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この映画はノンフィクションである。村上春樹の小説を、日本語からデンマーク語へ直接翻訳してきた翻訳家に密着取材したドキュメンタリーである。というのは正確ではない。確かにそういう側面もある。彼女は日本語を読み、話し、聞く。勿論書けるかもしれないが、映画にそのシーンは出てこない。彼女は今村上の初期作品を訳している。「完璧な文章などと言ったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」『風の歌を聴け』の冒頭である。これをどう訳すかでいろいろ悩んでいる。欧米人の目から考えてみよう。彼らにとって「完璧な文章」が存在するとすればそれはまず聖書である。しかし村上によれば聖書すらも完璧な文章ではない。ではそれは瑕疵なのか。とんでもない。村上はこうも言う。「完璧な絶望は存在しない」。つまり、突破口はある、希望はある、道はあるということだ。神を信じられないからといって絶望することはない、そういっているようにも聞こえる。勿論この映画の翻訳家や、世界中の村上春樹の愛読者が、そういったことを意識して読んでいるとは限らない。またこうしたものの見方はキリスト教を意識した偏ったもの見方であって、東洋人には東洋人の、日本人には日本人の読み方があっていいはずである。勿論、デンマーク人にはデンマーク人の読み方が。その際、彼女は、もし村上がデンマーク語で小説を書いていたら、どのように文章を綴っただろう、と考える。だから重訳ではなく直接の翻訳にこだわるのである。文章の意味をきちんと伝えるだけでなく、その文体、雰囲気も正確に伝えなければならない。その結果、彼女の翻訳を読んだデンマークの読者は彼女こそが村上そのものだと思い、他の人の翻訳を受け付けなくなった、という。ここまではノンフィクションについて語ってきた。ところが、この映画はそれだけではないのである。『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』のように、もう一つの世界が交錯する。そこでの主人公は「かえるくん」だ。かえるくんは、森から出て、翻訳家を追いかけ、語り掛ける。無論直接ではない。二足歩行するかえるをみたらいくら村上世界に親しんでいる彼女でもびっくりするだろう。かえるくんのいうところによれば、みみずくんと戦うために「きみ」のちからが必要なのだという。どうやらみみずくんは地下の(無意識下の)悪らしい。かえるくんは「きみ」に協力を求め、「きみ」はそれに応じた。夢の中で。ドリーミング村上。みみずくんは深手を負った。けれどもまだ戦いが終わったわけではない。けれど絶望することはない。「完璧な文章などと言ったものが存在しないように、完璧な絶望も存在しない」のだから。【中古】 風の歌を聴け 講談社文庫/村上春樹(その他) 【中古】afb
2019.10.19
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『蒼穹の昴』及び『珍妃の井戸』の続編である。『蒼穹の昴』の冒頭、老占師にお告げをもらったのは李春雲だった。物語は、春雲と彼の親友、梁文秀を軸に、歴史上の人物を巧みに織り交ぜて展開した。『中原の虹』で、同じ占師がお告げをする相手は、張作霖である。歴史上の人物だ。物語は、彼とその宿敵、袁世凱を軸に虚実織り交ぜて展開される。春雲や西太后、光緒帝、トム・バートンやミス・チャンのようなおなじみの顔ぶれも登場するが、どちらかと言えば脇役にすぎない。脇役の中でも、実在の人物の存在感は圧倒的である。例えば西太后。彼女は死してなお影響力を発揮する。もちろん、小説だからできることである。例えば光緒帝。あえてひらがなばかりで表記された彼の電文は読む者の心を打つ。トム・バートン。彼の死は、小説を読む者のの心に永くとどめられるだろう。歴史上の人物も負けていない。宋教仁。最後の演説は圧巻であった。袁世凱に暗殺されたことになっているが、小説家は、通説を拒んだ。それは正解だったと思う。浅田次郎は、この小説で、見事、「西太后を美化しすぎる」という批判に応えた。同時に、袁世凱を気弱な俗物として描くことで、本当の巨悪の存在をあぶりだして見せた。「わが勲は民の平安」本書のキー・ワードである。清の「始皇帝」も、西太后も、張作霖も、袁世凱も、宋教仁も、思いは同じだったとあえて主張することで、本当に中国を食い物にしたのは誰だったのか、読者に語り掛ける。残念なのは、現在の台湾の方にこのキー・ワードがふさわしいにもかかわらず、中華人民共和国がバナナを牛耳ろうとしていることだ。「わが勲は民の平安」それが『1984年』のような平安なら、まっぴらごめんこうむりたい。【中古】 中原の虹(1) 講談社文庫/浅田次郎【著】 【中古】afb【中古】 中原の虹(2) 講談社文庫/浅田次郎【著】 【中古】afb【中古】 中原の虹(3) 講談社文庫/浅田次郎【著】 【中古】afb【中古】 中原の虹(4) 講談社文庫/浅田次郎【著】 【中古】afb
2019.02.16
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この小説、一応一人称の「主人公」がいるのだけれど。狂言回し、という感じ。喩えて言えば、シャーロック・ホームズの伝記を書くワトソンのような。そんなスタンスなのだ。では、この小説のホームズは誰かと言うと、「神谷」。「神や」の洒落かもしれない。主人公ともども芸人である。漫才師である。ただし、コンビを組んでいるわけではない。主人公は神谷を「天才」だと崇めている。そうかもしれない。そうでないかもしれない。判断は読者に委ねられている、と思う。それでも芸人として、漫才師として、一切の妥協を自分にも観る者にも許さない姿勢は確かに、尋常ではない。現実にこういう人がいるか、いたかはともかくとして、デフォルメされた漫才師を漫才的に描いたという意味では、特異な小説だと思う。また、先ほど、主人公の立場をワトソンになぞらえたが、このワトソンは漫才師だけあって、結構神谷にツッコミを入れる。この辺のやり取りも、この小説の面白さのひとつである。火花は、切ない。しかしその一瞬の輝きに、漫才師は己の芸のすべてを賭けるのかもしれない。【中古】【全品5倍】火花 / 又吉直樹【中古】 火花 / 又吉 直樹 / 文藝春秋 [単行本]【宅配便出荷】
2018.12.04
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分類に迷った。「歴史小説」というカテゴリーを作れば何ということはないのだが、これ以上は作れない。ドラゴンボールが出てくるから「幻想小説」と強弁できないこともないが苦しい。ましてや「歴史」にも入れ難い。「大衆小説」にしようかどうか悩んで、ここに入れることにした。再読、三読に耐えうる作品だからである。西太后の描き方には異論もあろうが、発端は乾隆帝の苦悩と決意なのだから、小説の中で彼女を責めても仕方がない。百聞は一見に如かずなので、詳しいあらすじを書くことは避けるが、この小説で感動的なシーンは雄弁とともにある、而して最も感動的なシーンは無言のうちにある、とだけ言っておこう。なんだか謎かけのようだが、読めばおのずからわかることだ。未来の不具は記憶が薄れて、これを読んでも何のことか思い出せないかもしれないが、やはり、読めばわかるだろう。それでいい。蛇足ながら、この小説は1996年、香港の中国返還の前年に上梓された。それを鑑みると、李鴻章の描き方はまことに時宜を得たものだった、と言えるだろう。【中古】 蒼穹の昴(上) /浅田次郎(著者) 【中古】afb【中古】 蒼穹の昴(下) /浅田次郎(著者) 【中古】afb
2018.06.09
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時代小説が苦手な読者にはまず、映画『赤ひげ』をお薦めする。それから映画の原作であるこの本を読むとよろしい。きっと物語の世界に引き込まれるだろう。全八話の連作短編集は、はじめのうち、映画に忠実だ(という言い方をあえてする)。「狂女の話」「駆け込み訴え」「むじな長屋」。あとの五篇はおおむね原作のオリジナルで、黒澤明は小説のあちこちの台詞やエピソードをつまみ食いして、あの「おとよの物語」を作り上げたのだった。映画の後半における原作の断片。・狂女の話のその後。・女をめぐる赤ひげと保本の会話。・赤ひげが用心棒をやっつける(ただし、おとよという名前の女は出てくるものの、養生所で引き取ることはない)。・志村喬の当てこすりに対する「太鼓持ち医者」云々のくだり。・一家心中の話(ただし、長次は死んでしまう)。・母親が娘をくいものにする話。・保本の結婚。・結末。こうしてみると、映画は原作から「悲惨な部分」を抽出し、再構成したらしいことが感じられる。「三度目の正直」の恋多き色男のどこかしらユーモラスな話はまるまる削られ、おかげで映画ではお杉さんは独身のままだ。もっとも小説でも森半太夫とお雪さんの関係は微妙だが。「徒労にかける」で赤ひげに襲い掛かる用心棒を雇ったのは医者だった。彼らは女郎長屋とつるんでいて、女たちの主治医でありながらまともな診療もしない。それを赤ひげが時々訪れて無料で診たりするものだから気に食わなかったのだ。「鶯ばか」は例の一家心中の話である。もっともタイトルのもとになったのは、近辺に住む、自分にしか見えない鶯の音色を楽しむ男の話で、左卜全あたりが演じたらさぞ哀れにもユーモラスだったろう。「無知と貧困」は『クリスマス・キャロル』だけの話ではない。「おくめ殺し」は、地上げのため長屋を追い出されそうになった住人が、結託して大家を「追い詰める」話。貧しい人々が長年タダで、つまり家賃も払わずに暮らしていけたその理由は何であったか。「氷の下の芽」では、わが子をくいものにする母親から逃れるために、年頃の娘がとった行動とその結末が描かれる。結末については言うまでもない。日本文学に魅力的な男性は少ないが、新出去定は間違いなく十指のうちに入るだろう。【中古】 赤ひげ診療譚 新潮文庫/山本周五郎(著者) 【中古】afb
2017.08.07
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昔図書館から借りた本。『こころ』のパロディであるということ以外付け加えることはほとんどない。世界文学に伍する漱石の傑作と比べて、こちらの方は読んでも読まなくても魂を揺さぶられるような深い感銘を受けるとも思えないが、しかし、「先生」が生きたまま「彼岸」に行ってしまったのは衝撃だった。なるほど謎は謎のままに終わるわけだ、とそこのところだけ妙に感心したのをいまだに覚えている。百聞は一見に如かず。興味を持たれた方は読んでみるべし。お薦めしないけど。【中古】 彼岸先生 /島田雅彦【著】 【中古】afb
2016.11.21
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愛に不感症の青年と性に不感症の人妻の悲劇の恋愛。しかし悲劇は性愛に目覚め、従順になった女の側に一方的に訪れる。絶望した女は遺書を残して滝に身投げするのであるが、男の方はただ、エピローグで「丁度俺の立っているこの下のところに小さな滝があったんだ」と述懐するばかりである。『永すぎた春』、『美徳のよろめき』よりもより純文学的であり、劇的であることは認めよう。ただ、どうも作りが人工的である。なるほど精巧ではあるが、仏作って魂入れず、と言えば失礼だろうか。サイデンステッカー氏が三島由紀夫の小説をあまり好きでないと言った理由がわかるような気がする。一応現代日本文学に分類するけれども、筋書きだけを追うなら、小説よりも映画に向いているようだ。新潮文庫【今だけポイント3倍】【1000円以上送料無料】沈める滝/三島由紀夫
2014.05.20
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さて、『イエスの生涯』によれば、弟子たちはイエスの死後、「目覚めた」、と言う言葉はつかっていないが、要するにイエスの真意に思いあたった。そして熱心にイエスの教えを広めた…という。だが、本書を読むと原始キリスト教が一枚岩でなかったことがわかる。おそらくイエス自身は自分がキリスト教を説いている、などという自覚はなかったろう。彼の直弟子たちもまた、イエスの死後彼をますます敬愛し愛の教えを広めたけれども、それはあくまでもユダヤ教の範囲内であった。安息日ひとつとっても、律法を超えた言動がいかに危険であるか、弟子たちはイエスの死に様をみてよく知っていたのだ。そういう意味で、遠藤氏の言葉を借りるなら、ペテロたちはなお「弱虫」であったといえよう。だがここに激烈なる革命家がいた。「ローマ人への手紙」を書いたポーロである。彼はイエスの教えは異邦人にも当てはまるのだと考えた。割礼を受けたユダヤ人にむけてのみ愛の教えを説いたとて何になろう。ペテロはひそかにポーロに共感した。しかし教団を運営する立場にある彼はどっちつかずの優柔不断な態度をとらざるをえなかった。ポーロたちの布教により、イエスの教えはユダヤ人以外の民族にも広まっていき、ユダヤ人のためのメシアではなく、諸民族のキリストであるという思想がじょじょに広まっていった。そうした折も折、時の皇帝ネロの弾圧により、ローマの属州であったイスラエルのユダヤ教徒は壊滅状態に陥ってしまう。しかし「一粒の種もし落ちずば」であった。蒔いた種は実ったのだ。しかも皮肉なことに、ユダヤ人のためのイエスの教えが滅びてしまったがゆえに、逆にそれ以外の地域で残ったイエスの教え、ポーロたちが異邦人に説いた教えが、「キリスト教」として立ち上がったのだ。まさに「キリストの誕生」の瞬間であった。…という風に一読して理解したけれど、どこまで正確に理解したのか、心もとない。百聞は一見にしかず。どうぞ現物に当たってください。【中古】 キリストの誕生 新潮文庫/遠藤周作【著】 【中古】afb
2014.04.16
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内容的にはほぼ『私のイエス 日本人のための聖書入門』と同じ。ただ『入門』がくだけた感じで読者に語りかけているのに対し、本書はきりりとしたたたずまいであり、より考証的である。英語、イタリア語、中国語に翻訳され、国際的文学賞ダグ・ハマーショルド賞を受賞した本だけのことはある、と思う。実を言うとこの本を読むのは初めてではない。以前は『キリストの誕生』とまとめて感想を書いた。そのくせ、内容をすっかり忘れてしまって『私のイエス』に感動したのだから世話はない。やれやれ。【中古】 イエスの生涯 新潮文庫/遠藤周作(著者) 【中古】afb
2014.04.15
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これも学校の図書室から。アントワネットによく似たマルグリットとその周辺の出来事はフィクションだけど、王妃という「女の一生」を生きた女性については歴史に沿って描かれた歴史小説である。ことに圧巻はルイ16世一家のパリからの逃亡劇で、これを読むだけでも本書を紐解く価値はある。遠藤周作といえばカトリックで、この小説にもでてくるが、ちっともバタ臭くないのは勿論舞台がフランスだからであろう。善良だが無能な国王(ややイエスくさい)と、誇り高いが我儘だった王妃の悲劇についてはいまさら語るに及ぶまい。またギロチンにまつわる政治劇についても。むしろ作者があえて大きく歴史離れした修道女のアニエスに、作者自身の分身を見る思いがした。… 【中古】文庫 王妃 マリー・アントワネット(上)【画】 【中古】文庫 王妃 マリー・アントワネット(下)【画】
2014.04.11
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書店で立ち読み完了。タイトルが長いわりに氏の長編のなかでは比較的短い。最終章で地下鉄サリン事件が出てくるということは、今までSF的に外挿された物語群と異なり、物語世界とこの現実が地続きで連なっているということだ。構成は起承転結にわかれる。3章までが起、8章までが承、13章までが転、その後が結。アフォリズム(警句)だらけのビルディングス・ロマン(成長小説)。読者の想像に任される余韻ある結末。「悪霊」は「不条理」と言い換えてもいいかもしれない。「理不尽」と言ってもいいかもしれない。単純に「悲劇」ということもできるだろう。悪霊を断ち切り、悲劇の連鎖を食い止めることはできるのか。できるとしたらどうすればいいのか。「絆」は修復可能なのか。すべての答えは、この小説のなかにある。12/13(金)10:00~16(月)1:59までエントリー&買いまわりでポイント最大20倍!【中古】単行本(小説・エッセイ) 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年【05P20Dec13】【画】【中古】afb
2013.12.29
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中編に近い短編を2編収める。どちらも暗い話。題材的には芥川賞的だが、文体がやや生硬である。表題作のヒロインは、ハンサムだが甲斐性のないタカリの夫から日本に逃げてきた中年女性。無口な日本人男性と結婚するが結婚生活は幸福とは言えない。義兄の視線に怯え、姑と心通わせる日々。生きがいは日中お見合いコンサルティングだが、お客さんの一人に恋してしまい…「老処女」。五の倍数の歳には幸運が訪れるというジンクスを持つヒロインも45歳。山岸凉子の『天人唐草』を思い起こさせるやるせないお話。日本文学というより、現代日本語で書かれた中国文学という印象を持った。【送料無料】ワンちゃん [ 楊逸 ]【中古】afb 天人唐草 自選作品集(文庫版)-山岸凉子-【メール便可 送料100円】
2013.12.16
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中央公論新社刊の『恋しくて』より。翻訳物の現代恋愛小説短編集の巻末に数合わせで載せられたものを、これだけ書店で立ち読みした。ご覧のとおり『変身』のパロディ乃至後日譚といったところだが、時間軸をどう見るか。パラレルワールドなのか、連続しているのか。検問所とか戦車とかは世界大戦を連想させるが、まさかそんなに長く眠っていたわけでもあるまい。だいいち原作で虫になったザムザは確か死んだはずだ。一方、人間として目覚めたザムザがかって虫であったことはくどいほど暗示されている。するとやはりパラレルか。だとしても疑問は残る。ここは、虫になったザムザが死なずに人間に戻った世界なのか、もともと虫であった「生命体」がザムザになった世界なのか。たぶん、そういうことは読者が勝手に考えればいいことなのだろう。なぜなら、これは恋愛小説なのだから。相手は錠前屋の娘。またもや暗示。しかもせむしだという。ザムザは彼女を愛しはじめる。変態だからではない。なぜってザムザは元々人間であったにせよなかったにせよ、元虫だったから。しごくノーマルな恋愛なのである。ただストレートな恋愛小説はほとんど書きつくされている。そこでこういうラヴ・ストーリィの登場となるわけだ。>>期間限定<< ★中古品【ポイント10倍】 2013/12/23 09:59まで【中古】【書籍 ハードカバー】村上 春樹 恋しくて【中古】afb【10P20Dec13】【中古】 変身 他一篇 岩波文庫/カフカ(著者),山下肇(訳者) 【中古】afb
2013.11.28
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仕事中毒の夫と、夫依存症の妻の話。日記を読んでいると、「明らかに妻がおかしくなっている」ように思えるのだが、エピローグで大逆転。一体、おかしいのは妻なのか、日本社会なのか。分類をどうしようか迷ったけれど、何となく語り口や手法に太宰治を連想したので、現代日本文学に入れることにした。有川さんの本は10冊以上読んでいまだここに入れていないのに。まあブログ主の趣味の問題と思ってください。【中古】 おしまいの日 / 新井 素子 [文庫]【あす楽対応】
2013.11.12
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遠藤周作はクリスチャンだった。キリスト教で大文字の「彼」といえば主のことを指す。もしくはイエス・キリストを。福本一平はもうひとりの基督だった。ただし彼が守ろうとしたのは、人間ではなく猿だった。口の不自由な自分が友だちから苛められたように、動物たちも動物であるという、それだけの理由で人間たちから苛められている。群から連れ去られ、狭い檻のなかに入れられ、研究所や動物園に送られる。彼は弱虫である。好きだった幼馴染がせっかく未亡人になったのに、他の男に盗られてしまうのをみすみす指をくわえて眺めてしまうような、情けない男である。けれどもとても純粋だ。処世術より自己保身より、猿のことを第一に考える男である。だから、雪の中に猿とともに消えて行った一平を、ハンターたちは撃てなかったのだ。『おバカさん』の主人公、ガストン・ポナパルトも同じようなタイプの人間だった。というより、現代にキリストを再臨させようとすれば、どうしてもこうなってしまうのかもしれない。処分本NO.235。 【中古】文庫 彼の生きかた【SS10P03mar13】【画】【中古】afb
2013.03.12
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言葉はなべてある事物や概念の隠喩(メタファー)であるとすれば、言葉を言葉で語る、つまりメタファーをメタファーで語るという行為はきわめて詩的でメタ言語的なものになるはずだ。そもそも円城塔という筆名からして何やら暗示的である。図書館の新刊書コーナーでパラパラめくって借りてきたが、あっという間に読んでしまった。理学部出身の作家だけあって、ロジカルな言葉のマジカルな展開に長けているという印象を受けた。「道化師の蝶」はシュリーマン裸足のポリリンガルな友幸友幸という作家の作品の翻訳紹介に始まる「霊感」の話だし、「松ノ枝の記」は、作家と翻訳者が相互に浸蝕し合うどころか、作家の内部で二重人格よろしく二つの個性が浸蝕し合う物語だ。なお、ザセツキー症は架空の病気かと思ったらそうではなかった。いっそ架空の病気だったらよかったのに。文章は下手ではないし同時に芥川賞を受賞した『共喰い』よりも好みだが、お洒落な文体に芯が感じられなかった。と思って検索してみると、もっとうまい感想を書いた人がいた。だから今日はここで筆を擱くことにする。 【中古】 afb【古本】道化師の蝶/円城塔
2013.01.20
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アメリカで出版された村上春樹の短編集の日本版。時代は異なるがジェイ・ルービン編の『芥川龍之介短篇集』みたいなものだ。順番に見ていこう。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『ねじまき鳥クロニクル』第1部第1章。全体を読んでしまった今となっては、感想を書くのが難しい。「パン屋再襲撃」小説好きなら誰もがあの作品を連想すると思うが、その風景の何と現代的なことか。「カンガルー通信」苦情に対する返信の、なんと人を食った表現。これでは怒る気も失せてしまう。「四月のある晴れた朝に」ジャック・フィニィの掌編のような美しくも切ないすれ違い。「眠り」眠れないという彼女の告白を文字通り受取るもよし。しかしおそらく彼女はこんこんと眠り続けているのだ。病院のベッドの上で。「ローマ帝国の崩壊、一八八一年のインディアン蜂起、ヒットラーのポーランド侵入、そして強風世界」個人的な、あまりに個人的な日記表現。「レーダーホーゼン」翻訳版を逆翻訳した移植異色短編。夫婦の機微は難しい。「納屋を焼く」現代の悪魔は大分狡猾になった。自分では手を染めず、ただほのめかすだけ。「緑色の獣」SFかファンタジーに近い掌編。彼女の行動は残酷に見えるが、「踊る小人」を読んだ後では正しかったのかもしれないと思う。「ファミリー・アフェア」妹の彼氏の名前が、あの綿谷昇と似ているのが気になる。「窓」英語の窓からIを引くと、未亡人になる。「TVピープル」『1Q84』のリトル・ピープルを連想させるどことなく不気味なお話。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」との親和性。「中国行きのスロウ・ボート」僕が昔を振り返り、それぞれ違う時期に会った三人の中国人との記憶を回想するお話。作者のごく初期の短編で村上色はまだ強くない。なお、スロウ・ボートとは貨物船のこと。「踊る小人」設定的に完全なSF。あるいは寓話、ファンタジー。小人の罠はメフィストフェレスのように底意地が悪い。「午後の最後の芝生」埃をかぶった娘の部屋。女の娘はもうここにはいないのだろう。いや、はじめから存在しなかったのかもしれない。「沈黙」今までの小説には大都市のもつ無国籍性、国際性があった。この小説には珍しく日本人の固有名詞が登場する。それはおそらく偶然ではない。けれど中身は何処の国でも普遍的なものだ。安部公房の土着的無国籍性を村上春樹的に処理するとこうなる。「象の消滅」底流に流れる深い諦念が、この短編の文学性を高めている。 【中古】単行本(小説・エッセイ) 「象の消滅」 短篇選集 1980-1991【10P11Jan13】【happy2013sale】【画】【中古】afb
2013.01.15
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第2部まで読み終わった時点での直観は大体当たっていた、と思う。ただ加納クレタは「僕」の分身ではなかったようだ。むしろ、笠原メイとともにクミコの分身だったらしい。驚いたのは、第3部で『1Q84』の牛河がここで登場することだ。いやむしろ逆か。時系列的には、『1Q84』で牛河が登場した時、なぜ『ねじまき鳥クロニクル』の彼がここで登場するのかと驚かなければならなかったはずだ(だが生憎、不具にとってはこの本が、最後に読み残した村上春樹の長編なのだ)。閑話休題。第3部はかなり複雑な構成になっている。勿論根幹にあるのは現代に繰返される神話の年代記なのだが、そこに作者の愛読書である『グレート・ギャツビー』の影響が色濃く見られると思う。ただし「僕」はオルフェウスやイザナギやギャツビーと違って、大きな犠牲を払いながらもクミコを奪還することに成功する。だがそれだけではクロニクルにならない。年代記として成立するためには、間宮中尉や赤坂ナツメグ・シナモンの時代から続く、ねじまき鳥をめぐる因縁と運命の物語が必要であった。国の歴史と個人の歴史は、決して無関係に存在するのではない。昔は昔で大変だった。何しろ戦争だったから。けれど今だって、「近代資本主義」とその「システム」に絡め取られた「個人」が「力」に刃向うのは至難の業だ。それを詩的に象徴とメタファーを用いて不可能を可能にしたのがこの物語なのだろう。あるいは「力」を「運命」と置き換えてもよい。作者がどこまで計算してこれを書いたのかはわからない。ただこれだけは言える。『ねじまき鳥クロニクル』はこれまでの村上春樹の仕事の集大成であり、これを書いたことによって『1Q84』が生まれたのだ、と。いずれにせよ、繰り返し味読すべき本である。買取時のポイントが10倍!本・ゲーム・DVDなど買い取ります。申込はこちら【中古】 afb【古本】ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編/村上春樹
2013.01.11
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本当は第3部まであるのだが、当初第2部までで終わる予定だったと作者が語っているのでここまで読み終わった時点での感想を書く。いつもの話と言えばいつもの話だ。『ダンス・ダンス・ダンス』でそうだったように、『ノルウェイの森』でそうだったように、「僕」は失われた女性を追い求める。その過程で別の女性とかかわりを持つ。話を聞く。違うのは、今度追い求めるのは彼の妻であり、彼女がまだ生きている点である。ねじまき鳥とは僕が自分につけた名前だ。そういう意味では「バード」に近い。勿論話の筋は違う。違うが、共通点もある。どちらも神話的なのだ。ただしこちらは黄泉比良坂、あるいはギリシャ神話をモチーフにしている。井戸はイドに通じるとすればフロイトも入っている。間宮中尉や加納クレタは僕の分身であり、加納マルタや本田さんは触媒だ。性的イメージの描写には個人的に辟易しないでもないが、神話の復権ととらえれば納得もいく。なかなかよくできている、と思う。解題によれば、これまでの作者の小説と違って、「僕」は事件に巻き込まれるだけではなく、積極的に事件に関わりあっていくのだという。なるほどそうかもしれない。この後の『海辺のカフカ』にもそういう傾向がみられるし、『1Q84』ではもっとそれが強く表れている。もう一つ。過去は現在と決して無縁ではない、というメッセージがある。大きなところでは国や民族の歴史、小さなところでは個人の生き方や秘密。バトンは間宮中尉から「僕」に引き継がれたのであり、過去を引き継ぎつつその呪縛から解き放たれるために、主人公は闘わなければならない。それがどんなに困難な道のりであろうとも。 【中古】文庫 ねじまき鳥クロニクル泥棒かささぎ編 【10P11Jan13】【happy2013sale】【画】【中古】afb 【中古】文庫 ねじまき鳥クロニクル 2部【10P11Jan13】【happy2013sale】【画】【中古】afb
2013.01.10
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『羊をめぐる冒険』の続編。「僕」にとっているかホテルとは何だったのか、羊男とは何だったのかをめぐる自分探しの旅の物語。作者がいみじくも語っているように、両者とも「僕」の「デフォルメされた自己核」であり、言ってみれば一種の精神的な聖地巡礼譚のようなものであろう。いるかホテルに来ると、そこはモダンなホテルに変わっていた。キーワードは高度資本主義とシステムとかっこうだ。ドルフィン・ホテルという名前は変わらないのに、そこには断続された連続性があった。羊男と再会し、かつての耳モデルの女性を探すうちに、僕はいろんな事件に巻き込まれる。最大の転機は13歳の少女ユキの出会いと、中学の同級生五反田君との再会だろう。大人はいつも、デフォルメされた子どもの頃の自分だ。六つ目の骸骨は果たして誰だったのだろうか?ジューンと考えられないこともないがそれでは月並みだ。羊男と考えられないこともないが彼は結局「デフォルメされた自己核」だから僕自身だ。余韻を残すために、ここは断定しない方がいいのだろう。作者が書いているように、やや楽しみすぎて書いているきらいもあるが、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』の緒作と決して無縁ではなく、むしろ深いところで繋がっているお話。ただし、SFにもミステリーにもファンタジーにも興味がなく、都市的で無機質で透明な文体と語り口、それに著者独特の性的描写が嫌いな向きにはお薦めできない、かもしれない。【中古】 ダンス・ダンス・ダンス(上) / 村上春樹【中古】 ダンス・ダンス・ダンス(下) / 村上春樹
2013.01.08
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この小説を初めて読んだのは、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』を公立図書館で手にするずっと前のことだった。高校の時のクラスメートに「あんなアメリカンでお洒落な小説を日本語で書けるってすごいね」と褒めたら、「私もそう思うわ」という答えが返って来たのを覚えている。実際、ヴォネガットみたいな物語構成だと思ったし、今でもそう思う。今回読み返したのは、『ダンス・ダンス・ダンス』が本編の続編だと知ったからである。こちらはまだ読んでいない。『ねじまき鳥クロニクル』を除けば、村上さんの長編で唯一未読の小説だ。まあ復習である。驚いたのは、『1Q84』との奇妙な類似性だ。どちらにも黒服の男がいて、権力に関与しており、主人公に圧力をかける。違いはただ、僕か青豆か、空気さなぎか羊か、リトル・ピープルか鼠か、戎野先生か羊博士か、リーダーか羊男か、中野あゆみか耳モデルか、という違いだけのようにもみえる。どちらにも右翼や権力や短絡的なものの見方や即断即決などに対する深い懐疑があり、主人公は最終的に自分が入った世界からの脱出を果たす。どちらもSF的、あるいはミステリー的である。勿論文体や世界観や性的な描写を含むその他もろもろは、『1Q84』の方がずっと洗練されている。当たり前の話だ。それでもここにはそれまでの鼠と僕とジェイの物語にはみられなかった、村上ワールドの原点がある。著者の精神的な意味での処女作と言えるだろう。【中古】 羊をめぐる冒険 (上) / 村上 春樹 [文庫]【あす楽対応】【中古】 羊をめぐる冒険 (下) / 村上 春樹 [文庫]【あす楽対応】
2013.01.03
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日本語に訳せば「日が暮れて」か「日没後」か。けれどそう書くと村上春樹の小説の題名ではなくなってしまう。村上さんの長編の中ではたぶん最も短い小説。何しろもうすぐ日付は変わろうとする真夜中から、翌朝の曙までの短い時間の物語だ。場所は日本の都市部。JRの駅があるところならどこでもいい。そこでいろいろな事件があり、いろいろな話がなされるけれど、何ひとつ問題は解決しない。まるでもっと長大な長編小説の序章を読んだような気分にさせられる。顕著な特徴が一つある。それまでの小説の語り手は「僕」だった。この作品では「私たち」になっている。読者が語り手に誘われて、深夜映画を観るような感じだ。時制は常に現在形であり、ほとんど完全な三人称の物語であり、完全な鳥瞰小説でもある。『1Q84』の雛形と言ってもいいかもしれない。今までの作者の文体とはいささか異なってはいるが、文章は相変わらず明晰だ。明晰すぎて詩的なくらいである。そういうところは谷川俊太郎さんに似ている。ただしこれは散文である。人によってはただ煙に巻かれているという印象を与えるだけかもしれない。ゆえに村上作品は日本の一部の文芸評論家よりも外国の批評家に評価される、のだろうか? 【中古】単行本(小説・エッセイ) アフターダーク【画】
2012.12.31
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村上さんの小説は音楽的だ、と思う。うまく言えないがとても音楽的だ。この小説もその音楽性によって救われている、と感じる。例によって語り手は「僕」だ。イニシャルはどうやらKらしい。小学校の先生である。保護者と不倫の関係にあるらしい。彼には好きな人がいる。すみれという名前だが描写的にお世辞にも美人とは言えない女の子だ。小説家になるのが夢で、大学を中退し、ある女性の会社で働くことになる。経営者の名前はミュウ。猫みたいな名前で、そういえば物語中にも猫が登場する。彼女は日本人と韓国人のハーフだ。すみれはミュウに恋をした。だが、仕事先のギリシャで、すみれは忽然と煙のように消えてしまう。このへん、のちの『1Q84』を連想させないでもない。みなまで語って読む人をげんなりさせてしまうのはよそう。最後に一言だけ。村上さんの長編の中では比較的短いこの本のエッセンスは、おそらく次の一節に縮約されていると思う。「わたしはそのときに理解できたの。わたしたちは素適な旅の連れではあったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね」 【中古】単行本(小説・エッセイ) スプートニクの恋人【画】
2012.12.30
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最初この本の数頁をめくったとき、これは村上版『こころ』かと思った。先に進むにつれ、その印象は微妙に修正され、堀辰雄のサナトリウム小説や、『車輪の下』あるいは読んだことはないがマンの『魔の山』などの書名が思い浮かんだ。ワタナベ・トオル君の本の好みからして、一人称で語られる主人公には作者自身が投影されているのではないかという予感があった。あとがきに「個人的な小説」とあるのをみて、その思いは強まった。だがこれは、大学のモデルに早稲田のにおいがするとはいえ、太宰流の「私小説」では、勿論ない。終始カタカナで呼ばれることからもわかるように、彼は透明な存在である。あるいは媒体と言った方が適切か。存在感がないというのではない。彼は彼なりに真面目で誠実に1969年を生きる青年なのだが、左手に死者たちの世界を、右手に生者の営みを意識して抱えている存在なのだ。こんな風に。キズキ―直子―レイコ―僕―石田玲子―小林緑―永沢直子は『1973年のピンボール』と同じ名前。おそらく意識してつけたのだろう。上記に挙げた人たちはみな頭のネジが緩んでいる、あるいは締りすぎている人たちだと思う。名前つきでまともなのは永沢の恋人のハツミさんくらいか。だがその彼女も自殺してしまう。直子とレイコさんはこの時代の言葉で言うと精神分裂病だ。突撃隊には今の言葉で言うと自閉的傾向がある。両者はともに「自分の世界」と「世の中」との折り合いをつけるのに苦労するという点において似通っている。ただ分裂病、すなわち統合失調症は幻聴や幻覚を伴う。それが大きな違いである。ワタナベ君を性的に不誠実だと評するのはおそらく間違っている。不誠実なのは永沢の方だ。トオル君は生者の世界に惹かれながらも、なお過去にとどまっていた。だが、人が過去の思い出に対して誠実であろうとするなら、結局は直子のように過去に殉ずるしかなくなるではないか。だから、物語の最後で、おたがいに自分の過去と踏ん切りをつけるためにレイコさん(石田玲子)と僕は交わったのだ。彼がまだ弱冠二十歳の大学生であることを、忘れてはなるまい。そう、あれは一種の通過儀礼だった。おそらくこれからワタナベ君は、父を亡くした緑とともに、コミカルに未来を生きていくのだろう。チャーリーとルーシーのように。生きている限り、人生は喜劇なのだから。「やれやれ」。…【中古書籍】【5000円以上送料無料】【全巻セット】ノルウェイの森/上下巻/完結/村上春樹/ハードカバー【中古】[☆2]
2012.12.24
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他人の家庭の不幸は蜜の味、とまではいかなくても、フィクションを読むときの密やかな愉しみのひとつではある。実生活でごたごたが起きていて、何が楽しゅうてそういう本を読まねばならないか。しかし作者は、まさに「実生活の白兵戦」のさなかに、この戯曲を書いたのだった。啄木の家庭が不幸であったことはよく知られている。一家全体を20代の啄木が支えなければならないことによる貧乏、借金、生活苦、そして放蕩…そんな中常に変わらぬ友情を示してくれたのが金田一京助君だった。だが彼もまた、妻との関係に悩む一人の男性だった。この戯曲がどれほど事実に基づいているかはよくわからない。おそらく全般においてひさし的に戯画化されていると思うが、大体事実だろう。節子と宮崎氏の関係のことは浅学にして知らなかったが、『ローマ字日記』における赤裸々な告白を読んでも、啄木に妻を責める資格はない。なおこの作品では「啄木」ではなく「一」と表記されている。それだけ作者が人間石川啄木の真実に迫りたかったということだろう。
2012.05.30
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きわめて映画的な小説『個人的な体験』に、火見子が自分の多元宇宙論を語るくだりがある。すなわち、この世界は一人の人間が決断を迫られるたびに分岐して、個人はもちろんある決断をした側に生きているわけだけれども、向こう側にはそれをしなかった宇宙があり、かくて宇宙は無限に枝分かれしていく、というものだ。その伝でいくと、表題作はまさにもうひとつの宇宙である。作曲家Dは脳ヘルニアと誤診された我が息子を殺し、水子ならぬ空から降りてくるカンガルーほどの大きさの赤ん坊の霊に憑りつかれている。クリスマス・イブに彼はトラックに轢かれて死ぬのだが、それは果たして神の恩寵だったのだろうか?ただ、これだけは言える。キリストに罪がなかったように、赤ん坊にも罪はなかったと。「不満足」は『個人的な体験』の前日譚。これはもうひとつの宇宙でもなんでもなく、ストレートに七年前の出来事である。現状に不満を抱きそれをストレートに表すのは若者の特権。大人になれば早晩人は現実を受け入れるか、現実と妥協するすべを身につけるだろう。「スパルタ教育」はオチがユーモラス。言論弾圧など表現の自由を守るために断固戦うぞ! という姿勢は買う。「アトミック・エイジの守護神」は木乃伊取りが木乃伊になる話。原爆孤児を10人引き取って養子にした男。孤児が死んだら保険金が入ってくるのだが、いつしか自分が胃癌に侵され、しかも生き残った義理の息子たちは、養父に生命保険をかけていた。「ブラジル風のポルトガル語」は、ある日村人が一斉に消え失せる話。どうやら村の少年に食いついたエヒノコックスが契機になったらしい。彼らは葛飾区の工場でダウン症児と一緒に集団で働いているのが見つかった。半年後、少年は他界し、村人たちは村へ戻った。だがこれは予行演習にすぎないのかもしれない。次に「疎開」するのはブラジルかもしれない。「犬の世界」では、長い間行方不明だった語り手の私の弟が登場する。ところが彼はほとんど読み書きができず、無口で、暴力的である。堅気の世界の住人ではないのだ。まさに野良犬のごとし。だが彼は何と闘っていたのか?「敬老週間」はもっとも愉快な短編である。死期が近い老人が、世間から隔絶されている老人が、大学生たちを呼んで、世界の状況を教えてくれという。看護婦からできるだけ楽観的な気持ちで死ねるように言動に気を付けてとくぎを刺されているアルバイト三人組は、何とか老人を元気づけようと明るい話をしようとするが、老人はまるでソクラテスのように容赦がない。ところが実はこれが老人の余興だった…と、まるで星新一のショートショートにありそうなお話。…というように、ここに収められた短編はいずれも「日常の中にある異世界との確執」をモチーフにしている。目に見えないものへの恐怖、正体不明だけれども確かにそこにあるものへの恐怖、それに対してとる手段は二つしかない。逃げるか、闘うかだ。それにしても大江さんは反核とヒューマニズムがお好きな人である。手塚治虫さんの漫画がよく似合う。それがこの方の持ち味であり、悪く言えば限界なのだろう、と思う。 【中古】文庫 空の怪物アグイー【10P22Apr11】
2011.04.10
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大江健三郎は、実をいうとあまり好きではない。『芽むしり 仔撃ち』には感心したが、その左翼的な文学スタンスが好きになれなかった。またほかの小説も、性的なシーンの描写が好きになれなくて読み挿したままのものが多い。(村上春樹と同じように、大江健三郎においても性的な描写のシーンが重要な役割を果たしている。ただ村上の性が軽やかに乾いているのに対し、大江の場合陰鬱に湿っていて好きになれないのである)それにもまして決定的だったのは、『個人的な体験』だった。途中まで読み進めて不具は頁を閉じた。身体障碍者の青年が、障害を持って生まれたわが子の死を願う若い父親が主人公の小説を、好きになれるだろうか?以来今日まで、大江健三郎の小説は、一行も読んだことがなかった。不惑を過ぎて読み返してみても、主人公は相変わらず好きになれない。太宰治の私小説に出てくる退廃的で自虐的な「私」の戯画のようだ。ただ何度も挫折を経験したせいか、憎む気にはなれない。共感はしないが、同情する。その弱さを許してあげたくもなる。そう思って読み直すと、あらためて気が付いたことがある。この小説にはほとんど固有名詞が登場しない。主人公はニックネーム「鳥(バード)」で語られるだけだし、ほかの登場人物も妻や義母、医者など属性や肩書でしかわからない。数少ない固有名詞が主人公の浮気相手の火見子(卑弥呼)と、妻の回想に出てくる同性愛者の菊比古とくれば、これはもういうまでもなく神話的である。頭部に異常を持って生まれてきたわが子への思いを『個人的な体験』として語りながら、作者はそれを共通体験として普遍化しようと試みているのだ。日本神話によれば、イザナミとイザナギの最初の子供は、ぐにゃぐにゃした蛭のようなものであったという。今風に言えば、失調型の脳性まひ児、ということになろうか。二人の神様は泣く泣くその赤ん坊を川に捨てた。これが、一神教なき日本国の神様の原罪である。大江は、この原罪を下敷きに、八百万の神々に似せて創られた日本人の常識と世間を語り、ヒミコに御宣託を行わせている。最終的に、鳥はヒミコの御宣託に従わない。過去の亡霊キクヒコも振り切り、赤ん坊を堕胎医の手から救うべく、片目の車を疾走させる。まるで世の中のすべての赤ん坊が核兵器であり、たまたまわが子が負った頭のこぶがきのこ雲であるかのように、しかしいつ爆発するかわからない未来を背負って生きることが現代人としての宿命であり覚悟であると悟ったかのように。…今、初めて本書を手に取って途中で怒って読み挿したままにした昔の日のことを、ありありと思い出す。今回ようやく読了できて、ようやく作者と(一定の)和解ができた気がする。…【中古本】 個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)
2011.04.08
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実をいうと、三島由紀夫の小説にはあまり親しんでいない。SFが好きで初めて読了したのが『美しい星』だったせいもあるだろう。アフォリズムの巧みさには感心したものの、人工的な不自然さを感じてしまった。小説ではいまだに『潮騒』が一番好きである。戯曲はまた話が別だ。最初に読んだのが『朱雀家の滅亡』で、衝撃を受けた。『鹿鳴館』も好きだったし、この『近代能楽集』もそうである。舞台がすべて戦後なので『現代能楽集』でもよさそうなものだが、「近代」にしないと詩的で幻想的な雰囲気が壊れてしまう。内容的には喜劇と悲劇が4編ずつ。いずれも三島由紀夫ならではのアフォリズムに満ちているのみならず、小説にみられるようなややもすれば気取った装飾過多がない。科白の行間が緊密で詩的である。一部の隙もない。なお、解説はドナルド・キーン先生。「美と愛と死」の三角形か。うまいことをおっしゃる。「邯鄲」酔生夢死、というが、夢に生きて悟りをひらくより、金や女や名誉とは無縁であっても、平凡に生きるのが幸せなのかもしれない。「綾の鼓」老いらくの恋は自己満足であった。相手に届くためのもうひと押しが足らなかった。「卒塔婆小町」小野小町は魔性の女。ファム・ファタール。「花の色はうつりにけりな…」なんてあれは嘘。「葵上」能楽よりも原典の帖に近い味。「班女」太宰治の掌編『待つ』を連想。なお、ここまでの5編、いずれも「待つ」がモチーフ。「道成寺」女は硫酸を浴びず、過去と和解する道を選んだ。「熊野」ユヤの狂言をつつみこむ宗盛の包容力。「弱法師」視覚障碍者というより、障碍者一般の話として、親に対して暴君になりがちな傾向があると思う。他にぶつけられる対象がない場合は特に。しかしとんだソロモン王、いやむしろポーシャというべきか。【送料無料】近代能楽集改版
2011.03.28
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テンペスト、といえばシェークスピア、と思っていました。しかし同じ題名の本が日本にもありました。読んでみるとなかなかの本です。しかしこれは何に分類したものでしょう?時代小説?歴史小説?大河小説?最後のカテゴリーが、一番ふさわしいように思います。時代小説というには、舞台は琉球。お侍さんのチャンバラ小説ではありません。歴史小説というには、設定が荒唐無稽。大河小説とするのが、無難でしょう。舞台は幕末ならぬ琉球(琉は龍に通じます)王朝末期。主人公は、真鶴。またの名を孫寧温。男名です。真鶴のお父さんは、真鶴が兄より漢籍に詳しくても、無視していました。女では、官吏になれないからです。しかし真鶴の才能は、誰の眼にも明らかでした。意を決した真鶴は、女であることを捨て、「宦官」孫寧温として王宮に入ることになります。そこで彼女はさまざまな政敵に出会い、打ち負かし、挫折し、復活し…荒唐無稽な設定ですが、男性のふりをして難事を解決する女性はシェークスピアの作品にも出てきます。『ヴェニスの商人』のポーシャです。ただ『ヴェニスの商人』は喜劇でしたが、本書は違います。女性でありながら、男性以上の能力を持つ女性。日本の紫式部もそうでした。代表作『源氏物語』が伝奇小説であり歌物語であったように、『テンペスト』もまた和歌の代わりに琉歌を採りいれた、かの大河小説の末裔であると言えましょう。孫寧温が八重山に流され、また王宮に戻されるまでのくだりは、光源氏が須磨に流されながら許されて朝廷に返り咲いた挿話を彷彿とさせます。朝薫(薫の君!)はさしずめ頭の中将というところでしょうか。真牛こと聞得大君は弘貴殿の女御と六条御安所を足し、さらに卑弥呼がのり移ったような存在にして真鶴の影の分身。式部と同じように、この物語の作者も、主人公を自分と異なる性を持つ人物に設定し、ほとんど全能とも思える能力を与えました。皮肉なことに、その後も光源氏は恋に生き、孫寧温は政治の世界に身を置くのですけれども。本書は上下二巻に分かれています。上巻は「若夏」。女に生まれた真鶴が孫寧温として生きることを決意し、流刑になるまでの男の世界の話。下巻「花風」の前半は女を取り戻した真鶴が王の側室として生きる女の世界、後半は真鶴と孫寧温を行ったり来たりする一人二役の世界で、ここまでくるとなんだか笑えます。しかしそんな二重生活に転機が訪れます。真鶴の妊娠でした。みなまで語ると、これから読もうとする方の妨げになるので、これくらいにします。ただ、あまりに沖縄の歴史や風俗に詳しいので、もしやと思って調べてみると、やはり作者は沖縄出身。なるほど、当時の英国人、米国人、薩摩人、いずれもよく描けている国際感覚はそこから来たものか、と妙に納得してしまいました。今日は建国記念の日。思えば、琉球は王を失って日本領になりました。しかしかつての琉球王朝が、清国と薩摩の両方に仕えながらペリー提督との頭脳戦において勝利したように、現在の日本にも米中露の大国の思惑の間で、かつてない厳しい戦いを勝ち抜く知恵が求められているのですが…。男と女の間で揺れながら、それでも自分を全うした孫寧温、いや真鶴のように、日本もまた逞しく優しく生き抜いてくれることを、今日のよき日に願ってやみません。【送料無料】テンペスト 上(若夏(うりずん)の巻)価格:1,680円(税込、送料別)【送料無料】テンペスト 下(花風の巻)価格:1,680円(税込、送料別)
2011.02.11
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昔、三浦さんの『氷点』を読んで、覚えた違和感は今でも忘れられません。「なぜ、わざわざこうした事件を、日本人の精神性や風土と異なる『原罪』という観念で裁かねばならないのか?」正直言って、作者がクリスチャンだから、ということ以上の小説的必然性をその時不具は認めがたかったのです。けれどもこの本は違いました。明治を舞台に、日本人の精神性を尊重しながら、まさにその日本的風土によっていわれなき差別を受けるキリスト教徒。どこにでもいそうな主人公の少年は、身近にそうした人たちをたくさん見ながら、だんだんとキリスト教に目覚めていきます。もっとも、彼の一番の親友はクリスチャンではないのですが。だから、これは『次郎物語』のような一種の成長小説、教養小説といえないこともありません。しかしそれがぜんぜんバタ臭くないのは、実在の人物をモデルにしてこの小説が書かれているせいでしょう。行間に内的真実が漲っているのです。ふじ子のモデルが作者自身であろうことは置いておくとしても。…日本の長編小説の男子の主人公で、名前が印象に残る人物は数えるほどしかいませんが、永野信夫は間違いなく五本の指に入ります。不具は最後までこの本を読んで、久しぶりに泣きました。泣きながら、こころが洗われる思いがしました。図書館から借りたのですが、自分のものにしたくて、書店で買い求めました。四十年以上前の本なのに、絶版ではありませんでした。三浦さんの本全てをこのように高く評価するわけではありませんが、少なくとも『塩狩峠』は現代の古典だと思います。作者は賢明にも『信夫物語』などとはしませんでした。その代わり聖地の名前を小説の題としたのでした。永野信夫はクリスチャンとして死んだのですから。【中古】afb【古本】塩狩峠/三浦綾子
2010.11.19
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アテナイとスパルタの戦争を太平洋戦争になぞらえ、戦後のアテナイ市民と同じく戦後の日本人とを重ね合わせて書いたのではないか、という不具の直感は間違っていなかったようだ。普通こういう小説ではソクラテスが主人公になるものだが、小田氏の小説を読むと群集劇という印象を強く受ける。小田氏の言葉をつかうなら「私小説」ならぬ「全体小説」である。主人公は民衆一人ひとりであり、ソクラテスやその支持者たちもその構成員に過ぎない。小説の中で賢人の言葉にはそれなりに敬意を払われているが、一方、ソクラテスを現実に手を汚すことをしない理想主義者とみなし、政治は現実主義に基づくものでなければならない、というアンチテーゼや、ソクラテスはなるほど愛国者かもしれぬが、外国に行ったことがない、だから外からの目線でアテナイを見たことがない、などの意見にもそれなりに敬意が払われている。要するに絶対的な価値観というものはないのだ。ソクラテスが有罪になろうと無罪になろうと、死刑になろうと国外追放になろうと、「民衆」そのものは変わらないのだ、そしてそれでいいのだ、という価値観が全体を支配していると思う。それでは、ソクラテスとは何者か? 極東軍事裁判によって絞首刑にされた東条英機だろうか。否、もっと大物である。ソクラテスは本来無罪であってもおかしくなかった。それでも死刑にさせられた。日本の場合は、事実がまったく逆であった。英豪からは有罪と宣告されたものの、米国の思惑で不問に処せられた、日本人の中の日本人がいるではないか。小田実は本当はそう言いたかったのではないだろうか。もしそうであるならば、それに同意するかどうかはともかくとして、隠喩に満ちた問題提起作品として、本書はきわめて野心的かつ創造的な小説だと思う。大地と星輝く天の子(下)
2010.08.05
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厳密に言うと上巻を読了したわけではないが、残りの頁は『ソクラテスの弁明』とかぶるから、明日以降の楽しみにしたい。ということで第一部を読了し、第二部に入り、今まさに賢人の弁明が始まろうとするところで本を閉じた。…小田実の主張は明快だ。彼は筋金入りの民主主義者だから。「政治は必要悪だ」「民主主義は衆愚政治に陥る危険性をはらんでいる。しかしそれでも、政治形態上最善の方法なのだ」と登場人物に語らせしめるその言葉は、おそらく著者本人の肉声だろう。なおかつ、小田氏は裁判に至る過程を第一部で描きながら、そこに戦後日本の有りさまを重ね合わせているように見える。それほどにかのギリシャ人たちの描かれ方は猥雑であり、それほどに隠微である。まるで、あてつけがましくも「少数の賢者の崇高な知恵よりも、多数の民衆の平凡な知恵を選ぶ」と主張するかのごとく。そうするとかのソクラテスの裁判は、この小説にあっては極東軍事裁判の隠喩なのだろうか?以上、あくまでも現時点における覚書である。大地と星輝く天の子(上)
2010.08.03
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セバスチャンといえばハイジ、とは言わないまでも、従僕的、もっと言えば殉教者的な響きがよく似合う。イエス・キリストの精神に殉じた性セバスチャン、じゃなかった、聖セバスチャンというイメージである。語弊を省みずに言うなら、同性愛的でもある。小説としてはおそらく、処分した『ナチュラル・ウーマン』の方が優れているだろう。背理と麻希子のプラトニックな女性同性愛的SM関係がモチーフのこの小説のラストは、怒りによって「破綻」している。ただ全体を流れるエネルギーは不具を惹きつけてやまない。跛で片輪で不具の(いずれも原文尊重)少年工也がキー・パーソンとして作用し、そこら中に精…じゃなかった、エナジーを撒き散らしている。まさかそのせいばかりでもあるまいが、この小説はまだ、とっておこうと思った。あるいは不具自身「畸形」であり「発育不全」であるから、なのかもしれない。だが、どうして「畸形」が「畸形」のままであってはいけないのだろう?「発育不全」あるいは「幼形成熟」のまま生きることは許されないのだろうか? 許されないとしたら、それを決めるのは誰で、またその理由は何か?マイノリティの叫びは、どこか共通しているようだ。2000円以上送料無料!通常24時間発送!【中古】【文庫、新書】セバスチャン 初期作品集 2 松浦理英子 [4309403379]
2010.07.15
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あれから県内で一番大きい本屋さんに行って、書店内の椅子に座って読み終えた。食事や携帯・トイレをはさんで、5時間かけて本を元の位置に戻したとき、平積みされていた本はもう3冊しか残っていなかった。おそらく日曜中には売れてしまっていただろう。前提。チェホフもディケンズもドストエフスキイも読んでいないのに、また課題図書が増えた。プルーストと『アフリカの日々』。まあ、マクベスやザムザや『アンナ・カレーニナ』の冒頭くらいは解説されなくてもわかるけど。世界。今までは青豆と天吾の物語が交互に語られていたのが、これに牛河が加わる。BOOK3だから3ということなのか、完結編ゆえの狂言回しか。いずれにせよ、牛河が教団内部の人間でないことは明らかになった。リトル・ピープルとか空気さなぎというのは、1Q84の世界では、実在するらしい。謎は謎として解決されないまま終わり、主人公の二人は、危ういところで無事「移動」に成功する。憶測。天吾の育ての父親は、NHK集金人の姿を借りて、天吾と青豆に「警告」して回ったらしい。看護師の安達クミは、婦人警官中野あゆみの精神的な「生まれ変わり」らしい。1Q84は、どうやらそういう心霊的な世界らしい。感想。事実は、唐突に明かされる。青豆の名前は雅美。リーダーの姓名は深田保。死と再生に関する安達クミの台詞は、否応なしにキリストの再臨を連想させるし、そうなると青豆はまるで(イエスの母であり、またマクダラの)マリアだ。天吾はやはりリーダーの息子なのだろう。そうするとリーダーは「聖霊」か。まさか。人は世界に囲まれている。それは太古の昔から変わらない。けれども現実のこの世界は、人間の意志で作り上げられたものだ。言い換えれば、現代人は、多かれ少なかれ、脳内世界に生きている。村上春樹が提示しているのは、意識の世界だろうか。それとも無意識の世界だろうか。わかっているのは、本書が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『海辺のカフカ』につづく、世界と私、客観と主観に対する、村上なりの処方箋ということだ。リトル・ピープルは、空気さなぎの夢を見るのだろうか。1Q84 (上) 韓国語版1Q84 (下) 韓国語版1Q84 BOOK3
2010.04.19
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もしも、現代にキリストが再臨したらどうなるか。この問いに対するひとつの答えが、遠藤周作の『おバカさん』である。物語のはじめ、日垣隆盛は、ぶたれても蹴られてもザンビーノについて行く映画『道』のヒロイン、ジェルソミーナの素晴らしさを妹に説く。聞かされる巴絵の方では、兄の女性観を一笑に付して、まるで耳を貸さない。そんなある日、保名春子という人から隆盛に宛てた手紙が届く。保名春子とはしかし、ポナパルトの当て字だった。本名はガストン・ポナパルト、かのナポレオンの孫である。カリスマ性あふれる精悍な男性かと思いきや、対面してみれば風采のあがらぬ馬づらの大男であった。巴絵は失望を隠せない。だが、コルシカ出身の小男が絶頂期には天下をとりながら、孤島で寂しく死んでいったように、イエスも馬小屋で生まれ、救い主と仰がれながら、人々の罵声の内に磔にされて昇天した。違うのは、フランス皇帝が人間の子で、キリストが聖霊の子であったことくらいである。おそらく作者は、明確な意図をもってガストンのような主人公を設定したのに違いない。He was not a idiot,but innocent.女性名詞である「船」の穴倉から出てきたガストンは、まったくinnocentな男だった。コドモさんを見ては喜び、喘息もちの老犬を見ては同情を寄せ、ナポレオンと名付けて寝食をともにする。はるばる日本まで来てすることといえば、ジェルソミーナのように、自分が気になる人のあとをただついて行くだけである。来日早々、ガストンはチンピラに絡まれる。けれどもそばにいた人は、隆盛や巴絵さえも、恐怖のあまり逃げ出してしまう。ちょうど、鶏が鳴く前に「イエスなど知らない」と三度答えたぺテロよろしく。このように、物語の中でジェルソミーナとイエス・キリスト、ガストン・ポナパルトは暗喩的に重なり合うように描かれている。しかも、ガストンはかの皇帝とは対照的な人物である。これは推測だが、作者はきっと、「innocent(おバカさん)なキリスト」を現代日本に甦らせたかったのではないか。「この地上は、利口で強い人のためにだけあるのではない」と、まるでキリストのような独白をするガストン。かのイエスは、身体や精神に障碍をもつ人、ハンセン氏病患者などに奇跡を施し、福音を広めていったという。その真偽について、いま問いただすのはやめよう。ただ、古代ユダヤ社会は前述のような人々に神の呪いという烙印を押していた。被差別者達が「我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来れり」(マルコ二章一七節)と説くイエスにはげしく魅かれたのも、当然のなりゆきであったろう。だが、戦後の日本では事情が少々違った。「罪の女」達はイエスに従ったが、一人ぼっちになったガストンは、夜の女達から幼な子のように心配される。星野組の殺し屋からはとことん利用され、あげく疎まれ、それでもジェルソミーナのごとく、どこまでもその男のあとを追いかけ、ついて行く。自身もまた罪人であると告解するかのように、作者は、殺し屋に遠藤という苗字を冠した。遠藤は野良犬、正確に言えば老犬ナポレオンと同じ、野良にさせられた犬であった。そうしてフランスから来た異形のキリストは、殺し屋の哀しい魂に寄り添うようにつき従い、その愛と使命とに殉じて最終的に彼の生命を救い、いずこへともなく「蒸発」あるいは「昇天」したのである。先に、ガストンは「innocent(おバカさん)なキリスト」であると書いた。しかしここまで考えてきて思うのだが、むしろ「母なるキリスト」と表現した方がより適切だったかもしれない。保名春子の一件のみならず、ガストンの女性的性質、やさしさは物語の随所にくりかえし、くりかえしあらわれていた。あまりのはなはだしさに、巴絵をして「臆病」「弱虫」「女のようにメソメソした」「ミリキがない」と言わしめたほどである。キリスト教本来の立場からすれば、「母なるキリスト」というのは、あるいは異端的考えかもしれない。けれども、旧約の神である「父なるエホバ」と比べたとき、神の愛と許しを説いた新約のイエスを、「母なるキリスト」と位置づけてもよいのではないかと思うのだ。 神が人間を創ったように、母親達は赤ちゃんを産む。けれども成長したわが子に対してはただつき従い、寄り添い、許すことしかできない。そんな「永遠の母」の姿をガストンの内に見た気がして、久しぶりに『おバカさん』と向き合った私は、忸怩たる思いと涙を禁じえなかった。およそ二十年前、初めてこの本を読んだ時、自分自身を主人公に重ね合わせて涙したことを思い起こせば、どうやら少しは成長したのだろうか。----------------------先の読書感想文コンクールで、落選した文章です。『おバカさん』は不具の愛読書であり、本ブログでも取り上げたことがあり、再び読んでなお書くに値するものが発見できたと思ったので出したのですが、残念でした。おバカさん
2010.03.01
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図書館の本がいつまでたっても貸し出し中なので、立ち読みですませた。持久走で足腰を鍛えていると、こういうとき便利である。前提。また1冊増えた。『カラマーゾフの兄弟』。夏までに全部読んでしまえるだろうか。ドストエフスキーの長編は『罪と罰』以外、読了したものはないというのに。世界。青豆と天吾は今同じ1Q84の世界にいる。月が二つある世界だ。彼女も彼も、それぞれのやり方によって相手を見出したところでこの物語は中断している。ふかえりは「リーダー」の娘だった。憶測。戎野先生はどうやらリーダーの友人らしい。天吾はリーダーの息子、かもしれない。青豆はまだ、生きている(と、信じたい)。ただし、昏睡状態かもしれない。感想。この小説が売れる理由はよくわかる。よくできた純愛小説で、ミステリーで、SFだからである。間口が広いのだ。現実の1984年と1Q84の世界はよく似ているが違っている。証人会のモデルはエホバの証人だが、「リーダー」は麻原ではない。松本でもない。視力が弱いことだけが似ている別人である。果たして彼は鬼畜だったのか犠牲者だったのか?まったく関係ない(こともない)と思うが、緑色とか、リトル・ピープルとか、二つの月という言葉から、ブラウンの『火星人ゴーホーム』を思い浮かべた。転轍機。考えてみれば不具も無数の転轍機を操ってきた。選択肢は常に複数あり、つねに自分が望むほうを選んできた。というより、大人になったら、基本的に、人は自分がしたいことしかすることができない。それはつまり、恒常的に1Q84の世界に住み続ける、ということである。1984年の王国は、自分が選ばなかったかなたの世界にしか、ない。1Q84 book 2(7月ー9月)
2010.01.26
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未完の小説だが、覚書的にいくつか。前提。・いろんな解説書が出ているが、自分で読み終わってしまうまで、他人の評論なぞ無用の長物にすぎない。・オーウェルの『1984年』とチェーホフの『サハリン島』は来年の続編が出るまでに読んでおこう。それにディケンズの『マーティン・チャルズウィット』も。世界。・青豆と天吾はかつて同じ世界にいた。青豆の初恋は10歳のとき、相手は天吾だった。・二人がいる世界は、読者が知っている1984年の世界ではない。憶測。・青豆が現在いるところには、月がふたつある。あるいはそう見える。だが天吾の世界では月はひとつらしい。・もし本当に月が二つになったとすれば、「天吾の手がけている小説の世界の中に、青豆がいる」ことも考えられる。・けれども青豆の目にのみ月が二つに見えるのだとすれば、二人の住む世界は同じだと考えてもよい。感想。・気になった言葉。世の中のたいていの人材は取り換えがきくということ。けれども物語の中の二人は、どちらも彼らにしかできないことを「仕事」にしている。それも非合法に。・社会と個人、集団と狂気と個人の問題を村上氏は取り上げているようにもみえるが、この暗喩に満ちたメタ小説、いったいどういう地平線に読者をいざなおうとしているのだろう。1Q84 book 1(4月ー6月)
2009.12.17
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やはり『寺山修司の戯曲1』から。男の一物をこすると快楽の精が出てきて願いをかなえるとか、SF的アイディアに満ちた本。戯曲自体「千一夜物語」「アラビアのロレンス」をはじめいろいろな先行文学やサブ・カルチャーのパロディになっていて、猥雑と洗練が微妙な均衡で共存しているいかにも寺山的な文体と筋立てだが、しかし、こんなのを上演して警察につかまったりしなかったんだろうか。
2009.11.13
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『寺山修司の戯曲1』の冒頭に収録されている作品。登場人物は中年の同性愛男性カップルで、映画の対象は『カサブランカ』のハンフリー・ボガードだ。ただの痴話喧嘩かと思いきや、ラグビーボールが観客席に飛んでくるラストは驚かされる。主体と客体の転換というところか。彼の映画は若いころいろいろ見たが、戯曲も前衛的というか、きわめて挑発的である。
2009.11.13
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不具はあいにく『坑夫』も『虞美人草』もバートン版『千夜一夜』も最後まで読了していない。だからそれらの作品が作中で果たす意味もわかったようでよくわからない。ただ『オイディプス王』は読んだし、それがこの小説のBGMになっていることは察せられる。構成的にはバッハの対位法を思わせる筋の展開で、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の続編といわれるのもそのあたりからきているのだろうが、どちらかといえば姉妹編という感じだ。全編にちりばめられているアフォリズムの旋律が耳に心地よい。キーワードはふたつ。メタファーと想像力。ゲーテとかシューベルトとかハイドンとかベートーベンとか引用してみても、根底にあるのはジョン・レノンの「イマジン」の歌詞の世界とそうたいして変わらないのではないか、と思われる。世界の万物はメタファーなんだ、想像力こそが世界を救うんだ。そうかもしれない。確かに世界は日々エントロピーに向かって収束しつつあるのかもしれない。巨視的には定められた流れの中で、想像力を駆使してこの世界を少しでも住みよくしていくのが人間という種の使命なのかもしれない。豊かな想像力こそが硬直した主義・思想を排除し、差別と偏見を和らげ、世界をすみよいものにする。その対極にあるのが戦争だ。もちろんこの場合、戦争という言葉もメタファーであるのだが。メタファーといえば、タイトルそのものが重層的に隠喩に満ちている。カフカというのはチェコ語でカラスを言い表すそうだが、同時にフランツ・カフカのことでもある。またそれはこの小説の主人公が自分で選んだ名前でもあり、さらに『海辺のカフカ』という曲と歌詞と絵画がミステリーを解く鍵になっている。蛇足をいえば、この小説がまた『海辺のカフカ』という題名であり、作品として巨大なメタファーの世界を読者に投げかけている。ポストモダン小説とは、このような作品をさすのだろう。ただ、村上春樹の作品は、すべてを読んだわけではないけれども、読んだかぎりにおいてはどれも探求的で、ドッぺルゲンガー小説のにおいが強い。たった一つの主旋律のさまざまな変奏曲。それともこれもメタファーなのだろうか。世界は救済されないまま変転していく、その中で強く優しくしなやかに自己目的的に生きていけ、というメッセージなのだろうか。諦観に満ちた逆説的な教養小説。問いかけようにも、空と海と陸の境界線上に佇んで、子どもでも大人でもない15歳の少年田村「カフカ」は、黙して何も語らない。…海辺のカフカ(上巻)海辺のカフカ(下巻)海外でも好評のようです。海辺のカフカ (上) 韓国語版 ペーパーバック版海辺のカフカ (下) 韓国語版 ペーパーバック村上春樹をロシア語で!『海辺のカフカ』村上春樹
2009.10.13
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そろそろ新学期モードにならなければ、ということで短歌。国語の授業でつかえないかと思うのですが、まずは57577から入らなければなりません。それを考えると俵万智でさえも導入でつかえる歌はわずか。字数とリズムが違うだけで混乱を招きかねません。またそれをクリアーしても、オシャレな表現についてこれるかどうか。いろいろ考えると、まずはジュニア川柳の575から入った方がよさそうだと思いました。例えば…ありがとう一番好きな言葉です(地元の中学生)いい歌だうっとりと聞く千の風(一般)おいしいなレストランより母の味(地元の小学生)サラダ記念日
2009.01.03
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今では新潮社では読めなくなった灰谷版『森の生活』ならぬ「島の生活」。海や農作物との共生を通して著者の文明批評といのちへのやさしさが垣間見える本。たとえば、引用されている次の詩を読むと今でも眼がうるみ、本棚を整理しようと思うたびに手放せなくなってしまうのです。「やすもの」草島昇ろくにものをいえないくちはやすものじぶんのいしもひとにいえないくちはあるくこともできないあしはやすものひざさえものびきらないあしはいつもしばられてるてはやすものかのじょのてもにぎれないてはやすものこんなじぶんのわるいことばかりをかくぼくはいちばんのやすもの…ついでながら、この詩のあとに、目と耳の不自由な子供が草島さんの詩集を読んでファンレタ―を書いたという話が紹介されてます。…
2008.12.23
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昔図書館に寄贈したつもりが、そうはなっていなかった本。郊外のブックオフで再会して手元に置いた。多分絶版。なぜか。夥しい「差別用語」のせいである。女中、不具、びっこ、第三国人、エトセトラ。言葉はその時代の雰囲気をもっともよく伝えるものなのに、英訳までされた現代の新約聖書をこのように葬り去ってしまうなんて、なんて了見の狭い話だろう、とは、酒飲みの中年男の愚痴である。
2008.10.14
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『沈黙』『イエスの生涯』『死海のほとり』など遠藤文学の核となるテーマをつづった短編集。告解集と読んだ方があるいは適切かもしれない。それだけ私小説的ということでもある。「母なるもの」「小さな町にて」はともに隠れキリシタンを題材にしている。弱き者、臆病な者、卑怯な者に目線が行きがちな作者が外人神父から「あなたのキリスト教解釈は浄土教的です」と言われた、というのはおそらく実体験だろうと思う。実体験という意味では「学生」もフランスへの留学体験を下敷きにしたものだし、「ガリラヤの春」「巡礼」も作者のイスラエルへの取材旅行を反映したものであろう。「あの人がわたしの人生を横切らなければ弥次喜多のような世界で呑気に生きることができたのに」という矢代の述懐は、おそらく作者の本音ではないか。「召使たち」「犀鳥」「指」は小説というより随想に近い。前二編は転びバテレンの話、最後の掌編はトマスの指の話である。処分本NO145.
2007.10.26
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対位法的に配置される現代と古代のイスラエル。卑怯な修道士コベルスキーは『沈黙』のキチジローに重なる。小説版『イエスの生涯』。
2007.10.25
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イエスは謎の多い人物です。しかし、遠藤さんの『イエスの生涯』を読めば生誕の謎をのぞくほとんどすべての疑問に対して答を得ることができます。イエスと悪魔の対決は何を意味するか。水が酒に変わることの象徴的意味は。ユダヤの民は何故イエスを熱狂的に歓迎しのちに口汚く罵ったか。ユダの真意は。弟子たちは何故共犯者として訴えられなかったか。イエスは何故十字架にかけられたか。もちろんそれらすべての問いに対する本書の答が正しいなどとは言いません。母子家庭で育った遠藤さんのキリスト像は母性的過ぎるという批判もあるかもしれません。しかし少なくとも不具には納得できるものでした。いつものことですが、遠藤さんの代表作品を読むと涙腺が緩くなって困ります。これを読むと斎藤栄さんの本は表層的で薄っぺらいということがよくわかりました。よって『イエス・キリストの謎』を処分本NO.144に認定します。さて『イエスの生涯』が福音書入門だとするならば、姉妹編の『キリストの誕生』と併せて二冊は新約聖書入門と言えるでしょう。イエスはあくまでもユダヤ教の改革者にすぎませんでした。彼をキリストにまで高めたのは弟子たちだったのですが、彼らとて一枚岩ではありませんでした。まるで『カムイ伝』のように面白く読ませていただきました。合掌。
2007.10.23
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大学時代に講師の先生からすすめられながら、20年近くなる今日まで手つかずだった本。確かにいい小説だ。退廃的なフランス小説にも似た雰囲気で、芥川賞をとってもおかしくない作品だと思う。エロ系レディースコミック漫画家と彼女をめぐる三人の女達の連作短編集は、それぞれ「いちばん長い午後」「微熱休暇」「ナチュラル・ウーマン」というタイトルで語られる。人物の名前がまた傑作だ。村田容子、夕記子、由梨子、花世。どこにでもありそうな名前ながら、どれも漢字が微妙にずれている。少なくとも耳で聞いて第一に連想する文字ではない。容子をめぐる恋人達の人間関係が不毛なのは彼女が同性愛者だからだろうか。それとも作者は同性愛に託して現代の不毛な人間関係を描いているのだろうか。不具にはよくわからない。ただ花世がいたぶる容子の肛門が、性器としてはともかく、生殖的に不毛であることは間違いない。作者が現代のサッフォーであるのかどうか寡聞にして不具は知らないが、日本近代文学史を紐解くまでもなく、女性を愛することこそが「ナチュラル」な女性たちも確かに存在するのだろう。個人的には、ここで描かれている「不毛」は、別に女同士でなくても男同士でも、否一般的な男女の関係でも同じように書けるのではないかと思うけれども、著者にとってはこのモチーフでなければならなかったのに違いない。そうでなければ、こんなに上手には描けなかっただろう。ただ、文学としては紫式部の足元にも及ばず(笑)、ポルノグラフィとしても『デカメロン』の方が昂奮する。よって、卑俗な一男性読者としては処分本NO128に認定。
2007.04.06
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シャムで日本人の王国を夢見る山田長政と、禁制の切支丹神父として日本に帰ることを切望するペドロ岐部の魂の交流を描いた歴史小説とも時代小説ともつかぬ一冊。なかなか面白い小説ですが、日本人の傭兵がシャムの王女に恋をするという設定が『アンナと王様』を拒否した国の民に受け入れられるかどうでしょうか?解説にあるように、実際には二人は同時代人でしたが、接点はありませんでした。ないところにあるものを現出させて、「地上の王国」と「天上の王国」を対比させる手法はヘッセの『知と愛』にみられるようにすでにお馴染みの手法ですが、ここではおもに長政の方にスポットライトがあてられている点が少々違います。『銃と十字架』でペドロ岐部を描いた作者は、ここであえてそれとは正反対の生き方をした同時代人を鮮やかに再現させることで、「諸行無常」的地上と永遠の天上とを対比させようとしたのでしょうか。おそらくそうではないだろう、と思います。また仮にそうだとしても、作者の目は天上の神ではなく、地上の人間の方を向いています。作者はペドロ岐部を一方的にたたえ、長政を俗物に扱うような愚を犯してはいません。この小説はだから成功しているのでしょう。いい本ではありますが、本の市でただでもらった本は、ただで返しましょう。処分本NO127。余談ながら、ペドロ岐部はつい最近、ローマ法王によって江戸時代の「聖人」に選ばれました。
2007.03.30
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日本で動物文学と言えば畑正憲ことムツゴロウさん、動物漫画と言えば飯森広一さんですが、実は日本最初の本格的動物文学はこの『高安犬物語』が嚆矢です。シートンやジャック・ロンドンのような外国産動物物語もいいのですが、やはり日本には日本の風土に根ざした動物文学があるのだな、と感じさせられました。「高安犬物語」「熊犬物語」「北へ帰る」は、山形の猟犬高安犬(の血をひく犬)と飼主たちのお話です。飼主に忠実な犬たちの美しさ、哀れさが胸を打ちます。「土佐犬物語」。中型犬が大型犬に挑むというアイディアは、「熊犬」あたりからあたためていたのでしょうか。盲目になってもなお闘犬として生きる彼の生き方は、座頭市あたりにヒントを得たものでしょうが、個人的には盲人柔道を思い出しました。「秋田犬物語」。犬版「女の一生」とでもいうのでしょうか。可愛がってくれた祖母の死してなお、その場を離れなかったというエピソードが印象的でした。昭和29年度直木賞受賞作品。ですが、芥川賞でもいいんじゃないかと思います。なお、本書は図書館の本の市で無料で入手したもので、現在ではたぶん絶版です。入手したい人はこちら↓
2007.03.18
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まず最初にウィキペディアから引用。九州大学生体解剖事件九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)とは、1945年に九州帝國大学医学部で米軍捕虜に対して生体解剖実験が行われた事件。1945年5月、九州方面を爆撃に飛来したB-29が撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられたが、西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。8名は九州帝國大学へ引き渡され、生体解剖に供された。8名の捕虜は収容先が病院であったため、健康診断を受けられると思い「サンキュー」と医師に感謝したという。 生体解剖の指揮及び執刀は石山主任外科部長で1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。また軍人5名がその肝臓を試食したとされる。戦後、戦争犯罪として裁かれた。ただし、一部被告人は後に自白の強要によって捏造された事件であると主張している。ちなみに裁判では複数の被告人に死刑判決が下されたが、獄中自殺した1名を除き減刑された。遠藤周作執筆の小説『海と毒薬』は、この事件をモデルにしている。 参考図書『汚名「九大生体解剖事件」の真相』 (文庫)東野 利夫 文芸春秋 1985年 ASIN: 4167376016 上坂冬子1982『生体解剖 九州大学医学部事件』中央公論社 -----------この件に関して不具は今のところ真相がどうであったか判断できる立場にはない。参考図書を読んでいないからだ。ただ、生体解剖が行われたとしても、人間の肝臓を試食するような文化は日本のものではないので、あったとしたらよほど異常な状況下だったのだろうと思う。「中支ではな…実際チャンコロを解剖してその肝を試食した連中がいたらしい」と小説中にあるが、そういう会話が行われたのは事実なのかそれとも小説的効果を高めるためのフィクションだろうか。会話そのものが仮に事実だとしてもそれはあくまで「伝聞」であることを忘れてはなるまい。誤解を恐れずに言えば、生きた人間を殺してその肉を食う文化はむしろ中国人のものである。疑う者は『西遊記』や『水滸伝』を全訳で読んでみるといい。------------初めてこの書に接したのは高校生の頃だった。「実験」云々という言葉に衝撃を受けたのか、ところどころ傍点がふってある。毒薬が人間の悪意の隠喩であることは言うまでもないだろう。では海とは何か。毒薬を海にたらしたところで、多少の魚は死ぬかもしれないが海は結局それを中和し解毒してしまう。まるで何事もなかったように。それでも、魚が死んだ事実は、消すことができない。時代、といっても足りない。集団、といっても足りない。正当化、といっても足りない。大義名分? 狂気? そんな言葉でも足りない。だから「海」なのだろう。これくらいのことは、わかる。けれども、あえて誤解を恐れずに言えば、遠藤周作の純文学には珍しいこの社会派小説は、氏の小説にしては失敗作である。この物語は事件が既に終わってしまったところからはじまり、徐々に核心部分へと向かっていく。そのプロローグの部分に「こちらの肋骨をさぐるたびに触れるあの指の硬さ、金属をあてられたようなヒヤッとしたあの感じは私にはうまく表現できないが、何か患者の生命本能を怯えさすものがある」云々というくだりがあって、そのあたりを読めば読者は当然この勝呂(すぐろ)医師が生体解剖を行ったものと思うだろう。実際、勝呂自身、「これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない…」と告白している。ところがだ。実際は、勝呂は執刀していないのである。ただ手術室の後ろで、何もせずに見ていただけなのだ。なるほど薬害エイズ裁判でも焦点にされたように「不作為の罪」というのは倫理的にあるだろう。しかし…勝呂医師は結局、遠藤氏の小説でおなじみの、いわゆる「弱者」の典型的な人物なのだ。成程、氏がカトリック作家として魂の問題をとりあげていることは分かる。そのことを理解している読者にとっては何ということもないのだろう。しかし、「何か患者の生命本能を怯えさすものがある」という表現は、「何もしなかった」医者に対して用いられるには、あまりに大仰でありはしないだろうか?処分本No124。角川文庫版
2007.03.17
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