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新宿の歌舞伎町で深夜少女たちが「神」のような優しい男が出現するのを待っていると言います。それも一人や二人ではなくそれも数が次第に増えているそうです。伝聞形式を使ったのはテレビの番組で見ただけだからです。それも、東京の盛り場で流行しているだけでなく日本の大都市の繁華街で流行の兆しをみせている、とも。私は、しばらくの間、暗澹たる気分を拭い去ることができませんでした。こうした少女たちの大半が親、それも母親による長期にわたる虐待に原因があるらしい。信じ難い現象ですが、この報道が事実だとすれば、親たちは、大人たちは一体どうなってしまったのでしょうか?家庭での躾けに始まり学校教育、その他の社会教育の無力さ、弱体化はつとに叫ばれていましたが<売春婦>になったほうが無視されるだけでなく「虐待」を受け続ける境遇よりもどんなに良いかわからない、と先の番組で取材を受けた少女の一人が涙ながらに語りました。これが21世紀の文化国家・日本の生み出した本当の姿なのでしょうか?どうか、何かの間違いであって欲しい……。草加の爺はとうの昔に時代遅れの老いぼれに成り下がってしまったのか ― と自問自答しましたが諸般の世相を勘案してみますとこのような「忌まわしい珍流行」は驚くにも値しないこと、なのでしょう、きっと。しかし、老いぼれ、認知症、くたばり損ないその他、どんな罵詈雑言を浴びようと断じて、後に引きたくありません。こういう少女たちを生み出した社会、中でも大人たちの責任は重大です。特殊な親に特殊な子供が育った。そういうことでは決してないように感じられます。核兵器より、数倍恐ろしい事態ではありませんか?俺は、あたしは無関係です、とすまし顔で居られるとすると病膏肓に入るとはまさに、この事だと断じざるを得ないのです。あなたは、如何お考えでしょうか?
2010年08月27日
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一般的に、未来に希望が持てない人ほどその子供たちに、自分が果たせなかった夢や希望を託そうとする傾向があるようです。しかし、これは全く可笑しな話なのです。自分が果たせないものがどうしてその子供たちに可能となるのでしょうか?こうした敗北主義的志向が子供たちに良い影響を与えるでしょうか。考えるまでもなく、否です。親たちが生き生きと生活し明日に明るい希望を抱いているその姿こそ子供たちに希望と言うプレゼントを齎す原動力となるのでは、ないのですか……。逆の教育、それは教育の名に値しない悪しき影響を知らず知らず若い世代に与え続けるに違いありません。どんな状況にあっても先ず、あなた自身が天を振り仰いで明るい希望と夢を明日に思い描くのでない限り子供たちの顔から暗い影は、拭い去ることは出来ないのだと、認識すべきなのです。まるで、八方塞がりのような絶望的な状況にあるからこそいや、それにもかかわらず明日に、未来に希望を託すべきなのです。そして、果敢に行動を起こすべきなのです。人間は、私たちはそのようにして生きてきたしこれからも、絶望せず面をあげて、力強く、逞しく生活するよう心がける義務があるのです。思い悩む前に、先ず一歩を勇気をもって踏み出だそうではありませんか。必ずや神のご加護が加えられずにはいない筈ですから……。
2010年08月20日
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斎藤一人さんという非常に有名な方がいらっしゃいます。実は、わたしは昨日次男から教えられるまで一人さんについて何一つ知らなかったのですが……。或る事情で俄かに関心を抱く事になりました。そして次男が持っていた6・7冊の著書を失礼ながら走り読みすることになったのです。ご縁と申せばよいのでしょうかつい近年わたしが漸く行動し始めた「感謝の実践」を遥かな昔から自家薬籠中のものとされ日本でNO1の納税者になられていらっしゃったのでした。弁解めきますが、「走り読み」できたのも、殆ど同じ事を繰り返し述べておられるしわたしが現在考えて行動している事柄とぴったりと重なるからでした。一人さんには沢山のお弟子さんがいて現在も続々とその門下にひとびとが参集されておられるとか。まことにご同慶に耐えません。わたしも自分流で、わが道を進もうと思っていますが、応仁の乱以来という未曾有の大変動期に生きる事を余儀なくされている私たち日本人には一人さんのようなお方が何人いらっしゃっても足りないのでしょう。私にもそれなりの役割があるのだと確信したと同時に本当に無自覚に乱世を迎えている「不幸」な人々のなんと多いことでしょう。あなただけが例外であることを心から願わざるを得ません。
2010年08月16日
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辞書によると「勤労」とは、自分の務めとして働くこと。狭義には肉体労働をさす、とあります。「自分の務め」とは、人として(社会的・道徳的に、良心に従って)当然しなければならないこと、を意味します。この勤労の観念が今日では「不当に」軽視されている、と感じるのは草加の爺だけなのでしょうか?働くことは「お金のために」仕方なくしぶしぶ働くのであって、「人としての当然の勤め」では断じてない。今では誰もがそう考えている。いやそれ以外には「労働」のあり方を想像することさえ出来ない。肉体労働を軽んじ、頭脳労働―― つまりは、可能な限り肉体の「卑しさ」から遠ざかり、「高級な大脳皮質」を駆使する「役割」の方に近づきたい。多くの人がそう信じて疑わない。そんな風に感じられてなりません。その延長線上に、家事の軽視・蔑視があるのではないでしょうか?今日8月15日はたまたま終戦記念日とされています。戦時中の言葉として勤労奉仕などという言葉がありました。大量殺戮の戦争を忌み嫌うのあまり「勤労」までその唾棄すべき戦争を連想させるという理由で遠ざけられたのでしょうか……。考えてみると、「人としての努め」などという意識も、今日ではすっかり地を払ってしまったようです。なんとも、嘆かわしい事態ではありませんか、如何でしょう?
2010年08月15日
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今回は、労働ということについて少しばかり考えてみたいと思います。労働には普通、肉体労働と頭脳労働と言った具合に二つに分けて考える場合が多いようです。そして肉体労働は頭脳労働より劣ると考えられていますが、その根拠は一体何なのでしょうか?肉体労働の代表格が建築現場などで汗みずくになって働く作業員であるとすれば頭脳労働のそれは、例えば大学教授とか高級官僚でしょうか。つまりは、資格を取るのに大変な苦労や努力を必要とするのでしょうがいったんそのポストについてしまえば見栄えがよく、高収入で、楽ができその上に、人々の尊敬を得られる。肉体労働はその真逆でしょうか。しかし、考えてみるまでも無くこれは少し変です。肉体労働は誰にでも出来るたやすい仕事などではありません。強靭な体力、忍耐力、健康維持管理の努力限られた就労機会、低賃金、想像以上に過酷で危険な仕事内容と長時間の拘束、など等だれも嫌がる労働です。それが何ゆえに蔑視され、軽視され不当に過小評価されなければならないのか?経済の仕組み、社会の成り立ちなどからして低賃金に甘んじなくてはならないことは現状では仕方の無いこととしても何故、不当に無視され、正統な評価を社会から、人々から勝ち取ることができないのか?答えは案外と簡単なのかもしれません。肉体労働は「奴隷の仕事」だったからです。「自由人とは過酷な肉体労働から解放されたエリート」だったからなのでした。しかし、古代ギリシャ人たちは国家を守り、愛する市民のために自らの命を投げ打って顧みない気概と勇気と、実行力・行動力とを同時にあわせ持ってもいたのです。21世紀の今日近代国家を自称する日本国の国民は基本的には自由にして平等なのが建前ですよネ。「肉体」と「頭脳」ともに身体の一部と全体との呼称にしか過ぎないもの。こんな原始的な差別・偏見が温存されている事実に人々の注意と、反省を取り敢えず促したいと思ったのです。迷信や偏見は過去の遺物(いぶつ)と考えるのは全くの間違いです。現代とはこれらの過去の「亡霊」たちが跳梁跋扈(ちょうりょう・ばっこ)している時代なのですから、文明の進歩のきわみなどと、事実誤認してはくれぐれもいけないのですヨ。
2010年08月12日
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お金が全ての世の中です。お金で買えない物は無い ― やはり最後に頼りになるのは、お金しかない!誰かこの正論に真っ向から反対できる御仁はいないのでしょうか?今の世で、いや今に限らずどんな世の中でもお金に勝る優れものは存在しないのです……。草加の爺が時代遅れを勲章のように考えている珍種の人類がこの難題にお答えいたしましょう。「あなたの一番大切なひとを、お金で買う事ができますか?」「そんな相手はいない」「では、あなた自身はお金で買えますか?」「世の中で一番嫌いなのがこの私なの」「では、その世の中で一番嫌いな自分のために巨万の富を投じたとしても、結局は無駄。何の役にも立たないと言う理屈ですよネ」「まあね」「つまり、お金は結局何の役にも立たないわけですね」まあざっと、非常に雑駁なやりとりでしたがこの程度のレベルのお話しなのでした、つまりは「金が一番」という「迷信は」です。まじめに、まじめに、自分の首の上に載っている役立たずの頭を少しは建設的な方面に使ってみて下さいナ。
2010年08月10日
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生老病死と言いまして殆どの人が齢をとること老人になることを苦の中の苦として忌み嫌っています。しかし、考えてみるまでもなく産まれた赤ちゃんはやはり「齢」をとるのですがそれは非常に喜ばしい事として無条件に歓迎します。それは成長であって「齢をとる」事とは根本的に違う ― とでもおっしゃる心算でしょうがしかし、これはおかしい。老人も成長しているのですし、赤ちゃんも「老化」を始めているわけです。歓迎すべきことと受け取る場合と忌み嫌う場合では、同じ生命現象を区別して「感情」を露にした表現を使う。人間とは、ことほど左様に身勝手で、先入観や偏見に左右されやすい存在なのでした。どうせなら、老化ではなく「成熟」あるいは昔の人に倣って「神に近くなる」という積極的で、前向きな修飾語を使用する智恵を取り戻したい物です。如何でしょうか?(因みに、この如何でしょうか、は現総理の口癖なのですが、お気付きですか)
2010年08月05日
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天に唾すると自分の口から出たつばが自分の顔にかかります。世に言う「天罰」の一番身近で、誰にでも見えやすい例なのです。誰かのしたことを身近にいた人がたしなめる言葉。これも今日では死語の部類の代表格なのでしょうか。最近の私・草加の爺は「人間のすることなすこと、その殆ど全部が、この天に唾する範疇にはいるのではないか」こんな風に考え始めています。意地の悪いあの人、意地の悪そうな人相していませんか?顔立ちは悪くないのに思わず顔を背けたくなるようないやな「顔」をしたひとが貴方の周りに何人かいませんか。ほんの一例を挙げただけにしか過ぎませんが天罰覿面(てきめん)とはこういうことを言うのではないでしょうか。一定の年齢に達したならば自分の顔に責任を持たなければならないとは、こうした裏事情があっての表現なのでした。つまりは人の容貌には、誕生から今日只今にいたるまでの、いわば「評価」が明瞭に刻み込まれており見る人がみれば一目瞭然、はっきりと明瞭に見て取れるのですからまことに恐ろしい「天罰」ではありませんか。小手先の「お化粧」などでは隠しようもないのですヨ。
2010年08月03日
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