドミニカ風レストランは、セルフサービスで調理場のあるところにカウンターがあって品物が見え、好みで注文するのである。私は好んで食べる、モンドンゴ(豚の腸の煮込み)とサラダ、スペアリブ、アビチョエラ(豆の煮込みスープ)を頼んだ。彼女はサラダとアビチョエラ、スペアリブを頼んで、食事をした。話は取り留めの無い、家族は何人、兄弟はとか、仕事は何をしているの、などで終わった最初にしては、自分ではまずまずであったと思っていたが、職場に帰ると、みなさんの意見は「もうディスコに誘ったか」とか、「夜のデートに誘った」かとか、言っているのである。私からすれば、そんなの段階を踏めばいいと思うのであるが、こちらの人は単刀直入に言うので、歯がゆく感じるのであろう。たしかに、街で女の子に声を掛けるドミニカの男性は「ディスコに行って、一夜をともにしない」とかを平気で言うし、もっと凄いのは「俺とベットをともに」なんて言う奴もいるのである、見ず知らずの女性に対してである。日本みたく「お茶しない」なんて事は、ほとんど言わない。また、こちらで驚くのは、私から言わせると餓鬼である少年が、同じ事を言って女性を誘うのである。 彼女とは、それから数回、昼食デートが続いた、何回目だか忘れたが、「仕事が終わったらデートしよう」と誘ったら、彼女が「私は家でやらなければならない事があるので夜は、あまり出かけられない」と言ったので私は彼女、結婚しているのかなと思ったのである。此方では、結婚しているという言い方に、二種類ある、正式に教会で結婚式を挙げ、婚姻届を提出した場合と、同棲していても結婚していると言う。同棲の場合は、お金が無くて結婚式も挙げられず、婚姻届も出さないのである。この婚姻届に最大の問題が、あることが後で分かった、それは後ほど。
2013.08.20
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そんな私を見て、父は「おばさん」と別れて札幌に出ると決めた。その時に父の言った言葉は「お前の為に彼女と別れる事になった」と言ったのである。その時の私は、母の亡くなった土地から去る事の悲しさと、可愛がってくれた祖母に申し訳ない気持ちもあったが、自分の中に生きている母を大切に思う気持ちから、「おばさん」と暮らす事は、嫌であったので複雑な気持であった。父は母の位牌を祖母に預けて、夕張の地を離れた。その頃の夕張は石炭の最盛期も終わり近づいていた。 札幌に移り住んだ私は、新聞配達をやりながら学校に通った。家計の足しになればと思い、朝夕刊の配達や勧誘を行った。だが、それも短期間であった。 またもや別な女性が家に入って来た。それも私との歳の差があまりない人であった。私は中学生に成っていたので、父兄会に、その女性が来ると周りの生徒たちが、「お前の姉さんか?」と言う位の年代であった。私は返答に困って、何も答えなかった。その頃でも私の中には亡き母の面影しかないし、その女性を母とは呼べなかった。(弟妹たちは「かあさん」と呼んでいたが私は「おばさん」としか呼ばなかった)その女性は悪い人ではなかったし、私達兄妹に尽くしてくれたが私は頑なに心を開かなかった。そして父に対して反抗を繰り返すようになって行った。家出を繰り返し、食べる為に盗みもした。ある時は函館まで行って、本州に渡ろうとして青函連絡船で捕まった事があり、札幌までの護送中に急行列車の便所の窓から逃走しようとして飛び降りた。飛び降りた場所は列車が一番スピードを上げる場所で私は飛び降りた途端に風速で気を失い、後の事は覚えていなかった。気が付いた時は病室に居たのである。その時の傷が今でも頭にある。頭を30針縫うほどであり、前歯も欠けてしまっていた。誰もが列車に、よく巻き込まれなかったと言っていたくらいであったし新聞にも載るほどであったので、助かったのは奇跡的だったのかも知れない。だが私は抜糸もしないで、病院から抜け出していた。それは父の暴力が怖かったからなのである。家に戻ったたら、自分でも死ぬのでは無いかと思う位の折檻が待っている恐怖が先に立ち、逃げ出していたのである。だが、それも長くは続かなかった。警察に捕まり、家に戻されたが、父からの折檻はなかったが私は反抗して、またもや家出を行い警察に捕まり、家に帰されたがそこには死に近い折檻が待っていた。バットで殴られ自分は死ぬのではないかと思う位の状態で父に警察に連れて行かれた。その時に警察官が言った「良く死ななかった」と言う言葉が私に注がれた。私は父から離れられた安堵感と、暴力の恐怖心から解放された気持ちになっていた。
2013.08.20
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ある日、四人で例のレストランに行くと、綺麗な彼女が友達と食事をしていた。我々は食事をしながら、彼女の話題になり職員のOndori(オンドリー)が彼女に声を掛けろと言うのである。私は、そんな度胸がないと言うと、「分かった」と言って、紙ナプキンに「電話番号を教えて下さい」と書いて彼女に渡して、私からだと言ったのである。私は顔から火が出る状態であったが、彼女は私たちが話題にしている事を気が付いていたのであろう、私の方も見て軽く会釈をしたのである。私も会釈をした、Ondoriは彼女に「彼は日本人だ、いいやつだ」と説明していた。その日は、それで終わったのであるが、次の日、私たちが、レストランに行くと彼女は居なかった。がっかりしていると、彼女が入ってきたのである、私は会釈をすると、彼女も会釈をした「やった」と心の中で呟いていた、今日はいつもの友達と一緒でなく、一人である。皆はチャンスだと嗾けるのである。私も、度胸を決めて彼女に話し掛けて、電話番号と名前を聞いたのである。彼女はメモに電話番号と名前を書いてくれた。私は小躍りしたいくらいであった。 私もドミニカ人化したなと感じたし、みんなも感じたようである。それからは休憩時間の間、彼女の話で持ち切りであった。昼の休憩が終わっても、派遣先の、他の部門の連中が来ると、私がナンパした事が話題になった、女性の間でも話題になっていた。さて、電話番号をゲットしたので、退社時間が近くなった頃に、皆が電話をかけろというのである、確認のためにも。私は度胸を決めて電話したのである、彼女の書いてくれた電話番号は、彼女の勤めている病院のであった。私は彼女の書いてくれたメモの名前を言って彼女をお願いしますと言うと、相手の返事は「そんな人いません」と返ってきたのである。私は、やられたと思ったが、再度問い合わせると、相手が「アニ~て言うの、ほんとは」と返ってきたのである。相手は警戒して偽名を書いたのである、本当に電話をかけてよこすか、試したのかもしれない。私は、また騙されたかと一瞬思ったが、その考えは消えた。私は「電話しただけ」と言って、電話を切った。さて、それからが、どのようにすべきか分からないのである。職場の人たちは色々アドバイスしてくれるがこの様なことに慣れてない私には、戸惑うばかりである。みんなは「明日も電話しろ、そして昼食に誘え」と言うが、誘ってどのよう事を、話をすればいいのかも分からない状態である。みんなに乗せられて、行動したが、後の事など考えてもいなかったのである。ましてや日本でもやったこと無い、ナンパであるし、どちらかと言えば女性に対してドン臭い男であるから、相手にどのような事をしてあげれば、喜ぶのか全くもって分からなかったのである。その日は、それで終わり、翌日仕事に出るとみんなが今日はどうするのだと囃し立てるのある。職場の食堂のおばちゃんまでが、「ナンパしたのだって、やるね、もうドミニカ人だね」と言うのである。その、おばちゃんとは、私も良く話をするのであるが、副局長までが知っていたのには参ってしまった。もう、職場内で知らない人がいない状態である、局長の秘書までもが、私の顔を見て、ニヤッと笑うのである。これには、さすがの私も参ってしまった。半日で職場内には、日本人がドミニカの女性をナンパしたと言う情報が流れてしまったのである。これほど、情報が早く流れるとは思わなかったし、私もここではドミニカ人として扱って貰っているのか、変な日本人と、思われているのか、分からなかった。でも、行動に移した以上は責任を持たなければと(これは自己満足の世界であるが)思っていた。私は行動に移した、早速、彼女に電話をして「今度、昼食でもどうですか」と言って見ると彼女からの返事はOKであった。
2013.08.19
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母が亡くなってから半年ほど経った時に、近所に住んでいた女性と、父が付き合うようになった。彼女には二人の子供が居た。私達兄妹より年上の兄弟であった。私は母を思う気持ちから、父が別の女性と付き合う事も理解出来なかった。子供であったから、なおさら母の死から間もなく、女性が我が家に入って来て、父に「お母さん」と呼べと言われても、私は納得が行かなかった。だから私は「おばさん」としか呼ばなかったし、なつきもしなかった。その返礼が私に対して用事を言いつける。特に夕張は坂道が多い、山の中に家々が建っているのであるからどうしても山の中腹などを平地にして家(長屋)を建てていた。だから水道も一か所しか無く、そこまで汲みに行かなければならない今の途上国で水汲み行って居るように、同じように時間をかけて汲みに行くのであるが、「おばさん」は、それを私にさせて、自分の子供には一切させなかったし、冬の石炭運びも私の仕事であった。坂道を20分登る重労働である。石炭運びはモッコに石炭を入れて、それを背負って坂道を登るのである。それを20回以上行う、水汲みも天秤棒にバケツを引掛けて数回往復する。それも5回位往復するが、バケツに入る水は、今のオイル缶くらいで、それを2個のバケツを一杯にして、天秤棒で担ぐのであるが、子供の私には両肩に掛る負担はずっしりと重たく感じたし、冬の寒い時期は水が跳ねて自分に掛るので冷たく泣きたくなった。その時に私が思ったのは、自分より年上の子供にさせないで、何故に自分なのかと、私の兄妹は小さいから分かるが、自分より3歳以上、上の子供には、それをさせなかった。 その頃の私は小柄であったが、そのような事をさせられたので力はあったように思う。 もし実母が私に、それを言いつけているなら、私は母の為に喜んでやったであろう。だが、私の中では母は亡くなった母だけであり、他人を受け入れる余裕などなかったし、母の死に形に対して父に反発していたので反抗心だけしかなかったが、私が反発すると「おばさん」が父に言う、その見返りが父の折檻であった。私は家出を繰り返したし、父に対して抵抗は止めなかった。
2013.08.19
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I氏も帰国して、また、仕事も例の大学とのオンライン化を進めるために、機種の選定などと忙しくなってきた。機種とデータベースの選定は、私の担当であり、ドミニカで使用しているもので、メンテナンスがしっかりしている会社の物を基準にした。三社くらいに絞り込んでいった、営業は日本と同じで、各社担当が、毎日のように派遣先に来ていた。日本と違うところは、販売利益の60%近くが営業担当の給料になるのだそうだ。一度、販売会社を訪問した事があるが、社長と、営業マンが同等の口の利き方をしているのである、共同経営者みたいな感じに受け取れた。私の付き合っていた、彼女の会社も対象になっていたが、機種が小さいのしかないとゆう難点があった。また、派遣先の職員もデータベースに関する知識が低いので、講習会などに行かせる事にした。私は毎年、派遣先の職員をシステムのランクごとに、日本に研修に行かせていた。この三年で六人を日本の研修に、行かせていた。それなりに三ヶ月から六ヶ月の研修で、レベル的にも向上していた。ただ、日本とゆう先進国へ行って研修を受けた事によって、ドミニカ人は、次の就職に有利になる。ある、プロジェクトのドミニカ人が、日本で研修を受け、大学の先生になったと言う話も、あるくらいで、皆行きたがるが、日本の年間の予算等で、人数が制限されていた。それも、派遣先の職員が、私に接近する一つの餌だったのかも知れない。 私も派遣先の部門の職員とも仲良くなり、一緒に昼食を食べに食堂に行ったりしていた。派遣先の近所には食堂(レストラン)が十軒近くあった。いいところは、大統領も来る有名レストランもあり、料金もかなり高いところであったが私は二、三度行った事がある、自腹では行ってない。少々高すぎるのと、格式が高いので、私みたいな、屋台の豚の内臓を揚げたものを朝食で食べる、人間が行くところではなかった。一度は、派遣先の招待で日本事務所の職員と二度目は無償資金援助の調査団が来たとき、三度目は私が帰国する前に、派遣先が日本事務所と大使館員と、私たち部門の全員とである。料理は、私は美味しいと感じていなかった、私の味覚は、先に書いた庶民の味を好んで食べるので当てにはならないが。このレストランは、私の派遣されている所とは、目と鼻の先であり、国会議事堂とも、近かったので、国賓も来る事があった、そんな時は、警備がものものしく、大変であった。それと、私の派遣されている事務所は、コロンブスの甥が住んでいた所を事務所として使用していたので、周りも静かであった。 私たちの行くところは、一般の人たちが利用するところで、ドミニカ料理ばかりである。そこで、毎日一人の綺麗な女の子が、食べに来ていた。派遣先の男性も、綺麗な子だと言って騒いでいた。私も綺麗な子だと思った。彼女は黒人系でも色が黒い方であったが、顔立ちが整っていて美人であった。近くの大きな病院の医者の秘書をやっているそうだ。さて、それからは、私たちは、その食堂に通う事が多くなった。彼女も私たちの目を意識しているようなのであるが、なかなか、こちらから話し掛けるきっかけが掴めない状態が続いた。私たちは昼食が終わると、木陰で話をしていた、そんな時も、皆は「あの彼女どうだ」と私を嗾け、話題にしていたが、他の女性が通ると、みんなは「遊びに行かないか」と声を掛けるのである。女性も慣れたもので、上手くあしらっていた「今度ね」何て言ったりしていたが、私が職員の一人に「彼女と付き合ったのか?」と聞くと、「付き合った」と返事が返ってきた。女性もなかなかのツワモノらしいのである。そんな冗談を言ったりしていた。
2013.08.18
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私は母を父が殺したと思った。それからの自分は、父に対する不信感と憎しみだけが心の中に残った。だが、小学校の6年生では何も出来ない。ましてや、すぐに手を挙げる父に対しては恐怖感が先に出てしまう。だが私は父に対する母への行動は許す事は出来なかった。私は父の顔を見たくないので、家出を繰り返した。11歳の子供が家出をする事によって、父に対する抵抗を行ったのである。(私は早生まれなので満で11歳であった)私は母を尊敬していたし、本当に愛していた、何時も私は母の傍から離れない事が多かったと思う。 函館での思い出もあった、私は2~3歳くらいの時に夜、雷が鳴り母と一緒に寝ていた私に対して、母が「雷に、おへそ取られるぞ」と脅して、私が母の胸にしがみついて行った記憶が、今でもはっきり覚えている。また、母と函館の元町カトリック教会に日曜日ごとに行っていた事も覚えている。 それに対して父との思い出は無い。そんな私であったから、母の死は私にとって大きなショックであった。だが、如何せん11歳の少年が出来る事は限られていた。ましてや厳しく暴力的な父に対しては、恐怖感しか無かったのであるから私の出来る抵抗は家出しかなかった。 だが食べる事のすべを知らない私は、祖母の家に行ったりしていたが連れ戻されて、折檻を受け身体中痣だらけ状態に成ったが、私は家出を繰り返した。家出を繰り返すうちに、子供ながらも知恵が付き、食べる方法を探すようになって来た。私の子供の頃は、商店など鍵などは、今ほど頑丈で無かったし食べ物を盗む事が出来たが、子供の知恵では、すぐに捕まってしまう。捕まって父の元へ返されると折檻が待っていた。それは今考えても物凄いものであった。北海道は石炭ストーブを冬には使う。その石炭の燃えカスを引っ掻き回す鉄の棒(デレキ)で殴られるのである。子供の私は恐怖だけであった。だが私は、抵抗は止めなかった。それが自分にできる最後の抵抗であり、母を思う気持ちの表れであったから止めなかったし、最後まで抵抗した
2013.08.18
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三年目の夏に、日本語学校の恒例の盆踊り大会が行われた。私はベルキーを連れて盆踊り大会に行った、いつもは一人で参加するのであるが、ベルキーが、盆踊りを見てみたいと言うので、連れて来たのである。盆踊りも終盤になると、恒例のメレンゲやサルサが踊られる。私も最初はおとなしく、櫓の下で踊っていたのである、後半になると主催者の要望で櫓の上でベルキーと踊る羽目になった、それも私達一組だけである。私達の踊りを見た、日本から来ている専門家は「彼は、こちらの二世か」と言うほど踊りが、様になっていたようだ。だが、この時も、またしても大使の奥さんを引っ張り出してしまったのである。懲りもせず、またやってしまった、酔っている事もあったが、ラテン化した私は、後先を考えずに行動を起こしていたのである。それでも、大使の奥さんは素直に踊ってくれた、調子に乗った私は、大使も引っ張り出したのである。私は、踊りに関しては、メレンゲはマスターしていたので、サルサをマスターしようとしたが出来なかった。サルサはメレンゲより華麗であり、スマートである。メレンゲは土くさいが、サルサは優雅さが見えるので、覚えたいと思ったが、出来なかった。幾度かディスコで女性に手ほどきを受けたが、上手く踊れなかった。ベルキーもサルサは踊らなかった、自分でも踊れないと言っていた。踊りに関してはドミニカ化した私であるが、次はナンパである。ナンパ出来るか、出来ないかでドミニカ人化したか、分かるであろう。こちらの人達のナンパは、日本では考えられないのである。大人から子どもまでが、ナンパする。ナンパという言葉が悪けりゃ、挨拶なのであろう。十一、二の靴磨きの少年も、身体の線がはっきりと見える、女性を見ると声を掛けるのである。「彼女、遊びにいかないか」と言うと、相手は「貴方が大きくなったらね」とあしらうのである。これが普通なのであるから驚く。日本人が挨拶するような感じで、そのような言葉が飛び交う、これはナンパではなく挨拶としか感じない。私は、このナンパとも言えない、挨拶に関しては、なかなかドミニカ化できなかった。だが、それもやることになってしまった。
2013.08.17
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私たち家族が、函館から夕張に来た事情は、父も母も話してくれなかったので、私には分からなかったが、最初は夕張の街中で喫茶店をやって居た。私が4~5歳頃であるから、ハイカラであったと思う。ましてや北海道の夕張で戦後から5~6年経った頃であるから喫茶店などハイカラと言えるのではないかと思う。お客は夕張では上流階級の人達が多かった。喫茶店は繁盛していたように思うが、それが突然に消えた。父はコーヒーの豆にはうるさく、自分の気に入らないのは廃棄するほど、凝り性であったから、味は良かったようである。 父は東京の大学で勉強していたと聞いたので、意外とハイカラであり、確かにおしゃれであったし、中々の美男子であった。また、学生時代に小説を書いて賞を貰ったと聞いた事はある。 だが、父は理屈ぽい人で、自分が間違っていても中々認めないで手が先に出て来る人であった。だから母の身体は痣だらけの事が多かったし、私が折檻を受けると母が私を庇うと、今度は母が殴られていた事が、私には苦痛であった。母は私を庇って幾度も父に殴られていた。そんな光景は、子供は見たくないし悲しい思いに成るのと同時に母を庇えない自分が歯痒く感じてしまうのである。 母は祖母の元に逃げ帰った事も幾度もある。そんな時は私が迎えに行く事が殆どであった。それは私が母にも祖母にも可愛がられていたので、適任だったのであろう。確かに祖母は私を可愛がった、初孫だったからなのかもしれないが可愛がってくれた。私も祖母の家に居る時は、心が休まったように思った。私が迎えに行った時に、一度だけ母が言った言葉を、今でも思い出す。「お前たちが居るから、私は我慢している」とそれを聞いた時に、私は母を守りたいと思った。だが、私は守る事が出来なかったし、母の死に際にも行かせて貰えなかった。母は大量出血で病院に運ばれた時に、私は「母の所に行きたい」と言ったのであるが、祖母にも父にも止められた。何故に止められたのか分からない。私は母の死に顔も見ていない。周りの人達も見せてくれなかった。私は母が大好きであった、私達に食べさせるため一生懸命働き、自分が食べなくても、私達兄妹には食べさせてくれた。そんな母の姿を見ていた私は、早く大人になって母に孝行したいと思った。だが私が小学校の6年生になったばかりの5月に母は亡くなった。
2013.08.17
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私の今まで通って来た生き方を振り返って見た。そこには二人の女性の存在がある事が否めないのである。私は女々しいのかも知れない。その二人の女性の存在が、今でも何故、心の中から消えないのかは、自分でも分からない。 一人目は母である。母は私が小学校6年生の時に亡くなった。その死に方は、私にとって衝撃的であった。父の暴力によって母は亡くなったのである。母は、その時妊娠していたのであるが、お腹の子供も一緒に亡くなった。 その頃の私たちの家族は、母が働いて家計を支えていた。戦後間もない頃であったので、女性の働く場所は限られていた。母の働いて居た場所は、昭和時代のキャバレーであった。父は身体が弱かったのかは、私には疑問であったが、父は小説を書く事に専念していた。小説が売れた事はなかったし、小説で家に収入が入る事はなかった。だから母が働いて家を支えていたのである。 父は、酒は飲まなかったが、暴力が凄かった。私には長男と言う事で躾も厳しく、父の暴力に恐怖を感じていた。その暴力は母にも注がれていたし、父の気に食わない事があればすぐに手が飛んで来た。その頃の私は父の顔色を窺って、家では生きた心地がしなかったと言っても過言ではない。子供の私は父の厳しさだけで、恐怖心が先に立ち萎縮して居たのである。確かに躾は大切であるが、その罰として暴力がある事は、子供としては,親の顔色ばかりを窺い、何も出来ない状態に成ってしまう。 その反面、母はお人好しで、人に好かれるタイプであった。私から見ても馬鹿が付くほど、お人好しであり、自分の家に食料が無くなるのに、他人が食料を借りに来ると貸してやるほどでそれで父と喧嘩にもなったりしていた。 母は函館の旅館の娘で、白百合女学校を出てクリスチャンになっていた。私も幼児洗礼を受けているのであるが、母は良い所のお嬢さん育ちなので料理は下手であった。母の料理で思い出すのは、チラシ寿司だけである。昔で言う嫁入りの為の手習いはしていなかったのであろう。何か祭りごとがあれば、必ずと言って良いくらいチラシ寿司が出て来た。味は今一であったように記憶している。 父と母は年齢も離れていたようだ、私が父35歳の時の子供であり母が亡くなったのは36歳の時であるから、9歳くらい離れていたと思う。 父が働かなかったので、家は貧しかった。だから母が働き、冬は石炭拾いをした後に、働きに出ていた。そんな母を見ていて、私は私が小学校2年位で母と一緒に石炭拾いに行って、母の助けに成ればと思っていた。石炭拾いは、私達家族は函館から母方の親を頼って夕張に来ていたからで、祖母も早くに祖父を亡くして再婚していた。再婚した相手が酒好きで、祖母が経営していた旅館を手放すくらいの酒好きで、それで夕張に来たのである。 その頃の夕張は石炭の最盛期で景気も良かった。だが私の家は貧しく、厳しい寒さの夕張の冬は、暖を取らなければ凍え死にそうな状況であったので、母は私たちの為に石炭拾いをやって私達兄妹の為にズリ山に石炭を拾いに行っていたのである。ズリ山は石炭と岩石を選別した残りを捨てて出来上がったもので山のようになっているので、私たちはズリ山と呼んでいた。選別した物が捨てられる中に、石炭が混ざっているのを拾って南京袋に入れてそれを運んでくるのであるが、石炭を選別する時に水を使うので、冬の石炭拾いは指の先が、感覚が無くなるほどで、方言で悴むと言っていた。(悴むとは、手の先が、感覚がなくなるほど、冷え切ってしまう事を言う)それを母は私たちの為に我慢してやって居た。そんな母を見ていた私は、小学校4年生頃から一人で石炭拾いに行くようになった。それは母に喜んで貰いたかったし、少しでも母の助けに成ればと言う気持ちからであった。冬のズリ山は雪と水で手の先が悴み、手の感覚が無くなるのであるが、ある程度拾ってソリに乗せて1時間ほど歩いて運んできた。でも私は母が喜んでくれる顔が見られるので、苦ではなかった。むしろ母の、手助けが出来ていると言う気持ちが強かった。
2013.08.16
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また、ドミニカの紙幣は汚く、匂いがするこれは紙幣をポケットに直接入れるので、この国の暑さで汗をかき、その汗が紙幣に染みているのである。特に5,10・20・30・50・100ペソの紙幣は汚く、匂いがする。 I氏は財布代わりにスーパーの袋を使っていた、臭いからである。彼はレストランで支払うときも、その袋から出していた。 I氏の帰国も後二ヶ月近くになった頃は、彼とドミニカ周りをして歩いた、北から南までを休みの日は回って歩いた、彼の帰国挨拶の為でもあったが、色々な所ヘ行った。あるときは泊り込みで行ったりもした、何処へ行っても、彼の顔の広さには感心した。彼も帰る2週間前には、アパートを引き払うとのことで、私が迎えに行く事にした。こちらでの仕事は週休2日なので、土曜日に行き、彼のアパートに泊まり、日曜日にサント・ドミンゴにつく事にした。サント・ドミンゴでは、相変わらず夜は、二人で吊んで、遊び歩いた。彼は例のごとく,アパルタ・ホテルに泊まり私が迎えに行って、ディスコとカジノを歩き回った。 彼も帰国して、私は、夜の遊びは一人で行くようになった。平均して毎日、ディスコ通いの日々であった、旧市街は危険な地域である事は変わりないが私は危険に対して鼻が利くのか、要領がいいのか、危険な目にはあったことがない。車をディスコに、横付けして、警備のドミニカ人に10ペソぐらい、握らせ、「私の車をよろしく」と頼むのである。毎日のように来る東洋人であるから、相手の警備の男とも、顔見知りになり、心得たもので、車のチェックをしていてくれた。綺麗な車を横付けするのは、私くらいでドミニカ人はタクシーか乗合タクシーなどを使ってきていた。私も時々はタクシーで行く時があったが、そのときは電話をして、マンションまで、来てもらった。料金は、その時に交渉するが、クーラ-を使用すると割増になるのである。タクシー会社も十社以上あり、ランクがついていたし、車の綺麗なものを選んだりすると高くなる。また、向かいがスーパーなので、荷物などが沢山ある人は、タクシーを使用するので、数台が客待ちをしていた、そんな、タクシーの運転手と仲良くなると融通がきく。私もタクシーを使うときは、だいたい同じタクシーを使う事が多かった。ディスコでは、Velqei(ベルキー)と言う女性と良く踊った。踊りも息が合った、彼女とは毎日のように踊っていたような気がする。彼女と踊ると、セクシーに踊れて、周りのドミニカ人も私たちに注目し、たまには「踊りうまいな、中国人」と声をかけてくれる人もいた。だが、ディスコで中国人が踊っているのを、私は見たことがない、東洋人は私一人であった。だいたいのドミニカ人は、私の事を、メレンゲ踊る、変な東洋人と思っていたであろう。また、ベルキーからも、夜になると電話が掛かってきて、踊りの誘いがあった。彼女は暗い感じで、あまり話をする子ではなかった、ディスコでも一人孤立していたようである、一人か二人の女の子とは話をしていたが、殆んど一人で座っていた。私がたまに、他の女の子と踊ると、睨みつけるベルキーがいた。彼女は親と離れて一人で生活していた、ディスコは男性と寝る以外は、男性が飲んだビールの数によって、歩合が貰えるシステムであった。私は、酒は強くないが、ベルキーに貢献する為に、ビールを10本位を頼のんでいた。また、踊ると汗が出て、酒が抜けてしまうので、飲んでもあまり酔うことは無かった。
2013.08.15
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生活もなれ、言葉もある程度分かる様になってきた、私のスペイン語は、覚えるために、誰とでも話をしていた、聴いて慣れろと思っていたので、路上屋台で物を売っている人や靴磨きの少年、花屋のおばさんなど、誰かれかまわず話をしていたので、文法的には駄目なスペイン語である。彼達の話すスペイン語は、最初の頃は早くて聞き取れない事が多かったが、今は大丈夫である。 私は花が好きで、よく部屋に花を買って置いていた、部屋とダイニングなどに置く花を向かいのスーパーの路上で売っている、おばさんのところに行って買っていた。花の種類は多かった、私は鉢植えの蘭を好んで買っていたのである。私は必ず値切り交渉をしていた、最初の頃は毎回値切るので、おばさんも、いい顔をしなかった。又来たなという感じで対応していたが、常連になった頃は、馬鹿話をするようになっていた。でも、何回行っても、私は中国人に見られていた。 私は、あるとき「何回来ても、なぜに中国人なのだ」と聞いたことがある、答えは「東洋人は、みな同じに見える」と言うのである。私は半分納得した、確かに我々日本人も韓国や中国の人の見分けがつかない事が多い、それなのに、ドミニカ人はなおさらのこと、見分ける事は出来ないであろうと思った。また、私たちがアフリカの国の人を、何処の国の人と見分ける事が、出来ないのと同じなのである。あとの半分は、何回も行って、日本人だと説明しているのに「Chino」なのかが、わからない。 また、ドミニカ人は中国人を嫌う人が多い、必ず彼達の口から出る中国人批判は「Duro」、または「Tacano」である、これはスペイン語で「固い」とか「けち」を意味する。ドミニカ人が中国人を示すときは、左の手のひらを、右の肘にあてる。これは、ケチを示している、確かに中国人は金儲けが上手いし、値切り方もうまい。花屋のおばさんも私が毎回値切るので、中国人と思ったのかも知れない。 あるときNandoの店で中国人が買い物をしていたときに、見た光景であるが、対応していたのはJhoseである。Jhoseは自分も認めるケチある、前にも書いたが、Jhoseの仕入れ方は、徹底的に叩いて買う、私はこの店には毎日のように寄っていたので、Jhoseが値札に仕入れ金額を、暗号化して書いてあるのを知っていた。 その価格は仕入れ価格の三倍以上の物がほとんどである。店にいた中国人は、色々物色して、八品目くらい購入しようとして、値下げ交渉にJhoseと入ったのである。値段も決まり、支払いの段階になって財布から、お金を出して支払い始めたのであるがお金が足りないのである。そこで、また交渉が始まった、品物は包装してしまっているのでJhoseはあきらめて中国人が持っている金額だけを受取り、しぶしぶ品物を渡していた。完全に中国人の戦略的勝利である。こちらの人は、お金を分散して持って歩くのである、スリや恐喝などに対処するために三箇所以上にお金を入れとくのである、特に、すられ易い財布には、大金は入れない、最小金額を入れるのである。だから、中国人も財布以外に持ち金があるはずなのだが、ないから、まけろといって、まけさせたのである、上手いやり方である。このように中国人は金の使い方も上手い、また、ドミニカで貴金属とかスーパー、カジノをやっているのも中国人が多い、働いているドミニカ人に支払う金額も少ないと言っていた。値切り交渉に負けたJhoseの悔しがりかたは、半端でなかった。Jhoseも言っていたが、日本人が一番商売になるとの事である、値切る事もあまりしないし数も沢山買って行く、メキシコの観光地では、日本人の団体が来る情報が入ると、今まで販売していた値札の倍の金額で、新しい値札を付けて売るそうである。そこで、少しでも金額を引いてやると、日本人は喜んで買うそうなのであると聞いた事がある。たしかに気分的に安く買ったつもりになるであろう、特に値切らない日本人にとっては、嬉しく感じるのだと思う。
2013.08.08
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今回、麻生副総理のヒトラーに関する発言で問題に成っているが私は自民党が憲法改正発言の時から、感じていたのであるが戦前の日本に戻っているように思っていた。安倍総理の国防軍発言や憲法改正に対して、3分2から半数での賛成で改正出来るようにすると言ったりしている時から、何か分からないが日本が戦争に突入していった頃に似てきた感じがする。 今は中国や韓国との緊張感があり、そこに北朝鮮等と問題は山積みであるがそこで国防軍発言が出ていたのであろうが、確かに仮定の話であるが、中国が尖閣諸島に武力で入ってきた場合、今の自衛隊が守る事には成るであろう。はっきり言ってアメリカ軍が先頭に立ってはくれない。自分の母国で無い国の為に先頭に立てないし、日本国内の問題である以上、日本が守らなければ成らない事は確かなので、安倍総理の国防軍と言う発言は分からなくは無いが、それ以外で憲法を改正する事に関しては多数の議席を持った自民党が強行に事を進めると、そこには国民の声は反映されないであろう。 安倍総理は国民に問うと言うが、今までの政策に於いても国民が理解出来て実行した法案は少ない。 だが日本は戦争を放棄した憲法によって、これまでの繁栄をして来た。確かに国家と言う存在は、自国は国民が守る事が前提であろう。だが、今の政権は過激に隣国を刺激している。ましてや今回の麻生副総理の発言など、国民も蔑にする発言である。あの発言であれば、憲法は政治家が決めると言う事で、国民を蔑にした発言である。あの発言であれば、国民には分からないうちに憲法が変わっていたとも取れる発言であり、そこには憲法改正は国民の真意を問うて改正すると言う今の憲法を蔑にした発言に私は取れる。確かに麻生副総理は極右であるが、日本国民をも馬鹿にした政治家に私は見えるし、戦前の戦争に入る前の日本と重なるのは私だけであろうか? また麻生副総理は空母の進水式にも出席していたが、テレビの報道は、それを報道しないで、防衛副大臣を主に報道していた。麻生副総理の方が格から言って上なのに、副大臣クラスを主に報道はヒトラー発言でマスコミが自主的に副大臣を取り上げたとは思えない。今やマスコミも政治家の都合の悪い事は隠し、政治家や官僚側に立った報道ばかり、国民の為に報道する事は殆ど無い、これでマスコミと言えるのか、政治家と官僚に諂えるだけで、問題点は隠してウヤムヤして報道機関ですと言って、選挙の時だけ政治家の都合の良い事を宣伝して、国民をたぶらかすのが今のマスコミであると言えよう。まだ、昭和の30年代のマスコミの方が、正義感があったように思う。今のマスコミは政治家と官僚の宣伝役で、マスコミと呼べない。 これに乗せられている国民も、もう少し考えるべきであろう。そうしないと次の日本は、どうなるか分からないであろう。
2013.08.08
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前にも書いたが、人間同士の繋がりが日本人には薄くなって来た。これは国の繁栄と人間同士の繋がりは反比例するように思う。国が反映すると人間同士が、疑心暗鬼が生まれ出て来るように思う。同時に、これだけ通信網が発展すると色んな情報が世界各国から入ってくるようになる。そこには国としての伝統をも、崩してしまう事に成りかねない事もある。特に日本人は、私は「熱しやすく、冷めやすい人種」であると思うのと何処かの国で流行すると、飛び付き国内で流行りだすと何時しか消え去っている事が多くある。 別な部分で日本人ほど流されやすい人種で、自己主張が下手な人種であると私は感じている。特に海外で生活すると分かる。海外の人は自分の意見を主張するが、日本人は相手に合わせる人が多い。それだけ順応性があると言えば、それも特技に成るが、それも事と次第である。だが日本人は全体的に調子を合わせて、自己主張を仕舞い込む傾向が強い。 これは海外の人達から、よく言われる事であり、日本人も分かっている人が多いと思う。確かに日本で自己主張を通すと、変人扱いされる部分がある。「あの人は自分の事ばかり考えている」と言われる。その為に自分の主張を引っ込める人が多い。だが、それが時と場合によって違って来る事を日本人は分かって居ないのでは無いかと私は思う。上記のように言う人の方が、むしろ自分の事しか考えていない人が多いのではないのかと私は思ってしまう。 他人がそう思うのだから、相手に気を使って自分の意見を言わない。これは前記したように、時と場合によって判断すべきである。 これほど流されやすい日本人だから、政治家や官僚の言いなりお上が言う事だから従う、武家時代の伝統を引きついているかもしれない。それが間違っているとは言い切れないが、自己主張も行わなければ物は変わらない部分もある事を日本人は知るべきである。同時にマスコミも煽り立てる。それによって日本人は踊らされている。マスコミは政治家や官僚の、悪い部分は報道しないで良い事ばかりを報道して国民を駆り立てる。政治家も官僚もマスコミを使って良い部分だけを多く報道するようにマスコミに圧力をかける。それに踊らされているマスコミは、協調性の強い日本人をコントロールしているだけである。悪く言えばマスコミと言う存在は、政治家と官僚の伝達役であり本来のマスコミとしての役目を成していないのが、今の日本のマスコミであろう。今回の参議院選挙の前に与党はアベノミクスを前面に出して都合の悪い物は隠して、勝利したら「国民の信頼を得たのだから」と言って実行するであろう。政治家を裏で操作する官僚は、逃げ道を作った文章で法制化して自分たちの城を守る。国民はマスコミに踊らされながら、選挙を行ったが今回の投票率を見ると分かるが50%台、後の50%近い国民は何も言っていない。これで与党は大勝と喜び、官僚は前と同じように操作しやすい連中が勝ってくれて遣りやすくなったと万歳しているであろう。 これほどマスコミも責任を果さず、国民も自分たちの責任を果さないそれによって喜ぶ政治家と官僚、今後の原発・災害復興なども消え去り、高齢化する日本は借金大国としてアルゼンチンの二の前に成りかねないように思う。 その時は国民の生活格差が大きくなり、今の発展途上国並みに成りかねないのではないかと思う。今言われている技術国日本等、過去の遺物でありマスコミも煽って技術があるから日本は立ち直る等と戯言を言っている。それを信じている国民もおかしい、これは政治家と官僚の扇動でありもっと危機感を持たなければ、10年後の日本は途上国並みに成りかねない気持を持たなければならないが、それが出来ていないのが日本国民である。
2013.08.02
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ドミニカは地域によって、人柄も変わってくる。北の方に行くと、のんびりした雰囲気があり落ち着く感じがする、南に近くなると都会的であるが、人間がギスギスした感じにとれる。また、首都のサント・ドミンゴのなかでも、旧市街地近辺は人の目の色がギラギラして、何かあったら問題が起きそうな雰囲気がするのである。また、たかり、強奪、強盗等の事件も起きる。 いかがわしいディスコや飲み屋街も旧市街地側に多い、私の良く行くディスコも、その一角にあったが、比較的平穏な部類に入るところであった。私は幾人かのディスコで働く子に、学費を出してやって学校へ行かせたが、最終的には、ディスコに戻ってくる子が、ほとんどであった、何か中途半端に面倒を見た感じが否めない。 ドミニカの一月、二月は、夜は上着が無ければ寒い、3年目に成ると、こちらの暑さに自分の身体が慣れてしまったのであろう、気温は20度くらいで寒いと思うのである。 私とI氏は相変わらず週末は遊んで歩いた、遊び方も慣れてきたし、カジノでもディラーの人とも顔見知りになって挨拶を交わすほどになった。それと、派遣先の連中が私の身体を気遣ってか、メイドを雇えと言ってきた。私は必要ないと思ったが、職場でも信頼の置ける奴からの紹介なので雇って見ることにした。そのメイドは月曜日から土曜日までとして、NANDOの母親も土曜だけ来ていたが雇うことにした。それで、毎日の朝食と昼食、夕食などや、掃除を頼むことにした、紹介された子は気立ての良い子であった、職場の紹介してくれた,彼の親戚だといっていたが十八歳で子どもが一人いた。 最初の頃は昼食を食べに帰っていたが、めんどうなので、最後の頃は帰らなかった、私の行っていた、派遣先は、ヒエスタはなく、昼は一時間の休みだけなのである、車でも往復三十分かかる、その往復の時間帯が、嫌なので止めたのである。後は、夕食の準備と掃除、洗濯だけであった彼女は夕方に学校に行っていた、私が帰国する頃には大学に入学していた。性格は良い子であったが、気が強かった。あるとき一緒に向かいのスーパーに買い物に行ったとき、調味料を買ってくれ言うのである。私は「部屋にあるじゃないか」言って買わなかったのである。彼女は「ない」と言って聞かなかったので、私と押し問答になり、そのまま、帰ってしまったことある。私は迎えには行かなかったが、彼女から戻ってきたが謝ることはしなかった。こちらの人はプライドが高いのか、謝ることをしない、前にも書いたが、謝ることによって自分が不利になるからでもある。あるとき、そのメイドが「シャワーを浴びていいか」と聞くので、「いいよ」と答えた、たまたま、私が休みの時に部屋にいた時なのである。私がいないときは、勝手にシャワーを浴びていると思うのであるが、私が居たので聞いたのであろう。彼女は素っ裸で(バスタオルは巻いていたが)、シャワーのある所に行くのである。最初は私もビックリして、何も言えなかったが、それ以後は同じことをやったときに「俺も男だからな」と注意すると、私の前では、そのような行動はしなくなった。他の人にも聞いてみると、若いメイドほど、そのような事をするとのことであった。私は日本でも、メイドなんて使える身分でもないのに、ドミニカではメイドの居る生活をしたが、一度もメイドと思った記憶がない、どうも友達的感覚で過ごした感じであり、こちらの人のように過酷な労働は要求しなかった。他のメイドは、そこの主人と肉体関係を持たなければ、解雇されるとか、いびりに遭うなどとか、私の住んでいるマンションの警備のドミニカ人に聞いたことがある。警備のドミニカ人とは、よく話をした。マンションの住人の情報などを、私に聞かせてくれていた。私も暇な時は、彼とよく立ち話をしたりし、夕食が余ると彼に渡していた。彼から見ると、気兼ねない日本人だと思っていたであろう。彼も色々教えてくれた、私も、この国に慣れていなかったので、助かった事が多かった。
2013.08.02
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イジメに関して、またも騒いでいるが、基本的なイジメに対する考え方が、私は何か違って居るように思う。まず、イジメだけを取り上げているのが、私には、おかしいと思う。また、マスコミなどで出て来るのは学校側ばかりを報道する。私は、イジメは無くならないが、少なくする事は出来ると思う事を前にも書いたが、そこにも親の責任もあると書いた。 それは親自体が子供に対して無関心な人たちが多い。イジメを犯す側の子供の親は、特に無関心であろうと思う。私はイジメを少なくするには、躾が大いに関係あると思う。躾は親がやるべきで事であるし、それを補助するのが学校であろう。だが今の親は、躾も学校に依存する傾向がある。 イジメと躾の関連がと思う人は多いであろう。躾で、人を労わる気持ちや、人に対して思いやりなどを教えて行くべきであるが、今の親はそれが出来ていない。躾によって人に対する思いやり、優しさ、労りなどが分かるようになれば人を思いやる気持ちが出て来るであろう。そうすると他人の事を考える事が出来ると思う。思いやりの気持ちが出て来る事によって、イジメは少なくなるし人に対する思いやりが生まれて来ると思うのである。 私が最近見た光景であるが、20代の若者(女性)が食堂で食べ終わった後に、手を合わせて頭を下げている光景を見た時に思った。その姿には、感謝の気持ちが籠っていた。それを見た時に、この若者の親の躾が、しっかりしていたのであろうとも思った。そこには感謝の気持ちや、労りの気持ちが見えたからである。今では、私達もしなくなった、手を合わせるような仕草(感謝の気持ち)、私たちは親に教えられた、感謝の気持ちを大切にとだが、今では感謝する気持ちが無くなり、お金を払って食べているのだからそんな事をする必要もない、食べてやっている、そんな気持ちが強くなっている。 イジメに関しても、人を思いやる気持ちと自分が反対にイジメられた場合に、どの様な気持ちに成るか、分かっていないから、これだけイジメが出て来るのであろうと思う。そこには躾の部分を、親も学校(保育も含む)側も忘れて居るのではないか?まず躾をしっかりとしていると、イジメは少なくなるであろう。人間としての基本である躾が成されていないから、イジメが多いのであろう。この様に書いている私も同じであるあが、今の親自体を育てた、私達年代にも責任がある。 今はイジメを少なくするには、子供の頃から人に対する労りや思いやりなどの、気持ちを植え付ける事によって、相手の気持ちも考えるようになると思う。基本的な事が分からないで、人の痛みや苦しみは分からない。イジメを考える前に、躾の部分を考えるべきではないかと思う。それによってイジメは少なくなるであろうと、私は思うのである。 マスコミもイジメだけを取り上げているが、報道だからと言う驕りで表面だけを語っているが、イジメに至る部分も、もう少し追求すべきである。マスコミは煽る事が仕事なのかもしれないが、もう少しマスコミとして原因追及を行うべきだと思う。
2013.08.02
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