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アニ~とは、この頃は同棲生活状態であった。子供は母親が預かっていて、アニ~も平日の昼は向こうに行って子供を見たりしていた、私が帰ってくる頃には帰ってきて食事などを作って、一緒に夕食を食べるのである。また、Yさん夫婦の家に、招待され、こちらに招待したりして、食事を共にする事が多かった。アニ~は仕事を辞めていたので、私が子供の分や家族の分を援助していたが、私たちの生活に影響する程の事はなかったし、私も何かがあると、働いていても張り合いが出た。二人の生活も、ごく普通の家庭の生活(新婚さん)と変わらなかった。それと、言葉の問題からなのか、喧嘩も無かったのである。確かに、言葉の関係で喧嘩にならなかったのかも知れないが、喧嘩をするほど言葉を覚えてなかったのと、こちらの、のんびりした生活の中で喧嘩するほどの事も起こらなかったのである。 だが、事件はマタマタ起こった。アニ~が週末に実家に泊まりに行った時である。私はしばらく、踊っていないので彼女が居ない事を良い事に、ディスコに繰り出したのである。自分の車を運転して、何時ものディスコに向かっていた、夜の十一時を過ぎていた。ディスコに行く道は、その時間帯は殆ど、車は通らない。ドミニカでは夜の運転は、信号のある交差点でも、こちらが青でも徐行していかないと危険なのである。私は、早く着きたいので、こちらが青状態で徐行しなかったのである。交差点を抜けようかと思ったときに、右側からランドクルーザーが私の車の後部にぶつかったのである。相手は猛スピードで行ってしまった、私は後部だったので、そのままディスコに直行したのである。その夜はベルキーと踊り、次の朝、車を見て相当なダメージであった事を知ったのである。もし、私の真横であったら、私は車に挟まれて即死状態であったろうとキモを冷やしていた。それからは、アニ~に助けてもらい、警察や保険会社等の手続を行った。前回のように、戸惑うことなく手続は進んだが、私はアニ~に「男友達とディスコに行く、途中で事故に遭った」と嘘を言っていた。 こちらの人みたく、ばれるような嘘でないのが、救いだったかもしれない。まず、警察であるが、アニ~が殆ど説明してくれて事故証明は出た、今回は日系二世の人が幹部として居た事もあり、問題なく進んだ。次は保険会社であるが、最初は事故の遭った事を報告するだけである。私は前に使っていた保険会社を変え、派遣されている所が使っている保険会社にしていた。前の保険会社は、事故に対しても対応が悪く、その上、金額が高いのである。ましてや、前回事故を起こしているので、保険金は割高になっていたし、日本事務所の現地職員が紹介した保険会社なので、その現地職員(ドミニカ人)にリベートを支払っているとの噂もあり、私は、その割に対応が悪いのと、現在の保険会社より三割近くも高いのである。それと、派遣先の方が、今後色々と問題があっても、やり易いと思ったし、同僚達も相手の保険会社より、こちらが良いと言ってくれていたので、替えたのである。今回に関しては、みんなの意見を聴いた。今までは、意見を聴いて、あまり良い事は無かったが、Jhose(庶務のボス)など、慣れ親しんで来た連中の言う事も聴く事にしたのである。私も、四年目に入り、全体的に状況を把握する事が出来るようになったのである。
2013.09.29
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だが、そこには人とのコミニケションが乏しくなって行く。機械相手には自分の力を発揮できるが、人との会話が乏しくなりコンピュータ部門は、私とパンチャー3名(今では聞かない言葉だが)4名で動かしていたのである。その頃の私は25歳くらいで、生意気盛りで自分にも厳しかったが他人にも厳しく、パンチャーは女性だったが幾度泣かせたか分からない。コンピュータはデータが命である為、パンチミスによって数字が変わってしまい、それで各部門からクレームが来る。それが悔しいので、彼女たちに厳しく接した。私は彼女たちを私と同等の立場で考えていたので、女性とは見て居なかった。だから叱る時は男性に対する言い方に成って居たのである。同時に、その頃の女性と男性の給与体系も違っていた時代で私は彼女たちの給与を男性と同じようにしてくれと社長に直談判して、男性と同等扱いにさせていた。だから彼女たちは付いてきてくれたのであろう。でも嫌な奴だと思われていた上司であろう。 だが、コンピュータは、お金がかかった。導入資金、帳票作成専用紙、人件費等などで会社の財政を圧迫していた。コンピュータ販売会社は「コンピュータ導入で人件費削減出来る」がキャッチフレーズであったが、コンピュータを使いこなせたらそれは実現出来たであろうが、コンピュータ自体が初期の頃ではソフトも充実していないし、会社自体が独自の事務処理を行って居るので、それに合わせたソフト作成に時間を要した。また、記録媒体もカードか紙テープなどであり、特殊用品なので価格も高かった。カセットテープも出て来ては居たが、私がコンピュータに携わってから2~3年後くらいであり、メモリーも何Kの時代であった。日本語も開発中であり、コンピュータ言語もCOBOL、FORTRANPASCAL、アッセンブラ等で直接コンピュータに機械語で修正が出来た時代である。 私がコンピュータを始めた頃は、プログラムで何でも出来ると思える私が居た。だが、それは長い間コンピュータに携わると、コンピュータに対して危機感を持つようになった。 それは人間がコンピュータに、はまり込む事によって人間間の繋がりが無くなる事を恐れたのである。 私は会社の事情で独立した、日本が繊維不況になり、金が掛るコンピュータを手放す事に成ったが、会社の事務処理がコンピュータに依存して居た為に、別会社にする事になったのである。会社のシステムは、私が殆ど組み上げたので、私なしでは動かなかった。それをいい事にして、若造の私が「私を社長にするなら別会社にしてもいいです」と大見得を切ったのである。私が29歳の時であり、若気の至りの時である。
2013.09.29
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さて、パーティーの当日が来た。アニ~と私は車に乗って大使公邸に向かった。私の住んでいるところから、車で十分位の所に、大使公邸があった。高級住宅の立ち並ぶ所に、200坪くらいの公邸があった。部屋数はどの位あるかは分からないが、パーティーは裏庭のプールがあるところでやるのである。今年はペルーの日本大使公邸事件が、前年にあったので、警備はものものしい。屋根には黒ずくめのスワットが、自動小銃を構えていた。今までの、パーティーと違った雰囲気が漂っていた。 そんな中、例の如くドミニカ時間でパーティーが始まったのである。私は知っている女性に対して、社交辞令のようにドレスを褒めまくっていた。アニ~は、最初は戸惑っていたが、Yさん夫婦を見つけ話し込んでいた。ただ、アニ~のように肌が黒い人は居なかった。アニ~も最初は、それで戸惑ったのであろう。私は、アニ~の黒さなど気にもしていなかった、性格的に差別に対しては拒否反応がある。私は、昔から人を差別して見る事はなかった。今考えるとアニ~自身は、焦りまくっていただろう。 でも,本来明るい性格の、アニ~は直ぐに、他の人たちとも話をしていた。私はYさん夫婦や、大使館の親しい書記官と話をしり、食事を楽しむ事に専念していた。四年目とも成ると、パーティーや食事会で六~七回くらい大使公邸に来ていたので慣れもあり、大使館の職員とも、親しくなっていたので要領もよく、食事に関しても日本料理の美味しい所を探してはアニ~やYさん夫婦に、皿に取って渡したりしていた。パーティーの料理は,日本から来ている料理人が作っているのである。大使に就任すると料理人を日本から呼び寄せて、大使夫妻の食事やパーティーの時の料理を作るのである。これは各国の日本大使の人は、そのようにしていると聞いた事がある。 また、食材も日本やアメリカから取り寄せて作るので、こちらでは、滅多に食べられないものが出たりする。また、四年目になると、大使館にもPCなどが調子悪いと、呼ばれたりして、色んな人達とも話をしていたので親しくもなっていた。 ドミニカ政府の高官の挨拶や、日本大使の挨拶などが済むと食事となる、大体、立食である。私は、食事会以外のパーティーでは、途中で帰ってくる。大体は食べる以外に、話をする事しかないので、手持ち端さになり途中で抜け出すのである、I氏がいた頃は、そのまま、カジノかディスコに繰り出したが、今回はアニ~が居るので、Yさん夫婦を送りながら、帰宅したのである。 あまり楽しいものではないが、顔合わせのためのパーティーである。
2013.09.24
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自分は月1回の割合で被災地に行っているが、今や被災地は忘れ去られているようにも思える。国民も政府も被災地に対しては、それなりの手立てを行ってはいるがはたして、被災地に対しての、どれだけの満足感があるであろう?私は今や被災地は復興では無く、振興の段階に来たと思っている。これは、あくまでも私個人の考え方であるが、被災地の人も自己努力が、必要な時期に来たと思っている人達が多くいると思う。私も同じ考え方で、起業した人のお手伝いや、若者を育てる事が重要だと思い、その方面で私の経験を伝えたいと思って被災地に行くのである。また、お年寄り(私自身が年寄であるが)との交流や地場産業のお手伝いもするが、それはあくまでも人との交流を大切にしたいからで、本当の目的は如何に被災地が自力で立ち上がるかであると思っている。 それには政府や行政の力が必要であり、今や少なくなってきたボランティアの方の力も必要である。私達年代は戦後の復興の為に働き、夢を持って生きて来た。それは、自分たちは若かったから出来た事である。同時に何かに向かう気持ちがあったからだと思う。そうであれば、私たちは次の世代を担う若者を育てるのが私たちの義務であると思うのである。 私は「日本人は熱しやすく、冷めやすい」と良く書く。今や多くの日本人の中から「被災地」の文字は消えつつある。もう少し考え直してほしいと思うのが現状である。 その中で大学生が幾度も被災地に足を運ぶ人達がいる。その面では、まだ捨てたものではないし、地方からも被災地に足を運んで寄付をしている方々も居て、自分が癒される部分もあるが、だが、その人たちも大変な努力をしているのである。九州から来ている大学生は、こちらに来るためにアルバイトでお金を貯めては、こちらに来るのである。 政治家や行政が「復興」と言う名目を付けて税金を使っているがそれなら、そのように努力している人にも使ってほしい物である。 今は被災地の人達も、国民も被災地の若者を育てる事を一つの目標にしてもらいたいのと、被災地の自立を助けるように協力すべきである。 私は商才が無いので、若者を育てる為の手立てを行いたいと思っているが、現在の所が終わったら、次は被災地と原発事故の酷かった所に行きたいと思っている。
2013.09.24
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また、男性は年齢とともに、お腹が出ている、妊娠八ヶ月かと思うような人も多いのである。 なぜか、そんな男性のほうが、女性に持てるのである。これは、最初の頃は不思議だった。そんな状態でも、男性はお腹を引っ込める努力などしないのである。どうも、お腹が出ているという事は、生活に余裕があることを、示しているようだ。私は派遣先のホセを捕まえては、「妊娠何ヶ月だ」と質問していた。また、ナンドも若いわりには、お腹が出ていた。政府高官も男性は、お腹が出ていた、大使公邸でのパーティーには、必ず政府高官が来ていた。日本は援助してくれる、いい、お得意さんであるから、来る高官のレベルも高い人が多い。さて、アニ~のドレスを探すのに、三日かかった。いささか、うんざりであった。最後に決まったのは、アニーの友だちの、弁護士家族の、家の近くのデパートであった。慎重なのか、ただ単にショッピングを楽しんでいるのか、男の私には理解できない部分であり、今後付き合うのは、願い下げである。さて、洋服は決まったが、それに付属する靴やバックなどの、購入の付き合いである。私は、それからは逃げ出して、アニ~の友達に付き合ってもらうようにした。アニ~も、それには同意してくれた。 アニ~自身も友だちに話したかったのであろう、大使公邸のパーティーに出席する事を、気持ちは分かる気がする、中流以下の家庭で育った女性が、政府高官たちと一緒のパーティーに出るなんて事は、考えられないのである。もし、私が日本である国の大使公邸のパーティーに出席したら、友達に誇らしく話すであろう。それと、同じようにアニ~も、そうしたかったのであろう。アニ~の気持ちの中では、私は王子様だったのかも知れない。たしかに、アニ~本人が言っていた「みんなが、アニ~はシンデレラだねって」周りの人が言うと、本人もその様に考えていたのかもしれない。
2013.09.18
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私は技術屋としては自信があったが、人を育てる事が出来ない人間であった。考えて見れば職人気質的な所があったと思う。コンピュータ歴には40数年であるが、初期の頃から独学で学んだ。会社でコンピュータの導入で、私が担当になったのがコンピュータの始まりであった。私は会社では経理事務をやって居たが、転記ミスなど算盤でチェックして居た時に、私は振替伝票を直接帳簿代わりにする事を発案して、転記をしないで済む方法など導入していた。そんな事でコンピュータ担当に抜擢されたのであろう。私の性格なのかコンピュータを遣りだしたら、のめり込んでしまった。算盤など使って居る時代では無い、これからはコンピュータの時代に成ると思い勉強した。 私の勉強方法は盗む方法を主に用いた。これは職人がやる方法で、人のやって居る方法を盗むのである。ましてや40年前であるから、コンピュータに関しては盗むものも数少ないし、海外の方法を調べてプログラムを作るのであるが、それに時間が掛かり、寝るのも惜しみ勉強した。その頃のコンピュータのメモリーは8Kから24Kくらいで言語はアッセンブラが主であり、メモリーもICとトランジスターの混合時代であった。またコンピュータと言えばIBMと言われるぐらい有名であり日本もコンピューター・メーカー各社に政府が助成金を出して開発に躍起に成って居た。その頃の日本はアメリカにソフト・ハードでも20年以上遅れている時代でソフトに関しては導入した会社は、お金を払ってくれない時代であった。日本もアメリカもソフトで、お金を取る事をしないでその分ハードに上乗せして販売していた。特に日本では見えない物には、お金を払わない傾向が強かったので販売した会社も一度作ったソフトをメンテナンスする事はしなかった。そうなれば自社開発しかない。担当になった私の責任と成ってしまい、自分でソフトを作るしかなかった。私はソフトを作る事に、はまってしまい昼夜を問わずにソフトを作ったが、如何せん情報が少ないし、文系の私では基礎知識が無い。そうなれば他人の作ったものや、海外の作った文献を集めて分析して、当社にあったプログラムを作って行った。 最初からは上手くは行かなかった。経理部門や販売部門から出て来た帳票にイチャモン付き、プログラムの修正を幾度も繰り返した。負けず嫌いの私は徹夜でプログラムを開発し、何とか、それなりのシステムに成ったが、今だから笑えるが、コンピュータで出て来た試算表、PL,BSを算盤で数字が合って居るかチェックして、各部門に渡していたのである。その頃の一般の人はコンピュータ自体が分かって居な人が殆どで、コンピュータは何でも出来る機械なのだと思う人達ばかりであった。だが、メモリーが小さいためにソート(並び替え)するのにはデータが大きいと数回に分けて行わなければならなかった。メモリーは大部分がプログラム領域に取られるのでメモリーの空き領域が無いためである。でも私はプログラムを作るのは楽しかった。自分の思うように動いてくれるコンピュータに惚れていたのかも知れない。
2013.09.18
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ドミニカ生活も四年目に入った、一、二年目はドミニカを嫌いながらも、習慣も分からず、徐々に好きになっていった日々であった。三年目はドミニカ化する私がいたが、私の仕事に最終年のはずが、日本政府からの無償資金援助提案が認められて、大学と派遣先機関とのオンライン構築の為、購入した、コンピュータの稼動させるよう、派遣先からの強い要請で延長依頼があり、特例で残る事になった。 そこには二年目以降のドミニカ人化した、私が居たからなのであろう。三年住んでいると、そこは故郷のように感じてくるものであり、去りがたい気持ちにもなって来る。 四年目もクリスマス期間から始まった、派遣先では恒例の毎週金曜日は、仕事が終わった後の、フェスタで踊ったり飲んだりする時間が来るのである。最初の頃の、私は踊れなかったので、何でこんなに毎週やるのか、理解できなかったが、今は踊りも好きになり、女性職員と踊ったりするようになった。この恒例のフェスタは、派遣先の職員が毎月一定のお金を集めて実施しているようである。 今回のクリスマス期間の派遣先にはYさんも居て、たまにYさんの部署に顔を出し、二人で日本語の会話することが多くなった。また、昼食もアニ~とYさんと、三人で行くようになっていた。昼食のレストランは、場所を変え色々な処へ行った、特に好んでいったのは、国立劇場がある公園の中のレストランである。派遣先からは車で3~4分の所で、緑の多い公園の中にあった。食事は、ドミニカ料理が主であり、味もよかった、なぜか、Yさん夫婦とアニ~は相性があった。時々、アニ~も私を忘れてYさん夫婦と話し込む姿があったのである。毎日の生活も、変化無く進む日々であった。 四年目も大使公邸で、好例の、天皇誕生日のパーティの時期が来た。今年はアニ~を同伴する事にしたが、その服装に対してアニ~との、買い物に付き合う事が大変であった。あれこれ、お店を回って歩く苦痛を味わったのである、私は日本では買い物に行くときは買うものを決めてから行く、ウインドショッピングなんて、面倒くさくて、やつてられないのである。ところが、おしゃれに気を使うアニ~は、あっちこっちの店を回るのである。歩くだけでも疲れる状態であり、最後のほうの数店は、私は生返事で答えていたのである たしかに大使公邸に来る、女性陣は着飾って来る。前にも書いたが、着飾って来た女性を褒めなければならないが、確かに美人も居るが、服だけを褒めなければならない、女性も居るのである。どうも、こちらの女性は年齢が高くなることに、ドラム缶形の体形になるようである、コーラーの瓶は、女性の体形をイメージして作られたと聞いた事があるが、その体形を維持しているのは若い時だけである。殆どの女性が年齢とともに、くびれが無くなってくるのである。凄いのは、黒人で、この御尻の下になったら、窒息するのではないかと思われる女性も居る。アニ~は、体形的には日本人に似てスラッとしていた。
2013.09.12
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私の中学校の頃は、生徒数が多かった時代で全校の生徒数は1年生から3年生を合わせると1500人くらいいたと思う。私が弁論大会に出たのは中学2年の時であった。私は生徒の多さに圧倒されて、気持ちが萎縮していたと思う。発表前に壇上に上がっている時からドキドキしていた。 自分の順番に成り、発表しようとした時に、「いいぞ、××」と大声で、私の名前で声を掛けられたのである。その途端、私の頭が真っ白に成ってしまい、3分で話すところが1分半位で話したと思う。声を掛けたのは施設の上級生であり、発表の題材と名前・学年は壇上に張られているので「施設での自分」と書かれていたので先輩の嫌がらせにあったのである。 それからの私は人前で発表する事に臆病になり、発表をしなくなった。それが社会人に成っても続き、人前が嫌いに成って会議などでもある程度の地位に成っても発言しない事が多かった。それも自分の劣等感に成ったと思う。 だが劣等感は、別な部分で闘争心に変わる物である。施設で育った事の劣等感が、逆に一般の子たちに負けたくないと言う気持ちを持たせ勉強もしたし、社会人に成ってからも人の倍やって負けない自分を作り上げて来た。 私が思うには劣等感があるから、闘争心が湧き上がり人を追い越した時に、自信に生まれ変わる物だと思う。劣等感は逆に言えば、人を育てる一つの過程であり、その過程を生かすか、そのまま持っているかによって変わる物だと思う。ただ、弁論大会に受けた傷は、幾度か再挑戦(青年の主張等で)したが、自分では取り戻す事は出来なかった部分が大きかった。だが、学校で教える事は出来たから、一部分は取り戻したのかもしれない。確かに私は言うなれば劣等感の塊みたいな所があるが、それが私の良い部分を引き出したと思っている。こんな事を言ったら嫌がられるかもしれないが、劣等感を持つべき、それをバネにして向かえば、自分が開かれると思う。はっきり言って私は劣等感で、のし上がった部分が大きい。劣等感を表面に出したくないから頑張れる、それが人間なのかもしれない。 ただ、私は表現力が乏しい事は否めない事実である。それはコンピュータのシステムに携わった技術屋なのかもしれないし父の理屈ぽい所が嫌いだったので、そうなった部分もあるのかも知れない。
2013.09.12
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こちらの人は、タバコの葉を生産している割には、タバコを吸う人は極端に少ない。タバコを吸う、私は何処に行っても必ず言われた「タバコをやめなさい」と「害あっても身体にいいこと無いから」と言うのである。ドミニカのタバコの種類は3種類くらいで、アメリカタバコもマルボロのみ、販売していた。葉巻も生産していたが、一般の店頭では売っていない。タバコの話はさておき、アニ~の離婚の話であるが、アニ~の友達の、弁護士の母親に、アニーの離婚問題を相談すると、彼女は「私は貿易関係が本業なので、離婚関係は出来ない」と言うのである。離婚関係の弁護士を紹介しようかとも言っていたが、アニ~は断っていた。 最終的にアニ~の離婚は、私の派遣されている所の、専任弁護士を紹介してもらい、成立した。費用に関しては私が払った。これで、アニ~は晴れて独身であり、今後は好きなときに結婚できるのである。でも、費用が払えず離婚が出来ない人達はどうなるのであろう、係った費用の5000ペソは安くしてもらってであるから、もし、離婚できない場合は同棲するしかないのであろう。確かに公報(新聞の公報部分)に載った。アニ~の離婚証明を見たが、日本の裁判所に張られている公報に似ていた。この、証明書の公開は、相手方の了解も取らなければ出来ないのである。内容は、離婚する側は、どのような理由で相手と離婚するか、書かれていて、今後一切、相手とは関係ない事を両方が認めた事が書かれていた。私は派遣先から延長の要請があり、無償資金の計画も実行途中である事により私たちは、派遣期間は最大三年であったが、日本事務所は派遣延長を特例として認めた事により、私は延長となった。さて、ついに四年目に入ってしまった、最初の年はこの国を嫌い、騙され続けた日々を過し、二年目は病気で死ぬ思いをして、その中で仲間意識が生まれ、徐々に好きになって行った日々であった。自分の提案した計画案も通り、嫌いでありながらも仕事と割り切った事が良かったのかもしれなかった。 そして、三年目はドミニカの風土や環境にも慣れ、自分を表現する事が出来るところに来ていた、そして、この国を好きになっていったのである。 これからは、四年目の暮らしが始まるが、その中には自分とドミニカ人の係わりが、出来てきたのである。
2013.09.10
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私は人との付き合いに関しては非常に下手である。技術屋の悪い面が出ている。人に対して好い事を言えないのか、自分を隠す面があるように思う。それは私の育った環境によって、そうなったのであろう。 少年期に母を亡くして、自分はグレしまったが、それも1年くらいであった。少年期は色んな面で経験した。その経験が自分を変えた部分は大きいと思う。 現在の子供たちも、少年期に培った事が将来の自分を作るのであろう。私の場合は差別や偏見を味わった事が、逆にそれが人の気持ちを考えるようになった。逆境に立たされると、人は別な面で強くなるように思う。そこには幾人の人達の助けがあった事は否めない。その人たちには感謝している。その面では私は得をしている部分が大きい。それなのに人との交流は下手なのである。いや表現力が乏しいのである。自分は一歩引いてしまう傾向が強い、これも少年期時代の名残なのであろう。そこには自分をさらけ出せない部分があり、心を開かない部分があるからなのだと思う。 はっきり言うと自分に劣等感があるからなのだろう。私は少年期に、その劣等感が生まれたと思う。施設と言う所で育った事により、差別と偏見の目があった。自分は一般の子供たちと違うと言う事を味わされた。それによって自分が強くなった部分はある。学校でも成績は良かった。同級生にも信頼されて3学年、クラス委員に選ばれたが私の中から劣等感は消えなかった。学校では毎年弁論大会があり、クラスで予選を行う、そこでもクラス代表として選ばれたのであるが、それが別な面で私を苦しめる事となった。同時に別な劣等感を自分の中に生まれてしまったのである。弁論大会の私の題材は「施設での自分」と言うものであった。クラスで3人が争い、私が代表となった。だが本大会で私は大失態を犯してしまったのである。
2013.09.10
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私は仕事の関係でドミニカ国内の大学を廻って歩いたが、それなりに充実した教育を行っていた。アメリカ大陸で最初に出来た、サント・ドミンゴ大学は敷地面積も大きく、学部もそれなりに揃っている国立大学である。校舎は古かったが、新しい校舎なども建築中であり、それなりの伝統がある感じはした。学生層は苦学生が多い、勉強したい貧しい人が多いのである。設備面では遅れが見える、他の私立の大学は設備面でも、それなりに充実しており、売り物学部を揃えていた、学生層は中流以上の家庭の子が多い、女学生は着飾っているし日本やアメリカの私立の大学と変わらない感じがした。 私の派遣されている所の関連で、私立の大学があったが、それなりの人たちが来ていた。国立大学に関しては昼夜開講しているが、私立に関しては一部、夜開講している程度であった。また、地方の大学や研究機関などは、他国の講師を呼んだりして充実を計っているが、学生が少ないのが現状である。 さて、仕事に関しては、さておき、私生活であるが、最後の年と考えていた私は、自分の現在置かれている立場を考えなければならない時期に来ていた。立場といっても、女性に関してであるが、ベルキーとは、たまに、踊りに行く位になりアニ~とは色々な処へ行ったりした。コンピュータ女史とは機種の選定も決まり、彼女の所とは疎遠になり、話すこともなくなった。私はどうも、不器用なのである、もう少し要領よくやればいいのだが、日本で教育された私が残ってしまっているので、その面ではドミニカ化は失敗した。アニ~とは、彼女の友達にも紹介され、友達の家に行ったりして、親交を深めたが、彼女自体も私との生活に慣れつつあった。特に一人の親友には、よく紹介された。その子は高校時代の友達で、父親がアラブ系であり母親はドミニカ人で白人系であった。非常にグラマーな子で、いつも身体の線がはっきりと分かるような服を着ていた。顔立ちもアラブ系が入っているので、はっきりとした美人系の顔をしていた。母親は弁護士で父親は貿易関係をやっているそうだ。親友の彼女の父親は、アラブの人はコーヒーを飲んだ後に、タバコを吸うのが習慣なのか、必ずといって良いくらタバコを吸っていたが、家族には不評であり、父親は「アラブの伝統で男はこうするのだと」私に言っていた。そこで、アラブの水タバコを始めて吸った。
2013.09.05
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今の国民は報道番組に翻弄されているように思う。 今の報道番組は、国民の気持ちを報道しているのではなく 視聴率の取れるための、政治関連を報道しているに過ぎない。 確かに視聴者が飛び付きたくなる部分であるが、 それを深く掘り下げないで表面的部分で終わってしまう。 解説者もマチマチで、この人が政治に関して回答が 出来るのかと思う人をゲストに招いたりしている。 ハッキリ言って視聴率取りが、丸見えである。 現代社会はテレビが国民の情報源になってしまっている事は 誰しもが分かっているが、もう少し国民目線の深い部分を報道して 貰いたいものである。 特に高齢者社会に入った日本、福祉を重視していかなければならく、若年層の就職や経済などの問題を多く抱える中で 政治家の言い分ばかりが、報道番組で優先され、国民の声は 付け足しで報道される番組が殆どである。 もう少し国民の声を取り上げる番組があっても 良いのでは、ないであろうか。 各民放のニュースは同じような番組構成であり、どのチャンネルを 回しても同じ構成であり、もう少し個性のある番組構成を 作れないのかと思う。 どの民放も視聴率に重きを置いて、独自性が無いのが多い。 国民は同じような番組を見て翻弄されて、政治を考えている。 もう少し、国民の声を聴き、政治家に対して、それをブツケて 政治家の声を聴き、それで政治家を判断する材料にする番組が あって良いのであろう。 それによって国民は、その政治家の行動をチェックして、 実行出来る政治家か、口先だけの政治家かの判断を する事が出来ると思う。 部分的に日曜に、そのような番組があるが、それも司会者の 問い合わせに答える、国会の答弁的なものである。 それより視聴者による、質問に答える番組を作ってはどうか あるチャンネルは、選挙の時だけ政党主流の報道を流し経済が好転したような事を言っている馬鹿な報道機関もある。そのチャンネルの、特に日曜日の報道番組はオチャラケであり報道とは懸け離れた物であり、よくも「バンキシャ」と言えるような番組構成である。今やテレビ局は横並びに娯楽番組作成会社であり、政治家のお使い役(悪く言えば、回し者)に成り下がっている。もう少し国民の声を取り上げた報道が出来ないものか、それが出来ないのであれば、娯楽番組作成会社として考えろと言いたい。同時にニュースなども、国民目線で報道して貰いたいものである。
2013.09.05
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話は飛んだが、ナンドの母親の親戚からの帰り道は、ナンドの父親も同乗して、車の中は色々な話で盛り上がり、ナンドの父が「竜、日本の歌を歌え」と言い出したのだが、私は歌が苦手なので歌いたくなかったが「サクラ、サクラ」を歌った。 また、帰れ道でナンドやナンドの父が、通りがかりの女性に「一緒に遊びに行かない」と声を掛けるのであるが、サント・ドミンゴから1時間以上離れた所であるのに彼女たちがOKしたら、どうするのだろうと思った。彼女たちには軽く足らわれたが、何回も声を掛けていた。帰りの車の中は、ラテンのノリで騒がしく帰って来た。 また、三年目の最後の方に、派遣先の人たちと一泊で旅行をした。川と海の近くのリゾート地で簡素な土地で、皆で、騒ぎ川で船に乗ったり乗馬をしたりで、プールで泳いだりして、今まで行ったリゾート地と違って田舎であったが、私は乗馬を2時間ほどやったが、1時間10ペソと安いのである。私は、乗馬は初めてだったが、意外と乗れて楽しかったが、2時間乗ると股の内側が、鞍に擦れ赤くなってしまったが思い切り走ったり、助走したり田舎道なので車が来ないので好き放題に乗り回していた。ここはドミニカでも穴場である。私の今まで行ったリゾート地は、ヨーロッパやアメリカなどの人達が多く居たが、ここはそのような人たちが居ない。ドミニカ人だから知っている穴場なのであろう。川は激流なので、注意しなければ流されかねない。ただ、ヨーロッパなどから来る人達が居るリゾート地は水着もブラジャーをしていない人たちが、多く居るがあれも若い人がノーブラなら、見て楽しいが相当な年齢の方のノーブラは、私にとっては公害としか思えなかった。 一年目、二年目は色々と振り回されて、勉強させられた時期であったが、三年目はこちらの環境や生活習慣にも慣れ、逆に自分が生活習慣を楽しんだ年であった。 私達の仕事は、三年が最大延長期間であり、これ以上の延長はないのである。ただ、システムは稼動状況になかった、機種の選定も決まり、データベースの管理講習にも人を派遣していたが、大学側とのオンライン化の打ち合わせ、サーバー側の管理体制など業務は進んではいたが、なんせ、ドミニカ時間で進むのであるから、終わりが見えないのである。私の任期も終わりに近づいたが、結果としては路線を引いて、試運転方法を考えた状況であった。こちらでは、焦っても自分が、ストレスが溜まるだけであり、相手方に強制してやらせても反発をされて、むしろ、仕事が進まない状況になってしまうのである。それなら、相手のやり方を取り入れながら、自然に私のペースに持ち込んでいきながらやるのがベストであることを学んだ。
2013.09.03
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私が経験した事で、イジメや貧しい人達の気持ちが分かるようになったと思う。これは私の財産になったと自負している。 施設で育った時にイジメや偏見・差別もあった。それに屈しない自分を作り上げる事が出来たと思うしイジメる側の考え方も分かるし、イジメられる側の気持ちも分かるようになったと思う。私がもし施設に行かなければ、相当な悪に成って居たかもしれない。だが、施設に入って変われた事は大きかったと思う。 施設での団体生活の中で育つと言う事は、人を思いやる気持ちを持たなければやってはいけない、それが基本である。だが、そこには子供間の力関係が生じて行く事にも成る。それがイジメと成って行くから、何時しか自分なりに力を持って自分なりの方向を示すようになる。 私は学校でも施設でも優等生の部分があったので、施設の先輩や同級生から目を付けられた。部屋に呼びつけられて複数の園児と殴り合いを強いられた。イジメであるが、それに向かって行かない限り、自分は施設の中ではイジメられる側に成るしかないと思い戦った。イジメられない為には、そこには自分を表現するしか逃げ道はなかったからであろう。これは集団生活の中で起きる事である。同時に学校では偏見の目で見られるから、他の園児は自分を守るために、学校の悪グループに入る。確かに施設では親の都合で入る子と、私のような悪で入る子の確率は悪が60%、残りの40%は親の都合である。悪の確立が多いため、どうしても一般の人からは「施設の子」は悪いと言うイメージが強い。 確かに私の施設での同級生や先輩は、学校の番長グループの連中が多かったし、彼達はそれで自分を守って居た部分がある。だが私の場合、成績も良かったので逆に目立ち過ぎた事もあり彼達に狙われた。私が彼達に屈しなかったのは、彼達と同等に殴り合った事それが彼達を諦めさせた部分もあるが、施設での保母さんや先生方が見守ってくれて助けられた部分も多かった。それは学校でも先生方が見守ってくれた部分が強かったので私はイジメに合う事は無かった。イジメる側は集団行動で立ち向かって来る。そこには個人としての弱さを隠すために集団行動を取るのである。 特に生活をする施設では1日中顔を合わせている事に成る。そこには子供たちの探り合いがある。探り合いとは、どちらに付く事によって自分を守れるかと言う気持ちである。 私の場合は中立であったかもしれない。ただ、悪グループには対抗意識が強かった。だから狙われた部分もあるが、相手との数回の殴り合いで私を相手にしなくなって来た。私は、イジメは消える事が無いと思っている。ただ、周りの気配りで減る事があるとは思う。
2013.09.03
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川の汚れは、こちらの人たちのゴミ処理に対するモラルの低さにある。どこでも、ゴミを捨てるし、それを処理する事もしない。だから、車を運転している時などは、バスが近づくと、バスから捨てられるゴミに注意しないと大変な目に遭うのである、そのゴミがフロントガラスにぶつかり、ガラスにひびが入るなんて事は、日常茶判事なのである、私はそれには、遭っていないが、危ない事は幾度か経験している。それと、バスであるが田舎へ行くほど、バスのスピードの出し過ぎは、恐怖に感じる一応、標識なども立っていて、制限速度も表示されているが、そんなものはあってないようなものである。60K制限のところ、120K近いスピードで走るのである、日本では考えられない状況である。そんなスピードのバスから捨てられるのであるから、ゴミも石以上に重圧が係りガラスを壊すのである。また、何回も言うが、運転マナーの悪さは酷い、一度、田舎の帰りに渋滞している道に差し掛かった時、相手車線はノロノロ運転状態の中で、急に私の走行車線を走り出した車があったのである、どう見ても途中に入り込むスペースがないのに、相手斜線を逆走してくるのである、それも半端なスピードではないから、たまったものではない、私は辛うじて路肩に自分の車の、車幅だけがあったので、逃げることが出来たがその幅がなかったら、路肩より下に車ごと落ちていたであろう。 前にもサント・ドミンゴの旧市街地でも、同じことがあった、こちらの人は気が短いのか、モラルがないのか、自分の気の向くままに行動を起こす、周りの相手の事など考えていない。悪く言えば、「気まま、気まぐれ」、よく言えば、「自由奔放」なのである。このことで、幾度となく私は悩まされたか、この三年、だがそこには、別な面で日本と違う気楽さがある、日本のように周りに気を使いながら、行動する事は無く、自分の意思で行動できるし、相手にもはっきりと意思を告げることが出来るのである。意思を告げなければ、とんでもない事にはなってしまうが、こちらでは。
2013.09.01
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悲しいかな自然と運命には、自分は勝てない。それは人間の宿命なのであろう。私が愛した人を二人まで亡くした。それが今だから運命で片付けられるが、その時は悲しさだけであり逃げ場の無い若い人間には過酷であった。だが、別な部分で、その経験が人を思いやる気持ちも少なからず持てたし、相手の気持ちも多少なりに分かるようになったと思う。 その経験で途上国に行ってボランティアとして働いたが違った部分で、自分の経験を生かされなかった。それは自分の驕りであったと思うし、未熟な自分であったと思う。途上国で自分の仕事以外で、貧困な女性を助けたつもりであった。途上国では、家族の為に如何わしい所で働く女性を多く見た。それは家族を助ける為であるが、自分の身体で稼ぐしかない。悲しいかな、それが現実であった。そこには家族愛があるが、自分の夢など無いに等しい。学びたくとも学ぶ事も出来ないのが現状である。 私はその子らの幾人かを学校に行かせる事をしたがそれは私の自己満足にしか過ぎないと思った。本当に助けてやるなら、最後まで見と遂げて、始めて完成なのであり私のように任期があり、その間だけでは、むしろ助けたのでは無く中途半端に、その子の人生を狂わしてしまったような気がする。一人は大学まで行ったが、それはその子の意志の強さからである。他の子は学校へは行ったが、最終的に、またも如何わしい所で働く事と成っていた。 途上国では家族が主であるから、自分の夢などを追えない。追ったとしても、そこには貧しさしかなく、家族が食べる為に働くしかないのである。 だが、そこには家族愛が存在していた。家族愛が存在するために、自分を犠牲にしているのが彼女たちである。私は家族愛が無く育ったので、羨ましい部分はあったが自分では家族愛を望んでいたが、別方向に走っている自分が居たのである。 私は二度の離婚をしている。そこには母親の愛を知らない自分が居て、自分で生きて行く方法を取った少年期と、愛する人を失った青年期を引きずっている。 私は父からの援助なしで、独学でコンピュータを学んだ。貧しいから自分で努力し、むさぼるような男であったと思う。だから自分に厳しくした部分もあり、他人にも厳しかった。だが、ある時期から変わった、それは学生を教える事に成ってから他人の為にと言う気持ちが芽生えたのである。 所詮、自分は個であるし、自分の運命は変えられないと思っている。だが、自分の生きた道で何かを残せれば成功であろう。
2013.09.01
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