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私のドミニカでの生活も三年目に入った。一年目は波乱の日々、二年目は親睦と和の日々となっていた。派遣先でも案件で、互の心が開けた事と、盲腸での病気で、派遣先の職員が毎日来てくれた事によって、私を必要としているという実感があり、ドミニカで一番親しいナンド一家との結びつき、I氏との親交、ドミニカ女性との付き合いと、ドミニカ人気質を理解してきた私が居たので延長を決めた。案件の金額も決まり、システム構築を再度考え直し、金額に合った機種構成としなければならない。三年目の始まりもクリスマス期間であり、会社関係もクリスマス期間は稼動してない状態である。私も派遣先の職員達とクリスマスを楽しんだ。こちらのクリスマスは職員同士がペアーになって、互いに、プレゼントを交換するのである。私は日本から買ってきた羽子板の小さなものをプレゼントにした。私が貰った物はドミニカの人形の置物であった、夜はナンドの家で恒例の晩餐会があり、食事が終わった後は、親戚が集まって、話したりドミノをやったりし、最後は踊りとなった。ドミノとはドミノ崩しの型をしたものに、数字が書いてあり、数字の色が違い、それを向かい合わせの人が、ペアーになって勝負をするのである。マージャンのようなものであるが、両面に数字が書いてあり、相手の出した数字に合わせた色の数字を出し、次の人がその反対側の数字に合わせるものである。仮に相手が黒6であれば、黒の5か7の同じ種類のドミノを置いてペアーのどちらかが持っているドミノが無くなったら終了で負けた側の持っている数字と相手の余っているドミノの数字が負けた点数となる。そこにはペアーでの駆け引きがある。マージャンとは、また違っている。私には最後まで理解出来なかったので、私とペアーを組んだ人はかわいそうであった。 そんな事をやっているうちに、夜が明けてしまっていた。ナンドは彼女とデートであるが、ナンドの兄は彼女がいない、真面目であり堅物といった感じなのである。どちらかといえば母親に似て、硬い感じがするし、ナンドは大学の成績は良くないが、兄貴は優秀であり、日本政府の奨学金留学生の、面接を受けさせたが、私の力の無さで落ちた。ちょっと生真面目な点が問題で、彼女が居ないのであろう。小学生の弟の、エットは全員が大人のために相手にされず、ふて腐っていた。私もナンドの親戚全部と面識があり、なれたもので色々話をした。ただ、親戚の人たちは私と話をする時はナンド兄弟を通訳に使うのである。きっと日本での外国人が話している日本語と同じように、たどたどしいスペイン語に聞こえるのであろう。ただ、私はナンドの母親の親戚と会ったことがなかった。
2013.06.20
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孤独死する側の心理的なものを考えてみよう。私も同じような年代であるが、我慢をしてしまう傾向が強い。そこには自分が受けた時代の教育が根強くある。それは「新に思う事1」に書いたような教育であった。その為に他人に迷惑を掛けない、自分の事は自分の範囲で責任を持つ仮に自分が病気でも我慢してしまい、手遅れ状態で初めて病院に行く私も大腸癌で手術をしたが、その時も自分は癌だと分かって居ながら仕事をしていた。分かった時期から3か月は病院にも行かなかったが、仕事に朝出かけて身体が動かなくなってから、初めて病院に行った。今の人達から考えられないであろう。 その心理状況は我慢する事を優先する。それは私たちの受けた教育や家庭環境では、貧しかったので家族に迷惑を掛けられないので、最後の最後まで我慢する傾向が強いのである。特に食糧難に時代でもあったので、母親は子供の為に自分が食べなくても子供だけに食べさせてくれたので、その姿を見ていると子供心に親を助けたいと思う気持ちが強く感じた。 今の人達から見ると馬鹿げているであろう。私たちの時代では、貧しさから家族に負担を掛けられないと言う気持ちが強く働くからなのである。 そこで何を言いたいのだと思うであろう。孤独死する人達は、他人に迷惑を掛けたくないから我慢してしまい他人に話す事をしない傾向が強い。そこには自分自身の強がりが出ているし、自分の受けて来た教育が垣間見られると思う。また、自己責任と貧しかった時代の背景が残存しているのであろう。孤独死の方たちは、裕福な方たちは少ないようだ。貧しいけれど、自分たちの受けて来た教育の中でのプライドがあるのだ。そのプライドを捨てて、助けを求めればよいのであるが、そこが出来ない為に、我慢をしてしまい、誰のも話す事が出来ないで孤独死する人が多いと思う。同時に孤独死する人達は、付き合いも下手な人が多いと思う。そこにはプライドがあり、自分のみじめさを見せたくないのである。
2013.06.20
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私の盲腸の後に、今度は日本の大使が腹膜炎寸前で、私と同じ病院に入院した。ある日自宅に、大使から直接電話が来て、抜糸は痛くないかと聞いてきた時は笑ってしまった。大使にも私の入院で問題があった事が伝わっていたのだと思ったからである。病気も治り、日本からの案件審査の為書類作りで、忙しい日々を過ごしていた。 審査の日が決まって、書類やオリエンテーションの方法などのチェックをおこなった。審査には日本から二人来る事になった。一人はコンピュータ関係、もう一人は外務省の人である。審査の日、書類説明は派遣先で、オリエンテーションは大学を借りて行った。私は昔から役所関係の人間は嫌いであったが、審査の人間に会って、なおさら嫌いになった。コンピュータ関係の人はメーカーからの出向で来たので話が合い、嫌な感じは受けなかったが、もう一人は農務省から外務省に出向している人で、役人風を吹かして鼻につく人であった。金を出すのも出さないのも俺次第だとゆうのが、表面に出ているのである。それに接待してくれよと言葉に出さないが、態度に出ているのである。私は、そんなのが見え見えだと、反抗したくなるタイプなので無視した。彼達が帰国する時に「夜、楽しみにしていたのに」言われた時は、私は心の中で「馬鹿野郎」と言っていた。どうも私は技術屋なので、接待は下手なのであり、酒も弱いので最初から接待は考えていなかった。派遣先はドミニカでも一流で、有名なレストランで昼食を局長たちと食べたが、私達でも行かないようなレストランであった。ドミニカの副大統領など、政府要人が御用達のレストランであった。そんな事が原因だったのか申請金額6000万から3800万になっていた。それは日本が、バブルが弾けて予算が少なくなったからなのかもしれない。 今回の審査を見て、私も反省する面があった。あの人達のように、高い所から見下した態度で、今まで自分もやって居たのでは無いかと思った。そんな態度でやってやっても、相手には心が通じないであろうと。今までの私は「教えに来たのだ、それだから、それなりの態度を取れ」という気持ちがあったように思う。前に、一度派遣先の食堂のおばさんに言われた事がある。私がこちらの人は「仕事が遅いと」愚痴っていると、「ここは日本ではない、ドミニカなのだよ」と、その意味を考えてみるとドミニカに来ている以上、ドミニカ人に成りきらなければ、そこに入る事が出来ないと言われたのであろう。そんな事があって、二年の任期が近づいた。派遣先から延長の要請があり、私は二年目になって、この国を好きに成りかけていたのと、無償資金援助の計画を完成させたい気持ちから受託した。
2013.06.11
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新に思う事1では、カウンセラー教育に、孤独死した方の時代的教育事情を考慮して行くべきであると書いた。 時代が変わる事により、その時の教育体制も変わる。これは、あたり前の事であり、それで良いと思うが、そこには何か足りないものが存在するように思える。 高齢者の孤独死の中に、親近者の影が見えてこない事である。そこには、今の日本に影を落とす、家族の繋がりの薄さが見え隠れする。 私は2回ほど途上国にボランティアで行った事があるが、どの国も家族の繋がりが深いと感じた。その時は、何故に日本は家族の繋がりが無くなったのか考えた事もあった。 途上国は貧しい、そこには家族同士の助け合いと、労りあいがあり親戚同士の交流も深い。 ところが日本は経済発展と共に、家族間の交流が薄れ、教育でもそれを取り上げなくなり、学歴主義優先を打ち出して、個を育てる事に変わって行った。これは経済発展と共に、部分的には、しょうが無い事なのかもしれないが家族の繋がりを学校教育でも、家庭内の教育に於いても行って来なかった部分が多かったように思う。 私たちが子供の頃は、「親孝行」をしつこい様に言われた。だが、今の30代から40代の人達には、そのような事を教える事が少なくなった。 親(私たちの年代は)は働く事に一生懸命で、家庭を省みないでいたし、そのような余裕もなかった。家庭の為に働く、それが当たり前の時代であった。だが、家庭の為に働いて居たのではなく、会社の為であったと思う。結果的に家庭を蔑にして、子供の教育や家族間の繋がりを無くさせたのは私達世代の責任なのかもしれないと考える。今や日本では家族間の繋がりは、世界の中でも低い位置に居るように思う。裕福と家族の繋がりは反比例しているように思う。だが、経済の発展の終わった日本は、今や取り戻しの効かない家族の繋がりを無くしてしまったように思えてならない。
2013.06.11
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被災地で孤独死が出ているが、60歳過ぎの方多いようである。問題が起きると見回りなどと言う。またカウンセラーの人たちも、色んな面で勉強会などを行っている。これはそれなりに重要である。 だが、私も被災地でボランティアを行って居るが、ある30代のボランティア方が、被災者が話をしたくないなら、無理に引っ張り出してくる必要はないと言っていた。その方はボランティアに熱心であり、休日返上で各地に行っている。また、カウンセラーの勉強もしているそうだが、その人の言葉に私は疑問を感じた。カウンセラーの勉強では、どの様に教えているのか?カウンセラーを勉強するくらいであるから、心理的な面も勉強しているであろう。だが、そこには何かが抜け落ちているような気がする。孤独死は60代以上に多い、60代と言えば団塊から、それ以前の世代である。そこには戦後の復興に力を注いで来た人たちである。だが、別な面で厳しい教育を受けて来た人たちでもあるのだ。その教育は民主主義と軍国主義の狭間のものであった。私もその年代であるから分かるのであるが、厳しい躾であり他人に迷惑を掛けない、自分の事は自分でする等、今では考えられないような厳しい教育であった。別な面では、今で言う体罰的に教えられて来たのである。 今は生活保護者が多いが、その頃、生活保護を受けて居たら周りから冷たい目で見られ、肩身の狭い思いをしたし親が生活保護を受けている子供などは、学校でも冷たい目で見られた。自立できない人間として扱われたのである。その様な教育を受けると、自然に自立しなければと思うようになる。 私が言いたいのは、カウンセラーの方は30代~40代が多いと思う。孤独死する方たちは60代以上、戦後の狭間に教育され、他人に迷惑をかけるな、自分の事は自分での教育を体罰的に叩き込まれた人達なのである。その様な人たちは、自分が辛くても我慢してしまう傾向が強い他人に迷惑を掛けたくないからだ。所がカウンセラーの年代は、日本の裕福な時代に教育されて来ている。その人たちには、反映された日本の教育を受けていて、孤独死した人たちの教育されていた状況など知らない。カウンセラー教育も孤独死した人たちの教育された状況を教えているのであろうか?もし教えて居ないのであれば、カウンセラーの教育された状態で対応して訪問しても、相手の気持ちが理解出来ない部分が多いのではないかと思う。 前記した生活保護を受けるのは恥であるという考え方で生活保護を受けないで孤独死した人も居た。カウンセラーの努力も分かるが、自分たちの受けた教育や生活環境の状況で孤独死した人や高齢者の訪問を行っても、ただの訪問だけであり深いところまでは入って行けないであろう。今後は高齢者の受けた教育範囲も考慮して、カウンセラー教育を行うべきであると思う。 特に被災地は高齢化が進んでいるなどでは、その面を考慮して考えて行かなければならないと思う。
2013.06.03
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車での揉め事や問題は、事欠かない位である。停電で信号が消えると、十字路では相互の車が前に出来て、引くに引けない状況になってしまう。こちらの人は前に出る事しか考えていないので、対向、左右の車が前に出て来るので、行場がなくなってしまうのである。相手を通してやるという気持ちは、こちらの人は持ち合わせていない。先に進んだ方が勝ち、車もボロいのが多いから、ぶつかっても気にしない。そんな車事情である。ある時は田舎を走っている時に、暴動(ウエルガ)に遭遇した事がある。こちらでは暴動がよく起きる、暴動が起きると投石や車に火を付けたりで、多数の人達が騒ぐのである。サント・ドミンゴでは乗合バスや乗合タクシーが値上げしたりすると暴動が起きる。道にタイヤを置き、それに火を付け投石を行うのである。 貧困の人が多いのでモトコンチョ(乗合バス)1ペソが1・5ペソ(1ペソ、日本円で9円)に値上がっても、暴動になるのである。現在の日本では考えられないものであり、少しの値上がりでも敏感に反応するのである。私は一度だけ、暴動に遭遇し車を乗り入れた事がある。窓ガラスやボンネットを数人に叩かれたり、石をぶつけられたりした事があるが、田舎だった為、人数が少なかったので被害は殆どなかった。 私達には暴動が発生すると事前に連絡が入り、暴動が起きる場所には近づかないようにし、回り道をして帰るようにしていた。ただ、暴動の起きる場所は大体決まっていた。サント・ドミンゴ大学の前は、必ず暴動が起きていた。サント・ドミンゴ大学は国立であったが、貧困層の学生が多いので学生が暴動を起こすのである。昔の日本の安保闘争の頃のようである。 そんな揉め事などがあったりして、月日が経ち8月には日本人学校の盆踊り大会があった。盆踊り大会は毎年催されて、移住日本人の人達やドミニカに来ている、日本人が集まるのである。櫓を建て本格的に行うのである。大使館や日本事務所などが屋台を出して、日本酒、おでん、焼き鳥などを売って夜の十二時頃まで騒ぐのである。最初の時点では日本の盆踊りを踊っているが、移住日本人の二世、三世になっている今では、メレンゲ、サルサが踊られる。私もメレンゲはディスコ通いの成果から、うまくなっていたので、酒が入った勢いから、大使の奥さんを引っ張り出して、踊り出したのである。これが私に対する、大使の奥さんの印象を悪くしてしまった。大使公邸での一年に一回の食事会等で、それ以後大使の奥さんは私に対して口を聞いてくれなくなった 盆踊り大会も終わり、八月の終わり頃に私は死に直面する事となった。それは休みにリゾート地で二日過ごした時に腹痛を感じた。家に戻った私は腹痛が治らず、違和感があり、日本から来ている医療チームに相談に行ったのである。問診では様子を見ようとの事で、その日は帰って来たのであるがその夜腹痛で、のたうち回る状態になって、朝まで我慢したがどうにも止まらず、また医療チームに行った。血液検査で盲腸であり腹膜炎寸前で、緊急手術をしなければならないとの事である。ドミニカでも有名で実績のある病院を紹介された。私は即刻入院して、手術となった。全身麻酔をして手術した時に、麻酔医が美人だったので私は「美人だね、独身ですか?」と言うくらい余裕があった。目が覚めた時は集中治療室であった。私は生まれて初めて身体にメスを入れた、目が覚めた時、私は生きているのだと感じた。手術して、一般病棟に移された、その日から歩けと言うのである。今は手術後に直ぐに、歩るかせるようだが、入院した事がない私は、直ぐ歩けとは無謀な病院だと思った。また、こちらの病院は看護師さんが問診してアシスタントが投薬を行う、医師は一日一回診に来るだけで、十分位で終わるのである。それと点滴などは同じ場所に数日間行うので腕が紫色に腫れ上がってもかまわず、平気で同じ場所に、また針を刺すし、手術の縫い合わせた傷口も、一回も消毒しないのである。そんなこんなで三日で退院した。所が、それからが死ぬ思いをした。退院して二日後に手術した場所が、また痛むのである。それも手術前と同じように激しい痛みなのである。私は我慢して居たが、我慢できなくなり再度病院へ行った。病院ではCTスキャンで調べるという事で、CTスキャンのある施設へ車で行った。こちらの病院は総合病院であるが、各科ごとが独立していて、各科の医者が独立採算で行っていて、支払いも各科ごとに支払うのである。すなわち専門店が集まった、デパート見たいなものである。だから内科なら内科の事務室で支払い、外科なら外科の事務室で支払うのである。CTスキャン調べると、手術した所が化膿しているとの事である。一般的に化膿などで手術した場合は、化膿する所に管を入れて、化膿液を管から出すのだそうだが、今回管を入れていなかったのである。その為に化膿した物が出る所がなく、それによって手術痕が化膿したのである。今度は化膿した場所に管を入れる手術となった。管を入れる手術は麻酔もかけず、エコーで場所を見て管を入れたのである。30cm位の長さの管を入れるのであるが、麻酔を掛けていないので、その痛さは半端じゃない。私は激痛で、自分の腕を噛んで痛みを我慢した。私が手術を受けた医者は、ドミニカでも有名な人らしく、また病院もドミニカでは有名な病院であり、安全であり料金も高い所であると、ナンド達や派遣先の人達も言っていた。さて、それからの私の入院生活が始まった。体重は15Kg以上減り、人相も死人のようだと日本事務所の職員に言われる状態であった。入院は3週間続いた。一般的に盲腸は、長くて一週間程度の入院で済むであろう。三週間で退院した後、通院して一週間後の管を取り、その二日後に抜糸となったが、最初に縫い合わせた傷口を手術して一回も消毒していないので、傷口が化膿して抜糸したら、傷口から膿が飛び出したのである。傷口は広がるし、傷の跡は15cm位あり、盲腸の痕とは思えない。入院費用は54万円掛かった、こちらでは、もの凄い金額である。ドミニカの金持連中は、病気になるとアメリカ本土で入院するそうだ。たしかに、こちらでは優秀な病院で、これであるから、地方の病院だと、どうなのかと思ってしまう。私の状態を見て日本事務所の職員やI氏は病気になったらアメリカのマイアミに行くと言っていた。 病気になって良かった事もあった。病院が派遣先と近かった事もあり、毎日派遣先の誰かが見舞いに来てくれた。ある時はびっくりするほど大きな花束を局長からと言って持ってきてくれた。色んな面で、こちらの人の優しさを感じ、心が通じる所があった。私はこの国を好きになってきていた。また、コンピュータの彼女も友達と見舞いに来てくれた。
2013.06.03
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