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子育てとはとても面倒で、手間がかかって、お金がかかって……やりきれない!そんな風に日頃、考え、ため息を吐いてばかりいるあなた。一度、頭を冷やしてみませんか。そうして、そうですね、秋の美しい夜空に目をやってみませんか。いいえ、忙しいあなたが、そんな暇などない、と思われることくらい先刻此方も承知です。ですから、実際に外に出て星空を見上げなくとも、結構です。ただ、じっと目を閉じてイメージの中で、自分が地球という水の惑星に生まれ、平成の日本という激動の時代に生きているのだと思って下さい。その、ちょっとした心の余裕があなたの心の中に眠っていた深く豊かな「愛の泉・愛情の源泉」に気づくきっかけを作ることになるのです。そうです、子育てとは無限の愛情に裏打ちされた、尊い限りなく尊い行為なのでした。そして貴方、貴女がたは天から授かった宝ものを手中にしているのですヨ。自分の勝手な注文を押し付けるのではなく子供たちが無言の内に発している切ないメッセージを謙虚に受け取ろうではありませんか。あとは貴方(貴女)の持っている豊かな、そして純粋無垢な愛情を限りなくいとし子に注ぐだけです。愛は次々とあふれ出して止まる所がありません。余計な、頭でっかちな計らいを振り払う事だけ考えていればよい。邪念が生じた時には、イメージの大空に頼って下さい。全てが善い流れとなって、自然に運んでいく。心配など少しも要らないのです。以上の教訓を私・草加の爺は日々接している子供たちからこの事実を無言の内に教えられたのです。ですから子供たちは、偉大な、天性の教師でもあるのです。学び手のの心がけ次第では。
2010年09月26日
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謙譲の美徳ーなどという表現も、今の日本では完全に死語と化しているようです。師と仰ぎ、大恩人と慕うアメリカ合衆国の流儀に従って専ら自己主張を事とする風潮が瀰漫(びまん)する今日の社会でありますが謙譲の精神に対してもう一度、別の観点から新たな光を当ててみようと思います。謙譲とは、相手に敬意を表わすために自分を意図的に一歩ひいてみせる動作・表現。相手との距離を意識的に保ち、そのことで相手に敬意を表すと同時に、自分の行動の自由を確保しようとする、いわば大人のそして巧妙な心理上の駆け引き、つまりはテクニックなのですネ。表面上は相手を立てると見せて、実はその裏で、強い自己主張を用意しているわけですヨ。この切り替えしの戦略が見えないものにはつまり、幼い子供や愚か者にはうわべだけの表現、卑屈で、弱腰で、軟弱な迎合的態度とのみ映ったのですネ。伝統的な日本文化は奥が深く、極めてソフィスティケートされた大人のそれが数多くあるのでした。自国の歴史・文化を軽視し、無視するものはきっと「たわけ者」と、昔のひとから嘲笑される事でしょう。
2010年09月23日
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人間とは、自らを万物の霊長と誇るほどに素晴らしい「生き物」です。しかし、半面でその長所を帳消しにしかねない程の重大なウィーク・ポイントも持ち合わせていますネ。例えば、いじめ と呼ばれている現象の驚くほどの蔓延ですが「いじめ」が発覚した際に本校には いじめ はありません、いじめの事実は確認できませんでした。その種の紋切り型の発言が校長などから発せられるのが通例です。しかし、考えてみるまでも無く子供の世界だけではなく、広く大人の世界にもこの「いじめ」と同類の私的リンチもどきが無数に横行している事実は誰の目にも明々白々なのです。小さな鶏小屋で、雄鶏が隣の鶏をくちばしで突く・ペックするするとその鶏は次の鶏をペックしといった具合に最後の一番弱い若鶏までその行動が続く。そして最後の鶏はペックする相手が無いので仕方なく首うなだれる。これがペッキング・オーダーと呼ばれる鶏小屋という狭い閉鎖社会で繰り返される儀式。人間も生き物の仲間ですから閉鎖社会の中ではこれに似た権力示威行動の暗い衝動に駆られるのでしょうか。人間には、集団社会では英雄を作り上げその英雄を頂点とした権力のヒエラルキーの流れの中に自らを適当に位置付けて英雄崇拝の形式をとった「権力確認」を行いたいとする強い欲望があるのだといいます。現代、特に民主主義の社会では万人が平等ですから(飽くまでも建前上です)表立って権力を主張する事がゆるされません。人間の権力欲は地下に潜らざるをえなくなっているのですネ。陰湿で、悪質で、時に凄惨、暴力的で、巧妙で、時に鬱憤晴らしと呼ぶには余りにも酷い、残忍極まりない「いじめ行為」が絶え間なく繰り返されるゆえんでありましょう。私たちは、この際正直に認めるべきなのです。私たちの内面にはこの暗い衝動が巣食っている、と。綺麗ごとだけをお題目のように唱えているだけでは、解決の糸口さえ恐らく見つからないでしょう。そして、いつの場合でも最大の犠牲者は社会的に黙殺され続けている「弱者たち」子供や、子供の中でも力弱く弱いゆえに人類全体に大きな貢献を成しうる可能性の高い者たち。悪貨は良貨を駆逐する、とはこのケースでも顕著に見られることです。
2010年09月09日
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今日の、この殺伐とした世相を見ていますと命の、生命そのものの価値がとても希薄になってもうとても本来の命・生命とは呼べない何者かにいつの間にか変質してしまった。そんな絶望感に襲われます。人類に未来は、いや日本に、日本人に希望や将来の展望はすっかり、根こそぎ失われてしまった。そんな途轍もなく空恐ろしいくらいな悲しい、そして同時に大きな虚脱感に包まれてしまいます。何故、一体どうしてこんな救いの無い世の中を私たち大人たちは将来させてしまったのでしょう……。自分は関係ない、俺の責任じゃないよあたしの与かり知らないところで誰かが勝手に世の中を悪くしてしまったのサ。そんな具合に無責任を決め込んでいる貴方この世の中は持ちつ持たれつ、なんですよ。そして、唯心のみが全てを造ったと、仏教の教えが遥かの昔に凡夫たる私たちに教えています。そして、その心とは私たち皆のこころのことで、その中には他ならない貴方自身も含まれているわけなのですネ。まさに、無責任な世の中が寄ってたかって、今日の「いやな」社会を作り上げたという次第なのです。そこで「遊び」の提案です。真の意味、本来の意味合いでの遊びの復活、または新たな提唱です。それがFYC「ふへん・ゆうこう・くらぶ」・草加の爺が今、ごく身近な人々に呼びかけ、驚くほどの効果を齎しているコンセプトなのです。フィクションとしての「絶対」と遊交、つまり遊び戯れることを通して交流し更には、友好を深める。そして、歪み、ねじれ、不完全燃焼しているわたしたちの命を完全燃焼させる。以上のことを銘々が行うことで健全な肉体と健康な魂がよみがえって日々の生活が本来の楽しさを恢復する。きわめて、迂遠な廻り道にみえますが、実は「早道」なのです。私自身が、提唱者の草加の爺が一番にこの有難い恩恵に与っているのですから。
2010年09月03日
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