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骨子が似ている二つの中編。というより、「防雪林」をもとにして書かれたのが「不在地主」である。田舎娘が都会にあこがれて村を出て、男に捨てられて首をくくる、とか、主人公の弟のかわいい「朝顔の蕾」がアチチチとなるところとか、随所に共通するエピソードが見られる。では「防雪林」は「不在地主」の習作かというとそうでもない。「不在地主」の迷える健と違って、源吉は歯に衣着せずものをいう。行動力もある。いわゆる男らしい男であり、古典的な小説によくあるタイプの、日本では珍しい英雄型の人間である。その源吉がなぜ反社会的な行動をとるに至ったか、そのまた反社会的な行動なるものは正義に反する行為なのか、そのあたりがこの小説を鑑賞する上でのミソであろう。「不在地主」は労働運動の勝利を描いたものである。資本家ー労働者、都会ー村落という構造は現在でも変わらないものの、生産者ー消費者という構造が世界規模になっているために、今日では一見、ここまでひどい搾取は行われていないようにみえる。しかし実際のところ、日本をはじめ先進国は経済的・人的・資源的に他国を搾取している。ただ、「地主」ならぬアフリカ等各国の為政者がその国の表の顔なので、ストレートには伝わりにくい構造になっているだけだ。あらすじは書かない。読んでいただきたいからである。擱筆。防雪林・不在地主 / 文庫緑 88- 3 (文庫) / 小林 多喜二 作
2018.05.28
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洋画家岡田三郎助の妻にして芹影女の筆名なる劇評家の短編集。大正文学と言えば芥川龍之介が代表格だが、こういう女性作家も少々甘いが捨て難い。もっとも主人公の群像は「腐っても鯛」を地で行くような、意地っ張りの姿がよく目立つ。「紅雀」AはBが自分を想って死んだと思い、Cに焦がれる自分自身を許せないでいる。CはDに好意を持ちつつ、Aの告白に心が揺れている。DはCに好意を持ちつつ、Bが自分を恋いながら死んでいったことをAに対して済まないと思っているが告白できない。というように骨子を見るとまるで武者小路のように甘い青春小説だが、文体によって救われている一編。「お伊勢」芝居好きの人妻の、役者への儚い想い。「夢子」うらぶれた美人母娘の半生記。落ちが唐突。「仮装」仮装は仮想に通ず。この時代はまだ姦通罪というものがあった。「青い帽子」「仮装」と同じ主人公。早稲田大学の学生が出てくるのが個人的に萌え。大友伯爵は大隈侯のことか。「横町の光氏」落ちぶれた相場師が三羽ガラスでなんとやら。「堂島裏」堂島と言えば江戸時代は米相場。これも無為徒食の若旦那の話。「雨」雨の日に駅で見た貧しい姉弟のスケッチ。「鷹の夢」一富士二鷹三茄子。苦しい家計を自分の原稿料で何とかやりくりしていこうとする主人公は、作者の分身だろうか。「余計者」余計者と言えばロシア文学で、本編にもそのモチーフが使われている。知恵の遅れた美しい姉というのは実姉をモデルにしたのだろうか。もっとも余計者は当の本人なので、この時代にこんなW不倫ものを書いてよく発禁にならなかったな、と思ったら、大正デモクラシーの時代だった?「うつぎ」戦死した父の墓参りに広島まで来た人妻が、独身だった万年下士官の書生にあてた書簡。名前が岡村千代子となっているから、家族関係は半自伝的なものも混じっているのだろう。「灯」Bという人妻がAを慕って家出した。Bの友達のCは、Bの消息をネタにAと会い、Aを誘惑しようと思っている。AはそんなCの下心にうんざりしつつ、情婦のDのところに行かなければと気ばかり焦っている。「駒鳥」誰が殺した、クックロビン…昔は肺病で死ぬ人が多かった。「お伊勢」のネガのような掌編。「指輪」これがおそらくもっとも自伝的色彩の濃いフィクション。若くして死んだ父、知恵遅れの姉、鷹揚で無頓着でだらしない母…物語はこの母親を中心に展開するが、末っ子の「冷たい」娘こそ作者そのものだろうと思われる。↓以下本編とは別だが紹介まで。【中古】 たけくらべ・にごりえ 角川文庫/樋口一葉(著者),岡田八千代(著者) 【中古】afb
2018.05.26
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前者は短編、後者は中編という違いはあるが、どちらも今日でいう台風の異名である。『二百十日』は軽妙な会話体小説で、弥次さん喜多さんの明治義憤版といったところ。一方、『野分』の台風は自然災害ではなく、文学者白井道也の講演の内容の比喩であろう。漱石はよく高踏派と評される。評されることを本人が草葉の陰でどう思っているかは知りようがないが、『野分』ほど高踏派らしい小説はない。漱石はここで『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』で諷刺した拝金主義を散々にこき下ろしている。主な登場人物は四人。道也先生とその細君、道也先生の昔の教え子にて自称弟子の高柳君とその親友中野君である。道也先生は教職を辞した。己の思想が職場に容れられなかった為である。道也先生はそれでいいが、細君は不平だ。筆一本で生計を立てていくと夫は気焔を吐くけれども、家計は火の車である。高柳君は肺病やみだ。そうして昔、面白がってあることないこと騒ぎ立て、道也先生を学校から追い出してしまったことを悔やんでいる。親友の中野君は金持ちである。何とか彼の力になりたいと思い、転地療養の費用として大金を高柳君に渡す。高柳君はそれをありがたく拝受したものの、困窮する道也先生の家の様子を垣間見て、そのお金をそっくりそのまま「師匠」に渡して歩み去る。…骨子を言えばそういうことだが、しかし小説は骨子ではない。細部の描写である。是非本文を読んでほしいが、初心者がいきなり読むと明治の語彙と文豪の当て字に辟易するだろう。『二百十日』はともかくとして、『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『こころ』『三四郎』と読み継いで漱石が好きになったところで、頁を繰ってみるといいかもしれない。最後に作者の分身たる白井道也の予言と警告に満ちた講演の内容を抜粋して筆を擱く。「明治四十年の日月は、明治開化の初期である。(中略)後期に入るとかたまってしまう。(中略)身動きがとれなくなって、人間が腐った時、また波乱が起る」「西洋の理想に圧倒せられて目がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である。奴隷を以て甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何等の理想が脳裏に醗酵し得る道理があろう」「諸君。理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となり遂に諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上がるのである。付焼刃は何にもならない」「成功を目的にして人生の街頭に立つものは凡て山師である」「人生問題であり、道徳問題であり、社会問題である以上は彼等金持は最初から口を開く機能のないものとして絶対的に学者の前に服従しなければならん」(嵯峨山註:金持を政治家に置換して考えられたし)二百十日・野分 岩波文庫 / 夏目漱石 ナツメソウセキ 【文庫】送料無料/二百十日・野分/夏目漱石◆◆二百十日・野分 / 夏目漱石/著 / 新潮社追記。作中メリメの短編のあらすじが紹介されていて、どこかで聞いたことがあるな、と思ったらこれだった。
2017.01.20
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漱石の小説の構造は一作一作違う。『彼岸過迄』はゆるやかな中短篇の連作によるオムニバス小説である。語り部が名無しの猫から敬太郎という名の人間に変わっただけの小説と言えないこともないが、それはあまりに辛辣であろう。第一『猫』は諧謔(ユーモア)小説であった。なるほど両者ともに「頓挫した恋愛」について語られているが、深みが全然違う。須永はのちの「先生」に連なる原型的な存在である(ついでに言えば漱石の小説の主人公に教師やら「高等遊民」やらが多いのは、明治という時代の反映であろう)。「須永の話」はこの連作集で一番長い逸話である。構造的にはここからが後半になっている。すなわち「風呂のあと」「停留所」「報告」までが探偵小説的な前半、「雨の降る日」がそこで生じた新たな謎の決着を見る後日譚であり、「須永の話」「松永の話」が後半である。しかしここで終わると少々尻切れトンボになるので取って付けたような「結末」がつく。誰かが言っていたが、小説の終わり方というのはまことに難しいものである。漱石の小説としてはお尻から数えた方がいいくらいの出来栄えだと思うが、読者は必ずしも質を求めているわけではない。漱石、芥川、太宰くらいになると愛読者はその独特の文体に魅せられるので、たとえ二流の作品でも大目に見てしまう。あなたもその口ならぜひどうぞ。お買い求めなら↓。図書館で十分だと思うけどね。彼岸過迄 夏目漱石 /出版社:岩波書店彼岸過迄【電子書籍】[ 夏目漱石 ]
2016.12.01
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時機を得なければどんな名作も猫に小判である。新潮文庫版『夫婦善哉』は学生時代古書店で買ったが、未だに書棚の奥に眠っている。一方、図書館から借りて来たばかりの本書は一気呵成に読んでしまった。「続 夫婦善哉」なるものが載っていて興味をそそられたからでもあるが、それだけではない。「夫婦善哉」は織田の代表作であり、文章の調子も素晴らしい。声に出して読むことによってそれが一層よくわかる名文である。だが若いころはその良さが分からなかった。このころわかるようになったのは、不具自身が主人公夫婦の年齢に近くなったことのほかに、昭和の白黒映画をだいぶん観てきたからであろう。織田の語りは確かにうまい。だが太宰ほど普遍的ではない。その良さ、感じをつかむためにはある程度の経験が必要である。不具にとってはそれが戦後の白黒映画の鑑賞だった、ということだ。そういうイメージの蓄積があって、はじめて「夫婦善哉」の世界に入っていけた。蝶子は芸者上がりである。柳吉はいいとこの坊ん坊んである。正妻もいる。娘もいる。しかしその二人が所帯を持ち、店を構える。正編では大阪で、続編では大分で。蝶子は髪結いの女房みたいなところがあり、亭主は亭主で道楽がやめられないものだから、店はなかなか長続きせず、転々と変わるのだが、二人の縁はなかなか切れない。今日の言葉でいえばおそらくは共依存であり、蝶子は蝶子で原因は亭主の方にあるとはいえ暴力をふるって詰ったり、ともどもに自立していない間柄である。それでいて二人を詰る気にもなれないのは、作者の行間から屹立する文章のうねるその力ゆえだろう。柳吉の娘の結婚式に蝶子も呼ばれるところで物語は終わる。まこと、夫婦善き哉、である。【楽天ブックスならいつでも送料無料】夫婦善哉完全版 [ 織田作之助 ]
2016.01.24
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著者は夏目漱石の次男です。戦後に書かれたものですし、中身は随筆なので、「近代日本文学」の範疇から外れるかもしれませんが、文章も語彙も到底現代のものではないのでここに入れました。漢字の勉強になる本です。息子から見た漱石の家族・親戚・人間関係を始め、病気と闘病と食欲の話など、文豪に興味関心のある人なら必読の書だと思います。中でも笑ったのは、著者が生まれたとき、髪の毛がふさふさしていたので、「申六」にしようかと漱石が言ったところが、「なんぼなんでも人間ですから」と言われて人偏をつけて「伸六」にしたという逸話でした。みなさんもそれぞれの漱石像を発見してください。[単行本]【中古】【メール便可】父・漱石とその周辺 / 夏目伸六
2015.09.18
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『蒔岡家の姉妹』という題名で英訳されている本書は、表面的には『若草物語』に似ている。また三女の結婚話を巡るとりとめのない話という点では『吾輩は猫である』に似てないこともないし、斜陽族が『斜陽』になる直前の最後のきらめきを示した記録小説と言えなくもないが、上中下三部作に分かれていて、その文体が読点ばかりでなかなか句点にならないまどろっこしさや自然描写の妙、蒔岡家の人びとの鷹揚さや、終わったか終わらないかわからないようなラストの書き方からして、昭和の『源氏物語』と評することもできるだろう。ただしこの物語に光源氏は登場しない。登場するのは「大阪のおばちゃん」を上品にしたような旧家の人びとで、英名の示すとおり蒔岡家の四姉妹、ことに次女の幸子から見た三女の雪子と四女の妙子の動向について語られるのだが、幸子は谷崎夫人がモデルであるそうだから、貞之助は谷崎氏自身なのかもしれないけれども、かといって私小説というわけでもなくて、ただ時局によって滅び行く古きよき時代の大阪の名家のありようを、細部に至るまでこと細かく書き残した、哀惜に満ちた小説なのである。映画もその点はよくわかっているようだ。細雪という題名は三女の雪子から来ていることは推察され、雪子の見た目や内気さや芯の強さやその他もろもろを象徴しているのであるが、これから本格的な冬の時代を迎える直前の一家の姿を、散り逝く桜ではなく、細雪に託したのだと考えることもできよう。この小説はいったん読み始めると最後まで読み通さずにいられない魅力があって、しかしそれは登場人物の魅力によるものではなく、もっぱら文体の力であるように思われる。かといって登場人物に全然魅力がないというわけではなくて、幸子や貞之助や雪子らの逡巡もわからなくはないのだが、それはあくまで世間体を重んずる旧家の体面を代表するものであって、そういう意味ではむしろ型破りな四女の妙子に惹かれなくもないのだが、終盤に至ってそのあまりの無勝手流にあきれ返りもし、逆に雪子を再評価するような展開にもなる。ゆえに最後にめでたく結婚が決まって上京していくのをみてやれやれと胸をなでおろすのであるが、下痢が止まらないという描写はあるいは事実でもあったのかもしれないが、時局の行く末を知っている戦後の立場からみれば暗示的である。それにしても、生前あれほど「筋のない小説」について激しく論争した谷崎潤一郎の代表作、最も長い長編小説がこの『細雪』だと知ったら、草葉の陰の芥川龍之介はどのような感想をもつであろうか。…中公文庫細雪/谷崎潤一郎【後払いOK】【2500円以上送料無料】
2014.12.20
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随筆なので、本当はここに収めるべきではないのかもしれません。また、1977年刊なので、年代的には現代日本文学なのかもしれません。けれど、永瀬さんが近代詩人であるように、野上さんもまた近代作家、でありましょう。ここに収められた17編、そのほとんどが80代、90代の頃に書かれたものとは思えないほど瑞々しい。いや勿論老いの話題はあちこちに散見せられますが、文章が屹立しています。言葉づかいから語彙、文章の構成に到るまで、すべてが美しく、凛としています。就中、談話形式の「夏目漱石」には、亡き文豪への深い愛情がみられます。必見です。山暮らしのこと、ソビエトの文学者との交流のこと、時勢や健康や想い出のこと、その筆はさまざまな物語を紡ぎだします。極小のものから極大のものへとがひとつの文章の中で焦点が飛翔していくさまを眼前にするのは、極上の俳句か短歌を鑑賞する悦びにも似ます。麗。《新潮社》野上弥生子随筆集 花 【中古】afb
2012.12.21
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夜中に目が覚めて、ためしにと思ってたわむれに例のカセットテープを最後まで聴いたのがよくなかった。「山月記」のあとの「名人伝」は笑った。漫画的ですらあった。そのあとがよくなかった。「牛人」である。読んだこともない短編だが、不条理な悪夢だった。イメージが頭から離れず、眠ったら悪夢を見そうでうつらうつらして芯から眠れない。聴くんじゃなかった。愛人の子が何だ。怪異な容貌が何だ。せむしが何だ。彼よりも、カジモドの方が余程善人である。陰鬱な復讐譚は、むしろ江戸川乱歩にこそ相応しい。書いているうちにようやく眠くなってきた。この上は眠れなくても眼と身体だけは休めておこう。【中古】 李陵・山月記 (新潮文庫)*「牛人」は全集以外の文庫本には載っていないと思います。後味が悪いので、読むときはコンディションを考えてからにしてください。
2011.08.02
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病気のせいか、別に結核でもないのだが、こんな本を読みたくなる。順番からいうと「美しい村」の方が先で、小説の構想を練るために軽井沢へ来た私が、画家の卵の美しい少女と出会い、恋愛する話だ。「風立ちぬ」は独立した小説としても続編としても読めるが、私が愛した少女がサナトリウムに入院し、結核で亡くなるまでを詩的に描いている。解説者は「風立ちぬ」にプルーストの影響を指摘している。なるほど時間の流れ的に『失われた時を求めて』に通じる向きはあろう。ただ堀辰雄のそれはかなり小規模だ。個人的にはむしろ、『源氏物語』の遠い末裔ではないかと思う。もちろん主人公が袖をしぼるほど涙することはないが、作者の筆による恋愛と死の取り扱いにおいて、やはり日本人的な心性を感じるからである。なお、本書が作者の体験に根差していることは事実だが、読者が私小説的に理解する義理はない。【中古本】 風立ちぬ・美しい村
2011.05.10
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才気煥発な青年が、押しも押されぬ流行作家となって我が身を削りながら作品を産み続けた挙句、睡眠薬中毒となって心神耗弱するまでの私生活がつぶさにわかる一冊。全体の約十分の一程度というが、作品のみならず書簡においても、芥川が「読ませる」作家であることがよくわかる。個人的には、駆け出しの時に書いた堅苦しい候文よりも、塚本文子への恋文や、「南京の基督」の批評に対する抗議の文章、我が子に宛てた手紙などが印象的で忘れがたい。なお<竜之介>はタイトルのまま。芥川龍之介書簡集
2010.08.31
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スティーブンソンと中島敦は、ともに病弱な文学者であった。ただし、英国人は現地人に愛され南洋の土となったが、日本人は失意を覚え、また病状が悪化し帰国せざるを得なかった。本書は、中島敦がまだ現地に行く前に、英国の作家に自己を投影して書いた一種の伝記小説である。作品には二つのことが書かれている。ひとつは、植民地の経営について、支配者が現地人を搾取していることに対する憤りと、もっと愛をもって接せよ、というメッセージ。サモア人への教育のために彼の地へ赴こうとしていた敦として、これは当然の立場だろう。だが、それはドン・キホーテ的な理想あるいは空想に過ぎなかった。もうひとつは、自らの文学スタイルに対する矜持と懐疑。スチーブンソンは物語作家であって、純文学者ではなかった。そのことに対する誇りと劣等感を、実際に彼がどこまで持っていたかは知らない。ただ、敦の生きた時代は、太宰治的な私小説の全盛期であった。自分の文学的手法がそれとは違うということに、当然敦は気がついていたに違いない。スチーブンソンにゾラを語らせながら、だから彼は自分の思いを告白していたのだ。勿論彼のスタイルは物語作家のそれではない。あくまでも純文学的である。ただ私小説的自然主義とは縁遠いというだけだ。敦はあからさまに自己告白をすることを好まなかった。自分の心中にあるものを語りたいときは、スチーブンソンや李徴に仮託して表現した。それだけのことだ。どうしてそれが『或阿呆の一生』や『人間失格』に劣っているといえようか?中島敦全集(1)
2010.07.04
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国語の先生のくせに、永井荷風は『夢の女』くらいしか読んだことがない。その時は確かに耽美な花柳小説だが、優雅さにおいても情緒面においても、源氏物語には遠く及ばないと思った。自宅の蔵書から学生時代に買ったままにしていた本書の埃を掃ってひもといてみると、これがなかなか面白い。批評家の言によると荷風の最高傑作だそうだ。随筆とも私小説(ではないが)ともつかぬ中編小説だが、言われてみればそうかもしれぬ。「歩きながら考える」作家の描写力は、今日でもなお輝きを失っていない。ただ、この手の恋愛小説(?)なら、やはり川端康成の『雪国』に若くものはないと、率直に言って思う。NHK テレビJブンガク 2010年 06月号 [雑誌]価格:380円(税込、送料別)
2010.06.30
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不具が暗誦するほど好きな「山月記」他三篇が収められた連作短編集。今順番に並べると「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」となる。いずれも霊感、死霊、悪霊、精霊と霊にまつわるお話で、「山月記」を除く三篇は、古代オリエントが舞台である。そのせいだろうか、やや文章が上滑りしている感が否めない。ポーかアポリネールのゴシックロマンを、やや滑稽にしたような味付けなのである。それに比べると、「山月記」は違う。中島敦にはやはり、中国を舞台にした小説がよく似合う。言葉が屹立しているのである。朗読もしやすく、対句を多用しているので暗誦も容易だ。たとえば、こんな一節がある。一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?「木乃伊」を受けた独白でもあるのだが、「そんな事はどうでもいい」。このような例は枚挙に暇がなく、それゆえに文体がきびきびとして内容にふさわしいものになっている。そしてこれこそ中島敦の真骨頂なのである。少なくとも不具はそう思う。今読むならこちら↓中島敦全集(1)そのうち読みたいと思っている本。 中島敦「古譚」講義 世界文学のなかの中島敦
2010.06.24
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『海辺のカフカ』を読んで、やはりもう一度挑戦せねばと思って取り組んだ本。昔は第二章で挫折してしまったが、この歳になってみると結構面白かった。ただし前半は歩みが遅い。その代わり後半の展開は劇的だ。このあたり、作者が意識したのかどうかしらないが、『海辺のカフカ』も似たような印象を受けた。登場人物を整理しよう。甲野藤尾…ヒロイン。我の女。クレオパトラ。甲野欽吾…その兄。思索家。ハムレット。その母…甲野欽吾にとっては継母。謎の女。宗近一…甲野の親友。行動の人。宗近糸子…その妹。小野清三…煮え切らない文学者。井上孤堂…小野清三の恩師。井上小夜子…その娘。小野の恋人。浅井…小野の知己。俗物。配役から推し測られるように、物語はきわめて対照的かつ映画的に展開される。クレオパトラだのハムレットだの我の女だの謎の女だのは皆作中からの引用である。話の筋は『我輩は猫である』の金田嬢と水島寒月君の恋愛挿話を、もう少し劇化したものと思えば相違ない。あるいは『坊ちゃん』におけるマドンナとうらなり君の恋物語の戯画と言ったほうが適当だろうか。こういう風に言ってしまうのは、ヒロイン藤尾の劇的な最期にもかかわらず、本来なら主人公格である小野の影が薄いからである。小夜子と藤尾の間を揺れ動いて、毫も漢らしさがない。日本文学はどうもそういう傾向があるのでこれは漱石だけの罪ではないけれども、しかし、こんな男と結婚した小夜子さんが幸せになるとは、とても想像できぬ。ご都合主義的ではあるが、宗近君と一緒になったほうがまだしも、と思われる。せめて小野君にジュリアン・ソレルの意志の一片だにあれば、そして宗近君に説得される部分がもう少し長く感動的であったなら。もっともあの豪華絢爛たる文章では無理かもしれないが。そういえば、文体はなるほど巷間の噂どおり装飾過多である。が、慣れてくればまるで気にならない。紅葉―漱石―芥川―三島―平野と続く美文調の流れの中の点、と捉えればよかろう(ただ読みにくいと思う人はまず映画を観たほうがいいと思います)。虞美人草改版
2009.11.20
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何だ。炭鉱の穴掘りのような泥臭い小説と『海辺のカフカ』とどういう共通点があるのかと思ったら、どちらも家出少年(青年)の物語だった。ということは甲村記念図書館の大島さんは、田村君とこの本の話をしていた時点で、すでに彼がなぜここにいるのかわかっていたことになる。田村君も、それを承知の上で大島さんと話をしているのだ。星野さんではないが、「参ったな」という感じである。共通点はもうひとつある。どちらも「異界」に入っていく物語だということだ。発端と結末をのぞけばどちらも過程のお話であり、しかもそれがすべてである。何なら発端を過去と呼び、結末を未来あるいは死と読み替えてもよい。過程はつねに現在であり異界である。生の問題をそのように考えることで、村上春樹は文豪の意向にかかわりなく、『坑夫』をメタフィジカルな象徴として捉えなおそうとしたのではないか。過程がすべてなら、ホシノさんとナカタさんの道中もその過程すべてが人生であろう。元来ナカタさんは秀才だった。それがあるとき、戦争という暴力が間接的にしろトリガーになって魂の片割れを失い「知的障害者」になり、影まで薄くなってしまう。ではその魂の片割れはどこにいったかと言うと、何と主人公の田村君のところへいってしまうのだ。かくてこの小説は三位一体のドッペルゲンガー小説となり、一人称と二人称と三人称が交錯する物語となった。物語は交錯する。ナカタさんは星野さんと旅に出る。行く先は甲村記念図書館である。失われた魂の片割れを探しに来たのかと思ったらそうではない。魂の片割れの生みの親を探しに来たのだ。佐伯さんは老人に今までのいきさつを書いたノートを託す。そしてそれを焼いてくれと言う。まるでカフカのように。ナカタさんはそのとおりにした。かくて佐伯さんの過去=生きる意味は失われ、佐伯さんは安らかにあの世へ旅立つ。ナカタさんも程なくして役目を終えたかのように冷たくなる。後にのこされるのは田村君と星野君だ。ここにきて星野君はナカタさん同様猫と話が出来るようになり、ナカタさんの最後の仕事を引き継ぎ、父親の魂を抹殺することに成功する。「参ったな」。いったいこれは何重の分身小説なのだろう。【新品】[本] 坑夫 / 夏目漱石
2009.10.20
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獅子文六の代表作をひとつだけあげよ、と言われたら人は何をあげるだろうか。『てんやわんや』は著者の疎開体験を上手に換骨奪胎してあるが、代表作とはいいがたい。となると『自由学校』か『大番』かはたまた『海軍』か。いずれもそれぞれ理由のあるところではあろうが、不具は『娘と私』を推したい。いわゆる「私小説」だからではない。『道草』なぞは漱石の最低傑作だと思っているくらいである。そうではなく、親子関係にしても夫婦のことにしてもはたまた「戦争協力」の一件についても著者の態度があまりにも率直かつ正直で、思わず好感をもたずにいられないからである。獅子文六の娘は今でいうハーフであった。しかもそのフランス人の母は幼少の時に他界してしまう。父と娘と継母の絶妙な三角関係を父性愛という糸で鮮やかに紡ぎだしてみせる著者の手腕は素晴らしく、愛読者ならずともひきこまれてしまう魅力がある。大学の時ある外国人の先生が、星新一の本の中で一族の興亡について書いたノンフィクションだけが読むに値するものだといわれたのを覚えているが、それは極論だとしても、同じような意味で不具はこの本を著者の最高傑作としたい。作家というものはなかなか時代精神の空気から超絶してはいられないもので獅子文六とて例外ではないが、『娘と私』には時代や国境を超えて人々の琴線に訴えかける、世界文学としての力が確かにあると信じられるからである。
2009.05.06
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芥川龍之介が国際的な作家であることは知っていたが、ペンギン・クラシックス(日本で言えば岩波文庫)に入るほどとは知らなかった。編者によればそれはジェーン・オースティンやトルストイ、ディッケンズやチェーホフ、シェイクスピアといったお歴々の仲間入りをすることだそうだ。ということで本書は将来彼らの仲間入りをするかもしれない村上春樹さんが序文を書かれた、ペンギン・クラシックス版の全訳である。第一部 さびれゆく世界「羅生門」「藪の中」「鼻」「竜」「蜘蛛の糸」「地獄変」「竜」が選ばれているのが意外だったが、文化が異なると文学作品の評価も異なるということがわかった。なるほど、キリスト教徒にとって<奇跡>は他人事ではないだろう。第二部 刀の下で「尾形了斎覚え書」「おぎん」「忠義」前二作は切支丹もので、それぞれの語りが興味深い。「忠義」は江戸の時代劇で、いかにも外国人が好みそうな話である。第三部 近代喜悲劇「首が落ちた話」「葱」「馬の脚」昔芥川龍之介の全小説を読んだが、いずれもマイナーな小説である。「馬の脚」に至っては読んだ記憶もなかったが、抱腹絶倒ものであった。安部公房以前にも日本のカフカがいたということである。第四部 芥川自身の物語「大導寺信輔の半生」「文章」「子供の病気」「点鬼簿」「或阿呆の一生」「歯車」保吉ものはあまり好きではないが、選ぶとしたらやはり「文章」だろう。どうせなら「蜜柑」や「沼」でもよかったろうという感想もあるけれど。芥川龍之介短篇集
2009.03.02
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芥川はさまざまな文体を駆使してさまざまな小説を書いた。中でも作品の完成度といい迫力といい、唯一の代表作を挙げるとすればやはりこれだろう。本物は何度読んでも素晴らしい。とくに今回読み返してみて、不具は良秀とユダを重ね合わせてしまった。その死に様も含めて。…
2009.02.22
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愛し合って夫婦になりながら、当時不治の病だった結核のために離縁させられた浪子と武男の哀切きわまりない想いがよく伝わってくる明治小説の佳作。姑の方言が同じ九州人として少し忌々しい気もするが、わが子を思う母親の気持ちは否定できない。ともにヒロインがキリスト教に惹かれて臨終を迎えたり、日清戦争を背景にしたりしていても『姿三四郎 下巻』とは違ってこちらは純粋に詩であり、士であり、死である物語だと思う。昭和13年岩波文庫初版。影響を受けたのはむしろ富田常雄の方であったろう。
2009.01.27
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『路傍の石』『真実一路』で有名な作者の戦後唯一の中編小説。もとは大工だったあんまの為さんの身の上話が作品の大部をなす。その語りが見事なので処分を差し控えることにした。
2009.01.03
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『日本文学を読む』という本の中で、ドナルド・キーン先生が尾崎紅葉の『多情多恨』を傑作だと誉めておられたので、いつか読んでみたいと思っていましたが、つい先日図書館で発見して、読了することができました。尾崎紅葉といえば『金色夜叉』をまず思い浮かべますが、それとは比べ物にならないくらいの傑作です。どれくらい傑作かというと、夏目漱石の『こころ』と比肩しうるくらいの傑作です。『こころ』の先生は妻に秘密を隠したまま自殺してしまいますが、『多情多恨』の主人公で大学の先生である鷲見(すみ)柳之助は、最愛の妻に死なれていつまでも泣いてばかりいます。彼にとってこの世の友達は妻ともう一人、男友達の葉山きりいないのでした。解説で丸谷才一氏が言っているように、この男泣きに泣く小説は『源氏物語』に着想を得たことは間違いないでしょう。と同時に、構成の確かさとそこはかとなく漂ってくるユーモアは英文学から学んだものに違いありません。人物はやや類型的ですが筋書きがしっかりしているのと心理表現や「笑い」のツボが的確なために、いかにもリアリスティックで、面白い小説に仕上がっています。さらに不具の見解を付け加えるなら、これは日本で初めてアスペルガー症候群の成人を主人公にしたお話であり、日本を代表するフェミニズム小説であると言えるのではないでしょうか。「世間の人はね、よく話をするとき自分の細君のことを「かかあ」などと言うよ、…何でそんなに軽蔑するのだろう。…「畜生」と言うのも同じじゃないか、…妻というものを下女か何かのように考えているのだ。それだからその細君が類さんのように亡くなりでもすると、下女が出て行ったようにすぐに代わりをもらう。そうしてそれを当然のように考えとる、世間一般に。そんな方があるものか! 俺はそうじゃない、俺は細君は朋友だと思っとるのだ、親切な朋友だと」
2008.11.10
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太宰治は昔の新潮文庫版で読むに限る、と思うのは中年男性の感傷で、今の若い読者はあの表紙を見て購入するのだろう。それはそれでいい。ジャケットはどうあれ、名作に違いないのだから。久々に読み返してみると、やっぱり太宰はうまい。ただ昔読んだときの疼くような共感はもう感じない。年をとってしまったのだろうか。代わりに生じるのは憐憫と同情の念である。けれども罪と罰、無垢と原罪の問題、神へのプロテストにも似た主人公の問いかけは、相変わらず胸を打つ。文学とは不幸から生じるものだ、と昔大学の講義で言われた荒川洋治先生の言葉を思い出した。『人間失格』が太宰の弱弱しい「仮面の告白」だとすれば、『如是我聞』はもうひとつのプロテストとしての告白である。ヒステリックで八方破れではあるが、『人間失格』の裏返しとしてのエネルギー、末期の灯火のきらめきを感じた。『グッド・バイ』についてはなんともいえない。ただ完成していたら軽妙なユーモア小説になっていただろうと思う。【古本】人間失格/太宰治
2008.10.06
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事前に『桜の園』を読んでおくとより哀愁がわく本。ただ大田治子をモデルにしたと思われるかず子のラストの力強さが、この小説を救っているといえるかもしれない。初めて読んだときはただ読んだというだけで何の感興もなかったが、この年になって読んでみると身にしみる。中年になったせいだろうか。それにしても太宰治はうまい。テーマが普遍的である。日本人的でありながら国際的でもある。こんな作家はあと、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、遠藤周作、村上春樹、それに『夕鶴』の木下順二くらいしかとっさには思いつかない。ただ併録されている『おさん』はいただけない。あれでは、まるで、『おさん』が『斜陽』の後日談みたいではないか。ああいう編集の仕方は、よくない。太宰治『『斜陽』』
2008.09.13
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漱石の自伝小説。この間はじめて読み通した。評価についてはドナルド・キーン先生の意見に賛成だ。世界文学的な『こころ』の後で書かれた作品だけに余計見劣りがする。夫婦の葛藤がそのまま明治の知識人と庶民との価値観の懸崖の象徴になっているだの、お金という俗世間の代表をめぐる両陣営の対応の差異と共通点だの、興味を引かれる点はある。ただそれは文学的な関心というより生活的で、漱石の私生活をのぞき見る出歯亀の心理に支えられたものだ。率直に言って、漱石特有の文体と語彙、さらにこの小説の終わったところから『猫』が始まるという逆説への期待感がなければ、このせせこましい作品を最後まで読み通せたかどうか、心許ない気がした。誤解のないように断っておくと、これは頗る個人的な感想である。
2007.11.04
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ラフカディオ・ハーン(ヘルン)と小泉セツがどのように出会い、結婚し、長男一雄に恵まれ、日本に帰化することを決意したかが子供にもわかるように描かれた一冊。卵が大好きなハーンの行状がほほえましく、もと足軽の英語教師西田先生の姿が忘れがたく印象に残りました。忘れがちだけれど、ハーン先生、今で言う視覚障害者だったのですよね。盲学校等以外の場所でことさらに強調する必要はないですけれど。
2007.09.17
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図書館の児童コーナーでたまたま見つけ、懐かしくなって手にとってみました。外国語にも翻訳されて海外でも好評だった漱石の代表作です。あらすじはいわずもがなですが、久しぶりに読み返してみて、これは「対」の小説だな、と思いました。先生と「私」…どちらも自分を語るときは「私」である。先生とK…同じ人を好きになった。先生と「私」の父親…明治天皇の崩御にショック。明治天皇と乃木大将。先生の父と先生の叔父。「私」と兄。未亡人とお嬢さん。「私」の両親と先生夫婦。子供の生まれない先生夫婦と、妊娠した「私」の妹夫婦。光と影、と言ってもいいかもしれませんし、ドッペルゲンガーというか、分身小説と言おうか、そういう要素もあります。漱石の作品のうちではもっとも倫理的であり、あるいはKというのは(夏目)金之助のイニシャルではないかとすら思ってしまいました。
2006.08.08
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全70篇、ぱらぱらと目を通す。創作詩はユーモアとペーソスにあふれた井伏節が面白い。それだけでも大したことだけれど、そうして解説者も彼の詩は決して小説家の余技ではないと言うけれど、どうみてもやっぱり小説家の余技だと思う。それが証拠に作者自身、「散文が書きたくなくなるとき、厄除けのつもりで」書いたと言っていう。まあ誰にだって立場というものがあるしね。井伏節がもっともその本領を発揮しているのは五言絶句の訳詩群だろう。漢詩のままだと高尚な香りがするが、都都逸調にした途端に卑近で親しみやすい詩になるから不思議である。有名な「勧酒」(于武陵作)の原文と井伏訳を以下に挙げる。勧君金屈巵満酌不須辞花発多風雨人生足別離コノサカヅキヲ受ケテクレドウゾナミナミツガシテオクレハナニアラシノタトエモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ「」がいいんですよねえ…
2006.07.30
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白樺派の中では、有島さんは繰り返し読みたい作家のひとりだ。自然主義派がどんなに彼を攻撃しようとも、自分は武郎の荒削りだけれども詩的な、魂のこもった文体を賛美する。武者小路さんのシンパには申し訳ないが、実篤の小説はどれも一度読めばたくさんだ。そういう意味では、赤川次郎に似ていると思う。これは、趣味の問題である。「小さき者へ」は、妻を失った作者が、残された愛児に向かってその胸のうちを切々と語りかける、涙なくしては読めない佳品である。読みながら気がついてみれば『夕鶴』を連想せずにはいられなかった。このような古いタイプの日本女性はもうこの国にはいないだろう。けれどもこの短い小品が、時代を越え国境を越えて人々の琴線に触れる哀しさとうつくしさに満ちていることは、誰しも認めるに違いない。「生まれいずる悩み」これもモデル小説である。小説中つねに二人称で語られる、北海道で漁師にならざるを得なかった青年。その彼の、生活上の必要と絵に対する情熱との相克が、作者を思わせる第三者「私」の眼を通してよく描かれている。文学嗜好のKとの交友も心に残る。哀しいかな、たとえ死後の話であっても、だれもが田舎に居て宮沢賢治になれるわけではないのだ。
2006.01.20
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10代のころ読んでえらく感動した本。あのときは確か角川文庫だったか新潮文庫だったか。岩波文庫の解説を読むと谷川徹三さんである。もうお亡くなりになられたけれど、詩人・谷川俊太郎の父にあたる方だ。「今もなお、まじめに生きようとする人々の心を、その青春の一時期にとらえて離さない」というのはそのとおりだと思う。ただ、「厳密に史実によったものではないから、多くの時代錯誤がある」といわれても、太宰治の『斜陽』について志賀直哉が「貴族らしからぬ」と批評したのと同じように、ああソウデスカ、くらいの感想しかもてない。「(宗教的)レトリックが、芸術的感覚の欠如を示すようなものを随所にふりまいている」というのも確かにわかる。戯曲ではあるけれども、その会話文は世間的リアリズムに乏しく、師と弟子の宗教談義を聞くがごとしかもしれない。けれども、自分はそこに、武者小路実篤的な雑談が、宗教と人生を語る切羽詰ったギリギリの問答にまで昇華された、白樺派の文体の理想形を見出すのである。氏の文章は、一語一語が緊張感にあふれている。どの言葉ひとつ、おろそかに読み流すことはできない。初めて読んでから20年近くになる今でも、そう思う。「もし鬼が来てお前の子をお前の目の前でなぶり殺しにされたとしても、その鬼をゆるさねばならぬのじゃ。その鬼を呪えばお前の罪になる。罪の値は死じゃ。いかなる小さな罪を犯しても魂は地獄に墜ちなばならぬ。人に悪を働きかけることの悪いのは、その相手をも多くの場合ともに裁きにあずからせるからじゃ」と語る親鸞の言葉は、おそらく人が人に言うことばではない。子供を変質者に殺された親に言って聞かせることばではない。それでも神や仏、あるいはその代理人は人に向かって語りかけねばならない。宗教とはそういうものなのだ。それだからロマン・ローランも英訳された本書を読んでかつてこのように言ったのだろう、「現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでこれ以上に純粋なものを私は知らない」と。もちろんこの感激の言葉の裏には、キリスト教の「神」を暗示させるような序曲から、キリスト教的教義を通した、浄土真宗の他力信仰への理解(乃至は誤解)という側面もあるだろう、それは否定しない。けれどもこの本は本当に「青春の一時期」だけに感興をそそるものだろうか? 偽悪と偽善、対立と和解、迷いと人生、恋愛と愛情、老年と死を克明に描いたこの一冊が?少なくとも自分にとってはそうではない。もし墓場まで持っていく本をたった一つだけ選べ、といわれたら自分は躊躇せずこの一冊を挙げるだろう。
2005.12.16
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岩波文庫緑帯1-1。ということは、出版会の権威も認める、明治文学のはしり。ということでございますな。とは申しましてもその中身。近代文学というより。江戸文学の末裔とでも言うべき内容で。例えて言えば式亭三馬の『浮世床』みたいなものですかいな。あぐらぐらぐら安愚楽鍋、安んじて愚者が楽しむ牛鍋屋。ただし三馬の『浮世床』とは違いまして。登場人物複数あれど。会話はほとんどありません。藪の漢医に田舎武士。大工に車力に遊び人。役者に落語家花魁芸者。老若男女がそれぞれ別個に牛鍋つつきに参ります。そのなりや風体の描写から始まりまして。仕事の愚痴やら大言壮語。気持ちが大きくなって大風呂敷のこんこんちき。牛を食わねえやつはひらけねえ奴だとか。西洋ではどうしてこうしてだとか。白人旦那とのお惚気だとか。そして最後は「おっととととともう一杯」「さあさこれで打ち止めだ」。いやあそのひとりおひとりの性格描写の巧みなことゝ。明治初期の風俗を知る格好の資料としては、第一級の風俗小説であります。ただしそれだけ。滑稽本としては十返舎一九の『東海道中膝栗毛』から一歩も開けておりません。てえことはお笑いの程度もその程度と言うことで。当世牛馬問答は面白かれど。魯文どこまで意図した風刺か。ただお笑いを誘ったものか。結果として130年後の今日読んでも立派な風刺にはなっているけれど。男性としてやや興ざめしたものは。明治初期の水商売の女性たちが。ぐつぐつ煮込んだすき焼きでなく。牛の生肉うまそうに。刺身醤油でばくばくつつく。その有様やすさまじや。
2005.11.12
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『友情』『愛と死』『若き日の思い出』と並べて、武者小路文学の青春三部作だそうです。ただし前二作が主人公の失恋乃至恋人の死という結末で終わるのに対し、本作はいわゆるハッピー・エンドであります。主な登場人物を挙げてみましょう。野島厚行(主人公)、野島光行(兄)、野島母(父は死別)宮津正子(主人公の恋人)、宮津正治(主人公の学友、正子の兄)、宮津父、宮津母田坂、前島(主人公及び宮津正治の学友、恋のライバル)川越(画家)、沢村(正子の家庭教師)あらすじは、正子に思いを寄せる主人公が、経済的な家の釣り合いを気にする母の思惑や恋のライバルをふりきって、めでたくお目当ての女性と結ばれる、という他愛もないものです。頁をめくると、短い前書きの後、いきなり主人公の回想に入ります。ですます調で語られてゆくのですが、不意に、だである調になったりする、と思うといつの間にかまた、ですます調に戻っています。地の文では「私」、会話文では「僕」と分けられていた一人称が、地の文でも「僕」になったりします。はなはだ不統一です。もっとも全編これ作者のおしゃべりのような小説ですから、武者小路先生一向に頓着しておられないのでありましょう。一体に善人ばかり出てくる小説は退屈です。以前言ったことの繰り返しになりますけれども、深みのある心理描写もなければ、背景の自然描写も書かれません。ただこの小説は題名からも類推せられるように作者の自伝的要素が含まれており、その点が興味をそそるといえばそそります。ただしそれは小説的完成度とは無縁な興趣です。連載時の題は『母の面影』だったそうです。言われてみればなるほど、主人公はまるでマザコンではないかと思えるほど母思いです。また、終わりに近い数章では、「正子の父の母の面影」が娘に宿っているというお話が、父親から娘への手紙という形で駆け足に語られています。戦争末期という都合上はしょられたのだそうですが、その手紙に語られる内容は武者小路文学には珍しく嫁姑・小姑の人間関係の複雑さが垣間見えて興味深いものです。この辺をもう少し膨らませて女一人で二人の息子を育て上げた主人公の母親の苦労とうまく絡み合わせて描写されていたら、武者小路文学の新境地が拓けたかもしれない、などと妄想してみます。…ありえないんですどね。だって単行本にする際に加筆訂正しようと思えばいくらでもできたはずなのに、しなかったんですから。処分本No104。------------------関係ありませんがアクセス解析すると妙な所から覗かれていて…中には、一体何故? と首をかしげるようなところからのものもあります…慶応大学四天王寺学園(仏教関係)東京家政大学東京電機大学早稲田大学
2005.07.13
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正直言って、プロレタリア文学(略してプロ文学)は、あまり好きではありません。党派性、思想性が鼻につくことが多いからです。ただ幾つかの例外はあります。自分にとっては、小林多喜二もその一人です。「蟹工船」は蟹を獲って缶詰に加工する工場船。現代でいえばマグロ漁船に当たるでしょうか。監督にどやされながら搾り取られるだけ搾り取られる末端の労働者の悲哀がよく出ています。読みながら、黒澤明の『どん底』を思い出していました。「一九二八・三・一五」は、日本共産党を先頭とする小樽での革命運動に対する弾圧と拷問の凄まじさを暴露した小説です。「蟹工船」の労働者達が集団として描かれているのに対し、こちらはそれぞれの運動家の抵抗の様子が、一人一人個別に、克明に描かれています。いわゆる特高のおそろしさが、マジマジと伝わってくる作品です。どちらにも一長一短があり、完成された小説とは言いがたいのですが、それにもかかわらず読者の胸を打つのは、作者が「真実」を語っているからでしょう。そうして「真実」を描いたがためにどちらの作品もすぐ発禁になり、戦後になるまでその状態が続きました。繰り返しますが、自分はいわゆるプロ文学があまり好きではありません。日本共産党はなるほど労働者の味方だったかもしれませんが、だからといって日本が社会主義国になればよかった、とは思いませんから。治安維持法の内容は悪法の側面もありましたが、当時の世界情勢からすれば、法律それ自体は日本を「赤化」から守る盾の役割を果してもいましたし。だから、自分が多喜二を評価するのは、彼の作品がいわゆるプロ文学の枠を超えて、広くレジスタンス小説(「抵抗文学」などという日本語はアカにまみれているので使いたくありません)として鑑賞することが可能だからです。小林多喜二の小説は、故・青木雄二の漫画世界に似ています。ふたりとも明確な思想性を持ち、あきらかに左よりの作品を書いています。しかしどちらも人生の、この世の暗い真実を描くことによって、読者の共感を得るのです。
2005.07.07
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明治の「田舎教師」文学といえば、真っ先に思い浮かぶのは夏目漱石の『坊ちゃん』であろう。ただあれはあまりに何度も映像化されて、すっかり様式美の世界になってしまった。それにあれは中学である。小学校教員として田舎に赴任した主人公の林清三には、モデルがある。文学に対する志を抱きながらも途中で挫折し、遊郭につぎ込んで借財し(このあたりはフィクションらしい)、肺病で死んだ二十歳そこそこの若者。今からちょうど100年位前、結核で臨終間際の清三を日露戦争で死にゆく一兵卒と重ね合わせるあたりの描写は、見事な二重奏となって読者の胸を打つ。それでいてこの小説はちっても反戦的ではないのだ。多くの人が日本がロシアとの戦争に勝つことを願っていた、あの時代の空気というものが如実に伝わってくる。この空気は決して偽りではない。なぜなら花袋は、日本を代表する自然主義の作家だからだ。花袋と言えば『蒲団』をまず思い浮かべてしまうが、あれは自然主義というより私小説である。むしろ本作の方が、フランス自然主義文学的な意味での「自然主義小説」に近い。ただ、はっきり言ってフランスの自然主義文学は自分にとっては退屈である。ことにエミール・ゾラなどは長いだけで冗長でくどいように思われる。原語で読めばまた違うのかもしれないが、あいにくそんな語学力はない。『田舎教師』を自分が読めるのも、その「自然主義的な」描写にもかかわらず、語彙が豊富で描写が美しいからである。いわば、日本語表現による細部の典麗さの積み重ねで最後まで読了してしまうような性格の本だと思う。明治時代を知る風俗小説としても貴重である。最後に本音を言うならば、この作品を愛読するのは自分が「田舎教師」になりそこねたせい、かもしれない…。
2005.06.13
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老画家の「僕」のもとに集う男弟子二人と女弟子ひとりの三角関係をめぐる物語。内容的には、実篤の初期の「傑作」である『友情』を裏返しにしたような作品です。野島=竹宮、大宮=山根、杉子=貞子だとすれば、途中までは『友情』と同じように展開しつつも、後半から話が変わってきます。長らく書庫に眠っていたもので、タイトルを見たときは武者小路さんらしからぬ「悪女」を描いた作品かな、と思って読んでみたら拍子抜けしました。武者小路さんはおしゃべりですね。小説がほとんど人物の会話と書簡だけで成り立っていて、自然の描写や人物の描写などがはなはだ乏しいのが特徴です。この小説も例外ではなく、そうした武者小路節を楽しめる人にとっては面白いかもしれませんが、自分にとってはいささか退屈でした。第一語彙が貧弱です。第二に人物に陰影がありません。第三に背景の描写が空白です。いや、悪く言い始めるとキリがありません。多分二度と読み返すことはないと思いますので、処分本No.101に登録することにします。それでも。「氏は小説家としても詩人としても二流であるが、二流には二流の味わいがある、世の中には二流にもなれないでいる作家が山ほどいるのだ」と言い添えて、今日の日記を終わることにいたしましょう。
2005.06.12
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ナベツネさんが「会長」として巨人に復帰か。うざいな。というわけで詩集に現実逃避。逃避するにはもってこいの詩人なんですね、これが。幻想的でエロティックで。拓次は生涯に約2400篇の詩を書いていて、この詩集にはそのうちの約240篇が収められています。ただし、自分が好きで以前ちょっとご紹介した「夜の脣」はこの詩集には収録されていません。この詩集の眼目はむしろ散文詩とフランス詩人の翻訳詩にあるでしょう。散文詩の方は紹介するには長すぎますし、翻訳詩の方はどれにしようか迷います。ただ、『悪の華』の愛読者だったらしく、ボードレールの詩の翻訳が多いようです。拓次の詩は、フランス象徴主義の影響を色濃く受けています。しかしだからといってバタ臭いかと言うとそんなことはなく、日本人の日本語による見事な詩作品になっています。これは多分、彼の日本古典文学に関する深い教養と無関係ではないでしょう。
2005.06.08
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実話に基づくモデル小説。子どもの頃『ロビンソン・クルーソー』を読んで以来、漂流物語は好んで読んできたが、これはゴールディングの『蠅の王』に次いで後味の悪い小説だった。しかも併録されている『海神丸』後日物語によれば、小説中ではただ殺しただけになっている少年の死体が、実際は食べられてしまった節があるという。極限状態だったとはいえ、容易ならざる話である。井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』の方がなんぼかいい、と思ってしまった。-----------後記。文中「人間の肉はザクロの実の味がするらしい」という記述がある。おなじことを森園みるくさんも漫画のネームに書いていた。出典はここだろうか?【中古】 海神丸 付・「海神丸」後日物語 / 野上 彌生子 [文庫]【あす楽対応】
2005.06.04
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なさけないお父さんの出てくるお話のあとは、なさけない恋をする中年男のお話を読みたくなりました。日本文学史上有名ですから、タイトルは知っていましたが、読むのは実は初めてです。恋に破れて女の寝ていた蒲団に抱きついてその残り香をかいで泣くなんて…なさけない。そう思っていたからです。読んでみると、これが以外に読めました。明治40年の作品で時代は違うのですが、中年版『友情』という感じでしょうか。妻子ある中年作家がひそかに女弟子に恋をする。女弟子が若い男と恋をする。作家は妻を巻き込み、姉を巻き込み、女弟子の父親を巻き込み、表向き「保護者」としての体面を保ちながら、二人の仲を裂くことに成功するが…なにぶんあらすじに毛の生えたような「中編」(100ページの小説のどこが「中篇」じゃ)なので、人物がよく書き込まれていませんが、最初から最後までぐいぐい引っ張っていく筆力はあります。『蒲団』の誕生は、中古(平安)から続く日記文学の伝統と日本流近代「自然主義」文学が結びついた瞬間でもありました。いわば『蒲団』は私小説のアダムです。そういう意味では確かに注目すべき作品ですが、花袋の代表作はやはり『田舎教師』でしょう。なお、併録された『一兵卒』は、日露戦争で死んでいく一歩兵の運命を描いた短編です。別に反戦小説ではないのですが、こういうのを抱き合わせにするあたり、やっぱり岩波さんですね。三島由紀夫でも文庫化したらいいのに(ニヤリ)。ちなみに、あの兵隊さんは、日露戦争で死んだと言うより、脚気で死んだのでした。その責任の一端は、時代のせいと言えばそれまでですが、森鴎外先生にもあります。
2005.05.26
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昔岩波か新潮の文庫本で読んだものを、集英社文庫から出ていたので図書館から借りて読んだ。集英社で文庫になっているということはそれなりのロングセラーなのであろう。『それから』も暗示的だったが、『三四郎』も暗示的だ。ただこちらのほうがより絵画的である。『坊ちゃん』の「マドンナ」の末裔たる女性を巡る、光と影の物語には、濃い色彩の油絵が良く似合う。梗概があらかじめ分かっていても、細部を楽しめるあたりはさすが明治の文豪である。余談1。それにしても漱石の本に出てくる自己主張をする当世風の女性は、「よくってよ。知らないわ」が好きだなあ…余談2。いまどき23歳で三四郎ほど初心な「学生」(彼は「東大生」である)もいないだろうが、中学生にはいるだろう。内気で早熟な文学少年向きの一冊、ではあると思う。あ、なるほど、だから集英社文庫に入っているのか。
2005.04.19
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